【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 ▶ ...

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月25日──「何だ、この騒がしいバンドは!?」

今日は六月二十五日。梅雨空がつづき、夏のにおいが少しずつ近づいてくる頃です。 昭和の子どもにとって、木曜日の夜には特別な意味がありました。夜九時、テレビの前に座る。『ザ・ベストテン』が始まる。その週のヒット曲が一位から十位まで、順番に流れていく。司会は久米宏さんと黒柳徹子さん。ランキングに入った歌手は、たとえ地方にいようと、駅のホームにいようと、その場から中継でつないで歌わされる——そんな大胆な番組でした。ときに視聴率は四割を超え、日本中の家族が、同じ時間に同じ歌を聴いていた時代です。歌のうまい歌手、きれいな歌手、かっこいい歌手。お茶の間は、その時間だけ小さな音楽ホールになりました。 昭和五十三年(一九七八年)の六月二十五日。一枚のシングルレコードが世に出ました。 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」。 のちに「国民的バンド」と呼ばれることになる彼らの、これがデビューでした。でも、当時小学三年生だった私にとって、サザンとの出会いは「感動」でも「あこがれ」でもありませんでした。最初の感想は、こうです。 「何だ、この騒がしいバンドは!?」 木曜九時、「今週のスポットライト」の衝撃 『ザ・ベストテン』には、「今週のスポットライト」という名物コーナーがありました。まだベストテン入りはしていないけれど、もうすぐランクインしそうな注目の曲を、新人歌手などに歌わせる枠です。これから世に出ようとする歌手にとって、晴れの舞台でした。 その夏、画面が突然、どこかのライブハウスからの中継に切り替わりました。映し出されたのは、大勢の若者がひしめく熱気の中で、今まさに演奏している新人バンド。それがサザンオールスターズでした。いつもは華やかなスタジオから流れてくるはずの音楽番組に、汗と熱気でむんむんした地下のライブハウスが、そのまま映し出される。その時点で、もう何かがふつうではありませんでした。 正直に言います。歌詞が、まったく入ってこないのです。早口で、英語みたいで、何を歌っているのかさっぱりわからない。「勝手にシンドバッド」という曲名すら、聞き取れたかどうかあやしいくらいでした。子ども心に浮かんだのは、ただひと言、「何だ、この騒がしいバンドは!?」でした。 それでも——「ラララ~♪」のところだけは、なぜか耳に残りました。あのフレーズが流れたときのインパクトは、それまでテレビで見ていたピンク・レディーや沢田研二とは、また違うものでした。きれいでもなく、かっこいいでもなく、ただ、まったく新しい何か。意味はわからないのに、体のどこかがざわつく。そういう種類の「新しさ」だったのです。 (あとから知ったのですが、このスポットライト登場は、実はデビューから二か月ほど経った八月三十一日のことでした。新宿のライブハウス「ロフト」からの生中継だったそうです。六月二十五日のデビューを、私たち子どもがテレビで「目撃」したのは、夏の終わりだったというわけです。) ピンク・レディーの夏に、現れた異物 昭和五十三年の夏といえば、何といってもピンク・レディーでした。「UFO」「サウスポー」と、社会現象のようなヒットを次々に飛ばし、ピンク・レディーの振り付けは、子どもたちみんなのものでした。沢田研二さん——ジュリーも、かっこよさの頂点にいました。喫茶店ではインベーダーゲームが流行りはじめ、街にはピコピコという電子音が鳴り出した、そんな夏です。 テレビの中の「スター」とは、ああいうきらびやかな人たちのことだ。子どもの私は、そう思い込んでいました。 そこへ、短パン姿で、上半身裸で、何を言っているのかわからない歌を早口でまくしたてる男たちが現れたのです。きれいでもなければ、決めの振り付けもない。スターのお手本からは、まるで外れている。だから私は、「何だ、この騒がしいバンドは!?」と思ったわけです。今になって思えば、その「外れている感じ」「異物感」こそが、サザンの正体だったのですが。 「勝手にシンドバッド」という、ふざけた名前 あとから知ったことですが、サザンと『ザ・ベストテン』は、同じ昭和五十三年生まれの「同期」でした。番組が始まったのが一月十九日、サザンのデビューが六月二十五日。新しい時代の音楽と、それを映す新しい番組が、同じ年に並んで走り出していたのです。 そして、あの「ふざけた感じ」には、ちゃんと理由がありました。 「勝手にシンドバッド」という曲名。これは前の年に大ヒットした、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」と、ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を、くっつけたような名前なのです。当時の大人も子どもも、「なんだそのタイトルは」「コミックバンドか?」と思いました。私がピンク・レディーや沢田研二と比べて「違う」と感じたのは、ある意味あたりまえだったのかもしれません。