8月30日 ── 世界の王が「800」に届いた日|昭和の今日は何があった日?

昭和53年(1978年)8月30日。水曜日でした。 夏休みは、あと2日。9歳、小学3年生の夏の終わりです。 その日の昼間、私が何をしていたかといえば、たぶんプールに行ったか、路地で野球をしていたか、セミを追いかけていたか。宿題のことも気にはなっていたはずですが、それ以上に「今日、何して遊ぶ?」で頭がいっぱいの毎日でした。 そして、その日の夜。私はテレビの前にいました。 後楽園球場で、ひとつの数字が動いた夜です。 800。 1回、大川浩から 相手は横浜大洋ホエールズでした。この年、大洋は川崎から横浜に本拠地を移し、チーム名も「横浜大洋ホエールズ」に変わったばかりでした。 1回。マウンドにいたのは大川浩投手。王貞治がその球を捉え、打球は後楽園のスタンドへ飛び込みました。通算800号ホームラン。 試合が始まってすぐの、あっけないような一発でした。もっとも、王貞治のホームランというのは、たいていそういうものだったのかもしれません。物語のクライマックスのように打つのではなく、ごく普通の顔をして、当たり前のように打つ。そういう打者でした。 このとき王は38歳。プロ20年目のシーズンです。 テレビの前にいた9歳 私は、その瞬間をリアルタイムで見ていました。 9歳の私が「800号」という数字の持つ本当のすごさを理解していたかというと、正直、そんなことはありません。それでも「王さんが800本打った」ということが、とてつもない記録なのだということは、子どもなりに分かっていたと思います。 当時の私にとって、王さんはテレビの中にいる特別な存在でした。巨人の4番で、ホームランを打つのが当たり前のような人。「王さんなら打つでしょ」という感覚も、どこかにはあったのかもしれません。 ただ、この800号だけは、それまでの「ホームランをたくさん打つ王さん」とは少し違って見えました。800本。子どもにも分かりやすい、大きくて、きれいな数字です。「すごいことをやったんだな」という印象が、いまも強く残っています。 新聞やニュースで後から知ったのではなく、テレビでその瞬間を見ていた。振り返ってみると、これはずいぶん貴重な記憶です。 「800」という数字が持っていた重さ いま「800本」と聞いても、実感がわきにくいかもしれません。何しろその後、王自身が868本まで積み上げてしまったからです。800はあくまで通過点で、記録としては868のほうが有名になりました。 けれど、あの当時の800には、独特の手ざわりがありました。 前の年、昭和52年(1977年)9月3日に、王はハンク・アーロンの記録を抜く通算756号を放っています。世界新記録でした。その2日後の9月5日には、第1回の国民栄誉賞を受けています。この賞は、王を表彰するために新しく作られたようなものでした。 つまり、王貞治はすでに「世界一」だったのです。ゴールテープはもう切っていた。それなのに、そこから1年足らずで、さらに44本を積み増して800に届いた。 昭和の子どもにとって、王貞治は「記録を作る人」ではありませんでした。「記録が、あの人の後ろからついてくる人」でした。誰も走っていない道を、ひとりで先へ先へと進んでいく。800という切りのいい数字は、そのことをあらためて教えてくれる数字だったのだと思います。 その道を、本人の言葉でたどれる一冊があります。早実の投手だったころから、打者への転向、一本足打法、そして世界記録まで。当時テレビの前にいた側からすると、答え合わせのような本です。 もっと遠くへ(私の履歴書)王貞治/日本経済新聞出版。早稲田実業のエースだった少年時代から、巨人V9、一本足打法、ハンク・アーロン超えまでを本人が語った自伝。星4.4 Amazonで見る › 中継が終わってからが、私の時間だった 当時のナイター中継は、9時前に終わってしまうこともありました。試合はまだ続いているのに、画面が切り替わってしまう。あれが子どもには耐えられませんでした。 だから、中継が終わると布団に入り、イヤホンを耳に突っ込んで、ラジオで続きを聴くのです。