夏休みが終わった翌朝のことを、私はいまだに体が覚えている。
久しぶりのランドセル。少し重くなった気がする体。校庭に集まった同級生の、日焼けした顔。そして、二学期の始業式が終わったあとに必ずやってきた、あの時間。
「訓練、訓練。ただいま大きな地震が発生しました」
9月1日は、二学期の始まりの日であると同時に、防災の日だった。
防災の日は、なぜ9月1日なのか
防災の日が定められたのは、昭和35年(1960年)の閣議了解による。私が生まれる9年前のことだ。
日付の由来は二つある。一つは、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したこと。もう一つは、この時期が暦の上で二百十日にあたり、台風の襲来しやすい厄日とされてきたこと。地震と風水害、日本を襲う二つの災いが、この一日に重ねられている。

つまり防災の日は、何かが「始まった」記念日ではない。忘れないための日として作られた日だ。
子どもの頃の私は、そんな由来など何も知らなかった。ただ、9月1日には訓練があるものだと思っていた。理由を考えたことすらなかった。
防災頭巾と、「お・か・し」
私の記憶にある避難訓練は、いつも同じ手順だった。
防災頭巾をかぶって机の下にもぐる。その後は校庭に整列して、集団下校という流れだった。
合言葉は「お・か・し」。おさない、かけない、しゃべらない。三つだけ。今の学校では「おかしも」「おかしもち」と、後ろに「もどらない」「ちかづかない」が足されているらしいが、私たちの頃は三つで足りていた。

椅子の背にくくりつけてあった防災頭巾は、ふだんは座布団を兼ねていた。あれをかぶって机の下にもぐると、視界が急に狭くなる。木の床の匂いと、あちこちで押し殺した笑い声。訓練というより、少しだけ非日常の遊びに近かった。

そもそも防災頭巾という道具は、戦時中の防空頭巾の流れをくむものだといわれる。関東大震災と空襲、その両方を経験した街の学校に、布一枚の備えが座布団の顔をして残り続けた。私たちはその由来を知らないまま、毎日それに座っていたことになる。
校庭に整列したあとは、そのまま集団下校だった。地区ごとに並び、上級生が先頭に立って歩く。訓練の日だけは、いつもの帰り道が少しだけ儀式めいて見えた。もっとも、角を曲がって班が解散してしまえば、あとはいつもと同じ寄り道である。
いま売られているものも、形はほとんど変わっていない。アルミ加工で、耳穴が開いていて、たたむと座布団になる。あの銀色を店で見かけると、木の床の匂いまで戻ってきます。
昭和53年、世の中が「地震」を意識しはじめた
ただ、私の子ども時代の避難訓練は、単なる年中行事ではなかったのかもしれない。
昭和51年(1976年)の秋、いわゆる東海地震説が唱えられた。駿河湾を震源とする巨大地震が、いつ起きてもおかしくない――そういう指摘だった。政府は観測体制の強化に動きはじめる。
そして昭和53年(1978年)。1月14日に伊豆大島近海地震が起き、6月12日には宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、仙台を中心に死者28人。このうち18人が、ブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている。東京でも震度4を記録した。その三日後の6月15日、大規模地震対策特別措置法――いわゆる大震法が制定される。地震の直前予知を前提にした法律は、国内でこれ一つしかない。

学校でも家でも、地震の話はたぶんされていたと思う。ただ正直に言うと、小学生当時の私は、自分ごととしては受け止めていなかった。どこか遠い話だった。
けれど、ブロック塀については注意された。これははっきり覚えている。
なにしろ本当にあちこちにブロック塀が立ち並んでいて、私を含む子どもたちは日常的にそのブロック塀の上に上がって、そこを歩いていたのだから。塀の上は近道であり、平均台であり、ちょっとした冒険だった。大人が真顔で「あれは危ない」と言いはじめたとき、私は危険よりも、遊び場を一つ取り上げられたような気分のほうを強く覚えている。

