8月25日 ── 私は、ゴミ箱で「UFO」の振り付けを覚えた|昭和の今日は何があった日?

8月25日について、もう一本書かせてください。 即席ラーメン記念日のことを書いた同じ日に、実はもうひとつ、どうしても外せない出来事がありました。 1976年、昭和51年8月25日。ピンク・レディーが「ペッパー警部」でレコードデビューしています。 私は7歳、小学1年生でした。 そして——これは後で気づいたことですが——彼女たちは翌年から日清焼そばU.F.O.のコマーシャルに出ています。即席麺と、ピンク・レディー。同じ8月25日から始まった二本の線が、数年後に一本につながる。昭和というのは、たまにこういう妙なつながり方をします。 なぜ、8月の終わりだったのか デビュー日が8月25日に決まったこと自体が、実は「期待されていなかった」ことの証拠でした。 当時の芸能界では、新人賞を狙うなら4月前後にデビューするのが常識です。年末の賞レースまでに、じっくり時間をかけて育てる。それが筋でした。夏の終わりに出すというのは、要するにそこまで手をかける気がなかった、ということです。 作詞を担当した阿久悠さんも、後年こう振り返っています。8月25日にデビューするようなあまり期待されていない新人だったからこそ、作曲の都倉俊一さんと二人、自由に作れて幸運だった、と。 二人が世に出たきっかけは、日本テレビの『スター誕生!』でした。静岡の同じ学校に通っていたミーとケイは、はじめフォークデュオとして歌っていた二人です。決勝大会での合格から、半年足らずでのスピードデビューでした。 デビュー曲の候補は二曲ありました。「ペッパー警部」と、B面になった「乾杯お嬢さん」。レコード会社の中では後者を推す声が強かったといいます。ところが阿久さんは「キャンディーズの七掛けではつまらない」と主張し、予定どおり「ペッパー警部」がA面に決まりました。 もしここで大人たちの多数決が通っていたら、私たちが小学校の校庭で踊っていたのは、まったく別の曲だったことになります。 土居甫さんの振り付けも、当時としてはかなり際どいものでした。両脚を大きく開くポーズが賛否を呼び、それがまた話題になる。奇抜な名前、奇抜な曲、奇抜な振り付け、そして季節はずれのデビュー。その全部が、結果としてプラスに転がりました。 「ペッパー警部」はオリコン週間4位、売上60万枚。出荷ベースではミリオンセラーとなり、その年の日本レコード大賞で新人賞を獲っています。期待されていなかった新人が、年末には賞をもらっていた。 小学1年生の夏、テレビは一台だった その8月25日、私は小学校に入学して最初の夏休みのまっただ中にいました。 あのころ、どこの家も親は忙しくしていました。昼間は近所の子どもたちだけで、プールに行ったり、路地で野球をしたり、めんこをしたり。放っておかれていたわけですが、退屈した記憶はまるでありません。 そして夕方からは、テレビが中心になります。 いまのように家に何台もテレビがある時代ではありませんでした。一台しかないのだから、家族全員で同じ番組を見るしかない。『8時だョ!全員集合』や『サザエさん』。何を見るかを選ぶ余地は、そもそもなかったのです。 正直に書いておくと、1976年当時の歌番組の記憶は、私にはありません。プロ野球中継すら、まだ見ていない年齢でした。 それでも「ピンク・レディー」という名前は、たぶんデビューのころから知っていたと思うのです。どこで知ったのか。おそらく『8時だョ!全員集合』ではなかったか——そう見当をつけて調べてみたら、当たっていました。 彼女たちは1976年9月4日、デビューからわずか10日後の土曜日に、『8時だョ!全員集合』で「ペッパー警部」を歌っています。そこから10月16日、11月6日と、その年のうちに三度も同じ曲で出ている。 つまり私は、歌番組ではなくドリフのコント番組の合間に、あの二人を見ていたことになります。歌謡曲に興味のない7歳の男の子の視界に、それでもピンク・レディーが入り込んできた理由は、たぶんこれです。家族全員で一台のテレビを囲む土曜の夜八時。あの時間帯の破壊力です。 9曲連続1位、そして300億円 1977年から1978年にかけての熱狂は、いま数字で振り返ってもよくわからないところがあります。 「S・O・S」から「カメレオン・アーミー」まで9曲連続でオリコン1位。「ペッパー警部」から数えれば10曲連続のミリオンセラー。1978年には「UFO」で日本レコード大賞、「サウスポー」で日本歌謡大賞。 そして1978年1月19日、TBSで『ザ・ベストテン』の放送が始まります。記念すべき第1回の第1位が「UFO」でした。しかも第1回から第3回まで、三週続けての1位です。 キャラクター商品は、年間300億円以上を売り上げたといわれます。衣料品、文房具、食器、自転車、食品。二人の姿がプリントされていないものを探すほうが難しいくらいでした。 当時のことを、阿久悠さんはこう書き残しています。家庭用のビデオがまだない時代、子どもたちはテレビの前にラジカセを置いて音を録り、振り付けをメモに書き取った。そして次の日、学校でみんなで練習する——。 私が『ザ・ベストテン』を録音するためにアイワのラジカセをテレビの前に構えるのは、これよりもう少し後のことです。けれど、やっていることはまったく同じでした。あの姿勢は、ピンク・レディーの時代に日本中の子どもが発明したものだったのかもしれません。 私は、ゴミ箱で「UFO」を覚えた さて、その振り付けの話です。 女の子たちが踊っていた光景は、はっきり覚えています。そして白状すると、私も「UFO」の振り付けを覚えました。男子のくせに、と言われそうですが、覚えてしまったのです。 ただ、私の場合は経路が少し違いました。テレビの前でメモを取ったわけでも、校庭で教わったわけでもありません。 当時、うちには金属製の筒型のゴミ入れがありました。その表面に、ご本人たちが踊る「UFO」の振り付けが、順番にぐるりとプリントされていたのです。 毎日、目に入る。何かを捨てるたびに目に入る。ゴミ箱のまわりを一周すれば、振り付けが最初から最後まで並んでいる。 覚えないほうが難しいと思いませんか。 いま思えば、あれこそが「キャラクター商品が年間300億円」の正体です。下敷き、ペンケース、文房具——ありとあらゆるものに、あの二人はついていました。子どもが手を触れるものの表面という表面が、ピンク・レディーで埋まっていたのです。 私はレコードを買ったわけでも、コンサートに行ったわけでもありません。ファンだったという自覚すらありません。 それなのに、振り付けを覚えている。 熱狂というのは、こういう形でも人に入り込むのだと思います。ファンでない子どもの家のゴミ箱にまで、あの二人はいたのですから。 「ペッパー警部」から解散までのシングルが、順番に入ったベスト盤があります。あの振り付けを思い出しながら聴くと、なかなか妙な気分になります。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー コンプリート・シングル・コレクション「ペッパー警部」から「UFO」「サウスポー」「モンスター」まで、シングルを網羅した一枚。星4.4 Amazonで見る › 後楽園球場の、二つの日 私にとって後楽園球場は、巨人の球場です。それ以外の何物でもありませんでした。 その後楽園球場に、ピンク・レディーの絶頂と終わりが、両方とも刻まれています。 1978年の夏、後楽園球場でコンサートが開かれました。チケットを取れなかったファンが球場に殺到し、収拾がつかなくなりかけたため、急遽もう一日追加して二日間開催になったといわれています。真夏の夜のカーニバル、というやつです。 それからわずか3年後。 1980年9月1日に解散が発表され、1981年3月31日、同じ後楽園球場で解散コンサートが行われました。 その日は、みぞれ混じりの冷たい雨が降り続いていました。スタンドには空席が目立ち、観客動員は主催者発表で3万人。消防署関係者の証言では1万5000人程度だったともいわれます。1978年4月のキャンディーズの解散コンサートが超満員だったことと、しきりに比べられました。 かじかんだ手でマイクを握り、雨に打たれて歌う二人。しかも最後、涙を流して抱き合う場面まで、テレビの尺に収めるようディレクターに急かされたと伝わっています。 活動期間、4年7か月。 絶頂の球場と、みぞれの球場。同じ場所です。 ...

