9月29日 ── 真っ白に燃え尽きたジョーと、泥だらけのユニフォーム|昭和の今日は何があった日?

今日は9月29日です。 「ク(9)リー(2)ニング(9)」と読んで、クリーニングの日。昭和57年(1982年)に、全国のクリーニング店の組合でつくる連合会が定めた記念日です。明後日の10月1日は衣替え。夏物をしまって冬物を出す、季節の入り口に置かれた日でもあります。 実はこの日付には、もうひとつ昭和の出来事があります。昭和46年(1971年)9月29日、アニメ『あしたのジョー』が最終回を迎えました。 クリーニングとボクシングアニメ。何の関係もなさそうな二つですが、私の中では「真っ白」という言葉でつながっています。 昭和57年、クリーニングの日が生まれた年 クリーニングの日を定めたのは、全国クリーニング環境衛生同業組合連合会(現在の全国クリーニング生活衛生同業組合連合会)です。消費者にもっとクリーニングを利用してもらうこと、そして店の側も技術を磨いていくこと。その二つを目的に設けられました。 昭和57年といえば、私は13歳。4月に中学に入学し、野球部に入った年です。 公立の中学でしたが、練習はハードで、伝統的に強い学校でした。グラウンドを走り回り、ノックの打球に飛び込み、スライディングをくり返す毎日です。 ユニフォームは、帽子から靴下まで、すべて白でした。公式戦用のユニフォームも、それとは別にありました。その真っ白なユニフォームが、毎日あっという間に泥だらけになります。 洗ってくれたのは母です。細かいやり方までは覚えていませんが、ブラシでこすり、つけ置きをして、洗う槽と脱水する槽が並んだ二槽式の洗濯機で洗ってくれていました。どれだけ泥だらけにして帰っても、ユニフォームはいつもきれいに洗濯されていました。 クリーニング屋に出したことは、ありません。クリーニングの日が生まれた年、私のユニフォームの白は、店ではなく、家の洗濯機のそばで取り戻されていたのです。 衣替えと、町のクリーニング屋 昭和の学校では、10月1日の衣替えを境に、夏服から冬の制服へと一斉に切り替わりました。 クリーニングの店は、戦後ずっと増え続けてきました。昭和40年代以降は町の店にもドライクリーニングの設備が入り、やがて、預かった洗濯物を工場でまとめて仕上げる「取次店」のチェーンが登場します。 私の記憶でも、町のあちこちに個人のクリーニング店がありました。高砂の線路沿いの家は駅のそばだったせいか、あちらのほうが店は多かったように思います。 とはいえ、私がクリーニング屋のお世話になるようになったのは、中学に入って制服を着るようになってからです。父はスーツを着て働く仕事ではなかったので、ワイシャツや背広を店に出すこともなく、クリーニングとは無縁でした。店にお願いするのは、もっぱら学生服です。 中学の制服はブレザーでした(高校は学ランです)。ときどき自分でクリーニング店へ出しに行き、仕上がったものを取りに行きました。戻ってきたブレザーは、薄いビニールのカバーをかぶって、針金のハンガーに掛かっています。いまでも「クリーニング」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、あのビニールのカバーと針金のハンガーです。 泥だらけのユニフォームは家で母が洗い、ブレザーは町の店が仕上げる。中学生の私の服は、そんなふうに分担されていました。 昭和46年9月29日、ジョーの最終回 ここで、話を11年前に戻します。 『あしたのジョー』は、高森朝雄(梶原一騎)さん原作、ちばてつやさん作画のボクシング漫画です。東京の下町、泪橋を渡った先のドヤ街にふらりと現れた少年・矢吹丈が、元ボクサーの丹下段平と出会い、宿命のライバル・力石徹と拳を交えていく物語です。 『週刊少年マガジン』での連載は、社会現象になっていました。作中で力石徹が死んだときには、その死を悼むファンの声に押されて、現実に葬儀が開かれたほどです。 アニメはフジテレビ系で昭和45年4月1日に始まり、毎週水曜の夜7時に放送されました。そして昭和46年9月29日、第79話「燃えろ!遠く輝ける明日よ!」で最終回を迎えます。 最終回は、世界ランカーのカーロス・リベラとの死闘でした。ロープ際の奇策は二度は通じず、ジョーは強烈なアッパーでリングの外まで吹き飛ばされます。リングに戻ったジョーに、カーロスは小細工抜きの勝負を持ちかけ、二人は足を止めて打ち合います。この一戦の終わりとともに、アニメも幕を下ろしました。 ただ、この最終回は、物語の結末ではありませんでした。アニメが原作の連載に追いついてしまったのです。原作で最後の相手となるホセ・メンドーサは、名前が出てきただけでした。 このとき私は2歳5か月。本放送の記憶は、さすがにありません。 私がジョーを知ったのは、夕方の再放送でした。初めて見て興味を持ち、そこから見るようになったのです。 友だちとは、ジョーの戦い方をまねしました。両腕をだらりと下げたノーガードで相手を誘い、打ってきたところにクロスカウンター。もちろん、スローモーションです。尾藤イサオさんが歌うオープニングの主題歌も、声の感じを似せて歌っていました(笑)。 真っ白に燃え尽きた日 物語の本当の結末をアニメで描いたのは、それから9年後に始まった『あしたのジョー2』です。 日本テレビ系で昭和55年10月13日に始まり、毎週月曜の夜7時。原作の最後、ホセ・メンドーサとの世界タイトルマッチまでを描き切り、昭和56年8月31日に最終回を迎えました。最終ラウンドまで戦い抜き、判定で敗れたジョーが、コーナーの椅子に座ったまま、満足げな笑みを浮かべて真っ白に燃え尽きる。あのラストシーンです。 最終回が放送された昭和56年8月31日は、小学6年生の夏休みの、最後の日でした。 もっとも、ジョー2をリアルタイムで見ていたのは、ときどきだったと思います。全話を通して見たのは、おそらく後の再放送でした。 真っ白に燃え尽きたジョーを見て、私は「死」を思いました。 アニメの最終回も、ジョーの死を思わせる演出で終わっています。ただ、最後のエンディングの絵は、ジョーが旅立っていくような一枚に差し替えられていて、見る人によって受け取り方が分かれるつくりになっていました。子どもの私が受け取ったのは、「死」のほうだったわけです。 ジョーの舞台になった泪橋は、いまは橋ではありません。川が埋め立てられて明治通りが通り、台東区と荒川区の境にある交差点に、名前だけが残っています。 バスの乗務で通ることはありませんが、私用では、泪橋の交差点や南千住のあたりを何度も通っています。そのたびに、自然と「ジョー」を思い出します。 ジョーの翌年に、中学へ ジョーが真っ白に燃え尽きた翌年の春、私は中学生になり、帽子から靴下まで真っ白なユニフォームに袖を通しました。そしてその年の秋、9月29日がクリーニングの日になりました。 ジョーの白は、燃え尽きて、もう戻らない白でした。私のユニフォームの白は、母が毎日取り戻してくれる白でした。泥だらけになって帰っても、次の日にはまた白くなっている。そしてまた、泥だらけになりに行くのです。 減っていく町のクリーニング屋 全国のクリーニングの店は、平成9年ごろをピークに減り始めました。増え続けてきた取次店も、平成10年の約11万6千軒をピークに減少に転じます。令和6年度には、全国の施設数が、無店舗の取次店を含めても7万軒を割り込みました。 私の身のまわりを見ても、個人のクリーニング店が減ったのは明らかです。身近でクリーニング店を営んでいた友人も、近年、店をたたみました。 逆に、コインランドリーは増えている気がします。クリーニング店が減った分をコインランドリーが埋めている、という面もあるにはあるのでしょう。ただ私は、それとは別に、民泊を利用する海外からの旅行者や、一人暮らしの若い人を当て込んだ「投資」として、コインランドリーの開業が増えているのではないかと見ています。たぶん、その投資を勧めるセールスも盛んなのでしょう。 わが家も、洗濯物をクリーニングに出すことはほとんどなくなりました。ワイシャツは形状記憶の素材でアイロンがいりませんし、そもそもいまの仕事の制服では、ワイシャツを着なくなりました。 泥を落とす側になって そんなわが家でも、子どもたちの野球のユニフォームだけは、ひと手間かけて洗っています。 まず、WASHBOYというバケツ型の小さな洗濯機で、ポールという洗剤を使って下洗いをします。それからドラム式の洗濯機で洗い、ほとんど乾燥まで仕上げてしまいます。 ブラシとつけ置きが、バケツ型の洗濯機とポールに。二槽式が、乾燥までこなすドラム式に。道具はすっかり変わりましたが、まず下洗いで泥を落とすところから始めるのは、あの頃の母と同じです。 ...

September 29, 2026

9月21日 ── 私の町の名前が、少年ジャンプの表紙に載った日|昭和の今日は何があった日?

