七月十三日。
今日は何の日だろうと昭和の暦をめくっていくと、昭和四十年(一九六五年)のこの日に、一人の女の子が東京で生まれている。中森明菜さん。私より四つ年上の、あの明菜さんだ。
名前を書いただけで、頭の中で「少女A」のイントロが鳴りはじめた方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。今日はこの人が生まれた日を入り口に、私が中学一年生だった昭和五十七年の夏の話を、少しさせてほしい。

三百九十二点の伝説
中森明菜さんの出発点は、日本テレビの『スター誕生!』だった。昭和五十六年(一九八一年)七月、十六歳になる直前の彼女は、この番組で山口百恵さんの「夢先案内人」を歌う。そのときの得点が、三百九十二点。番組の歴史のなかで最高記録だったと伝えられている。
『スター誕生!』というのは、十二年間で二百万人もの応募があったという、とんでもない規模のオーディション番組だった。全国のお茶の間から、歌のうまい子が名乗りを上げて、審査員の前で歌う。合格すると、たくさんの芸能事務所やレコード会社がプラカードを掲げて、われ先にとスカウトする。あの光景を、私も茶の間のテレビでよく見ていた。「この子は受かるかな、落ちるかな」と、家族であれこれ言い合うのが楽しかった。
思えば『スター誕生!』は、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの「花の中三トリオ」をはじめ、昭和の歌の世界に次々とスターを送り出した番組だった。その夢の回路の、いちばん新しい入口から現れたのが、中森明菜さんだったわけだ。その番組で史上最高点を叩き出した女の子が、翌年、本当にデビューしてくる。子ども心にも、これはただごとではないという予感があった。
デビュー曲「スローモーション」がレコード店に並んだのが、昭和五十七年(一九八二年)五月一日。そしてその二枚目、名前だけで時代の空気を思い出させる「少女A」が発売されたのが、同じ年の七月二十八日だった。つまり、明菜さんの誕生日である今日から、ほんの二週間ほど後のことになる。
「少女A」という事件
この「少女A」という曲には、いま振り返ると面白い裏話がある。作詞をしたのは、当時まだ駆け出しだった売野雅勇さんという方。もともとこの詞は、明菜さんのために書かれたものではなかった。売野さんが沢田研二さんのために用意していた「ロリータ」という詞——中年の男性がプールサイドから少女をそっと見つめている、という大人の視点の歌詞が、下敷きになっていたのだそうだ。
締め切りに追われた売野さんが、苦しまぎれにその設定を借りて、視点をぐるりと反対に回した。見られる側だった少女が、こちらを見返す側になった。「特別じゃない、どこにでもいる少女A」が、じゃあ好きにすればいいと開き直って世界を突き放す。あの挑発的な歌詞は、そうして生まれたと伝えられている。
面白いのは、当の明菜さん自身が、最初はこの曲に乗り気ではなかったという話だ。同じ年にデビューした仲間たち——のちに「花の八二年組」と呼ばれる、小泉今日子さんや堀ちえみさん、石川秀美さんたち——は、フリルやレースのついた、いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着ていた。明菜さんも本当は、そういう衣装を着たかったのだという。それなのに与えられたのは、可愛さとは正反対の、尖った不良少女の歌だった。
けれど結果として、その曲が明菜さんを一気にスターへ押し上げた。みんなと同じ可愛さで勝負しなかったことが、逆に彼女だけの居場所を作った。子どもだった私はそんな事情など何も知らなかったが、テレビの向こうの明菜さんが、まわりと違う空気をまとっていたことだけは、はっきり感じ取っていた。
河合奈保子から、中森明菜へ
昭和五十七年の四月、私は中学一年生になった。
小学生のころの私にとって、アイドルといえば河合奈保子さんだった。あの、ふんわりと笑う、健康的で優しい感じの人。まぶしいけれど、どこか近所のお姉さんのような安心感があって、子どもだった私はすっかり心を許していたのだと思う。
ところが、中学の制服に袖を通したあたりから、私の中で何かが少しずつ変わっていった。優しいお姉さんよりも、少し不機嫌そうで、こちらをまっすぐ見返してくるような、そういう強さに惹かれるようになっていったのだ。そこに、ちょうど中森明菜さんが現れた。
「少女A」の、あの挑むような歌い方。子どもが背伸びをしているのとも違う、かといって完成された大人でもない、ぎりぎりのところで尖っている感じ。河合奈保子さんから中森明菜さんへ——それは私の中では、子どもから大人へと変わっていく、ひとつの通過儀礼のようなものだった。
きっかけは、友達のひと言だった。「中森明菜っていいよ」。そう言われてから、テレビの歌番組で明菜さんを見かけるたびに、少しずつ目が離せなくなっていった。ほかのきゃぴきゃぴしたアイドルとは、明らかに何かが違う。あのツンとした雰囲気が、私にとってはど真ん中のストライクだった。

一度はまってしまえば、あとは一直線だ。シングルはもちろん、アルバムまで一枚残らず買いそろえ、明菜さんの曲だけを集めた「マイベストテープ」も、何本も何本も作った。大学に入って浜田省吾さんの世界に出会うまでの七年ほど、私はずっと明菜さんに夢中だった。あの頃の自分の音楽の記憶は、そっくりそのまま明菜さんの声でできていると言ってもいいくらいだ。
木曜九時の攻防
我が家の木曜日の夜九時は、『ザ・ベストテン』の時間だった。