August 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月24日──ヒット曲のないまま武道館に立った三人と、新キャプテンの夏

今日は8月24日。夏休みも残りわずか、カレンダーの数字が急に重たく見えてくる頃です。 1983年(昭和58年)のこの日、東京・九段下の日本武道館に、1万人が集まりました。ステージに立ったのは、THE ALFEE。桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の三人組です。 いまでこそ「武道館といえばアルフィー」ですが、この日はその一回目でした。しかもこの時点で、彼らには誰もが口ずさめるヒット曲が、一曲もなかったのです。 デビューから10年、まだ何者でもなかった THE ALFEEの結成は1973年。東京のある大学のキャンパスで出会った三人を中心に始まり、翌1974年8月25日、「夏しぐれ」でデビューしました。当時は四人組のフォークグループです。 しかし、デビュー曲は売れませんでした。翌年の2作目も不発。メンバーの一人が脱退して三人になり、3作目に予定していた曲は発売そのものが中止になります。これをきっかけにレコード会社との契約が切れ、所属レーベルのない状態でライブハウスを回る日々が続きました。 この時期、彼らは事務所の先輩である、かまやつひろしさん、由紀さおりさん、研ナオコさんのバックバンドを務めています。つまり、ステージの後ろで演奏する側にいたわけです。 余談ですが、『ザ・ベストテン』への出演も、自分たちの曲より研ナオコさんのバックとしての出演が先だったといいます。あの番組を毎週欠かさず見ていた身としては、なんとも言えない気持ちになる話です。私はきっと、画面の奥のほうにいた三人を、なんとも思わずに見過ごしていたはずですから。 1979年にキャニオンレコードから「ラブレター」で再デビュー。音楽性はフォークからロックへと少しずつ舵を切り、コンサートの動員力だけは日本のバンドでも屈指と言われるまでになっていきます。 それでも、代表曲がない。そういう10年でした。 チケットを売り出したときは、まだ売れていなかった そんな彼らが武道館を押さえたのが、1983年8月24日、水曜日です。公演名は「OVER DRIVE 1983 ALFEE 8-24 BUDOKAN」。 ここがこの話のいちばん面白いところなのですが──チケットの予約が始まった時点で、「メリーアン」はまだヒットしていませんでした。 「メリーアン」がシングルとして世に出たのは、この年の6月。本来はアルバム収録曲になる予定だった一曲です。それが発売後、じわじわと、そして夏に入ってから一気にチャートを駆け上がっていきました。 つまり武道館当日、この曲はちょうど坂を駆け上がっている最中だったのです。チケットを買った人たちは「まだ売れていないバンド」を見に行くつもりでいたら、いざ会場に着いてみると、そのバンドがまさに世に出ようとしている瞬間に立ち会うことになった。そういう夜でした。 演奏は、メドレーを含めて14曲。「トラベリング・バンド」で始まり、「誓いの明日」「SAVED BY THE LOVE SONG」「Musician」と続いて、5曲目に「メリーアン」。後半には「ジェネレーション・ダイナマイト」「See You Again」「ラジカル・ティーンエイジャー」「夢よ急げ」と、いまもライブの定番になっている曲が並んでいます。 そしてこの日、彼らは会場に来た1万人全員に、記念バッヂとプロモーションビデオを収録したビデオテープを配りました。売れていないバンドが、初めての武道館で、1万人分の土産を用意したのです。採算のことを考えたら、正気の沙汰ではありません。 この年の暮れ、THE ALFEEは『第34回NHK紅白歌合戦』に初出場します。8月にはまだ「ヒット曲のないバンド」だった三人が、大晦日にはお茶の間にいた。わずか四か月の出来事でした。 その夏、私は新キャプテンになったばかりだった その頃、私は何をしていたか。 中学2年、14歳。夏の大会が終わって3年生が引退し、新チームの最上級生になったばかりでした。そして私が、新しいキャプテンになりました。 これが、思っていたよりずっと難しいのです。昨日まで先輩の背中を見ていればよかったのが、急に自分の背中を見られる側になる。声のかけ方ひとつ、練習メニューの組み方ひとつ、何が正解なのかわからない。試行錯誤しながら、新人戦に向けて毎日グラウンドに立っていました。 だから8月24日の夜、九段下で1万人が沸いていたことなど、当然知りません。私はたぶん、日が暮れるまでノックを受けていたか、翌日の練習のことを考えて寝床に入っていたかのどちらかです。 音楽との付き合いは、テレビでした。『ザ・ベストテン』だけは、毎週きちんとチェックしていたと思います。ラジオでもレコードでもなく、あの番組が私にとっての音楽の窓でした。 「メリーアン」を初めて知ったのも、その窓の中です。記憶をたどると、ランキングの中ではなく「今週のスポットライト」で登場して歌っていたように思います。ランクインする前の曲を紹介するコーナーですから、まさにあの夏の、坂を駆け上がっている途中の姿だったのでしょう。 「メリーアン、メリーアン」と、曲名がそのまま呼びかけられるサビ。あれが耳から離れませんでした。中学生ながら、これはヒットするだろうな、と感じたのを覚えています。実際、その通りになりました。 そして武道館。当時の私にとって、あそこは行ったことのない場所でした。テレビの中でだけ見る場所。葛飾から九段下まで、電車に乗れば大した距離ではないはずなのに、子どもの感覚では、ずいぶん遠いところにあると思っていました。 あの夏の「メリーアン」も、その後の曲も、まとめて聴けるベスト盤が出ています。デビューから30年ぶんのシングルを37曲おさめたものです。 THE ALFEE 30th ANNIVERSARY HIT SINGLE COLLECTION 37デビュー30周年の記念盤。1974年のデビュー曲から順にシングル37曲を収録。「メリーアン」も入っています。星4.4 Amazonで見る › 42年、105回 あの1983年8月24日から、THE ALFEEの武道館公演は毎年続きました。翌1984年からは12月開催になり、2018年まで36年連続。12月23日にいたっては1984年から35年連続で、武道館の「史上最多同一日連続公演」の記録になっています。 通算公演数は、2025年12月の時点で105回。バンドとしては歴代1位です。コンサートの総本数は3000本を超えました。「メリーアン」以降、シングルは59作連続でオリコンのトップ10に入っています。1983年から途切れていない、ということです。 数字を並べていると、少し目がくらみます。けれど私が本当にすごいと思うのは、105回のほうではありません。1回目のほうです。 売れていない。ヒット曲がない。それでも武道館を押さえて、1万人を集めて、その1万人全員に土産を持たせて帰した。あの晩の三人は、まさか42年後にこんな数字になっているとは思っていなかったはずです。ただ、その日の一回を、めいっぱいやっただけでしょう。 続いたものというのは、たいてい、続けるつもりで始まったものではないような気がします。 続いたもの、続けてきたもの 正直に言うと、彼らと自分を重ねるつもりはありません。10年売れずに耐えたバンドと、葛飾で野球をやっていた中学生とでは、並べようがないからです。 ...

August 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月20日──あの夏、雑誌も終わっていた。『平凡』が幕を下ろした年に