家族に聞こえないように、小さな音で。親に叱られた記憶は、不思議とありません。 布団の中で目を閉じて、アナウンサーの声だけを頼りに試合を追う。テレビで見た場面を思い出しながら、「今、どうなっているんだろう」「巨人は勝っているかな」と想像していました。私にとって後楽園球場は、映像であると同時に、あの「音」でもあったのです。 そして、あの年の巨人の打順は、いまでも口をついて出てきます。 1番・センター柴田勲。2番・セカンド土井正三。3番・レフト張本勲。4番・ファースト王貞治。5番・ライト柳田真宏。6番・サード高田繁。7番・ショート河埜。8番・キャッチャー吉田孝司。9番・ピッチャー堀内恒夫。 こうして並べてみると、本当にすごい面々です。柴田選手から始まって、張本選手、王選手と続く打線には、子ども心にも迫力がありました。私がいちばん好きだったのは、やはり王さん。それから、柴田選手の俊足と、堀内投手のピッチングにも憧れていました。 そして長嶋茂雄さんは、このときすでに監督でした。私は長嶋さんの現役時代を詳しく知りません。「昔の巨人の大スターで、今は監督をしている人」という印象でした。その一方で、王さんはまだグラウンドに立ち、4番を打っていた。 長嶋さんが巨人の歴史を象徴する人だとすれば、王さんは、その歴史をいまもグラウンドで続けている人。9歳の私の中で、ONはそういう二人でした。 翌日の路地は、全員が一本足になる 王貞治の一本足打法は、昭和の子どもにとって「真似するもの」でした。 家の前の、幅4メートルほどの路地。プラスチックのバットとビニールボール。細かいローカルルールで成り立っていた、あの野球です。あそこで右足を高く上げてみた子どもは、日本中に何百万人といたはずです。もちろん、上げたところで当たりません。ぐらぐらして、空振りして、笑われて終わりです。 それでも、やりました。特に、王さんが前の晩にホームランを打った翌日は、絶対にやりました。誰に言われるでもなく、その日の路地はみんな一本足になるのです。 だとすれば、800号の翌日、8月31日の路地の光景も、想像がつきます。夏休み最後の日、宿題を積み残した小学生たちが、全員そろって右足を上げていた。当たらなくても、いいのです。あの形をとった瞬間だけ、自分が王貞治になれたのですから。 そして、優勝はヤクルトのものになった ここから先は、巨人ファンにはあまり楽しくない話です。 昭和53年の巨人は、長嶋監督の4年目。8月が終わった時点で首位に立っていました。2位ヤクルトとは1.5ゲーム差。8月下旬には一時4.5ゲーム差をつけ、優勝マジックの点灯目前まで迫っていたのです。 王が800号を打ったのは、まさにその、いちばん高いところにいた時期でした。 ところがそこから、チームは坂を転げ落ちるように失速します。3試合連続サヨナラ勝ちで勢いづくヤクルトとは対照的に、巨人は下位相手に取りこぼしを重ねた。10月4日、優勝を逃すことが決まりました。日本一になったのは、広岡達朗監督のヤクルト。球団創立以来、初めての優勝でした。 あの驚きは、いまも覚えています。万年弱小と言われていたヤクルトが、広岡監督のもとで優勝してしまった。子どもの世界の常識が、ひっくり返ったような出来事でした。 そして王さんは、この2年後、昭和55年(1980年)11月4日に現役を引退します。通算868本。 「まだ早い。もっと見ていたい」 それが、当時の正直な気持ちでした。800号を打ったあの夜からたった2年で、テレビの中の4番打者がいなくなってしまう。子どもだった私には、うまく飲み込めませんでした。 800号は、坂の頂上で打たれた一本だったのです。 800という数字を、いま数え直す 大人になって、この数字を別の角度から見るようになりました。 いま、私の子どもが野球をやっています。その姿を見ているからこそ、800号という数字が、当時以上にとんでもないものに感じられるのです。 子どもが一本ホームランを打つだけで、親は大騒ぎです。練習をして、試合に出て、何十打席、何百打席と積み重ねて、その中でようやく一本が出る。それを800本。 ...

