9月28日 ── 私の16年と、「全員集合」の16年|昭和の今日は何があった日?

今日は9月28日です。 昭和60年(1985年)のこの日、土曜日の夜8時。TBSの『8時だョ!全員集合』が最終回を迎えました。16年、全803回。日本中の土曜の夜を占領してきた番組の、最後の放送でした。 この番組には、私にとって少し特別な数字がついています。 番組が始まったのは、昭和44年(1969年)10月4日。私が生まれたのは、同じ昭和44年の4月です。つまり全員集合は、私が生後半年のときに始まったことになります。 そして最終回の日、私は16歳の高校1年生でした。 私の人生の最初の16年は、そっくりそのまま、この番組の16年と重なっているのです。 「8時になったら、みんな集まる」 番組名の由来には、こんな話が残っています。 企画の説明会議の席で、スポンサーだったライオン油脂の広告部長が、8時になったらテレビの前にみんなが集まるような番組を作ってほしい、と注文をつけました。それを聞いたプロデューサーの居作昌果さんが、その場で思いついたのが『8時だョ!全員集合』というタイトルだったそうです。 第1回は三鷹市公会堂からの公開録画で、初回の視聴率は12.9%。その後は各地の公会堂や市民会館を回りながら、観客を前にした生放送で、練りに練ったコントを演じ続けます。渋谷公会堂だけで136回、文京公会堂で78回。舞台がぐるりと回る「回り舞台」や、最後にセットが崩れ落ちる大仕掛けは、生放送だからこその迫力でした。 絶頂期は昭和48年です。年間の平均視聴率は43.7%、4月7日の放送では番組最高の50.5%を記録しました。加藤茶さんの「ちょっとだけヨ」が子どもたちの間で大流行したのも、この頃です。その一方で、番組は「子どもに見せたくない番組」の常連でもありました。 昭和48年といえば、私はまだ4歳です。 それでも、加藤さんの「ちょっとだけヨ」を見た記憶は残っています。4歳から5歳くらいの頃でしょうか。高砂の線路沿いの家だったのか、中川の土手のそばの家だったのか、そこははっきりしません。 土曜の夜8時は、父がまだ仕事から帰ってきていない時間でした。テレビの前にいたのは、母と妹と私の3人です。母も一緒になって笑っていました。 世の中では「子どもに見せたくない」と言われていた番組を、我が家では母と子どもが並んで笑って見ていたわけです。8時になったら、テレビの前にみんなが集まる。スポンサーの注文から生まれた番組名そのままの光景が、我が家の土曜の夜にもありました。 私が小学生だった6年間は、ちょうど志村けんさんが人気者になっていく時期と重なります。志村さんが「東村山音頭」を初めて披露したのは昭和51年の3月、私が小学校に上がる直前の春でした。昭和54年には加藤さんとの「ヒゲダンス」が生まれ、昭和55年には「カラスの勝手でしょ」が子どもたちの間で大流行します。 東村山音頭も、ヒゲダンスも、「カラスの勝手でしょ」も、いまでも鮮明に覚えています。土曜の夜に見たギャグは、翌週の学校で必ずまねをしていました。クラスで「お楽しみ会」を開くと、出し物には必ずドリフのギャグが入っていたものです。私もひげを付けて、「ヒゲダンス」をやった覚えがあります。 ドリフの付き人から『全員集合』の人気者になっていった志村けんさんが、自分のお笑いと人生について書いた本です。東村山音頭が生まれた頃の話も出てきます。 変なおじさん【完全版】(新潮文庫・Kindle版)志村けん/新潮社。ドリフの付き人時代から『全員集合』『加トケン』『だいじょうぶだぁ』『バカ殿様』まで、お笑いにこだわり続けた人生を本人が語る。星4.5(319件) Amazonで見る › 小学6年生で、卒業した 5月16日の回で書いたとおり、私は小学6年生の頃、全員集合を「卒業」しました。漫才ブームに乗って、裏番組の『オレたちひょうきん族』を見るようになったのです。家にはテレビが何台かあって、チャンネル争いもなかったように思います。 同じように卒業していった子どもは、全国にたくさんいたのでしょう。 中学生になると、土曜の夜8時に全員集合を見ることは、もうありませんでした。いま思えば、そもそもテレビ自体をあまり見ていなかったのかもしれません。 昭和57年10月9日、全員集合は初めて視聴率でひょうきん族に敗れます。私が中学1年生の秋です。昭和59年には、年間の平均視聴率でも18.2%と、ひょうきん族の19.5%に抜かれました。 その昭和59年の6月16日には、こんな出来事もありました。埼玉の入間市民会館からの生放送が始まる直前、会場の照明が突然すべて消えたのです。放送の機材は外の電源車につながっていたため、放送そのものは止まりませんでした。真っ暗な舞台で懐中電灯を頼りにゲストを紹介し、いかりやさんは「8時9分半だョ!」と掛け声をかけ直したといいます。この夜の視聴率は、いつもより10%ほど高い26.2%でした。 私はこの停電の回を見た記憶はありません。ただ、話題として聞いた覚えはあります。見なくなった番組の出来事が、それでもどこからか耳に入ってくる。全員集合は、まだそういう番組でした。 この停電騒ぎは、のちにスタジオ中心の放送へ切り替わるきっかけのひとつになったともいわれます。秋からは各地の公会堂を回るのをやめ、TBSのスタジオからの放送が中心になりました。私は中学3年生でした。 そして昭和60年7月19日、TBSは9月いっぱいでの番組終了を正式に発表しました。公開の生放送を続けることには限界があり、ナンセンスギャグもやり尽くした。それが理由として挙げられていました。 私が高校1年生の夏です。このニュースを聞いた覚えは、私にはありません。たぶん、気がついたら終わっていた。そんな感じだったのだと思います。 最終回の夜 昭和60年9月28日、土曜日。最終回は、TBSのGスタジオからの生放送でした。 かつてのメンバー、荒井注さんもゲストで顔を見せました。前半は、おなじみの「母ちゃんコント」。後半は番組の名場面集。そしてゲストからドリフの5人に花束が贈られ、いかりや長介さんが、16年間の声援に感謝の言葉を述べました。 最後はいつものように、出演者全員でエンディングの「ビバノン音頭」を歌います。天井からは紙吹雪が舞い、加藤さんが「長い間ありがとう」「元気で!」と呼びかける。観客は総立ちになり、画面には「長い間ありがとうございました」の字幕が流れて、番組は終わりました。 この夜の視聴率は34.0%。 この年の全員集合は、ふだんは15%前後にとどまり、ほとんどの週でひょうきん族の後ろを走っていました。最終回の前の週も15.9%です。それが、最後の夜だけ倍以上に跳ね上がりました。 ふだんは見ていなかった人たち、とうに卒業したはずの人たちが、この夜だけはテレビの前に戻ってきたのだと思います。 ...

September 28, 2026

9月20日 ── 夕やけが終わった日と、「バスの日」が生まれた年|昭和の今日は何があった日?

