【昭和の今日は何があった日?】7月4日──テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送

7月4日。昭和62年(1987年)のこの日、NHK衛星第1テレビジョン──いわゆるBS1が、世界で初めてテレビの24時間放送を開始しました。 「テレビが一日中やっている」。今では当たり前すぎて、何がすごいのか分からないかもしれません。でも当時、テレビには「終わり」があったのです。深夜になると番組が終わり、君が代が流れ、そして画面には砂嵐──。あの「ザーッ」という音とともに、テレビは毎晩眠りについていました。 その「テレビの眠り」を、初めてなくしたのが、この日の衛星放送だったのです。 深夜の砂嵐と「放送終了」の記憶 私が子どもの頃、テレビ放送には明確な「閉店時間」がありました。深夜、番組がすべて終わると、日の丸の映像とともに君が代が流れ、「JOAK-TV」などとコールサインが読み上げられて、放送終了。その後は例の砂嵐です。局によっては、静かな音楽とともに翌日の番組案内が流れたり、時報のような画面が映ったりと、それぞれに「店じまい」の作法がありました。そして早朝、また何事もなかったかのように「開店」する。テレビには、人間と同じような一日のリズムがあったのです。 私にも、はっきりと覚えている記憶があります。国旗の映像や「君が代」が流れたり、静かな音楽が流れたりしたあと、画面が急に白黒のザーッという砂嵐になる。あれを見たときは、「テレビも寝るんだ」と本気で思っていました。そして「今日はもう何もやっていないんだ」と、少し寂しい気持ちになったのです。 夜の家はとても静かで、時計の音だけが聞こえてきて、「もう本当に夜中なんだな」と子どもながらに感じたのを覚えています。 普段なら絶対に見られない時間まで起きていたという、ちょっと大人になったような特別な気分。そして、「もう寝なさい」というテレビからの合図のような放送終了。あれは今でも、私の昭和の思い出の一つです。 テレビは「いつでも見られるもの」ではなく、「放送している時間だけ見られるもの」でした。だからこそ、一つひとつの番組が貴重だったのかもしれません。 「ゆり2号」が運んだ未来 そもそも衛星放送とは何だったのか。少しだけ、その道のりを振り返ってみます。 「衛星」とテレビの関わりは、実は衛星「放送」より前、衛星「中継」から始まっています。昭和38年(1963年)11月、日本とアメリカを結ぶ初のテレビ衛星中継実験が成功しました。ところが、この歴史的な中継が最初に伝えたのは、なんとケネディ大統領暗殺という衝撃的なニュースだったのです。翌年の東京オリンピックでは、五輪史上初の衛星中継が実現。宇宙を経由して、海の向こうの出来事が「その日のうちに」茶の間へ届く時代が始まりました。 そして日本の衛星「放送」の歴史は、昭和53年(1978年)に打ち上げられた実験用放送衛星「ゆり」に始まります。昭和59年(1984年)には後継機「ゆり2号a」によって、NHK衛星第1テレビジョンの試験放送がスタート。これは世界初の直接受信方式の衛星放送でした。 もともとの大きな目的は「難視聴地域の解消」でした。山間部や離島など、地上の電波が届きにくい地域が、当時は全国で42万世帯もあったといわれます。しかし赤道上空3万6千キロの衛星からなら、日本全国あまねく電波を届けられる。実際、それまで難視聴地域だった小笠原諸島で本土と同じテレビが見られるようになったときには、祝賀行事まで行われたそうです。 「テレビが映る」。ただそれだけのことが、お祝いになる。今からは想像もつきませんが、それだけテレビが、暮らしの真ん中にあった時代だったのだと思います。 そして昭和62年7月4日、「ゆり2号b」を使ったBS1が、独自編成による24時間放送を開始しました。海外のニュースやスポーツ中継、高音質を活かした音楽番組など、地上波とはひと味違うラインナップ。深夜だろうが早朝だろうが、チャンネルを合わせれば必ず何かが映っている。「テレビは深夜に眠るもの」という常識が、この日、静かに書き換えられたのです。 視聴者の反響も大きく、問い合わせが殺到したといいます。地球の裏側のニュースが、リアルタイムで、しかも真夜中でも見られる。今の感覚では当たり前でも、当時としてはまさに「未来」そのものだったのでしょう。 18歳の夏、パラボラアンテナは遠い存在だった 昭和62年7月。私は高校3年生、18歳の夏でした。 思えば昭和62年という年は、時代が大きく動いた年でもありました。4月には国鉄が分割民営化されてJRが誕生。世の中はバブル景気へと向かい、街全体がどこか浮き足立っていた──そんな時代です。テレビの世界で「世界初の24時間放送」が始まったのも、日本中が「もっと便利に、もっと豊かに」と前のめりになっていた、あの時代の空気と無縁ではなかったのかもしれません。 そんな中、私はといえば、テレビどころではありませんでした。まさに夏の甲子園大会を目指して、高校野球部最後の夏を迎えていたのです。7月といえば、地方大会の真っ只中。頭の中はテレビの中の世界ではなく、目の前の白球のことでいっぱいでした。 では、「衛星放送が世界初の24時間放送を開始した」というニュースを、当時の私はどう受け止めていたのか。正直に言えば、認識はしていたものの、「そうなんだー」といった程度でした。最後の夏に打ち込む高校球児にとって、宇宙から降ってくる電波の話は、あまりにも遠い世界の出来事だったのです。 無理もありません。衛星放送は「見ようと思えば見られるもの」ではなく、「見られる家が限られているもの」だったからです。 というのも、衛星放送を見るには専用のパラボラアンテナとチューナーが必要で、決して安い買い物ではなかったからです。 