毎朝、この連載のために「今日は何の日」の資料をめくるのが習慣になりました。8月20日のページを開いて、いくつも並ぶ記念日や出来事の中で、ある一行に手が止まりました。 ——昭和62年、マガジンハウスが月刊『平凡』と週刊『平凡』の休刊を発表。 『平凡』。その二文字を見た瞬間、頭の中で、あの表紙が何枚もめくれていくような感覚がありました。散髪屋の待合、親戚の家の茶の間、どこかの本棚。昭和の暮らしのあちこちに、当たり前のように置いてあった雑誌です。 100万部の雑誌が消えていく 『平凡』が創刊されたのは昭和20年11月。戦争が終わった、その年の秋のことです。やがて「歌と映画の娯楽雑誌」として、グラビアと連載小説を二本柱に、ラジオや映画、そしてテレビの時代の波に乗って、部数をぐんぐん伸ばしていきました。ライバルは集英社の『明星』。この二誌が、昭和のアイドル雑誌の二枚看板でした。 最盛期には140万部を超えたといいます。芸能人の素顔も、新曲の歌詞も、お茶の間に届く憧れの情報は、まずこの分厚いグラビア誌の中にありました。歌詞を書き写して覚えるのも、憧れのスターがどんな暮らしをしているのかを知るのも、多くの人にとっては、この一冊が入り口でした。今のスマホの画面が引き受けている役割の、ずいぶん多くを、あの紙の束が担っていたわけです。 その『平凡』が、静かに畳まれていきます。週刊『平凡』は昭和62年10月6日号を最後に休刊。月刊『平凡』も、同じ年の12月号で幕を下ろしました。驚くのは、その最終号すら100万部を超えていたと伝えられていることです。売れなくなったから終わったのではない。テレビがさらに情報の主役になり、出版社そのものが、もっと都会的でおしゃれな雑誌の会社へと姿を変えていく——その大きな流れの中で、昭和の芸能雑誌は、役目を終えたのだといわれています。 「まだ100万部も出ているのに、終わる」。子どもの頃にそれを聞かされても、たぶんピンとこなかったと思います。けれど57歳になった今、その一行は、妙に胸に残るのです。 私とアイドル雑誌 正直に打ち明けると、私は少しへそ曲がりな子どもでした。 世の中が松田聖子さん一色に染まっていくのが、なんだか面白くなくて、私はあえて河合奈保子さんを応援していました。みんなと同じ方を向くのが、どうにも照れくさかったのです。中学に上がる頃には、その気持ちは中森明菜さんへと移っていきました。 木曜の夜9時は『ザ・ベストテン』。赤いボタンと白いボタンを同時に押して、テレビの音をそのままカセットに録る。ソニーのウォークマンではなく、我が家の予算に合ったAIWAのカセットプレーヤーで、その録音を何度も聴き返しました。 そんな私にとって、『平凡』や『明星』のようなアイドル雑誌は、実はそれほど近い存在ではありませんでした。自分のお小遣いで買った記憶はありません。手に取ったのは、たいてい散髪屋や病院の待合室、あるいは友達の家。順番を待つあいだ、置いてあるのを何となくめくる。そのくらいの距離感でした。私にとっての芸能情報は、あくまでテレビとラジオが中心で、あの分厚いグラビア誌は、少し離れたところで開かれている、大人びた世界のように見えていたのです。 あの頃の歌は、いまベスト盤で一枚にまとまっています。まずは、へそ曲がりの私が選んだほうから。 河合奈保子 ゴールデン☆ベスト ~A面コレクション~日本コロムビア。デビュー曲からのシングルA面を集めた2時間32分。「スマイル・フォー・ミー」「ラブレター」「エスカレーション」ほか Amazonで見る › そして、中学に上がってから乗り換えたほう。 ベスト・コレクション ~ラブ・ソングス&ポップ・ソングス~ 中森明菜ワーナーミュージック・ジャパン。「少女A」「セカンド・ラブ」「DESIRE」ほか、2時間23分。レビュー677件・星4.5 Amazonで見る › あの夏、私自身も終わっていた ここまで書いてきて、ひとつ、動かせない事実に気づきました。 『平凡』が幕を下ろした昭和62年——1987年。それは、私にとっても特別な年でした。 この年の7月23日、私は神宮第二球場で、高校野球を終えています。真夏の炎天下、スパイク越しに伝わる砂の熱さ、ヘッドスライディング、止まらない涙。あの敗戦を最後に、私の少年時代は幕を閉じました。そこから先の夏は、いわゆる抜け殻状態。進路も決まらず、何を見て、何を考えていたのか、正直、ほとんど覚えていません。 つまり——自分の少年時代が終わったのと同じ年の、同じ夏に、少年時代を彩ってくれた雑誌たちも、静かに畳まれていた。 けれど、正直に書きます。当時の私は、そのことにまったく気づいていませんでした。『平凡』や『明星』が消えていくことなど、意識の外でした。それどころではなかった、というのが本当のところです。高校野球が抜けたあとにぽっかり空いた場所を、何かが埋めてくれることは、あの夏、ついにありませんでした。ラジオから流れる歌も、テレビの中のアイドルも、あの穴には届かなかった。ただ、時間だけが過ぎていったのを覚えています。 もうひとつの8月20日 ── 銀座の信号機 さて、少し話を変えます。8月20日は「交通信号設置記念日」でもあります。 昭和6年(1931年)のこの日、東京・銀座の尾張町交差点——今の銀座4丁目交差点です——や京橋など、34か所に、日本で初めての3色灯の自動信号機が設置されました。面白いのは、当時の信号機は、色が変わるたびにベルが鳴ったそうなのです。「やかましい」という苦情も出たと伝わっています。もっとも、設置された当初は、信号という仕組みそのものがまだ世の中に浸透しておらず、色を無視して進んでしまう人や車も多く、かえって事故が起きたともいわれています。 今では、信号は音もなく、当たり前に色を変えます。青、黄、赤、そしてまた青。誰に褒められるでもなく、毎日律儀に、同じ仕事を繰り返している。 子どもの頃を思い返すと、街の風景の中には、いつも信号と電車があったような気がします。 高砂のあたりには踏切があり、線路をまたぐ歩道橋もありました。踏切が鳴り始めると足を止め、遮断機の向こうを電車が通り過ぎていくのを眺める。今のように何か特別な目的があったわけではありません。ただ、赤や青に変わる信号や、規則正しく点滅する踏切の灯り、目の前を走り抜けていく電車そのものが、子どもの私には面白かったのでしょう。 学校へ行くようになると、信号はもっと身近なものになりました。 「青になったら渡るんだよ」 そんなことを親や先生から何度も言われた記憶があります。今考えれば当たり前のことですが、子どもにとって信号は、街の中で守らなければならない最初の約束事のようなものだったのかもしれません。 そして、もう一つ覚えているのが夕方の街の音です。 夢中になって遊んでいても、夕方5時になるとチャイムが聞こえてくる。その音を聞くと、「そろそろ帰らなきゃ」と思う。誰かに腕時計を見せられなくても、街そのものが時間を教えてくれていました。踏切の音、電車の走る音、信号の電子音、夕方のチャイム。そうしたもの全部が、あの頃の私たちの暮らしの中に溶け込んでいたのだと思います。 それから半世紀近くが過ぎました。 57歳になった今、私は路線バスの運転士として、一日じゅう信号と向き合っています。 赤信号で止まり、青信号で進む。それだけなら、子どもの頃に教わったことと何も変わりません。しかし今は、その信号の向こうに、お客様の安全があります。黄色に変わるタイミングを見ながら無理をせず、交差点の歩行者や自転車にも目を配る。一つの信号を見る意味が、子どもの頃とはまったく違うものになりました。 不思議なものです。子どもの頃、踏切のそばや交差点で何気なく見上げていた赤・黄・青の三色の光。それが今では、一日の仕事を共にする「相棒」のような存在になっています。 あの頃の私は、まさか何十年後、自分が大きなバスのハンドルを握り、毎日何百回となく信号を確認する仕事をしているとは想像もしなかったでしょう。けれど、赤なら止まり、青なら進む。街が変わり、自分も年を重ね、立場もずいぶん変わりました。それでも、子どもの頃から変わらずそこにある三色の光を見ると、ときどき人生というものは、思いがけないところで昔と今がつながっているものだな、と思うのです。 変わり続けるもの、終わるもの 雑誌は、一度きり、終わっていきます。あれだけ売れていても、時代が役目を返せと言えば、静かに幕を下ろす。100万部の『平凡』でさえ、そうでした。 信号は、終わりません。銀座にベルを鳴らして生まれてから90年あまり、色を変え続けながら、ずっとそこに在り続けています。変わり続けることで、変わらずにいる。 高校野球を失ったあの夏、私の手の中からは、いろいろなものがこぼれ落ちていきました。少年時代そのものも、それを彩った雑誌たちも。けれど、あのとき見上げていた三色の光だけは、今も変わらず、私の目の前で青に変わってくれます。 みなさんには、「気づかないうちに終わっていた」ものはありますか。いつもの店、いつもの雑誌、いつもの番組。そこにあるのが当たり前すぎて、消えたことにずっと後から気づく——そんな一つを、よかったらコメントで教えてください。 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【8月19日】20番乗り場と、祭壇のサインボール | 次の記事:【8月21日】300点が出た夜、私は1歳だった ▶ ...

August 20, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月18日──最後の月と、確かめなかった名前