今日は9月21日。 昭和51年(1976年)のこの日、『週刊少年ジャンプ』42号が発売された。その号から連載が始まったのが、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』である。 葛飾区。私が生まれ育ち、今も住んでいる区の名前だ。 自分の町の名前が、少年漫画のタイトルにそのまま入っている。しかも40年続く。こんな経験をした区民は、そう多くないはずである。 なぜ、あんなに長いタイトルなのか 作者の秋本治は、葛飾区亀有の生まれである。のちに葛飾区の名誉区民にもなった、正真正銘の地元の人だ。 『こち亀』はいきなり連載で始まったわけではない。昭和51年6月発売の『週刊少年ジャンプ』29号に、月例ヤングジャンプ賞の入選作として読み切りが載ったのが最初だった。その反響が1か月以上続いたことから連載会議にかけられ、42号からの連載が決まる。 このとき使われていたペンネームが「山止たつひこ」。当時『がきデカ』で人気だった山上たつひこをもじったものである。のちに本人からクレームが来て、連載100回を区切りに本名の「秋本治」に変わった。なかなか大胆な新人である。 そして、あの長いタイトル。 秋本治は、映画監督の山田洋次との対談でこう語っている。『男はつらいよ』のおかげで葛飾区は全国的に知られていた。だから亀有を知らない人でも、葛飾区ならみんな知っているだろうと思った、と。 つまり『こち亀』というタイトルは、寅さんの肩に乗って生まれている。 柴又の帝釈天は、高砂のすぐ隣である。渥美清の寅さんが全国に広めた「葛飾」という地名を借りて、今度は両津勘吉が亀有を全国区にしていった。昭和という時代に、この小さな区は二度も日本中に名前を売ったことになる。 私にとっては、『サーキットの狼』のついでだった ただし、当時7歳・小学1年生だった私が、この歴史的な42号をありがたがって読んでいたかというと、まったくそんなことはない。 正直に書くと、いつから『こち亀』を読み始めたのか、はっきりとは覚えていない。当時の私にとってのお目当ては別にあった。『サーキットの狼』である。 池沢さとしの『サーキットの狼』は、昭和50年1月に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まり、スーパーカーブームの火付け役になった漫画だ。ロータス・ヨーロッパ、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ512BB。小学生がそらで車の名前を言えるようになったのは、あの漫画のせいである。スーパーカー消しゴムを筆箱に溜め込んだ世代だ。 つまり、私はまず『サーキットの狼』を読み、そのついでに『こち亀』も読む。そういうサブ的な存在だったと思う。 いま思えば、ずいぶん贅沢な誌面である。同じ一冊の中に、スーパーカーが走る漫画と、自分の住む区の名前が付いた漫画が並んで載っていた。後者が40年続く大記録になるとは、当時の誰も——たぶん編集部も——思っていなかっただろう。 その『サーキットの狼』の第1巻です。読み返すと、四十年前に筆箱の中で転がっていた消しゴムの車が、そのまま走り出してきます。 サーキットの狼 愛蔵版1 ウワサの男の巻(Kindle版)池沢さとし/ゴマブックス。スーパーカーブームの火付け役になったレーシング漫画。ロータス・ヨーロッパを駆る風吹裕矢の物語の第1巻。星4.2(10件) Amazonで見る › 野球用品を買いに行く町 葛飾区に住んでいる人間からすると、亀有と高砂は「同じ区」ではあるが、日常的に行き来する町ではない。 高砂は京成線、亀有はJR常磐線。路線が違うと、子どもの生活圏はきれいに分かれる。それでも自転車に乗るようになった頃には、亀有はそれほど遠い場所ではなくなった。 もっとも、漫画に出てくる亀有公園や派出所が本当に実在するのかどうか、気になって確かめに行く——というほどの存在感ではなかった。私が亀有駅の近くまで行っていたのは、野球用品を買うためである。グラブやバットやスパイクを買いに行く町。それが子どもの頃の私にとっての亀有だった。 ちなみに、いまバスの運転士として亀有方面を走ることはない。ただ、路線バス運転士に転職したばかりの頃には亀有駅始発の路線があり、ときどきその担当に入ることがあった。かつて野球用品を買いに自転車で通った駅前に、何十年かあとにハンドルを握って立ち寄っていたわけである。 「寅さんの柴又」と「こち亀の亀有」 自分の住む町が全国的に有名になっていくことについては、誇らしく感じていた。 子どもの頃、学校でも親戚の集まりでも、『こち亀』や寅さんの話は当然のように出た。そして今に至るまで、私が自分の住んでいる場所を人に説明するとき、必ずと言っていいほど使う言い回しがある。 「寅さんの柴又の近く」「こち亀の亀有の近く」 高砂と言って通じる相手は、正直なところそう多くない。けれど柴又と亀有なら、たいていの人に伝わる。寅さんと両さんは、半世紀近くにわたって、私の自己紹介を手伝い続けてくれている。いまも現役で、である。 40年、一度も休まなかった 『こち亀』の記録を並べると、少し現実離れしている。 昭和51年42号から平成28年(2016年)42号まで、ちょうど40年。連載回数1960回。その間、一度の休載もない。単行本は全200巻に達した。始まったのも42号、終わったのも42号である。 40年というのは、私が7歳から47歳になるまでの時間だ。小学1年生だった子どもが、就職して、転職して、子どもを育てるまでのあいだ、両さんはずっと亀有公園前の派出所にいたことになる。しかも両さんは年をとらない。こちらだけが勝手に年をとって、追い越していった。 連載終了のとき、私にはもう漫画を読む習慣はなくなっていた。それでも「こち亀終了」を知らせるニュースは、どこからともなく耳に入ってきた。やはり、ちょっとさびしい気持ちになったのを覚えている。 亀有駅の北口と南口には、両さんの銅像が立っている。区内には『こち亀』のマンホールも埋まっている。銅像もマンホールも、私は見に行った。漫画のキャラクターが、実在の町の風景の一部になってしまった珍しい例だと思う。 連載第1巻です。絵柄はいまの『こち亀』とだいぶ違って、劇画に近い両さんが出てきます。この記事を書いている時点では、9月30日まで無料で読めるようになっていました。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックスDIGITAL)秋本治/集英社。昭和51年に始まった連載の第1巻。全200巻の一冊目。星4.1(720件) Amazonで見る › 同じ9月21日、ホンダが世界の頂点に立った ここからは話が変わる。時代も場所も、まったく別の9月21日である。 昭和61年(1986年)のこの日、ポルトガルGPの舞台エストリル・サーキットで、ホンダエンジンを積んだウィリアムズがF1のコンストラクターズ・チャンピオンを決めた。日本の自動車メーカーがF1のタイトルを獲ったのは、これが初めてのことである。 この年のウィリアムズ・ホンダは、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルという二人の速いドライバーを擁し、16戦9勝という成績を残した。ただしチーム内で勝ち星を食い合った結果、ドライバーズタイトルのほうはマクラーレンのアラン・プロストにさらわれている。速さはあったのに王座はひとつだけ、という少し皮肉な年だった。ここからホンダは1991年まで6年連続でチャンピオンエンジンとなり、やがてマクラーレン・ホンダとアイルトン・セナの時代へつながっていく。 さて、ここで話が最初に戻る。 『サーキットの狼』の主人公・風吹裕矢は、街の走り屋から始まって、やがてサーキットへ、そして最後はF1へ向かっていく。小学生の私が夢中で追いかけていたのは、そういう物語だったはずである。 ところが、である。 昭和61年当時の私は、F1などのモータースポーツにまったく興味を持っていなかった。セナやプロストの名前を知ったのは、日本にF1ブームがやって来てから。1年の浪人を経て大学に入ったあとのことである。ホンダが世界の頂点に立ったその日、高校2年生の私は、秋の野球部の練習の中にいた。 子どもの頃に好きだったものが、そのまま大人の関心につながるとは限らない。むしろ、ほとんどの場合つながらない。ジャンプで並んで載っていた二本のうち、私の人生に最後まで残ったのは、スーパーカーのほうではなく、町の名前のほうだった。 おわりに 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まった昭和51年、私はまだ子どもだった。 ...

September 21, 2026

九月十三日が三度あった ― ちばあきお、スーパーマリオ、南海ホークス|昭和の今日は何があった日?

9月13日という日付を、昭和40年から64年までの範囲で洗っていたら、妙なことに気づいた。 三つの出来事が、私の15歳、16歳、19歳に、きれいに並んで刺さっていたのだ。中学3年、高校1年、そして浪人。要するに、子どもが子どもでなくなっていく数年間である。 しかも三つとも、どこかで「終わり」の匂いがする。今日はこの三つを、順番に並べてみたい。 昭和59年9月13日 ― 墨谷二中を描いた人 昭和59年、1984年9月13日。漫画家のちばあきおが亡くなった。41歳だった。晩年は病を抱えていたと伝えられ、最期は自らの手によるものだった。そのことについては、これ以上は書かない。 代表作は『キャプテン』と『プレイボール』。説明はいらないだろう。墨谷二中という、どこにでもありそうな公立中学の野球部の話だ。谷口、丸井、イガラシ、近藤と、四代のキャプテンが順に主人公になっていく。その高校編が『プレイボール』である。二作合わせて昭和51年度の小学館漫画賞を受けている。兄は『あしたのジョー』のちばてつやだ。 あの漫画の変わっているところは、天才がひとりも出てこないことだった。 谷口タカオは、うまくない。名門・青葉学院から転校してきたという経歴だけで「すごいやつが来た」と勘違いされ、その誤解に押しつぶされそうになりながら、誰も見ていないところで走り込む。血を吐くような特訓の場面があるわけでもない。ただ、黙って練習している。そういう漫画だった。 絶筆になった『チャンプ』は連載の途中で止まり、最終回はチーフアシスタントが下絵をもとに仕上げて掲載された。 私はそのとき中学3年。墨谷二中の彼らと、ちょうど同じ学年だった。 野球部で、ピッチャーとショートをやっていた。公立中学だが、練習はかなりハードで、伝統的にわりと強い学校だったと思う。上下関係ははっきりしていて、先輩からの理不尽な行為も受けた。先生も日常的にケツバットやビンタをしていた。いまなら完全にアウトだが、そういう時代だった。 『キャプテン』は中学1年から単行本で真剣に読んでいた。テレビアニメも見た。そして、思いっきり重ねていた。 葛飾には修徳という強豪の私立中学がある。私の中では、自分の学校が墨谷二中で、修徳が青葉学院だった。あの漫画の構図が、そのまま自分の住んでいる区の地図の上に乗っていたわけである。公立が私立に挑む話として読んでいたのだから、当然といえば当然だ。 だから訃報も知っていた。覚えているのは、悲しさよりも先に「本当に?」という気持ちが来たことだ。谷口たちを描いている人が、この世からいなくなるという実感が、15歳の頭では追いつかなかったのだと思う。 中学1年の私が真剣に読んでいた、あの一巻目です。青葉学院から来た谷口が、誤解のまま墨谷二中の野球部に入るところから始まります。いま読み返しても、派手な場面はほとんどありません。だから読み返せるのだと思います。 キャプテン 1(集英社文庫 コミック版)ちばあきお/集英社。墨谷二中野球部、四代のキャプテンの物語。昭和51年度 小学館漫画賞。文庫版全15巻。星4.4(320件) Amazonで見る › 昭和60年9月13日 ― ブームの外にいた高校1年生 その一年後、昭和60年、1985年9月13日。任天堂がファミリーコンピュータ用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。 国内だけで約681万本。ファミコンソフトの売上記録は、いまだにこれが1位だという。世界では4000万本を超えた。 それまでの家庭用ゲームは、一画面の中で完結するものが多かった。この作品は違った。右へ、右へと画面が流れていく。ジャンプして敵を踏み、ブロックを叩き、土管にもぐる。操作は十字キーと二つのボタンだけ。誰でもすぐ動かせるのに、どこまでも先がある。 ファミコン本体が店頭から消え、入荷の噂が立てば行列ができた。攻略本はその年のベストセラーになった。 私は16歳、高校1年だった。 そして、何の記憶もない。 家にファミコンはなかった。野球に夢中で、そもそもファミコンに興味がわかなかったのである。日本中の子どもが土管にもぐっていたその秋、私はグラウンドにいた。ブームというのは、外にいる人間からは案外よく見えないものだ。 いま思えば、あれは子どもの遊び方が変わる分かれ目だったのだろう。中川の土手や線路沿いを走り回って日が暮れるまで遊ぶ、という時代が終わりかけていた。ただ、その分かれ目を私は知らずに通り過ぎた。理由は単純で、ボールを追いかけるほうが面白かったからだ。 昭和63年9月13日 ― ホークスが大阪を出ていく さらに三年後、昭和63年、1988年9月13日。ダイエーの中内㓛社長が、南海からホークスを買収する意向を明らかにした。 この年、南海ホークスは球団創設50周年を迎えていた。4月23日、「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが亡くなる。それから半年も経たないうちに、身売りが表に出た。本拠地は大阪球場から福岡へ移ることになる。 結果として、この昭和63年が南海ホークスとしての最後のシーズンになった。皮肉なことに、この年の南海には見るべきものがあった。門田博光が40歳で44本塁打、125打点。本塁打王と打点王の二冠に加えてMVPまで獲っている。チームは5位に終わったが、あの打球の音だけは最後まで鳴っていた。 南海としての本拠地最終戦、杉浦忠監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります」とあいさつした。門田はその後、九州行きを拒んでオリックスへ移籍している。 この同じ秋、10月には阪急ブレーブスもオリエントリースへ売却された。パ・リーグの老舗が二つ、ひと月のあいだに看板を下ろしたことになる。 私は19歳。浪人中だった。 予備校には通っていない。セブン-イレブンの夜勤を週に4日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。情報源はテレビと、店で売っているスポーツ新聞である。深夜のレジで、売り物の一面をちらりと見る。そういう形でこのニュースを知った。 ...