そして我が家には、とうとうパラボラアンテナが付くことはありませんでした。そのため、屋根やベランダに大きなパラボラアンテナが取り付けられている友達や近所の家を見るたびに、「いいなあ、衛星放送が見られるんだ」と、少し羨ましい気持ちになったものです。 当時のパラボラアンテナは、どこか最先端の象徴のようにも見えました。あの白いお椀型のアンテナが空を向いている姿を見上げては、「あの家では特別な番組が映るんだろうな」と、子ども心に想像を膨らませていたのです。 その後、衛星放送は平成元年(1989年)に本放送へ移行し、平成3年(1991年)には民間初の有料放送WOWOWも開局。大リーグ中継や海外サッカーなど、「BSでしか見られないもの」が増えるにつれて、パラボラアンテナは徐々に、憧れの対象から当たり前の風景へと変わっていきました。あの日、昭和62年7月4日に始まった24時間放送は、その長い普及の道のりの、記念すべき一歩だったのです。 テレビが眠らなくなって、失ったもの あれから約40年。実は現在、我が家には地上波デジタル放送を視聴できるテレビがありません。その代わりに大画面の液晶モニターがあり、YouTubeやNetflixなどの動画配信サービスを楽しんでいます。 子どもたちにとっての「テレビ」は、放送を待って見るものではなく、見たいものを見たい時に、いつでも気軽に楽しめる存在です。私が子どもの頃とは、本当に隔世の感があります。 当時は、見たい番組があれば放送時間までにブラウン管テレビの前に座っていなければ、見ることができませんでした。「見逃したら終わり」が当たり前の時代だったのです。 だからこそ、毎週決まった時間を楽しみに待つワクワク感や、家族みんなで同じ番組を見て笑ったり驚いたりした時間は、とても貴重な思い出として心に残っています。 そして、ときどき思うのです。「放送終了」があった時代のテレビには、一日の「区切り」があったなあ、と。君が代が流れて砂嵐になれば、「ああ、もう寝なきゃ」と観念する。テレビが眠るから、人間も眠る。そんな、のんびりした夜の秩序が、確かにあったのです。 昭和62年7月4日にテレビが眠らなくなり、平成にはインターネットが眠らなくなり、令和の今、私たちのポケットの中では、世界中の映像が休みなく流れ続けています。あの日パラボラアンテナを羨ましく見上げていた少年は、まさか40年後、アンテナすらない家で、指先ひとつで世界中の映像を呼び出す暮らしをしているとは、想像もしていませんでした。 テレビが眠らなくなった日──それは、私たちの夜が少しずつ長くなっていく、その始まりの日だったのかもしれません。 みなさんは、深夜の「砂嵐」を覚えていますか? 夜更かしの果てに、君が代と放送終了に立ち会ってしまった夜はありましたか? テレビに「終わり」があった時代のことを、よかったらコメントで教えてください。 砂嵐、君が代、テスト画面、そして「あの番組はどうやって生まれたのか」──。テレビが暮らしの真ん中にあった昭和のテレビ史を、制作の裏話とともに掘り起こした一冊があります。あの頃ブラウン管の前に座っていた世代には、ページをめくるたびに「あった、あった」と声が出るはずです。 発掘テレビ秘話 昭和編加藤義彦/彩流社。昭和のテレビ番組の舞台裏を掘り起こす、同世代にはたまらない一冊 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月3日】元気ハツラツ!オロナミンCと、小学5年生の夏 | 次の記事:【7月5日】センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇 ▶

July 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月25日──「何だ、この騒がしいバンドは!?」

今日は六月二十五日。梅雨空がつづき、夏のにおいが少しずつ近づいてくる頃です。 昭和の子どもにとって、木曜日の夜には特別な意味がありました。夜九時、テレビの前に座る。『ザ・ベストテン』が始まる。その週のヒット曲が一位から十位まで、順番に流れていく。司会は久米宏さんと黒柳徹子さん。ランキングに入った歌手は、たとえ地方にいようと、駅のホームにいようと、その場から中継でつないで歌わされる——そんな大胆な番組でした。ときに視聴率は四割を超え、日本中の家族が、同じ時間に同じ歌を聴いていた時代です。歌のうまい歌手、きれいな歌手、かっこいい歌手。お茶の間は、その時間だけ小さな音楽ホールになりました。 昭和五十三年(一九七八年)の六月二十五日。一枚のシングルレコードが世に出ました。 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」。 のちに「国民的バンド」と呼ばれることになる彼らの、これがデビューでした。でも、当時小学三年生だった私にとって、サザンとの出会いは「感動」でも「あこがれ」でもありませんでした。最初の感想は、こうです。 「何だ、この騒がしいバンドは!?」 木曜九時、「今週のスポットライト」の衝撃 『ザ・ベストテン』には、「今週のスポットライト」という名物コーナーがありました。まだベストテン入りはしていないけれど、もうすぐランクインしそうな注目の曲を、新人歌手などに歌わせる枠です。これから世に出ようとする歌手にとって、晴れの舞台でした。 その夏、画面が突然、どこかのライブハウスからの中継に切り替わりました。映し出されたのは、大勢の若者がひしめく熱気の中で、今まさに演奏している新人バンド。それがサザンオールスターズでした。いつもは華やかなスタジオから流れてくるはずの音楽番組に、汗と熱気でむんむんした地下のライブハウスが、そのまま映し出される。その時点で、もう何かがふつうではありませんでした。 