彼らはその二つの大ヒット曲を、わざとごちゃ混ぜにしたような名前で登場してきたのですから。 桑田佳祐さんの、あの早口で巻き舌の歌い方も、当時は賛否両論でした。日本語をわざと英語っぽく崩して、転がすように歌う。だから歌詞が聞き取れない。——のちに別の歌番組では、あまりに歌詞が聞き取れないため、画面に歌詞のテロップを出したと言われています。今ではどんな歌番組でも当たり前になった「歌詞テロップ」は、このあたりが始まりだったとも言われているのです。つまり、「歌詞が入ってこない」と思っていたのは、私だけではありませんでした。日本中が、そう思っていたのです。 今でこそ信じられませんが、昭和五十年代の半ばごろまで、日本では「日本語はロックに乗らない」と、本気で考えられていた時代がありました。英語ならまだしも、日本語であの強いビートに歌詞を乗せるのは無理だ、と。ところが桑田さんは、日本語を英語のように崩し、まくしたてることで、その「常識」をあっさり壊してしまいました。私が「何を歌っているのかわからない」と感じたあの歌い方こそ、実は日本の歌の歴史を変えてしまった発明だったのです。もちろん、子どもの私にそんなことが分かるはずもありません。ただ、「騒がしいな」と思っていただけでした。 「目立ちたがり屋の芸人です」 スポットライトに登場したサザンは、見た目からして強烈でした。メンバーはジョギング用の短パン姿。桑田さんにいたっては上半身裸。司会の黒柳徹子さんが「アーティストになりたいの?」とたずねると、桑田さんはこう答えたといいます。 「いいえ、目立ちたがり屋の芸人で~す!」 (のちに桑田さん自身が「あれは台本だった」と明かしていますが、その照れ隠しのような感じまで含めて、いかにもサザンらしいエピソードだと思います。) ちなみに、あの中継で大盛り上がりに見えた観客は、実は桑田さんたちが知り合いをかき集めた、いわば「サクラ」だったと、のちに本人が打ち明けています。今ではすっかり伝説になっているあの熱狂も、そんな手づくりの舞台裏から始まっていたのです。背伸びと勢いだけで世間にぶつかっていく——そのなりふりかまわなさが、かえって時代の空気を変えてしまったのですから、おもしろいものです。 この「事件」のような登場で、サザンの名前は一気に広まりました。九月二十一日には『ザ・ベストテン』に九位で初ランクイン。最高四位、オリコンでは三位まで上がり、新人とは思えない好スタートを切ります。「何だ、この騒がしいバンドは」とぽかんとしていた私の知らないうちに、彼らはどんどん駆け上がっていったのです。 そして翌昭和五十四年、「いとしのエリー」が世に出ます。あの早口でふざけたバンドが、こんなにせつなく、こんなにまっすぐなバラードを歌うのか——世間の見る目は、ここで一変しました。コミックバンドだ、キワモノだと言っていた人たちが、一斉に黙り込んだのです。「一発屋」どころではない。サザンは、本物でした。その年の暮れには、さっそくNHK紅白歌合戦に初出場。あの「騒がしいバンド」は、わずか一年あまりで、日本を代表する歌い手の仲間入りを果たしていました。 それでも、虜になるのに時間はかからなかった あれだけ「何だこれは」と思っておきながら、私がサザンの虜になるのに、そう時間はかかりませんでした。気がつけば友だちと、あの「いま何時?」「そうね、だいたいね」の掛け合いを、意味もなく日常会話にはさんでは、ふざけ合っていたのです。あんなに「騒がしい」と感じていた曲の言葉が、いつのまにか自分たちの口ぐせになっていました。子どもというのは、現金なものです。 そこからのサザンは、ご存じのとおりです。昭和から平成へ、出る曲、出る曲が、そのまま時代の景色になっていきました。「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「希望の轍」「エロティカ・セブン」「愛の言霊」——私は、全部聴きました。 そしてとくに心に残っているのが、平成十二年(二〇〇〇年)の「TSUNAMI」です。サザン自身の最大のヒットとなり、その年のレコード大賞にも輝いたこの曲は、本当に良かった。あの「騒がしいバンド」が、こんなに深く、こんなに大きな歌を届けるようになるとは——木曜の夜、テレビの前で首をかしげていたあの小学生には、想像もできないことでした。 「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」まで、あの夏に始まった物語のはじまりは、一枚のベスト盤でまとめて聴くことができます。アルバムの一曲目は、もちろん、あの「騒がしい」デビュー曲です。 サザンオールスターズ ベストアルバム「海のYeah!!」一曲目は「勝手にシンドバッド」。デビューから20年の代表曲を網羅した決定盤(2枚組) Amazonで見る › おわりに──「違和感」は、新しさのサイン 令和のいま、サザンオールスターズは押しも押されもせぬ国民的バンドです。夏が来るたび、どこかで桑田さんの声が流れている。「勝手にシンドバッド」は、もう「騒がしい新人の曲」ではなく、日本の夏の定番のひとつになりました。あの夏、テレビの前で首をかしげていた小学生は、まさかこのバンドの歌を、その後何十年も聴き続けることになるとは、思ってもいませんでした。 振り返ってみると、あの夜の私の「何だ、この騒がしいバンドは!?」