August 30, 2026

8月29日 ── 夕方の再放送で、私はオスカルに出会った|昭和の今日は何があった日?

8月29日は「ベルばらの日」と呼ばれています。 1974年(昭和49年)のこの日、兵庫県の宝塚大劇場で、宝塚歌劇団月組による『ベルサイユのばら』の幕が上がりました。 私は当時5歳。宝塚も、少女漫画も、フランス革命も、まだ何ひとつ知らない子どもでした。それでも数年後、この作品は思いがけない形で私の日常に入り込んでくることになります。 「人間に演じられるわけがない」 原作は池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』。連載が始まったのは1972年、『週刊マーガレット』でのことでした。舞台化は、その連載が終わった翌年の話になります。 少女雑誌の連載でフランス革命をやる、というのは、当時としてはかなり無茶な企画だったはずです。主人公のオスカルは、将軍家の末娘として生まれながら、家を継ぐために男として育てられた女性。実在の人物ではありません。その架空の一人を、マリー・アントワネットとフェルゼンという実在の歴史の中に立たせてしまった。この一手が、のちのすべてを決めたのだと思います。 昭和40年代の後半、宝塚歌劇団は苦しい時期にありました。テレビが各家庭に行き渡り、スターの姿が茶の間で手軽に見られるようになった時代です。劇場には空席が目立つようになっていました。 そこで、当時まだ演出部門の若手だった植田紳爾さんが、この漫画の舞台化を発案します。ところが制作を発表すると、熱狂的な原作ファンから抗議が殺到しました。あの物語を、あのオスカルを、生身の人間が演じられるわけがない、と。 猛烈な反発に、現場の決心は揺らぎます。その時に演技指導として現れたのが、往年の映画スター・長谷川一夫さんでした。 長谷川一夫といえば、戦前から戦後にかけての日本映画を代表する二枚目です。その人が、少女漫画を原作にした宝塚の舞台に関わる。今の感覚で言えば、相当に思い切った起用でした。 長谷川さんが持ち込んだのは、歌舞伎で培われた「見せ方」の技術だったと言われています。どう立つか、どこで止まるか、どの角度で客席に顔を向けるか。漫画のコマの中でしか成立しないはずだった美しさを、生身の人間の身体で再現するための、具体的で身も蓋もない技術です。抗議していた原作ファンを黙らせたのは、理屈ではなく、その一点だったのだと思います。 そして1974年8月29日、初演の幕が上がりました。オスカルを演じたのは、当時の月組トップスター・榛名由梨さん。マリー・アントワネットは初風諄さんでした。 二年で140万人 結果はご存じの通りです。 人気に応える形で、翌年以降、花組・雪組・星組と組を替えての上演が続きました。地方公演も含め、シリーズで動員した観客はおよそ140万人。1974年は、奇しくも宝塚歌劇団が創立60周年を迎えた年でもありました。 オスカルを演じた榛名由梨さん、汀夏子さん、鳳蘭さん、安奈淳さんの4人は「ベルばら四強」と呼ばれ、第一次ベルばらブームの立役者になりました。同じ年、作品は文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。 空席の目立っていた劇場が、チケットの取れない劇場に変わった。昭和の芸能史の中でも、これほど鮮やかな逆転はそう多くありません。 面白いのは、このブームが「もともと宝塚を知っていた人」の中で起きたものではなかったことです。漫画から入ってきた人、それまで劇場に足を運んだことのなかった若い人たち。舞台化に反対していた人たちが、いちばん熱心な客になった。反対の声が大きかったということは、それだけ深く愛されていたということでもあったのでしょう。 五歳の私は、仮面ライダーだった さて、その1974年8月、5歳の私です。 私は宝塚とも少女漫画とも、まったく無縁でした。興味があったのは、仮面ライダーとウルトラマン。それだけです。 同じ夏、同じ日本で、大人の女性たちが劇場に押し寄せてフランス革命に泣いていた。その一方で、葛飾の五歳児はテレビの前で変身ポーズをとっていたわけです。同じ時代を生きていても、見ている世界はまるで違う。「昭和の今日は何があった日?」を書いていると、こういう場面によく出くわします。 