【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月24日──注意報の放送を、私たちは聞き流していた

今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。 令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。 けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。 「光化学スモッグ注意報が発令されました」 あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。 そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。 校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった 私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。 注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。 ところが、です。 私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。 放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。 今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。 1970年7月18日、東京の空で起きたこと 光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。 1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました。 原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。 この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。 以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部 そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。 四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。 1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。 法廷で、企業側はこう主張します。 「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」 煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。 しかし判決は、これを退けます。 裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。 さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。 賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。 イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。 このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。 なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか 判決の影響は、思いのほか早く現れます。 企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。 ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。 けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。 このとき私は、小学3年生です。 つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。 私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。 もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。 そして、7月24日生まれのカナリー・ガール 少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。 7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。 1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。 そして私は、その中の奈保子さん一択でした。 まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。 当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。 曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。 1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。 この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。 発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。 つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。 おわりに 今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。 止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。 けれど、決定的に違うことが一つあります。 私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。 そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。 1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。 ...

July 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月13日──少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私

七月十三日。 今日は何の日だろうと昭和の暦をめくっていくと、昭和四十年(一九六五年)のこの日に、一人の女の子が東京で生まれている。中森明菜さん。私より四つ年上の、あの明菜さんだ。 名前を書いただけで、頭の中で「少女A」のイントロが鳴りはじめた方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。今日はこの人が生まれた日を入り口に、私が中学一年生だった昭和五十七年の夏の話を、少しさせてほしい。 三百九十二点の伝説 中森明菜さんの出発点は、日本テレビの『スター誕生!』だった。昭和五十六年(一九八一年)七月、十六歳になる直前の彼女は、この番組で山口百恵さんの「夢先案内人」を歌う。そのときの得点が、三百九十二点。番組の歴史のなかで最高記録だったと伝えられている。 『スター誕生!』というのは、十二年間で二百万人もの応募があったという、とんでもない規模のオーディション番組だった。全国のお茶の間から、歌のうまい子が名乗りを上げて、審査員の前で歌う。合格すると、たくさんの芸能事務所やレコード会社がプラカードを掲げて、われ先にとスカウトする。あの光景を、私も茶の間のテレビでよく見ていた。「この子は受かるかな、落ちるかな」と、家族であれこれ言い合うのが楽しかった。 思えば『スター誕生!』は、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの「花の中三トリオ」をはじめ、昭和の歌の世界に次々とスターを送り出した番組だった。その夢の回路の、いちばん新しい入口から現れたのが、中森明菜さんだったわけだ。その番組で史上最高点を叩き出した女の子が、翌年、本当にデビューしてくる。子ども心にも、これはただごとではないという予感があった。 デビュー曲「スローモーション」がレコード店に並んだのが、昭和五十七年(一九八二年)五月一日。そしてその二枚目、名前だけで時代の空気を思い出させる「少女A」が発売されたのが、同じ年の七月二十八日だった。つまり、明菜さんの誕生日である今日から、ほんの二週間ほど後のことになる。 「少女A」という事件 この「少女A」という曲には、いま振り返ると面白い裏話がある。作詞をしたのは、当時まだ駆け出しだった売野雅勇さんという方。