という違和感こそ、新しい時代の入り口だったのだと思います。子どもの耳が「変だ」「わからない」と感じるものの中にこそ、本物の新しさが隠れている。きれいに整ったものよりも、意味のわからない「ラララ~♪」のほうが、何十年も残っていく。音楽というのは、本当に不思議なものです。 今でも、ときどきテレビでお姿を拝見し、歌声を聴くことがあります。あの頃と比べても、声はまったく色褪せていない。それどころか、とても素敵に年を重ねてこられたなあ、と画面の前でしみじみ思うのです。木曜の夜に「何だこれは」と思った相手と、こうして何十年も同じ時間を生きてきた。そう考えると、ちょっと誇らしいような、くすぐったいような気持ちになります。 皆さんが初めてサザンオールスターズを知ったのは、どの曲、どの場面でしたか。そして——最初は「何だこれは」と思ったのに、いつのまにか大好きになっていた歌は、ありませんか。 このシリーズ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 25, 2026

6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す

梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。 しかも六月九日は、昭和三十九年(一九六四年)生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。 木曜の夜九時が、待ち遠しかった 歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。 昭和五十三年(一九七八年)に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。 そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。 それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな"やらかし"をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。 なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか!」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。 もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。 そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の"ため"をきかせて「今週の……スポッ……トライト!」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。 あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ? ガンダーラって何だ? 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「???」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。 ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。 フォークから、ロックへ 私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。 それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。 レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。 レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年(一九八〇年)ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。 そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。 テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。 そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。 maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パックあの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に Amazonで見る › 私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。 正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。 その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。 令和の今、思うこと いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。(笑) 便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。 皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた | 次の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う ▶