今日は9月20日。 昭和62年(1987年)のこの日、日曜日の国立代々木競技場第一体育館で、ひとつのグループが解散した。おニャン子クラブである。結成からわずか2年半の幕切れだった。 そして同じ昭和62年、9月20日という日付は「バスの日」に定められた。おニャン子が解散した、その翌月のことである。 終わったものと、生まれたもの。たまたま同じ年に、同じ日付をめぐって起きた二つの話を書いてみたい。 私の高校生活と、ほぼぴったり重なっていた 『夕やけニャンニャン』がフジテレビで始まったのは、昭和60年(1985年)4月1日。平日の月曜から金曜、夕方5時からの1時間番組だった。 この日付を目にしたとき、少し驚いた。昭和60年の4月というのは、私が高校に入学した月そのものだからだ。 番組のコンセプトは「放課後」。出演していたのは、芸能界に染まっていない現役の女子高生たちだった。番組内のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格すれば、翌週にはもうレギュラーとしてテレビに映っている。結成時は11人、解散時には19人が在籍していた。 デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」が出たのが、同じ昭和60年の7月5日。これが大ヒットして、「おニャン子旋風」と呼ばれる社会現象になっていく。 つまりおニャン子クラブの活動期間は、私の高校生活とほぼぴったり重なっている。入学した月に始まり、卒業を控えた秋に終わった。 ところが、である。 私は『夕やけニャンニャン』を、ほとんど見ていない。夕方5時といえば、野球部の練習の真っ最中だったからだ。日本中の中高生がテレビの前に座っていたその時間、私はグラウンドにいた。 もちろん、その存在は知っていた。教室では話題になっていたからだ。番組を見ていなくても、おニャン子クラブというものが世の中を席巻していることだけは、しっかり伝わってきていた。 「会員番号○○番の○○ちゃん」 いま振り返ると、おニャン子クラブは、それまでのアイドルとは仕組みからして違っていた。 松田聖子や中森明菜のような、遠くで輝いているスターではない。隣のクラスにいそうな女子高生が、オーディションに受かった次の週にはブラウン管の中にいる。メンバーには会員番号がつき、卒業という形で出ていく。のちのAKB48まで続いていく「手の届くアイドル」の、いちばん最初がここにあったと言われることが多い。 その「会員番号」という仕組みがいかによくできていたかを、私は野球部の部室で知ることになる。 私自身は、特に好きなメンバーがいたわけではなかった。ところが同級生の部員の中には、「会員番号○○番の○○ちゃんがかわいい」と話している者がいた。番号で呼ぶのである。いま思えば、あれは単なる番号ではなく、追いかけている側の熱量を測る物差しだったのだろう。 番組を見ていない私にも、その会話だけはやけに記憶に残っている。 番組を見ていなかった私でも、頭のひと節を聞けば「ああ、これか」となります。あの頃の教室で鳴っていた音が、一枚にまとまっています。 プラチナムベスト おニャン子クラブ(UHQCD)ポニーキャニオン。「セーラー服を脱がさないで」をはじめ、おニャン子クラブ名義の曲を集めたベスト盤。収録1時間8分。星4.3(25件) Amazonで見る › 抜け殻だった秋 昭和62年の夏は、私にとって特別な夏だった。 7月23日、神宮第二球場。東東京大会。2対3で負けて、私の高校野球は終わった。 その、ちょうどひと月あと。8月31日に『夕やけニャンニャン』が最終回を迎え、番組の終了とともにおニャン子クラブも解散することが決まっていた。そして9月19日と20日、代々木第一体育館でファイナルコンサート。20日が、最後の一日だった。 私の夏が終わり、テレビの中の夏も終わった。けれど正直に書いておくと、当時の私はそのことをまったく知らなかった。 高校野球が終わってしまって、私は抜け殻のようになっていた。あれだけ毎日を埋めていたものが、ある日を境にごっそり無くなる。頭を切り替えて受験に向かわなければならないと分かってはいても、体も心も追いつかない。そんな秋だった。 だから、おニャン子解散のニュースは、私の耳には入ってきていない。日本中がひとつの時代の終わりを見届けていたその日に、私は自分の時代の終わりに呆然としていた。 同じ9月20日を生きていながら、私にはまったく別の景色しか見えていなかったのである。 その翌月、「バスの日」が生まれた さて、ここからは話が大きく変わる。 同じ昭和62年の10月。全国バス事業者大会で、日本バス協会が9月20日を「バスの日」と定めた。テーマは「いつでも、どこでも、みんなのバス」。 なぜ9月20日なのか。由来は昭和でも大正でもなく、明治までさかのぼる。 明治36年(1903年)9月20日、京都で二井商会という会社が、堀川中立売から七条を経て祇園までの区間で乗合自動車の運行を始めた。これが日本初の営業バスとされている。 その車がどんなものだったかというと、蒸気自動車を改造したもので、定員は6人。運転手と助手を除けば、乗せられる客はたった4人である。しかも幌がない。風も雨も砂ぼこりも、そのまま浴びる乗り物だった。乗合馬車屋からの妨害や車両の故障も相次ぎ、この事業は翌明治37年の1月には行き詰まって営業を終えている。 ちなみに同じ明治36年の1月には広島でも乗合自動車が走り出していて、そちらが実質的な日本初ではないかとも言われている。京都の9月20日が記念日に選ばれたのは、営業免許証が交付された日付がはっきり分かっているからだそうだ。 定員4人の、屋根もないバス。そこから始まった商売のハンドルを、私はいま握っている。 車掌さんが消えていった昭和 明治の話はさておき、私たちの記憶にある昭和のバスは、どんな乗り物だっただろうか。 東京のバスには、かつて車掌さんが乗っていた。大正13年に東京市営のバスが始まって間もなく、赤襟の制服を着た女性車掌が乗るようになり、「バスガール」と呼ばれて昭和の初めには花形の職業になった。 その車掌さんが、昭和のうちに消えていく。都営バスがワンマンカーの運行を始めたのが昭和40年2月。全系統のワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことだった。 ...

September 20, 2026

9月19日 ── 錆の下から現れた百十五文字と、昭和が終わりはじめた夜|昭和の今日は何があった日?

