九月九日。昭和六十二年(一九八七年)のこの日、日本の地図の上で、一本の線がようやくつながりました。

埼玉県の川口ジャンクションと浦和インターチェンジのあいだ、わずか四・八キロ。この短い区間の開通で、東北自動車道は全線開通しました。同じ日、首都高速川口線も開通して、首都高と東北道がひと続きになります。

結果、青森インターチェンジから熊本の八代インターチェンジまで、約二千キロが高速道路一本でつながりました。北の端から南の端まで、一度も一般道に降りずに走り切れる。日本列島に、初めて縦の背骨が通った日でした。

最後のピースは4.8キロ。そこがつながって、約2,000キロが一本になりました。

曜日でいえば、水曜日。その日、私は十八歳の高校三年生でした。


十五年かかった、一本の道

東北道が最初に開通したのは、昭和四十七年(一九七二年)十一月十三日。岩槻インターから宇都宮インターまでの九十二・五キロです。私はまだ三歳、葛飾の高砂で、線路のそばの家に暮らしていました。

東北自動車道 15年の歩み。北の端は、東京のすぐ隣より先に届きました。

そこから東北道は、少しずつ北へ伸びていきました。矢板、白河、郡山、白石、仙台、一関、盛岡。年に一区間、二区間というペースで、東北の背骨が一節ずつつながっていきます。そして昭和五十四年(一九七九年)九月、私が小学四年生の秋に、ついに青森インターまで到達しました。

はるか北の青森までは、昭和五十年代のうちにもう届いていたのです。

東北自動車道の北の終点(青森市)。全長680キロ、おつかれさまでした。(2019年撮影/Photo: CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

ところが、です。東京にいちばん近いところが、最後まで残りました。浦和から川口までの四・八キロ。開通は、青森到達から八年も後のことでした。

浦和インターチェンジ。ここから川口ジャンクションまでの4.8キロが、最後の空白でした。(2010年撮影/Photo: CC0, via Wikimedia Commons)

事業費は三百五十億円。一キロあたり七十億円を超えます。人家の密集した都市部に高速道路を通すのは、山を貫くのとはまるで違う難しさがあったのでしょう。いちばん短い区間が、いちばん最後まで残った。地図の上のほんの数ミリを埋めるために、十五年が必要だったわけです。


「葛飾川口線」という名前

同じ日に開通した首都高速川口線のほうにも、葛飾に住む者として見逃せない話があります。

首都高川口線は、足立区の江北ジャンクションから、埼玉県川口市の川口ジャンクションまでを結ぶ路線です。地図をなぞればわかるとおり、葛飾区は通っていません。

首都高速川口線(新井宿付近)。案内標識の「川口線 S1」。(2008年撮影/Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

ところが、この道路の道路法上の正式な路線名は、「東京都道・埼玉県道242号 高速葛飾川口線」。葛飾、なのです。

なぜかというと、この路線名の指定区間には、川口線そのものに加えて、中央環状線の小菅ジャンクションから江北ジャンクションまでが含まれているからです。小菅は、葛飾区。つまり法律の上では、この道は葛飾から始まって川口に至る道、ということになっている。

青森から八代までをつないだ最後のピース。その出発点に、こっそり「葛飾」の名前が入っていた。地元の名が、日本列島の背骨の付け根に刻まれていたわけです。


十八歳の秋、私は完全に凍りついていた

その歴史的な水曜日、私は何をしていたか。正直に書きます。完全にフリーズ状態でした。

七月二十三日、神宮第二球場での試合を最後に、私の高校野球は終わりました。二対三。あれほど毎日を埋め尽くしていたものが、ある日ぱたりとなくなった。そのあとに残ったのが、九月の私でした。

進路について、やりたいこと、やれること、やらねばならないこと。そのすべてを棚上げしてきた当然の結果です。棚上げ、と書きましたが、正確に言えば違います。考えたくなかったから、逃避していた。それが正しい。

だから、この日のニュースについては、まったく覚えがありません。青森から八代までが一本になった、と新聞もテレビも伝えていたはずですが、十八歳の私には何ひとつ届いていませんでした。

日本の道が縦につながったその日、私はどこへも進めずに止まっていた。並べて書いてみると、ずいぶん皮肉な取り合わせです。


車のない家に育って、二十歳で運転席に座った

そもそも子どものころ、うちには車がありませんでした。だから「高速道路」が、生活の中にまったくなかったのです。

高速道路は、テレビの中や地図の上にあるものでした。走ったこともなければ、乗せてもらったこともない。

私が自分で高速道路を運転するようになったのは、一年浪人して大学に入り、運転免許を取って、ローンで車を買ってからです。

当時は、車がなければ彼女もできないような時代の雰囲気がありました。思い込みだったのかもしれませんが、少なくとも私はそう感じていました。

そして、自分の車を持てたときは、本当に嬉しかった。ただ運転しているだけでも、喜びがこみ上げてきました。どこへ行くというわけでもなく、ハンドルを握っているだけで楽しい。あの感覚は、たぶん一生に一度しか味わえないものです。


その道を、私は当たり前のように走っていた

大学時代、私はスキーによく出かけました。宮城県の蔵王、岩手県の安比高原。東北道を使って、いろいろなところへ行きました。

──ここで、話がつながります。

葛飾から東北のスキー場へ向かうということは、首都高から川口ジャンクションへ入り、東北道に乗るということです。つまり私は、あの四・八キロを通っていたのです。

川口ジャンクション。首都高と東北道が出会う場所です。(2007年撮影/Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

