【昭和の今日は何があった日?】8月17日──布団の中で聴いた、9回裏

今日は8月17日。夏の夜が、いちばん濃くなる頃だ。 昭和の子どもにとって、夏の夜といえば、まだ寝たくない時間だった。窓を開け放てば、扇風機の風、遠くの花火の音、そしてどこかの家から漏れてくるナイター中継の実況の声。それが、夏の夜の空気だった。 きょう8月17日は、その「ナイター」が日本のプロ野球に初めて灯った日、プロ野球ナイター記念日である。昭和23年(1948年)のこの日、日本の野球は初めて「夜」を手に入れた。 そしてそれから30年後の夏、小学3年生だった私は、その「夜の野球」を、布団の中で、イヤホン越しに聴いていた。 日本の野球が、夜を手に入れた日 昭和23年8月17日、横浜の球場で、日本プロ野球史上初のナイトゲームが行われた。カードは、東京巨人軍対中日ドラゴンズ。 会場は、当時「横浜ゲーリック球場」と呼ばれていた球場だ。終戦から3年、この球場は進駐軍に接収され、大リーグの名選手にちなんで「ルー・ゲーリック・スタジアム」と改称されていた。そして他の球場に先駆けて照明設備が設けられていた。とはいえ、それは駐留部隊の兵士が余暇に野球を楽しむためのもので、決して明るいものではなかったという。 出場した選手のうち、ナイトゲームを経験したことがあるのは、巨人の2人の選手と、2人の審判だけ。昭和11年の渡米時に体験しただけで、あとの全員が初めての夜間試合だった。 連盟は慎重だった。この日の横浜の日の入りは午後7時29分。薄暮の、いちばん白球が見えにくい時間帯を避けるため、空が完全に真っ暗になる午後8時8分まで、あえて試合開始を遅らせている。夜の野球に、誰もがまだ手探りだった。 球場には2万人の観衆が詰めかけた。入りきれないファンのために、グラウンド内にまで特設シートが作られたというから、その熱気が伝わってくる。 だが、案の定というべきか、暗さは試合に影を落とした。1回裏、巨人の青田昇は、速球が見えにくかったのか、顔面に死球を受けて退場。8回裏には、川上哲治の当たりを照明の暗さで審判がとっさに見極められず、判定をめぐって試合が10分間も中断したという。 試合は3対2で中日が競り勝った。 もう一つ、忘れがたい逸話がある。試合の前日、海の向こうでベーブ・ルースが亡くなっていた。そのため日本初のナイターは、球場全体でルースに黙祷を捧げるところから始まっている。「ナイター」という和製英語が定着するのは、実はこの2年後のことだったというが──ともあれ、日本の夜の野球は、こうして薄暗い照明の下から始まった。 夜の野球は、いつも途中で終わった それから30年。昭和53年(1978年)の夏、私は小学3年生になっていた。 このころには、テレビをつければ、どこかのチャンネルで必ずプロ野球中継をやっていた。もちろん、葛飾の野球少年だった私が観るのは、読売ジャイアンツ一択である。 ところが、子どもにとって、テレビのナイター中継には一つの大きな「壁」があった。 放送が、試合の途中で終わってしまうのだ。 当時のテレビ中継は、だいたい午後9時前後にきっちり終わる。試合がまだ7回だろうが8回だろうが、放送時間が来れば画面はぷつりと切り替わり、次の番組が始まってしまう。競った展開のまま「この続きは……」と放り出される、あの無情さ。夜の野球は、子どもにとって、いつも最後まで見せてもらえないものだった。 その悔しさを埋めてくれたのが、トランジスタラジオだった。 3年生のとき、誕生日のプレゼントに、手のひらに収まる小さなトランジスタラジオをもらった。テレビ中継が切れても、ラジオならまだ試合をやっている。それに気づいてからの私は、夜になると布団に入り、ラジオを枕元に置いて、イヤホンを片耳に差し込み、ジャイアンツ戦の続きを聴くようになった。 真っ暗な部屋で、布団にくるまって、耳の奥だけに、実況の声とスタンドのざわめきが響いている。家族と観るのとはまた違う、自分ひとりだけの野球中継。あの時間が、たまらなく好きだった。 そのまま、試合の途中で眠ってしまった夜も、何度もあった。それでも困ることはなかった。朝、目が覚めれば、新聞のスポーツ欄で結果を知ることができたからだ。ゆうべ聴きながら寝落ちしたあの試合がどうなったのか、朝刊で確かめるのも、一日の楽しみだった。 しかも、あの昭和53年の夏の巨人は、ただの巨人ではなかった。この年、ジャイアンツは首位を走っていた。8月下旬には2位ヤクルトに4ゲーム半もの差をつけ、優勝目前まで迫っていたのだ。(結局この年は終盤に失速し、球団初優勝を遂げたヤクルトに優勝をさらわれるのだが──それはまだ、夏の私の知らない秋の話だ。) 首位を走るジャイアンツを毎晩、布団の中で追いかける。あの夏の熱を、私は今でも覚えている。だからだろうか、あのころの打順は、今でもすらすら口をついて出てくる。 1番・センター 柴田 2番・セカンド 土井 3番・レフト 張本 4番・ファースト 王 5番・ライト 柳田 6番・サード 高田 7番・ショート 河埜 8番・キャッチャー 吉田 9番・ピッチャー 堀内 我ながら、よく覚えているものだと思う。学校の勉強はとっくに忘れてしまったのに、この9人の名前と守備位置だけは、40年以上たった今も順番どおりに出てくる。布団の中でイヤホン越しに何度も聴いた名前は、頭ではなく、体のどこかに刻まれているのだろう。 いまも、手のひらに収まるラジオは売られている。ワイドFM対応で、イヤホン付き。単4電池2本でイヤホン使用なら150時間以上もつというから、あのころより性能はずっと上だ。枕元に置くのはもちろん、災害のときにも役に立つ。 オーム電機 AudioComm AM/FMポケットラジオ RAD-P212S-S(イヤホン付属)幅55×高さ92mmの手のひらサイズ。ワイドFM対応、イヤホン付属、単4電池2本でイヤホン使用時AM約155時間。防災用の備えとしても Amazonで見る › 球場のナイターは、もっと遠かった テレビとラジオでこれだけ夢中になっていたのだから、当然、本物の球場でナイターを観たくてたまらなかった。 だが、後楽園球場のナイターへは、小学生の私にも、中学生の私にも、行くことはできなかった。 ...

August 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月6日──8時15分のテレビと、記憶違いの『はだしのゲン』

