今日は7月31日。7月の最終日です。

夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。

そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。

お昼どき、太陽が欠けたのです。

夏の真昼、太陽が三日月のように欠けていく。(Photo: CC BY 4.0, via Wikimedia Commons ※イメージ)


昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた

昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。

日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。

この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。

では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。

太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。

半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。

太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。

それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。

ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。


下敷きと、煤ガラスと

さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。

太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。

いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。

ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。

そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。

日食のとき、木漏れ日はひとつ残らず三日月になる。足元いっぱいに映る、小さな太陽たち。(Photo: CC0, via Wikimedia Commons)

夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。


私の記憶

昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。

正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。

夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。

ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。

そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。

当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。

そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。

じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている広場に、子どもたちが集まってラジオ体操。

じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。

最終日の朝、テントの前に景品を待つ列ができる。この光景も、45年前とほとんど同じだ。

私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。

自転車のカゴの中の「ちょうちんセット」と、のり塩のポテトチップス。45年前と、ほとんど同じ景品だ。

——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。


令和の空を見上げる

時代は流れて、令和になりました。

平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。

2012年5月21日、日本で観測された金環日食。(Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。

道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。


おわりに

次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。

昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。

そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。


昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。

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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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