今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。

令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。

けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。

「光化学スモッグ注意報が発令されました」

あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。

そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。

四日市の石油化学コンビナート。1960年代、この巨大な設備の煙突から出た亜硫酸ガスが、住民を苦しめた。(Photo: CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)


校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった

私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。

注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。

ところが、です。

私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。

放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。

今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。


1970年7月18日、東京の空で起きたこと

光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。

1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました

原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。

この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。

以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。


1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部

そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。

四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。

1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。

法廷で、企業側はこう主張します。

「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」

煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。

しかし判決は、これを退けます。

裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。

さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。

賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。

イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。

このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。


なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか

判決の影響は、思いのほか早く現れます。

企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。

ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。

けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。

このとき私は、小学3年生です。

つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。

私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。

もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。


そして、7月24日生まれのカナリー・ガール

少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。

7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。

1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。

そして私は、その中の奈保子さん一択でした。

まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。

当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。

曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。

1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。

この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。

発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。

つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。


おわりに

今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。

止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。

けれど、決定的に違うことが一つあります。

私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。

そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。

1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。

みなさんの町では、あの夏の「光化学スモッグ注意報」はどんなふうに伝わってきたでしょうか。校内放送でしたか、防災無線でしたか。そして——放送が流れたとき、素直に家へ入りましたか。それとも私たちのように、平気な顔で外へ飛び出していましたか。


重たい話のあとに、少しだけ甘い一枚を。7月24日生まれ、私の「推し」だった河合奈保子さん。この記事で触れた「スマイル・フォー・ミー」も収録された、A面シングルを集めたベスト盤です。あの夏、プロマイドを握りしめていた子どもが、大人になって聴き直すと、なんとも面映ゆい。同じ「1980年組」を通ってきた方に。

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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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