知らなかったことが、二つ出てきた このシリーズを書いていると、たまに妙な体験をします。「昭和のあの日」を調べているつもりが、調べた先に出てくるのは、昭和を生きていたはずの自分がまるで知らなかったことばかり、という日です。 8月18日は、まさにそれでした。 一つは、1976年(昭和51年)8月18日。ソ連の月探査機「ルナ24号」が、月に降りた日です。私は小学一年生。まったく、これっぽっちも記憶にありません。 もう一つは、1989年(平成元年)8月18日。作曲家・古関裕而が亡くなった日です。この人が書いた曲を、私は子どもの頃から数え切れないほど口にしていました。それどころか、私の通っていた中学校の校歌まで、この人の作曲だったのです。 知らないうちに人類が月から引き揚げていた日と、知らないうちに自分のそばにいた人がいなくなった日。同じ8月18日の話を、順番にしていきます。 20世紀最後に、月に降りた機械 ルナ24号は、1976年8月9日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。月周回軌道を経て、8月18日、「危難の海」と呼ばれる平原に軟着陸します。 やったことは、いま読むと地味です。アームを伸ばし、月面の地下2メートルほどから土をすくい、カプセルに詰める。翌19日、そのカプセルを月面から打ち上げ、22日には西シベリアのスルグト近郊に無事着地させました。持ち帰った月の土は、170.1グラム。手のひらに載る量です。 しかしこの地味な成功には、二つの重い意味がありました。 一つは、これがソ連のルナ計画の最後だったということ。1959年のルナ1号から17年、40機以上を月へ送り続けた計画は、この24号で幕を閉じます。着陸地点から2.3キロ離れた場所には、2年前にサンプル回収に失敗したルナ23号が横たわっていました。24号は、その弔い合戦でもあったわけです。 もう一つ。これが、20世紀における最後の月面着陸だったということです。アポロ17号の有人飛行が1972年。無人のルナ24号が1976年。そこから先、月の表面に何かがそっと降りることは、20世紀のあいだ二度と起きませんでした。次の軟着陸は2013年、中国の嫦娥3号。実に37年後です。 1976年8月18日は、人類が月に手を伸ばすのをいったんやめた日でもありました。月は「行くところ」から「見上げるもの」に戻っていったのです。 そのころ私は、区民プールにいた そんな節目の日、七歳の私は何をしていたか。 水泳が上手くなりたくて、区民プール通いに明け暮れていました。頭にあったのは、あと何メートル泳げるようになるか。それだけです。 だからルナ24号については、当時の記憶がゼロです。子どもの世界に届かなかったのか、届いていたのに素通りしたのか、それすらわかりません。 ただ、月といえば思い出すことが一つだけあります。父が、事あるごとにこう言っていたのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよなぁ」 私が生まれる二か月ほど前の出来事です。父にとってそれは、生涯語り継ぎたくなるほどの衝撃だったのでしょう。だから私の中の「月」は、ずっとアポロと父の声で出来ていました。ソ連が黙々と無人機を送り続けていたことも、その最後の一機が私の小学一年生の夏に降りたことも、この記事を書くまで知らないままでした。 半世紀後の今、私はようやく知ったわけです。父が繰り返し語っていたあの熱狂の時代は、私がプールで水をかいていた年に、静かに終わっていたのだと。 六甲おろしを書いた人が、母校の校歌も書いていた 話を1989年に移します。 古関裕而。1909年(明治42年)、福島市の呉服店の長男として生まれました。本名は勇治。1930年に日本コロムビアの専属作曲家となり、生涯で約五千曲を書いたとされます。 代表作を並べると、たぶん誰でも一曲は知っています。早稲田大学の応援歌「紺碧の空」。阪神タイガースの歌「六甲おろし」。全国高校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」。1964年東京五輪の「オリンピック・マーチ」。「長崎の鐘」「君の名は」「鐘の鳴る丘」。 そして巨人ファンの私にとっては、これです。1963年(昭和38年)、球団創立30周年を記念して制定された三代目の球団歌「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」。歌詞は読売新聞が公募し、二万篇を超える応募から選ばれました。作曲は古関裕而。つまり「六甲おろし」と「闘魂こめて」は、同じ人の手から出ています。宿敵同士の球団歌を、一人の作曲家が書いていたわけです。 さらに古関は、全国の学校の校歌や応援歌をおびただしい数、手掛けました。福島市古関裕而記念館の調べでは、福島県内だけで101校。全国分は記念館が地方別の一覧を公開しているほどの規模です。そしてその一覧に、私の母校の名前がありました。 記念館のサイトに、こんな話も載っています。ある日、北海道の小さな小学校の校長から手紙が届く。校歌を作ってほしいが、予算がなく、お礼らしいお礼もできない──それでも思い切って書きました、と。古関は「お礼は結構です」と伝えて曲を送りました。しばらくして届いたお礼は、一斗缶いっぱいの小豆。児童たちが一人ひと握りずつ、家から持ち寄ったものだったそうです。 こういう人が、五千曲を書いた。数の異様さの中身が、少し見えた気がしました。 確かめなかった名前 私は中学の校歌を、歌詞もメロディーも、今でもはっきりと歌えます。 行事のあるごとに歌いました。入学した当初の音楽の授業では、「校歌」と「君が代」を繰り返し、しっかりと歌わされました。あのころ体に叩き込まれたものは、四十年以上たっても抜けないものです。 そして、これが今回いちばん自分でも驚いたことなのですが──当時から、思っていたのです。 「うちの校歌の作曲のところに書いてある名前、なんだか聞き覚えがあるな」 思っていたのに、確かめなかった。 十三歳の私は、その名前を目にしていました。聞き覚えがあるという感覚まで持っていました。あと一歩、誰かに聞くか、家で調べるかしていれば、そこで繋がっていたはずなのです。甲子園で流れるあの曲、六甲おろし、そして東京ドームの五回裏に鳴るあの曲と、自分が体育館で歌っている校歌が、同じ人の手から出ているということに。 私が中学に入った1982年(昭和57年)、古関裕而は72歳。まだ生きていました。私が音楽室で校歌を繰り返し歌っていたその時、作曲者は現役の人間として、この世のどこかにいたのです。その七年後の夏に亡くなりました。 1989年8月18日午後9時30分、脳梗塞。八十歳の誕生日を迎えてから一週間足らずでした。前年11月に福島市に記念館が開館していましたが、すでに入院生活に入っており、自分の名を冠した建物を訪ねることはできなかったといいます。 その夏、私は大学一年生でした。高校野球を追いかけていた時間が終わり、浪人の一年を経て、ようやく別の生活が始まったところです。訃報の記憶は、まったくありません。母校の校歌を書いた人が亡くなった日を、私は何も知らずに通り過ぎていました。 気づかないうちに、そばにあった いま東京ドームで巨人戦を見ていると、五回が終わったところで「闘魂こめて」が流れます。水道橋駅では、2006年から発車メロディにこの曲が使われています。夏になれば甲子園で「栄冠は君に輝く」が鳴り、私は子どもたちの試合を追いかけながらそれを聞いています。中学の三年間は、行事のたびに校歌を歌っていました。 全部、同じ人が書いた音だったのです。 ルナ24号のことは、知らなかったから記憶がありません。古関裕而のことは、名前に聞き覚えがありながら確かめなかったせいで、記憶だけが山ほどあります。素通りしたものと、体に入ったまま名前を持たなかったもの。同じ日付の両側に、ちょうど対になって並んでいました。 古関裕而には、自分の言葉で書いた自伝が残っています。福島で作曲に目覚めた小学生時代から、山田耕筰に見いだされてのデビュー、そしてあの名曲たちの誕生秘話まで。文庫で手に入ります。 鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝(集英社文庫)古関裕而/集英社。約5,000曲を書いた作曲家の、唯一無二の自伝。「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」「オリンピック・マーチ」がどう生まれたのかを本人が語っています Amazonで見る › 四十四年後の入学式 月の話には、続きがあります。ルナ24号から37年後の2013年、中国の嫦娥3号が軟着陸に成功。2024年1月には日本のSLIMが月面に降りました。そして今年、2026年4月。NASAのアルテミスII号が四人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられ、月をまわって帰ってきました。着陸こそしていませんが、有人で月の近くまで行ったのはアポロ以来、半世紀ぶりです。父に見せたかったな、と思います。 ...