正直に言います。歌詞が、まったく入ってこないのです。早口で、英語みたいで、何を歌っているのかさっぱりわからない。「勝手にシンドバッド」という曲名すら、聞き取れたかどうかあやしいくらいでした。子ども心に浮かんだのは、ただひと言、「何だ、この騒がしいバンドは!?」でした。 それでも——「ラララ~♪」のところだけは、なぜか耳に残りました。あのフレーズが流れたときのインパクトは、それまでテレビで見ていたピンク・レディーや沢田研二とは、また違うものでした。きれいでもなく、かっこいいでもなく、ただ、まったく新しい何か。意味はわからないのに、体のどこかがざわつく。そういう種類の「新しさ」だったのです。 (あとから知ったのですが、このスポットライト登場は、実はデビューから二か月ほど経った八月三十一日のことでした。新宿のライブハウス「ロフト」からの生中継だったそうです。六月二十五日のデビューを、私たち子どもがテレビで「目撃」したのは、夏の終わりだったというわけです。) ピンク・レディーの夏に、現れた異物 昭和五十三年の夏といえば、何といってもピンク・レディーでした。「UFO」「サウスポー」と、社会現象のようなヒットを次々に飛ばし、ピンク・レディーの振り付けは、子どもたちみんなのものでした。沢田研二さん——ジュリーも、かっこよさの頂点にいました。喫茶店ではインベーダーゲームが流行りはじめ、街にはピコピコという電子音が鳴り出した、そんな夏です。 テレビの中の「スター」とは、ああいうきらびやかな人たちのことだ。子どもの私は、そう思い込んでいました。 そこへ、短パン姿で、上半身裸で、何を言っているのかわからない歌を早口でまくしたてる男たちが現れたのです。きれいでもなければ、決めの振り付けもない。スターのお手本からは、まるで外れている。だから私は、「何だ、この騒がしいバンドは!?」と思ったわけです。今になって思えば、その「外れている感じ」「異物感」こそが、サザンの正体だったのですが。 「勝手にシンドバッド」という、ふざけた名前 あとから知ったことですが、サザンと『ザ・ベストテン』は、同じ昭和五十三年生まれの「同期」でした。番組が始まったのが一月十九日、サザンのデビューが六月二十五日。新しい時代の音楽と、それを映す新しい番組が、同じ年に並んで走り出していたのです。 そして、あの「ふざけた感じ」には、ちゃんと理由がありました。 「勝手にシンドバッド」という曲名。これは前の年に大ヒットした、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」と、ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を、くっつけたような名前なのです。当時の大人も子どもも、「なんだそのタイトルは」「コミックバンドか?」と思いました。私がピンク・レディーや沢田研二と比べて「違う」と感じたのは、ある意味あたりまえだったのかもしれません。彼らはその二つの大ヒット曲を、わざとごちゃ混ぜにしたような名前で登場してきたのですから。 桑田佳祐さんの、あの早口で巻き舌の歌い方も、当時は賛否両論でした。日本語をわざと英語っぽく崩して、転がすように歌う。だから歌詞が聞き取れない。——のちに別の歌番組では、あまりに歌詞が聞き取れないため、画面に歌詞のテロップを出したと言われています。今ではどんな歌番組でも当たり前になった「歌詞テロップ」は、このあたりが始まりだったとも言われているのです。つまり、「歌詞が入ってこない」と思っていたのは、私だけではありませんでした。日本中が、そう思っていたのです。 今でこそ信じられませんが、昭和五十年代の半ばごろまで、日本では「日本語はロックに乗らない」と、本気で考えられていた時代がありました。英語ならまだしも、日本語であの強いビートに歌詞を乗せるのは無理だ、と。ところが桑田さんは、日本語を英語のように崩し、まくしたてることで、その「常識」をあっさり壊してしまいました。私が「何を歌っているのかわからない」と感じたあの歌い方こそ、実は日本の歌の歴史を変えてしまった発明だったのです。もちろん、子どもの私にそんなことが分かるはずもありません。ただ、「騒がしいな」と思っていただけでした。 「目立ちたがり屋の芸人です」 スポットライトに登場したサザンは、見た目からして強烈でした。メンバーはジョギング用の短パン姿。桑田さんにいたっては上半身裸。司会の黒柳徹子さんが「アーティストになりたいの?」とたずねると、桑田さんはこう答えたといいます。 「いいえ、目立ちたがり屋の芸人で~す!」 (のちに桑田さん自身が「あれは台本だった」と明かしていますが、その照れ隠しのような感じまで含めて、いかにもサザンらしいエピソードだと思います。) ちなみに、あの中継で大盛り上がりに見えた観客は、実は桑田さんたちが知り合いをかき集めた、いわば「サクラ」だったと、のちに本人が打ち明けています。今ではすっかり伝説になっているあの熱狂も、そんな手づくりの舞台裏から始まっていたのです。背伸びと勢いだけで世間にぶつかっていく——そのなりふりかまわなさが、かえって時代の空気を変えてしまったのですから、おもしろいものです。 この「事件」のような登場で、サザンの名前は一気に広まりました。九月二十一日には『ザ・ベストテン』に九位で初ランクイン。最高四位、オリコンでは三位まで上がり、新人とは思えない好スタートを切ります。「何だ、この騒がしいバンドは」とぽかんとしていた私の知らないうちに、彼らはどんどん駆け上がっていったのです。 そして翌昭和五十四年、「いとしのエリー」が世に出ます。あの早口でふざけたバンドが、こんなにせつなく、こんなにまっすぐなバラードを歌うのか——世間の見る目は、ここで一変しました。