もともとこの詞は、明菜さんのために書かれたものではなかった。売野さんが沢田研二さんのために用意していた「ロリータ」という詞——中年の男性がプールサイドから少女をそっと見つめている、という大人の視点の歌詞が、下敷きになっていたのだそうだ。 締め切りに追われた売野さんが、苦しまぎれにその設定を借りて、視点をぐるりと反対に回した。見られる側だった少女が、こちらを見返す側になった。「特別じゃない、どこにでもいる少女A」が、じゃあ好きにすればいいと開き直って世界を突き放す。あの挑発的な歌詞は、そうして生まれたと伝えられている。 面白いのは、当の明菜さん自身が、最初はこの曲に乗り気ではなかったという話だ。同じ年にデビューした仲間たち——のちに「花の八二年組」と呼ばれる、小泉今日子さんや堀ちえみさん、石川秀美さんたち——は、フリルやレースのついた、いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着ていた。明菜さんも本当は、そういう衣装を着たかったのだという。それなのに与えられたのは、可愛さとは正反対の、尖った不良少女の歌だった。 けれど結果として、その曲が明菜さんを一気にスターへ押し上げた。みんなと同じ可愛さで勝負しなかったことが、逆に彼女だけの居場所を作った。子どもだった私はそんな事情など何も知らなかったが、テレビの向こうの明菜さんが、まわりと違う空気をまとっていたことだけは、はっきり感じ取っていた。 河合奈保子から、中森明菜へ 昭和五十七年の四月、私は中学一年生になった。 小学生のころの私にとって、アイドルといえば河合奈保子さんだった。あの、ふんわりと笑う、健康的で優しい感じの人。まぶしいけれど、どこか近所のお姉さんのような安心感があって、子どもだった私はすっかり心を許していたのだと思う。 ところが、中学の制服に袖を通したあたりから、私の中で何かが少しずつ変わっていった。優しいお姉さんよりも、少し不機嫌そうで、こちらをまっすぐ見返してくるような、そういう強さに惹かれるようになっていったのだ。そこに、ちょうど中森明菜さんが現れた。 「少女A」の、あの挑むような歌い方。子どもが背伸びをしているのとも違う、かといって完成された大人でもない、ぎりぎりのところで尖っている感じ。河合奈保子さんから中森明菜さんへ——それは私の中では、子どもから大人へと変わっていく、ひとつの通過儀礼のようなものだった。 きっかけは、友達のひと言だった。「中森明菜っていいよ」。そう言われてから、テレビの歌番組で明菜さんを見かけるたびに、少しずつ目が離せなくなっていった。ほかのきゃぴきゃぴしたアイドルとは、明らかに何かが違う。あのツンとした雰囲気が、私にとってはど真ん中のストライクだった。 一度はまってしまえば、あとは一直線だ。シングルはもちろん、アルバムまで一枚残らず買いそろえ、明菜さんの曲だけを集めた「マイベストテープ」も、何本も何本も作った。大学に入って浜田省吾さんの世界に出会うまでの七年ほど、私はずっと明菜さんに夢中だった。あの頃の自分の音楽の記憶は、そっくりそのまま明菜さんの声でできていると言ってもいいくらいだ。 木曜九時の攻防 我が家の木曜日の夜九時は、『ザ・ベストテン』の時間だった。 ランキングが一位から順に発表されていくあの緊張感。カセットデッキの前に正座して、赤い録音ボタンと白い再生ボタンを同時に押す、あの二本指の儀式。歌の途中で家族が「ごはんよ」なんて声をかけようものなら、あとで大惨事だ。次の日、友達と「昨日のベストテン、明菜は何位だった」と答え合わせをするのが、当時の私たちにとっては大事な社交だった。 その画面の真ん中に、中森明菜さんはいつもいた。同じ年ごろの、松田聖子さんや小泉今日子さんと並んで、それぞれにまったく違う魅力を放っていた。聖子さんが笑顔なら、明菜さんは眼差し。今にして思えば、あの時代の歌番組は、いくつもの「かっこよさ」が同時に成り立っていた、とても贅沢な場所だった。 とりわけ「聖子か、明菜か」というのは、あの頃の昭和の歌謡界を二つに分ける、大きな分かれ道だった。明るく、可憐で、ずっと笑っている松田聖子さん。翳りがあって、こちらを試すように見つめてくる中森明菜さん。まるで陽と陰のように、二人はきれいに対照的で、どちらが好きかを言うことが、その人がどんな人間かを少しだけ言い当ててしまうような、そんな空気があった。学校でも、聖子派と明菜派はなんとなく分かれていて、私が明菜派だと打ち明けるのは、幼いなりに小さな自己主張だったように思う。優しいだけの世界から一歩踏み出したい——そんな背伸びを、明菜さんはそっと後押ししてくれていたのかもしれない。 大晦日の、連覇 「少女A」でスターになった明菜さんは、そこから昭和の終わりに向けて、坂道を駆け上がるように名曲を積み重ねていく。三枚目の「セカンド・ラブ」はチャートの一位を取り、その後も「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」と、曲の色をどんどん変えながらヒットを飛ばし続けた。同じ人が歌っているのに、一曲ごとにまるで別の女優のように表情を変える。あれが明菜さんの凄みだった。 そして昭和六十年(一九八五年)、「ミ・アモーレ」で日本レコード大賞を初めて受賞する。さらに翌昭和六十一年(一九八六年)、「DESIRE -情熱-」で二年連続の大賞。女性歌手が二年続けて大賞を取ったのは、このときが史上初めてのことだった。着物風の衣装を肩から滑らせ、髪を刈り上げたあの「DESIRE」の姿は、もうアイドルという言葉では収まりきらない何かだった。ちなみに、数えきれないほどある明菜さんの曲のなかで、私の一番はこの「DESIRE」だ。それは今も変わらない。 昭和六十年といえば、私はちょうど高校一年生。白球ばかり追いかけて、甲子園を本気で夢見ていたころだ。野球部の練習でくたくたになって家に帰り、大晦日にテレビでレコード大賞を眺める。中学の入り口で見上げていた明菜さんが、高校生になった私の頭上を、はるか高いところで飛び続けている。同い年ではないけれど、同じ時間を走っている感覚が、確かにあった。 体育館に、明菜が現れた ここで、話をぐっと先へ——大人になってからの一夜に飛ばさせてほしい。 私は大学を出て信用金庫に就職し、その後、大手の運送会社へ移った。この会社がとにかくスポーツが盛んで、毎年ゴールデンウィークになると、滋賀県で三泊四日の社内全国大会が開かれる。各ブロックの予選を勝ち抜いた営業所だけが出場できる、たぶん日本一の規模の社内大会だった。私も野球で、その全国大会の舞台に立つことができた。 大会中はいろいろな催しがあるのだが、みんなが一番楽しみにしていたのが、二日目の夜に開かれるコンサートだ。出演者は当日その時間まで、いっさい知らされない。会場はスポーツ施設の体育館。さあ誰が出てくるのかと固唾をのんで待っていた、その舞台に——現れたのが、あの中森明菜さんだったのだ。 信じられるだろうか。テレビのブラウン管の向こうで、ずっと高いところを飛んでいたはずのあの人が、いま、目の前の体育館のステージに立っている。会場は当然、大興奮だ。懐かしい曲のオンパレードで、それは普段のコンサートとはまるで違う、手作りのような、それでいて本当に本当に、自分もその一部になれたと思える素晴らしいステージだった。中学一年生の私が茶の間から見上げていた明菜さんに、大人になった私が、同じ空気のなかでようやく会えた夜だった。 令和に、明菜を思う あれから四十年以上が経った。 私は今、路線バスのハンドルを握って毎日を過ごしている。家にはもう地上波のテレビもなく、大きなモニターでユーチューブやネットフリックスを眺める暮らしだ。それでも、ふとした拍子に「少女A」や「セカンド・ラブ」が流れてくると、一瞬で昭和五十七年の、あの中学一年生の夏に引き戻される。制服がまだ体になじんでいなくて、大人になりたいような、なりたくないような、あの落ち着かない気持ちごと。 歌というのは不思議なもので、こちらは年をとっていくのに、あの頃の自分をそっくり保存してくれている。友達のひと言から始まって、レコードを買い集め、テープを作り、そしていつかは同じ体育館の空気を吸った——中森明菜さんが今日、誕生日を迎えるたびに、私はあの一つひとつの自分に、少しだけ会いに行けるのだ。 みなさんにとって、「子どもから大人へ変わる境目」に鳴っていた歌は、何でしたか。よかったら聞かせてほしい。 「少女A」「セカンド・ラブ」「北ウイング」「DESIRE」——この記事で名前を挙げた曲が、オリジナル音源でまとめて聴けるのがこの一枚です。カバーではなく、あの頃テレビとカセットから流れていた、まさにあの声。明菜さんの誕生日の今日、あらためて針を落とすように聴き直すのに、ちょうどいいベスト盤です。 オールタイム・ベスト ‐オリジナル‐(中森明菜)デビューから代表曲までをオリジナル音源で網羅。少女A・DESIRE・北ウイングまで、あの声のまま Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 あわせて読みたい:その前年、同じ体育館のステージに立っていたのは郷ひろみさんでした▼ 【8月1日】「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月12日】球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える | 次の記事:【7月14日】リカちゃんは、葛飾の子だった ▶ ...