夏休みの朝、テレビをつけると広島が映っていた 夏休みは、朝が遅い。 学校がないぶん、起きる時間もだらしなくなります。それでも8月6日だけは、なぜか少し早く目が覚めていたような気がします。 居間に降りて、なんとなくテレビをつける。すると画面には、広島が映っていました。 ニュースのなかで流れる、平和記念式典の様子です。式典を最初からじっくり見ていた、というわけではありません。ニュース番組を通して、平和記念公園に集まった人々の姿や、黙とうする様子を見ていた——そういう記憶です。 夏休みのテレビの朝は、基本的に明るいものでした。アニメの再放送があり、夏の高校野球の予告があり、水着の映像があり。そのなかで8月6日の朝だけは、画面の色がすっと沈む。 午前8時15分。広島ではサイレンが鳴り、街全体が黙とうに入ります。 けれど、東京の下町にサイレンは鳴りません。窓の外では蝉が鳴き、京成線が普段どおりに走っていく。テレビの画面の中だけが静まりかえっていて、こちら側は何も変わらない。あの温度差を、子どもながらに妙だと感じていた気がします。 子どもだった私は、それをうまく言葉にできませんでした。ただ「今日はそういう日なんだ」と思って、黙って見ていた。それだけです。 葛飾の小学校には、夏休み中の登校日がありました。平和についての話も、たぶんあったのだと思います。ただ、正直に言うと覚えていません。8月6日という日は、私にとって「学校で教わったこと」よりも先に、「朝のテレビで見たもの」だったのです。 昭和46年8月6日──現職の総理大臣が、はじめて広島に立った その広島の式典に、日本の現職の総理大臣がはじめて出席したのは、1971年(昭和46年)8月6日のことでした。佐藤栄作首相です。 原爆が投下されたのが1945年(昭和20年)。つまり26年間、その席に総理大臣は座っていなかったことになります。 このとき私は2歳4か月。当然、記憶はありません。ただ、あとから考えると不思議な話です。あれほど大きな出来事の式典に、四半世紀のあいだ現職の総理が足を運んでいなかった。昭和40年代の後半になって、ようやく「国として、あの日の前に立つ」という形が整いはじめたということでもあります。 佐藤栄作という人は、1967年(昭和42年)に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国会で表明した総理でもあります。そして1971年6月には沖縄返還協定に調印し、翌年の本土復帰へと進んでいく。その夏に、はじめて広島の慰霊碑の前に立った。3年後の1974年には、ノーベル平和賞を受けています。 その評価をここで論じるつもりはありません。ただ、私がテレビで見ていたあの朝の風景は、そう古くから続いていたものではなかった。昭和46年からあとの、まだ新しい風景だったのです。 私が生まれてから、ようやく整った形。それを私は、当たり前の夏の景色として見ていました。 「24時間テレビで観た」という、私の記憶 さて、ここからが本題です。 8月6日といえば、私にはもうひとつ、はっきりした記憶があります。 アニメ映画の『はだしのゲン』を、テレビで観たという記憶です。 細かな場面までははっきり思い出せないのですが、画面に映し出される出来事があまりにも重く、子ども心に「怖い」と感じたことは強く残っています。見ているのがつらくなり、思わず画面から目を背けてしまった場面もありました。 それでも、途中でテレビを消すことはできず、結局は最後まで観ました。怖いからこそ、この先に何が起こるのかを確かめなければならないような気持ちがあったのかもしれません。観終わったあとも、すぐに普段の夏休みの気分へ戻ることはできず、しばらく重たい感覚が残っていたように思います。 これだけのものが体に残っているのに、肝心の「いつ、どこで」だけが、あやふやなのです。 そして、その記憶にはご丁寧に注釈までついていました。「たしか、夏の恒例の『24時間テレビ』のなかで放送されていたはずだ」と。長時間のチャリティー番組の、どこかの時間帯。あの独特の、少し疲れたような夏の空気のなかで、私はゲンを観た。そう思い込んでいたのです。 調べてみたら、あの枠は手塚治虫の指定席だった 念のため、調べてみました。そうしたら、話が合わなくなったのです。 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』が始まったのは1978年(昭和53年)。日本テレビの開局25周年記念でした。私が小学3年生の夏です。 この番組には、名物のアニメスペシャル枠がありました。第1弾が『100万年地球の旅 バンダーブック』。1978年8月27日の午前、国産初の「テレビ2時間アニメ」として放送されました。以降もほぼ毎年、この枠にはアニメが並びました。 問題は、その中身です。この枠は、ほとんど手塚治虫作品の指定席でした。例外は、竹宮惠子さん原作の『アンドロメダ・ストーリーズ』(1982年)と、最後の年になった1990年の『それいけ!アンパンマン』くらい。 つまり、『はだしのゲン』は一度も流れていないのです。 私の記憶は、成り立ちませんでした。 では、私はどこであれを観たのか アニメ映画『はだしのゲン』が公開されたのは、1983年(昭和58年)7月。私が中学2年の夏です。 制作はマッドハウス、監督は真崎守さん、音楽は羽田健太郎さん、ナレーションは『ジェットストリーム』でおなじみの城達也さん。主人公ゲンの声は、オーディションで選ばれた広島市出身の小学生でした。原作者の中沢啓治さんが、漫画では描ききれないものを映像にしたいと、私財まで投じてつくった作品です。 そしてこの映画には、大きな特徴がありました。公開にあたって、全国の市民団体や自治体、学校が協力する「1000か所 草の根上映運動」が展開されたのです。映画館ではなく、公民館や学校の体育館。そういう場所で観た人が、たいへん多い作品でした。 地方局が夏に放送した記録も残っています。たとえば富山テレビは、1985年8月6日の夕方4時から、この作品を放送しています。 ついでに言えば、原作の漫画も変わった道を歩いた作品です。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったあと、市民団体の雑誌、政党の理論誌、日教組の機関誌へと掲載の場を転々としています。それでいて、私たちの世代にとって『はだしのゲン』は、学校の図書室に必ず置いてある本でした。誰が買ったわけでもないのに、気がつけばそこにある。 そう考えると、私が観たのは、学校か地域の上映会だったのかもしれません。あるいは、どこかの局の夏の特別枠だったのかもしれません。 正直に書きます。もう、わかりません。 なぜ記憶は、ふたつを結びつけたのか ただ、なぜ記憶が「24時間テレビ」と結びついたのかは、なんとなく想像がつきます。 当時の子どもにとって、「夏に、テレビの前で真面目な気持ちにさせられる時間」という引き出しは、そう多くなかった。8月6日の朝のニュース。終戦記念日の特集。そして、24時間テレビ。だいたいこの三つくらいです。 同じ引き出しに入っていたものが、40年以上のあいだに、勝手にひとつに溶け合ってしまったのでしょう。あの映像の重さと、夏の長時間番組のあの空気が、記憶のなかでくっついた。「夏」「テレビ」「まじめな気持ち」という三つのタグが一致してしまえば、あとは記憶のほうが勝手に配線をつなぎます。 しかも24時間テレビのアニメ枠は、当時の子どもにとって、きわめて印象の強い時間帯でした。そこへ「夏に観た、重たいアニメ」という記憶を放り込めば、収まりのいい棚はひとつしかありません。 けれど、それだけではない気もしています。 実を言えば、私のなかでこのふたつは、もともと地続きでした。8月6日の朝にテレビニュースで広島の式典を見た記憶と、『はだしのゲン』を観たときの怖さは、自分の中でどこか結びついています。当時は戦争や原爆について十分に理解できていたわけではありません。それでも、これは昔の遠い出来事として簡単に片づけてはいけないものなのだという感覚だけは、子どもなりに受け取っていたのだと思います。 だとすれば、記憶が番組名を取り違えたことは、たいした失敗ではないのかもしれません。事実関係の配線は、たしかに間違えた。けれど、結びつけるべきものは、ちゃんと結びついていた。 そして8月6日は、「記憶を残すこと」そのものが問われる日でもあります。当事者の記憶が薄れていくなかで、私のような下町の子どもにも届くように、どうやって残すのか。 そのために作られたのが、あのアニメでした。だから中沢啓治さんは、映画館の上映だけでは足りないと考えて、体育館でも公民館でもいいから観てくれと、全国に映写機を送り出したのです。 私が「どこで観たか」を忘れてしまったことは、ある意味で、その運動が成功した証でもあるのかもしれません。場所を忘れるほど当たり前に、あの映像は子どもたちのところへ届いていた。 令和の8月6日に いまの私の家には、地上波のテレビがありません。大きなモニターで、動画や配信を観るだけです。 だから8月6日の朝、なんとなくテレビをつけたら広島が映っていた——ということは、もう起こりません。観ようと思って、自分で選ばないかぎり、あの日の映像は目の前に現れないのです。 昭和の子どもだった私は、選んでいませんでした。ただテレビをつけたら、そこに広島があった。黙とうがあった。逃げ場がなかったとも言えるし、だからこそ体に残ったとも言えます。 もう一度、あのアニメを観てみようかと思っています。今度は、いつどこで観たかを、ちゃんと覚えていられるように。 みなさんは、8月6日の朝をどんなふうに過ごしていましたか。そして『はだしのゲン』を、どこで、いくつのときに観ましたか。 あの夏に読んだ、あるいは観たきりになっている方へ。中沢啓治さんの原作漫画は、いまも文庫版で全巻そろいます。私たちの世代にとっては学校の図書室にあった本ですが、大人になってから読み返すと、子どものときには受け取れていなかったものが、いくつも見えてきます。お子さんやお孫さんの本棚に置いておく一組としても。 はだしのゲン(全7巻セット)中公文庫コミック版中沢啓治。1973年に『週刊少年ジャンプ』で連載開始。作者自身の被爆体験をもとに描かれ、世代を超えて読み継がれてきた全7巻。文庫版でそろえやすい Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月4日──同い年の黄門さまとは、夕方に出会った