1979年、水曜の夜 『ベルサイユのばら』は、その後アニメになりました。 1979年(昭和54年)10月10日から翌1980年9月3日まで、日本テレビ系で全40話が放送されています。制作は東京ムービー新社。オスカルの声は田島令子さん、アンドレは志垣太郎さん。総監督に長浜忠夫さん、途中から出崎統さんが引き継ぎました。 放送開始の1979年10月、私は小学4年生の秋です。 ただ、正直に書きます。この水曜夜の本放送を、私は見ていません。一つ違いの妹も見ていませんでした。 無理もない話で、この年の4月には『機動戦士ガンダム』が始まり、同じ4月にテレビ朝日で『ドラえもん』の放送が始まっています。男子小学生の世界は完全にそちら側にありました。ロボットと、ネコ型ロボットと、野球です。 夕方の再放送 ところが、です。 いつのことだったかは、はっきり思い出せません。ただ、夕方に『ベルばら』の再放送が流れていた時期があって、私はそれを見てしまった。 そして、やみつきになりました。 夢中になって見ました。特に良かったのが、オープニングの歌です。「薔薇は美しく散る」。歌っていたのは鈴木宏子さん。あの重々しいイントロと、ばらの花が散っていく映像。子ども向けアニメの主題歌とは思えない、はっきりと悲劇の匂いがする曲でした。 昭和の夕方には、再放送という文化がありました。学校から帰ってきて、ランドセルを放り出して、何気なくテレビをつける。そこで流れているのは、たいてい何年か前のアニメです。本放送のときには興味がなかった作品、あるいは幼すぎて見られなかった作品が、その時間に不意打ちのように現れる。 いま考えると、あれは不思議な仕組みでした。自分で選んで見に行ったわけではないのに、たまたまチャンネルを合わせた一本が、その後ずっと記憶に残ってしまう。私にとっての『ベルばら』は、まさにそれでした。 いま思えば、アニメ版『ベルばら』は途中から演出が濃く、暗く、詩的になっていく作品です。オスカルもアンドレも、最後はきちんと死にます。夕方の再放送というのは、そういうものと出会うのにちょうどいい時間帯だったのかもしれません。誰にも見つからずに、一人で見ていられるからです。 男子は少年漫画、女子は少女漫画 1969年生まれの私にとって、少女漫画は自分の本棚にはないものでした。 でも、一つ違いの妹がいましたから、『りぼん』『なかよし』『別冊マーガレット』『少女コミック』は身近にありました。女子が読んでいる漫画を、横から覗いたこともあります。 本当はちょっと読んでみたかった。けれど、男子が少女漫画を読むのは恥ずかしかった。それが正直な気持ちだったでしょう。 なにせ昭和の男子には、 「男子は少年漫画、女子は少女漫画」 という見えない境界線が、結構ありましたから。 誰が引いたわけでもない線です。先生が決めたわけでも、親に言われたわけでもない。それでも確かにそこにあって、越えると笑われる。昭和の子どもの世界には、そういう線がいくつもありました。男の子は泣かない。女の子は前に出ない。線の内側にいるかぎりは楽なのですが、その分、外側にあるものは最初からなかったことになる。 そう考えると、ベルばらの舞台化に抗議が殺到した話も、少し違って見えてきます。「男装の麗人」オスカルという人物そのものが、引かれた線を越えて生きる話なのです。少女たちがあれほど夢中になったのは、たぶん偶然ではありません。 夕方の再放送で私が『ベルばら』にやみつきになれたのは、たぶん、そこに誰もいなかったからです。教室の目も、妹の目も届かない時間に、線をまたいで向こう側を覗いた。そういうことだったのだと思います。 いまなら、誰の目も気にせず堂々と買えます。あのころ横から覗いていただけの五巻が、化粧箱に入って売られている。 ベルサイユのばら 全5巻セット 化粧箱入り(集英社文庫コミック版)池田理代子/集英社。1972年から『週刊マーガレット』で連載された原作。文庫版全5巻が化粧箱入りで揃います。星4.5(248件) Amazonで見る › そして、まだ観ていない 『ベルサイユのばら』は、その後も宝塚で繰り返し上演され続けています。1989年、1991年、2001年、そして令和に入ってからも。原作漫画は累計2000万部を超え、2025年には完全新作の劇場アニメも公開されました。 ...