July 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月12日──球場で歌ったお姉さんは、今日、還暦を迎える

七月も半ばにさしかかると、夕方になっても空気が生ぬるくて、どこからか蚊取り線香の匂いが漂ってくる。そんな季節になると、私の頭の中では決まって、あの伸びやかな歌声が鳴りはじめます。 きょう7月12日は、渡辺美里さんの誕生日です。昭和41年(1966年)のこの日、京都で生まれ、東京で育った少女は、のちに日本の音楽史に「スタジアム伝説」という言葉を刻むことになります。私より三つ年上。ほんの少しだけ先を歩く、お姉さんの世代です。 そして今日、令和8年の7月12日。渡辺美里さんは還暦、六十歳を迎えます。あの夏の球場で歌っていた人が六十歳。にわかには信じがたいのですが、考えてみれば私自身がもう五十七歳なのですから、当たり前といえば当たり前なのでした。 高校一年の冬に落ちてきた「My Revolution」 渡辺美里さんがデビューしたのは昭和60年(1985年)。その前年、応募者十八万人を超えるミス・セブンティーンコンテストで最優秀歌唱賞を受賞しての、鳴り物入りのスタートでした。ちなみにこのコンテストの同期には、のちに活躍する工藤静香さんや国生さゆりさんの名前もあります。とはいえ、デビュー曲「I’m free」はそれほど売れなかったそうです。ライブハウスを回り、先輩歌手のコーラスを務める下積みの日々もあったといいます。 運命が変わったのは、昭和61年(1986年)1月22日にリリースされた四枚目のシングル「My Revolution」でした。 作曲は、当時まだTM NETWORKでデビューして間もない、駆け出しの小室哲哉さん。曲ができたとき、小室さんは渡辺さんのもとに駆けつけてピアノでイメージを伝え、渡辺さんは「体に電流が走ったような気持ちになった」と後年語っています。ドラマ『セーラー服通り』の主題歌に起用されたこともあって、この曲は3月24日付のオリコンシングルチャートで一位を獲得。無名に近かった十九歳の歌手を、一気にスターダムへ押し上げました。渡辺さんはこの曲で『ザ・ベストテン』に初めて生出演も果たしています。 「わかりはじめたMy Revolution」——あのサビの疾走感は、四十年経ったいまでも色あせません。歌謡曲ともアイドルとも違う、まっすぐで力強い歌声。この曲は高校一年の終わりから、二年生になったばかりの私の耳にも、確かに届いていました。 最初に聴いたのは、たしか『ザ・ベストテン』だったような気がします。毎週木曜の夜九時、ランキングを楽しみに見ていた時代です。第一印象は、明るく勢いのある曲だな、というものでした。 学校へ行くと、友達がサビを口ずさんでいる。文化祭では体育館のステージに上がって歌う生徒までいる。それくらい、私たちのあいだでは流行っていました。だから、あっという間に覚えてしまいました。当時の高校生にとっては、「頑張ろう」「前に進もう」という気持ちにさせてくれる、青春ど真ん中の一曲だったと思います。 もちろん「My Revolution」は、マイベストテープにも入れていました。当時はレコードをカセットテープにダビングして、自分だけの一枚を作るのが楽しみだった時代です。私の相棒は、お小遣い事情でソニーのウォークマンではなくAIWAのカセットプレーヤーでしたが、通学の道すがら、よく聴いていた思い出があります。 テープには当時流行していた曲を並べていましたが、「My Revolution」は外せない一曲でした。友達の間でも人気があり、「いい曲だよね」と話題になることも多かった。私の高校時代を象徴する、青春ソングの一つだったと思います。 野球少年の聖地で、歌手が歌った夏 そして昭和61年の夏、事件が起きます。 8月2日の大阪スタヂアムを皮切りに、名古屋城深井丸広場、そして8月8日の西武ライオンズ球場。渡辺美里さんは「MISATO SPECIAL ‘86 KICK OFF」と題したスタジアムコンサートを敢行しました。女性ソロシンガーが球場でコンサートを開くのは、日本で初めてのことでした。 このとき渡辺美里さんは、二十歳になったばかり。デビューからわずか一年二か月です。きっかけは、ラジオ番組の放送前にマネージャーから「やってみる?」と聞かれて、球場のことがよくわからないまま「何となく」返事をしたことだったといいますから、豪快な話です。ライブの一か月前には、十代の邦人アーティストとして初となる二枚組アルバム『Lovin’ you』をリリース。8月8日の西武球場のステージには、「My Revolution」を生んだ小室哲哉さんもキーボードで参加していました。 私にとって「球場」とは、野球をする場所でした。当時の私は高校二年生。白球を追いかける毎日で、球場という言葉から連想するのは後楽園球場のジャイアンツ戦か、憧れの甲子園です。ちなみにこの昭和61年の西武球場といえば、ルーキーの清原和博選手がホームランを量産していたグラウンドでもあります。野球少年にとって、あそこはまぎれもなく「野球の聖地」のひとつでした。 その神聖なグラウンドにステージを組んで、私とたいして歳の変わらないお姉さんが、たった一人で数万人を前に歌う。 じつは当時、西武球場で毎年コンサートが開かれていることは知っていました。親友のお兄さんが渡辺美里さんの熱烈なファンで、実際に西武球場のコンサートへ行ったと聞いていたからです。 野球部だった私にとって、普段は野球をする場所で何万人もの観客を集めてコンサートが開かれるというのは、とても新鮮で、驚きでした。当時は自分が行く機会はありませんでしたが、「いつか行ってみたい」と思うほど、印象に残っていました。 ちなみにこの昭和61年の渡辺さんは、球場ライブの直後の9月から全国三十八か所を回るツアーに突入し、途中で声帯ポリープを患って中断を余儀なくされたそうです。二十歳の身体で、どれほど無我夢中で駆け抜けた一年だったことか。私たちが白球を追いかけていたあの夏、三つ年上のお姉さんも、別のグラウンドで全力疾走していたのです。 この西武球場の夏のライブは、以後、毎年恒例となります。全盛期には四万枚のチケットが即日完売。平成2年(1990年)からは、観客輸送を兼ねた臨時特急「MISATO TRAIN」が西武線を走りました。はじめは5000系レッドアロー号、平成7年(1995年)からは10000系ニューレッドアロー号。毎年デザインの変わる特製ヘッドマークを掲げて球場へ向かう列車を、渡辺美里さんのファンだけでなく鉄道ファンもカメラに収めたそうです。線路っぷちで育った私としては、この話には胸が熱くなります。歌手の名を冠した特急列車が、年に一度だけ走るのです。しかもこの列車、西武ライブの終幕後も惜しまれ、平成30年(2018年)には西武ライオンズ四十周年イベントの一環として、一日限りのヘッドマーク付き復活運転まで果たしています。 初年のタイトルが「KICK OFF」、そして20年目の平成17年(2005年)、最終章のタイトルは「NO SIDE」。試合開始と試合終了。渡辺さんが高校時代にラグビー部のマネージャーを務めていたことに由来するそうです。最後の「NO SIDE」には約三万九千人が集まり、二十年間の動員は延べ七十万人にのぼりました。ひとつの球場で、ひとりの歌手が積み上げた数字としては、もう伝説と呼ぶほかありません。 六十歳の「Birthday」 その渡辺美里さんが、今日、還暦を迎えます。 そして偶然ではないのでしょう、三日後の7月15日には、七年ぶりのオリジナルアルバムがリリースされます。タイトルは『Birthday』。さらに今年の11月8日には、あの西武球場——いまはベルーナドームと名前を変えました——で、実に二十一年ぶりのスタジアムライブが開催されることも発表されています。 六十歳になった歌手が、二十歳の夏に立った球場へ帰っていく。四十年の歳月をまたぐその姿を想像すると、私は少しだけ泣きそうになります。 私たちの世代は、渡辺美里さんの歌に「がんばれ」と言われ続けてきた世代です。十代の終わりに聴いた歌を、五十七歳のいまも聴ける。しかもご本人が、いまも現役で、あの頃と同じ場所で歌おうとしている。これほど幸せなことがあるでしょうか。 そして私には、高校二年の夏から持ち越したままの宿題があります。あのとき果たせなかった「いつか行ってみたい」。四十年越しのその機会が、今年の11月8日、目の前にぶら下がっているのです。さて、どうしたものでしょうか。 みなさんには、渡辺美里さんの思い出の一曲はありますか。夏の球場に、行ったことはありますか。よろしければ、コメントで聞かせてください。 「My Revolution」も「サマータイム ブルース」も「虹をみたかい」も、あの頃カセットに録って擦り切れるほど聴いた曲が、この一枚にまとめて入っています。マイベストテープをもう一度作らなくても、名曲がぜんぶ揃う。還暦を迎えた今日、あらためて聴き直すのに、これ以上の一枚はありません。 ...