September 13, 2026

9月3日 ── あいつは、私と同い年だった|昭和の今日は何があった日?

今日は9月3日。 この日が誕生日だという有名人は、たぶん何人もいます。けれど、日本でいちばん有名な「9月3日生まれ」は、人間ではありません。 2112年9月3日生まれ。ドラえもん。 まだ生まれていないのです。あと86年、待たなければならない。それなのに私たちは、毎年この日を誕生日として祝ってきました。考えてみると、ずいぶん不思議な記念日です。 あいつは、私と同い年だった このシリーズを書いていると、たまに驚くことがあります。今日もそうでした。 『ドラえもん』の連載が始まったのは、1969年(昭和44年)12月。小学館の学年誌6誌——『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』から『小学四年生』まで——の1970年1月号に、いっせいに載りました。 1969年。私が生まれた年です。私は4月生まれですから、ドラえもんが世に出たとき、私は生後8か月ということになります。 つまり、あいつは私と同い年でした。このブログの名前が「昭和44年男」であることを思うと、なんだか可笑しい。 もっとも、最初からうまくいったわけではありません。6誌に同時連載されたにもかかわらず、当初はさして注目されなかったといいます。1973年(昭和48年)に日本テレビでアニメ化されたものの、制作会社の解散により半年で終了。人気も一段落したとみなされ、連載終了さえ検討されました。 そして1974年(昭和49年)3月、『小学四年生』に「さようなら、ドラえもん」が掲載されます。ドラえもんが未来へ帰る、あの回です。当時4歳の私はまだ何も知りませんが、あれは本当に最終回として描かれたのでした。 けれど作者は思い直し、翌月「帰ってきたドラえもん」を描きます。あの一回の翻意がなければ、今日という記念日そのものが存在しなかったことになります。 ちなみに誕生日が「2112年9月3日」と決められたのも、連載開始からしばらく経ってからでした。1975年(昭和50年)4月号の『小学四年生』に載った「ドラえもん大事典」で、はじめてドラえもんの誕生から出発までが描かれたのです。身長129.3センチ、体重129.3キロという数字も有名ですが、これは連載当時の小学4年生の平均身長にちなんだものだといわれています。のび太を見下ろさない、同じ高さの目線。学年誌に載る漫画は、その学年の子どものために描かれるのだと、あらためて思います。 私の出会いは、のろいのカメラだった 私がドラえもんとはっきり出会った場面を、いまでも覚えています。 小学3年生。イトーヨーカドー高砂店の3階にあった本屋さんでした。棚から手に取ったのが、てんとう虫コミックスの『ドラえもん』第4巻です。 そのとき私は、まだコロコロコミックを知りませんでした。テレビでの放映も、まだ始まっていません。学年誌でもなく、友達の家でもなく、本屋の棚。あの一冊が、私とドラえもんの最初の一歩でした。 そして第4巻の巻頭に載っているのが、「のろいのカメラ」です。 つまり私がドラえもんという漫画で最初に読んだ話は、これでした。 シャッターを切ると、写した相手そっくりの人形が出てくるカメラ。その人形を叩けば、本人にも痛みが伝わる。バラバラにすれば、本当にバラバラになる。ドラえもん自身が、出すのをためらった道具です。 いま思えば、ずいぶんなご挨拶でした。空を飛ぶでも、どこかへ行けるでもない。人を呪うための道具です。それが、私にとってのひみつ道具の第一号だった。 もっとも、9歳の私はそんなことは考えていません。ただ、面白いものを見つけた、と思っただけです。 本はその本屋さんで買っていました。そしてもうひとつ、読める場所がありました。児童館です。あそこにはドラえもんがかなり揃っていて、私はよく読んでいました。買うのと、借りて読むのと。あの頃の子どもにとって、漫画に手が届く道は、そう多くはありません。その両方が、私の場合は高砂にありました。 その第4巻は、いまも同じ形で売られています。目次を確かめてみたら、やはり第1話が「のろいのカメラ」でした。四十数年前に本屋の棚で開いた、あのページです。 ドラえもん(4)(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。第1話「のろいのカメラ」から「ソノウソホント」「アベコンベ」「石ころぼうし」まで収録。星4.7(273件) Amazonで見る › 放送が始まるまでの、あのワクワク いま私たちが「ドラえもん」と聞いて思い浮かべるアニメが始まったのは、1979年(昭和54年)4月2日。テレビ朝日系です。 当初は今のような形ではありませんでした。月曜から土曜までの帯番組で、1回10分。夕方に毎日ちょっとずつ流れる、そういう番組だったのです。あの金曜夜7時の30分枠に移ったのは、1981年(昭和56年)10月2日から。私が小学6年生の秋でした。 私にとって強く残っているのは、圧倒的に前者——夕方の帯番組のほうです。 正確に言えば、番組そのものよりも、始まると知ってから、実際に放送されるまでの間の記憶です。あのワクワク感は凄かった。クラスの友達との話題も、その事についてが大半を占めていたと思います。 考えてみれば当然でした。私はもう第4巻を読んでいる。あいつがどんな顔で、どんな道具を出すのかを知っている。その知っているものが、動いて、喋る。しかも毎日夕方にやってくる。始まる前から面白いに決まっていたのです。 一方で、映画のほうは記憶がありません。翌1980年(昭和55年)3月15日に第1作『のび太の恐竜』が公開され、以後、春休みに映画館へ行くという習慣が日本中の子どもに生まれるわけですが、私はそこに加わっていない。 理由ははっきりしています。すでに私は野球少年でした。興味は、完全にそちらへ向かっていたのです。 なお、この夕方という時間帯には、私はもう一度べつの作品と出会うことになります。そちらは再放送でしたが。 「どこでもドアがあったら」 ひみつ道具の話は、よくしました。 私が欲しいと言っていたのは、どこでもドアだったと思います。 下校途中でした。友達と歩いて帰りながら、「どこでもドアがあったら、一瞬で家に着くのにな〜」なんて話していた。 いま思えば、笑ってしまうような望みです。歩いて帰るのが面倒だ、ただそれだけの理由でした。けれど子どもの願いというのは、たいていそういうものです。壮大な夢ではなく、目の前のちょっと面倒なことを、なんとかしてほしい。 そしてこの願いだけは、いまだに叶っていません。 連載開始のあの1970年1月号は、6誌それぞれで違う第1話が載っていました。その6種類を全部まとめた一冊が出ています。私が生まれた年に、6つの学年に向けて別々に描かれたものが、いま一冊で読めるわけです。 ドラえもん 0巻(てんとう虫コミックス)藤子・F・不二雄/小学館。6種類の「幻の第1話」を初出バージョン&完全カラーで収録。伝説の予告や、創作秘話まんが「ドラえもん誕生」も。星4.4(1,435件) Amazonで見る › 五人の子どもと、ドラえもん 今、私は五人の子どもを持つ父親になりました。 ...

September 3, 2026

8月29日 ── 夕方の再放送で、私はオスカルに出会った|昭和の今日は何があった日?