九月十九日という日付には、ちょうど十年をへだてて、ふたつの出来事が並んでいる。 ひとつは、千五百年前の歴史が新しく読み直された日。 もうひとつは、自分が生きている時代そのものが、終わりへ向かって動きはじめた日。 九歳の私と、十九歳の私。どちらも、その日付の上に確かに立っていた。 そして先に白状しておくと、私はそのどちらも覚えていない。 昭和五十三年九月十九日 錆の下の百十五文字 埼玉県行田市に、埼玉(さきたま)古墳群と呼ばれる一帯がある。その中の稲荷山古墳という前方後円墳から、昭和四十三年の発掘調査で一本の鉄剣が出土した。長さは七十三センチあまり。ただし全体が分厚い錆に覆われていて、そこに文字があるとは誰も気づかなかった。 そのまま十年が過ぎた。昭和五十三年、保存処理のために鉄剣は奈良へ送られる。錆の進行を止めるための、いわば修理の作業である。その過程でX線撮影が行われ、錆の下に金色の線が走っていることがわかった。金象嵌——鉄の表面に溝を彫り、そこに金を埋め込む技法である。 読み取られた文字は、百十五字あった。しかも、そのすべてが判読できた。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、文字数において群を抜いている。九月十九日、その解読の成功が明らかにされた。 中身がまた尋常ではなかった。ヲワケという人物が、自分の祖先をオホヒコから八代にわたって書き連ね、代々「杖刀人(じょうとうじん)の長」——大王の宮を警護する武官の長であったと記す。そして自分が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた功績を記念して、辛亥の年にこの剣を作らせた、と結んでいる。辛亥の年は西暦四七一年とみられている。 ワカタケル大王は、雄略天皇にあたると考えられている。 そして重要なのはここからで、熊本県の江田船山古墳から出ていた銀象嵌の大刀にも、欠けた文字の並びから同じ大王の名が刻まれていたらしいことになった。九州と、関東。千キロ以上離れた二つの土地の墓に、同じ大王の名を刻んだ刀が眠っていた。 五世紀後半には、すでに大王の力が九州から東国まで届いていた——古代史の姿が、この日を境に書き換わったのである。 九歳の私には、届いていなかった 昭和五十三年の秋、私は小学三年生だった。 この発見を伝えるニュースも新聞も、まったく覚えていない。「百年に一度の発見」と言われたほどの騒ぎだったのに、九歳の私の耳にはひとかけらも残らなかった。 古墳そのものは習った記憶がある。前方後円墳の形とか、仁徳天皇陵の大きさとか、その程度のことは頭に入っている。だがワカタケル大王という名前については、まるで記憶がない。習ったのに忘れたのか、そもそも教わらなかったのか、今となっては確かめようがない。正直に言って、小学校から中学校にかけての私は、歴史に特別な興味を持っていなかった。 ただ、博物館にはよく行っていた。上野の国立博物館には、小さい頃から何度も連れて行かれている。行った記憶はあるのに、そこで何を見たのかはほとんど残っていない。子どもの目には、ガラスケースの中の土器も刀もただの古い物にしか映らなかったのだろう。 面白いもので、その同じ上野へ、今は自分の子どもを連れて行く立場になった。そして子どもの頃とは比べものにならないほど強い興味を持って、展示の一つひとつを見て回っている。説明の札を最後まで読む。順路を戻ってもう一度見る。子どもの方が先に飽きて、早く行こうと袖を引っ張ってくる。 かつて自分が引っ張っていた袖を、今は引っ張られている。 錆の下に千五百年間、誰にも読まれずに眠っていた文字がある日突然読めるようになる。歴史というのは固まったものではなく、あとから書き足されたり書き直されたりするものらしい。そして人間の興味というものも、どうやら何十年か遅れて読み出せるようになるものらしい。 九歳の私が読み逃した百十五文字の話を、発掘から解読まで一冊にまとめた本があります。九十六ページの薄い本なので、子どもと博物館へ出かける前の予習にもちょうどいい大きさです。 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」16)高橋一夫/新泉社。稲荷山古墳の発掘から、X線で浮かび上がった115文字の銘文、ワカタケル大王の時代までをたどる。星4.4(10件) Amazonで見る › 昭和六十三年九月十九日 その夜のこと それから十年。 昭和六十三年九月十九日の深夜、昭和天皇の容態が急変し、大量の吐血があった。 前の年の秋に開腹手術を受けられており、この九月に入ってからは発熱が続いていた。そして十九日の夜、事態は一段深いところへ落ちた。以後、日本中が「ご容態」という言葉とともに冬を迎えることになる。 テレビは定時のニュースのたびに、血圧、脈拍、体温、そして輸血量を読み上げるようになった。数字が報じられ、そのたびに国全体が息を詰めてそれを聞く。 そして「自粛」という言葉が、日本を覆った。 秋祭りが中止になり、運動会が取りやめになった。テレビCMから明るい調子のものが消え、催しが次々と見合わせになった。皇居前には記帳のための長い列ができた。誰が命じたわけでもないのに、日本中がそろって声を落とした。 あの秋を経験した人間にとって、「自粛」は単なる二文字ではない。空気そのものの名前である。 十九歳の一日 ——と、そこまで書いておいて申し訳ないのだが、その空気を私はほとんど覚えていない。 ...

September 19, 2026

色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?

9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...

September 10, 2026

9月8日 ── 毒霧を吹いた日本人と、中間子を予言した日本人|昭和の今日は何があった日?

九月八日には、まるで似ていない二人の日本人が並んでいます。 一人は、顔を白と赤に塗り分け、口から緑色の霧を吹いた男。もう一人は、原子核の中に誰も見たことのない粒子があると言い当て、日本人で初めてノーベル賞を受けた学者。 ザ・グレート・カブキは昭和二十三年(一九四八年)九月八日に生まれ、湯川秀樹は昭和五十六年(一九八一年)九月八日に亡くなりました。片方は誕生日、片方は命日。共通点は日付だけ。 それでも今日はこの二人を並べてみます。子どもだった私にとって「世界で通用した日本人」は、どういう顔をしていたのか。そう考えると、どうしてもこの二人が同じ線の上に乗ってくるのです。 延岡の自転車屋の三男坊 ザ・グレート・カブキ、本名を米良明久(めら・あきひさ)といいます。宮崎県延岡市に三人兄弟の末っ子として生まれました。お父さんは戦艦大和の元乗組員で、戦後は自転車店を営んでいたそうです。中学二年で愛知県知立市へ移り、学生時代は水泳の選手として活躍、柔道にも打ち込んでいました。 昭和三十九年(一九六四年)一月、日本プロレスに入門。同じ年の十月三十一日、宮城・石巻大会の山本小鉄戦でデビュー。翌年、リングネームを高千穂明久に改めます。 ここまでは、正直に言って、地味です。派手な必殺技があるわけでもない、堅実に試合を組み立てる中堅どころ。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ移り、そこでも中堅のまま、やがてアメリカへ渡ります。 昭和五十六年(一九八一年)一月、そのアメリカで、彼は「ザ・グレート・カブキ」になりました。 歌舞伎の隈取りのようなペイント。般若の面をつけた連獅子姿、鎖帷子をまとった忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿。両手のヌンチャクを唸らせ、口から霧を吹く。「東洋の神秘」という異名がつきました。 面白いのは、アメリカでの彼の「出身地」が、日本ではなくシンガポールとされていたことです。当時のアメリカには、すでに日本製の自動車も電化製品も行き渡っていた。日本はもう「神秘の国」ではなかったのです。だから、もっと遠い、もっと得体の知れない場所から来たことにする必要があった。日本人が日本人であることを隠して「東洋の神秘」を演じる。あの時代の日本と世界の距離が、そのまま写り込んでいるように思います。 そしてこのギミックが、爆発しました。 昭和五十八年二月、カブキが帰ってきた 昭和五十八年(一九八三年)二月、カブキは凱旋帰国します。全日本プロレスのリングに、カブキのまま登場。馬場や鶴田と並ぶほどの人気を得た、と記録されています。世に言う「カブキブーム」です。 180センチ、110キロ。数字だけなら、当時のプロレス界で飛び抜けて大きいわけではありません。それでも画面の中で、あの顔は明らかに異物でした。 私は全日本も見ていました。土曜日の夕方ではなかったでしょうか。新年恒例の、たくさんのレスラーがリングに上がって生き残りをかけるバトルロイヤルは、毎年の楽しみでした。 毒霧も、もちろん見ました。ただ、かっこいいと言うよりは、あの「異様」さのほうに興味を持ちました。緑色の霧が口から噴き出す。あれには驚かされたものです。 私はタイガーマスクが好きな少年でしたが、怪奇派の悪役が嫌いだったかというと、まったく逆です。タイガーマスクだけでは盛り上がりませんよね。やはり実力と人気もある悪役レスラーが存在してこそ、引き立つヒーローでしょう。カブキは、その役割そのものでした。 そして学校でどうしたか──当然、やりました(笑)。水を口に含んで、思いきり吹く。あれをやらなかった中学生が、あのころどれだけいたでしょうか。 日本を出るときは中堅だった男が、アメリカで別人になって帰ってきた。しかもその別人は、外国人が思い描く「日本」を思いきり誇張した姿をしていた。逆輸入では足りない、奇妙なねじれがそこにはあります。このスタイルは、のちのグレート・ムタに受け継がれていきました。 中学時代まで、プロレスの見方は小学生のころと変わりませんでした。全日本も新日本も、どちらも興味を持って観ていた。ただ感覚的には、周りで話題になっていたのはアントニオ猪木の新日のほうだったように思います。カブキは、その外側から現れました。 その二年前、同じ日に カブキがアメリカで生まれ変わったのが昭和五十六年一月。その同じ年の九月八日、京都で一人の学者が亡くなりました。 湯川秀樹。生まれは東京の麻布、育ちは京都でした。 昭和十年(一九三五年)、二十代の若さで、原子核の中で陽子や中性子を結びつける「中間子」という粒子の存在を、理論的に予言しました。実物は誰も見ていない。計算と理屈だけで、そこに何かがあるはずだと言い切ったのです。 十二年後の一九四七年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見します。紙の上で言い当てたものが、本当にあった。そして昭和二十四年(一九四九年)、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。 戦争に負けて四年目です。焼け跡がまだ残る国で、日本人がノーベル賞を受けた。国じゅうが沸いたと伝わっているのも、無理はないと思います。 昭和四十五年(一九七〇年)に京都大学を定年退官。その後は前立腺癌を患い、自宅で療養しながら学術活動を続けました。米ソの緊張が激しくなるなか、亡くなる年の六月には十五年ぶりに第四回科学者京都会議を実現させ、相当に悪い体で車椅子のまま出席して、核兵器の廃絶を訴えています。 その三か月後、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で亡くなります。七十四歳。 昭和五十六年九月八日。私は小学六年生でした。 そして正直に書きますが、私はこの日を覚えていません。 湯川秀樹という名前は、いつの間にか聞き覚えがあるな、という感じで頭の中にありました。学校で習ったのか、テレビで見たのか、伝記で読んだのか、はっきりしません。ノーベル賞という言葉も、詳しくは分かっていませんでした。理科や科学に興味があったかというと、これも正直、特にありませんでした。あのころの私は「あばれはっちゃく」タイプの小学六年生です。日本人初のノーベル賞学者が亡くなった日、私はたぶん、外で走り回っていました。 その湯川秀樹が、自分の子ども時代から物理学の道に入るまでを書いた回想録があります。文庫で七七〇円。難しい数式は出てきません。あの写真の人が、どんな子どもだったのか。 旅人 ある物理学者の回想(角川ソフィア文庫)湯川秀樹/KADOKAWA。日本初のノーベル賞学者が、幼少期から青年期までを自ら綴った回想録。星4.3(190件) Amazonで見る › 「世界で通用した日本人」の顔 この二人を並べたいと思ったのは、子どもの私にとって「世界で通用した日本人」という言葉が、まるで違う二つの顔をしていたからです。 湯川秀樹は、教科書と伝記の中にいる人でした。偉い。すごい。でも、遠い。中間子と言われても、何のことだかわかりません。名前と「日本人初のノーベル賞」という肩書きだけが、記号のように頭に入っている。実感は、ありませんでした。 一方、カブキはテレビの中で動いていました。アメリカで大成功して帰ってきた日本人が、目の前で霧を吹いている。何がどうすごいのか理屈はわからなくても、「向こうで通用した」ということだけは、体でわかった気がしました。 いま並べてみると、この二人は正反対のことをやっています。 湯川秀樹は、誰も見たことのないものを「ある」と言い当てた人です。日本人であることを隠す必要も、誇張する必要もない。数式の前では、国籍は関係がありません。 カブキは逆です。日本人であることを外国人の期待に合わせて思いきり作り込み、しかも出身地はシンガポールということにされた。中身ではなく、見え方で勝負した。 ...