July 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月1日──変わり続けた箱と、変わらない一本

今日は7月1日。本格的な夏が、すぐそこまで来ています。 この日は、昭和生まれの二つの「もの」が、今も私たちのそばで生きている記念日でもあります。一つは、世界の音楽の聴き方を変えてしまった小さな箱。もう一つは、半世紀ものあいだ、頑として姿を変えなかった一本のアイス。 1979年(昭和54年)7月1日、ソニーが初代ウォークマン「TPS-L2」を発売しました。そして7月1日は、「井村屋あずきバーの日」でもあります。 奇しくも同じ日に重なった、この二つ。片方は時代に合わせて何度も生まれ変わりながら、もう片方は何ひとつ変えないまま、令和の今日まで生き延びてきました。今日はこの二つの「生き残り方」の話を、私の昭和の記憶とともに書いてみたいと思います。 「再生専用機なんて売れない」──その反対を押し切って ウォークマンが生まれたきっかけは、ソニーの創業者の一人・井深大さんの、ちょっとした「わがまま」でした。 井深さんは出張のたびに、当時のソニー製の小型テープレコーダー「TC-D5」(通称カセットデンスケ)を担いで、飛行機の中で音楽を聴いていました。けれどこれが、約1.7キロもある代物。重くてかなわない。そこで「すでにある小型テープレコーダー『プレスマン』から録音機能を外して、再生だけでいいからステレオで聴けるものを作ってくれ」と注文を出します。 ところが社内の反応は冷ややかでした。「録音機は売れる。でも、再生しかできない機械なんて、いったい誰が買うんだ」。当時の常識では、録音できないテーププレーヤーなど、商品として考えられなかったのです。その反対を押し切ったのが、もう一人の創業者・盛田昭夫さんでした。 こうして1979年7月1日、初代ウォークマン「TPS-L2」が世に出ます。標準価格は33,000円。本体の色は、若者のブルージーンズをイメージしたメタリックブルー。ヘッドホン端子が二つ付いていて、友達や恋人と同じ音楽を分け合える。発売当初は新聞も雑誌もさほど大きく扱いませんでしたが、ヘッドホンで音楽を持ち歩く若者たちの口コミから火がつき、やがて日本中へ、そして世界へと広がっていきました。 「ウォークマン」という言葉は、のちに『広辞苑』や『オックスフォード英語辞典』にも載るほど、携帯音楽プレーヤーそのものの代名詞になっていきます。家の中で「聴く」ものだった音楽が、外へ「持ち出す」ものになった──ウォークマンの登場は、昭和の「音」の歴史の、大きな曲がり角でした。 十歳の私の相棒は、ラジオだった ここで正直に告白します。1979年、ウォークマンが世に出たとき、私は小学校四年生、十歳でした。けれど当時の私は、ウォークマンという存在をまったく知りませんでした。 先日この欄でも書きましたが、あの頃の私の相棒は、一台の携帯ラジオだったのです。布団にもぐってナイターに耳を澄ませ、好きな番組に周波数を合わせる。音楽を「持ち歩く」なんて発想は、十歳の私の世界には、まだどこにもありませんでした。 私がウォークマンをはっきり意識したのは、それからずっとあと、高校に入学してからのことでした。 高校生の私と、アイワの「ウォークマン」 高校生になると、まわりの友達が次々とヘッドホンで音楽を聴くようになっていました。電車やバスの中でヘッドホンをしている姿は、昭和60年前後にはすっかりおなじみの光景です。私もどうしても欲しくなって、親に頼みました。 ただ──実際に買ってもらったのは、ソニーのウォークマンではありませんでした。少しだけ値段の安かった、アイワの携帯カセットプレーヤーだったのです。 本当はウォークマンが欲しかった。でも、子どもながらに、少しでも家計の負担を軽くしたくて、つい親に遠慮してしまったんですね。今思えば微笑ましい見栄ですが、当時の私には精いっぱいの気づかいでした。 もっとも、当時はその手の携帯カセットプレーヤーを、メーカーがどこであろうと、みんなまとめて「ウォークマン」と呼んでいました。だから私のアイワも、私にとっては立派な「ウォークマン」。先ほどの『広辞苑』の話ではありませんが、商品名が一つの時代の合言葉になっていた、よき時代でした。 一本のテープに、時間ごと詰め込んで あの頃、音楽を聴くというのは、今よりずっと手間のかかる、けれど豊かな道のりでした。私の場合、その流れはだいたいこんな具合です。 まず、家にはミニコンポがありました。レコードプレーヤー、アンプ、カセットデッキが一体になった、あの憧れの一式です。金曜日にレコード店で新譜を買ってきては、歌詞カードを眺めながら、まず家でレコードをじっくりと聴く。 次に、そのレコードをカセットテープへダビングします。TDK、maxell、AXIA、ソニー──60分や90分のテープを用意して、レコードからカセットデッキへ録音していく。A面とB面それぞれの収録時間を計算しながら曲順を考えるのも、楽しみの一つでした。曲と曲のあいだは一時停止(PAUSE)ボタンを駆使して、余計な無音が入らないように録る。今でいうプレイリスト作り、いや、それ以上に手のかかる作業です。 そうして仕上げた一本を、翌朝プレーヤーに入れて持ち出す。私は通学のとき、イヤホンを耳に差し込んで自転車を走らせていました。 こうして誰もが、自分だけの「マイベストテープ」を作っていました。お気に入りの曲だけを集めた、いわば「俺のベスト」です。私のまわりでよく顔をそろえていたのは、サザンオールスターズ、中森明菜、チェッカーズ、そして松田聖子。一本のテープが、その人の音楽の好みをそのまま映す名刺のようなものでした。 テープ選びにもこだわりがありました。一番普及していたノーマル(TYPE I)、高音がきれいで人気だったクローム(TYPE II)、最高音質だけれど値の張ったメタル(TYPE IV)。高校生のお小遣いでメタルはなかなか手が出ませんが、少し奮発してクロームを買った友達が「やっぱり音がいい!」と得意げにしていたのを、今でも笑って思い出します。 そして、カセットならではの「あるある」も数えきれません。電池が切れかかると、再生の音程がだんだん下がってきて、「そろそろ電池交換だな」と気づく。早送りと巻き戻しを繰り返すうちにテープが伸びたり、デッキの中で絡まったり。引き出してしまったテープを、鉛筆をリール穴に差し込んでカリカリと手で巻き直す──あの作業は、昭和のカセット世代に共通の思い出ではないでしょうか。 あずきバー──「変わらない」を選んだ一本 さて、ここで7月1日のもう一つの主役、井村屋の「あずきバー」に触れておきましょう。 あずきバーが生まれたのは1973年(昭和48年)。アイス市場が大手乳業メーカーの牙城だった当時、和菓子屋の井村屋はなかなか食い込めずにいました。頭を抱える開発担当者に、初代社長の井村二郎さんが言ったそうです。「うちには、あずきがあるやろ」。 その一言から、「ぜんざいをそのまま凍らせる」という発想で生まれたのが、あずきバーでした。1本30円。あずき、砂糖、水あめ、塩──たった四つの材料だけで、乳製品も添加物も使わない。だからこそ、あの歯が立たないほどの硬さが生まれました。