夏休みの朝、テレビをつけると広島が映っていた
夏休みは、朝が遅い。
学校がないぶん、起きる時間もだらしなくなります。それでも8月6日だけは、なぜか少し早く目が覚めていたような気がします。
居間に降りて、なんとなくテレビをつける。すると画面には、広島が映っていました。

ニュースのなかで流れる、平和記念式典の様子です。式典を最初からじっくり見ていた、というわけではありません。ニュース番組を通して、平和記念公園に集まった人々の姿や、黙とうする様子を見ていた——そういう記憶です。
夏休みのテレビの朝は、基本的に明るいものでした。アニメの再放送があり、夏の高校野球の予告があり、水着の映像があり。そのなかで8月6日の朝だけは、画面の色がすっと沈む。
午前8時15分。広島ではサイレンが鳴り、街全体が黙とうに入ります。
けれど、東京の下町にサイレンは鳴りません。窓の外では蝉が鳴き、京成線が普段どおりに走っていく。テレビの画面の中だけが静まりかえっていて、こちら側は何も変わらない。あの温度差を、子どもながらに妙だと感じていた気がします。
子どもだった私は、それをうまく言葉にできませんでした。ただ「今日はそういう日なんだ」と思って、黙って見ていた。それだけです。
葛飾の小学校には、夏休み中の登校日がありました。平和についての話も、たぶんあったのだと思います。ただ、正直に言うと覚えていません。8月6日という日は、私にとって「学校で教わったこと」よりも先に、「朝のテレビで見たもの」だったのです。
昭和46年8月6日──現職の総理大臣が、はじめて広島に立った
その広島の式典に、日本の現職の総理大臣がはじめて出席したのは、1971年(昭和46年)8月6日のことでした。佐藤栄作首相です。
原爆が投下されたのが1945年(昭和20年)。つまり26年間、その席に総理大臣は座っていなかったことになります。
このとき私は2歳4か月。当然、記憶はありません。ただ、あとから考えると不思議な話です。あれほど大きな出来事の式典に、四半世紀のあいだ現職の総理が足を運んでいなかった。昭和40年代の後半になって、ようやく「国として、あの日の前に立つ」という形が整いはじめたということでもあります。
佐藤栄作という人は、1967年(昭和42年)に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国会で表明した総理でもあります。そして1971年6月には沖縄返還協定に調印し、翌年の本土復帰へと進んでいく。その夏に、はじめて広島の慰霊碑の前に立った。3年後の1974年には、ノーベル平和賞を受けています。
その評価をここで論じるつもりはありません。ただ、私がテレビで見ていたあの朝の風景は、そう古くから続いていたものではなかった。昭和46年からあとの、まだ新しい風景だったのです。
私が生まれてから、ようやく整った形。それを私は、当たり前の夏の景色として見ていました。
「24時間テレビで観た」という、私の記憶
さて、ここからが本題です。
8月6日といえば、私にはもうひとつ、はっきりした記憶があります。
アニメ映画の『はだしのゲン』を、テレビで観たという記憶です。
細かな場面までははっきり思い出せないのですが、画面に映し出される出来事があまりにも重く、子ども心に「怖い」と感じたことは強く残っています。見ているのがつらくなり、思わず画面から目を背けてしまった場面もありました。
それでも、途中でテレビを消すことはできず、結局は最後まで観ました。怖いからこそ、この先に何が起こるのかを確かめなければならないような気持ちがあったのかもしれません。観終わったあとも、すぐに普段の夏休みの気分へ戻ることはできず、しばらく重たい感覚が残っていたように思います。
これだけのものが体に残っているのに、肝心の「いつ、どこで」だけが、あやふやなのです。
そして、その記憶にはご丁寧に注釈までついていました。「たしか、夏の恒例の『24時間テレビ』のなかで放送されていたはずだ」と。長時間のチャリティー番組の、どこかの時間帯。あの独特の、少し疲れたような夏の空気のなかで、私はゲンを観た。そう思い込んでいたのです。
調べてみたら、あの枠は手塚治虫の指定席だった
念のため、調べてみました。そうしたら、話が合わなくなったのです。
『24時間テレビ「愛は地球を救う」』が始まったのは1978年(昭和53年)。日本テレビの開局25周年記念でした。私が小学3年生の夏です。
この番組には、名物のアニメスペシャル枠がありました。第1弾が『100万年地球の旅 バンダーブック』。1978年8月27日の午前、国産初の「テレビ2時間アニメ」として放送されました。以降もほぼ毎年、この枠にはアニメが並びました。
問題は、その中身です。この枠は、ほとんど手塚治虫作品の指定席でした。例外は、竹宮惠子さん原作の『アンドロメダ・ストーリーズ』(1982年)と、最後の年になった1990年の『それいけ!アンパンマン』くらい。
つまり、『はだしのゲン』は一度も流れていないのです。
私の記憶は、成り立ちませんでした。
では、私はどこであれを観たのか