仙台で18人が亡くなった、その事実と私の通学路が地続きだったことに気づくのは、ずいぶん後になってからだ。
葛飾の子どもにとっての災害は、水だった
もっとも、葛飾で育った私にとって、災害という言葉が最初に結びついたのは地震ではなかったかもしれない。
葛飾区は東京の東部低地にあり、区の大部分がいわゆるゼロメートル地帯だ。荒川と江戸川に挟まれ、中川が区の真ん中を流れている。台風が近づくたび、大人たちの顔つきが変わる土地だった。
台風に備えて、まず雨戸を閉める。現在のように軽く閉められるものじゃなかった。戸袋にしまってあって、そこから木製の戸に青色のとたん板が張られた雨戸2枚を引っ張りだすのだが、小学校低学年の頃の私では力が足りなかったんじゃないかと思う。父か母が閉める音を、家の中で聞いていた気がする。
我が家は私が保育園の年中か年長の時に、高砂駅の近くから、同じ高砂の中川の土手近くへと引っ越していた。だから台風などの大雨のあとには、友達と中川の土手へ行き、増水した川を見に行った。
やっちゃダメなやつである。

いつもは穏やかな中川が、茶色く濁って速く流れている。あの光景を見に行くことが、子どもにとってどれほど危ない行為かなど、当時の私は考えもしなかった。ブロック塀の上を歩いていたのと、まったく同じ神経である。
家の押し入れには、銀色のナップサックがあった。非常持ち出し袋だ。中を覗いたことはなかったし、実際に使われることもなかった。良かったと思う。
二百十日という言葉が防災の日の由来になっているのも、思えばこの土地の感覚に近い。地面が揺れることより、水が上がってくることのほうが、ここでは身近だった。
あの銀色のナップサックにあたるものを、いまは自分で用意する番になりました。中身を一から揃えるのは骨が折れるので、まずひとつ、封を切らずに置いておく。それだけでもずいぶん違うと思います。
平成23年3月11日、私はバスの運転席にいた
遠い話だったものが、自分ごとになる日がいつか来る。子どもの私はそれを知らなかった。
東日本大震災。当時の私は路線バスの運転士で、あの日も乗務中だった。
走っているバスのハンドル越しにも、はっきりとわかる強い揺れだった。バスを路肩に停め、揺れが収まるのをじっと待つ。お客様を乗せたまま、車内で過ごしたあの数分間の長かったこと。
やがて揺れが収まり、運行を再開したが、本当の異変が始まったのは夕方の帰宅ラッシュからだった。
鉄道がすべて止まっている。動いているのは、バスとタクシーだけ。そこへ、家族を迎えに行く車が都内へどっと流れ込み、道路は身動きのとれない大渋滞になった。私のバスは営業に出たまま、その渋滞のただなかに、お客様を乗せたまま立ち往生した。歩道には、家路を歩く人の列が夜まで途切れることなく続いていた。
結局、車庫に戻れたのは、日付が変わった夜中の3時頃だったと記憶している。
防災頭巾をかぶって机の下にもぐる訓練を、私は何度も繰り返してきた。けれど運転席には机がない。もぐる場所もない。あの日わかったのは、守るのは自分ではなく、後ろに乗っている人たちだということだった。
訓練は、今も続いている
毎年3月11日には、全車に防災訓練の一斉無線が流れる。大地震が起きたという想定の無線だ。実際にバスを停車させることはしないが、意識付けにはなっている。
もう一つ、日々の運行のなかで防災を意識する瞬間がある。走行中、突然お客様のスマホが「ブイッ、ブイッ」と大きな音で一斉に鳴りだす、あの緊急地震速報だ。
あの音が鳴ると、車内の空気が一瞬で変わる。運転席の私も緊張する。どこで停めるか。橋の上か、高架の下か。後続車はどうか。頭の中で一気に条件を並べながら、何事もなく通り過ぎることを願っている。
思えばあれは、抜き打ちの避難訓練のようなものだ。防災頭巾ではなくスマートフォンが、非常ベルの代わりを務めている。
忘れないための一日
防災の日は、記念日というより約束のような日だと思う。
103年前の9月1日を忘れない。そのために毎年、この日を置いておく。子どもの頃の私は意味も知らずに机の下にもぐり、その足でブロック塀の上を歩いて帰っていたけれど、あの反復には確かに意味があった。意味を知らないまま体に入れておくことこそが、訓練なのかもしれない。
夏休みが終わった朝の、少し気の抜けた空気のなかで鳴る非常ベル。あれは、一年でいちばん平和な日に、いちばん物騒なことを想像させる仕掛けだった。
そしていま、私はハンドルを握って同じ日を迎える。
みなさんの学校では、9月1日の避難訓練はどんなものでしたか。防災頭巾でしたか、それともヘルメットでしたか。合言葉は「お・か・し」でしたか。よろしければ教えてください。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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