のちに「世界一硬いアイス」とまで呼ばれるあの食感は、ごまかしのきかない素材へのこだわりの、裏返しでもあったのです。 私が四歳のときに世に出たあずきバーは、私が大人になっても、こうして年を重ねた今も、まったく同じ顔をして冷凍ケースに並んでいます。半世紀ものあいだ、ほとんど何ひとつ変えずに。 令和の今、二つの昭和を並べてみる 面白いのは、この二つの「昭和生まれ」が、まったく逆の生き方で令和まで生き残ったことです。 ウォークマンは、変わり続けることで生き残りました。カセットから始まり、CD、MD、メモリースティック……と、時代の記録媒体が変わるたびに姿を変え、カセット式は2010年にひっそりと国内販売を終えました。それでも「ウォークマン」という名前は、今もソニーのポータブルプレーヤーとして、ハイレゾ音源を聴ける最新機種にまで受け継がれています。中身を何度も入れ替えながら、名前と「音楽を持ち歩く」という志だけは、捨てなかったのです。 いっぽうのあずきバーは、変わらないことで生き残りました。材料は今もあの四つだけ。あの硬さも変わらない(むしろ昔より硬くなった、とも言われます)。そして2021年度には、年間の販売本数が3億本を突破しました。何も変えなかったからこそ、世代を超えて愛され続けている。 進化することで生き延びたウォークマン。変わらないことで生き延びたあずきバー。正反対の二つが、奇しくも同じ7月1日を記念日に持ち、令和の今日も、私たちのすぐそばにいます。 今はスマートフォン一台で、何千万曲でもすぐに聴ける時代です。便利になったものだと、心から思います。けれど、あの頃の私たちには、自分で時間をかけて作り上げた一本のカセットテープに、特別な愛着がありました。あれは、音楽そのものだけでなく、そのテープを編んだ時間も、買いに行った金曜日の高揚も、自転車を漕いだ通学路の風景も──ぜんぶ一緒に持ち歩いていた時代だったのだと思います。 現役のバス運転士として毎日ハンドルを握る私の、すぐ手の届くところにも、この二つはまだ生きています。コンビニの冷凍ケースに並ぶあずきバー。そして、形を変えながらも鳴り続けるウォークマンの遺伝子。 変わることで生き残るもの。変わらないことで生き残るもの。あなたの暮らしのそばにも、昭和生まれのまま、今も静かに生き続けている「もの」が、ありませんか。 そして今日、7月1日。半世紀、何ひとつ変えなかったあの一本を、久しぶりに齧ってみるのはいかがでしょう。あの歯が立たないほどの硬さも、ほろりと崩れるあずきの素朴な甘さも、子どもの頃のあの夏と、まったく同じ味のままです。 井村屋 BOXあずきバー 6本入あずき・砂糖・水あめ・塩だけ。1973年から変わらない“世界一硬いアイス”。箱でストックしておきたい夏の定番 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月25日──「何だ、この騒がしいバンドは!?」

今日は六月二十五日。梅雨空がつづき、夏のにおいが少しずつ近づいてくる頃です。 昭和の子どもにとって、木曜日の夜には特別な意味がありました。夜九時、テレビの前に座る。『ザ・ベストテン』が始まる。その週のヒット曲が一位から十位まで、順番に流れていく。司会は久米宏さんと黒柳徹子さん。ランキングに入った歌手は、たとえ地方にいようと、駅のホームにいようと、その場から中継でつないで歌わされる——そんな大胆な番組でした。ときに視聴率は四割を超え、日本中の家族が、同じ時間に同じ歌を聴いていた時代です。歌のうまい歌手、きれいな歌手、かっこいい歌手。お茶の間は、その時間だけ小さな音楽ホールになりました。 昭和五十三年(一九七八年)の六月二十五日。一枚のシングルレコードが世に出ました。 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」。 のちに「国民的バンド」と呼ばれることになる彼らの、これがデビューでした。でも、当時小学三年生だった私にとって、サザンとの出会いは「感動」でも「あこがれ」でもありませんでした。最初の感想は、こうです。 「何だ、この騒がしいバンドは!?」 木曜九時、「今週のスポットライト」の衝撃 『ザ・ベストテン』には、「今週のスポットライト」という名物コーナーがありました。まだベストテン入りはしていないけれど、もうすぐランクインしそうな注目の曲を、新人歌手などに歌わせる枠です。これから世に出ようとする歌手にとって、晴れの舞台でした。 その夏、画面が突然、どこかのライブハウスからの中継に切り替わりました。映し出されたのは、大勢の若者がひしめく熱気の中で、今まさに演奏している新人バンド。それがサザンオールスターズでした。いつもは華やかなスタジオから流れてくるはずの音楽番組に、汗と熱気でむんむんした地下のライブハウスが、そのまま映し出される。その時点で、もう何かがふつうではありませんでした。 正直に言います。歌詞が、まったく入ってこないのです。早口で、英語みたいで、何を歌っているのかさっぱりわからない。「勝手にシンドバッド」という曲名すら、聞き取れたかどうかあやしいくらいでした。子ども心に浮かんだのは、ただひと言、「何だ、この騒がしいバンドは!?」でした。 それでも——「ラララ~♪」のところだけは、なぜか耳に残りました。あのフレーズが流れたときのインパクトは、それまでテレビで見ていたピンク・レディーや沢田研二とは、また違うものでした。きれいでもなく、かっこいいでもなく、ただ、まったく新しい何か。意味はわからないのに、体のどこかがざわつく。そういう種類の「新しさ」だったのです。 (あとから知ったのですが、このスポットライト登場は、実はデビューから二か月ほど経った八月三十一日のことでした。新宿のライブハウス「ロフト」からの生中継だったそうです。六月二十五日のデビューを、私たち子どもがテレビで「目撃」したのは、夏の終わりだったというわけです。) ピンク・レディーの夏に、現れた異物 昭和五十三年の夏といえば、何といってもピンク・レディーでした。「UFO」「サウスポー」と、社会現象のようなヒットを次々に飛ばし、ピンク・レディーの振り付けは、子どもたちみんなのものでした。沢田研二さん——ジュリーも、かっこよさの頂点にいました。喫茶店ではインベーダーゲームが流行りはじめ、街にはピコピコという電子音が鳴り出した、そんな夏です。 テレビの中の「スター」とは、ああいうきらびやかな人たちのことだ。子どもの私は、そう思い込んでいました。 そこへ、短パン姿で、上半身裸で、何を言っているのかわからない歌を早口でまくしたてる男たちが現れたのです。きれいでもなければ、決めの振り付けもない。スターのお手本からは、まるで外れている。だから私は、「何だ、この騒がしいバンドは!?」と思ったわけです。今になって思えば、その「外れている感じ」「異物感」こそが、サザンの正体だったのですが。 「勝手にシンドバッド」という、ふざけた名前 あとから知ったことですが、サザンと『ザ・ベストテン』は、同じ昭和五十三年生まれの「同期」でした。番組が始まったのが一月十九日、サザンのデビューが六月二十五日。新しい時代の音楽と、それを映す新しい番組が、同じ年に並んで走り出していたのです。 そして、あの「ふざけた感じ」には、ちゃんと理由がありました。 