今日は9月20日。

昭和62年(1987年)のこの日、日曜日の国立代々木競技場第一体育館で、ひとつのグループが解散した。おニャン子クラブである。結成からわずか2年半の幕切れだった。

そして同じ昭和62年、9月20日という日付は「バスの日」に定められた。おニャン子が解散した、その翌月のことである。

終わったものと、生まれたもの。たまたま同じ年に、同じ日付をめぐって起きた二つの話を書いてみたい。


私の高校生活と、ほぼぴったり重なっていた

『夕やけニャンニャン』がフジテレビで始まったのは、昭和60年(1985年)4月1日。平日の月曜から金曜、夕方5時からの1時間番組だった。

この日付を目にしたとき、少し驚いた。昭和60年の4月というのは、私が高校に入学した月そのものだからだ。

番組が生放送されていた当時、フジテレビの本社は新宿区河田町にあった。写真は昭和36年ごろの局舎。(『日本民間放送史』より/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

番組のコンセプトは「放課後」。出演していたのは、芸能界に染まっていない現役の女子高生たちだった。番組内のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格すれば、翌週にはもうレギュラーとしてテレビに映っている。結成時は11人、解散時には19人が在籍していた。

デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」が出たのが、同じ昭和60年の7月5日。これが大ヒットして、「おニャン子旋風」と呼ばれる社会現象になっていく。

つまりおニャン子クラブの活動期間は、私の高校生活とほぼぴったり重なっている。入学した月に始まり、卒業を控えた秋に終わった。

ところが、である。

私は『夕やけニャンニャン』を、ほとんど見ていない。夕方5時といえば、野球部の練習の真っ最中だったからだ。日本中の中高生がテレビの前に座っていたその時間、私はグラウンドにいた。

もちろん、その存在は知っていた。教室では話題になっていたからだ。番組を見ていなくても、おニャン子クラブというものが世の中を席巻していることだけは、しっかり伝わってきていた。


「会員番号○○番の○○ちゃん」

いま振り返ると、おニャン子クラブは、それまでのアイドルとは仕組みからして違っていた。

松田聖子や中森明菜のような、遠くで輝いているスターではない。隣のクラスにいそうな女子高生が、オーディションに受かった次の週にはブラウン管の中にいる。メンバーには会員番号がつき、卒業という形で出ていく。のちのAKB48まで続いていく「手の届くアイドル」の、いちばん最初がここにあったと言われることが多い。

その「会員番号」という仕組みがいかによくできていたかを、私は野球部の部室で知ることになる。

私自身は、特に好きなメンバーがいたわけではなかった。ところが同級生の部員の中には、「会員番号○○番の○○ちゃんがかわいい」と話している者がいた。番号で呼ぶのである。いま思えば、あれは単なる番号ではなく、追いかけている側の熱量を測る物差しだったのだろう。

番組を見ていない私にも、その会話だけはやけに記憶に残っている。


番組を見ていなかった私でも、頭のひと節を聞けば「ああ、これか」となります。あの頃の教室で鳴っていた音が、一枚にまとまっています。

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抜け殻だった秋

昭和62年の夏は、私にとって特別な夏だった。

7月23日、神宮第二球場。東東京大会。2対3で負けて、私の高校野球は終わった。

その、ちょうどひと月あと。8月31日に『夕やけニャンニャン』が最終回を迎え、番組の終了とともにおニャン子クラブも解散することが決まっていた。そして9月19日と20日、代々木第一体育館でファイナルコンサート。20日が、最後の一日だった。

国立代々木競技場第一体育館。昭和62年9月20日、ここに3万人近いファンが集まった。(2026年撮影/Photo: 中原あり2.45, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

私の夏が終わり、テレビの中の夏も終わった。けれど正直に書いておくと、当時の私はそのことをまったく知らなかった。

高校野球が終わってしまって、私は抜け殻のようになっていた。あれだけ毎日を埋めていたものが、ある日を境にごっそり無くなる。頭を切り替えて受験に向かわなければならないと分かってはいても、体も心も追いつかない。そんな秋だった。