コミックバンドだ、キワモノだと言っていた人たちが、一斉に黙り込んだのです。「一発屋」どころではない。サザンは、本物でした。その年の暮れには、さっそくNHK紅白歌合戦に初出場。あの「騒がしいバンド」は、わずか一年あまりで、日本を代表する歌い手の仲間入りを果たしていました。 それでも、虜になるのに時間はかからなかった あれだけ「何だこれは」と思っておきながら、私がサザンの虜になるのに、そう時間はかかりませんでした。気がつけば友だちと、あの「いま何時?」「そうね、だいたいね」の掛け合いを、意味もなく日常会話にはさんでは、ふざけ合っていたのです。あんなに「騒がしい」と感じていた曲の言葉が、いつのまにか自分たちの口ぐせになっていました。子どもというのは、現金なものです。 そこからのサザンは、ご存じのとおりです。昭和から平成へ、出る曲、出る曲が、そのまま時代の景色になっていきました。「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「希望の轍」「エロティカ・セブン」「愛の言霊」——私は、全部聴きました。 そしてとくに心に残っているのが、平成十二年(二〇〇〇年)の「TSUNAMI」です。サザン自身の最大のヒットとなり、その年のレコード大賞にも輝いたこの曲は、本当に良かった。あの「騒がしいバンド」が、こんなに深く、こんなに大きな歌を届けるようになるとは——木曜の夜、テレビの前で首をかしげていたあの小学生には、想像もできないことでした。 「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」まで、あの夏に始まった物語のはじまりは、一枚のベスト盤でまとめて聴くことができます。アルバムの一曲目は、もちろん、あの「騒がしい」デビュー曲です。 サザンオールスターズ ベストアルバム「海のYeah!!」一曲目は「勝手にシンドバッド」。デビューから20年の代表曲を網羅した決定盤(2枚組) Amazonで見る › おわりに──「違和感」は、新しさのサイン 令和のいま、サザンオールスターズは押しも押されもせぬ国民的バンドです。夏が来るたび、どこかで桑田さんの声が流れている。「勝手にシンドバッド」は、もう「騒がしい新人の曲」ではなく、日本の夏の定番のひとつになりました。あの夏、テレビの前で首をかしげていた小学生は、まさかこのバンドの歌を、その後何十年も聴き続けることになるとは、思ってもいませんでした。 振り返ってみると、あの夜の私の「何だ、この騒がしいバンドは!?」という違和感こそ、新しい時代の入り口だったのだと思います。子どもの耳が「変だ」「わからない」と感じるものの中にこそ、本物の新しさが隠れている。きれいに整ったものよりも、意味のわからない「ラララ~♪」のほうが、何十年も残っていく。音楽というのは、本当に不思議なものです。 今でも、ときどきテレビでお姿を拝見し、歌声を聴くことがあります。あの頃と比べても、声はまったく色褪せていない。それどころか、とても素敵に年を重ねてこられたなあ、と画面の前でしみじみ思うのです。木曜の夜に「何だこれは」と思った相手と、こうして何十年も同じ時間を生きてきた。そう考えると、ちょっと誇らしいような、くすぐったいような気持ちになります。 皆さんが初めてサザンオールスターズを知ったのは、どの曲、どの場面でしたか。そして——最初は「何だこれは」と思ったのに、いつのまにか大好きになっていた歌は、ありませんか。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 25, 2026

6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す

梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。 しかも六月九日は、昭和三十九年(一九六四年)生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。 木曜の夜九時が、待ち遠しかった 歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。 昭和五十三年(一九七八年)に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。 そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。 それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな"やらかし"をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。 なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか!」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。 もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。 そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の"ため"をきかせて「今週の……スポッ……トライト!」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。 あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ? ガンダーラって何だ? 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「???」