夏休みが、あと五日。

1978年、昭和53年8月26日は土曜日でした。私は9歳、小学3年生。宿題がどうなっていたかは、あえて思い出さないことにします。

その日の夜8時、日本テレビが妙な番組を始めました。翌日の夜8時まで、丸一日、生放送を続けるというのです。

『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の、第1回でした。

第1回24時間テレビの行程。オープニングは芝公園の郵便貯金ホール、フィナーレは代々木公園だった。


土曜の夜8時は、空いていなかった

いま思えば、日本テレビはとんでもない時間に旗を立てました。

1978年の土曜の夜8時といえば、TBSで『8時だョ!全員集合』が生放送されている時間です。1969年10月に始まり、1985年9月まで16年間、毎週土曜の20時から20時54分まで、日本中の茶の間を占領し続けた番組でした。

子供にとって、土曜の夜8時は交渉の余地のない時間帯です。翌日は日曜で、学校がない。その一週間分の解放感の入口に、ドリフが立っていました。

そこへ日本テレビが、丸一日の生放送をぶつけてきた。しかも中身は福祉と募金です。


深夜番組から生まれた企画

この番組の出発点は、意外なところにありました。当時、日本テレビが放送していた深夜番組『11PM』の、世界の福祉を扱った特集です。テレビというメディアで何ができるのか。そこから、開局25年の記念事業のひとつとして企画が立ち上がりました。

ところが、社内の反応は冷たいものでした。

当時の民放は、ひとつの番組をひとつのスポンサーが提供する「一社提供」が主流です。複数のスポンサーが並ぶこの仕組みに、スポンサー側が難色を示しました。さらに、週末のゴールデンタイムは編成が固まっている時間帯です。そこを丸ごと差し出すことに、局内からも反対の声が多く上がりました。

結果、この番組は「一回きり」の約束で放送されることになります。

テーマも掲げられました。「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」──今の目で見ると、驚くほど具体的です。地球を救うという壮大な副題の下に、お風呂と、車椅子と、リフト付きバスが並んでいる。集めたお金を何に使うかが、最初から名指しされていました。

この具体性は、そのまま当時の福祉の水準を映しています。寝たきりの高齢者が風呂に入れない。車椅子が足りない。車椅子のまま乗れるバスが、そもそも存在しない。それらはずっとそこにあって、テレビが取り上げてこなかっただけでした。

「愛は地球を救う」という副題は、いま聞くと少し照れくさい響きがあります。けれども、あの時代にゴールデンタイムで福祉を24時間喋り続けるには、それくらい大げさな旗を立てないと成立しなかったのだろうとも思います。

総合司会は萩本欽一と大竹しのぶ。パーソナリティーには大橋巨泉と竹下景子。そして番組のシンボルとして、ピンク・レディーが立っています。

前の日の記事で、私は昭和51年8月25日のピンク・レディーのデビューについて書きました。あの二人が、その二年後の8月26日、今度は違う立場でテレビの真ん中にいる。日付というのは、たまにこういう並び方をします。


会場を転々とした24時間

第1回には、後の「武道館」がありませんでした。

オープニングは芝公園の郵便貯金ホール。途中のコーナーは麹町の日本テレビのスタジオ。エンディングは代々木公園。場所を転々としながらの24時間でした。日本武道館がメイン会場に定着するのは、第3回、昭和55年からです。

代々木公園のフィナーレには人が殺到し、押し寄せた観客に子供や体の不自由な人が押されそうになり、迷子も出たと記録されています。段取りが完成していない、初回だけの混乱です。

日本テレビ麹町本社と、そびえる送信塔(1961年ごろ)。ここに募金受付電話が置かれた。(Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

そして、募金です。

日本テレビ麹町本社に設けられた受付電話には、189万本の電話がかかりました。そのうち実際につながったのは、3.7パーセントにも満たない7万本程度だったといいます。100本かけて、つながるのは4本足らず。それでも人は、かけ続けました。

日本電信電話公社の600-A2形電話機。あの夜、189万本はこの形の受話器から発信された。(Photo: CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

29局の累計募金額は、11億9,011万8,399円。

この金額は、その後33年間、破られませんでした。更新されたのは2011年──東日本大震災の年です。

189万本のうちつながったのは7万本。29局の累計募金額11億9011万8399円は、33年間破られなかった。


「俺、絶対に起きて全部観る」

当然、私は起きていませんでした。

ただ、この番組が子供の間で話題になっていたことは覚えています。学校で、「俺、絶対に起きて全部観る」なんて言っていた奴がいました。丸一日テレビが続くというだけで、9歳にとっては十分に事件だったのです。誰かが最後まで到達できるのかどうか、それ自体が競技のように受け止められていました。

ちなみに私も、チャレンジしてみようとチャンネルを合わせています。

そして、すぐに断念しました。

番組の中身が、さすがに小学3年生の観続けられるものではなかったからです。寝たきりの高齢者の暮らし、車椅子の話、途上国の福祉。どれも大切な内容だと今なら分かりますが、当時の私には、笑いも歌もないまま画面が延々と進んでいくようにしか見えなかったのだと思います。

考えてみれば、それは番組の側から見れば成功のしるしでもありました。子供が飽きるくらい真面目に作られていた、ということですから。

「絶対に全部観る」と言った奴が、翌週の学校でどう報告したのか。そこは、どうしても思い出せません。


羽根と、「億」という単位

募金そのものは、学校で経験していました。赤い羽根や緑の羽根の募金です。教室で袋を配られ、家から小銭を持ってきて、胸に羽根をつけて帰る。あれが、私にとっての「募金」の入口でした。