June 9, 2026

5月29日——昭和が生んだ声と、千年の都を走った地下鉄

五月も末になると、空気がじっとりとしてくる。梅雨の足音がそこまで聞こえてくるような、少し重たい青空が広がる季節だ。昭和の子どもたちにとって、この頃は運動会が終わり、夏休みまでまだずいぶん先という、少し間延びした時期だった。特別なことが起きるわけでもない、ただ日々が流れていく5月の終わり。 でも、5月29日という日は、昭和という時代を語るうえで忘れられないふたつの出来事を抱えている。今日は少し遠回りしながら、その話をしてみたい。 「昭和の女王」は横浜の魚屋の娘だった 昭和12年(1937年)5月29日、神奈川県横浜市磯子区の小さな魚屋「魚増」に、一人の女の子が生まれた。 本名は加藤和枝。のちに「美空ひばり」として、昭和の歌謡界を丸ごと背負って立つ人物となる、その赤ちゃんである。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)だから、ひばりさんとは32年もの開きがある。物心ついたのが昭和50年代に入った頃だから、考えてみれば私はリアルタイムの美空ひばりをほとんど知らない。紅白歌合戦で歌う姿も、テレビの歌番組での映像も、子ども時代の記憶にはほとんど出てこない。 実はそれには理由があった。昭和48年(1973年)、実弟が起こした不祥事のあおりを受けて、ひばりさんは紅白歌合戦への出場を辞退せざるを得なくなった。それまで10年連続で紅組のトリを務めてきた大歌手が、である。私が物心ついた昭和50年代はちょうどその時期と重なっていた。だから、茶の間のテレビでひばりさんの歌う姿をなかなか目にすることができなかったのだ。 その代わり、美空ひばりという名前は、どこか別の形で私の中に刷り込まれていた。母が台所で口ずさむ鼻歌。街のどこかから流れてくるラジオの音。駄菓子屋の軒先でも、銭湯の脱衣所でも、「美空ひばり」という名前が大人たちの間でさりげなく語られた。顔も声もよく知らないまま、「すごい人がいる」という空気だけが漂っていた。子どもの私の中で、美空ひばりはいつしか「テレビに出てこない伝説の人」になっていた。 ひばりさんは9歳でデビューした。終戦直後の昭和21年(1946年)のことだ。焼け野原の横浜で、母・喜美枝が一念発起して「青空楽団」を作り、近所の公民館や銭湯に舞台を設けた。そこで初めて「美空和枝」の名で歌った女の子が、のちに昭和最大のスターになるとは、誰も想像しなかっただろう。戦争に出征した父の壮行会で「九段の母」を歌い、周囲の大人たちを泣かせたのは、まだ6歳の頃だったという。人を泣かせる力は、最初からあの小さな体に宿っていた。 昭和40年(1965年)には「柔」でレコード大賞を受賞した。そのころの私はまだ生まれてもいないが、昭和の茶の間ではひばりさんの歌声が、家族みんなで囲むテレビから流れていたはずだ。歌番組も、ドラマも、映画も。あの時代のひばりさんはまさに全盛期を走っていた。 生涯で発表したオリジナル曲は517曲、レコードの売り上げは8000万枚を超えたという。映画にも160本近く出演した。そんな数字を並べても、ひばりさんという存在の大きさはうまく伝わらない気がする。「女王」とか「昭和の歌姫」とか、どんな言葉を当てはめても、すぐに溢れ出してしまうような人だった。 私がはっきりと「ああ、これが美空ひばりだ」と感じた瞬間は、昭和63年(1988年)の「川の流れのように」だった。長い闘病を乗り越えて、東京ドームのこけら落とし公演で復活を果たしたひばりさんが、晩年に残した曲だ。テレビ画面のなかのひばりさんは、歌っているというより、ただそこに存在しているだけでオーラを放っていた。「伝説」とはこういうことか、と19歳の私は感じた。言葉にならない何かが、画面を通しても伝わってきた。 その東京ドームコンサートは昭和63年(1988年)4月に開かれた。体調は決して万全ではなかった。足腰の痛みはほとんど回復しておらず、肝機能の数値も心もとない状態のまま本番の日を迎えたという。それでもひばりさんは「すべてのお客様に顔を見てもらいたい」と言い、本人の希望で作られた長い花道を、歌い終えたあとに歩いた。5万人の観衆の前で。 その翌年、平成元年(1989年)の6月24日、美空ひばりは52歳でこの世を去った。昭和という元号の最後の年のことだった。死去後、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。 昭和の始まりとともに生まれ、昭和の終わりとほぼ重なるように逝った人。横浜の小さな魚屋に生まれた女の子が、ひとつの時代を丸ごと背負って歌った。