だから、おニャン子解散のニュースは、私の耳には入ってきていない。日本中がひとつの時代の終わりを見届けていたその日に、私は自分の時代の終わりに呆然としていた。

同じ9月20日を生きていながら、私にはまったく別の景色しか見えていなかったのである。

昭和62年、私の秋。


その翌月、「バスの日」が生まれた

さて、ここからは話が大きく変わる。

同じ昭和62年の10月。全国バス事業者大会で、日本バス協会が9月20日を「バスの日」と定めた。テーマは「いつでも、どこでも、みんなのバス」。

なぜ9月20日なのか。由来は昭和でも大正でもなく、明治までさかのぼる。

明治36年(1903年)9月20日、京都で二井商会という会社が、堀川中立売から七条を経て祇園までの区間で乗合自動車の運行を始めた。これが日本初の営業バスとされている。

明治36年、二井商会が走らせた日本初の営業バス。蒸気自動車を改造したもので、屋根も幌もない。(『日本のバス110年の歩み』より/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

その車がどんなものだったかというと、蒸気自動車を改造したもので、定員は6人。運転手と助手を除けば、乗せられる客はたった4人である。しかも幌がない。風も雨も砂ぼこりも、そのまま浴びる乗り物だった。乗合馬車屋からの妨害や車両の故障も相次ぎ、この事業は翌明治37年の1月には行き詰まって営業を終えている。

ちなみに同じ明治36年の1月には広島でも乗合自動車が走り出していて、そちらが実質的な日本初ではないかとも言われている。京都の9月20日が記念日に選ばれたのは、営業免許証が交付された日付がはっきり分かっているからだそうだ。

定員4人の、屋根もないバス。そこから始まった商売のハンドルを、私はいま握っている。


車掌さんが消えていった昭和

明治の話はさておき、私たちの記憶にある昭和のバスは、どんな乗り物だっただろうか。

東京のバスには、かつて車掌さんが乗っていた。大正13年に東京市営のバスが始まって間もなく、赤襟の制服を着た女性車掌が乗るようになり、「バスガール」と呼ばれて昭和の初めには花形の職業になった。

大正13年に走り出した東京市営バス「円太郎バス」。フォードのトラックに木組みの車体を載せただけのものだった。(東京都交通局/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

バスの横に立つ女性車掌(昭和9年)。こちらは東京乗合自動車(青バス)で、襟の色から「白襟嬢」と呼ばれた。市営バスの車掌は「赤襟嬢」。(撮影:石川光陽/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

その車掌さんが、昭和のうちに消えていく。都営バスがワンマンカーの運行を始めたのが昭和40年2月。全系統のワンマン化が完了したのは、昭和53年度のことだった。

昭和53年度といえば、私は小学校3年生の頃である。つまり私の子ども時代は、ちょうど車掌さんが東京のバスから姿を消していった時期と重なっている。

そう思って自分の記憶をさらってみたのだが、車掌さんが乗っているバスを見た記憶も、乗った記憶も、私にはない。ぎりぎり間に合わなかった世代ということなのだろう。

代わりに残っているのは、母と乗った京成バスである。

高砂駅のそばからバスに乗る。風邪をひくと、水戸街道沿いの小児科へ連れていかれた。いま「新宿郵便局」という名前になっているバス停で降りた記憶があるのだが、昭和40年代後半の当時、あの停留所が何という名前だったのかは分からない。

亀有駅前を発車する京成タウンバス(2020年撮影)。葛飾の路線バスは、いまも京成グループが走らせている。(Photo: Suikotei, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

熱っぽい体で母の隣に座り、窓の外を流れる水戸街道を眺めていた。整理券も運賃箱も、私にとっては最初から当たり前にそこにあるものだった。車掌さんがいた時代があったことなど、考えたこともなかった。

けれどその「当たり前」は、誰かの仕事がひとつ消えた跡地に建っていたのである。運賃を受け取り、安全を確かめ、次の停留所を案内する。かつて人がやっていたその仕事を、機械と、そして運転士が引き受けることになった。いま私が運転席でやっていることの、そこが出発点だ。