今日は8月4日。夏休みも折り返しにさしかかる、暑さのいちばん厚い時期です。 今から57年前、1969年(昭和44年)のこの日、TBS系の月曜夜8時、『ナショナル劇場』という枠でひとつの時代劇が始まりました。 『水戸黄門』です。 私が生まれたのは、その年の4月。つまりこの番組がスタートしたとき、私は生後4か月の赤ん坊でした。まったくの同い年です。 ──と書くと思い入れたっぷりに聞こえますが、正直に申し上げます。私は月曜夜8時の『水戸黄門』を、ほとんど見ていません。 私の『水戸黄門』は、夕方の再放送で始まりました。 定着しない枠に、京都から時代劇を まずは、その始まりのほうから。 『水戸黄門』は、松下電器(現・パナソニック)の一社提供による『ナショナル劇場』という枠で放送が始まりました。この枠、それまではハナ肇とクレージーキャッツのコメディや布施明主演の青春ドラマなど、現代劇が多かったといいます。ところがどれもシリーズとして定着しない。ならば京都発の時代劇でいこう、と方針が決まって生まれたのが『水戸黄門』でした。企画の中心にいたのは、松下電器宣伝部の逸見稔さんと、制作会社C.A.Lの西村俊一さんです。 初代の黄門さまを演じたのは、俳優座の東野英治郎さん。それまで映画やドラマでは悪役を演じることが多かった人で、62歳にして水戸黄門役が初主演だったそうです。助さんは杉良太郎さん、格さんは横内正さん、元義賊で伊賀忍者という設定の風車の弥七は中谷一郎さん。うっかり八兵衛の高橋元太郎さんは第2部からの登場なので、この時点ではまだ一行にいません。 第1部は1969年8月4日から翌1970年3月9日まで、全32話。記念すべき第1話のタイトルは「俺は助さんおまえは格さん」でした。 こうして日本中の茶の間に、黄門さまが歩き出しました。その同じ年、私は生まれたばかりで、まだ何も見ていません。 私の『水戸黄門』は、外が明るいうちに始まった 小学生になったころ、私は夕方の再放送で『水戸黄門』を見るようになりました。 毎日欠かさず、というほどではありません。平日の、ときどき。学校から帰ってきて、そのままテレビの前に座る日がある、という程度です。そしてたいていの場合、私は一人で見ていました。 いま思うと、これは少し不思議な体験でした。 月曜の夜8時には、最新シリーズの黄門さまが日本中の茶の間を歩いている。その同じ番組を、私は何年も前に作られた回で、平日の夕方に見ていた。同い年のはずなのに、リアルタイムではずっとすれ違い続けていたわけです。 しかも第何部の第何話かなど、子どもの私には知りようがありません。話は毎回きれいに完結するので、順番を気にする必要もない。私にとって『水戸黄門』は、時系列というものが最初から存在しない番組でした。どこから見ても始まりで、どこで終わっても終わりだった。 それでいて、何も困らなかった。むしろそれが、あの番組のいちばんの発明だったのかもしれません。 そして、相撲へ 夕方の再放送には、決まった続きがありました。 黄門さまの旅が終わると、私はそのまま大相撲の中継に移ります。ちょうど上位の取り組みが始まるころ合いでした。江戸時代の旅から、いきなり土俵の上へ。いま並べると妙な取り合わせですが、当時の私にはひと続きの夕方でした。 相撲を見ていた理由については、以前この連載でも書きました。夕方5時の門限です。外で遊べる時間には終わりがあって、それを過ぎたら家にいるしかない。家にいるということは、テレビの前にいるということでした。 つまり私の『水戸黄門』は、「見たくて見た番組」というより、「家にいる時間にそこで流れていたもの」に近い。夜8時に家族そろって見る番組ではなく、一人で、外の明るさを背中に感じながら見る番組だった。同じ番組でも、見る時間帯が違えば、まるっきり別の記憶になるのだと思います。 「お決まり」は、最初からあったわけではない いまや誰でも知っている、あの終盤の場面。格さんが印籠を掲げ、悪代官たちが一斉に平伏す。 ところが、あの様式は最初から完成していたわけではないようです。ひと暴れした後に印籠を見せて正体を明かす──あのお馴染みのパターンに近い形が使われるようになったのは第2部からで、第1部で使われていた印籠とはデザインも違っていたといいます。 主題歌の「あゝ人生に涙あり」も、番組とともに歩いた一曲でした。作詞は山上路夫さん、作曲は木下忠司さん。初代の歌い手は、助さんと格さん──つまり杉良太郎さんと横内正さんです。その後、第4部からは里見浩太朗さんと横内正さん、第9部からは里見浩太朗さんと大和田伸也さん、と、歌い手も助さん格さんの交代とともに移り変わっていきました。 再放送でバラバラに見ていた私は、当然そんな変遷を知りません。黄門さまが印籠を出すのは、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことでした。生まれたときからそこにあったものを、人は「最初からそうだった」と思い込む。あの番組は、私にとってその典型だったのだと思います。 いま振り返ると、私があの番組を見ていた理由も、そこにあった気がします。物語の流れが、おおむね決まっている。誰が悪いのか、最後にどうなるのか、見る前からわかっている。ふつうならそれは退屈の理由になるはずですが、子どもの私にとっては逆でした。あの安心感、あの安定感が、心地よかったのだと思います。 先が読めないものを追いかけるのは、それなりに体力が要ります。夕方の一時間に私が求めていたのは、そういうものではありませんでした。今日も黄門さまは旅をしていて、今日も悪いやつは負ける。それがそのとおりに起きるのを確かめるために、私は座っていたのかもしれません。 私は、助さん派だった 子どもが時代劇を見るとき、たいてい黄門さま本人には感情移入しません。おじいさんですから。目がいくのは、暴れるほうです。 私は、助さん派でした。それも、里見浩太朗さんの助さんが一番のお気に入りでした。 里見さんが佐々木助三郎を演じたのは、第3部から第17部まで。年数にして16年半にわたります。つまり私が小学生で夕方の再放送を見ていたころ、画面の中の助さんは、まず間違いなく里見浩太朗さんでした。「助さんといえばこの人」と刷り込まれたのは、当然といえば当然だったわけです。 格さんには、印籠を掲げて「この紋所が目に入らぬか」と言う、あの一番おいしい役目があります。それでも私は助さんのほうがよかった。子どもが誰を好きになるかは、だいたい理屈ではないものです。 42年の旅の、終わり 『水戸黄門』は、その後ずっと続きました。 黄門さまは東野英治郎さんから西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さんへと引き継がれていきます。そして2002年、第31部。ついに里見浩太朗さんが、黄門役に座りました。 あの助さんが、黄門さまになったのです。 夕方の再放送で、私が一番かっこいいと思っていた男。その人が三十年かけて、旅の主役の側へ回った。子どものころに刷り込まれた序列というのは、四十を過ぎても案外そのまま残っているものです。 そして2011年。第43部をもって、TBS系のレギュラー放送としての『水戸黄門』は終わりました。最終回スペシャルの放送は、同年12月19日。42年の歴史に幕、と報じられました。終了が明らかになった際、里見浩太朗さんはTBS本社での会見で、後ろから斬られたようだ、残念というより痛い、という趣旨のことを語っています。この年はほかにも『3年B組金八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』が区切りを迎え、TBSの長寿ドラマがまとめて姿を消しました。 私はそのとき42歳。生後4か月だった赤ん坊は、番組が終わるときに42歳になっていた。つまり私は、『水戸黄門』とほとんど同じ年月を生きてきたことになります。 これほど正確に自分と並走した番組を、ほかに思いつきません。しかも私は、その42年のうちの何割かを、夕方の再放送という裏口から覗いていただけでした。 令和の茶の間から いま私の家には、地上波のテレビがありません。大きな液晶モニターで、YouTubeやNetflixを見ています。見たいものを、見たいときに、見たいだけ。便利です。文句のつけようがありません。 ただ、いまの配信の見方は、あのころの夕方の再放送によく似ています。順番など気にせず、途中から入って、話が終わればそれでいい。私は昭和の夕方に、すでに配信のような見方をしていたのかもしれません。 違うのは、選んでいなかったということです。テレビをつけたら黄門さまが歩いていて、終わったら相撲が始まった。選んでいないからこそ、体に残っている。いま自分で選んで見ているものが、40年後に同じように残っている自信は、正直あまりありません。 おわりに 1969年8月4日。私が生後4か月だったその夜、テレビの中でひとりの老人が旅に出ました。 その旅は42年続き、私が42歳になった年に終わりました。同い年でありながら、私はその始まりも終わりも、きちんとは見ていません。見ていたのは、小学生のころの、外がまだ明るい夕方の一時間だけです。 それでも「黄門さまがずっとそこにいた」という感覚だけは、いまも体に残っています。たぶん、選ばずに浴びたものというのは、そういうふうに残るのでしょう。 そして、あの旅の最後にいたのは、私が一番好きだった助さんでした。夕方の茶の間で刀を振っていた男が、四十年かけて黄門さまになり、そのまま番組を送り出した。私が見届けなかった終わりを、あの人が引き受けてくれていた。そう思うと、見ていなかったことが、少しだけ許される気がします。 あなたにとっての『水戸黄門』は、夜の番組でしたか。それとも私と同じ、夕方の番組でしたか。何代目の黄門さまがいちばんしっくりきますか。よろしければ、あなたの茶の間の話も聞かせてください。 ...

August 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月27日──毎朝、テレビは「ロッキード」と言っていた