August 29, 2026

8月28日 ── 「1ドル360円」が終わった日|昭和の今日は何があった日?

この連載は、たいてい子どもの目線で書いています。駄菓子屋の棚とか、木曜九時のテレビとか、高砂の線路脇とか。ですが今日の8月28日については、その目線を借りることすらできません。 1971年(昭和46年)8月28日。私は2歳4か月です。何も見ていないし、何ひとつ覚えていない。正真正銘、記憶にございません。 それでもこの日を書いておきたいと思ったのは、この日を境に始まった「あるもの」が、その後の私の人生に、形を変えて何度も顔を出し続けたからです。トイレットペーパーの行列として。ハワイのTシャツとして。信用金庫の窓口として。そして、150万円の授業料として。 22年間、1円も動かなかった数字 若い人に「昔は1ドルが360円だったんだよ」と言うと、たいてい「へえ、すごい円安ですね」という反応が返ってきます。それはその通りなのですが、あの360円が今の円安とまったく違うのは、その数字が動かなかったという一点です。 1949年、戦後の経済政策の一環として、1ドル=360円という単一の為替レートが定められました。以来22年間、この数字は1銭たりとも動いていません。円高も円安もない。為替は天気ではなく、暦のようなものでした。 そもそも当時、普通の日本人がドルに触れる機会などほとんどありませんでした。観光目的の海外渡航が自由化されたのは1964年4月1日。しかもこのとき、1人が持ち出せる外貨は年1回・500ドルまでという制限つきです。1966年に回数制限が外れ、1969年に700ドル、1970年に1000ドルへと、少しずつ引き上げられていきました。 つまり昭和の日本にとって、ドルとは「買うもの」ではなく「配られるもの」に近かった。値段の変わらない、限られた配給品のようなものだったのです。 十二日間の攻防 その暦のような数字が、たった十二日で崩れます。 1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領が、ドルと金の交換停止を柱とする新経済政策を突然発表しました。戦後の世界経済を支えてきた仕組みの土台を、当のアメリカが自分で抜いてしまったわけです。日本ではこれをドル・ショック、あるいはニクソン・ショックと呼びました。 株式市場の反応は激烈でした。翌16日の日経平均は215円安。下落率にして7.68パーセント。当時としては下落幅の過去最大記録です。動揺は収まらず、19日までの4日間で日経平均は550円も下げました。 ここからが、私がいちばん惹かれる部分です。 ヨーロッパの主要国は、混乱を避けるためにさっさと為替市場を閉じてしまいました。ところが日本は、市場を開けたまま360円を守ろうとしたのです。売られる円を、日本銀行がひたすらドルを買うことで支え続けました。その規模は1週間で約40億ドルに達したとも言われます。 いま振り返れば無謀にも見えます。ただ、22年間動かなかった数字を自分の代で手放すという判断が、当時の当局にとってどれほど重かったか。そう思うと、あの十二日間の粘りは、そう簡単に笑えるものではありません。 それでも限界は来ます。8月27日、日本の外貨準備高は125億ドルに膨れ上がっていました。買い支えた分だけドルが積み上がったわけです。この日の閣議で、翌28日から変動幅の制限を撤廃することが決まりました。 そして8月28日。変動相場制に移った初日、円は342円をつけます。その後は340円前後で推移し、年末には320円前後まで進みました。 同じ年の12月18日、ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた会議で、1ドル=308円という新しい固定レートが決まります。いったんは固定相場に戻ったのですが、それも長くは持ちませんでした。1973年2月14日、円は再び変動相場制へ。以来、日本が固定相場に帰ったことは一度もありません。 「1ドル360円」の時代は、あの夏に終わったのです。 「円安が悪いのか良いのか、正直よく分からない」──そう思ったまま何十年も過ごしてきた私のような人間には、ちょうどいい一冊がありました。