8月29日は「ベルばらの日」と呼ばれています。 1974年(昭和49年)のこの日、兵庫県の宝塚大劇場で、宝塚歌劇団月組による『ベルサイユのばら』の幕が上がりました。 私は当時5歳。宝塚も、少女漫画も、フランス革命も、まだ何ひとつ知らない子どもでした。それでも数年後、この作品は思いがけない形で私の日常に入り込んでくることになります。 「人間に演じられるわけがない」 原作は池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』。連載が始まったのは1972年、『週刊マーガレット』でのことでした。舞台化は、その連載が終わった翌年の話になります。 少女雑誌の連載でフランス革命をやる、というのは、当時としてはかなり無茶な企画だったはずです。主人公のオスカルは、将軍家の末娘として生まれながら、家を継ぐために男として育てられた女性。実在の人物ではありません。その架空の一人を、マリー・アントワネットとフェルゼンという実在の歴史の中に立たせてしまった。この一手が、のちのすべてを決めたのだと思います。 昭和40年代の後半、宝塚歌劇団は苦しい時期にありました。テレビが各家庭に行き渡り、スターの姿が茶の間で手軽に見られるようになった時代です。劇場には空席が目立つようになっていました。 そこで、当時まだ演出部門の若手だった植田紳爾さんが、この漫画の舞台化を発案します。ところが制作を発表すると、熱狂的な原作ファンから抗議が殺到しました。あの物語を、あのオスカルを、生身の人間が演じられるわけがない、と。 猛烈な反発に、現場の決心は揺らぎます。その時に演技指導として現れたのが、往年の映画スター・長谷川一夫さんでした。 長谷川一夫といえば、戦前から戦後にかけての日本映画を代表する二枚目です。その人が、少女漫画を原作にした宝塚の舞台に関わる。今の感覚で言えば、相当に思い切った起用でした。 長谷川さんが持ち込んだのは、歌舞伎で培われた「見せ方」の技術だったと言われています。どう立つか、どこで止まるか、どの角度で客席に顔を向けるか。漫画のコマの中でしか成立しないはずだった美しさを、生身の人間の身体で再現するための、具体的で身も蓋もない技術です。抗議していた原作ファンを黙らせたのは、理屈ではなく、その一点だったのだと思います。 そして1974年8月29日、初演の幕が上がりました。オスカルを演じたのは、当時の月組トップスター・榛名由梨さん。マリー・アントワネットは初風諄さんでした。 二年で140万人 結果はご存じの通りです。 人気に応える形で、翌年以降、花組・雪組・星組と組を替えての上演が続きました。地方公演も含め、シリーズで動員した観客はおよそ140万人。1974年は、奇しくも宝塚歌劇団が創立60周年を迎えた年でもありました。 オスカルを演じた榛名由梨さん、汀夏子さん、鳳蘭さん、安奈淳さんの4人は「ベルばら四強」と呼ばれ、第一次ベルばらブームの立役者になりました。同じ年、作品は文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。 空席の目立っていた劇場が、チケットの取れない劇場に変わった。昭和の芸能史の中でも、これほど鮮やかな逆転はそう多くありません。 面白いのは、このブームが「もともと宝塚を知っていた人」の中で起きたものではなかったことです。漫画から入ってきた人、それまで劇場に足を運んだことのなかった若い人たち。舞台化に反対していた人たちが、いちばん熱心な客になった。反対の声が大きかったということは、それだけ深く愛されていたということでもあったのでしょう。 五歳の私は、仮面ライダーだった さて、その1974年8月、5歳の私です。 私は宝塚とも少女漫画とも、まったく無縁でした。興味があったのは、仮面ライダーとウルトラマン。それだけです。 同じ夏、同じ日本で、大人の女性たちが劇場に押し寄せてフランス革命に泣いていた。その一方で、葛飾の五歳児はテレビの前で変身ポーズをとっていたわけです。同じ時代を生きていても、見ている世界はまるで違う。「昭和の今日は何があった日?」を書いていると、こういう場面によく出くわします。 1979年、水曜の夜 『ベルサイユのばら』は、その後アニメになりました。 1979年(昭和54年)10月10日から翌1980年9月3日まで、日本テレビ系で全40話が放送されています。制作は東京ムービー新社。オスカルの声は田島令子さん、アンドレは志垣太郎さん。総監督に長浜忠夫さん、途中から出崎統さんが引き継ぎました。 放送開始の1979年10月、私は小学4年生の秋です。 ただ、正直に書きます。この水曜夜の本放送を、私は見ていません。一つ違いの妹も見ていませんでした。 無理もない話で、この年の4月には『機動戦士ガンダム』が始まり、同じ4月にテレビ朝日で『ドラえもん』の放送が始まっています。男子小学生の世界は完全にそちら側にありました。ロボットと、ネコ型ロボットと、野球です。 夕方の再放送 ところが、です。 いつのことだったかは、はっきり思い出せません。ただ、夕方に『ベルばら』の再放送が流れていた時期があって、私はそれを見てしまった。 そして、やみつきになりました。 夢中になって見ました。特に良かったのが、オープニングの歌です。「薔薇は美しく散る」。歌っていたのは鈴木宏子さん。あの重々しいイントロと、ばらの花が散っていく映像。子ども向けアニメの主題歌とは思えない、はっきりと悲劇の匂いがする曲でした。 昭和の夕方には、再放送という文化がありました。学校から帰ってきて、ランドセルを放り出して、何気なくテレビをつける。そこで流れているのは、たいてい何年か前のアニメです。本放送のときには興味がなかった作品、あるいは幼すぎて見られなかった作品が、その時間に不意打ちのように現れる。 いま考えると、あれは不思議な仕組みでした。自分で選んで見に行ったわけではないのに、たまたまチャンネルを合わせた一本が、その後ずっと記憶に残ってしまう。私にとっての『ベルばら』は、まさにそれでした。 いま思えば、アニメ版『ベルばら』は途中から演出が濃く、暗く、詩的になっていく作品です。オスカルもアンドレも、最後はきちんと死にます。夕方の再放送というのは、そういうものと出会うのにちょうどいい時間帯だったのかもしれません。誰にも見つからずに、一人で見ていられるからです。 男子は少年漫画、女子は少女漫画 1969年生まれの私にとって、少女漫画は自分の本棚にはないものでした。 でも、一つ違いの妹がいましたから、『りぼん』『なかよし』『別冊マーガレット』『少女コミック』は身近にありました。女子が読んでいる漫画を、横から覗いたこともあります。 本当はちょっと読んでみたかった。けれど、男子が少女漫画を読むのは恥ずかしかった。それが正直な気持ちだったでしょう。 なにせ昭和の男子には、 「男子は少年漫画、女子は少女漫画」 という見えない境界線が、結構ありましたから。 誰が引いたわけでもない線です。先生が決めたわけでも、親に言われたわけでもない。それでも確かにそこにあって、越えると笑われる。昭和の子どもの世界には、そういう線がいくつもありました。男の子は泣かない。女の子は前に出ない。線の内側にいるかぎりは楽なのですが、その分、外側にあるものは最初からなかったことになる。 そう考えると、ベルばらの舞台化に抗議が殺到した話も、少し違って見えてきます。「男装の麗人」オスカルという人物そのものが、引かれた線を越えて生きる話なのです。少女たちがあれほど夢中になったのは、たぶん偶然ではありません。 夕方の再放送で私が『ベルばら』にやみつきになれたのは、たぶん、そこに誰もいなかったからです。教室の目も、妹の目も届かない時間に、線をまたいで向こう側を覗いた。そういうことだったのだと思います。 いまなら、誰の目も気にせず堂々と買えます。あのころ横から覗いていただけの五巻が、化粧箱に入って売られている。 ベルサイユのばら 全5巻セット 化粧箱入り(集英社文庫コミック版)池田理代子/集英社。1972年から『週刊マーガレット』で連載された原作。文庫版全5巻が化粧箱入りで揃います。星4.5(248件) Amazonで見る › そして、まだ観ていない 『ベルサイユのばら』は、その後も宝塚で繰り返し上演され続けています。1989年、1991年、2001年、そして令和に入ってからも。原作漫画は累計2000万部を超え、2025年には完全新作の劇場アニメも公開されました。 ...

August 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月6日──8時15分のテレビと、記憶違いの『はだしのゲン』

夏休みの朝、テレビをつけると広島が映っていた 夏休みは、朝が遅い。 学校がないぶん、起きる時間もだらしなくなります。それでも8月6日だけは、なぜか少し早く目が覚めていたような気がします。 居間に降りて、なんとなくテレビをつける。すると画面には、広島が映っていました。 ニュースのなかで流れる、平和記念式典の様子です。式典を最初からじっくり見ていた、というわけではありません。ニュース番組を通して、平和記念公園に集まった人々の姿や、黙とうする様子を見ていた——そういう記憶です。 夏休みのテレビの朝は、基本的に明るいものでした。アニメの再放送があり、夏の高校野球の予告があり、水着の映像があり。そのなかで8月6日の朝だけは、画面の色がすっと沈む。 午前8時15分。広島ではサイレンが鳴り、街全体が黙とうに入ります。 けれど、東京の下町にサイレンは鳴りません。窓の外では蝉が鳴き、京成線が普段どおりに走っていく。テレビの画面の中だけが静まりかえっていて、こちら側は何も変わらない。あの温度差を、子どもながらに妙だと感じていた気がします。 子どもだった私は、それをうまく言葉にできませんでした。ただ「今日はそういう日なんだ」と思って、黙って見ていた。それだけです。 葛飾の小学校には、夏休み中の登校日がありました。平和についての話も、たぶんあったのだと思います。ただ、正直に言うと覚えていません。8月6日という日は、私にとって「学校で教わったこと」よりも先に、「朝のテレビで見たもの」だったのです。 昭和46年8月6日──現職の総理大臣が、はじめて広島に立った その広島の式典に、日本の現職の総理大臣がはじめて出席したのは、1971年(昭和46年)8月6日のことでした。佐藤栄作首相です。 原爆が投下されたのが1945年(昭和20年)。つまり26年間、その席に総理大臣は座っていなかったことになります。 このとき私は2歳4か月。当然、記憶はありません。ただ、あとから考えると不思議な話です。あれほど大きな出来事の式典に、四半世紀のあいだ現職の総理が足を運んでいなかった。昭和40年代の後半になって、ようやく「国として、あの日の前に立つ」という形が整いはじめたということでもあります。 佐藤栄作という人は、1967年(昭和42年)に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国会で表明した総理でもあります。そして1971年6月には沖縄返還協定に調印し、翌年の本土復帰へと進んでいく。その夏に、はじめて広島の慰霊碑の前に立った。3年後の1974年には、ノーベル平和賞を受けています。 その評価をここで論じるつもりはありません。ただ、私がテレビで見ていたあの朝の風景は、そう古くから続いていたものではなかった。昭和46年からあとの、まだ新しい風景だったのです。 私が生まれてから、ようやく整った形。それを私は、当たり前の夏の景色として見ていました。 「24時間テレビで観た」という、私の記憶 さて、ここからが本題です。 8月6日といえば、私にはもうひとつ、はっきりした記憶があります。 アニメ映画の『はだしのゲン』を、テレビで観たという記憶です。 細かな場面までははっきり思い出せないのですが、画面に映し出される出来事があまりにも重く、子ども心に「怖い」と感じたことは強く残っています。見ているのがつらくなり、思わず画面から目を背けてしまった場面もありました。 それでも、途中でテレビを消すことはできず、結局は最後まで観ました。怖いからこそ、この先に何が起こるのかを確かめなければならないような気持ちがあったのかもしれません。観終わったあとも、すぐに普段の夏休みの気分へ戻ることはできず、しばらく重たい感覚が残っていたように思います。 これだけのものが体に残っているのに、肝心の「いつ、どこで」だけが、あやふやなのです。 そして、その記憶にはご丁寧に注釈までついていました。「たしか、夏の恒例の『24時間テレビ』のなかで放送されていたはずだ」と。長時間のチャリティー番組の、どこかの時間帯。あの独特の、少し疲れたような夏の空気のなかで、私はゲンを観た。そう思い込んでいたのです。 調べてみたら、あの枠は手塚治虫の指定席だった 念のため、調べてみました。そうしたら、話が合わなくなったのです。 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』が始まったのは1978年(昭和53年)。日本テレビの開局25周年記念でした。私が小学3年生の夏です。 この番組には、名物のアニメスペシャル枠がありました。第1弾が『100万年地球の旅 バンダーブック』。1978年8月27日の午前、国産初の「テレビ2時間アニメ」として放送されました。以降もほぼ毎年、この枠にはアニメが並びました。 問題は、その中身です。この枠は、ほとんど手塚治虫作品の指定席でした。例外は、竹宮惠子さん原作の『アンドロメダ・ストーリーズ』(1982年)と、最後の年になった1990年の『それいけ!アンパンマン』くらい。 つまり、『はだしのゲン』は一度も流れていないのです。 私の記憶は、成り立ちませんでした。 では、私はどこであれを観たのか アニメ映画『はだしのゲン』が公開されたのは、1983年(昭和58年)7月。私が中学2年の夏です。 制作はマッドハウス、監督は真崎守さん、音楽は羽田健太郎さん、ナレーションは『ジェットストリーム』でおなじみの城達也さん。主人公ゲンの声は、オーディションで選ばれた広島市出身の小学生でした。原作者の中沢啓治さんが、漫画では描ききれないものを映像にしたいと、私財まで投じてつくった作品です。 そしてこの映画には、大きな特徴がありました。公開にあたって、全国の市民団体や自治体、学校が協力する「1000か所 草の根上映運動」が展開されたのです。映画館ではなく、公民館や学校の体育館。そういう場所で観た人が、たいへん多い作品でした。 地方局が夏に放送した記録も残っています。たとえば富山テレビは、1985年8月6日の夕方4時から、この作品を放送しています。 ついでに言えば、原作の漫画も変わった道を歩いた作品です。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったあと、市民団体の雑誌、政党の理論誌、日教組の機関誌へと掲載の場を転々としています。それでいて、私たちの世代にとって『はだしのゲン』は、学校の図書室に必ず置いてある本でした。誰が買ったわけでもないのに、気がつけばそこにある。 そう考えると、私が観たのは、学校か地域の上映会だったのかもしれません。あるいは、どこかの局の夏の特別枠だったのかもしれません。 正直に書きます。もう、わかりません。 なぜ記憶は、ふたつを結びつけたのか ただ、なぜ記憶が「24時間テレビ」と結びついたのかは、なんとなく想像がつきます。 当時の子どもにとって、「夏に、テレビの前で真面目な気持ちにさせられる時間」という引き出しは、そう多くなかった。8月6日の朝のニュース。終戦記念日の特集。そして、24時間テレビ。だいたいこの三つくらいです。 同じ引き出しに入っていたものが、40年以上のあいだに、勝手にひとつに溶け合ってしまったのでしょう。あの映像の重さと、夏の長時間番組のあの空気が、記憶のなかでくっついた。「夏」「テレビ」「まじめな気持ち」という三つのタグが一致してしまえば、あとは記憶のほうが勝手に配線をつなぎます。 しかも24時間テレビのアニメ枠は、当時の子どもにとって、きわめて印象の強い時間帯でした。そこへ「夏に観た、重たいアニメ」という記憶を放り込めば、収まりのいい棚はひとつしかありません。 けれど、それだけではない気もしています。 実を言えば、私のなかでこのふたつは、もともと地続きでした。8月6日の朝にテレビニュースで広島の式典を見た記憶と、『はだしのゲン』を観たときの怖さは、自分の中でどこか結びついています。当時は戦争や原爆について十分に理解できていたわけではありません。それでも、これは昔の遠い出来事として簡単に片づけてはいけないものなのだという感覚だけは、子どもなりに受け取っていたのだと思います。 だとすれば、記憶が番組名を取り違えたことは、たいした失敗ではないのかもしれません。事実関係の配線は、たしかに間違えた。けれど、結びつけるべきものは、ちゃんと結びついていた。 そして8月6日は、「記憶を残すこと」そのものが問われる日でもあります。当事者の記憶が薄れていくなかで、私のような下町の子どもにも届くように、どうやって残すのか。 そのために作られたのが、あのアニメでした。だから中沢啓治さんは、映画館の上映だけでは足りないと考えて、体育館でも公民館でもいいから観てくれと、全国に映写機を送り出したのです。 私が「どこで観たか」を忘れてしまったことは、ある意味で、その運動が成功した証でもあるのかもしれません。場所を忘れるほど当たり前に、あの映像は子どもたちのところへ届いていた。 令和の8月6日に いまの私の家には、地上波のテレビがありません。大きなモニターで、動画や配信を観るだけです。 だから8月6日の朝、なんとなくテレビをつけたら広島が映っていた——ということは、もう起こりません。観ようと思って、自分で選ばないかぎり、あの日の映像は目の前に現れないのです。 昭和の子どもだった私は、選んでいませんでした。ただテレビをつけたら、そこに広島があった。黙とうがあった。逃げ場がなかったとも言えるし、だからこそ体に残ったとも言えます。 もう一度、あのアニメを観てみようかと思っています。今度は、いつどこで観たかを、ちゃんと覚えていられるように。 みなさんは、8月6日の朝をどんなふうに過ごしていましたか。そして『はだしのゲン』を、どこで、いくつのときに観ましたか。 あの夏に読んだ、あるいは観たきりになっている方へ。中沢啓治さんの原作漫画は、いまも文庫版で全巻そろいます。私たちの世代にとっては学校の図書室にあった本ですが、大人になってから読み返すと、子どものときには受け取れていなかったものが、いくつも見えてきます。お子さんやお孫さんの本棚に置いておく一組としても。 はだしのゲン(全7巻セット)中公文庫コミック版中沢啓治。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載開始。作者自身の被爆体験をもとに描かれ、世代を超えて読み継がれてきた全7巻。文庫版でそろえやすい Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月15日──ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた

7月15日は、不思議な日です。 昭和の少年文化を代表する「二つの王様」が、14年の歳月を隔てて、同じこの日に生まれているのです。 ひとつは昭和58年(1983年)7月15日に任天堂が発売した家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ。いわゆるファミコンです。もうひとつは昭和44年(1969年)7月15日に創刊された、秋田書店の「少年チャンピオン」。 そして告白しますと、昭和44年生まれの私は、この二つに対してずいぶん対照的な付き合い方をしていました。ファミコンは、買わなかった。チャンピオンは、毎週読んでいた。 今日はその話をさせてください。 任天堂ファミリーコンピュータ(HVC-001)。昭和58年7月15日発売、14,800円。(Photo: Rama / CC BY-SA 2.0 FR) 昭和58年7月15日、14,800円の革命 昭和58年7月15日、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。価格は14,800円。当時のゲーム機としては驚くほど戦略的な価格設定で、これが後に「テレビゲームといえばファミコン」という時代を作り上げていくことになります。 面白いのは、実は同じ日にセガ・エンタープライゼスもゲーム機「SG-1000」と、ベーシックを搭載したパソコン「SC-3000」を発売していたことです。つまり昭和58年7月15日は、日本の家庭用ゲーム機戦争の火蓋が切られた日でもあったわけです。 同じ昭和58年7月15日に発売された、セガのSG-1000。家庭用ゲーム機戦争は、この日いっせいに始まった。(Photo: Evan-Amos / Public domain) ただし、当時この日を「歴史的な日」だと認識していた人は、ほとんどいなかったはずです。発売当初のファミコンは、あくまで数あるゲーム機のひとつでした。それが決定的な存在になるのは、昭和60年の「スーパーマリオブラザーズ」、そして昭和61年の「ドラゴンクエスト」という怪物ソフトの登場を待ってからのことです。 あの日が「あの日」になるまでには、少し時間が必要だったのです。 買わなかった少年の言い分 昭和58年7月、私は中学2年生でした。14歳。世間的に見れば、ファミコン第一世代のど真ん中です。 でも私は、ファミコンを買いませんでした。それどころか、ファミコンというものが発売されたということすら、気にしていませんでした。 当時の私の興味は、やはり野球だったのです。「何が欲しいか?」と問われれば、真っ先に思い浮かぶのはグローブとか、カッコいいジャージでした。放課後の時間は、画面の中のボールではなく、本物のボールのためにありました。日が暮れるまでグラウンドにいて、家に帰れば飯を食って寝るだけ。テレビの前に座ってコントローラーを握る時間は、私の生活のどこにもなかったのです。 だから、日本中の少年たちの歴史を変えたと言われるあの日も、私にとってはただの夏の一日でした。翌日に迫った練習のことだけを考えて眠った、中学2年の7月15日。歴史というのは、案外そういうふうに通り過ぎていくものなのかもしれません。 一年半遅れの衝撃 そんな私がファミコンの存在に初めて気付いたのは、発売から一年半あまりも経ってからのことでした。 中学3年生。最後の夏の大会が終わり、高校受験の合格発表も済み、中学校生活も残りひと月足らずとなったころです。野球部の友達ではなく、クラスメイトの家に遊びに行ったときに、私は「ファミコン」というものの存在を初めて知り、目にして、手に取りました。 その時の衝撃は、すごかったですね。 小学生の頃にゲームセンターでプレーしていたようなクオリティーのゲームが、家庭用のテレビで出来ちゃうわけですからね。あの日やらせてもらったのは、たしかマッピーとロードランナーだったと思います。 ちなみに、私が初めてファミコンに触れたこの時点では、まだ「スーパーマリオブラザーズ」すら世に出ていません。あれだけの衝撃を受けたのに、実はあの熱狂の序章にしか立ち会っていなかったわけです。 まぁ、それでも欲しくはならずじまいでした。 受験も終わり、時間ならいくらでもあったはずの時期です。それでも「買いたい」とはならなかったのですから、我ながら筋金入りの野球少年だったのだと思います。その後も、友達の家に行ったときにやらせてもらう程度の付き合いのまま、私のファミコン歴は終わりました。 何しろ私には、生まれた時からの相棒とも言うべき、もうひとつの「7月15日生まれ」がいたのですから。 私と同い年の雑誌 さて、もうひとつの7月15日です。 昭和44年(1969年)7月15日、秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊しました。創刊号の表紙を飾ったのは、キックボクサーの沢村忠。真空飛び膝蹴りで一世を風靡した、あの「キックの鬼」です。漫画雑誌の創刊号の顔がキックボクサーだったというあたりに、昭和44年という時代の空気を感じます。創刊当初は隔週刊で、翌昭和45年6月から週刊化されて「週刊少年チャンピオン」となります。 昭和44年生まれ。つまりこの雑誌、私と同い年なのです。 私がこの世に生まれて3ヶ月ほど経った頃、書店の棚に創刊号が並んだことになります。もちろん当時の私は知る由もありませんが、同じ年に生まれた雑誌と少年が、やがて毎週顔を合わせる仲になるのですから、縁というのは面白いものです。 チャンピオンの快進撃は、昭和47年に始まります。この年、水島新司先生の『ドカベン』の連載が始まり、翌昭和48年には手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』がスタート。昭和50年代に入ると『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『750ライダー』などが誌面に並び、昭和52年1月には週刊誌として史上初の発行部数200万部を突破。一時は絶対王者だった少年ジャンプを抜いて、少年誌の頂点に立ったこともあるのです。ちなみに『ブラック・ジャック』は、当時スランプにあったと言われる手塚治虫先生を復活させた作品としても知られています。私と同い年の雑誌が、あの漫画の神様を救っていたのだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになります。 ドカベンと野球少年 私にとってのチャンピオンは、何をおいても『ドカベン』でした。 『ドカベン』がありましたから、必ず読んでいました。『ブラック・ジャック』も『750ライダー』も読みました。そして大人になってからは『グラップラー刃牙』シリーズを読んでいました。気がつけば、同い年のこの雑誌とは、少年時代から大人になるまで、ずいぶん長い付き合いになっていたわけです。 『ドカベン』の思い出は、と問われても、正直困ってしまいます。私にとっては、その存在すべてが「野球の参考書」だったからです。ですから、すみずみまで記憶しています。 その『ドカベン』の本誌連載は昭和56年にいったん完結しますが、昭和58年——奇しくもファミコン発売と同じ年——から、続編『大甲子園』が始まります。水島新司先生の野球漫画作品の主人公たちが大集合した、あの『大甲子園』です。当然、見逃すわけがありません。 『大甲子園』の連載期間は、私が白球を追いかけた中学2年から高校3年までと、ぴったり重なっている 連載は昭和58年から昭和62年まで。私が甲子園を目指して白球を追いかけていた、まさに中学2年から高校3年までの日々と、ぴったり重なっているのです。同世代の少年たちがファミコンに熱中していたあの数年間、私は毎週、明訓高校の戦いを追いかけていました。 最後はどうなるんだろうとか、明訓は負けてしまうのかとか、ワクワクとちょっぴりの心配とで、複雑な気持ちになりましたね。なんせ、それぞれの漫画では応援していた主人公たちとの対戦なんですからね。 二つの7月15日のあいだで こうして振り返ってみると、昭和58年7月15日という日は、私にとって象徴的な分かれ道だったのかもしれません。 同世代の少年たちの多くは、あの日に生まれたファミコンに夢中になっていきました。私はといえば、14年前の同じ日に生まれた雑誌のほうと付き合い続けた。画面の中で野球をするより、紙の上の山田太郎に胸を熱くして、そして本物のグラウンドで白球を追いかけるほうを選んだのです。 どちらが正しいという話ではありません。ファミコンに熱中した友人たちの目の輝きも、よく覚えています。ただ、あの頃の私には、ゲーム機に払う14,800円より大切なものが、すでに手の中にあったということなのだと思います。 週刊誌一冊と、使い込んだグローブ。中学2年の私の宝物は、それで十分でした。 そして、ひとつ付け加えておきたいことがあります。私の長男も次男も、『ドカベン』と『大甲子園』が愛読書となっていました。私と同じ年に生まれたあの雑誌が生んだ物語は、時代を超えて、息子たちの本棚にもちゃんと居場所を作っていたのです。父から子へ。これもまた、7月15日が私にくれた縁のひとつなのだと思います。 あなたは、ファミコン派でしたか? それとも……。あの夏、あなたの手の中にあったものを、よかったら聞かせてください。 『ドカベン』も『大甲子園』も、今は新品でそろえやすい形で残っています。山田太郎との出会い直しには文庫版の第1巻を。明訓の最後の夏をもう一度見届けたい方には『大甲子園』を。私と同い年のあの雑誌が生んだ物語は、令和の本棚でもちゃんと生きています。 ドカベン (1)(秋田文庫)水島新司/秋田書店。すべてはここから始まる、柔道編の山田太郎。私にとっては丸ごと野球の参考書だった一作 Amazonで見る › 大甲子園 (1)(少年チャンピオン・コミックス)水島新司/秋田書店。明訓・山田太郎と水島野球漫画のオールスターが激突。中2から高3の私が毎週追いかけた物語 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月11日──私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと

7月11日。今のカレンダーでは「セブン-イレブンの日」なのだそうです。数字の並びそのままで、なんとも分かりやすい記念日です。 でも、昭和44年生まれの私にとって、この日付にはもっと大事な「誕生日」があります。 昭和43年(1968年)7月11日、『少年ジャンプ』創刊。私が生まれる、わずか9か月ほど前のことです。 昭和43年といえば、3億円事件が起き、川端康成さんがノーベル文学賞を受賞し、メキシコ五輪に日本中が沸いた年です。そんな騒がしい一年の、夏の入り口。のちに日本一となる漫画雑誌は、世間にほとんど気づかれることもなく、ひっそりと生まれました。 のちに「黄金期」と呼ばれる時代のジャンプを、教室で、部活の行き帰りで、夢中になって読むことになる人間としては、この雑誌が自分よりほんの少しだけ先輩だという事実に、妙な親近感を覚えるのです。 最後発の、持たざる挑戦者 意外に思われるかもしれませんが、ジャンプは少年週刊誌の世界では完全な「後発組」でした。 『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』の創刊は昭和34年(1959年)。ジャンプが生まれた昭和43年には、両誌はすでに9年の歴史を持ち、少年たちの心をがっちりつかんでいる王者でした。マガジンには「巨人の星」と「あしたのジョー」が並び、まさに絶頂期。手塚治虫をはじめとする人気作家たちは先行誌との結びつきが強く、後発の集英社が有名作家の看板に頼ることはできません。 そこで編集部が選んだ道が、「新人主義」でした。 名のある作家を呼べないのなら、無名の新人を自分たちの手で見つけて、自分たちの手で育てる。せっかく育てた才能を他誌に取られないよう、作家とは専属契約を結ぶ。そして、どの作品を続けてどの作品を終わらせるかは、編集者の思い入れではなく、毎週の読者アンケートの結果で決める。 人気が出なければ、容赦なく打ち切り。新人にとっては恐ろしく厳しい仕組みですが、裏を返せば、実績のない新人にも看板作家とまったく同じ土俵が用意されているということです。誌面の中で「友情・努力・勝利」を描く雑誌が、誌面の外でも実力勝負を貫いていたわけで、持たざる者の雑誌らしい、実に思い切ったルールでした。 このアンケート至上主義は、その後も一貫してジャンプの背骨であり続けます。毎週ハガキで届く読者の声が、次の号の運命を決める。子どもだった私たちが何気なく書いて出したアンケートが、実は日本一の漫画雑誌の編集会議に直結していたのだと思うと、なかなか痛快な話です。 創刊時の発行部数は10万5000部。当時のマガジンやサンデーには遠く及ばない数字です。しかも最初は週刊ですらなく、第2・第4木曜日に発売される月2回刊でした。創刊号に並んだのは、永井豪さんの「ハレンチ学園」、梅本さちおさんの「くじら大吾」など、8本の連載。この年のうちには本宮ひろ志さんの「男一匹ガキ大将」も始まります。のちの大出世を、このときはまだ誰も知りません。 そしてもうひとつ。創刊に先立って編集部が行った読者調査で、少年たちの心に最も響く言葉として挙がったのが、「友情」「努力」「勝利」だったといいます。あの有名な三大原則は、偉い編集者が机の上で考えた理念ではなく、当時の少年たち自身の声から生まれたものだったのです。 「週刊」ジャンプは、私と同い年 創刊の翌年、昭和44年(1969年)10月、ジャンプは週刊化され、誌名も『週刊少年ジャンプ』に変わりました。 昭和44年。つまり「週刊少年ジャンプ」は、私と同い年ということになります。 同じ年に生まれて、同じ時代の空気を吸って育った。そう考えると、のちに私があれほどジャンプに夢中になったのも、当然のことだったのかもしれません。 週刊化されたジャンプは、そこから一気に駆け上がっていきます。「男一匹ガキ大将」や「ハレンチ学園」が爆発的な人気を呼び、創刊からわずか3年ほどで発行部数は100万部を突破したといいます。特に「ハレンチ学園」は、テレビドラマ化までされる社会現象になった一方で、PTAや教育関係者からは猛烈な批判を浴びました。「子どもに読ませたくない」と大人が眉をひそめる雑誌ほど、子どもは読みたくなるものです。いつの時代も、この法則だけは変わりません。 そして昭和50年代に入ると、ジャンプの誌面には私たちの世代の「顔」が次々に現れます。昭和51年(1976年)には「こちら葛飾区亀有公園前派出所」、スーパーカーブームの火付け役「サーキットの狼」もこのころ。私が小遣いを握りしめて駄菓子屋に通っていたあの時代、ジャンプは着々と、私たちを迎え撃つ準備を整えていたのでした。 教室のジャンプ、私のジャンプ 私のジャンプ時代は、小学校の終わりから高校にかけての昭和56年〜60年(1981〜85年)ごろです。 いま思い出しても、ため息が出るような顔ぶれです。「キン肉マン」「Dr.スランプ」「キャプテン翼」「キャッツ♡アイ」、昭和58年からは「北斗の拳」。テレビをつければアラレちゃんが「んちゃ!」と挨拶し、駄菓子屋の店先のガチャガチャからは、キン消し――キン肉マン消しゴムが出てくる。ジャンプの漫画が誌面を飛び出して、テレビにも、おもちゃ屋にも、文房具にもあふれていた時代でした。 そして忘れてはいけない、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。 こち亀は、私の中では不動の「サブ」でした。お目当ての看板作品ではない。でも、毎週必ず読む。読まないと一週間が締まらない。同じ葛飾区の話ということもあって、両さんの騒がしさには、どこか近所の匂いがありました。ちなみにこち亀の連載開始は創刊から8年後の昭和51年。そこから平成28年(2016年)に200巻で幕を下ろすまで、40年間一度も休載しなかったというのですから、両さんはやはり只者ではありません。 私のジャンプの買い方は、少し特別でした。 近所の駄菓子屋が雑誌も売っていて、毎週必ず買う私の分を、ちゃんと取っておいてくれていたのです。それだけではありません。本当はダメだったと思うのですが、発売日の前日の夕方に、こっそりそれを買わせてもらっていました。「誰にも言っちゃだめだよ」と口止めされて(笑)。 今の言葉でいえば「フラゲ」というやつです。日本中の誰よりも先に新しい号を開いているような気分は、子どもにとって、ちょっとした宝物でした。 読む順番は、お目当ての漫画を真っ先に読む派でした。北斗の拳、キャプテン翼、よろしくメカドック、キン肉マン。楽しみを最後に取っておくなんて器用なことは、とてもできなかったのです。 ちょうど私が中学生だった昭和59年(1984年)ごろ、ジャンプの発行部数は400万部を突破しています。10万5000部で生まれた雑誌が、16年で約40倍。発売日の教室のあちこちにジャンプが載っていたあの光景を思えば、この数字には実感しかありません。 考えてみれば、この黄金期を支えた作家たちの多くが、例の「新人主義」で発掘された人たちでした。「Dr.スランプ」の鳥山明さんも、投稿から見いだされた新人のひとりです。創刊のときに蒔かれた種が、十数年の歳月を経て、ちょうど私たちの世代の目の前で一斉に花開いた。そう考えると、なんとも幸運な巡り合わせだったと思います。 そういえば当時の私は野球部で、「友情・努力・勝利」は誌面の中だけでなく、グラウンドの上の言葉でもありました。キャプテン翼は確かに大人気でした。それでも、私のまわりではまだまだ野球が主流派で、サッカー一筋という友達はいませんでした。そもそも、わが中学校にはサッカー部がなかったのです。翼くんがどれだけ「ボールは友達」と言っても、放課後の私たちが追いかけていたのは白球のほうでした。 653万部の頂点と、その先 ジャンプの部数はその後も伸び続け、平成7年(1995年)の新年合併号では653万部という、雑誌の歴史でも空前の記録を打ち立てます。ただ、それはもう平成の話。私のジャンプはやはり、昭和50年代の、あの少しざらついた紙の手触りとともにあります。 653万部という数字を、少し考えてみてください。当時の日本の人口はおよそ1億2500万人。単純計算で、国民の20人にひとりが同じ週に同じ雑誌を手にしていたことになります。ひとつの物語を、日本中の少年(と、元少年)が同じ週に読んで、月曜日の教室や職場で語り合う。そんな時代が、確かにあったのです。 令和の今、紙のジャンプの部数はピーク時の6分の1ほどになったと聞きます。子どもたちの世代は、漫画をスマホのアプリで読みます。「少年ジャンプ+」で新作を追いかけ、単行本は電子書籍で買う。教室の机にどさっと雑誌を置いて回し読みする、あの光景はもうないのでしょう。 でも、と思うのです。 「ONE PIECE」も「鬼滅の刃」も、たどっていけば同じ一冊の雑誌です。余談ですが、あの「ONE PIECE」でさえ、連載が決まるまでに編集部の会議で3度落とされたといいます。世界的な作品になる卵であっても、例外なく同じ土俵で勝負させる。創刊のときに決めた「新人と実力勝負」の仕組みを、半世紀たっても曲げていないのだとすれば、それはそれで大した頑固さです。 読者の声に耳を澄まし、無名の新人を発掘し、友情と努力と勝利を描く。昭和43年7月11日に10万5000部で産声を上げた仕組みが、形を変えながら、58年後の今も動き続けている。そう考えると、ちょっと胸が熱くなりませんか。 私より9か月だけ早く生まれた「先輩」は、まだまだ現役のようです。 あなたは何派でしたか。ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン。毎週、発売日が待ち遠しかった漫画は何でしたか? 私にとってのジャンプは、看板作品と並んで、いつも「こち亀」がありました。同じ葛飾区の話で、両さんの騒がしさには近所の匂いがあった。40年・全200巻、一度も休載しなかった伝説の第1巻を開くと、昭和の下町の空気がそのまま立ちのぼってきます。孫と一緒に「じいちゃんの町の漫画だぞ」と読むのも、また一興です。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(集英社文庫コミック版)秋本治/集英社。すべてはここから始まった、両さん最初の一冊。昭和の葛飾がまるごと詰まっている Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた | 次の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える ▶ ...