September 8, 2026

9月7日 ── どんぶりを持って、道に出た|昭和の今日は何があった日?

今日は9月7日。 この日には、二つの記念日が重なっています。ひとつは「明星チャルメラ」が発売された日。もうひとつは「CMソングの日」。 一見、何のつながりもない二つです。片方はインスタントラーメンで、片方はラジオの広告の話。並べる理由なんてなさそうに見えます。 でも、私はこの二つを並べてみて、あ、と思いました。どちらも音の話なんです。 チャルメラという商品名は、屋台のラーメン屋が吹いていたあの楽器の名前です。テレビから流れてきたCMソングも、耳から入ってきて勝手に居座った音でした。 昭和の子供は、商品を音で覚えていた。そんな気がしてきたのです。 1966年9月7日、チャルメラが発売された 「明星チャルメラ」の発売日は、1966年(昭和41年)9月7日。今日でちょうど発売60周年になります。還暦です。 明星食品には、この4年前に大きな発明がありました。1962年に開発したスープ別添方式です。それまでの即席麺は麺そのものに味を付けて油で揚げていたため、どれを食べても似たような味にしかならない。ところがスープを粉末にして小袋に分けたことで、味の種類が一気に作れるようになった。この方式は各社に模倣されて即席麺の標準型になり、焼そばや和風麺まで生まれます。今スーパーの棚に袋麺が何十種類も並んでいるのは、もとをたどればここに行き着くわけです。 その技術の上に立って作られたのがチャルメラでした。開発はラーメン屋の食べ歩きから始まったといいます。目指したのは「街のラーメンの味」「飽きない味」。ホタテのエキスをスープに加え、仕上げ用に別添の「木の実のスパイス」を付けた。「木の実」と「好み」をかけた名前だそうです。現在は「秘伝のスパイス」と名前を変えていますが、中身は発売当初からほとんど変わっていないとのこと。 そして、あの袋です。夜の町角、明かりの灯る屋台、庇付きの帽子をかぶってチャルメラを高く吹き鳴らすおじさん。あの絵は200点以上の候補から選ばれたもので、描いたのはイラストレーターの木村修二さん。おじさんも、猫も、屋台も、夜景も、すべて同じ人の手によるものでした。 商品名を音から取り、パッケージにその音を吹いている人を描く。考えてみると、ずいぶん大胆なことをしています。袋の中から音は出ないのに、見た人の頭の中では鳴っている。 わが家の袋麺は、サッポロ一番だった 正直に言うと、わが家の定番はチャルメラではありませんでした。 サッポロ一番のしょうゆ味。これが基本です。母が作ってくれて、必ず卵を落としてくれました。あの、白身が半分固まりかけたところをスープごとすする感じ。袋麺の味というより、あれはもう母の作るラーメンの味として記憶に残っています。 ただ、チャルメラもちゃんと食べています。ときどき、しばらくチャルメラが続く時期があった。子供心には理由がわかりませんでしたが、たぶん安売りしていたんでしょうね。母がスーパーで、いつもの棚を見て、こっちが安いからと手を伸ばした。それだけの話だったはずです。 その「それだけの話」が、六十年続いた商品の売り上げの一つになっている。当たり前ですが、ロングセラーというのは、そういう小さな判断の積み重ねでできているのだと思います。 どんぶりを持って、道に出た そして、屋台のほうのチャルメラです。 これははっきり覚えています。昭和五十年ごろ、わが家の前の道を、夜になると屋台が通っていました。チャルメラを鳴らしながら、ゆっくりと引いて歩いてくる。 どんぶりを持って買いに出た記憶があります。家の器を持って、外に出て、道の上でラーメンを受け取る。今の感覚だと、なかなかすごいことをやっています。店に行くのでもなく、出前を待つのでもなく、店のほうが家の前まで来る。 思えばあの頃、うちの前の道はいろいろな商売が通っていく道でした。豆腐屋のラッパ。竿竹屋。石焼き芋屋。チリ紙交換。みんな、それぞれの音を持っていました。 そして私は、石焼き芋屋の後ろをくっついて歩いて、一緒に「いーしやーきいもーおいもー」と叫んでいたことがあります(笑)。今考えると、商売の邪魔以外の何物でもない。よく怒られなかったものです。 引き売りというのは、音で自分の存在を知らせる商売です。看板も出せない、チラシも配れない。だから音を出す。豆腐屋はラッパ、ラーメン屋はチャルメラ、焼き芋屋は自分の声。 ちなみに、こうして売り歩く商売はずいぶん昔からあります。下の絵は室町時代の『七十一番職人歌合』に描かれた豆腐売り(右)と素麺売り(左)。五百年前から、人は物を担いで町を歩いていました。 そのぜんぶが、いつのまにか街から消えました。 9月7日はCMソングの日 もうひとつの記念日にいきます。 1951年(昭和26年)9月1日、日本で民間ラジオ放送が始まりました。この日開局したのは、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送の二局。それまでNHKだけだった電波に、初めて広告が乗ることになったわけです。 この機会を逃さなかったのが、小西六写真工業——のちのコニカ、現在のコニカミノルタでした。民放の第一声で新番組を始めたいと考え、30分の番組枠を買い、曲づくりを人気の作詞・作曲家、三木鶏郎に委嘱します。 三木が考えたのは、「NHKではできないものは何か」ということでした。そこで出てきた答えがコマーシャルソング。こうして生まれたのが「ボクはアマチュアカメラマン」です。歌ったのは灰田勝彦。 この曲がすごいのは、社名も商品名もいっさい出てこないことです。「さくらフイルム」のCMでありながら、歌の中にその名前が出てこない。代わりに歌われているのは、ピンボケだの露出過度だのブレだのという、アマチュアカメラマンの失敗談ばかり。CMだと気づかれにくく、だからこそ多くの人に抵抗なく受け入れられて、大流行したといいます。 ちなみに、この曲の初オンエアは開局日の9月1日でした。それでも9月7日が記念日になっているのは、この曲が9月7日から始まった三木の担当番組『冗談ウエスタン』のために作られ、その番組で毎週流されていたからだそうです。 三木鶏郎はこの後、誰もが口ずさめるCMソングを次々と世に送り出していきます。「明るいナショナル」も「キリンレモンのうた」も、この人の仕事でした。 「明るいナショナル」——ここまで読んで、頭の中で勝手に鳴り出した方がいるのではないでしょうか。私はそうでした。 その三木鶏郎という人については、まるごと一冊の評伝が出ていました。日本最初のCMソングから、政治家を怒らせた諷刺コントまで。この記事を書きながら、いちばん読みたくなった本です。 冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史(新潮選書)泉麻人/新潮社。戦後最大のラジオスターにして、日本最初のCMソングの作り手。永六輔や野坂昭如を輩出した傑物トリロー、初の評伝。星4.1 Amazonで見る › 三丁目の電柱 私がいまだに全部歌えるCMソングがあります。 ...