仕組みのところから、データで説明してくれます。 教養としての為替大矢俊雄/かんき出版。「円高・円安とは何か」から「円は安全通貨なのか」まで、元IMF・世界銀行勤務のエコノミストがデータをもとに解説した入門書。星4.4 Amazonで見る › 覚えているのは、トイレットペーパーの行列 1971年のことを、私はもちろん覚えていません。ただ、その数年後のオイルショックのことは、いまでも少し記憶に残っています。 円が再び変動相場制に移った1973年の秋、第四次中東戦争をきっかけに原油価格が跳ね上がりました。第一次石油危機です。日本中で物がなくなるという噂が走り、翌1974年には物価が2割を超えて上がって「狂乱物価」と呼ばれました。 そのさなか、トイレットペーパーを買うために、たくさんの人でごった返した雑貨店へ、母に連れられて行ったことがあります。私は4歳です。 覚えているのは、人がぎゅうぎゅうに詰まった店の中の景色だけです。母がどんな顔をしていたのか、結局買えたのかどうか、そこまでは思い出せません。それでも、あの人いきれのようなものは、五十年たったいまも残っています。 固定相場という頑丈な壁が外れたあとの世界で、4歳の私が最初に手渡された感触が、それでした。 「意外と安いな」── 1992年、ホノルル 私が初めてドル紙幣を自分の手で握ったのは、大学4年のときです。生まれて初めて飛行機に乗り、ホノルルマラソンを走りに行きました。 1992年、第20回大会。エントリーは3万人を超え、そのうち日本人だけで1万8千人以上。当時のハワイは、日本人ランナーで埋まっていました。 初めての飛行機、初めてのハワイ、初めてのフルマラソン、そして初めてのドル紙幣。現地で買い物や食事をすると、「思ったより安いな」と感じる場面が多かったのを覚えています。当時のレートは1ドル120円台くらいだったはずです。何ドル払ったのかという具体的な金額はもう出てきませんが、「日本で買うより安い」という感触だけははっきり残っています。 そして調子に乗った私は、カラフルなトカゲがプリントされたTシャツを何枚も買い込みました。いま思えば、あれはハワイでよく見かけるゲッコー、つまりヤモリだったのでしょう。 初めて飛行機に乗り、初めてハワイへ行き、走って、初めてのドルで「意外と安い」と喜び、ゲッコーのTシャツを大量に抱えて帰ってくる。我ながら、1992年の大学生そのものです。 ただ、ひとつだけ言っておきたいことがあります。もしあの日、1971年8月28日がなかったら。1ドルが360円のままだったら、あのホノルルは私にとって三倍高い街だったはずです。学生の分際で海を渡って走れたのは、その21年前の夏に、日本銀行が守りきれなかったからでした。 「予約ライン」が、ちんぷんかんぷんだった頃 大学を出て、私は信用金庫に入りました。 入庫してまもなく、勉強のためにということで融資の窓口に配属になりました。そこで「予約ライン」という言葉に出くわします。外国為替の予約に関する限度額のようなもの、という説明を受けた記憶はあるのですが、当時の私にはまったくちんぷんかんぷんでした。 いま考えると、あれもまた1971年8月28日の子孫のようなものです。円が動くようになったから、動く前に値段を決めておく「予約」という仕組みが要る。予約を認めるなら、どこまで認めるかという線も引かなければならない。窓口に座っていた若造には、そこまで見えるはずもありませんでしたが。 150万円という授業料 もうひとつ、書くかどうか迷いましたが、書きます。私はFXで150万円ほど溶かしたことがあります。 始めたのは2013年の9月頃でした。ドル円は100円を切るくらいだったと思います。アベノミクスで円安が進んでいて、「FXなら儲かるのではないか」と、ほとんど仕組みも分からないまま始めました。今思えば、これが大きな間違いでした。レバレッジというものの怖さもよく分からないまま取引をして、結果的に150万円ほど失いました。 この経験は、私にとってかなり大きな勉強になりました。 「自分が相場の動きを予想して勝ち続けることなんて、できるわけがない」 身をもって、そう思い知らされたからです。 