July 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月9日──蒸気が消えた年に、蒸気を走らせた鉄道があった

今日は、正直に告白するところから始めたいと思います。 1976年(昭和51年)7月9日、静岡県の大井川鉄道が、日本で初めて蒸気機関車の動態保存運転を開始しました。今回この日のことを調べるまで、私はこの出来事をまったく知りませんでした。記憶がないどころか、知識としても持っていなかったのです。 当時、私は小学1年生。京成高砂駅のすぐ近く、線路沿いの家で育った私は、毎日のように電車を眺めて暮らす鉄道少年でした。それなのに、この歴史的な出来事を知らずに57歳まで来てしまった。だから今日の記事は、いつもと少し違います。読者のみなさんと一緒に、私自身が初めて知る物語です。 昭和50年12月14日、蒸気が消えた まず、大井川鉄道の話の前に、その半年前まで時計を戻す必要があります。 1975年(昭和50年)12月14日、北海道の室蘭本線で、国鉄最後のSL定期旅客列車が走りました。室蘭発岩見沢行きの225列車。牽引したのはC57形135号機で、「さよならSL」と書かれた特製のヘッドマークが掲げられていたそうです。 この日の室蘭駅には、前日の夜から徹夜で並んだ人たちがいて、改札が始まった朝7時半には約2000人が乗車券を買い求めたといいます。ふだんは客車5両の列車がこの日は8両に増結され、満員の乗客を乗せて、定刻より1時間14分も遅れて終点の岩見沢に着きました。遅れの理由は、沿線に詰めかけた人の波だったのでしょう。1872年の新橋〜横浜間開業から103年。日本の鉄道を支え続けた蒸気機関車が、日常の風景から姿を消した瞬間でした。 構内の入換用として最後まで働いていたSLも、翌1976年3月、北海道の追分機関区で火を落とします。これで国鉄から、動くSLは一両もいなくなりました。 背景にあったのは、国鉄の「動力近代化計画」です。電化とディーゼル化を進め、燃費が悪く煙で乗客や沿線を悩ませるSLを全廃するという方針でした。高度経済成長のなか、速く大量に運ぶことが鉄道に求められた時代です。合理化としては当然の流れでした。 ただ、皮肉なことに、SLは消えると決まった瞬間から、かつてないほど愛され始めます。消えゆくSLを追いかけて全国の路線に人々が押し寄せた「SLブーム」は、ちょうど昭和40年から50年までの10年間。鉄道ファンだけでなく、老若男女が有名撮影地に集まり、最後の雄姿をフィルムに焼きつけようとしました。1972年(昭和47年)の鉄道開業100年には、京都に梅小路蒸気機関車館(現在の京都鉄道博物館)が開館し、SLを産業文化財として保存する動きも始まっています。当時の時刻表には「今やSLは、走る交通機関から、見る交通機関に変わった」という趣旨のことばが載ったそうです。 人は、なくなるとわかったときに初めて、そのものの価値に気づくのかもしれません。 その半年後、静岡の茶畑を蒸気が走った そして1976年7月9日。国鉄からSLが完全に消えて、わずか4か月後のことです。 静岡県の大井川鉄道が、大井川本線の金谷〜千頭間、約40キロでSL急行「かわね路号」の運転を始めました。日本で初めての、本線上でのSLの動態保存運転です。「動態保存」とは、博物館に静かに展示するのではなく、動く状態のまま保存すること。つまり、火を入れ、蒸気を上げ、客を乗せて走らせ続けるということです。 牽引したのはC11形227号機。1942年(昭和17年)9月製造のタンク式機関車で、戦時設計に切り替わる直前に造られた、造りの良い一両だそうです。時速85キロで走れる優れた性能を持ちながら、動力近代化の波のなかで職を失い、前年の1975年11月に北海道の標津線から大井川鉄道へやってきました。国鉄最後のSLたちが働いた北海道から、一両の機関車が静岡へ渡り、そこで再び命を吹き込まれた——調べていて、この事実に胸が熱くなりました。 もうひとつ知って驚いたのは、当時の大井川鉄道が、決して余裕のある会社ではなかったことです。昭和40年代から50年代にかけて、沿線の過疎化と人口流出で利用者は減り続け、事業の柱だった貨物輸送も落ち込み、たび重なる災害復旧に資金を注ぎ込まなければならない。経営の先行きが見通せない時期だったといいます。 そのどん底で選んだのが、「消えゆくものにこそ価値がある」という道でした。全国が捨てたものを、あえて拾い上げて走らせ、沿線の外からお客さんを呼び込む。世の中が新しさへ一直線に走っていた昭和51年に、これは相当に思い切った、常識はずれの決断だったはずです。しかし運行開始と同時に全国から乗車の申し込みが殺到し、やがて「SLといえば大井川」と呼ばれるまでになりました。捨て身の賭けは、見事に当たったのです。 跨線橋の上の私は、知らなかった さて、そのころの私です。 小学1年生の私は、京成高砂駅のそばの跨線橋の上から、飽きもせず電車を眺めていました。高砂の検車区に並ぶ車両たち、踏切を駆け抜けていくスカイライナー。私の世界は、電車でできていました。 でも、そこに蒸気機関車はいませんでした。東京の下町で生まれ育った私にとって、SLは最初から「絵本と図鑑の中のもの」だったのです。デゴイチという言葉は知っていても、それが目の前を走る姿は見たことがない。大人たちが夢中になったSLブームも、終わってから知った話です。 考えてみれば、私たちの世代は不思議な世代です。本物の蒸気機関車が走る姿を知らないのに、あのシルエットだけは、なぜか目に焼きついている。1978年(昭和53年)にテレビ放送が始まった『銀河鉄道999』のおかげでしょう。小学3年生だった私は、毎週欠かさず観ていました。『宇宙戦艦ヤマト』にも夢中でしたから、私の宇宙は、戦艦と機関車でできていたことになります。それにしても、宇宙を旅する列車が、最新型の宇宙船ではなく、あえて蒸気機関車の姿をしていたというのは、今思えば示唆的です。乗ったこともないSLの汽笛に、郷愁のようなものを感じていた——あれは、SLブームを駆け抜けた大人たちの想いが、アニメというかたちで子どもの世代に手渡された瞬間だったのかもしれません。 同じ1976年、葛飾では『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の連載が始まっています。宅急便が生まれたのもこの年です。私の身の回りの昭和51年は、新しいものが次々と生まれる年でした。その同じ年に、遠い静岡で「古いものを守り抜く」決断がされていたことを、跨線橋の上の少年は知る由もありませんでした。 半世紀、走り続けている 驚くべきことに、あのC11形227号機は、今も大井川鐵道の現役機関車です。 大井川鉄道が始めた動態保存は、その後、全国に広がりました。今、各地で週末や夏休みに走っているSLの観光列車は、すべてこの1976年7月9日が原点だと言っていい。そして大井川鐵道自身は、きかんしゃトーマス号の運行でお子さんたちにも愛される鉄道になり、2025年に創立100周年を迎えました。 面白いのは、この鉄道が守っているのはSLだけではないことです。ふだんの普通列車として走っているのも、南海電鉄や東急電鉄などから譲り受けた古い電車たち。よその鉄道で役目を終えた車両が、大井川のほとりで第二、第三の人生を送っているのです。駅舎も昭和のまま残されていて、戦前戦中を舞台にしたドラマや映画のロケ地にもなっているそうです。鉄道会社まるごとが、動く昭和なのですね。 55歳の夏、デゴイチの前に立った じつは私が初めて本物のデゴイチの前に立ったのは、つい一昨年、55歳の夏のことです。 2024年8月、次男の中学野球の全国大会で福井県を訪れました。宿泊したのは今庄の宿。その敷地に、黒く堂々とした蒸気機関車が展示されていたのです。D51形481号機。1940年(昭和15年)製造、主に中国地方で活躍した機関車だそうです。今庄はかつて北陸本線最大の難所「杉津越え」を控えた鉄道の町で、急勾配に挑む列車を後押しする補機のSLたちが活躍した土地。その歴史を伝えるために、このデゴイチが誘致され、保存されているのだと知りました。 図鑑の中でしか知らなかったデゴイチが、目の前にいる。動輪は私の背丈に届きそうなほど大きく、真正面から見上げると、黒い鉄のかたまりがこちらを見下ろしてくるようでした。息子の野球のために来た町で、まさか半世紀越しの対面を果たすとは。野球と鉄道——私の人生の二本柱が、思いがけない場所で交差した夏でした。 私は今、路線バスの運転士として働いています。だからでしょうか、機械を「動く状態で保ち続ける」ことの重みが、少しだけわかる気がするのです。80年以上前に造られた機関車を今日も走らせるためには、部品ひとつひとつを手の感触で調整し、経験と勘を次の世代に口伝えで引き継いでいくしかない。今庄のデゴイチのように静かに余生を送る機関車も尊いけれど、展示するより、走らせ続けるほうが、何倍も難しいのです。 半世紀前、小さな私が跨線橋から電車を見上げていたあの日も、静岡の茶畑の中を蒸気機関車が走っていた。そのことを57歳になって初めて知り、いつか金谷駅から「かわね路号」に乗ってみたいという、新しい夢がひとつ増えました。知らなかったことを知るのは、いくつになっても嬉しいものですね。 みなさんは、蒸気機関車に乗ったことがありますか。あの汽笛を、聞いたことがありますか。 黒く輝く動輪、白い蒸気、力強い汽笛——。デゴイチをはじめ、日本を走った蒸気機関車たちの雄姿を、豊富な写真で味わえる一冊です。あの頃SLブームを追いかけた方にも、『銀河鉄道999』で汽笛に憧れた世代にも、そしてお孫さんへの一冊にも。ページをめくれば、乗ったことのない汽車の郷愁が、また胸に立ちのぼります。 蒸気機関車大図鑑 SLのすべてがわかる金盛正樹ほか。デゴイチから大井川のかわね路号まで、写真で楽しむSLの世界 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月8日】たばこの箱に、小さな一文が生まれた日 | 次の記事:【7月10日】怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた ▶