夏の朝、ニュースはいつも同じ事件を伝えていた 1976年、昭和51年の夏。私は7歳、小学1年生になったばかりでした。 我が家の朝は、いつも決まった風景でした。母は台所で朝食の支度をしていて、父と私と妹の三人は、正座の姿勢で箸を動かす。そのかたわらで、テレビはNHKのニュースを流している——それが、あの頃の我が家の朝でした。 正座した子どもの耳に、大人の世界の言葉が、意味もわからないまま流れ込んできます。「為替相場は、1ドル297円」。「丸紅ルートが……」。父も母も、それらについて何か話すわけではありません。ニュースはただ、朝の食卓の空気の一部として、そこに流れているだけでした。 そんな数々の言葉のなかで、なぜか私の耳に、くっきりと残ったものがあります。「ロッキード事件」。カタカナのその名前を、当時の私は、毎朝のように聞いていました。アナウンサーが繰り返し、繰り返し、その言葉を口にしていたのです。 7歳の子どもに、事件の中身などわかるはずもありません。それでも、ひとつだけ、はっきりとわかっていたことがあります。これは、政治家がお金をもらって悪いことをした事件なのだ、ということです。 「政治家が、お金で」——それだけはわかった 不思議なもので、あの言葉の“中身”を、私はその後もずっと、ちゃんとは知らないまま大人になりました。 ロッキードとは何なのか。誰が、誰から、いくらもらったのか。なぜあれほど大きな騒ぎになったのか。断片的な言葉——「田中角栄」「5億円」「記憶にございません」——は覚えているのに、それらがどうつながるのかは、ぼんやりしたままだったのです。 だから今日は、あの夏の朝に毎日聞いていた言葉の中身を、大人になった自分の目で、ひとつずつ確かめてみようと思います。 事件の正体は、一機の旅客機だった ロッキード事件とは、アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、自社の飛行機を各国に売り込むため、政財界の要人に賄賂をばらまいた、国際的な汚職事件です。日本にわたった工作資金は、総額30億円を超えたといわれます。 そもそもロッキード社は、戦闘機など軍用機を得意とするメーカーでした。ところが旅客機の分野では、ボーイングなどの強豪に押されて苦戦を強いられていた。なんとしても自社機を売りたい——その焦りが、世界各国での大がかりな贈賄工作につながっていったのです。賄賂を受け取ったとされる要人の名は、オランダやイタリアなど、日本以外の国々でも取り沙汰されました。まさに世界を揺るがすスキャンダルであり、日本はその最大の“市場”のひとつだったのです。 事の発端は、日本ではなくアメリカでした。1976年2月、アメリカ議会の委員会が開いた公聴会で、ロッキード社の副会長が「日本の政界に金を渡した」と証言したのです。海の向こうでのたった一言が、やがて日本列島を揺るがすことになりました。 当時の首相・三木武夫は、この疑惑の徹底究明を国民に約束します。東京地検特捜部は、警視庁や国税庁とも手を組んだ異例の合同捜査に乗り出しました。同じ自民党の、しかも最大の実力者であるはずの田中角栄に、身内の政権の側から捜査のメスが入っていく——そんな張り詰めた空気のなかで、事件は動いていったのです。 日本での舞台になったのは、全日空——ANAの旅客機選びでした。当時、全日空は新しい大型旅客機の選定を進めており、最終的にロッキード社製の「トライスター」の導入を決めます。この機種選びこそが、のちに“便宜”として問題視されることになりました。その選定の裏で、ロッキード社は商社の丸紅を窓口に、さらに「政商」と呼ばれた小佐野賢治や、右翼の大物・児玉誉士夫といった人物を通じて、日本の中枢へと金を流していきました。その金の流れの先に名前が挙がったのが——時の前首相、田中角栄だったのです。 ここで問われたのが、「受託収賄」という罪でした。政治家がその立場を使って特定の企業に有利なように取り計らい、その見返りに金を受け取る——それがこの罪の中身です。全日空が、どの会社の旅客機を選ぶのか。ただそれだけのことに、これほどの金額と、これほどの権力が動いていた。子どもだった私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたのは、つきつめれば、こういうことだったのです。 「今太閤」の逮捕 田中角栄という政治家を、少し紹介しておきます。 新潟の農村に生まれ、学歴は高等小学校まで。それでも一代でのし上がり、54歳の若さで総理大臣にのぼりつめた人物です。「日本列島改造論」を掲げて全国に道路や鉄道を通し、庶民の出であることから「今太閤」と呼ばれました。まさに立志伝中の宰相です。1972年に首相となって日中国交正常化を成し遂げますが、金脈問題への批判を受け、1974年に退陣していました。 その田中が、ロッキード社から丸紅を通じて5億円を受け取り、全日空にトライスター導入の便宜を図った——という容疑で、1976年7月27日、東京地検特捜部に逮捕されます。罪状は受託収賄と、外国為替管理法違反。総理大臣を務めた大物政治家が、しかも現職の国会議員のまま逮捕される。それは日本じゅうを震え上がらせる、衝撃的なできごとでした。東京・目白の田中邸の前にはカメラマンが群がり、その様子はテレビで生中継されました。逮捕を受けて田中は自民党を離党しますが、それでも日本じゅうが、連日この事件にくぎづけになりました。私が毎朝聞いていた「ロッキード事件」とは、まさにこの一連の騒動のことだったのです。 「記憶にございません」と「ピーナッツ」 この事件は、いくつもの流行語を残しました。 ひとつは「記憶にございません」。逮捕に先立つ2月の証人喚問で、事件の鍵を握るとされた小佐野賢治が、質問のたびにこの言葉を繰り返したのです。嘘をつけば偽証罪に問われる。かといって本当のことは言いたくない。その狭間で編み出された絶妙な逃げ口上は、たちまちその年の流行語になりました。そして半世紀近くたった今も、追い詰められた政治家が国会でしばしば口にする——おなじみの言葉として、生き続けています。 もっとも、事件のいちばんの核心にいたとされた児玉誉士夫は、証人喚問が決まったとたんに「病気」を理由に、公の場に姿を見せませんでした。テレビ中継された喚問の場を国民が固唾をのんで見守るなか、肝心の口ほど、重く閉ざされていたのです。 もうひとつは「ピーナッツ」。賄賂の領収書に、金額を隠すための隠語として書かれていた言葉で、「1ピーナッツ」が100万円を意味しました。抗議のデモ隊が、関係者の事務所にピーナッツの粒を投げつけた、という逸話まで残っています。 裁判は、答えの出ないまま終わった 驚くべきことに、田中角栄は逮捕されても失脚しませんでした。その年の12月の総選挙では、地元・新潟でトップ当選を果たします。逮捕されたばかりの政治家に、有権者が誰よりも多くの票を入れたのです。雪深い新潟の人々にとって、田中は、自分たちの郷里に道路や鉄道を引いてくれた恩人でした。中央の政界で何を言われようと、暮らしをよくしてくれた「おらが先生」を、地元は見捨てなかったのです。田中はその後も「闇将軍」と呼ばれ、政界に絶大な影響力を持ち続けました。 裁判は、長い長い年月に及びました。その途中の1981年には、田中の秘書だった榎本敏夫の元妻が、法廷で検察側の証人に立ち、5億円の授受を裏づける証言を行っています。身内からの決定的なひと言に世間はどよめき、彼女が会見で口にした「ハチの一刺し」という言葉もまた、この事件が生んだ流行語のひとつになりました。そして1983年、一審の東京地裁は、田中に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を言い渡します。しかし田中はただちに控訴。争いが最高裁まで続くなか、1993年、田中は判決の確定を見ないまま、75歳でこの世を去りました。「総理大臣の犯罪」は、はっきりと白黒がつくことのないまま、歴史の中に沈んでいったのです。 半世紀後、あの言葉はまだ国会にある こうして事件の全体像を追いかけてみて、私は少し不思議な気持ちになりました。 あの夏の朝、7歳の私がテレビの前で聞いていた言葉。その中身は、これほどまでに込み入っていて、これほどまでに大きなものだったのか、と。そして、子どもの私が「政治家がお金で悪いことをした」と受け取っていたことは、乱暴なようでいて、案外、事件の芯を突いていたのかもしれません。 そういえば、あの食卓で耳にしていた「丸紅ルート」も、「為替」も——実はこの事件のまん中にあった言葉でした。丸紅は、5億円を田中のもとへ運んだ商社の名前。そして「外国為替管理法違反」は、田中にかけられた罪状そのものです。事件の核心にある言葉を、7歳の私は、意味も知らないまま毎朝口にできるほど聞いていたことになります。正座して箸を動かしていたあの食卓は、思っていたよりずっと、時代のまん中につながっていたのでした。 令和の今も、政治とお金をめぐるニュースは、形を変えて流れ続けています。政治資金や裏金をめぐる問題が報じられ、「記憶にございません」という言葉が国会で聞こえてくるたび、私はあの夏の朝を思い出すのです。半世紀たっても、人は同じ言葉で、同じように逃げる。あのカタカナの事件名を、幼い私が意味もわからず覚えてしまったのは、それが来る日も来る日も、朝のニュースを埋め尽くしていたからでした。そして今も、テレビは少しだけ姿を変えて、同じような事件を伝え続けているのかもしれません。 みなさんにとって「ロッキード」という言葉は、どんな記憶と結びついているでしょうか。リアルタイムで固唾をのんで見守った方も、私のように言葉の響きだけを覚えている方も、よかったらその頃のことを聞かせてください。 「政治家がお金で」という子どもの直感の、その先にある本当の複雑さ。ロッキード事件を一冊で骨太に味わうなら、経済小説の名手・真山仁が事件の深層に迫ったこの一作がおすすめです。田中角栄はなぜ裁かれ、なぜ今なお語られるのか。あの朝のニュースの“中身”が、大人の読み物として立ち上がってきます。 ロッキード(文春文庫)真山仁。『ハゲタカ』の著者が、半世紀の時を経てロッキード事件の深層に挑んだ渾身のノンフィクション Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月26日】僕はいつも別の場所にいた | 次の記事:【7月28日】ロサンゼルスの朝、空を人が飛んだ ▶ ...

