今日は9月28日です。
昭和60年(1985年)のこの日、土曜日の夜8時。TBSの『8時だョ!全員集合』が最終回を迎えました。16年、全803回。日本中の土曜の夜を占領してきた番組の、最後の放送でした。
この番組には、私にとって少し特別な数字がついています。
番組が始まったのは、昭和44年(1969年)10月4日。私が生まれたのは、同じ昭和44年の4月です。つまり全員集合は、私が生後半年のときに始まったことになります。
そして最終回の日、私は16歳の高校1年生でした。
私の人生の最初の16年は、そっくりそのまま、この番組の16年と重なっているのです。

「8時になったら、みんな集まる」
番組名の由来には、こんな話が残っています。
企画の説明会議の席で、スポンサーだったライオン油脂の広告部長が、8時になったらテレビの前にみんなが集まるような番組を作ってほしい、と注文をつけました。それを聞いたプロデューサーの居作昌果さんが、その場で思いついたのが『8時だョ!全員集合』というタイトルだったそうです。
第1回は三鷹市公会堂からの公開録画で、初回の視聴率は12.9%。その後は各地の公会堂や市民会館を回りながら、観客を前にした生放送で、練りに練ったコントを演じ続けます。渋谷公会堂だけで136回、文京公会堂で78回。舞台がぐるりと回る「回り舞台」や、最後にセットが崩れ落ちる大仕掛けは、生放送だからこその迫力でした。

絶頂期は昭和48年です。年間の平均視聴率は43.7%、4月7日の放送では番組最高の50.5%を記録しました。加藤茶さんの「ちょっとだけヨ」が子どもたちの間で大流行したのも、この頃です。その一方で、番組は「子どもに見せたくない番組」の常連でもありました。
昭和48年といえば、私はまだ4歳です。
それでも、加藤さんの「ちょっとだけヨ」を見た記憶は残っています。4歳から5歳くらいの頃でしょうか。高砂の線路沿いの家だったのか、中川の土手のそばの家だったのか、そこははっきりしません。
土曜の夜8時は、父がまだ仕事から帰ってきていない時間でした。テレビの前にいたのは、母と妹と私の3人です。母も一緒になって笑っていました。
世の中では「子どもに見せたくない」と言われていた番組を、我が家では母と子どもが並んで笑って見ていたわけです。8時になったら、テレビの前にみんなが集まる。スポンサーの注文から生まれた番組名そのままの光景が、我が家の土曜の夜にもありました。
私が小学生だった6年間は、ちょうど志村けんさんが人気者になっていく時期と重なります。志村さんが「東村山音頭」を初めて披露したのは昭和51年の3月、私が小学校に上がる直前の春でした。昭和54年には加藤さんとの「ヒゲダンス」が生まれ、昭和55年には「カラスの勝手でしょ」が子どもたちの間で大流行します。

東村山音頭も、ヒゲダンスも、「カラスの勝手でしょ」も、いまでも鮮明に覚えています。土曜の夜に見たギャグは、翌週の学校で必ずまねをしていました。クラスで「お楽しみ会」を開くと、出し物には必ずドリフのギャグが入っていたものです。私もひげを付けて、「ヒゲダンス」をやった覚えがあります。
ドリフの付き人から『全員集合』の人気者になっていった志村けんさんが、自分のお笑いと人生について書いた本です。東村山音頭が生まれた頃の話も出てきます。
小学6年生で、卒業した
5月16日の回で書いたとおり、私は小学6年生の頃、全員集合を「卒業」しました。漫才ブームに乗って、裏番組の『オレたちひょうきん族』を見るようになったのです。家にはテレビが何台かあって、チャンネル争いもなかったように思います。
同じように卒業していった子どもは、全国にたくさんいたのでしょう。
中学生になると、土曜の夜8時に全員集合を見ることは、もうありませんでした。いま思えば、そもそもテレビ自体をあまり見ていなかったのかもしれません。
昭和57年10月9日、全員集合は初めて視聴率でひょうきん族に敗れます。私が中学1年生の秋です。昭和59年には、年間の平均視聴率でも18.2%と、ひょうきん族の19.5%に抜かれました。
その昭和59年の6月16日には、こんな出来事もありました。埼玉の入間市民会館からの生放送が始まる直前、会場の照明が突然すべて消えたのです。放送の機材は外の電源車につながっていたため、放送そのものは止まりませんでした。真っ暗な舞台で懐中電灯を頼りにゲストを紹介し、いかりやさんは「8時9分半だョ!」と掛け声をかけ直したといいます。この夜の視聴率は、いつもより10%ほど高い26.2%でした。
私はこの停電の回を見た記憶はありません。ただ、話題として聞いた覚えはあります。見なくなった番組の出来事が、それでもどこからか耳に入ってくる。全員集合は、まだそういう番組でした。
この停電騒ぎは、のちにスタジオ中心の放送へ切り替わるきっかけのひとつになったともいわれます。秋からは各地の公会堂を回るのをやめ、TBSのスタジオからの放送が中心になりました。私は中学3年生でした。