ただ、家からテレビに電話をかけた記憶はありません。あの夜、日本テレビに189万本かかったという電話の中に、高砂の我が家からの一本はなかったということです。

画面で読み上げられる金額についても、正直なところ実感はありませんでした。「億」という単位に対して私が受け取っていたのは、ただ「凄くたくさん」という感じだけです。

11億9,011万8,399円。

いま並べてみると、末尾まで一円単位で記録されているところに、この番組の性格が出ている気がします。凄くたくさん、ではなく、一円ずつの積み上げとして数えられている。9歳の私には、そこまで読めませんでした。


裏でドリフをやっていた、その『8時だョ!全員集合』のほうも、いまは映像で残っています。歌のゲストの顔ぶれを眺めているだけで、あの時代の土曜の夜がそのまま出てきます。

8時だョ!全員集合 ゴールデン・コレクション 通常版 [DVD]
ザ・ドリフターズ。沢田研二、郷ひろみ、キャンディーズ、桜田淳子ほか歌のゲストも収録。星4.6(254件)
Amazonで見る ›

続けてしまった、一言

番組が終わろうとしていた代々木公園で、日本テレビの徳光和夫アナウンサーが、会場にいた一人の高校生にマイクを向けました。

その高校生は、こんな意味のことを言ったと伝えられています。欽ちゃん、あの聖火みたいに今日一日で消さないでずっと続けてほしい、消えてしまったらつまらないじゃないか、と。

代々木公園の野外ステージ(2022年撮影)。第1回のフィナーレは、この公園で行われた。(Photo: CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

これに、萩本欽一とタモリが応じます。そして継続を求める声が殺到しました。

急遽、ステージに登壇したのが日本テレビの社長・小林與三次でした。萩本の「また来年もやってくれと言ってますよ」という問いかけに、社長はこう答えます。ご支持いただくのであれば何度でもやります、そういう必要がある限り──。

一回きりの約束は、その場で消えました。

以来、この番組は毎年8月の終わりに放送され続けています。第1回から数えて、今年でもう半世紀に近い。テーマ曲も、マラソンも、武道館も、あの夜にはまだ何ひとつありませんでした。あったのは、丸一日テレビをつけ続けるという無茶な思いつきと、それに応えた189万本の電話だけです。


それからの、8月の終わり

高校時代までは、もちろん野球漬けでした。

8月の最終週といえば、新チームが動き出して、秋の大会に向けて練習が積み上がっていく時期です。土曜も日曜もグラウンドにいました。テレビが丸一日起きていようがいまいが、私のほうが先に寝ていたと思います。

自分に子供ができてからは、意識の向く先が変わりました。8月の終わりの週末は、子供と楽しく過ごすための時間になっていきました。番組がついていたかどうかは、正直あまり覚えていません。ついていたとしても、それは背景の音でした。

そして路線バスの仕事に就いてからは、これまで以上に、子供たちと過ごす時間を大切にしたいと思いながら過ごしています。

不思議なもので、8月の最終週末という同じ位置に、9歳の私と、親になった私と、いまの私が並んでいます。番組のほうは毎年ほとんど同じ顔で戻ってくるのに、こちらの立ち位置だけが、少しずつずれていきました。


夏休みの終わりに置かれた番組

いま思うと、この番組が8月の最終週末に置かれたのは、よくできた偶然でした。

夏休みが終わる。宿題が終わっていない。日曜の夜が来れば、明日からまた学校が始まる。子供にとっていちばん気の重い週末に、テレビだけが眠らずに起きている。

私は路線バスを運転していますから、土曜も日曜も関係なく朝からハンドルを握る週があります。8月の終わりの日曜の夜、車内にいる乗客の顔を見ていると、あの頃の「明日から学校」に似た表情の人が、たまに座っています。

丸一日、テレビが起きている。それだけのことでしたが、9歳の私が住んでいた高砂の家にも、その電波は確かに届いていました。ほんの数分で、私はチャンネルを変えてしまいましたが。

いま、この番組にはさまざまな批判があります。感動の演出の仕方、出演者への謝礼、企画の作り方。どれももっともな指摘だと思いますし、私が擁護する立場でもありません。

ただ、始まりだけを見れば、そこにあったのはずいぶん素朴なものでした。局内では反対され、一回きりで終わるはずで、会場も定まらず、電話は96パーセントがつながらなかった。それでも11億円が集まり、代々木公園にいた名前も分からない高校生が「消さないで」と言い、社長がその場で「何度でもやります」と答えてしまった。段取りのない夜だったからこそ、起きたことだと思います。

夏休みが、あと五日。1978年8月26日の土曜日、私は宿題のことを考えないようにしながら、少しだけチャンネルを合わせて、すぐにやめました。

同じ夜に、いまも続く何かが始まっていたとは、9歳の私は知りようもありません。「俺、絶対に起きて全部観る」と言った奴も、たぶん知らなかったはずです。

みなさんは、第1回をご覧になっていたでしょうか。あるいは、何年のどの回が記憶に残っているでしょうか。よかったら教えてください。


その夜、番組の真ん中に立っていた萩本欽一という人が、テレビに何をしたのか。『スター誕生!』も『欽どこ』も24時間テレビも、ぜんぶ同じ一人から出てきたのだと分かる一冊です。

萩本欽一 昭和をつくった男(ちくま新書)
太田省一/筑摩書房。コント55号から『スター誕生!』『欽ドン!』『仮装大賞』、そして24時間テレビまで。素人をテレビの主役にした「視聴率100%男」の全軌跡。星4.2
Amazonで見る ›

【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧


▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事)

◀ 前の記事:【8月25日・もう一本】私は、ゴミ箱で「UFO」の振り付けを覚えた | 次の記事:(近日公開)