私が生まれる前、車掌さんが当たり前に乗っていた頃のバスの写真集です。バスと一緒に、その時代の街並みや人の格好まで写り込んでいます。

昭和30年代のバス・全国版 バスが走る日本の原風景
坂田哲彦/文芸社。昭和30年代を中心に、日本全国を走るバスの未公開写真を集めた大判の写真集。142ページ。星4.4(6件)
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それが今の私にとっての「バスの日」

ところで、現場の話をひとつ正直に書いておきたい。

9月20日が「バスの日」だからといって、営業所で何か特別なことが起きるわけではない。私にとっても、いつも通りの一日として過ぎていく。記念日というのは、たいていそういうものなのだと思う。

昭和62年に「バスの日」が制定されてから、もう40年近い時間が流れた。

私自身、今こうして路線バスの運転士として毎日ハンドルを握っていると、「バス」という乗り物が、単に人を目的地まで運ぶだけのものではないと感じることがある。朝、眠そうな顔で乗ってくる高校生。毎日のように同じ時間に乗ってくださる高齢のお客様。仕事へ向かう人、病院へ向かう人、買い物に出かける人。そして、ほんの数停留所だけ乗って、またそれぞれの暮らしへ戻っていく人。運転席から見ていると、その一人ひとりに、それぞれの生活があることを感じる。

子どもたちと話をしていると、「バスの運転士のお父さん」というのが、当たり前の風景になっているのかもしれない。でも、私が仕事で毎日乗せている人たちにも、私の子どもたちと同じように、それぞれの人生がある。そう考えると、信号一つ、発進一つ、ブレーキ一つにも、少しだけ責任の重さを感じる。

バスは、速い乗り物ではない。渋滞にも巻き込まれるし、時間どおりに走れないこともある。それでも、決められた道を毎日走り、決められた停留所に立ち寄り、そこに待っている人を乗せて、次の場所へ送り届ける。考えてみれば、とても地味な仕事だ。でも私は、その「地味に毎日続くこと」に、バスという仕事の価値があるように思っている。

昭和62年の頃、私はまだ若く、まさか何十年後に自分がバスのハンドルを握っているとは思ってもいなかった。

そして今、運転席から街を眺めながら思う。街は変わった。バスも変わった。乗っている人たちも変わった。けれど、「誰かを乗せて、誰かのところまで安全に届ける」というバスの役割は、昔も今も変わっていない。

私の子どもたちが大人になった頃、この街を走るバスがどんな姿になっているのかは分からない。自動運転になっているかもしれないし、今とはまったく違う乗り物になっているかもしれない。それでも、人が誰かのところへ行きたいと思う限り、「人を運ぶ」という役割はなくならないのではないかと思っている。

だから私は、もうしばらく、この仕事を続けたい。

今日も明日も、いつもの道を走り、いつもの停留所に止まり、乗ってくる人に「おはようございます」と声を掛ける。そして一日の終わりに、「今日も無事に走れた」と思ってハンドルを置く。それが今の私にとっての「バスの日」なのだと思う。

昭和から令和へ。時代がどれだけ変わっても、誰かの日常を乗せて走るバスが、これからも街の風景の中にあり続けてほしい。私もその風景の一部として、今日もハンドルを握っている。


おわりに

昭和62年9月20日。代々木でひとつの時代が派手に終わり、その翌月、バスは静かに記念日をもらった。

あの日、抜け殻になっていた18歳の私は、そのどちらも知らなかった。おニャン子が解散したことも、9月20日という日付にやがて自分の仕事の名前がつくことも。

派手に終わるものと、地味に続いていくもの。昭和という時代には、その両方があった。そして39年経って、私は続いていくほうの側に立っている。

9月20日。みなさんにとっては、何の日でしょうか。あの日の代々木を覚えている方もいれば、今日もバスに乗ってどこかへ出かけるという方もいるはずです。同じ日付でも、立っている場所によって見えるものはまるで違う。それもまた、昭和という時代を振り返る面白さなのだと思います。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

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