8月25日について、もう一本書かせてください。
即席ラーメン記念日のことを書いた同じ日に、実はもうひとつ、どうしても外せない出来事がありました。
1976年、昭和51年8月25日。ピンク・レディーが「ペッパー警部」でレコードデビューしています。
私は7歳、小学1年生でした。
そして——これは後で気づいたことですが——彼女たちは翌年から日清焼そばU.F.O.のコマーシャルに出ています。即席麺と、ピンク・レディー。同じ8月25日から始まった二本の線が、数年後に一本につながる。昭和というのは、たまにこういう妙なつながり方をします。
なぜ、8月の終わりだったのか
デビュー日が8月25日に決まったこと自体が、実は「期待されていなかった」ことの証拠でした。
当時の芸能界では、新人賞を狙うなら4月前後にデビューするのが常識です。年末の賞レースまでに、じっくり時間をかけて育てる。それが筋でした。夏の終わりに出すというのは、要するにそこまで手をかける気がなかった、ということです。
作詞を担当した阿久悠さんも、後年こう振り返っています。8月25日にデビューするようなあまり期待されていない新人だったからこそ、作曲の都倉俊一さんと二人、自由に作れて幸運だった、と。
二人が世に出たきっかけは、日本テレビの『スター誕生!』でした。静岡の同じ学校に通っていたミーとケイは、はじめフォークデュオとして歌っていた二人です。決勝大会での合格から、半年足らずでのスピードデビューでした。
デビュー曲の候補は二曲ありました。「ペッパー警部」と、B面になった「乾杯お嬢さん」。レコード会社の中では後者を推す声が強かったといいます。ところが阿久さんは「キャンディーズの七掛けではつまらない」と主張し、予定どおり「ペッパー警部」がA面に決まりました。
もしここで大人たちの多数決が通っていたら、私たちが小学校の校庭で踊っていたのは、まったく別の曲だったことになります。
土居甫さんの振り付けも、当時としてはかなり際どいものでした。両脚を大きく開くポーズが賛否を呼び、それがまた話題になる。奇抜な名前、奇抜な曲、奇抜な振り付け、そして季節はずれのデビュー。その全部が、結果としてプラスに転がりました。
「ペッパー警部」はオリコン週間4位、売上60万枚。出荷ベースではミリオンセラーとなり、その年の日本レコード大賞で新人賞を獲っています。期待されていなかった新人が、年末には賞をもらっていた。
小学1年生の夏、テレビは一台だった
その8月25日、私は小学校に入学して最初の夏休みのまっただ中にいました。
あのころ、どこの家も親は忙しくしていました。昼間は近所の子どもたちだけで、プールに行ったり、路地で野球をしたり、めんこをしたり。放っておかれていたわけですが、退屈した記憶はまるでありません。
そして夕方からは、テレビが中心になります。
いまのように家に何台もテレビがある時代ではありませんでした。一台しかないのだから、家族全員で同じ番組を見るしかない。『8時だョ!全員集合』や『サザエさん』。何を見るかを選ぶ余地は、そもそもなかったのです。
正直に書いておくと、1976年当時の歌番組の記憶は、私にはありません。プロ野球中継すら、まだ見ていない年齢でした。
それでも「ピンク・レディー」という名前は、たぶんデビューのころから知っていたと思うのです。どこで知ったのか。おそらく『8時だョ!全員集合』ではなかったか——そう見当をつけて調べてみたら、当たっていました。
彼女たちは1976年9月4日、デビューからわずか10日後の土曜日に、『8時だョ!全員集合』で「ペッパー警部」を歌っています。そこから10月16日、11月6日と、その年のうちに三度も同じ曲で出ている。
つまり私は、歌番組ではなくドリフのコント番組の合間に、あの二人を見ていたことになります。歌謡曲に興味のない7歳の男の子の視界に、それでもピンク・レディーが入り込んできた理由は、たぶんこれです。家族全員で一台のテレビを囲む土曜の夜八時。あの時間帯の破壊力です。
9曲連続1位、そして300億円
1977年から1978年にかけての熱狂は、いま数字で振り返ってもよくわからないところがあります。
「S・O・S」から「カメレオン・アーミー」まで9曲連続でオリコン1位。「ペッパー警部」から数えれば10曲連続のミリオンセラー。1978年には「UFO」で日本レコード大賞、「サウスポー」で日本歌謡大賞。
そして1978年1月19日、TBSで『ザ・ベストテン』の放送が始まります。記念すべき第1回の第1位が「UFO」でした。しかも第1回から第3回まで、三週続けての1位です。
キャラクター商品は、年間300億円以上を売り上げたといわれます。衣料品、文房具、食器、自転車、食品。二人の姿がプリントされていないものを探すほうが難しいくらいでした。