September 7, 2026

9月5日 ── 土曜の夕方は嬉しくて、日曜の夜は憂鬱だった|昭和の今日は何があった日?

新聞が届いて、まずテレビ欄 昭和52年(1977年)9月5日は、月曜日でした。 私は8歳。小学2年生です。夏休みが終わって、二学期が始まったばかり。 当時、新聞は毎朝当たり前のように届いていました。今はもう取っていませんが、あの頃、朝刊が来て私が必ずチェックしていたのが、テレビ欄です。一面でも社会面でもなく、いちばん後ろのページ。 考えてみれば、あれは子どもにとっての一日の予定表でした。今日の夜は何があるのか。それを確かめてから、学校に行く。 その9月5日の月曜、テレビ欄には何が並んでいたのか。当時の番組編成をたどってみると、なかなかすごいことになっていました。 昭和52年9月5日・月曜のテレビ欄 夜七時台を並べると、こうなります。 19:00 日本テレビ『元祖天才バカボン』 19:00 フジテレビ『あしたへアタック!』(最終回) 19:30 テレビ朝日『一休さん』 三十分の中に、バカボンのパパと、女子バレー部と、とんち小僧が同時に存在していた。今のテレビ欄では絶対に見られない光景です。 そしてこの日、フジテレビの『あしたへアタック!』は、最終回でした。 記憶にない半年間 正直に書きます。私は『あしたへアタック!』を、まったく憶えていません。 『あしたへアタック!』は、昭和52年4月4日から9月5日まで、フジテレビ系列で毎週月曜19時から放送されていたアニメです。全23話。制作は日本アニメーション。 企画のきっかけは、フジテレビが独占放送していたバレーボールワールドカップが、この年に日本で初めて開催されることでした。原案は『サインはV』の原作者・神保史郎。『アタックNo.1』の演出や脚本を手がけた人たちも参加しています。オープニングを歌っていたのは、アニメソングの女王・堀江美都子さんです。 内容は「全日本の選手として世界に挑む」という話ではなく、高校バレーを舞台にした青春もの。しかも出だしがなかなか重い。橘高校の女子バレー部は、過酷なしごきで部員が亡くなる事故を起こし、事実上の廃部状態になっている。3年生の聖美々が、そこから部を立て直そうと奔走する——という始まり方です。 これだけの布陣で作られた半年間が、私の中には一秒も残っていない。 一方で、同じ月曜の夜に放送されていた『一休さん』は、リアルタイムで観ていた記憶がはっきりあります。『アタックNo.1』は再放送で観ました。『サインはV』は名前だけ知っている。そして昭和54年に始まった『燃えろアタック』——荒木由美子さん主演の、金曜7時半のあれ——は、毎週しっかり観ていました。 バレーものが嫌いだったわけではないのです。ただ、月曜の夜七時、私はおそらく日本テレビにチャンネルを合わせていた。 バカボンから、一休さんへ 『元祖天才バカボン』は、昭和50年10月6日から昭和52年9月26日まで、毎週月曜19時。全103回、204話。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の二度目のアニメ化で、「元祖」と名乗ったのは、一作目が原作から離れすぎたという反省があったからだそうです。ウナギイヌが初めて登場したのも、このシリーズでした。 そして19時30分からは、テレビ朝日の『一休さん』。 こちらは昭和50年10月に始まって、昭和57年6月まで続いた長寿番組です。当初は水曜でしたが、昭和51年4月から月曜19時30分に移ってきました。初期は日本船舶振興会の一社提供で、あの「火の用心のうた」のCMが間に流れていた。作曲は山本直純さんです。 おそらく私は、七時に日本テレビでバカボンを観て、七時半にテレビ朝日へチャンネルを回して一休さんを観ていた。そういう月曜の夜だったはずです。 つまり、私が『あしたへアタック!』を憶えていないのは、遠い番組だったからではありません。同じ時間に、別のものを選んでいたからです。テレビ欄というのは、番組表であると同時に、選ばなかったもののリストでもあったのだと、今になって気がつきました。 その二度目のアニメ化のもとになった原作は、いまも文庫で手に入ります。ウナギイヌもレレレのおじさんも、もとはこの中にいました。 天才バカボン 1(竹書房文庫)赤塚不二夫/竹書房。日本ギャグマンガ界不滅の金字塔。実験期のハチャメチャさもそのまま。星4.1(21件) Amazonで見る › 曜日を、番組で覚えていた 9月5日は月曜でしたから、あの有名どころは別の曜日に並んでいます。当時のテレビ欄を一週間ぶん広げると、こうなります。 水曜19:00 フジテレビ『ドカベン』 土曜18:30 フジテレビ『ヤッターマン』 日曜19:30 フジテレビ『あらいぐまラスカル』 この三本は、全部欠かさず観ていました。 『ドカベン』は当然です。野球少年でしたから。ただ、なかなか場面が進んでいかないことにイライラしていた記憶があります。一球投げるのに何分かかるんだ、と。原作の連載に追いつかないよう引き延ばしていたのでしょうが、子どもにそんな事情はわかりません。 そして今でもはっきり憶えているのは、番組そのものより、番組と結びついた気持ちのほうです。 『ヤッターマン』は土曜の夕方六時半。観ながら「まだ明日は休みだー」と思っていました。 『あらいぐまラスカル』は日曜の七時半。観ながら「明日は学校だー」という気持ちになっていました(笑)。 同じフジテレビの、同じような時間の、同じアニメなのに、片方は嬉しくて、片方は憂鬱だった。曜日を覚えるより先に、番組で曜日を覚えていたのだと思います。 日曜の夜の、あの気持ちのほうです。いま観たら、たぶん憂鬱ではなくなっているはずですが。 世界名作劇場・完結版 あらいぐまラスカル [DVD]バンダイビジュアル。全52話を1枚にまとめた完結版。日曜7時半のあの主題歌から。星4.1(30件) Amazonで見る › 同じ日、大人の世界では ところで、この9月5日は、大人のニュースのほうでも大きな日でした。 ...