ランキングが一位から順に発表されていくあの緊張感。カセットデッキの前に正座して、赤い録音ボタンと白い再生ボタンを同時に押す、あの二本指の儀式。歌の途中で家族が「ごはんよ」なんて声をかけようものなら、あとで大惨事だ。次の日、友達と「昨日のベストテン、明菜は何位だった」と答え合わせをするのが、当時の私たちにとっては大事な社交だった。
その画面の真ん中に、中森明菜さんはいつもいた。同じ年ごろの、松田聖子さんや小泉今日子さんと並んで、それぞれにまったく違う魅力を放っていた。聖子さんが笑顔なら、明菜さんは眼差し。今にして思えば、あの時代の歌番組は、いくつもの「かっこよさ」が同時に成り立っていた、とても贅沢な場所だった。
とりわけ「聖子か、明菜か」というのは、あの頃の昭和の歌謡界を二つに分ける、大きな分かれ道だった。明るく、可憐で、ずっと笑っている松田聖子さん。翳りがあって、こちらを試すように見つめてくる中森明菜さん。まるで陽と陰のように、二人はきれいに対照的で、どちらが好きかを言うことが、その人がどんな人間かを少しだけ言い当ててしまうような、そんな空気があった。学校でも、聖子派と明菜派はなんとなく分かれていて、私が明菜派だと打ち明けるのは、幼いなりに小さな自己主張だったように思う。優しいだけの世界から一歩踏み出したい——そんな背伸びを、明菜さんはそっと後押ししてくれていたのかもしれない。
大晦日の、連覇
「少女A」でスターになった明菜さんは、そこから昭和の終わりに向けて、坂道を駆け上がるように名曲を積み重ねていく。三枚目の「セカンド・ラブ」はチャートの一位を取り、その後も「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」と、曲の色をどんどん変えながらヒットを飛ばし続けた。同じ人が歌っているのに、一曲ごとにまるで別の女優のように表情を変える。あれが明菜さんの凄みだった。
そして昭和六十年(一九八五年)、「ミ・アモーレ」で日本レコード大賞を初めて受賞する。さらに翌昭和六十一年(一九八六年)、「DESIRE -情熱-」で二年連続の大賞。女性歌手が二年続けて大賞を取ったのは、このときが史上初めてのことだった。着物風の衣装を肩から滑らせ、髪を刈り上げたあの「DESIRE」の姿は、もうアイドルという言葉では収まりきらない何かだった。ちなみに、数えきれないほどある明菜さんの曲のなかで、私の一番はこの「DESIRE」だ。それは今も変わらない。
昭和六十年といえば、私はちょうど高校一年生。白球ばかり追いかけて、甲子園を本気で夢見ていたころだ。野球部の練習でくたくたになって家に帰り、大晦日にテレビでレコード大賞を眺める。中学の入り口で見上げていた明菜さんが、高校生になった私の頭上を、はるか高いところで飛び続けている。同い年ではないけれど、同じ時間を走っている感覚が、確かにあった。
体育館に、明菜が現れた
ここで、話をぐっと先へ——大人になってからの一夜に飛ばさせてほしい。
私は大学を出て信用金庫に就職し、その後、大手の運送会社へ移った。この会社がとにかくスポーツが盛んで、毎年ゴールデンウィークになると、滋賀県で三泊四日の社内全国大会が開かれる。各ブロックの予選を勝ち抜いた営業所だけが出場できる、たぶん日本一の規模の社内大会だった。私も野球で、その全国大会の舞台に立つことができた。
大会中はいろいろな催しがあるのだが、みんなが一番楽しみにしていたのが、二日目の夜に開かれるコンサートだ。出演者は当日その時間まで、いっさい知らされない。会場はスポーツ施設の体育館。さあ誰が出てくるのかと固唾をのんで待っていた、その舞台に——現れたのが、あの中森明菜さんだったのだ。
信じられるだろうか。テレビのブラウン管の向こうで、ずっと高いところを飛んでいたはずのあの人が、いま、目の前の体育館のステージに立っている。会場は当然、大興奮だ。懐かしい曲のオンパレードで、それは普段のコンサートとはまるで違う、手作りのような、それでいて本当に本当に、自分もその一部になれたと思える素晴らしいステージだった。中学一年生の私が茶の間から見上げていた明菜さんに、大人になった私が、同じ空気のなかでようやく会えた夜だった。
令和に、明菜を思う
あれから四十年以上が経った。
私は今、路線バスのハンドルを握って毎日を過ごしている。家にはもう地上波のテレビもなく、大きなモニターでユーチューブやネットフリックスを眺める暮らしだ。それでも、ふとした拍子に「少女A」や「セカンド・ラブ」が流れてくると、一瞬で昭和五十七年の、あの中学一年生の夏に引き戻される。制服がまだ体になじんでいなくて、大人になりたいような、なりたくないような、あの落ち着かない気持ちごと。
歌というのは不思議なもので、こちらは年をとっていくのに、あの頃の自分をそっくり保存してくれている。友達のひと言から始まって、レコードを買い集め、テープを作り、そしていつかは同じ体育館の空気を吸った——中森明菜さんが今日、誕生日を迎えるたびに、私はあの一つひとつの自分に、少しだけ会いに行けるのだ。
みなさんにとって、「子どもから大人へ変わる境目」に鳴っていた歌は、何でしたか。よかったら聞かせてほしい。
「少女A」「セカンド・ラブ」「北ウイング」「DESIRE」——この記事で名前を挙げた曲が、オリジナル音源でまとめて聴けるのがこの一枚です。カバーではなく、あの頃テレビとカセットから流れていた、まさにあの声。明菜さんの誕生日の今日、あらためて針を落とすように聴き直すのに、ちょうどいいベスト盤です。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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