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。 ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。 フォークから、ロックへ 私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。 それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。 レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。 レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年(一九八〇年)ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。 そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。 テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。 そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。 maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パックあの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に Amazonで見る › 私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。 正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。 その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。 令和の今、思うこと いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。(笑) 便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。 皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた | 次の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う ▶

June 9, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった

今日は5月16日。 昭和56年(1981年)のこの日、土曜の夜8時に一本のテレビ番組が産声を上げた。 「オレたちひょうきん族」。 ビートたけし、明石家さんま、島田紳助……漫才ブームで頭角を現した若手芸人たちが集結したこの番組は、昭和のテレビ史上最大のライバル対決「土8戦争」の幕を開けた。 相手は、全員集合だった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室 昭和56年、私は小学6年生だった。 学校の教室には、当時すでにテレビが置かれていた。昼休みの12時少し前になると、誰かがそのテレビのチャンネルをフジテレビ系に合わせる。流れてくるのは「笑ってる場合ですよ!」だ。 月曜から金曜、正午から放送されたこの帯番組は、漫才ブームを背景に昭和55年(1980年)10月から始まった。B&B、ツービート、オール阪神・巨人……時代の顔ともいえる漫才師たちが次々と登場する。 番組のオープニングで掛け声がかかる瞬間、教室が一つになった。 「笑ってる場合ですよ!」 クラス全員で叫ぶ。そのまま笑いが起きる。先生がいてもお構いなし、という雰囲気だったかもしれない。昭和56年の教室には、そういう「勢い」があった。 全員集合を、卒業した 正直に言う。昭和56年の私は「8時だよ!全員集合」を卒業していた。 小学校低学年の頃、全員集合は神様のような番組だった。いかりや長介の「バカヤロー!」、加藤茶の「ちょっとだけよ」、志村けんのバカ殿。台本通りに徹底的に稽古し、公開生放送で一糸乱れずやり切る。あのコントの完成度は今見ても圧倒的だ。 でも小学6年生になると、変わっていた。 漫才ブームの波が教室の中にまで押し寄せていた。休み時間に漫才の真似をする友達が出てきた。B&Bの「もみじまんじゅう!」、ツービートの毒舌漫才。笑いの空気が変わっていた。そこにひょうきん族が来た。 ビートたけしによると「全員集合」をどうやって視聴率で倒すかということを目標にスタッフたちと色々考えたという。その戦略は、全員集合との徹底的な差別化だった。 全員集合が「台本通りの王道コント」なら、ひょうきん族はアドリブと内輪ウケ。全員集合が「グループで笑いを取る」なら、ひょうきん族は一人一人の個性。全員集合が「子ども・小中学生向けの公開生放送」なら、ひょうきん族は高校生・大学生向けのスタジオ収録。 その差別化が、ちょうど小学校高学年から中学生になろうとしていた私たちの世代に刺さった。全員集合からひょうきん族へ。あの乗り換えはごく自然な流れだったと、今になって思う。 各家庭にテレビが増えた時代 ところでチャンネル争いはどうだったか。 昭和40年代は、一家に一台のテレビを囲んで家族全員で見るのが当たり前だった。チャンネル権は父親が持ち、見たい番組を見られない子どもが拗ねる、という光景が日本中にあった。 ところが昭和50年代に入ると、カラーテレビの価格が下がり、二台目・三台目のテレビが各家庭に入り始めた。