July 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月21日──『太陽にほえろ!』が始まった日、金曜夜八時の十四年

1972(昭和47)年7月21日、金曜日の夜八時。日本テレビで『太陽にほえろ!』の第一回が放送されました。 私はこのとき三歳三か月。もちろん記憶にございません。ですが番組が最終回を迎えた1986(昭和61)年11月14日、私は高校二年生でした。全718回、足かけ十四年四か月。要するにこの番組は、私の子供時代とほぼ同じ長さだけ、金曜の夜八時を走り続けたことになります。 いま調べてみると、この番組には放送当時の子供が知るはずもない「裏側」が山ほどありました。今日はそれを掘ってみます。 なぜ「7月21日」という半端な日に始まったのか テレビの新番組といえば四月か十月に始まるものです。なぜ夏の、しかも七月二十一日という中途半端な日だったのか。 理由はドラマではなく、プロレスにありました。 金曜夜八時は、力道山の時代から日本テレビのプロレス枠でした。三菱電機一社提供の『三菱ダイヤモンド・アワー』。ところが1972年4月、NET(現在のテレビ朝日)が両局の協定を破ってジャイアント馬場の試合を中継してしまいます。激怒した日本テレビは5月12日の放送を最後に、十八年続けてきたプロレス中継を打ち切りました。 そこから約二か月、『日本プロレス選手権特集』という名勝負集でつなぎ、その後番組として7月21日に始まったのが『太陽にほえろ!』だったのです。スポンサーも同じ三菱電機のまま。 つまりこの刑事ドラマは、プロレス界のゴタゴタが生んだ代替番組でした。七月という変則スタートはその名残です。そしてこれには思わぬ副作用がありました。俳優との年間契約も七月起点になったため、若手刑事の降板──すなわち殉職が、夏に集中することになったのです。マカロニ刑事が1973年7月13日、ジーパン刑事が1974年8月30日、テキサス刑事が1976年9月。あの夏の風物詩のような殉職ラッシュには、こんな事務的な理由がありました。 さらに面白いのは、追い出された側のプロレスの行方です。新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』が金曜夜八時に定位置を構えたのは1973年4月から1986年9月まで、十三年六か月。つまり『太陽にほえろ!』は、ほぼ全期間にわたって猪木と視聴率を争い続けたことになります。のちにTBSの『3年B組金八先生』も加わって、石原裕次郎・アントニオ猪木・武田鉄矢の三つ巴。金曜夜八時が「戦国時代」と呼ばれた所以です。 十三話で辞めるはずだった「ボス」 藤堂係長を演じた石原裕次郎は、日活黄金期のトップスターでした。しかしテレビの普及で映画は斜陽となり、1963年に設立した石原プロモーションの経営は次第に悪化していきます。 裕次郎がテレビドラマにレギュラー出演したのは、この事務所の経済的事情から東宝と日本テレビの説得に応じた結果だったといいます。しかも当初は「十三話まで」という約束でした。 十三話になり、予定どおり降板しようとした裕次郎を引き止めたのは、まき子夫人と、ゴリさんこと竜雷太たちだったそうです。 もしここで本当に降板していたら、と考えると少し背筋が寒くなります。番組の大ヒットでテレビの力を知った裕次郎は、のちに『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズを世に送り出しました。あの土曜夜八時の派手な爆破シーンも、まき子夫人の引き止めがなければ存在しなかったかもしれません。 「殉職」という発明は、事故から生まれた 当初の構想では、新人のマカロニ刑事こと早見淳を主人公にした「青春アクションドラマ」として、彼の成長を描いていく予定でした。 ところが一年を迎えるころ、演じる萩原健一から降板の申し出が出ます。この作品で自分のキャラクターが固まってしまうのが嫌だった、というのが理由でした。しかも本人の希望は「劇中で死にたい」。 そこで用意された最期が、あれです。非番の日、空き地で立ち小便をしている最中に、小銭目当ての通り魔に刺される。ヒーローらしさの欠片もない、あっけない死。厳密に言えばこれは殉職ですらありません。撮影されたのは当時まだ空き地だらけだった新宿西口で、その場所には現在、新宿野村ビルが建っています。 主人公が消えても番組は終わりませんでした。後任に据えられたのが、当時まったくの新人だった松田優作。ジーパン刑事です。これが当たり、視聴率は常時二十パーセントを超え、ついに三十パーセントを突破します。撃たれてから絶命するまでのあの絶叫は、台本には存在しない松田のアドリブだったと伝わっています。 そして1976年9月、テキサス刑事の殉職回はニールセン調べで42.5パーセントという番組最高視聴率を記録しました。四割です。日本中がひとつの刑事の死を見ていた。 ちなみに記念すべき第一話のゲスト出演は、若き日の水谷豊。第二十話は沢田研二でした。 もうひとつ。この番組がやたらと走るドラマになったのは、初期の中心監督だった竹林進が「人間のもっとも美しい姿は、一生懸命走る姿である」という考えの持ち主だったからだそうです。歴代の若手刑事たちが走った距離を合計すると地球を一周する、とまで言われました。 面白さが、わからなかった 七曲署の刑事たちの生き死にを、自分の学年と並べてみます。 小学一年の秋、テキサスが殉職(1976年9月) 小学四年の夏、ボンが殉職(1979年7月) 小学五年の夏、殿下が事故死(1980年7月) 小学六年の冬、スコッチが病死(1982年1月) 中学一年の秋、ゴリさんが殉職(1982年10月) 高校一年の夏、ラガーが殉職(1985年8月) 高校二年の春、山さんが殉職(1986年4月) ただし、この全部を観ていたわけではありません。私が金曜夜八時の前に座っていたのは、このうちの真ん中あたり、ほんの数年間です。 きっかけは友達でした。小学二年生のとき、一つか二つ年上の友達から「『太陽にほえろ!』というドラマがおもしろいぞ」と聞いて観はじめたのです。生まれて初めて、刑事ドラマというものを真剣に観ようと思った作品でした。 ところが、正直に言えば、面白さがわかりませんでした。 事件が起きて、大人たちが走って、誰かが撃たれる。それの何が面白いのか、八歳の私にはさっぱり掴めなかったのです。それでも友達との会話では話を合わせて「面白かった」と言っていたのですから、我ながらいじらしい(笑)。 それが、観続けているうちに、いつのまにかはまってしまった。これが本当のところです。 再放送と記憶が混ざってしまってはっきりしないのですが、金曜夜八時にリアルタイムで追いかけた新人刑事は、ボンからだったのではないかと思います。あとから年表と照らし合わせてみると、私が小学二年生だった1977年から78年ごろ、七曲署にいた新人刑事はたしかにボンでした。辻褄は合っているようです。 そして、ラガー刑事の登場は鮮明に覚えています。小学六年生の秋のことでした。 けれども不思議なもので、私がいちばん好きだった刑事は、リアルタイムでは一度も観ていません。再放送で観たジーパン刑事──松田優作です。あの殉職シーンは、どうしようもなく悲しくなりました。 台本になかったあの絶叫が、松田優作のアドリブだったと知ったのは、ずっと後のことです。 ボスの、最後のアドリブ 裕次郎は1981年4月に入院し、しばらく画面から姿を消します。1986年5月には再入院となり、このときは代行として渡哲也が七曲署に配されました。 やがて裕次郎自身から「健康な状態での復帰は望めない」として降板の申し出があり、番組の円満終了が決まります。そして最終回、第718話「そして又、ボスと共に」にだけ、ボスは帰ってきました。 殉職の危機にある澤村刑事を救うため、犯人の妹を取り調べる。この場面のセリフは、裕次郎のアドリブだったと言われています。 五年前に心臓を切る手術をした──という、現実の自分と重なる話をし、医者に止められているはずの煙草を口にしてみせ、そしてこれまでに亡くなった刑事たちの中から、スコッチの名を挙げました。 スコッチを演じた沖雅也は、このときすでにこの世にいませんでした。数ある殉職刑事の中からあえてその名を選んだのは、偶然ではなかったのだろうと思います。 これが石原裕次郎にとって、最後のドラマ出演となりました。 金曜夜八時を、私のほうが先に降りた 最終回のころには、私はすでに『太陽にほえろ!』を卒業していました。 おそらく中学に入ったあたりから、私の金曜夜八時はアントニオ猪木に移っています。つまり十四年にわたって視聴率を奪い合った二つの番組のあいだで、私自身が乗り換えた一人だったわけです。あれほど熱心に観ていたのに、山さんが殉職したことも、ボスが最終回だけ帰ってきたことも、当時の私は知りませんでした。 ...

