8月25日は、即席ラーメン記念日です。
1958年、昭和33年のこの日、日清食品が「チキンラーメン」を発売しました。世界で最初に、商売として成り立ったインスタントラーメンです。
昭和33年といえば、私が生まれる十一年前。長嶋茂雄が巨人でデビューした年で、東京タワーがまだ完成していない年です。当然、この日の記憶はありません。
けれど、私が物心ついたころ——昭和四十年代の葛飾区高砂の、我が家の台所の戸棚には、もうそれが当たり前のように積んでありました。
生まれる前に始まっていて、生まれたときにはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。インスタントラーメンというのは、私の世代にとってそういう存在です。
うどん一玉六円の時代に、三十五円
チキンラーメンを作ったのは、日清食品の創業者・安藤百福さんです。
発売のとき、四十八歳。四十七歳のときに、理事長を務めていた信用組合の倒産で築いてきた財産をほとんど失っています。無一文からの再出発でした。
きっかけは、戦後の大阪の闇市だったといわれます。屋台のラーメンに、寒空の下で人が行列を作っている。あれをもっと手軽に食べさせられないか——そう考えて、自宅の裏庭に小屋を建て、そこにこもりました。

つまずいたのは、麺の乾かし方でした。ある日、奥さんが台所で天ぷらを揚げているのを見て、ひらめきます。油の熱で水分を飛ばせばいい。こうして「瞬間油熱乾燥法」が生まれました。麺に味をつけ、蒸して、油で揚げる。今のチキンラーメンと、中身はほとんど変わりません。
そして昭和33年8月25日。
ところが、この商品はまったく歓迎されませんでした。
理由は値段です。85グラム入りで35円。当時、うどん玉ひとつが6円、普通の乾麺で25円という時代でした。国鉄の初乗りが10円、銭湯が16円。ラーメン屋で一杯食べるのと変わらない値段の袋麺を、誰が買うのか。しかも安藤さんは、二、三か月の手形が常識だった時代に、現金決済を要求しています。

問屋の主人たちは、そろって顔をしかめたそうです。
その日、大阪の問屋がひとつだけ、納入を引き受けてくれました。日清食品はのちにこの日を「ラーメン記念日」と定め、日本即席食品工業協会も8月25日を「即席ラーメン記念日」としています。つまりこの記念日は、大ヒットした日ではなく、やっと一軒だけが置いてくれた日なのです。
けれど、実際に食べた人たちの評判が、じわじわと広がっていきました。お湯をかけて二分(当時は三分ではありませんでした)で食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、やがて注文が殺到します。あれほど渋っていた問屋が、今度は「現金前払いでもいいから」と言ってくるようになった。工場の前に、仕入れのトラックが列を作ったといいます。安藤さんは後年、工場用地の代金を一か月分の売上でまかなえた、と語っています。
「中華そば」が「ラーメン」になった
このチキンラーメンが、日本語をひとつ変えました。
それまで、あの食べ物は「支那そば」あるいは「中華そば」と呼ばれるのが普通でした。「ラーメン」という言い方が全国に広まったのは、商品名にその三文字が入っていたからだといわれています。
私たちが何気なく使っている「ラーメン」という言葉は、昭和33年8月25日に大阪の問屋に納められた、あの袋から来ている。そう考えると、少し不思議な気持ちになります。
ヒットには真似が続きます。似た即席麺が次々に出て、意匠権や特許の争いが激しくなり、食糧庁の指導で昭和39年に業界団体が作られました。昭和35年には森永製菓のインスタントコーヒーが出て、「インスタント」は流行語の筆頭になります。そして昭和46年、カップヌードル。アメリカへ売り込みに行った安藤さんが、丼のない向こうで現地の人が麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べているのを見た。そこから生まれた発想でした。
——このあたりが、ようやく私の記憶に届く時代です。

うちの戸棚にあったのは、サッポロ一番しょうゆ味だった
正直に書きます。
即席ラーメン記念日の記事を書いておいてなんですが、我が家の戸棚にチキンラーメンが積んであった記憶は、ほとんどありません。
うちは、サッポロ一番しょうゆ味でした。
買っていたのは、高砂のイトーヨーカドーです。この連載でもう何度も出てきている、あの五階にボウリング場のあったヨーカドーです。母がまとめて買ってきて、台所の戸棚に積んでおく。それが我が家のラーメンでした。
サッポロ一番しょうゆ味の発売は、昭和41年1月。私が生まれる三年前です。作ったのは群馬・前橋のサンヨー食品で、もともとは乾麺の会社でした。
面白いのは、その会社が即席麺に乗り出したきっかけです。当時専務だった井田毅さんが、「関西でお湯をかけるだけで食べられる麺が流行っているらしい」と聞きつけた。それがチキンラーメンでした。井田さんは会社の方向を即席麺へ切り替え、全国で通用する醤油ラーメンを作ろうと各地を食べ歩いて、札幌のラーメン横丁で食べた一杯に感銘を受けます。そこから生まれたのが、サッポロ一番でした。
つまり我が家の戸棚にサッポロ一番が積んであったのも、もとをたどれば昭和33年8月25日に行き着くわけです。あの日、大阪の問屋が一軒だけ「置いてみる」と言わなければ、私が食べていた味も、たぶん存在しなかった。
ちなみにこのしょうゆ味は、長いあいだ関西より東を中心に売られていた商品だそうです。あの袋と、別添えの「特製スパイス」の小袋は、東日本の子どもの当たり前でした。
作ってくれていたのは、母でした。
そして父は、即席ラーメンを食べませんでした。
この連載で何度か書いてきたとおり、父は本当に休みのない人で、連休といえば正月の一日と二日だけ、という働き方をしていました。深夜に帰ってきて袋麺をすする父——そういう画は、私の記憶のなかにはありません。
いまも、あの袋はスーパーの棚にあります。別添えの「特製スパイス」も、あのままです。
小学六年生の鍋
インスタントラーメンは、多くの昭和の子どもにとって「生まれて初めて自分で作った料理」だったのではないでしょうか。
私の場合は、小学六年生でした。
鍋に水を入れて、火をつけて、沸くのを待って、袋を破って麺を落とす。そして、卵を落としました。最初から卵を入れているあたり、我ながら強気だったと思います。