当てにいくのではなく、居続ける それから、投資に対する考え方が少しずつ変わりました。 短期的な値動きを当てに行くのではなく、世界の企業が成長していく力そのものに乗る。そして、細かな値動きに一喜一憂せず、長い時間をかけて資産を育てていく。いま私が積み立てているS&P500やNASDAQ100の投資信託は、その考えの先にあります。 インデックス投資を続けているのは、単に「良いと聞いたから」ではありません。FXで150万円を失った経験があったからこそ、「相場を当てる」のではなく「市場に居続ける」ことのほうが自分には合っている、と考えるようになったのです。 150万円は決して安い授業料ではありませんでした。でも、その失敗があったからこそ、いまの自分の投資スタイルがあります。そう考えると、あの150万円は、私にとって失ったお金であると同時に、考え方を変えるための授業料だったのかもしれません。 もっとも、投資信託を持つということは、意識するとしないとにかかわらず、毎日ドルを持たされているということでもあります。バスのハンドルを握っているあいだも、口座の中では為替が動き続けている。1971年の夏に外れた壁は、いまも外れたままです。 「市場に居続ける」という考え方そのものを最初に世に出したのが、バンガードの創業者ジョン・ボーグルでした。私が読んだのはずっとあとですが、自分がFXで払った150万円の答え合わせのような本でした。 インデックス投資は勝者のゲーム 株式市場から確実な利益を得る常識的方法ジョン・C・ボーグル/パンローリング。S&P500のような広範なインデックスに連動する投資信託を、低コストで買い、持ち続ける。それだけを説いた一冊。星4.3(857件) Amazonで見る › 2歳の私は、何も知りませんでした。けれどあの日決まったことの上に、トイレットペーパーの行列も、ゲッコーのTシャツも、ちんぷんかんぷんだった窓口も、消えた150万円も、全部乗っかっていた。 ...

August 28, 2026

8月27日 ── わたくし、生まれも育ちも葛飾高砂です|昭和の今日は何があった日?

1969年、昭和44年8月27日。 映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。山田洋次監督・脚本、渥美清主演。舞台は、東京都葛飾区柴又です。 このときの私は、生後4か月です。 そして柴又は、私が生まれ育った高砂の、隣町でした。京成金町線で一駅。高砂──柴又──金町、たった三駅しかない短い路線の、真ん中の駅です。 この日付を見つけたとき、正直なところ、少し身構えました。生まれた年、生まれた月のすぐあと、そして地元。ここまで重なると、かえって何を書けばいいのか分からなくなる。 でも、調べていくうちに気づいたことがあります。この映画が公開された時点では、まだ誰も「柴又」を知らなかった、ということです。 テレビの中で、寅さんは一度死んでいる ご存じの方も多いと思いますが、『男はつらいよ』はもともとテレビドラマでした。 1968年10月から翌1969年3月まで、フジテレビで全26回。渥美清が少年時代に見てきたテキヤの記憶を語ったところから、山田洋次が膨らませた企画だったといいます。 問題は、その最終回でした。寅次郎はハブ酒でひと儲けしようと奄美大島に渡り、ハブに咬まれて死んでしまう。 ところが放送後、テレビ局に抗議が殺到しました。手紙、電話。山田監督自身が後年書いているところによれば、その中には「てめえの局の競馬は二度と見ねえ」といった調子のものも少なくなかったそうです。 ここが、私はいちばん面白いところだと思っています。 抗議した人たちは、番組の出来に文句を言ったわけではありません。知り合いが死んだことに怒ったんです。視聴者のなかでは、すでに寅さんが生きた人間として息づいていた。それを作者が自分の料簡で勝手に殺してしまったのは間違いではなかったか──山田監督は、そう反省させられたと書き残しています。 そして、映画のスクリーンの中でもう一度、寅を生き返らせようと決めた。 松竹の上層部は難色を示したそうです。一度テレビでやったものを、いまさら映画にして客が入るのか、と。