子ども部屋に小さなテレビが置かれるようになり、「全員集合を見るかひょうきん族を見るか」という争いは、家庭によってはそもそも起きなくなっていた。 私の家もそうだった。チャンネル争いの記憶がないのは、テレビが複数あったからだと思う。 一台のテレビを囲んで家族が笑う、という昭和の風景は、テレビが増えるとともに少しずつ変わっていった。便利になった分、何かが失われたような気もするが、それもまた時代というものだろう。 「何でもあり」の時代の勢い 今振り返ってみると、昭和56年前後という時代は特別な空気をまとっていた。 漫才ブームが来て、ひょうきん族が始まって、ファミコンがまもなく登場して、バブルに向かって経済が上昇していく。社会全体に「何でもあり」みたいな包容力があって、とにかく「勢い」がみなぎっていた。 教室でテレビに向かってクラス全員で叫ぶ。そのくらいのことは誰も咎めない、という空気が確かにあった。はみ出すことへの許容度が今とは違った。 初回の視聴率は9.5%、その後も8〜10%前後と当初は全く相手にならなかったひょうきん族が、昭和57年(1982年)10月9日についに全員集合の視聴率を初めて上回った。そして昭和60年(1985年)9月28日、全員集合は16年の歴史に幕を下ろした。 あの時代の勢いが、笑いの世代交代を加速させたのだと思う。 「2番組合わせて視聴率50%」 面白い話がある。 全員集合とひょうきん族のスタッフは、打ち上げの席で度々同じ居酒屋で遭遇していたという。周りは「戦争」と言っていたが、当事者同士はライバルであると同時に「同士」でもあった。 「2番組合わせて視聴率50%。笑いを見る人が世の中の半分もいるなんて、俺たちは幸せだなあ」 そう語っていたという逸話が残っている。 あの時代の勢いと包容力の中で、2つの番組は正面からぶつかり、日本中の笑いを二人で背負っていた。それがどれほど豊かな時代だったか、今になってじわじわと感じる。 おわりに 昭和56年5月16日、ひょうきん族が始まった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室の空気。全員集合を卒業して新しい笑いに乗り換えた小学6年生の感覚。一家に複数台のテレビが入り始めた、あの頃の変化。 昭和56年という年は、笑いだけでなく、日本のいろんなものが一気に動き始めた年だったのかもしれない。 全員集合を見るか、ひょうきん族を見るか。あなたの家の土曜の夜8時は、どちらだっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代 ▶

May 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間

今日は5月11日。 昭和の朝には、決まったリズムがあった。 目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。 あの頃の朝のことを、今日は書きたい。 朝ごはんとピンポンパン 朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。 昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。 お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。 朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。 そして番組のフィナーレに、あれがあった。 「おもちゃへいこう!」 新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。 テレビの前で、それをただ見ていた。 本当に羨ましかった。 昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。 「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間 ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。 昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。 ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。 番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」と「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。 「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」 そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。 「行くわよ」 玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。 3人乗り自転車。 今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。 母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。 阿久悠と小林亜星が作った朝の歌 「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠と小林亜星というコンビだ。 当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。 「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。 子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。 おわりに ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。 毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。 でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。 それが私の、昭和の朝だった。 あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった ▶