アニメ映画『はだしのゲン』が公開されたのは、1983年(昭和58年)7月。私が中学2年の夏です。
制作はマッドハウス、監督は真崎守さん、音楽は羽田健太郎さん、ナレーションは『ジェットストリーム』でおなじみの城達也さん。主人公ゲンの声は、オーディションで選ばれた広島市出身の小学生でした。原作者の中沢啓治さんが、漫画では描ききれないものを映像にしたいと、私財まで投じてつくった作品です。
そしてこの映画には、大きな特徴がありました。公開にあたって、全国の市民団体や自治体、学校が協力する「1000か所 草の根上映運動」が展開されたのです。映画館ではなく、公民館や学校の体育館。そういう場所で観た人が、たいへん多い作品でした。
地方局が夏に放送した記録も残っています。たとえば富山テレビは、1985年8月6日の夕方4時から、この作品を放送しています。
ついでに言えば、原作の漫画も変わった道を歩いた作品です。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったあと、市民団体の雑誌、政党の理論誌、日教組の機関誌へと掲載の場を転々としています。それでいて、私たちの世代にとって『はだしのゲン』は、学校の図書室に必ず置いてある本でした。誰が買ったわけでもないのに、気がつけばそこにある。
そう考えると、私が観たのは、学校か地域の上映会だったのかもしれません。あるいは、どこかの局の夏の特別枠だったのかもしれません。
正直に書きます。もう、わかりません。
なぜ記憶は、ふたつを結びつけたのか
ただ、なぜ記憶が「24時間テレビ」と結びついたのかは、なんとなく想像がつきます。
当時の子どもにとって、「夏に、テレビの前で真面目な気持ちにさせられる時間」という引き出しは、そう多くなかった。8月6日の朝のニュース。終戦記念日の特集。そして、24時間テレビ。だいたいこの三つくらいです。
同じ引き出しに入っていたものが、40年以上のあいだに、勝手にひとつに溶け合ってしまったのでしょう。あの映像の重さと、夏の長時間番組のあの空気が、記憶のなかでくっついた。「夏」「テレビ」「まじめな気持ち」という三つのタグが一致してしまえば、あとは記憶のほうが勝手に配線をつなぎます。
しかも24時間テレビのアニメ枠は、当時の子どもにとって、きわめて印象の強い時間帯でした。そこへ「夏に観た、重たいアニメ」という記憶を放り込めば、収まりのいい棚はひとつしかありません。
けれど、それだけではない気もしています。
実を言えば、私のなかでこのふたつは、もともと地続きでした。8月6日の朝にテレビニュースで広島の式典を見た記憶と、『はだしのゲン』を観たときの怖さは、自分の中でどこか結びついています。当時は戦争や原爆について十分に理解できていたわけではありません。それでも、これは昔の遠い出来事として簡単に片づけてはいけないものなのだという感覚だけは、子どもなりに受け取っていたのだと思います。
だとすれば、記憶が番組名を取り違えたことは、たいした失敗ではないのかもしれません。事実関係の配線は、たしかに間違えた。けれど、結びつけるべきものは、ちゃんと結びついていた。
そして8月6日は、「記憶を残すこと」そのものが問われる日でもあります。当事者の記憶が薄れていくなかで、私のような下町の子どもにも届くように、どうやって残すのか。
そのために作られたのが、あのアニメでした。だから中沢啓治さんは、映画館の上映だけでは足りないと考えて、体育館でも公民館でもいいから観てくれと、全国に映写機を送り出したのです。
私が「どこで観たか」を忘れてしまったことは、ある意味で、その運動が成功した証でもあるのかもしれません。場所を忘れるほど当たり前に、あの映像は子どもたちのところへ届いていた。
令和の8月6日に
いまの私の家には、地上波のテレビがありません。大きなモニターで、動画や配信を観るだけです。
だから8月6日の朝、なんとなくテレビをつけたら広島が映っていた——ということは、もう起こりません。観ようと思って、自分で選ばないかぎり、あの日の映像は目の前に現れないのです。
昭和の子どもだった私は、選んでいませんでした。ただテレビをつけたら、そこに広島があった。黙とうがあった。逃げ場がなかったとも言えるし、だからこそ体に残ったとも言えます。
もう一度、あのアニメを観てみようかと思っています。今度は、いつどこで観たかを、ちゃんと覚えていられるように。
みなさんは、8月6日の朝をどんなふうに過ごしていましたか。そして『はだしのゲン』を、どこで、いくつのときに観ましたか。
あの夏に読んだ、あるいは観たきりになっている方へ。中沢啓治さんの原作漫画は、いまも文庫版で全巻そろいます。私たちの世代にとっては学校の図書室にあった本ですが、大人になってから読み返すと、子どものときには受け取れていなかったものが、いくつも見えてきます。お子さんやお孫さんの本棚に置いておく一組としても。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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