「勝手にシンドバッド」という曲名。これは前の年に大ヒットした、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」と、ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を、くっつけたような名前なのです。当時の大人も子どもも、「なんだそのタイトルは」「コミックバンドか?」と思いました。私がピンク・レディーや沢田研二と比べて「違う」と感じたのは、ある意味あたりまえだったのかもしれません。彼らはその二つの大ヒット曲を、わざとごちゃ混ぜにしたような名前で登場してきたのですから。 桑田佳祐さんの、あの早口で巻き舌の歌い方も、当時は賛否両論でした。日本語をわざと英語っぽく崩して、転がすように歌う。だから歌詞が聞き取れない。——のちに別の歌番組では、あまりに歌詞が聞き取れないため、画面に歌詞のテロップを出したと言われています。今ではどんな歌番組でも当たり前になった「歌詞テロップ」は、このあたりが始まりだったとも言われているのです。つまり、「歌詞が入ってこない」と思っていたのは、私だけではありませんでした。日本中が、そう思っていたのです。 今でこそ信じられませんが、昭和五十年代の半ばごろまで、日本では「日本語はロックに乗らない」と、本気で考えられていた時代がありました。英語ならまだしも、日本語であの強いビートに歌詞を乗せるのは無理だ、と。ところが桑田さんは、日本語を英語のように崩し、まくしたてることで、その「常識」をあっさり壊してしまいました。私が「何を歌っているのかわからない」と感じたあの歌い方こそ、実は日本の歌の歴史を変えてしまった発明だったのです。もちろん、子どもの私にそんなことが分かるはずもありません。ただ、「騒がしいな」と思っていただけでした。 「目立ちたがり屋の芸人です」 スポットライトに登場したサザンは、見た目からして強烈でした。メンバーはジョギング用の短パン姿。桑田さんにいたっては上半身裸。司会の黒柳徹子さんが「アーティストになりたいの?」とたずねると、桑田さんはこう答えたといいます。 「いいえ、目立ちたがり屋の芸人で~す!」 (のちに桑田さん自身が「あれは台本だった」と明かしていますが、その照れ隠しのような感じまで含めて、いかにもサザンらしいエピソードだと思います。) ちなみに、あの中継で大盛り上がりに見えた観客は、実は桑田さんたちが知り合いをかき集めた、いわば「サクラ」だったと、のちに本人が打ち明けています。今ではすっかり伝説になっているあの熱狂も、そんな手づくりの舞台裏から始まっていたのです。背伸びと勢いだけで世間にぶつかっていく——そのなりふりかまわなさが、かえって時代の空気を変えてしまったのですから、おもしろいものです。 この「事件」のような登場で、サザンの名前は一気に広まりました。九月二十一日には『ザ・ベストテン』に九位で初ランクイン。最高四位、オリコンでは三位まで上がり、新人とは思えない好スタートを切ります。「何だ、この騒がしいバンドは」とぽかんとしていた私の知らないうちに、彼らはどんどん駆け上がっていったのです。 そして翌昭和五十四年、「いとしのエリー」が世に出ます。あの早口でふざけたバンドが、こんなにせつなく、こんなにまっすぐなバラードを歌うのか——世間の見る目は、ここで一変しました。コミックバンドだ、キワモノだと言っていた人たちが、一斉に黙り込んだのです。「一発屋」どころではない。サザンは、本物でした。その年の暮れには、さっそくNHK紅白歌合戦に初出場。あの「騒がしいバンド」は、わずか一年あまりで、日本を代表する歌い手の仲間入りを果たしていました。 それでも、虜になるのに時間はかからなかった あれだけ「何だこれは」と思っておきながら、私がサザンの虜になるのに、そう時間はかかりませんでした。気がつけば友だちと、あの「いま何時?」「そうね、だいたいね」の掛け合いを、意味もなく日常会話にはさんでは、ふざけ合っていたのです。あんなに「騒がしい」と感じていた曲の言葉が、いつのまにか自分たちの口ぐせになっていました。子どもというのは、現金なものです。 そこからのサザンは、ご存じのとおりです。昭和から平成へ、出る曲、出る曲が、そのまま時代の景色になっていきました。「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「希望の轍」「エロティカ・セブン」「愛の言霊」——私は、全部聴きました。 そしてとくに心に残っているのが、平成十二年(二〇〇〇年)の「TSUNAMI」です。サザン自身の最大のヒットとなり、その年のレコード大賞にも輝いたこの曲は、本当に良かった。あの「騒がしいバンド」が、こんなに深く、こんなに大きな歌を届けるようになるとは——木曜の夜、テレビの前で首をかしげていたあの小学生には、想像もできないことでした。 「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」まで、あの夏に始まった物語のはじまりは、一枚のベスト盤でまとめて聴くことができます。アルバムの一曲目は、もちろん、あの「騒がしい」デビュー曲です。 サザンオールスターズ ベストアルバム「海のYeah!!」一曲目は「勝手にシンドバッド」。デビューから20年の代表曲を網羅した決定盤(2枚組) Amazonで見る › おわりに──「違和感」は、新しさのサイン 令和のいま、サザンオールスターズは押しも押されもせぬ国民的バンドです。夏が来るたび、どこかで桑田さんの声が流れている。「勝手にシンドバッド」は、もう「騒がしい新人の曲」ではなく、日本の夏の定番のひとつになりました。あの夏、テレビの前で首をかしげていた小学生は、まさかこのバンドの歌を、その後何十年も聴き続けることになるとは、思ってもいませんでした。 振り返ってみると、あの夜の私の「何だ、この騒がしいバンドは!?」という違和感こそ、新しい時代の入り口だったのだと思います。子どもの耳が「変だ」「わからない」と感じるものの中にこそ、本物の新しさが隠れている。きれいに整ったものよりも、意味のわからない「ラララ~♪」のほうが、何十年も残っていく。音楽というのは、本当に不思議なものです。 今でも、ときどきテレビでお姿を拝見し、歌声を聴くことがあります。あの頃と比べても、声はまったく色褪せていない。それどころか、とても素敵に年を重ねてこられたなあ、と画面の前でしみじみ思うのです。木曜の夜に「何だこれは」と思った相手と、こうして何十年も同じ時間を生きてきた。そう考えると、ちょっと誇らしいような、くすぐったいような気持ちになります。 皆さんが初めてサザンオールスターズを知ったのは、どの曲、どの場面でしたか。そして——最初は「何だこれは」と思ったのに、いつのまにか大好きになっていた歌は、ありませんか。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 25, 2026

6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す

梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。 しかも六月九日は、昭和三十九年(一九六四年)生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。 木曜の夜九時が、待ち遠しかった 歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。 昭和五十三年(一九七八年)に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。 そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。 それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな"やらかし"をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。 なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか!」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。 もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。 そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の"ため"をきかせて「今週の……スポッ……トライト!」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。 あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ? ガンダーラって何だ? 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「???」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。 ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。 フォークから、ロックへ 私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。 それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。 レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。 レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年(一九八〇年)ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。 そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。 テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。 そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。 maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パックあの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に Amazonで見る › 私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。 正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。 その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。 令和の今、思うこと いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。(笑) 便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。 皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた | 次の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う ▶

June 9, 2026

5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄

五月も末になると、空気がじっとりとしてくる。梅雨の足音がそこまで聞こえてくるような、少し重たい青空が広がる季節だ。昭和の子どもたちにとって、この頃は運動会が終わり、夏休みまでまだずいぶん先という、少し間延びした時期だった。特別なことが起きるわけでもない、ただ日々が流れていく5月の終わり。 でも、5月29日という日は、昭和という時代を語るうえで忘れられないふたつの出来事を抱えている。今日は少し遠回りしながら、その話をしてみたい。 「昭和の女王」は横浜の魚屋の娘だった 昭和12年(1937年)5月29日、神奈川県横浜市磯子区の小さな魚屋「魚増」に、一人の女の子が生まれた。 本名は加藤和枝。のちに「美空ひばり」として、昭和の歌謡界を丸ごと背負って立つ人物となる、その赤ちゃんである。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)だから、ひばりさんとは32年もの開きがある。物心ついたのが昭和50年代に入った頃だから、考えてみれば私はリアルタイムの美空ひばりをほとんど知らない。紅白歌合戦で歌う姿も、テレビの歌番組での映像も、子ども時代の記憶にはほとんど出てこない。 実はそれには理由があった。昭和48年(1973年)、実弟が起こした不祥事のあおりを受けて、ひばりさんは紅白歌合戦への出場を辞退せざるを得なくなった。それまで10年連続で紅組のトリを務めてきた大歌手が、である。私が物心ついた昭和50年代はちょうどその時期と重なっていた。だから、茶の間のテレビでひばりさんの歌う姿をなかなか目にすることができなかったのだ。 その代わり、美空ひばりという名前は、どこか別の形で私の中に刷り込まれていた。母が台所で口ずさむ鼻歌。街のどこかから流れてくるラジオの音。駄菓子屋の軒先でも、銭湯の脱衣所でも、「美空ひばり」という名前が大人たちの間でさりげなく語られた。顔も声もよく知らないまま、「すごい人がいる」という空気だけが漂っていた。子どもの私の中で、美空ひばりはいつしか「テレビに出てこない伝説の人」になっていた。 ひばりさんは9歳でデビューした。終戦直後の昭和21年(1946年)のことだ。焼け野原の横浜で、母・喜美枝が一念発起して「青空楽団」を作り、近所の公民館や銭湯に舞台を設けた。そこで初めて「美空和枝」の名で歌った女の子が、のちに昭和最大のスターになるとは、誰も想像しなかっただろう。