May 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった

今日は5月8日。 この日付を調べていて、昭和40年(1965年)の5月8日にタツノコプロのテレビアニメ第1号作品「宇宙エース」が放送開始したことを知った。 正直に言う。「宇宙エース」を観た記憶が私にはない。再放送も含めて、まったく記憶にないのだ。 でも「そこから始まったのか」と知ったとき、じわじわと感慨がわいてきた。なぜなら、この番組が礎を作ったタツノコプロは、私にとって忘れられない土曜日の夜と深く結びついているから。 タツノコプロの、すべての始まり 昭和38年(1963年)、東京都国分寺市に「竜の子プロダクション」──のちのタツノコプロが生まれた。 創業者は人気漫画家・吉田竜夫と弟たちの三兄弟だ。「自分の漫画をアニメにしたい」という夢を抱いて立ち上げた会社だったが、アニメ制作のノウハウはゼロだった。新聞に求人広告を出すと、夢を持った若者が約60人集まった。専門家ではない、ほぼ素人の集団だ。 その60人が必死に作り上げたのが、昭和40年5月8日放送開始の「宇宙エース」だった。 宇宙船団からはぐれて地球にたどり着いた惑星パールム星の王子・エースが、スーパーパワーで悪と戦うSFアドベンチャーだ。当時はカラーテレビがまだ普及していなかったため、モノクロで制作された。視聴率は平均16.5%。大ヒットとは言えない数字だったが、1年間・全52話を走り切った。 そしてこの経験が、すべての土台になった。 「宇宙エース」で培ったノウハウと人材が、マッハGoGoGo、科学忍者隊ガッチャマン、そして「タイムボカン」シリーズへと受け継がれていく。ちなみに「ガッチャマン」の悪の組織名「ギャラクター」は、宇宙エースに登場した悪役の名前からそのまま引き継がれたものだ。 昭和40年5月8日に産声を上げた白黒の宇宙人の少年が、昭和アニメの歴史を動かした。 土曜日の夜が、一番好きだった 宇宙エースを私は知らない。でもタツノコプロが作り上げていったその世界は、私の子ども時代の中心にあった。 昭和50年代のある時期から、私にとって土曜日は特別な日になった。 正確に言えば、土曜日の夜6時30分から始まるあの時間帯のためだけに、一週間を生きていたと言っても過言ではないくらいだった。 18時30分──タイムボカンシリーズ。 ヤッターマン、ゼンダマン、オタスケマン……タツノコプロが生んだあの黄金のコメディシリーズだ。毎週ドロンジョ一味が悪巧みをして、最後に爆発してやられる。わかっているのに笑ってしまう。あのパターンの心地よさといったらなかった。ドロンジョ様はなぜか怖くなくて、むしろ愛おしかった。 19時00分──まんが日本昔ばなし。 「♪むかし むかし そのむかし」のオープニングとともに始まる、あたたかいアニメ。コミカルな話もあれば、ちょっと怖い話もあった。常田富士男と市原悦子の二人が何役もこなす語りは、今思い返しても唯一無二の味わいだ。 19時30分──仮面ライダーV3。 仮面ライダーといえば1号・2号という刷り込みがあったが、V3はそれを軽く超えてきた。風見志郎のスタイリッシュな戦いぶり、ダブルタイフーンの必殺技。デストロン怪人のおどろおどろしいデザインに毎週ビビりながら、それでも目を離せなかった。 20時00分──8時だよ!全員集合。 加藤茶のちょっとだけよ、いかりや長介のバカヤロー、志村けんのバカ殿……土曜の夜8時になると日本中の茶の間が爆笑に包まれた。「ドリフのコントが終わったら今週も終わりだ」という感覚があった。そして、ドリフが終わった後の9時台に始まる番組が、また最高だった。 21時00分──Gメン'75。 ドスの利いた丹波哲郎が率いる捜査チームが、大物犯罪者を追い詰めていく。子どもには少し難しいドラマだったけれど、あの重厚な雰囲気に引き込まれた。 そして、必ず来る。 「もう寝なさい!」 母か父の声が飛んでくる。9時を過ぎると、子どもは布団に入らなくてはいけない。Gメンの核心に差し掛かったところで、強制終了だ。しぶしぶ布団に入りながら、「今日の犯人は誰だったんだろう」と天井を見つめた。翌日、友達に結末を聞くのがまた楽しみだった。 あの夜のことを、今も覚えている 18時30分から21時まで。2時間半の土曜の夜。 タイムボカン、まんが日本昔ばなし、仮面ライダーV3、全員集合、Gメン'75。このラインナップを思い出すだけで、今でも胸がじわっと熱くなる。 昭和の土曜日は、学校が午前中で終わった。給食を食べて、午後からは自由だ。友達と外で遊んで、日が暮れて家に帰って、ご飯を食べて風呂に入って、そしてあの時間が始まる。 一週間の中で、あの夜が一番好きだった。 そしてそのすべての始まりが、昭和40年5月8日の夜6時15分に、白黒のテレビ画面に映し出された無名のアニメだったとは、当時の私には知る由もなかった。 おわりに 「宇宙エース」を私は知らない。でも宇宙エースがなければ、あの土曜日の夜はなかった。 素人60人が新聞広告で集まり、ノウハウもないまま作り上げた一本の白黒アニメが、タツノコプロという会社を育て、タイムボカンシリーズを生み、あの土曜日の夜の記憶を作った。 始まりはいつも、誰にも気づかれないところにある。 あなたが子どもの頃に夢中になっていた、あの土曜日の夜のことを、少しだけ思い出してもらえただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月9日──100円玉2枚と、母からの手紙 ▶