August 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月12日──甲子園と、御巣鷹と、同じ夏

今日は8月12日。明日からお盆に入るという、一年でいちばん人の動く時期です。 昭和60年(1985年)のこの日も、まさにそういう日でした。新幹線も、高速道路も、空の便も、帰省する人と旅行に出る人でぎっしりと埋まっていた。羽田から大阪へ向かう便は、三週間も前からほとんど満席だったといいます。 その夕方、日本航空123便が群馬県の山中に墜落しました。乗客乗員524名のうち、520名が亡くなった。単独機の事故としては、いまなお世界最悪の航空事故です。 この連載を書きながら、8月12日をどう扱うか、私はずっと考えていました。軽く触れて通り過ぎることはできない。かといって、私が何かを語れる立場でもない。 それでも書こうと思ったのは、あの日が私にとって、忘れようのない「あの夏」の一部だからです。そして今、私が人を乗せて運ぶ仕事をしているからです。 あの夏の関心事は、甲子園だった 昭和60年8月12日。私は16歳、高校1年生でした。 正直に書きますが、あの日の日中の私の頭の中にあったのは、飛行機のことでも、お盆のことでもありません。甲子園でした。 第67回全国高等学校野球選手権大会は、この年の8月8日に開幕していました。そして何より、PL学園の桑田真澄と清原和博――「KKコンビ」にとって、最後の夏だったのです。あの二人が甲子園で戦う姿を見られるのは、この夏で終わり。高校で野球をやっている人間にとって、これ以上の関心事はありませんでした。 その夏、私は足を骨折していたはずです。それでも昼間は学校へ行き、野球部の練習に出ていました。 夕方、家に帰りました。今日の甲子園はどうなったんだろう、と確認するつもりでテレビをつけたのだと思います。 そこに流れていたのは、まったく別のニュースでした。 日航機が、レーダーから消えた。 18時12分から、18時56分まで 事故当日の123便は、定刻より12分遅れて、18時12分に羽田を離陸しました。 離陸から12分後の18時24分。伊豆半島南部の東岸上空にさしかかったあたりで、機体後部の圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼の大部分と補助動力装置が吹き飛び、四系統ある油圧の操縦システムを、すべて失いました。 飛行機の操縦は、油圧で舵を動かすことで成り立っています。それが全部なくなった。ハンドルもブレーキも効かない車が、時速数百キロで走り出したようなものです。 普通なら、そこで終わりです。 ところが123便は、そこから32分間、飛び続けました。 機体は上下に激しく揺れ、左右に振られながら、それでも空にとどまり続けた。乗務員は、左右のエンジンの出力をわずかずつ変えることで、機首の向きを変えようとしていました。効くはずのない方法で、それでも機体を立て直そうとし続けたのです。 そして18時56分、群馬県多野郡上野村、高天原山の尾根に墜落しました。標高1,565メートル。のちに「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになる場所です。 夜の山中で、墜落地点の特定は難航しました。地上から現場を目で確認できたのは、翌13日の朝7時34分。最初の生存者が見つかったのは、10時45分でした。 生存者は4名。全員が女性で、全員が重傷でした。524名のうち、4名。 原因は、7年前にさかのぼります。事故機は昭和53年6月、伊丹空港で機体の尾部を滑走路に打ちつける事故を起こしていました。そのとき損傷した後部圧力隔壁の修理が、正しく行われていなかった。7年間飛び続けたあとで、その箇所が耐えきれなくなったのです。 名簿に並んだ、名前 翌日から、搭乗者名簿が少しずつ明らかになっていきました。 歌手の坂本九さん。当時43歳。「上を向いて歩こう」が海の向こうで『SUKIYAKI』という題名になり、アメリカのヒットチャートで1位になった、日本でただ一人の歌手です。ただ私たちの世代にとっては、伝説の人というより、テレビでよく見る「九ちゃん」でした。 あの訃報には、本当にショックを受けました。今でもこの事故の話を耳にすると、テレビの中で「上を向いて歩こう」を歌う九さんの映像が、条件反射のようによみがえってきます。 宝塚歌劇団の娘役だった北原遥子さん、24歳。阪神タイガース球団社長の中埜肇さん。 そして、竹下元章さん、47歳。 この方の名前を、私は今回この記事を書くために調べていて初めて知りました。元プロ野球選手で、捕手だった方です。現役引退後は会社勤めをされ、勤務先の関係で群馬県に住んでおられました。 竹下さんは、あの日、甲子園に向かっていました。 群馬県代表として第67回大会に出場していた、東京農業大学第二高等学校。その野球部に、竹下さんの息子さんがいたのです。息子の応援に行くために、羽田発伊丹行きの便に乗った。それが123便でした。 四十年経って、私はこの事実の前でしばらく手が止まりました。 あの夏、私が「今日の甲子園はどうなったかな」とテレビをつけたのと同じ日に、息子の試合を見に甲子園へ向かった父親が、あの飛行機に乗っていた。私の頭の中でまったく別々の場所にあった「甲子園」と「御巣鷹」が、一人の方の上で交差していました。 一日のうちに、終わったものと始まったもの もう一人、名簿に載っていた方がいます。ハウス食品工業社長の、浦上郁夫さん。47歳。 この方の名前のところで、この日のもうひとつの出来事が重なります。 同じ8月12日、報道機関に一通の手紙が届いていました。差出人は「かい人21面相」。1年半にわたって食品会社を脅し続け、日本中を不安に陥れたグリコ・森永事件の犯人グループからの、一方的な終結宣言でした。 脅迫を受けていた企業のひとつが、ハウス食品工業です。浦上社長は、事件が終わったことを、大阪にある父上――同社の創業者――の墓前に報告するため、その日のうちに大阪へ向かいました。 その便が、123便でした。 一日のうちに、昭和を騒がせたひとつの事件が幕を引き、もうひとつの惨事が始まった。そしてその二つが、一人の方の上で交差してしまった。何かの意味を見出したくなるような偶然ですが、意味などありません。ただ、そういうことが起きた、というだけです。 昭和60年の夏というのは、そういう夏でした。 「同じ夏」の記憶 あの頃の我が家は、テレビが必ずついている家でした。朝も、夕方も、夜も。だから事故の報道は、いやでも何度も目に入ってきました。 とりわけ生々しく残っているのが、翌朝の救出の映像です。 自衛隊のヘリコプターが山の上でホバリングして、隊員が降りていき、12歳の少女を吊り上げていく。あの映像は、四十年経った今でも、私の中で色褪せていません。テレビの前で、家族全員が黙って画面を見ていたあの空気ごと、覚えています。 そしてその同じ夏、甲子園ではKKコンビが暴れ回っていました。清原がホームランを打ち、桑田が投げ、PL学園は8月21日の決勝で宇部商業を下して優勝しました。私はそれを、テレビの前で夢中になって見ていたはずです。 不思議なのは、この二つが私の中で、まったく同じ強さで残っていることです。 普通なら、520人が亡くなった事故のほうが圧倒的に重いはずです。でも私の記憶の中では、清原のホームランと、ヘリコプターから吊り上げられる少女の映像が、同じ濃さで並んでいる。 たぶん、それが「同じ夏」だったからなのでしょう。 16歳の私は、あの二つを別々の出来事として整理する術を持っていませんでした。ただ、同じテレビの中で、同じ夏に、続けて起きたこととして受け取った。だから記憶の棚に、隣り合わせで入っている。振り返れば不謹慎な並べ方に思えるかもしれませんが、記憶というのはそういうものなのだと思います。 お命を預かる、ということ 私は今、路線バスの運転士をしています。 初めてお客さまを乗せて運行に出た日のことを、はっきり覚えています。 ...

August 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月24日──注意報の放送を、私たちは聞き流していた

今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。 令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。 けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。 「光化学スモッグ注意報が発令されました」 あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。 そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。 校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった 私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。 注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。 ところが、です。 私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。 放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。 今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。 1970年7月18日、東京の空で起きたこと 光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。 1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました。 原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。 この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。 以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部 そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。 四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。 1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。 法廷で、企業側はこう主張します。 「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」 煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。 しかし判決は、これを退けます。 裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。 さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。 賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。 イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。 このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。 なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか 判決の影響は、思いのほか早く現れます。 企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。 ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。 けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。 このとき私は、小学3年生です。 つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。 私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。 もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。 そして、7月24日生まれのカナリー・ガール 少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。 7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。 1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。 そして私は、その中の奈保子さん一択でした。 まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。 当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。 曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。 1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。 この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。 発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。 つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。 おわりに 今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。 止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。 けれど、決定的に違うことが一つあります。 私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。 そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。 1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。 ...

July 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月13日──少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私