September 5, 2026

9月2日 ── 金曜の夜十時は、父の休みの日だった|昭和の今日は何があった日?

9月2日。 この日に始まったものと、この日に決められたものを、ふたつ書きます。ひとつは土曜の夜10時に流れ始めた時代劇。もうひとつは「く(9)じ(2)」という語呂合わせでつくられた記念日です。 まったく関係のない二つに見えます。実際、関係はありません。ただ、書いているうちに、私のなかでは同じ場所につながってしまいました。 昭和47年9月2日、土曜22時 1972年(昭和47年)9月2日、土曜日の夜10時。『必殺仕掛人』の第1回「仕掛けて仕損じなし」が放送されました。朝日放送と松竹の共同製作で、当時はTBS系。翌1973年4月14日までの全33話でした。 原作は池波正太郎。表向きは人足の口入屋を営む音羽屋半右衛門(山村聡)を元締めに、鍼医者の藤枝梅安(緒形拳)、浪人剣客の西村左内(林与一)が、金銭と引き換えに、晴らせぬ恨みを晴らしていく。 いま思えば、とんでもない企てです。当時のテレビ時代劇は勧善懲悪が基本でした。正義の側が悪を裁く。それが約束ごとだった場所に、「金をもらって人を殺す者たち」を据えたのです。 その企てが当たりました。以後この作品は『必殺シリーズ』として、昭和が終わるまで続いていくことになります。 ちなみに私は、このとき3歳です。 記憶にございません。土曜の夜10時、3歳の私はとっくに寝かされていたはずです。あの伝説は、私の知らないところで始まっていました。 その第1回「仕掛けて仕損じなし」は、いまは分冊百科のかたちで手に入ります。三話ぶん入って900円ほど。3歳で寝ていた夜を、あとから見に行けるわけです。 必殺シリーズDVDコレクション 創刊号(必殺仕掛人 第1話〜第3話)第1話「仕掛けて仕損じなし」を含む3話収録。マガジンでは各話の解説、裏稼業のヒーローたちの関係や殺し技、時代背景まで。星4.2(69件) Amazonで見る › 私の必殺は、金曜の夜10時だった 私が必殺シリーズをリアルタイムで観るようになったのは、それから13年後です。 1985年(昭和60年)1月11日から7月26日まで放送された『必殺仕事人V』。テレビ朝日系、毎週金曜22時。このシリーズから、京本政樹さん演じる組紐屋の竜と、村上弘明さん演じる花屋の政が登場しました。 始まった1月、私は中学3年生。4月から高校1年生になりました。同じ年の11月15日からは続編の『必殺仕事人V・激闘編』が始まります。つまり高校1年生の一年間、私はずっと金曜の夜10時に必殺を観ていたことになります。 高校では野球部です。毎日ボールを追いかけて、泥だらけになって帰ってくる。それでも金曜の夜だけは、テレビの前に座っていました。 なぜ観られたのか。理由ははっきりしています。 父の休みが、金曜日だったからです。 週に一日しかない父の休み。その夜、父は必殺を観ていました。父も大好きだったのです。だから私も隣に座っていた。中学生が、高校生が、親と並んで夜10時のテレビを観る。あの時間だけは、そういう時間でした。 我が家のテレビに、はっきりした門限はありませんでした。とはいえ小学生の頃は「9時まで」というのが暗黙の了解だったように思います。それが中学、高校と上がるにつれて、なんとなく緩んでいった。金曜の夜10時に父の隣に座れるようになったことは、たぶん、私にとってひとつの通過点だったのだと思います。 中村主水という人 主演は藤田まことさん演じる中村主水。 あのギャップが、とにかく良かった。 昼間は奉行所の同心で、上司にも、家の姑と妻にも頭が上がらない。「昼行灯」と呼ばれて役所でも軽んじられている。ところが夜になると、まったく別の顔を持っている。 能ある鷹は爪を隠す──と言うと、ちょっと違うでしょうか。でも、そういう気持ちよさがありました。 毎回必ず人が死にますし、内容はちょっと薄暗い。決して明るい話ではありません。それでも中村主水の、あの「おとぼけ」の加減がいい塩梅なのです。あれがあるから観ていられる。 そして今になって思うのは、ストーリーそのものが、なんとなく現代の世の中を風刺しているように感じられたことです。江戸の話をしているはずなのに、どこかで今の話をしている。あの絶妙さがあったから、高校生の私も面白いと感じたのだと思います。 法では裁けない悪がある。訴え出ることもできない理不尽がある。それを子どもに教えたのは、学校でも新聞でもなく、金曜の夜10時のテレビでした。 教室で真似したもの 真似している子は、いました。というより、私もやりました。 中条きよしさん演じる三味線屋の勇次、京本政樹さんの組紐屋の竜。これはもう定番です。 そして『激闘編』から加わった、柴俊夫さん演じる「壱」。この人の技は「怪力」でした。ものすごい握力で相手の首を素手で締め上げる。あれを真似するのです。手加減がわからない年頃ですから、いま思えば危ない遊びでした。 『必殺仕事人』(1979年)の、三田村邦彦さん演じる飾り職人の秀は、のちの再放送で観ました。確かにかっこよかった。最初はまだ仕事人として未熟だったのが、回を重ねるうちに技が洗練されていく。あの成長が描かれていたのを覚えています。その役柄は、のちに村上弘明さんの花屋の政へと受け継がれていきました。 観てはいけない時間のテレビ 必殺は父と一緒に観ていたので、堂々としたものでした。 けれど、そうではないものもあります。 中学生になってからですが、『11PM』と『トゥナイト』。これは思い出しますね。観てはいけないと明確に言われたわけではありません。ただ、あれは明らかに子どもが観る番組ではなかった。だからこそ記憶に残っています。 一方で、両親と一緒に観ていた時代劇もたくさんありました。『水戸黄門』『暴れん坊将軍』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』。家族で観るものと、こっそり観るもの。昭和の家庭のテレビには、その両方がありました。 いま、我が家には5人の子どもがいます。「これは早い」という線引きは、特にありません。 というより、そもそも地上波のテレビをほとんど観なくなりました。みんなYouTubeなどで、それぞれ好きなものを観ています。同じ時間に、同じ画面を、家族で囲むということ自体がなくなった。 父の休みが金曜日で、だから私は必殺を観ていた。あんな理由で番組と出会うことは、もうないのだろうと思います。 映像より先に、活字のほうを読んでみるのもいいかもしれません。緒形拳さんが演じたあの鍼医者が、池波正太郎の文章のなかでどう動いていたのか。第1弾がこれです。 新装版・殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安(一)(講談社文庫)池波正太郎/講談社。品川台町の鍼医師・藤枝梅安。表の顔は名医、その実、金次第で「生かしておいてはためにならぬやつ」を闇へ葬る仕掛人。『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶシリーズの第1弾。星4.4(325件) Amazonで見る › もうひとつの9月2日 ──「く(9)じ(2)」 同じ9月2日は、「宝くじの日」でもあります。 制定は1967年(昭和42年)。「く(9)じ(2)」の語呂合わせで、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)が定めました。私が生まれる2年前です。 目的は、お祝いでもキャンペーンでもありません。時効防止でした。 当たっているのに引き換えられないまま、支払期限を過ぎてしまう宝くじが、あまりに多い。だから「もう一度、手元のくじを確認してください」と呼びかける日をつくった。1973年(昭和48年)からは、ハズレ券を対象にした「宝くじの日 お楽しみ抽せん」も始まっています。いわば敗者復活戦です。 捨てる前に、もう一度見てくれ。そういう日なのです。 ...