May 7, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月2日──たいやきくんは、なぜ海に逃げたのか

今日は5月2日。ゴールデンウィークも終盤に差し掛かる、少し惜しいような一日だ。 昭和の子どもにとって、このあたりから「もうすぐ学校だ」という現実がじわじわと迫ってくる時期でもあった。楽しかった連休の終わりに、どこか気持ちが沈む感覚。子どもだったから言葉にはできなかったけれど、あの感覚は今でも5月の空気の中にある気がする。 今日は、そんな「逃げ出したい気持ち」を歌にした、昭和50年の一曲の話をしたい。 昭和50年(1975年)──たいやきくんが、逃げた日 「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」 この歌いだしを聞けば、昭和を生きた人なら誰でも、あのメロディーが頭の中に流れてくるはずだ。 「およげ!たいやきくん」。昭和50年12月25日、クリスマスの日に発売されたこの一曲は、日本中を文字通り席巻した。シングル盤の売上は最終的に450万枚以上に達し、2024年現在もなお日本歴代シングル売上の第1位に輝いている。 もともとはフジテレビの子ども番組『ひらけ!ポンキッキ』の中で流れていた曲だ。番組内でオンエアが始まったのは昭和50年の秋ごろで、子どもたちの間でじわじわと人気に火がついていた。最初に歌っていたのは無名のフォークシンガーだったが、レコード化の話が持ち上がったとき、契約の都合でその歌手は使えなくなった。急遽代わりに白羽の矢が立ったのが、子門真人という歌手だった。 子門真人は当時、特撮やアニメの主題歌を吹き込む仕事を続けていた。仮面ライダーの「レッツゴー!!ライダーキック」もこの人が歌っている。ただ、主役ではなく裏方に近い立場で、吹き込み料は一曲あたり数万円という世界だった。 「たいやきくんも歌ってみないか」と声をかけられたとき、子門は特に深く考えずに引き受けた。いつものアルバイトの感覚だ。練習なしで、スタジオに入って約1時間で録音を終えた。ギャラは5万円。それだけだった。 その5万円の歌が、日本中で450万枚売れた。 子どもが喜び、大人が泣いた歌 不思議な歌だった。 表向きには子ども向けの童謡だ。たいやき屋から逃げ出した小さなたいやきが、海を泳ぎ回り、自由を謳歌する。でも最後には釣り人に釣られて食べられてしまう。なんとも後味が複雑な結末だ。 昭和50年代、この歌はサラリーマンの心情を代弁する歌だと言われた。毎日毎日、同じ場所で同じことをして、嫌になっても逃げられない。でもいつか逃げ出してやる。海まで泳いでやる──そんな感情が、たいやきという小さな存在に重なって見えたのだ。 大人たちがこの歌を聴いて涙を流した、という話が当時の雑誌にも載っていた。子ども向けの番組から生まれた歌が、なぜか働く大人の胸を打った。昭和50年という時代は、高度経済成長が一段落し、豊かにはなったけれどどこかくたびれた感じが社会全体に漂い始めた時期だった。オイルショックの後遺症もまだ残っていた。そんな時代の空気が、あのたいやきくんに乗り移っていたのかもしれない。 子どもだった私には、そんなことは何もわからなかった。ただ、あの独特のメロディーと「鉄板の上で焼かれる」という言葉が不思議に頭に残って、何度も口ずさんでいたのを覚えている。 5万円のギャラと、450万枚の皮肉 子門真人のギャラが5万円だったという話は、後に大きな話題になった。 印税契約ではなく買い取りで録音したため、450万枚売れても子門に入るお金は最初の5万円だけだった。後にレコード会社から特別に100万円と白いギターが贈られたが、23億円以上の売り上げに対してその扱いは切ない。 「歩合か買い取りか選べると言われて、何となく買い取りにした」と子門は語っている。まさかこれほど売れるとは思っていなかった。そりゃそうだ。子ども番組の一曲に、そんな夢を見る人はいない。 皮肉なことに、あの「逃げ出したい」という歌を歌った本人が、利益という意味では一番損をした形になった。たいやきくんと同じで、最後に食べられてしまったのは歌手のほうだったのかもしれない。 それでも子門真人は、その後も「ホネホネロック」「はたらくくるま」など子ども向けの歌を歌い続けた。昭和の子どもたちの記憶のどこかに、この人の声は確かにある。 おわりに 「およげ!たいやきくん」の発売は昭和50年12月25日だ。5月2日とは直接の関係はない。 でも、ゴールデンウィークの終わりが近づいて「また日常が始まる」という感覚を覚えるこの時期に、この歌のことをどうしても思い出してしまう。毎日毎日焼かれて嫌になっちゃう、という気持ちは、昭和の子どもにも、大人にも、そして今を生きる私たちにも、どこかに宿っているものだから。 たいやきくんは海に逃げた。最後は食べられてしまったけれど、あの自由に泳いだ時間は本物だったはずだ。 あなたが最後に「逃げ出したい」と思ったのは、いつのことだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日 ▶

May 1, 2026