戦争に出征した父の壮行会で「九段の母」を歌い、周囲の大人たちを泣かせたのは、まだ6歳の頃だったという。人を泣かせる力は、最初からあの小さな体に宿っていた。 昭和40年(1965年)には「柔」でレコード大賞を受賞した。そのころの私はまだ生まれてもいないが、昭和の茶の間ではひばりさんの歌声が、家族みんなで囲むテレビから流れていたはずだ。歌番組も、ドラマも、映画も。あの時代のひばりさんはまさに全盛期を走っていた。 生涯で発表したオリジナル曲は517曲、レコードの売り上げは8000万枚を超えたという。映画にも160本近く出演した。そんな数字を並べても、ひばりさんという存在の大きさはうまく伝わらない気がする。「女王」とか「昭和の歌姫」とか、どんな言葉を当てはめても、すぐに溢れ出してしまうような人だった。 私がはっきりと「ああ、これが美空ひばりだ」と感じた瞬間は、昭和63年(1988年)の「川の流れのように」だった。長い闘病を乗り越えて、東京ドームのこけら落とし公演で復活を果たしたひばりさんが、晩年に残した曲だ。テレビ画面のなかのひばりさんは、歌っているというより、ただそこに存在しているだけでオーラを放っていた。「伝説」とはこういうことか、と19歳の私は感じた。言葉にならない何かが、画面を通しても伝わってきた。 その東京ドームコンサートは昭和63年(1988年)4月に開かれた。体調は決して万全ではなかった。足腰の痛みはほとんど回復しておらず、肝機能の数値も心もとない状態のまま本番の日を迎えたという。それでもひばりさんは「すべてのお客様に顔を見てもらいたい」と言い、本人の希望で作られた長い花道を、歌い終えたあとに歩いた。5万人の観衆の前で。 その翌年、平成元年(1989年)の6月24日、美空ひばりは52歳でこの世を去った。昭和という元号の最後の年のことだった。死去後、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。 昭和の始まりとともに生まれ、昭和の終わりとほぼ重なるように逝った人。横浜の小さな魚屋に生まれた女の子が、ひとつの時代を丸ごと背負って歌った。5月29日は、そんな奇跡のような声が産声を上げた日でもある。 東京・上野公園に残る美空ひばりの手形。昭和12年(1937年)5月29日生まれ。昭和とともに歌い続け、平成元年に52歳で逝った。(Photo: Daderot / CC0 パブリックドメイン) 地下を走った夢、千年の都の地面の下へ もうひとつ、5月29日の出来事を話したい。 昭和56年(1981年)のこの日、京都市で「烏丸線」が開業した。京都市内初の市営地下鉄である。 私は当時12歳。葛飾に住む中学生だったから、京都の地下鉄開業など直接には関係のない話だ。でも、当時の子どもたちがそうであったように、「地下鉄」というものには不思議な憧れがあった。地面の下をトンネルが通り、電車が走っている。その事実だけで、何かSFのような、冒険のようなわくわく感があった。新しい路線が開業するたびにニュースになった時代で、地下鉄は都市の「現代化」を象徴するものでもあった。 この地下鉄が生まれるまでには、長い長い歴史がある。 京都には、日本最初の一般営業用電車として明治28年(1895年)に開業した路面電車があった。クリーム色と深緑のツートンカラーの車体が烏丸通や四条通を走り、83年間にわたって市民の足となってきた。ところが昭和に入ると自動車が急増した。昭和40年(1965年)に14万台だった京都市内の自家用車は、1980年には38万台と3倍近くに膨れ上がった。古都ならではの道幅の狭い通りを車が埋め、市電は渋滞に巻き込まれて定時運行もままならなくなっていった。 存続を求める署名が27万人分も集まったにもかかわらず、昭和53年(1978年)9月30日、京都市電は全廃された。日本初の路面電車が83年の歴史に幕を閉じた日として、全国的にも大きく報道されたという。廃止後も全国から記念乗車券の注文が殺到し、再販売したほどだった。市民がその消滅をどれほど惜しんだか、伝わってくる気がする。 市電が消えてから、京都市内の公共交通はほぼバスだけになった。渋滞は深刻なままで、バスも定時には走れない。市民は地下鉄の開業を、じっと待ち続けていた。 工事は昭和49年(1974年)に始まった。千年の都の地下を掘るのだから、普通の工事ではすまない。文化財保護法に基づいて、あちこちで埋蔵文化財の発掘調査が行われた。平安京の遺構が眠っているかもしれない土の下を、少しずつ、丁寧に掘り進んでいく。工期が延び、財政難も重なり、何度も計画が見直された。 もうひとつ、この地下鉄には当時としては特別な思いが込められていた。バリアフリーだ。昭和44年(1969年)頃から、車椅子を使う市民や障害者支援団体が何年もかけて京都市に請願を続け、主要4駅にエレベーターを設置することを実現させた。当初の設計から駅のホーム形式を変更するという大きな決断もあった。「バリアフリー」という言葉さえまだ一般的でなかった時代に、市民の声が行政を動かした。千年以上の歴史が積み重なった都市の地下に、新しい時代の思いが込められていたのだ。 そして昭和56年5月29日、北大路駅から京都駅までの6.6キロメートルが開通した。 前夜から駅に並んで始発電車に乗ろうとした中学生たちの話が残っている。深夜に京都駅前をうろついていたら警察官に「こんな夜中にアカン」と叱られ、タクシーで帰宅させられた子もいた。翌朝また早起きして乗りに来たという子もいたというから、その熱狂がしのばれる。新しい地下鉄の始発電車に乗るためなら、お巡りさんに怒られたって構わない。そういう気持ちになれた時代だった。 京都市営地下鉄烏丸線のホームドア。昭和56年(1981年)5月29日に開業した京都市初の地下鉄は、今も千年の都の地下を走り続けている。(Photo: NatsuTV / CC0 パブリックドメイン) 5月29日という日 美空ひばりの誕生日と、京都地下鉄の開業日。一見まったく関係のない二つの出来事だが、どちらも「昭和の時間の積み重なり」というものを感じさせる。 ひばりさんは昭和という時代そのものを声にした。地下鉄は、千年という時間が眠る地面の下を走った。 昭和の時代を生きた私たちは、それとは気づかないまま、そういう大きな流れの中に埋もれて日々を過ごしていた。駄菓子を買って、公園で野球をして、夕暮れになれば家に帰って。大人の世界では大きなことが起きていたのに、子どもの目には届かなかった。 あの頃の街に、美空ひばりの声が流れていたとき、私は何をしていたのだろう。公園でボールを追いかけていたのか、駄菓子屋の前でたむろしていたのか。確かめようのないことだが、あの声は確かにどこかで流れていて、気づかないまま聴いていたはずだ。記憶の底に、あの声は静かに沈んでいる。 5月29日という日付を手がかりに、こうして昭和を掘り起こしてみると、知らなかったことがまだまだ山ほどある。自分が生きた時代のことなのに、知らないことがこんなにある。それが、このシリーズを書き続ける理由でもある。 あなたにとって、美空ひばりという声はどんな記憶と結びついていますか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ ▶

May 28, 2026