七月十三日。 今日は何の日だろうと昭和の暦をめくっていくと、昭和四十年(一九六五年)のこの日に、一人の女の子が東京で生まれている。中森明菜さん。私より四つ年上の、あの明菜さんだ。 名前を書いただけで、頭の中で「少女A」のイントロが鳴りはじめた方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。今日はこの人が生まれた日を入り口に、私が中学一年生だった昭和五十七年の夏の話を、少しさせてほしい。 三百九十二点の伝説 中森明菜さんの出発点は、日本テレビの『スター誕生!』だった。昭和五十六年(一九八一年)七月、十六歳になる直前の彼女は、この番組で山口百恵さんの「夢先案内人」を歌う。そのときの得点が、三百九十二点。番組の歴史のなかで最高記録だったと伝えられている。 『スター誕生!』というのは、十二年間で二百万人もの応募があったという、とんでもない規模のオーディション番組だった。全国のお茶の間から、歌のうまい子が名乗りを上げて、審査員の前で歌う。合格すると、たくさんの芸能事務所やレコード会社がプラカードを掲げて、われ先にとスカウトする。あの光景を、私も茶の間のテレビでよく見ていた。「この子は受かるかな、落ちるかな」と、家族であれこれ言い合うのが楽しかった。 思えば『スター誕生!』は、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの「花の中三トリオ」をはじめ、昭和の歌の世界に次々とスターを送り出した番組だった。その夢の回路の、いちばん新しい入口から現れたのが、中森明菜さんだったわけだ。その番組で史上最高点を叩き出した女の子が、翌年、本当にデビューしてくる。子ども心にも、これはただごとではないという予感があった。 デビュー曲「スローモーション」がレコード店に並んだのが、昭和五十七年(一九八二年)五月一日。そしてその二枚目、名前だけで時代の空気を思い出させる「少女A」が発売されたのが、同じ年の七月二十八日だった。つまり、明菜さんの誕生日である今日から、ほんの二週間ほど後のことになる。 「少女A」という事件 この「少女A」という曲には、いま振り返ると面白い裏話がある。作詞をしたのは、当時まだ駆け出しだった売野雅勇さんという方。もともとこの詞は、明菜さんのために書かれたものではなかった。売野さんが沢田研二さんのために用意していた「ロリータ」という詞——中年の男性がプールサイドから少女をそっと見つめている、という大人の視点の歌詞が、下敷きになっていたのだそうだ。 締め切りに追われた売野さんが、苦しまぎれにその設定を借りて、視点をぐるりと反対に回した。見られる側だった少女が、こちらを見返す側になった。「特別じゃない、どこにでもいる少女A」が、じゃあ好きにすればいいと開き直って世界を突き放す。あの挑発的な歌詞は、そうして生まれたと伝えられている。 面白いのは、当の明菜さん自身が、最初はこの曲に乗り気ではなかったという話だ。同じ年にデビューした仲間たち——のちに「花の八二年組」と呼ばれる、小泉今日子さんや堀ちえみさん、石川秀美さんたち——は、フリルやレースのついた、いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着ていた。明菜さんも本当は、そういう衣装を着たかったのだという。それなのに与えられたのは、可愛さとは正反対の、尖った不良少女の歌だった。 けれど結果として、その曲が明菜さんを一気にスターへ押し上げた。みんなと同じ可愛さで勝負しなかったことが、逆に彼女だけの居場所を作った。子どもだった私はそんな事情など何も知らなかったが、テレビの向こうの明菜さんが、まわりと違う空気をまとっていたことだけは、はっきり感じ取っていた。 河合奈保子から、中森明菜へ 昭和五十七年の四月、私は中学一年生になった。 小学生のころの私にとって、アイドルといえば河合奈保子さんだった。あの、ふんわりと笑う、健康的で優しい感じの人。まぶしいけれど、どこか近所のお姉さんのような安心感があって、子どもだった私はすっかり心を許していたのだと思う。 ところが、中学の制服に袖を通したあたりから、私の中で何かが少しずつ変わっていった。優しいお姉さんよりも、少し不機嫌そうで、こちらをまっすぐ見返してくるような、そういう強さに惹かれるようになっていったのだ。そこに、ちょうど中森明菜さんが現れた。 「少女A」の、あの挑むような歌い方。子どもが背伸びをしているのとも違う、かといって完成された大人でもない、ぎりぎりのところで尖っている感じ。河合奈保子さんから中森明菜さんへ——それは私の中では、子どもから大人へと変わっていく、ひとつの通過儀礼のようなものだった。 きっかけは、友達のひと言だった。「中森明菜っていいよ」。そう言われてから、テレビの歌番組で明菜さんを見かけるたびに、少しずつ目が離せなくなっていった。ほかのきゃぴきゃぴしたアイドルとは、明らかに何かが違う。あのツンとした雰囲気が、私にとってはど真ん中のストライクだった。 一度はまってしまえば、あとは一直線だ。シングルはもちろん、アルバムまで一枚残らず買いそろえ、明菜さんの曲だけを集めた「マイベストテープ」も、何本も何本も作った。大学に入って浜田省吾さんの世界に出会うまでの七年ほど、私はずっと明菜さんに夢中だった。あの頃の自分の音楽の記憶は、そっくりそのまま明菜さんの声でできていると言ってもいいくらいだ。 木曜九時の攻防 我が家の木曜日の夜九時は、『ザ・ベストテン』の時間だった。 ランキングが一位から順に発表されていくあの緊張感。カセットデッキの前に正座して、赤い録音ボタンと白い再生ボタンを同時に押す、あの二本指の儀式。歌の途中で家族が「ごはんよ」なんて声をかけようものなら、あとで大惨事だ。次の日、友達と「昨日のベストテン、明菜は何位だった」と答え合わせをするのが、当時の私たちにとっては大事な社交だった。 その画面の真ん中に、中森明菜さんはいつもいた。同じ年ごろの、松田聖子さんや小泉今日子さんと並んで、それぞれにまったく違う魅力を放っていた。聖子さんが笑顔なら、明菜さんは眼差し。今にして思えば、あの時代の歌番組は、いくつもの「かっこよさ」が同時に成り立っていた、とても贅沢な場所だった。 とりわけ「聖子か、明菜か」というのは、あの頃の昭和の歌謡界を二つに分ける、大きな分かれ道だった。明るく、可憐で、ずっと笑っている松田聖子さん。翳りがあって、こちらを試すように見つめてくる中森明菜さん。まるで陽と陰のように、二人はきれいに対照的で、どちらが好きかを言うことが、その人がどんな人間かを少しだけ言い当ててしまうような、そんな空気があった。学校でも、聖子派と明菜派はなんとなく分かれていて、私が明菜派だと打ち明けるのは、幼いなりに小さな自己主張だったように思う。優しいだけの世界から一歩踏み出したい——そんな背伸びを、明菜さんはそっと後押ししてくれていたのかもしれない。 大晦日の、連覇 「少女A」でスターになった明菜さんは、そこから昭和の終わりに向けて、坂道を駆け上がるように名曲を積み重ねていく。三枚目の「セカンド・ラブ」はチャートの一位を取り、その後も「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」と、曲の色をどんどん変えながらヒットを飛ばし続けた。同じ人が歌っているのに、一曲ごとにまるで別の女優のように表情を変える。あれが明菜さんの凄みだった。 そして昭和六十年(一九八五年)、「ミ・アモーレ」で日本レコード大賞を初めて受賞する。さらに翌昭和六十一年(一九八六年)、「DESIRE -情熱-」で二年連続の大賞。女性歌手が二年続けて大賞を取ったのは、このときが史上初めてのことだった。着物風の衣装を肩から滑らせ、髪を刈り上げたあの「DESIRE」の姿は、もうアイドルという言葉では収まりきらない何かだった。ちなみに、数えきれないほどある明菜さんの曲のなかで、私の一番はこの「DESIRE」だ。それは今も変わらない。 昭和六十年といえば、私はちょうど高校一年生。白球ばかり追いかけて、甲子園を本気で夢見ていたころだ。野球部の練習でくたくたになって家に帰り、大晦日にテレビでレコード大賞を眺める。中学の入り口で見上げていた明菜さんが、高校生になった私の頭上を、はるか高いところで飛び続けている。同い年ではないけれど、同じ時間を走っている感覚が、確かにあった。 体育館に、明菜が現れた ここで、話をぐっと先へ——大人になってからの一夜に飛ばさせてほしい。 私は大学を出て信用金庫に就職し、その後、大手の運送会社へ移った。この会社がとにかくスポーツが盛んで、毎年ゴールデンウィークになると、滋賀県で三泊四日の社内全国大会が開かれる。各ブロックの予選を勝ち抜いた営業所だけが出場できる、たぶん日本一の規模の社内大会だった。私も野球で、その全国大会の舞台に立つことができた。 大会中はいろいろな催しがあるのだが、みんなが一番楽しみにしていたのが、二日目の夜に開かれるコンサートだ。出演者は当日その時間まで、いっさい知らされない。会場はスポーツ施設の体育館。さあ誰が出てくるのかと固唾をのんで待っていた、その舞台に——現れたのが、あの中森明菜さんだったのだ。 信じられるだろうか。テレビのブラウン管の向こうで、ずっと高いところを飛んでいたはずのあの人が、いま、目の前の体育館のステージに立っている。会場は当然、大興奮だ。懐かしい曲のオンパレードで、それは普段のコンサートとはまるで違う、手作りのような、それでいて本当に本当に、自分もその一部になれたと思える素晴らしいステージだった。中学一年生の私が茶の間から見上げていた明菜さんに、大人になった私が、同じ空気のなかでようやく会えた夜だった。 令和に、明菜を思う あれから四十年以上が経った。 私は今、路線バスのハンドルを握って毎日を過ごしている。家にはもう地上波のテレビもなく、大きなモニターでユーチューブやネットフリックスを眺める暮らしだ。それでも、ふとした拍子に「少女A」や「セカンド・ラブ」が流れてくると、一瞬で昭和五十七年の、あの中学一年生の夏に引き戻される。制服がまだ体になじんでいなくて、大人になりたいような、なりたくないような、あの落ち着かない気持ちごと。 歌というのは不思議なもので、こちらは年をとっていくのに、あの頃の自分をそっくり保存してくれている。友達のひと言から始まって、レコードを買い集め、テープを作り、そしていつかは同じ体育館の空気を吸った——中森明菜さんが今日、誕生日を迎えるたびに、私はあの一つひとつの自分に、少しだけ会いに行けるのだ。 みなさんにとって、「子どもから大人へ変わる境目」に鳴っていた歌は、何でしたか。よかったら聞かせてほしい。 「少女A」「セカンド・ラブ」「北ウイング」「DESIRE」——この記事で名前を挙げた曲が、オリジナル音源でまとめて聴けるのがこの一枚です。カバーではなく、あの頃テレビとカセットから流れていた、まさにあの声。明菜さんの誕生日の今日、あらためて針を落とすように聴き直すのに、ちょうどいいベスト盤です。 オールタイム・ベスト ‐オリジナル‐(中森明菜)デビューから代表曲までをオリジナル音源で網羅。少女A・DESIRE・北ウイングまで、あの声のまま Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 あわせて読みたい:その前年、同じ体育館のステージに立っていたのは郷ひろみさんでした▼ 【8月1日】「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える | 次の記事:【7月14日】リカちゃんは、葛飾の子だった ▶ ...