September 2, 2026

8月29日 ── 夕方の再放送で、私はオスカルに出会った|昭和の今日は何があった日?

8月29日は「ベルばらの日」と呼ばれています。 1974年(昭和49年)のこの日、兵庫県の宝塚大劇場で、宝塚歌劇団月組による『ベルサイユのばら』の幕が上がりました。 私は当時5歳。宝塚も、少女漫画も、フランス革命も、まだ何ひとつ知らない子どもでした。それでも数年後、この作品は思いがけない形で私の日常に入り込んでくることになります。 「人間に演じられるわけがない」 原作は池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』。連載が始まったのは1972年、『週刊マーガレット』でのことでした。舞台化は、その連載が終わった翌年の話になります。 少女雑誌の連載でフランス革命をやる、というのは、当時としてはかなり無茶な企画だったはずです。主人公のオスカルは、将軍家の末娘として生まれながら、家を継ぐために男として育てられた女性。実在の人物ではありません。その架空の一人を、マリー・アントワネットとフェルゼンという実在の歴史の中に立たせてしまった。この一手が、のちのすべてを決めたのだと思います。 昭和40年代の後半、宝塚歌劇団は苦しい時期にありました。テレビが各家庭に行き渡り、スターの姿が茶の間で手軽に見られるようになった時代です。劇場には空席が目立つようになっていました。 そこで、当時まだ演出部門の若手だった植田紳爾さんが、この漫画の舞台化を発案します。ところが制作を発表すると、熱狂的な原作ファンから抗議が殺到しました。あの物語を、あのオスカルを、生身の人間が演じられるわけがない、と。 猛烈な反発に、現場の決心は揺らぎます。その時に演技指導として現れたのが、往年の映画スター・長谷川一夫さんでした。 長谷川一夫といえば、戦前から戦後にかけての日本映画を代表する二枚目です。その人が、少女漫画を原作にした宝塚の舞台に関わる。今の感覚で言えば、相当に思い切った起用でした。 長谷川さんが持ち込んだのは、歌舞伎で培われた「見せ方」の技術だったと言われています。どう立つか、どこで止まるか、どの角度で客席に顔を向けるか。漫画のコマの中でしか成立しないはずだった美しさを、生身の人間の身体で再現するための、具体的で身も蓋もない技術です。抗議していた原作ファンを黙らせたのは、理屈ではなく、その一点だったのだと思います。 そして1974年8月29日、初演の幕が上がりました。オスカルを演じたのは、当時の月組トップスター・榛名由梨さん。マリー・アントワネットは初風諄さんでした。 二年で140万人 結果はご存じの通りです。 人気に応える形で、翌年以降、花組・雪組・星組と組を替えての上演が続きました。地方公演も含め、シリーズで動員した観客はおよそ140万人。1974年は、奇しくも宝塚歌劇団が創立60周年を迎えた年でもありました。 オスカルを演じた榛名由梨さん、汀夏子さん、鳳蘭さん、安奈淳さんの4人は「ベルばら四強」と呼ばれ、第一次ベルばらブームの立役者になりました。同じ年、作品は文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。 空席の目立っていた劇場が、チケットの取れない劇場に変わった。昭和の芸能史の中でも、これほど鮮やかな逆転はそう多くありません。 面白いのは、このブームが「もともと宝塚を知っていた人」の中で起きたものではなかったことです。漫画から入ってきた人、それまで劇場に足を運んだことのなかった若い人たち。舞台化に反対していた人たちが、いちばん熱心な客になった。反対の声が大きかったということは、それだけ深く愛されていたということでもあったのでしょう。 五歳の私は、仮面ライダーだった さて、その1974年8月、5歳の私です。 私は宝塚とも少女漫画とも、まったく無縁でした。興味があったのは、仮面ライダーとウルトラマン。それだけです。 同じ夏、同じ日本で、大人の女性たちが劇場に押し寄せてフランス革命に泣いていた。その一方で、葛飾の五歳児はテレビの前で変身ポーズをとっていたわけです。同じ時代を生きていても、見ている世界はまるで違う。「昭和の今日は何があった日?」を書いていると、こういう場面によく出くわします。 1979年、水曜の夜 『ベルサイユのばら』は、その後アニメになりました。 1979年(昭和54年)10月10日から翌1980年9月3日まで、日本テレビ系で全40話が放送されています。制作は東京ムービー新社。オスカルの声は田島令子さん、アンドレは志垣太郎さん。総監督に長浜忠夫さん、途中から出崎統さんが引き継ぎました。 放送開始の1979年10月、私は小学4年生の秋です。 ただ、正直に書きます。この水曜夜の本放送を、私は見ていません。一つ違いの妹も見ていませんでした。 無理もない話で、この年の4月には『機動戦士ガンダム』が始まり、同じ4月にテレビ朝日で『ドラえもん』の放送が始まっています。男子小学生の世界は完全にそちら側にありました。ロボットと、ネコ型ロボットと、野球です。 夕方の再放送 ところが、です。 いつのことだったかは、はっきり思い出せません。ただ、夕方に『ベルばら』の再放送が流れていた時期があって、私はそれを見てしまった。 そして、やみつきになりました。 夢中になって見ました。特に良かったのが、オープニングの歌です。「薔薇は美しく散る」。歌っていたのは鈴木宏子さん。あの重々しいイントロと、ばらの花が散っていく映像。子ども向けアニメの主題歌とは思えない、はっきりと悲劇の匂いがする曲でした。 昭和の夕方には、再放送という文化がありました。学校から帰ってきて、ランドセルを放り出して、何気なくテレビをつける。そこで流れているのは、たいてい何年か前のアニメです。本放送のときには興味がなかった作品、あるいは幼すぎて見られなかった作品が、その時間に不意打ちのように現れる。 いま考えると、あれは不思議な仕組みでした。自分で選んで見に行ったわけではないのに、たまたまチャンネルを合わせた一本が、その後ずっと記憶に残ってしまう。私にとっての『ベルばら』は、まさにそれでした。 いま思えば、アニメ版『ベルばら』は途中から演出が濃く、暗く、詩的になっていく作品です。オスカルもアンドレも、最後はきちんと死にます。夕方の再放送というのは、そういうものと出会うのにちょうどいい時間帯だったのかもしれません。誰にも見つからずに、一人で見ていられるからです。 男子は少年漫画、女子は少女漫画 1969年生まれの私にとって、少女漫画は自分の本棚にはないものでした。 でも、一つ違いの妹がいましたから、『りぼん』『なかよし』『別冊マーガレット』『少女コミック』は身近にありました。女子が読んでいる漫画を、横から覗いたこともあります。 本当はちょっと読んでみたかった。けれど、男子が少女漫画を読むのは恥ずかしかった。それが正直な気持ちだったでしょう。 なにせ昭和の男子には、 「男子は少年漫画、女子は少女漫画」 という見えない境界線が、結構ありましたから。 誰が引いたわけでもない線です。先生が決めたわけでも、親に言われたわけでもない。それでも確かにそこにあって、越えると笑われる。昭和の子どもの世界には、そういう線がいくつもありました。男の子は泣かない。女の子は前に出ない。線の内側にいるかぎりは楽なのですが、その分、外側にあるものは最初からなかったことになる。 そう考えると、ベルばらの舞台化に抗議が殺到した話も、少し違って見えてきます。「男装の麗人」オスカルという人物そのものが、引かれた線を越えて生きる話なのです。少女たちがあれほど夢中になったのは、たぶん偶然ではありません。 夕方の再放送で私が『ベルばら』にやみつきになれたのは、たぶん、そこに誰もいなかったからです。教室の目も、妹の目も届かない時間に、線をまたいで向こう側を覗いた。そういうことだったのだと思います。 いまなら、誰の目も気にせず堂々と買えます。あのころ横から覗いていただけの五巻が、化粧箱に入って売られている。 ベルサイユのばら 全5巻セット 化粧箱入り(集英社文庫コミック版)池田理代子/集英社。1972年から『週刊マーガレット』で連載された原作。文庫版全5巻が化粧箱入りで揃います。星4.5(248件) Amazonで見る › そして、まだ観ていない 『ベルサイユのばら』は、その後も宝塚で繰り返し上演され続けています。1989年、1991年、2001年、そして令和に入ってからも。原作漫画は累計2000万部を超え、2025年には完全新作の劇場アニメも公開されました。 ...