5月29日は、そんな奇跡のような声が産声を上げた日でもある。 東京・上野公園に残る美空ひばりの手形。昭和12年(1937年)5月29日生まれ。昭和とともに歌い続け、平成元年に52歳で逝った。(Photo: Daderot / CC0 パブリックドメイン) 地下を走った夢、千年の都の地面の下へ もうひとつ、5月29日の出来事を話したい。 昭和56年(1981年)のこの日、京都市で「烏丸線」が開業した。京都市内初の市営地下鉄である。 私は当時12歳。葛飾に住む中学生だったから、京都の地下鉄開業など直接には関係のない話だ。でも、当時の子どもたちがそうであったように、「地下鉄」というものには不思議な憧れがあった。地面の下をトンネルが通り、電車が走っている。その事実だけで、何かSFのような、冒険のようなわくわく感があった。新しい路線が開業するたびにニュースになった時代で、地下鉄は都市の「現代化」を象徴するものでもあった。 この地下鉄が生まれるまでには、長い長い歴史がある。 京都には、日本最初の一般営業用電車として明治28年(1895年)に開業した路面電車があった。クリーム色と深緑のツートンカラーの車体が烏丸通や四条通を走り、83年間にわたって市民の足となってきた。ところが昭和に入ると自動車が急増した。昭和40年(1965年)に14万台だった京都市内の自家用車は、1980年には38万台と3倍近くに膨れ上がった。古都ならではの道幅の狭い通りを車が埋め、市電は渋滞に巻き込まれて定時運行もままならなくなっていった。 存続を求める署名が27万人分も集まったにもかかわらず、昭和53年(1978年)9月30日、京都市電は全廃された。日本初の路面電車が83年の歴史に幕を閉じた日として、全国的にも大きく報道されたという。廃止後も全国から記念乗車券の注文が殺到し、再販売したほどだった。市民がその消滅をどれほど惜しんだか、伝わってくる気がする。 市電が消えてから、京都市内の公共交通はほぼバスだけになった。渋滞は深刻なままで、バスも定時には走れない。市民は地下鉄の開業を、じっと待ち続けていた。 工事は昭和49年(1974年)に始まった。千年の都の地下を掘るのだから、普通の工事ではすまない。文化財保護法に基づいて、あちこちで埋蔵文化財の発掘調査が行われた。平安京の遺構が眠っているかもしれない土の下を、少しずつ、丁寧に掘り進んでいく。工期が延び、財政難も重なり、何度も計画が見直された。 もうひとつ、この地下鉄には当時としては特別な思いが込められていた。バリアフリーだ。昭和44年(1969年)頃から、車椅子を使う市民や障害者支援団体が何年もかけて京都市に請願を続け、主要4駅にエレベーターを設置することを実現させた。当初の設計から駅のホーム形式を変更するという大きな決断もあった。「バリアフリー」という言葉さえまだ一般的でなかった時代に、市民の声が行政を動かした。千年以上の歴史が積み重なった都市の地下に、新しい時代の思いが込められていたのだ。 そして昭和56年5月29日、北大路駅から京都駅までの6.6キロメートルが開通した。 前夜から駅に並んで始発電車に乗ろうとした中学生たちの話が残っている。深夜に京都駅前をうろついていたら警察官に「こんな夜中にアカン」と叱られ、タクシーで帰宅させられた子もいた。翌朝また早起きして乗りに来たという子もいたというから、その熱狂がしのばれる。新しい地下鉄の始発電車に乗るためなら、お巡りさんに怒られたって構わない。そういう気持ちになれた時代だった。 京都市営地下鉄烏丸線のホームドア。昭和56年(1981年)5月29日に開業した京都市初の地下鉄は、今も千年の都の地下を走り続けている。(Photo: NatsuTV / CC0 パブリックドメイン) 5月29日という日 美空ひばりの誕生日と、京都地下鉄の開業日。一見まったく関係のない二つの出来事だが、どちらも「昭和の時間の積み重なり」というものを感じさせる。 ひばりさんは昭和という時代そのものを声にした。地下鉄は、千年という時間が眠る地面の下を走った。 昭和の時代を生きた私たちは、それとは気づかないまま、そういう大きな流れの中に埋もれて日々を過ごしていた。駄菓子を買って、公園で野球をして、夕暮れになれば家に帰って。大人の世界では大きなことが起きていたのに、子どもの目には届かなかった。 あの頃の街に、美空ひばりの声が流れていたとき、私は何をしていたのだろう。公園でボールを追いかけていたのか、駄菓子屋の前でたむろしていたのか。確かめようのないことだが、あの声は確かにどこかで流れていて、気づかないまま聴いていたはずだ。記憶の底に、あの声は静かに沈んでいる。 5月29日という日付を手がかりに、こうして昭和を掘り起こしてみると、知らなかったことがまだまだ山ほどある。自分が生きた時代のことなのに、知らないことがこんなにある。それが、このシリーズを書き続ける理由でもある。 あなたにとって、美空ひばりという声はどんな記憶と結びついていますか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月28日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月30日~ ▶

May 29, 2026