十五年かかったあの最後の区間。三百五十億円かけて埋められた地図の空白。それを私は、開通からたった二年後に、何も知らないまま、当たり前の顔をして通過していた。「せっかくつながった道だ」などとは、これっぽっちも思っていません。スキー場のことしか頭になかったはずです。

道というのは、そういうものなのでしょう。できあがってしまえば、最初からそこにあった顔をする。誰が苦労してつないだかなど、走っている人間はいちいち考えません。


荷物を運ぶ側から見えた道

大学を出て信用金庫に入り、その後、佐川急便へ移りました。新木場のデポです。

意外に思われるかもしれませんが、佐川急便時代に仕事で東北道を走ったことはありません。担当エリアを回って荷物を集め、届けるのが私の仕事でした。

けれど──と、いまになって思うのです。

私が集荷した荷物は、高速道路のおかげで全国各地へと迅速に届けられていました。反対に、全国各地から、私の担当エリアのお客さまあての荷物が到着していました。当たり前のように毎日を過ごしていましたが、それってとんでもないことですよね。

葛飾で受け取った小さな段ボールが、翌日には青森にある。青森で出された荷物が、翌日には私の手元にある。それを支えていたのが、昭和六十二年九月九日に一本になった、あの背骨でした。

いま私は路線バスの運転士ですから、仕事で高速道路を使うことはありません。けれど、無関係でもないのです。

高速道路が通行止めになると、本来そこを走るはずだった車が下の道へ流れてきて、思わぬ渋滞が発生します。地上の道と高架の道は、そうやってつながっています。


その高速道路そのものを、まるごと一冊で扱った新書があります。なぜサービスエリアはあの間隔なのか、料金はどう決まっているのか。毎日ハンドルを握る人ほど、たぶん面白く読めます。

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九月九日は、「救急の日」でもある

九月九日は、救急の日でもあります。「救(きゅう)」「急(きゅう)」の語呂合わせで、昭和五十七年(一九八二年)に厚生省が定めました。私が中学一年生の年です。

救急車。サイレンが聞こえたら、バスを寄せます。(2003年撮影/Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

全線開通と救急の日が同じ日付にあるのは、ただの偶然です。けれど、道について考えていると、この二つはどこかでつながっている気もしてきます。

毎日、決められた道を走り、決められたバス停にお客さまをお送りする。そんな仕事をしていると、道路というものを、以前とは少し違った目で見るようになりました。

特に強く感じるのが、緊急車両に道を譲るときです。

サイレンが聞こえてくると、バスを安全な場所に寄せて、救急車や消防車が通れるようにします。渋滞しているときなどは、前後の車も一斉に動いて、ほんの少しずつ道を空けていく。お互いの安全が最善になる状況を見計らって、進路を譲る。日常的にあることです。

救急車がその間を通り抜けていくのを見送ると、「どうか間に合ってくれ」と、心の中で思います。

その中にどんな人が乗っているのかは分かりません。突然倒れた人かもしれない。交通事故に遭った人かもしれない。家族が必死になって呼んだのかもしれない。

でも、そこにいるのは、誰かにとって大切な一人の人です。

バスの運転をしていると、道路は単に車が走るための場所ではないのだと、改めて感じます。

急いでいる人もいる。仕事に向かう人もいる。病院へ向かう人もいる。家族のもとへ帰ろうとしている人もいる。そして、その中には、一刻を争っている人もいる。

そう考えると、「道は誰のためにあるのだろう」と思うことがあります。

もちろん、道路はみんなのためにあります。だからこそ、自分だけが少しでも早く進もうとするのではなく、時には誰かのために止まることも必要なのだと思います。

路線バスも、道路を走る一台の車にすぎません。けれど、その一台のバスの中には、たくさんの人が乗っています。高齢の方もいれば、学校へ向かう子どももいる。仕事に向かう人も、病院へ行く人もいる。

だから私は、ハンドルを握るとき、「自分が早く走ること」よりも「みんなが無事に帰ること」を大切にしたいと思っています。

救急車に道を譲ることも、その一つです。ほんの数秒、あるいは数十秒、自分たちが立ち止まることで、誰かの命を救うための時間を生み出せるかもしれない。

道路は、競争する場所ではない。誰かを先に行かせることも、誰かのために止まることもできる。

毎日ハンドルを握っていると、そんな当たり前のことが、以前よりずっと身近に感じられるようになりました。

そして今日も、サイレンが聞こえたら、私はバスを寄せます。

「どうぞ、先に行ってください」

そう心の中で言いながら。


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おわりに

昭和六十二年九月九日、四・八キロがつながって、日本列島は縦に一本になりました。

その日、十八歳の私は何も知らずに凍りついていて、二年後には何も知らないままその道を走っていて、やがて荷物を運ぶ側になり、いまは人を運ぶ側になりました。

道は、誰かが土地を手放し、誰かが設計し、誰かが汗をかいて作ったものです。三百五十億円の四・八キロも、家の前のバス通りも、そこは同じ。当たり前のように走っている道は、当たり前ではない。

道路は、みんながそれぞれの人生を運んでいく場所なのだと思います。

みなさんが初めて高速道路に乗ったのは、いつ、どこへ向かうときでしたか。窓の外に見えた景色を、覚えていらっしゃいますか。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

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