July 9, 2026

6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった

六月二十二日。梅雨空の下、紫陽花が雨を含んで重たそうに揺れています。一年でいちばん日が長いころ。けれど私がこの日に思い出すのは、季節の風景よりも、自分の育った町の名前です。 昭和五十一年(一九七六年)のこの日、一冊の少年漫画雑誌に、ある読み切り漫画が載りました。タイトルは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。──そう、私の生まれ育った葛飾区が、まるごと題名になった漫画です。 もっとも、この読み切りが世に出たとき、私はまだ七歳。小学一年生になったばかりで、正直に言えば、この漫画をリアルタイムで読んではいませんでした。私と両さんが本当に出会うのは、もう少しあと――私が『週刊少年ジャンプ』を、毎週夢中でめくるようになってからの話です。 葛飾の派出所から、世界一の漫画が始まった 昭和五十一年六月二十二日に発売された『週刊少年ジャンプ』二十九号。そこに、「山止たつひこ」という名前の新人が描いた読み切り漫画が掲載されました。その年の四月期、月例の「ヤングジャンプ賞」に入選した一作です。これが、のちに四十年も続く国民的漫画『こち亀』の、世に出た最初の一歩でした。 作者は、当時二十三歳の秋本治さん。実は、ペンネームの「山止たつひこ」は、当時『がきデカ』で大人気だった漫画家・山上たつひこさんの名前をもじったものでした。「長い題名と、ちょっと変わった名前にすれば、審査員の目に留まるだろう」。そんな新人らしい工夫だったといいます(のちに山上さんご本人から「紛らわしい」と苦情が来て、連載百回目を区切りに本名へと改めることになります)。 そして秋本さんご自身が、東京都葛飾区の亀有で生まれ育った人でした。だからこの漫画の舞台は、絵空事ではありません。主人公の破天荒な巡査・両津勘吉――通称「両さん」が駆け回る亀有公園前の派出所は、作者が実際に過ごした下町そのものだったのです。読み切りの段階で、すでに両さんの相棒・中川圭一も顔を出していました。 読み切りの評判は上々で、同じ年の九月二十一日発売の四十二号から、いよいよ本格的な連載が始まります。当初は劇画に近いリアルな絵柄で、拳銃をぶっ放す両さんと中川の暴走ぶりが描かれ、いま読むと驚くほど過激です。けれど、その荒っぽさの底にいつも下町の人情があったことが、この漫画が長く愛された理由なのだと思います。秋本さんは「短期で終わるとばかり思っていた」とのちに語っていますが、両さんは誰の予想もはるかに超えて走り続けることになります。 その「世に出た最初の一歩」は、いまも一巻として手に取ることができます。リアルな絵柄の、過激で若々しい両さん。四十年の長い旅の出発点を、ぜひ一度のぞいてみてください。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックス)秋本治/集英社。すべてはこの一巻から始まった Amazonで見る › 私がジャンプを開いたのは、黄金時代だった 私が『週刊少年ジャンプ』を毎週読むようになったのは、昭和五十六年から六十年(一九八一〜一九八五年)ごろ。中学から高校へと向かう、いちばん多感な時期でした。そしてそれは、ジャンプがまさに「黄金時代」へと駆け上がっていく時期と、そっくり重なっていたのです。 思い出してみてください。表紙は『キン肉マン』か『北斗の拳』、巻頭カラーは『キャプテン翼』、ギャグのページには『Dr.スランプ』や『奇面組』、そして『キャッツ♥アイ』。そんな号が、ちっとも珍しくなかった。「ウォーズマン対ラーメンマン」も、「翼くんの全国大会」も、「アラレちゃんブーム」も、ケンシロウの「お前はもう死んでいる」も、ぜんぶリアルタイムで浴びるように読んでいました。いま思えば、なんと贅沢な少年時代だったでしょう。 正直に白状すると、私のジャンプの楽しみ方には、はっきりとした主役がいました。熱血バトルの『キン肉マン』、ハードな格闘の『北斗の拳』、スポーツものの『キャプテン翼』、そして笑いの『Dr.スランプ』。この四本が、私の「メイン」でした。 では『こち亀』はどうだったか。──正直なところ、私にとってこち亀は、一番のお目当てではありませんでした。けれど、こう言えます。「こち亀は、毎週必ず読む」。派手な主役たちの陰で、両さんのページだけは、どんなに忙しい号でも、必ず開いていたのです。爆発もしない、必殺技も出ない。ただ下町の派出所で、両さんがいつものように騒いでいる。その「いつもどおり」が、なぜか妙に落ち着くのでした。 そしてあの長いタイトルを目にするたび、心のどこかで思っていました。「これ、うちの葛飾の話なんだよな」と。 寅さんと両さんと、葛飾という町 ここで少し、私自身の地元の話をさせてください。 葛飾区には、もう一人、全国に知られた看板役者がいます。映画『男はつらいよ』の車寅次郎――「寅さん」です。寅さんの故郷・柴又は、私の暮らした京成高砂のすぐ隣。金町線でひと駅、帝釈天の参道はもう目と鼻の先でした。 実は秋本さんも、あの長いタイトルをつけた理由を、こんなふうに語っています。「『男はつらいよ』のおかげで、葛飾区は全国に知られていた。亀有は知らなくても、葛飾区はみんな知っているだろうと思った」と。つまり『こち亀』のあの長い題名は、先輩格の寅さんへの目配せでもあったわけです。 柴又の寅さん、亀有の両さん。下町の人情と、破天荒な可笑しさ。葛飾という小さな区が、二人もの国民的キャラクターを生んだ町だということを、私はいまでも少し誇らしく思っています。事実、平成二十四年(二〇一二年)、秋本さんは葛飾区の名誉区民となりました。そして同じ日に並んで表彰されたのが、ほかでもない『男はつらいよ』の山田洋次監督。寅さんと両さんが、肩を並べて顕彰されたのです。 四十年、一度も休まなかった 『こち亀』のすごさは、その「続いた長さ」にもあります。 昭和五十一年に始まった連載は、平成二十八年(二〇一六年)まで、実に四十年間。その間、『週刊少年ジャンプ』で一度も休載しませんでした。毎週毎週、両さんは派出所で騒ぎを起こし続けたのです。最終回は平成二十八年九月十七日発売号。単行本は、ちょうど二百巻できれいに完結しました。 この二百巻という数字は、「もっとも発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されました(令和のいまは『ゴルゴ13』に記録を譲りましたが、その後の二〇二一年に、新たに二百一巻が刊行されています)。累計の発行部数は、一億五千万部を超えるといいます。 漫画だけではありません。連載開始のわずか翌年、昭和五十二年には早くも実写映画になり、平成八年(一九九六年)から平成十六年(二〇〇四年)まではフジテレビでテレビアニメが放送されました。日曜の朝、ラサール石井さんの声で「両さん」が動き回るのを覚えている方も多いでしょう。葛飾の派出所から始まった物語は、紙の上を飛び出して、お茶の間にもしっかり住み着いていたのです。 ここで、ふと思うのです。少年時代の私が夢中になった「メイン」――キン肉マンも、北斗の拳も、キャプテン翼も、Dr.スランプも、それぞれの名場面を残して、いつしか連載を終えていきました。ところが、私が「サブ」だと思って、けれど毎週必ず読んでいた両さんだけは、平成の終わりまで走り続けた。いちばん派手だった主役たちより、いちばん「いつもどおり」だった脇役のほうが、ずっと長く生き残ったのです。あのころ、私はそんな未来を、まったく想像していませんでした。 私が小学一年生だった年に始まった漫画が、私が四十七歳になるまで、ずっと同じ雑誌で続いていた。あらためて考えると、これはとんでもないことです。両さんは、昭和と平成を、まるごと走り抜けていったのでした。 令和のいま、亀有の駅前で いま、亀有の駅前に立つと、あちこちに両さんの銅像が立っています。元気よく右手を挙げた両さん、ベンチに腰かけた両さん……全国からファンが訪ねてくる、すっかり「聖地」になりました。漫画の中の派出所が、現実の町の誇りになったのです。 その銅像を見るたびに、私は不思議な気持ちになります。 子どものころ、毎週少年ジャンプを開けば、当たり前のようにそこにいた両さん。テレビをつければ、アニメでも活躍していました。その両さんが、いま自分の目の前に、銅像となって立っている。もちろん漫画の主人公なのですが、亀有ではまるで、本当にこの町で暮らしていた人のような存在です。 私は葛飾という町に縁があります。だからこそ、全国の人が「亀有」と聞いて真っ先に思い浮かべるのが『こち亀』であり、両さんであることが、少し誇らしいのです。 考えてみれば、漫画やドラマの舞台になる町は数多くあります。けれど、何十年も連載が続き、世代を超えて親しまれ、その主人公の銅像が町のシンボルになっている例は、そう多くありません。 両さんの銅像の前に立つと、昭和のころの記憶もよみがえります。商店街のにぎわい。駄菓子屋。自転車で走り回る子どもたち。ジャンプを買って、夢中で読んだ放課後。そんな時代の空気が、両さんの後ろに見えるような気がするのです。 地元が漫画やドラマで取り上げられるというのは、ただ有名になるということではないのだと思います。その作品を通じて、その町で暮らした人々の思い出や風景が、多くの人の記憶の中に残るということ。 亀有と聞けば、両さんを思い出す人がいる。柴又と聞けば、寅さんを思い出す人がいる。それは葛飾という町が、日本中の人々の心の中に生き続けている、ということでもあります。 両さんの銅像を見上げながら、私はそんなことを考えます。少年時代に読んだ漫画の主人公が、いまも変わらず地元の駅前で笑っている。それは何とも言えない懐かしさと、少しの誇らしさを感じさせてくれる風景なのです。 おわりに あなたの町にも、漫画やドラマ、歌の舞台になった場所はありますか。そして、その作品と初めて出会ったときのことを、覚えているでしょうか。 両さんのように、何十年も変わらずそこにいてくれる「町の顔」は、私たちの記憶のいちばん柔らかいところに、そっと住み着いているのかもしれません。 ※この「昭和の今日は何があった日?」シリーズは、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、その時代に子ども時代を過ごした私の目線でつづっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった | 次の記事:6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった ▶

June 22, 2026