July 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月13日──少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私

七月十三日。 今日は何の日だろうと昭和の暦をめくっていくと、昭和四十年(一九六五年)のこの日に、一人の女の子が東京で生まれている。中森明菜さん。私より四つ年上の、あの明菜さんだ。 名前を書いただけで、頭の中で「少女A」のイントロが鳴りはじめた方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。今日はこの人が生まれた日を入り口に、私が中学一年生だった昭和五十七年の夏の話を、少しさせてほしい。 三百九十二点の伝説 中森明菜さんの出発点は、日本テレビの『スター誕生!』だった。昭和五十六年(一九八一年)七月、十六歳になる直前の彼女は、この番組で山口百恵さんの「夢先案内人」を歌う。そのときの得点が、三百九十二点。番組の歴史のなかで最高記録だったと伝えられている。 『スター誕生!』というのは、十二年間で二百万人もの応募があったという、とんでもない規模のオーディション番組だった。全国のお茶の間から、歌のうまい子が名乗りを上げて、審査員の前で歌う。合格すると、たくさんの芸能事務所やレコード会社がプラカードを掲げて、われ先にとスカウトする。あの光景を、私も茶の間のテレビでよく見ていた。「この子は受かるかな、落ちるかな」と、家族であれこれ言い合うのが楽しかった。 思えば『スター誕生!』は、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの「花の中三トリオ」をはじめ、昭和の歌の世界に次々とスターを送り出した番組だった。その夢の回路の、いちばん新しい入口から現れたのが、中森明菜さんだったわけだ。その番組で史上最高点を叩き出した女の子が、翌年、本当にデビューしてくる。子ども心にも、これはただごとではないという予感があった。 デビュー曲「スローモーション」がレコード店に並んだのが、昭和五十七年(一九八二年)五月一日。そしてその二枚目、名前だけで時代の空気を思い出させる「少女A」が発売されたのが、同じ年の七月二十八日だった。つまり、明菜さんの誕生日である今日から、ほんの二週間ほど後のことになる。 「少女A」という事件 この「少女A」という曲には、いま振り返ると面白い裏話がある。作詞をしたのは、当時まだ駆け出しだった売野雅勇さんという方。もともとこの詞は、明菜さんのために書かれたものではなかった。売野さんが沢田研二さんのために用意していた「ロリータ」という詞——中年の男性がプールサイドから少女をそっと見つめている、という大人の視点の歌詞が、下敷きになっていたのだそうだ。 締め切りに追われた売野さんが、苦しまぎれにその設定を借りて、視点をぐるりと反対に回した。見られる側だった少女が、こちらを見返す側になった。「特別じゃない、どこにでもいる少女A」が、じゃあ好きにすればいいと開き直って世界を突き放す。あの挑発的な歌詞は、そうして生まれたと伝えられている。 面白いのは、当の明菜さん自身が、最初はこの曲に乗り気ではなかったという話だ。同じ年にデビューした仲間たち——のちに「花の八二年組」と呼ばれる、小泉今日子さんや堀ちえみさん、石川秀美さんたち——は、フリルやレースのついた、いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着ていた。明菜さんも本当は、そういう衣装を着たかったのだという。それなのに与えられたのは、可愛さとは正反対の、尖った不良少女の歌だった。 けれど結果として、その曲が明菜さんを一気にスターへ押し上げた。みんなと同じ可愛さで勝負しなかったことが、逆に彼女だけの居場所を作った。子どもだった私はそんな事情など何も知らなかったが、テレビの向こうの明菜さんが、まわりと違う空気をまとっていたことだけは、はっきり感じ取っていた。 河合奈保子から、中森明菜へ 昭和五十七年の四月、私は中学一年生になった。 小学生のころの私にとって、アイドルといえば河合奈保子さんだった。あの、ふんわりと笑う、健康的で優しい感じの人。まぶしいけれど、どこか近所のお姉さんのような安心感があって、子どもだった私はすっかり心を許していたのだと思う。 ところが、中学の制服に袖を通したあたりから、私の中で何かが少しずつ変わっていった。優しいお姉さんよりも、少し不機嫌そうで、こちらをまっすぐ見返してくるような、そういう強さに惹かれるようになっていったのだ。そこに、ちょうど中森明菜さんが現れた。 「少女A」の、あの挑むような歌い方。子どもが背伸びをしているのとも違う、かといって完成された大人でもない、ぎりぎりのところで尖っている感じ。河合奈保子さんから中森明菜さんへ——それは私の中では、子どもから大人へと変わっていく、ひとつの通過儀礼のようなものだった。 きっかけは、友達のひと言だった。「中森明菜っていいよ」。そう言われてから、テレビの歌番組で明菜さんを見かけるたびに、少しずつ目が離せなくなっていった。ほかのきゃぴきゃぴしたアイドルとは、明らかに何かが違う。あのツンとした雰囲気が、私にとってはど真ん中のストライクだった。 一度はまってしまえば、あとは一直線だ。シングルはもちろん、アルバムまで一枚残らず買いそろえ、明菜さんの曲だけを集めた「マイベストテープ」も、何本も何本も作った。大学に入って浜田省吾さんの世界に出会うまでの七年ほど、私はずっと明菜さんに夢中だった。あの頃の自分の音楽の記憶は、そっくりそのまま明菜さんの声でできていると言ってもいいくらいだ。 木曜九時の攻防 我が家の木曜日の夜九時は、『ザ・ベストテン』の時間だった。 ランキングが一位から順に発表されていくあの緊張感。カセットデッキの前に正座して、赤い録音ボタンと白い再生ボタンを同時に押す、あの二本指の儀式。歌の途中で家族が「ごはんよ」なんて声をかけようものなら、あとで大惨事だ。次の日、友達と「昨日のベストテン、明菜は何位だった」と答え合わせをするのが、当時の私たちにとっては大事な社交だった。 その画面の真ん中に、中森明菜さんはいつもいた。同じ年ごろの、松田聖子さんや小泉今日子さんと並んで、それぞれにまったく違う魅力を放っていた。聖子さんが笑顔なら、明菜さんは眼差し。今にして思えば、あの時代の歌番組は、いくつもの「かっこよさ」が同時に成り立っていた、とても贅沢な場所だった。 とりわけ「聖子か、明菜か」というのは、あの頃の昭和の歌謡界を二つに分ける、大きな分かれ道だった。明るく、可憐で、ずっと笑っている松田聖子さん。翳りがあって、こちらを試すように見つめてくる中森明菜さん。まるで陽と陰のように、二人はきれいに対照的で、どちらが好きかを言うことが、その人がどんな人間かを少しだけ言い当ててしまうような、そんな空気があった。学校でも、聖子派と明菜派はなんとなく分かれていて、私が明菜派だと打ち明けるのは、幼いなりに小さな自己主張だったように思う。優しいだけの世界から一歩踏み出したい——そんな背伸びを、明菜さんはそっと後押ししてくれていたのかもしれない。 大晦日の、連覇 「少女A」でスターになった明菜さんは、そこから昭和の終わりに向けて、坂道を駆け上がるように名曲を積み重ねていく。三枚目の「セカンド・ラブ」はチャートの一位を取り、その後も「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」と、曲の色をどんどん変えながらヒットを飛ばし続けた。同じ人が歌っているのに、一曲ごとにまるで別の女優のように表情を変える。あれが明菜さんの凄みだった。 そして昭和六十年(一九八五年)、「ミ・アモーレ」で日本レコード大賞を初めて受賞する。さらに翌昭和六十一年(一九八六年)、「DESIRE -情熱-」で二年連続の大賞。女性歌手が二年続けて大賞を取ったのは、このときが史上初めてのことだった。着物風の衣装を肩から滑らせ、髪を刈り上げたあの「DESIRE」の姿は、もうアイドルという言葉では収まりきらない何かだった。ちなみに、数えきれないほどある明菜さんの曲のなかで、私の一番はこの「DESIRE」だ。それは今も変わらない。 昭和六十年といえば、私はちょうど高校一年生。白球ばかり追いかけて、甲子園を本気で夢見ていたころだ。野球部の練習でくたくたになって家に帰り、大晦日にテレビでレコード大賞を眺める。中学の入り口で見上げていた明菜さんが、高校生になった私の頭上を、はるか高いところで飛び続けている。同い年ではないけれど、同じ時間を走っている感覚が、確かにあった。 体育館に、明菜が現れた ここで、話をぐっと先へ——大人になってからの一夜に飛ばさせてほしい。 私は大学を出て信用金庫に就職し、その後、大手の運送会社へ移った。この会社がとにかくスポーツが盛んで、毎年ゴールデンウィークになると、滋賀県で三泊四日の社内全国大会が開かれる。各ブロックの予選を勝ち抜いた営業所だけが出場できる、たぶん日本一の規模の社内大会だった。私も野球で、その全国大会の舞台に立つことができた。 大会中はいろいろな催しがあるのだが、みんなが一番楽しみにしていたのが、二日目の夜に開かれるコンサートだ。出演者は当日その時間まで、いっさい知らされない。会場はスポーツ施設の体育館。さあ誰が出てくるのかと固唾をのんで待っていた、その舞台に——現れたのが、あの中森明菜さんだったのだ。 信じられるだろうか。テレビのブラウン管の向こうで、ずっと高いところを飛んでいたはずのあの人が、いま、目の前の体育館のステージに立っている。会場は当然、大興奮だ。懐かしい曲のオンパレードで、それは普段のコンサートとはまるで違う、手作りのような、それでいて本当に本当に、自分もその一部になれたと思える素晴らしいステージだった。中学一年生の私が茶の間から見上げていた明菜さんに、大人になった私が、同じ空気のなかでようやく会えた夜だった。 令和に、明菜を思う あれから四十年以上が経った。 私は今、路線バスのハンドルを握って毎日を過ごしている。家にはもう地上波のテレビもなく、大きなモニターでユーチューブやネットフリックスを眺める暮らしだ。それでも、ふとした拍子に「少女A」や「セカンド・ラブ」が流れてくると、一瞬で昭和五十七年の、あの中学一年生の夏に引き戻される。制服がまだ体になじんでいなくて、大人になりたいような、なりたくないような、あの落ち着かない気持ちごと。 歌というのは不思議なもので、こちらは年をとっていくのに、あの頃の自分をそっくり保存してくれている。友達のひと言から始まって、レコードを買い集め、テープを作り、そしていつかは同じ体育館の空気を吸った——中森明菜さんが今日、誕生日を迎えるたびに、私はあの一つひとつの自分に、少しだけ会いに行けるのだ。 みなさんにとって、「子どもから大人へ変わる境目」に鳴っていた歌は、何でしたか。よかったら聞かせてほしい。 「少女A」「セカンド・ラブ」「北ウイング」「DESIRE」——この記事で名前を挙げた曲が、オリジナル音源でまとめて聴けるのがこの一枚です。カバーではなく、あの頃テレビとカセットから流れていた、まさにあの声。明菜さんの誕生日の今日、あらためて針を落とすように聴き直すのに、ちょうどいいベスト盤です。 オールタイム・ベスト ‐オリジナル‐(中森明菜)デビューから代表曲までをオリジナル音源で網羅。少女A・DESIRE・北ウイングまで、あの声のまま Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 あわせて読みたい:その前年、同じ体育館のステージに立っていたのは郷ひろみさんでした▼ 【8月1日】「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える | 次の記事:【7月14日】リカちゃんは、葛飾の子だった ▶ ...