July 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月12日──球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える

七月も半ばにさしかかると、夕方になっても空気が生ぬるくて、どこからか蚊取り線香の匂いが漂ってくる。そんな季節になると、私の頭の中では決まって、あの伸びやかな歌声が鳴りはじめます。 きょう7月12日は、渡辺美里さんの誕生日です。昭和41年(1966年)のこの日、京都で生まれ、東京で育った少女は、のちに日本の音楽史に「スタジアム伝説」という言葉を刻むことになります。私より三つ年上。ほんの少しだけ先を歩く、お姉さんの世代です。 そして今日、令和8年の7月12日。渡辺美里さんは還暦、六十歳を迎えます。あの夏の球場で歌っていた人が六十歳。にわかには信じがたいのですが、考えてみれば私自身がもう五十七歳なのですから、当たり前といえば当たり前なのでした。 高校一年の冬に落ちてきた「My Revolution」 渡辺美里さんがデビューしたのは昭和60年(1985年)。その前年、応募者十八万人を超えるミス・セブンティーンコンテストで最優秀歌唱賞を受賞しての、鳴り物入りのスタートでした。ちなみにこのコンテストの同期には、のちに活躍する工藤静香さんや国生さゆりさんの名前もあります。とはいえ、デビュー曲「I’m free」はそれほど売れなかったそうです。ライブハウスを回り、先輩歌手のコーラスを務める下積みの日々もあったといいます。 運命が変わったのは、昭和61年(1986年)1月22日にリリースされた四枚目のシングル「My Revolution」でした。 作曲は、当時まだTM NETWORKでデビューして間もない、駆け出しの小室哲哉さん。曲ができたとき、小室さんは渡辺さんのもとに駆けつけてピアノでイメージを伝え、渡辺さんは「体に電流が走ったような気持ちになった」と後年語っています。ドラマ『セーラー服通り』の主題歌に起用されたこともあって、この曲は3月24日付のオリコンシングルチャートで一位を獲得。無名に近かった十九歳の歌手を、一気にスターダムへ押し上げました。渡辺さんはこの曲で『ザ・ベストテン』に初めて生出演も果たしています。 「わかりはじめたMy Revolution」——あのサビの疾走感は、四十年経ったいまでも色あせません。歌謡曲ともアイドルとも違う、まっすぐで力強い歌声。この曲は高校一年の終わりから、二年生になったばかりの私の耳にも、確かに届いていました。 最初に聴いたのは、たしか『ザ・ベストテン』だったような気がします。毎週木曜の夜九時、ランキングを楽しみに見ていた時代です。第一印象は、明るく勢いのある曲だな、というものでした。 学校へ行くと、友達がサビを口ずさんでいる。文化祭では体育館のステージに上がって歌う生徒までいる。それくらい、私たちのあいだでは流行っていました。だから、あっという間に覚えてしまいました。当時の高校生にとっては、「頑張ろう」「前に進もう」という気持ちにさせてくれる、青春ど真ん中の一曲だったと思います。 もちろん「My Revolution」は、マイベストテープにも入れていました。当時はレコードをカセットテープにダビングして、自分だけの一枚を作るのが楽しみだった時代です。私の相棒は、お小遣い事情でソニーのウォークマンではなくAIWAのカセットプレーヤーでしたが、通学の道すがら、よく聴いていた思い出があります。 テープには当時流行していた曲を並べていましたが、「My Revolution」は外せない一曲でした。友達の間でも人気があり、「いい曲だよね」と話題になることも多かった。私の高校時代を象徴する、青春ソングの一つだったと思います。 野球少年の聖地で、歌手が歌った夏 そして昭和61年の夏、事件が起きます。 8月2日の大阪スタヂアムを皮切りに、名古屋城深井丸広場、そして8月8日の西武ライオンズ球場。渡辺美里さんは「MISATO SPECIAL ‘86 KICK OFF」と題したスタジアムコンサートを敢行しました。女性ソロシンガーが球場でコンサートを開くのは、日本で初めてのことでした。 このとき渡辺美里さんは、二十歳になったばかり。デビューからわずか一年二か月です。きっかけは、ラジオ番組の放送前にマネージャーから「やってみる?」と聞かれて、球場のことがよくわからないまま「何となく」返事をしたことだったといいますから、豪快な話です。ライブの一か月前には、十代の邦人アーティストとして初となる二枚組アルバム『Lovin’ you』をリリース。8月8日の西武球場のステージには、「My Revolution」を生んだ小室哲哉さんもキーボードで参加していました。 私にとって「球場」とは、野球をする場所でした。当時の私は高校二年生。白球を追いかける毎日で、球場という言葉から連想するのは後楽園球場のジャイアンツ戦か、憧れの甲子園です。ちなみにこの昭和61年の西武球場といえば、ルーキーの清原和博選手がホームランを量産していたグラウンドでもあります。野球少年にとって、あそこはまぎれもなく「野球の聖地」のひとつでした。 その神聖なグラウンドにステージを組んで、私とたいして歳の変わらないお姉さんが、たった一人で数万人を前に歌う。 じつは当時、西武球場で毎年コンサートが開かれていることは知っていました。親友のお兄さんが渡辺美里さんの熱烈なファンで、実際に西武球場のコンサートへ行ったと聞いていたからです。 野球部だった私にとって、普段は野球をする場所で何万人もの観客を集めてコンサートが開かれるというのは、とても新鮮で、驚きでした。当時は自分が行く機会はありませんでしたが、「いつか行ってみたい」と思うほど、印象に残っていました。 ちなみにこの昭和61年の渡辺さんは、球場ライブの直後の9月から全国三十八か所を回るツアーに突入し、途中で声帯ポリープを患って中断を余儀なくされたそうです。二十歳の身体で、どれほど無我夢中で駆け抜けた一年だったことか。私たちが白球を追いかけていたあの夏、三つ年上のお姉さんも、別のグラウンドで全力疾走していたのです。 この西武球場の夏のライブは、以後、毎年恒例となります。全盛期には四万枚のチケットが即日完売。平成2年(1990年)からは、観客輸送を兼ねた臨時特急「MISATO TRAIN」が西武線を走りました。はじめは5000系レッドアロー号、平成7年(1995年)からは10000系ニューレッドアロー号。毎年デザインの変わる特製ヘッドマークを掲げて球場へ向かう列車を、渡辺美里さんのファンだけでなく鉄道ファンもカメラに収めたそうです。線路っぷちで育った私としては、この話には胸が熱くなります。歌手の名を冠した特急列車が、年に一度だけ走るのです。しかもこの列車、西武ライブの終幕後も惜しまれ、平成30年(2018年)には西武ライオンズ四十周年イベントの一環として、一日限りのヘッドマーク付き復活運転まで果たしています。 初年のタイトルが「KICK OFF」、そして20年目の平成17年(2005年)、最終章のタイトルは「NO SIDE」。試合開始と試合終了。渡辺さんが高校時代にラグビー部のマネージャーを務めていたことに由来するそうです。最後の「NO SIDE」には約三万九千人が集まり、二十年間の動員は延べ七十万人にのぼりました。ひとつの球場で、ひとりの歌手が積み上げた数字としては、もう伝説と呼ぶほかありません。 六十歳の「Birthday」 その渡辺美里さんが、今日、還暦を迎えます。 そして偶然ではないのでしょう、三日後の7月15日には、七年ぶりのオリジナルアルバムがリリースされます。タイトルは『Birthday』。さらに今年の11月8日には、あの西武球場——いまはベルーナドームと名前を変えました——で、実に二十一年ぶりのスタジアムライブが開催されることも発表されています。 六十歳になった歌手が、二十歳の夏に立った球場へ帰っていく。四十年の歳月をまたぐその姿を想像すると、私は少しだけ泣きそうになります。 私たちの世代は、渡辺美里さんの歌に「がんばれ」と言われ続けてきた世代です。十代の終わりに聴いた歌を、五十七歳のいまも聴ける。しかもご本人が、いまも現役で、あの頃と同じ場所で歌おうとしている。これほど幸せなことがあるでしょうか。 そして私には、高校二年の夏から持ち越したままの宿題があります。あのとき果たせなかった「いつか行ってみたい」。四十年越しのその機会が、今年の11月8日、目の前にぶら下がっているのです。さて、どうしたものでしょうか。 みなさんには、渡辺美里さんの思い出の一曲はありますか。夏の球場に、行ったことはありますか。よろしければ、コメントで聞かせてください。 「My Revolution」も「サマータイム ブルース」も「虹をみたかい」も、あの頃カセットに録って擦り切れるほど聴いた曲が、この一枚にまとめて入っています。マイベストテープをもう一度作らなくても、名曲がぜんぶ揃う。還暦を迎えた今日、あらためて聴き直すのに、これ以上の一枚はありません。 ...