そして昭和60年7月19日、TBSは9月いっぱいでの番組終了を正式に発表しました。公開の生放送を続けることには限界があり、ナンセンスギャグもやり尽くした。それが理由として挙げられていました。
私が高校1年生の夏です。このニュースを聞いた覚えは、私にはありません。たぶん、気がついたら終わっていた。そんな感じだったのだと思います。
最終回の夜
昭和60年9月28日、土曜日。最終回は、TBSのGスタジオからの生放送でした。
かつてのメンバー、荒井注さんもゲストで顔を見せました。前半は、おなじみの「母ちゃんコント」。後半は番組の名場面集。そしてゲストからドリフの5人に花束が贈られ、いかりや長介さんが、16年間の声援に感謝の言葉を述べました。
最後はいつものように、出演者全員でエンディングの「ビバノン音頭」を歌います。天井からは紙吹雪が舞い、加藤さんが「長い間ありがとう」「元気で!」と呼びかける。観客は総立ちになり、画面には「長い間ありがとうございました」の字幕が流れて、番組は終わりました。

この夜の視聴率は34.0%。
この年の全員集合は、ふだんは15%前後にとどまり、ほとんどの週でひょうきん族の後ろを走っていました。最終回の前の週も15.9%です。それが、最後の夜だけ倍以上に跳ね上がりました。
ふだんは見ていなかった人たち、とうに卒業したはずの人たちが、この夜だけはテレビの前に戻ってきたのだと思います。
では、その夜、16歳の私はテレビの前にいたのでしょうか。
正直に書くと、覚えていません。
最終回を見たのかどうか。見たとすれば、どこで、誰と見たのか。3割を超える視聴率を記録したその夜のことが、私の記憶からはすっぽり抜けています。
4歳の頃、母と妹と並んで「ちょっとだけヨ」に笑った場面は覚えているのに、16歳の最終回は覚えていない。いちばん古い記憶ははっきりしているのに、いちばん最後の記憶がない。子どもの頃の記憶というのは、そういうものなのかもしれません。
その最終回の「母ちゃんコント」を収めたDVDです。16年分の中から選び抜かれたコントと一緒に、あの夜の紙吹雪がもう一度見られます。
番組が終わっても
全員集合のあとの土曜8時には、昭和61年1月から『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まります。ドリフの笑いは、形を変えて続いていきました。
令和2年(2020年)3月、志村けんさんが亡くなりました。その数日後、TBSの朝のワイドショーは、いかりやさんの「8時だョ!」の掛け声で放送を始めたそうです。朝8時からの番組でした。番組が終わって35年たった春の朝に、あの掛け声が流れたのです。
そして、あの笑いは、全員集合を知らない世代にも届いています。
ある日のこと、わが家の子どもが『8時だョ!全員集合』の動画を見て、ゲラゲラ笑っている様子を見かけたんです。そのときに改めて思いました。おもしろいものは、時代を超えても面白いのだと。
昭和48年ごろ、テレビの前で母と妹と笑っていた私。その同じ番組で、半世紀たったいま、今度はわが家の子どもが笑っています。
おわりに
『8時だョ!全員集合』は、私が生まれて半年ほどの頃に始まり、16歳、高校1年生のときに終わりました。
考えてみれば、私の人生の最初の16年間は、毎週土曜日の夜にドリフターズの笑いがあった時代でした。
小さい頃は、ただただ面白くて笑っていました。大きくなるにつれて、学校で友達とギャグを真似したり、「全員集合見た?」と話したりしました。
最終回の夜の記憶はありません。それでも、番組が終わる寂しさと同時に、自分自身も子どもから少しずつ大人へ向かっていることを、どこかで感じていたのかもしれません。
今振り返ると、『8時だョ!全員集合』は、ただのテレビ番組ではありませんでした。生まれてから16歳までの自分の成長を、一緒に見届けてくれた「土曜日の記憶」そのものでした。
あの頃、家族と一緒に笑った時間は、今でも私の中にちゃんと残っています。
昭和60年9月28日。あなたは最終回の夜、テレビの前にいましたか。それとも、もうとっくに卒業していたでしょうか。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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