July 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月12日──球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える

七月も半ばにさしかかると、夕方になっても空気が生ぬるくて、どこからか蚊取り線香の匂いが漂ってくる。そんな季節になると、私の頭の中では決まって、あの伸びやかな歌声が鳴りはじめます。 きょう7月12日は、渡辺美里さんの誕生日です。昭和41年(1966年)のこの日、京都で生まれ、東京で育った少女は、のちに日本の音楽史に「スタジアム伝説」という言葉を刻むことになります。私より三つ年上。ほんの少しだけ先を歩く、お姉さんの世代です。 そして今日、令和8年の7月12日。渡辺美里さんは還暦、六十歳を迎えます。あの夏の球場で歌っていた人が六十歳。にわかには信じがたいのですが、考えてみれば私自身がもう五十七歳なのですから、当たり前といえば当たり前なのでした。 高校一年の冬に落ちてきた「My Revolution」 渡辺美里さんがデビューしたのは昭和60年(1985年)。その前年、応募者十八万人を超えるミス・セブンティーンコンテストで最優秀歌唱賞を受賞しての、鳴り物入りのスタートでした。ちなみにこのコンテストの同期には、のちに活躍する工藤静香さんや国生さゆりさんの名前もあります。とはいえ、デビュー曲「I’m free」はそれほど売れなかったそうです。ライブハウスを回り、先輩歌手のコーラスを務める下積みの日々もあったといいます。 運命が変わったのは、昭和61年(1986年)1月22日にリリースされた四枚目のシングル「My Revolution」でした。 作曲は、当時まだTM NETWORKでデビューして間もない、駆け出しの小室哲哉さん。曲ができたとき、小室さんは渡辺さんのもとに駆けつけてピアノでイメージを伝え、渡辺さんは「体に電流が走ったような気持ちになった」と後年語っています。ドラマ『セーラー服通り』の主題歌に起用されたこともあって、この曲は3月24日付のオリコンシングルチャートで一位を獲得。無名に近かった十九歳の歌手を、一気にスターダムへ押し上げました。渡辺さんはこの曲で『ザ・ベストテン』に初めて生出演も果たしています。 「わかりはじめたMy Revolution」——あのサビの疾走感は、四十年経ったいまでも色あせません。歌謡曲ともアイドルとも違う、まっすぐで力強い歌声。この曲は高校一年の終わりから、二年生になったばかりの私の耳にも、確かに届いていました。 最初に聴いたのは、たしか『ザ・ベストテン』だったような気がします。毎週木曜の夜九時、ランキングを楽しみに見ていた時代です。第一印象は、明るく勢いのある曲だな、というものでした。 学校へ行くと、友達がサビを口ずさんでいる。文化祭では体育館のステージに上がって歌う生徒までいる。それくらい、私たちのあいだでは流行っていました。だから、あっという間に覚えてしまいました。当時の高校生にとっては、「頑張ろう」「前に進もう」という気持ちにさせてくれる、青春ど真ん中の一曲だったと思います。 もちろん「My Revolution」は、マイベストテープにも入れていました。当時はレコードをカセットテープにダビングして、自分だけの一枚を作るのが楽しみだった時代です。私の相棒は、お小遣い事情でソニーのウォークマンではなくAIWAのカセットプレーヤーでしたが、通学の道すがら、よく聴いていた思い出があります。 テープには当時流行していた曲を並べていましたが、「My Revolution」は外せない一曲でした。友達の間でも人気があり、「いい曲だよね」と話題になることも多かった。私の高校時代を象徴する、青春ソングの一つだったと思います。 野球少年の聖地で、歌手が歌った夏 そして昭和61年の夏、事件が起きます。 8月2日の大阪スタヂアムを皮切りに、名古屋城深井丸広場、そして8月8日の西武ライオンズ球場。渡辺美里さんは「MISATO SPECIAL ‘86 KICK OFF」と題したスタジアムコンサートを敢行しました。女性ソロシンガーが球場でコンサートを開くのは、日本で初めてのことでした。 このとき渡辺美里さんは、二十歳になったばかり。デビューからわずか一年二か月です。きっかけは、ラジオ番組の放送前にマネージャーから「やってみる?」と聞かれて、球場のことがよくわからないまま「何となく」返事をしたことだったといいますから、豪快な話です。ライブの一か月前には、十代の邦人アーティストとして初となる二枚組アルバム『Lovin’ you』をリリース。8月8日の西武球場のステージには、「My Revolution」を生んだ小室哲哉さんもキーボードで参加していました。 私にとって「球場」とは、野球をする場所でした。当時の私は高校二年生。白球を追いかける毎日で、球場という言葉から連想するのは後楽園球場のジャイアンツ戦か、憧れの甲子園です。ちなみにこの昭和61年の西武球場といえば、ルーキーの清原和博選手がホームランを量産していたグラウンドでもあります。野球少年にとって、あそこはまぎれもなく「野球の聖地」のひとつでした。 その神聖なグラウンドにステージを組んで、私とたいして歳の変わらないお姉さんが、たった一人で数万人を前に歌う。 じつは当時、西武球場で毎年コンサートが開かれていることは知っていました。親友のお兄さんが渡辺美里さんの熱烈なファンで、実際に西武球場のコンサートへ行ったと聞いていたからです。 野球部だった私にとって、普段は野球をする場所で何万人もの観客を集めてコンサートが開かれるというのは、とても新鮮で、驚きでした。当時は自分が行く機会はありませんでしたが、「いつか行ってみたい」と思うほど、印象に残っていました。 ちなみにこの昭和61年の渡辺さんは、球場ライブの直後の9月から全国三十八か所を回るツアーに突入し、途中で声帯ポリープを患って中断を余儀なくされたそうです。二十歳の身体で、どれほど無我夢中で駆け抜けた一年だったことか。私たちが白球を追いかけていたあの夏、三つ年上のお姉さんも、別のグラウンドで全力疾走していたのです。 この西武球場の夏のライブは、以後、毎年恒例となります。全盛期には四万枚のチケットが即日完売。平成2年(1990年)からは、観客輸送を兼ねた臨時特急「MISATO TRAIN」が西武線を走りました。はじめは5000系レッドアロー号、平成7年(1995年)からは10000系ニューレッドアロー号。毎年デザインの変わる特製ヘッドマークを掲げて球場へ向かう列車を、渡辺美里さんのファンだけでなく鉄道ファンもカメラに収めたそうです。線路っぷちで育った私としては、この話には胸が熱くなります。歌手の名を冠した特急列車が、年に一度だけ走るのです。しかもこの列車、西武ライブの終幕後も惜しまれ、平成30年(2018年)には西武ライオンズ四十周年イベントの一環として、一日限りのヘッドマーク付き復活運転まで果たしています。 初年のタイトルが「KICK OFF」、そして20年目の平成17年(2005年)、最終章のタイトルは「NO SIDE」。試合開始と試合終了。渡辺さんが高校時代にラグビー部のマネージャーを務めていたことに由来するそうです。最後の「NO SIDE」には約三万九千人が集まり、二十年間の動員は延べ七十万人にのぼりました。ひとつの球場で、ひとりの歌手が積み上げた数字としては、もう伝説と呼ぶほかありません。 六十歳の「Birthday」 その渡辺美里さんが、今日、還暦を迎えます。 そして偶然ではないのでしょう、三日後の7月15日には、七年ぶりのオリジナルアルバムがリリースされます。タイトルは『Birthday』。さらに今年の11月8日には、あの西武球場——いまはベルーナドームと名前を変えました——で、実に二十一年ぶりのスタジアムライブが開催されることも発表されています。 六十歳になった歌手が、二十歳の夏に立った球場へ帰っていく。四十年の歳月をまたぐその姿を想像すると、私は少しだけ泣きそうになります。 私たちの世代は、渡辺美里さんの歌に「がんばれ」と言われ続けてきた世代です。十代の終わりに聴いた歌を、五十七歳のいまも聴ける。しかもご本人が、いまも現役で、あの頃と同じ場所で歌おうとしている。これほど幸せなことがあるでしょうか。 そして私には、高校二年の夏から持ち越したままの宿題があります。あのとき果たせなかった「いつか行ってみたい」。四十年越しのその機会が、今年の11月8日、目の前にぶら下がっているのです。さて、どうしたものでしょうか。 みなさんには、渡辺美里さんの思い出の一曲はありますか。夏の球場に、行ったことはありますか。よろしければ、コメントで聞かせてください。 「My Revolution」も「サマータイム ブルース」も「虹をみたかい」も、あの頃カセットに録って擦り切れるほど聴いた曲が、この一枚にまとめて入っています。マイベストテープをもう一度作らなくても、名曲がぜんぶ揃う。還暦を迎えた今日、あらためて聴き直すのに、これ以上の一枚はありません。 ...