July 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月1日──変わり続けた箱と、変わらない一本

今日は7月1日。本格的な夏が、すぐそこまで来ています。 この日は、昭和生まれの二つの「もの」が、今も私たちのそばで生きている記念日でもあります。一つは、世界の音楽の聴き方を変えてしまった小さな箱。もう一つは、半世紀ものあいだ、頑として姿を変えなかった一本のアイス。 1979年(昭和54年)7月1日、ソニーが初代ウォークマン「TPS-L2」を発売しました。そして7月1日は、「井村屋あずきバーの日」でもあります。 奇しくも同じ日に重なった、この二つ。片方は時代に合わせて何度も生まれ変わりながら、もう片方は何ひとつ変えないまま、令和の今日まで生き延びてきました。今日はこの二つの「生き残り方」の話を、私の昭和の記憶とともに書いてみたいと思います。 「再生専用機なんて売れない」──その反対を押し切って ウォークマンが生まれたきっかけは、ソニーの創業者の一人・井深大さんの、ちょっとした「わがまま」でした。 井深さんは出張のたびに、当時のソニー製の小型テープレコーダー「TC-D5」(通称カセットデンスケ)を担いで、飛行機の中で音楽を聴いていました。けれどこれが、約1.7キロもある代物。重くてかなわない。そこで「すでにある小型テープレコーダー『プレスマン』から録音機能を外して、再生だけでいいからステレオで聴けるものを作ってくれ」と注文を出します。 ところが社内の反応は冷ややかでした。「録音機は売れる。でも、再生しかできない機械なんて、いったい誰が買うんだ」。当時の常識では、録音できないテーププレーヤーなど、商品として考えられなかったのです。その反対を押し切ったのが、もう一人の創業者・盛田昭夫さんでした。 こうして1979年7月1日、初代ウォークマン「TPS-L2」が世に出ます。標準価格は33,000円。本体の色は、若者のブルージーンズをイメージしたメタリックブルー。ヘッドホン端子が二つ付いていて、友達や恋人と同じ音楽を分け合える。発売当初は新聞も雑誌もさほど大きく扱いませんでしたが、ヘッドホンで音楽を持ち歩く若者たちの口コミから火がつき、やがて日本中へ、そして世界へと広がっていきました。 「ウォークマン」という言葉は、のちに『広辞苑』や『オックスフォード英語辞典』にも載るほど、携帯音楽プレーヤーそのものの代名詞になっていきます。家の中で「聴く」ものだった音楽が、外へ「持ち出す」ものになった──ウォークマンの登場は、昭和の「音」の歴史の、大きな曲がり角でした。 十歳の私の相棒は、ラジオだった ここで正直に告白します。1979年、ウォークマンが世に出たとき、私は小学校四年生、十歳でした。けれど当時の私は、ウォークマンという存在をまったく知りませんでした。 先日この欄でも書きましたが、あの頃の私の相棒は、一台の携帯ラジオだったのです。布団にもぐってナイターに耳を澄ませ、好きな番組に周波数を合わせる。音楽を「持ち歩く」なんて発想は、十歳の私の世界には、まだどこにもありませんでした。 私がウォークマンをはっきり意識したのは、それからずっとあと、高校に入学してからのことでした。 高校生の私と、アイワの「ウォークマン」 高校生になると、まわりの友達が次々とヘッドホンで音楽を聴くようになっていました。電車やバスの中でヘッドホンをしている姿は、昭和60年前後にはすっかりおなじみの光景です。私もどうしても欲しくなって、親に頼みました。 ただ──実際に買ってもらったのは、ソニーのウォークマンではありませんでした。少しだけ値段の安かった、アイワの携帯カセットプレーヤーだったのです。 本当はウォークマンが欲しかった。でも、子どもながらに、少しでも家計の負担を軽くしたくて、つい親に遠慮してしまったんですね。今思えば微笑ましい見栄ですが、当時の私には精いっぱいの気づかいでした。 もっとも、当時はその手の携帯カセットプレーヤーを、メーカーがどこであろうと、みんなまとめて「ウォークマン」と呼んでいました。だから私のアイワも、私にとっては立派な「ウォークマン」。先ほどの『広辞苑』の話ではありませんが、商品名が一つの時代の合言葉になっていた、よき時代でした。 一本のテープに、時間ごと詰め込んで あの頃、音楽を聴くというのは、今よりずっと手間のかかる、けれど豊かな道のりでした。私の場合、その流れはだいたいこんな具合です。 まず、家にはミニコンポがありました。レコードプレーヤー、アンプ、カセットデッキが一体になった、あの憧れの一式です。金曜日にレコード店で新譜を買ってきては、歌詞カードを眺めながら、まず家でレコードをじっくりと聴く。 次に、そのレコードをカセットテープへダビングします。TDK、maxell、AXIA、ソニー──60分や90分のテープを用意して、レコードからカセットデッキへ録音していく。A面とB面それぞれの収録時間を計算しながら曲順を考えるのも、楽しみの一つでした。曲と曲のあいだは一時停止(PAUSE)ボタンを駆使して、余計な無音が入らないように録る。今でいうプレイリスト作り、いや、それ以上に手のかかる作業です。 そうして仕上げた一本を、翌朝プレーヤーに入れて持ち出す。私は通学のとき、イヤホンを耳に差し込んで自転車を走らせていました。 こうして誰もが、自分だけの「マイベストテープ」を作っていました。お気に入りの曲だけを集めた、いわば「俺のベスト」です。私のまわりでよく顔をそろえていたのは、サザンオールスターズ、中森明菜、チェッカーズ、そして松田聖子。一本のテープが、その人の音楽の好みをそのまま映す名刺のようなものでした。 テープ選びにもこだわりがありました。一番普及していたノーマル(TYPE I)、高音がきれいで人気だったクローム(TYPE II)、最高音質だけれど値の張ったメタル(TYPE IV)。高校生のお小遣いでメタルはなかなか手が出ませんが、少し奮発してクロームを買った友達が「やっぱり音がいい!」と得意げにしていたのを、今でも笑って思い出します。 そして、カセットならではの「あるある」も数えきれません。電池が切れかかると、再生の音程がだんだん下がってきて、「そろそろ電池交換だな」と気づく。早送りと巻き戻しを繰り返すうちにテープが伸びたり、デッキの中で絡まったり。引き出してしまったテープを、鉛筆をリール穴に差し込んでカリカリと手で巻き直す──あの作業は、昭和のカセット世代に共通の思い出ではないでしょうか。 あずきバー──「変わらない」を選んだ一本 さて、ここで7月1日のもう一つの主役、井村屋の「あずきバー」に触れておきましょう。 あずきバーが生まれたのは1973年(昭和48年)。アイス市場が大手乳業メーカーの牙城だった当時、和菓子屋の井村屋はなかなか食い込めずにいました。頭を抱える開発担当者に、初代社長の井村二郎さんが言ったそうです。「うちには、あずきがあるやろ」。 その一言から、「ぜんざいをそのまま凍らせる」という発想で生まれたのが、あずきバーでした。1本30円。あずき、砂糖、水あめ、塩──たった四つの材料だけで、乳製品も添加物も使わない。だからこそ、あの歯が立たないほどの硬さが生まれました。のちに「世界一硬いアイス」とまで呼ばれるあの食感は、ごまかしのきかない素材へのこだわりの、裏返しでもあったのです。 私が四歳のときに世に出たあずきバーは、私が大人になっても、こうして年を重ねた今も、まったく同じ顔をして冷凍ケースに並んでいます。半世紀ものあいだ、ほとんど何ひとつ変えずに。 令和の今、二つの昭和を並べてみる 面白いのは、この二つの「昭和生まれ」が、まったく逆の生き方で令和まで生き残ったことです。 ウォークマンは、変わり続けることで生き残りました。カセットから始まり、CD、MD、メモリースティック……と、時代の記録媒体が変わるたびに姿を変え、カセット式は2010年にひっそりと国内販売を終えました。それでも「ウォークマン」という名前は、今もソニーのポータブルプレーヤーとして、ハイレゾ音源を聴ける最新機種にまで受け継がれています。中身を何度も入れ替えながら、名前と「音楽を持ち歩く」という志だけは、捨てなかったのです。 いっぽうのあずきバーは、変わらないことで生き残りました。材料は今もあの四つだけ。あの硬さも変わらない(むしろ昔より硬くなった、とも言われます)。そして2021年度には、年間の販売本数が3億本を突破しました。何も変えなかったからこそ、世代を超えて愛され続けている。 進化することで生き延びたウォークマン。変わらないことで生き延びたあずきバー。正反対の二つが、奇しくも同じ7月1日を記念日に持ち、令和の今日も、私たちのすぐそばにいます。 今はスマートフォン一台で、何千万曲でもすぐに聴ける時代です。便利になったものだと、心から思います。けれど、あの頃の私たちには、自分で時間をかけて作り上げた一本のカセットテープに、特別な愛着がありました。あれは、音楽そのものだけでなく、そのテープを編んだ時間も、買いに行った金曜日の高揚も、自転車を漕いだ通学路の風景も──ぜんぶ一緒に持ち歩いていた時代だったのだと思います。 現役のバス運転士として毎日ハンドルを握る私の、すぐ手の届くところにも、この二つはまだ生きています。コンビニの冷凍ケースに並ぶあずきバー。そして、形を変えながらも鳴り続けるウォークマンの遺伝子。 変わることで生き残るもの。変わらないことで生き残るもの。あなたの暮らしのそばにも、昭和生まれのまま、今も静かに生き続けている「もの」が、ありませんか。 そして今日、7月1日。半世紀、何ひとつ変えなかったあの一本を、久しぶりに齧ってみるのはいかがでしょう。あの歯が立たないほどの硬さも、ほろりと崩れるあずきの素朴な甘さも、子どもの頃のあの夏と、まったく同じ味のままです。 井村屋 BOXあずきバー 6本入あずき・砂糖・水あめ・塩だけ。1973年から変わらない“世界一硬いアイス”。箱でストックしておきたい夏の定番 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

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