August 29, 2026

8月26日 ── 一回きりで終わるはずだった、あの土曜日の夜8時|昭和の今日は何があった日?

夏休みが、あと五日。 1978年、昭和53年8月26日は土曜日でした。私は9歳、小学3年生。宿題がどうなっていたかは、あえて思い出さないことにします。 その日の夜8時、日本テレビが妙な番組を始めました。翌日の夜8時まで、丸一日、生放送を続けるというのです。 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の、第1回でした。 土曜の夜8時は、空いていなかった いま思えば、日本テレビはとんでもない時間に旗を立てました。 1978年の土曜の夜8時といえば、TBSで『8時だョ!全員集合』が生放送されている時間です。1969年10月に始まり、1985年9月まで16年間、毎週土曜の20時から20時54分まで、日本中の茶の間を占領し続けた番組でした。 子供にとって、土曜の夜8時は交渉の余地のない時間帯です。翌日は日曜で、学校がない。その一週間分の解放感の入口に、ドリフが立っていました。 そこへ日本テレビが、丸一日の生放送をぶつけてきた。しかも中身は福祉と募金です。 深夜番組から生まれた企画 この番組の出発点は、意外なところにありました。当時、日本テレビが放送していた深夜番組『11PM』の、世界の福祉を扱った特集です。テレビというメディアで何ができるのか。そこから、開局25年の記念事業のひとつとして企画が立ち上がりました。 ところが、社内の反応は冷たいものでした。 当時の民放は、ひとつの番組をひとつのスポンサーが提供する「一社提供」が主流です。複数のスポンサーが並ぶこの仕組みに、スポンサー側が難色を示しました。さらに、週末のゴールデンタイムは編成が固まっている時間帯です。そこを丸ごと差し出すことに、局内からも反対の声が多く上がりました。 結果、この番組は「一回きり」の約束で放送されることになります。 テーマも掲げられました。「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」──今の目で見ると、驚くほど具体的です。地球を救うという壮大な副題の下に、お風呂と、車椅子と、リフト付きバスが並んでいる。集めたお金を何に使うかが、最初から名指しされていました。 この具体性は、そのまま当時の福祉の水準を映しています。寝たきりの高齢者が風呂に入れない。車椅子が足りない。車椅子のまま乗れるバスが、そもそも存在しない。それらはずっとそこにあって、テレビが取り上げてこなかっただけでした。 「愛は地球を救う」という副題は、いま聞くと少し照れくさい響きがあります。けれども、あの時代にゴールデンタイムで福祉を24時間喋り続けるには、それくらい大げさな旗を立てないと成立しなかったのだろうとも思います。 総合司会は萩本欽一と大竹しのぶ。パーソナリティーには大橋巨泉と竹下景子。そして番組のシンボルとして、ピンク・レディーが立っています。 前の日の記事で、私は昭和51年8月25日のピンク・レディーのデビューについて書きました。あの二人が、その二年後の8月26日、今度は違う立場でテレビの真ん中にいる。日付というのは、たまにこういう並び方をします。 会場を転々とした24時間 第1回には、後の「武道館」がありませんでした。 オープニングは芝公園の郵便貯金ホール。途中のコーナーは麹町の日本テレビのスタジオ。エンディングは代々木公園。場所を転々としながらの24時間でした。日本武道館がメイン会場に定着するのは、第3回、昭和55年からです。 代々木公園のフィナーレには人が殺到し、押し寄せた観客に子供や体の不自由な人が押されそうになり、迷子も出たと記録されています。段取りが完成していない、初回だけの混乱です。 そして、募金です。 日本テレビ麹町本社に設けられた受付電話には、189万本の電話がかかりました。そのうち実際につながったのは、3.7パーセントにも満たない7万本程度だったといいます。100本かけて、つながるのは4本足らず。それでも人は、かけ続けました。 29局の累計募金額は、11億9,011万8,399円。 この金額は、その後33年間、破られませんでした。更新されたのは2011年──東日本大震災の年です。 「俺、絶対に起きて全部観る」 当然、私は起きていませんでした。 ただ、この番組が子供の間で話題になっていたことは覚えています。学校で、「俺、絶対に起きて全部観る」なんて言っていた奴がいました。丸一日テレビが続くというだけで、9歳にとっては十分に事件だったのです。誰かが最後まで到達できるのかどうか、それ自体が競技のように受け止められていました。 ちなみに私も、チャレンジしてみようとチャンネルを合わせています。 そして、すぐに断念しました。 番組の中身が、さすがに小学3年生の観続けられるものではなかったからです。寝たきりの高齢者の暮らし、車椅子の話、途上国の福祉。どれも大切な内容だと今なら分かりますが、当時の私には、笑いも歌もないまま画面が延々と進んでいくようにしか見えなかったのだと思います。 考えてみれば、それは番組の側から見れば成功のしるしでもありました。子供が飽きるくらい真面目に作られていた、ということですから。 「絶対に全部観る」と言った奴が、翌週の学校でどう報告したのか。そこは、どうしても思い出せません。 羽根と、「億」という単位 募金そのものは、学校で経験していました。赤い羽根や緑の羽根の募金です。教室で袋を配られ、家から小銭を持ってきて、胸に羽根をつけて帰る。あれが、私にとっての「募金」の入口でした。 ただ、家からテレビに電話をかけた記憶はありません。あの夜、日本テレビに189万本かかったという電話の中に、高砂の我が家からの一本はなかったということです。 画面で読み上げられる金額についても、正直なところ実感はありませんでした。「億」という単位に対して私が受け取っていたのは、ただ「凄くたくさん」という感じだけです。 11億9,011万8,399円。 いま並べてみると、末尾まで一円単位で記録されているところに、この番組の性格が出ている気がします。凄くたくさん、ではなく、一円ずつの積み上げとして数えられている。9歳の私には、そこまで読めませんでした。 裏でドリフをやっていた、その『8時だョ!全員集合』のほうも、いまは映像で残っています。歌のゲストの顔ぶれを眺めているだけで、あの時代の土曜の夜がそのまま出てきます。 8時だョ!全員集合 ゴールデン・コレクション 通常版 [DVD]ザ・ドリフターズ。沢田研二、郷ひろみ、キャンディーズ、桜田淳子ほか歌のゲストも収録。星4.6(254件) Amazonで見る › 続けてしまった、一言 番組が終わろうとしていた代々木公園で、日本テレビの徳光和夫アナウンサーが、会場にいた一人の高校生にマイクを向けました。 その高校生は、こんな意味のことを言ったと伝えられています。欽ちゃん、あの聖火みたいに今日一日で消さないでずっと続けてほしい、消えてしまったらつまらないじゃないか、と。 ...

August 26, 2026