当時のことを、阿久悠さんはこう書き残しています。家庭用のビデオがまだない時代、子どもたちはテレビの前にラジカセを置いて音を録り、振り付けをメモに書き取った。そして次の日、学校でみんなで練習する——。
私が『ザ・ベストテン』を録音するためにアイワのラジカセをテレビの前に構えるのは、これよりもう少し後のことです。けれど、やっていることはまったく同じでした。あの姿勢は、ピンク・レディーの時代に日本中の子どもが発明したものだったのかもしれません。
私は、ゴミ箱で「UFO」を覚えた
さて、その振り付けの話です。
女の子たちが踊っていた光景は、はっきり覚えています。そして白状すると、私も「UFO」の振り付けを覚えました。男子のくせに、と言われそうですが、覚えてしまったのです。
ただ、私の場合は経路が少し違いました。テレビの前でメモを取ったわけでも、校庭で教わったわけでもありません。
当時、うちには金属製の筒型のゴミ入れがありました。その表面に、ご本人たちが踊る「UFO」の振り付けが、順番にぐるりとプリントされていたのです。
毎日、目に入る。何かを捨てるたびに目に入る。ゴミ箱のまわりを一周すれば、振り付けが最初から最後まで並んでいる。
覚えないほうが難しいと思いませんか。
いま思えば、あれこそが「キャラクター商品が年間300億円」の正体です。下敷き、ペンケース、文房具——ありとあらゆるものに、あの二人はついていました。子どもが手を触れるものの表面という表面が、ピンク・レディーで埋まっていたのです。
私はレコードを買ったわけでも、コンサートに行ったわけでもありません。ファンだったという自覚すらありません。
それなのに、振り付けを覚えている。
熱狂というのは、こういう形でも人に入り込むのだと思います。ファンでない子どもの家のゴミ箱にまで、あの二人はいたのですから。
「ペッパー警部」から解散までのシングルが、順番に入ったベスト盤があります。あの振り付けを思い出しながら聴くと、なかなか妙な気分になります。
後楽園球場の、二つの日
私にとって後楽園球場は、巨人の球場です。それ以外の何物でもありませんでした。
その後楽園球場に、ピンク・レディーの絶頂と終わりが、両方とも刻まれています。

1978年の夏、後楽園球場でコンサートが開かれました。チケットを取れなかったファンが球場に殺到し、収拾がつかなくなりかけたため、急遽もう一日追加して二日間開催になったといわれています。真夏の夜のカーニバル、というやつです。
それからわずか3年後。
1980年9月1日に解散が発表され、1981年3月31日、同じ後楽園球場で解散コンサートが行われました。
その日は、みぞれ混じりの冷たい雨が降り続いていました。スタンドには空席が目立ち、観客動員は主催者発表で3万人。消防署関係者の証言では1万5000人程度だったともいわれます。1978年4月のキャンディーズの解散コンサートが超満員だったことと、しきりに比べられました。
かじかんだ手でマイクを握り、雨に打たれて歌う二人。しかも最後、涙を流して抱き合う場面まで、テレビの尺に収めるようディレクターに急かされたと伝わっています。
活動期間、4年7か月。
絶頂の球場と、みぞれの球場。同じ場所です。

「えっ、もう?」
解散のことは、当時の私も知っていました。
最初に思ったのは、「えっ、もう?」でした。
私の中では、まだバリバリ人気がある人たちという印象だったのです。実際のところがどうだったのか、11歳の私に分かるはずもありません。あくまで、当時の私の目に映っていた印象です。
けれど正直に書くと、そのころ私自身の興味は、もうピンク・レディーから離れていたはずなのです。
離れていたのに「えっ、もう?」と思う。矛盾しているようですが、たぶんこれが「空気」というものの正体なのだと思います。自分がもう気にしていないことにすら気づかないくらい、当たり前にそこにあった。だからなくなると言われて、はじめて驚く。
みぞれの後楽園球場に空席が目立っていたというのは、大人の世界の話です。小学5年生の私は、そんなことは何も知りませんでした。ただ「もう終わるのか」と思っただけです。
私の小学校と、ほぼ同じ長さ
書きながら気づいたことがあります。
ピンク・レディーの4年7か月は、私が小学1年生の夏から、5年生の春までとぴたりと重なります。私が高砂の小学校に通っていた6年間の、まんなかのほとんどを、あの二人が占めていたことになる。

そう考えると、あれは「流行」というより、ある年代の子どもにとっての風景そのものだったのだと思います。うちのゴミ箱にまで印刷されていたのですから、風景でなくて何でしょうか。
期待されずに8月の終わりに出てきて、日本中を巻き込んで、みぞれの中で終わった。たった4年7か月です。
ちなみに二人はその後、2010年に「解散やめ!」と宣言して活動を再開しています。あの日の後楽園球場が最後ではなかった、というのが、いま振り返るとなんだか救われる話です。
みなさんは、ピンク・レディーの振り付けを踊れますか。あるいは、踊っていた誰かを覚えていますか。よかったら、聞かせてください。
そして、冒頭に書いた「二本の線」のもう一方が、こちらです。昭和51年8月25日に生まれた二人が、昭和53年からコマーシャルに立った商品。いまも同じ棚にあります。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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