July 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月10日──怪獣ブームより先に、あの男は生まれていた

今日は7月10日。私が生まれる3年前、1966年(昭和41年)のこの日、のちに何十年も子どもたちのヒーローであり続けることになる男が、ブラウン管に初めて姿を現しました。『ウルトラマン』です。 もっとも、正式な第1話が始まったのはこの日ではありません。実はこの日に放送されたのは、ちょっと変わった経緯を持つ番組でした。 「前夜祭」という名の、間に合わせの放送 話は、その前番組にさかのぼります。『ウルトラマン』が始まる前、同じ枠では『ウルトラQ』という怪獣番組が放送され、大ヒットしていました。この人気を受けて、次の作品として企画されたのが『ウルトラマン』です。ところが、ここで思わぬことが起こります。『ウルトラQ』の最終回が、内容が難解すぎるという理由で、放送を見送られることになってしまったのです。 『ウルトラマン』は本来、7月17日から始まる予定でした。しかし『ウルトラQ』の最終回が飛んだことで、その一週間、枠がぽっかり空いてしまいます。そこをどう埋めるか——制作側が用意したのが、前日に杉並公会堂で行われていたウルトラマンの宣伝イベントの映像でした。それを「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」として放送したのが、1966年7月10日。つまり私たちが「ウルトラマンの日」として記憶しているこの日は、本編ではなく、いわば見切り発車の穴埋め番組が生まれた日だったわけです。ヒーローの初登場が、こんなにも慌ただしい事情から生まれたというのは、なんだか人間くさくて、私は少し好きです。 そして翌週から始まった本編は、平均視聴率36.8%、最高視聴率はなんと42.8%(1967年3月放送分)という、今では考えられない数字を叩き出しました。当時のお茶の間の半分近くが、毎週日曜の夜、あの男の戦いを見つめていたことになります。テレビがまだ一家に一台、それも白黒だった時代に、これほどの人が同じヒーローに熱狂していたのです。 ブームが去っても、消えなかった男 『ウルトラマン』の熱狂は1968年頃には一段落し、子ども向け番組の主役は『巨人の星』のようなスポ根ものへと移っていきます。新しい特撮ヒーロー番組は、しばらく作られませんでした。けれど不思議なことに、ウルトラマンはそこで終わりませんでした。すでに放送された作品が繰り返し再放送され、そのたびに視聴率は18%前後という、新作顔負けの数字を叩き出し続けたのです。怪獣というマグマは、子どもたちの中でずっとくすぶり続けていました。 その間、1970年には、過去の戦闘シーンを再編集し、新たに撮影した怪獣同士の対決を加えた5分間の帯番組『ウルトラファイト』も放送されます。「出がらしだ」と揶揄する声もありましたが、子どもたちはこれにも熱中しました。そうした熱がとうとう抑えきれなくなり、1971年、ついに新作『帰ってきたウルトラマン』が登場します。いったん幕を下ろしたはずのブームが、再び燃え上がる——テレビ番組ではきわめて珍しい「ブームの再燃」でした。作り手たち自身も、驚いたといいます。ウルトラマンという存在が、それほど深く子どもの世界に根を下ろしていたことに、当人たちも気づいていなかったのです。 私が生まれたのは1969年4月。つまり初代『ウルトラマン』の本放送にも、1971年の「帰ってきた」ブームの立ち上がりにも、リアルタイムでは間に合っていません。物心つく頃には、すでにウルトラマンは「新しく始まるもの」ではなく、「気づいたらそこにあるもの」でした。 私にとっての「最初のウルトラマン」 私にとって、最初に出会ったウルトラマンは『帰ってきたウルトラマン』だと、長いあいだ思い込んでいました。MATの隊員服、マットアロー1号・2号、そして郷秀樹を演じた団次郎さん。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング、ナックル星人——こうした怪獣や宇宙人の名前が、今でも鮮明に頭に残っています。私の中では「ウルトラマン=郷秀樹」という図式が、ずっと当たり前のものでした。 ところが、あらためて調べて驚きました。『帰ってきたウルトラマン』の本放送は1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月まで。この時期の私は、放送開始時でわずか1歳11か月、最終回でも2歳11か月です。とても、番組をしっかり覚えていられる年齢ではありません。 では、私が夢中になって見ていたあれは、いったい何だったのか。答えはおそらく「再放送」です。昭和48年、49年、50年——私でいえば4歳から6歳、幼稚園の年長にかけて、ウルトラシリーズの再放送が全国で驚くほど頻繁に行われ、大きなブームになっていたといいます。まさにテレビにかじりつく年頃です。郷秀樹が私の「最初のウルトラマン」になったのは、そういうからくりだったのでしょう。本放送に間に合わなかったはずの私が、再放送という時間差の魔法で、いつのまにかその世界の住人になっていたわけです。 そこから先は、『ウルトラマンA』、『タロウ』と、まっすぐにつながっていきました。どれが一番かと問われても困ります。結局のところ、すべてのウルトラマンが、私のヒーローでした。 スペシウム光線と、100円のカード もちろん、ただ見ているだけでは済みません。空き地や公園に集まれば、ウルトラマンごっこの始まりです。両腕を十字に組むスペシウム光線のポーズは、何度練習したかわかりません。ついでにウルトラセブンのアイスラッガーを頭から投げる真似もしました。今思うと、よくあんな格好で大真面目になれたものです。 そしてもう一つ、あの頃の男子を熱狂させたのが、怪獣図鑑のカードでした。1袋100円で売られていて、そのカードを集めて図鑑を完成させるのです。図鑑の台紙になる本のようなものは別売りで、そちらも買いそろえる必要がありました。学校の男子は、クラス中がこれに夢中でした。誰よりも早く自分の図鑑を完成させたい——その一心で、みんな必死にカードを買い集めていたのを思い出します。 完成が近づくと、今度は同じカードのダブりが大量に出てきます。「これ持ってる」「それ欲しい」と、友達同士で交換し合ったあの時間も、いい思い出です。 ちょっと変な記憶なのですが、図鑑の1番は確か『ミクラス』で、表紙に貼り付けるようになっていた気がします。それが、貼っても貼ってもすぐに剥がれてしまうのに困っていました。セロテープで補強している友達もいて、みんな同じところで苦労していたのが、今となっては微笑ましく思えます。 伝説の余熱で育った世代 考えてみれば、私が本放送を見ることのできなかったヒーローが、再放送という形を借りて、私の子ども時代をこれほどまで彩っていたわけです。1966年に生まれたウルトラマンは、私が生まれる前にすでに伝説になっていて、その伝説の余熱だけで、私を含めた何世代もの子どもを育てていきました。 胸のカラータイマーが点滅し、地球にいられる時間は3分間だけ。M78星雲からやってきた光の巨人が、両腕を十字に組んでスペシウム光線を放つ——あのシンプルな約束事が、これほど長く子どもの心をつかんで離さないとは、いったい誰が予想したでしょうか。ウルトラシリーズは、2013年に「最も多くの派生テレビシリーズが作られたテレビ番組」としてギネス世界記録にも認定され、その後さらに記録を更新しています。始まりが「穴埋め」だったヒーローが、世界記録の持ち主になったのです。 今、当時の映像はYouTubeの公式チャンネルでいつでも見られます。前夜祭という間に合わせから始まった番組が、60年近くたった今もまだ現役だというのは、当のスタッフたちも想像していなかったのではないでしょうか。今の子どもたちもまた、最新のウルトラマンに夢中になっている。私が郷秀樹に胸を躍らせたのと、まったく同じ目の輝きで。 親から子へ、子からまたその先へ。ウルトラマンは、そうやって世代を越えてバトンをつないできました。あの光の巨人は、本当に時間を超えて生き続けているのだと、しみじみ思わされます。私が再放送で受け取った一本のバトンも、たしかにその長いリレーの一区間だったのでしょう。 みなさんは、ウルトラマンとどんなふうに出会いましたか。本放送派でしたか、それとも私のような再放送育ちでしたか。 あの頃、100円のカードを握りしめて集めた怪獣図鑑。あれを大人になった今、決定版として手に入れられるのがこの一冊です。ベムスター、ツインテール、グドン、ブラックキング——名前だけは覚えている、あの顔ぶれに一気に再会できます。孫と一緒にページをめくるにも、ちょうどいい厚みです。 ウルトラ怪獣コレクション ウルトラマン・ウルトラセブン編円谷プロダクション監修。初代からセブンまでの怪獣・宇宙人を、鮮明な写真と解説で網羅した保存版 Amazonで見る › 昭和の今日は何があった日? 明日はどんな日だったのでしょうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月9日】大井川鉄道、日本初のSL動態保存が始まった日 | 次の記事:【7月11日】私より9か月早く生まれた、あの雑誌のこと ▶

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