思い返すと、親から「火を使うな」と言われた記憶がありません。危ないからやめなさい、とも言われなかった。台所に立って、ガスをひねって、鍋の前で三分待つ。それが小学六年生に許されていた家でした。
いまの感覚だと、少し驚かれるかもしれません。けれど当時は、たぶんどこの家もそうでした。学校から帰れば親は仕事か家事で手が離せず、子どもは自分の腹を自分で満たすのが普通だった。そのための道具として、袋麺が戸棚に積んであった。安藤さんが掲げた「手間がかからないこと」という条件は、昭和の子どもに台所を開放したのだと思います。
中学の夜と、高校の帰り道
中学に上がると、自分で作る回数が増えました。
試験勉強で夜更かしをする日です。夜中に腹が減る。母を起こすわけにもいかない。そういうとき、台所へ降りていって、自分で鍋に火をつける。
深夜のガスコンロの青い火と、鍋のなかで麺がほぐれていく音。家族が寝静まったあとの、自分ひとりの時間でした。あの夜を重ねるうちに、ラーメンは「作ってもらうもの」から「自分で確保するもの」に変わっていったのだと思います。
高校に入って野球部に入ると、今度は少し様子が変わります。
遠征試合の帰り。仲間数名で、決まって遠征先の最寄駅の近くのラーメン屋に入りました。試合に勝った日も、負けた日もです。学校での練習の帰りにも、馴染みの中華屋に寄って食べて帰ることがよくありました。
つまり高校生になると、ラーメンは家の台所から、外の店へ移っていったわけです。
財布に少し自由がきくようになった、という話ではありません。汗の匂いをさせたまま、仲間と丼に向かって黙って食べる。あの時間そのものが必要だったのです。家に帰ってひとりで食べたのでは、意味が違った。
「もっと手軽に」という願いから始まった食べ物なのに、高校生の私たちはわざわざ店に入り、狭い席に並んで座って食べていた。手軽さの反対側にあるもの——一緒に食べる時間——を、あの頃はちゃんと選んでいたのだと思います。
職場のガスコンロと、子どもたちのひよこ
いま私は、路線バスの運転士をしています。
朝が早い日も、夜が遅い日もある。決まった時間に決まったところでゆっくり食事ができる仕事ではありません。
そして今でも、職場のガスコンロを使って、即席ラーメンを茹でて食べることがあります。
小学六年生のときに覚えた手順と、まったく同じです。鍋に水を入れて、火をつけて、麺を落として、三分待つ。五十七歳になっても、やっていることは変わりません。変わったのは、台所が我が家の台所から、営業所の片隅になったことだけです。
そしてもうひとつ。
うちの子どもたちは、チキンラーメンが大好物です。
これには少し、しみじみするものがあります。私の家の戸棚にはサッポロ一番が積んであって、チキンラーメンはほとんど記憶にない。それが一世代あいだを飛び越えて、いま我が家の食卓にはひよこちゃんの袋が並んでいる。
安藤百福さんは九十六歳で亡くなる前日まで、毎日の昼食にチキンラーメンを食べていたそうです。健康の秘訣を聞かれると、そう答えていたといいます。自分の作ったものを、五十年近く毎日食べ続けた人。
その執念のようなものが、あの黄色い麺の妙な中毒性の正体なのかもしれません。少なくとも、うちの子どもたちはすっかり捕まっています。
うどん一玉が六円の時代に、三十五円。
高すぎると笑われ、問屋に断られ続けて、それでもたった一軒が置いてくれた日。それが8月25日です。
その一軒がなければ、サンヨー食品は乾麺の会社のままだったかもしれない。私は小学六年生の夜に鍋へ卵を落とすこともなく、中学の夜中に台所へ降りていくこともなく、いま営業所でコンロに火をつけることもなかったかもしれません。
台所の戸棚を開ければ、いつでもそこにある。
あの安心感の始まりは、断られ続けた四十八歳の男の、裏庭の小屋でした。
みなさんのお宅の戸棚には、どの袋麺が積んでありましたか。はじめて自分で作ったラーメンのこと、覚えていらっしゃるでしょうか。よろしければ聞かせてください。
そして、うちの子どもたちが夢中になっているほうが、こちらです。安藤さんが亡くなる前日まで、毎日の昼に食べ続けた一杯でもあります。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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