もっともな話です。山田監督は当時の社長・城戸四郎に喧嘩腰で掛け合って、企画を通したと伝えられています。 つまりこの映画は、視聴者の怒りと、監督の後悔と、反対を押し切った押しの強さから始まっています。国民的シリーズという言葉から想像する、穏やかな始まりではありません。 そのテレビ版は、長く「幻」でした。いまはマスターテープの残っていた第1話と最終回が、そのままDVDになっています。つまり、寅さんが死ぬ回を、いまは家で観ることができる。 テレビドラマ版「男はつらいよ」 [DVD]昭和43年からフジテレビで全26回。奇跡的に残っていた初回と最終回を完全収録。柴又が舞台に決まるまでの経緯もスタッフ証言で収められています。星4.0 Amazonで見る › 二本立ての、54万3000人 昭和44年8月27日、公開。上映時間91分。同時上映は伴淳三郎主演の『喜劇 深夜族』でした。当時の日本映画は二本立てが当たり前で、『男はつらいよ』もその一本として封切られています。 観客動員は54万3000人。 正直に言うと、この数字を見たとき、私は「思ったより少ないな」と感じました。後にシリーズが1作あたり100万人、200万人を動員するドル箱になっていくことを知っているからです。第1作は、まだ大当たりではなかった。 評価のほうは高く、この年のキネマ旬報ベストテンで第6位、毎日映画コンクールでは山田洋次が監督賞、渥美清が男優賞を受けています。ただ、それは映画好きの世界の話です。 しかもこの第1作は、「これで完結」とも取れる終わり方をしています。1969年8月27日の時点では、まだ誰も、この先50年続くとは思っていません。 四人で歩いた、帝釈天への道 私が生まれた1969年の夏、柴又での撮影はもう終わっていました。 物心がついたころ、柴又はすでに「寅さんの町」になり始めていたはずです。けれど私にとっての柴又は、映画の舞台である前に、まず帝釈天でした。 物心ついた頃から今日まで、初詣は毎年、帝釈天です。一年も欠かしていません。 子どもの頃は、父、母、妹、私の四人そろってお詣りに行っていました。 ──ここは、書きながら少し立ち止まったところです。 父は仕事が極端に忙しい人で、連休らしい連休は正月しかありませんでした。母と妹と三人で出かけることのほうが、我が家では普通だった。その中で、帝釈天の初詣だけは四人そろっている。父が一年でほとんど唯一、家族と並んで歩いていた行事が、この参道だったことになります。 行き方は決まっていませんでした。ひと駅だけでも電車に乗ったこともあれば、歩いて行ったこともあります。いまは家族みんなで歩いて行くのが恒例です。 金町線というのは、柴又から金町までの区間を柴又街道の真ん中を通っていきます。改めて言われてみれば、たしかに路面電車のような走り方です。地元の人間には当たり前すぎて、そういう目で見たことがありませんでした。 参道の店も、ひととおり体に入っています。髙木屋老舗では、いまでも草団子を買います。ゑびす家さんは、信用金庫に勤めていた時代、職場の初詣の帰りに必ず寄って食事をした店です。 そして川千家。ここで、私たち夫婦の結納を行いました。 映画のロケ地として全国に知られている参道が、私にとっては初詣の道であり、職場の恒例行事の場所であり、結婚に向かう日の座敷でもある。そういう順番で、この町は私の中に積み上がっています。 観光地であり、近所であること 柴又が観光地であるという認識は、子どもの頃からありました。それは分かっていた。 ただ、無意識のところでは、やっぱり近所の延長なんです。 この二つは、どちらかが本当でどちらかが嘘、というものではありません。同時に成立しています。観光地だと知っていながら、身体のほうは「そこらへん」として扱っている。地元というのは、たぶんそういうものです。 寅さんの映画の撮影に出くわした記憶は、私にはありません。第1作の撮影は生まれる前ですし、それ以降も、たまたま通りかかることはなかった。 そのかわり、柴又をレポートする撮影には何度も遭遇しています。テレビカメラとレポーターが参道に立って、草団子の店の前で何かしゃべっている。あの光景なら、数えきれないほど見ました。 映画そのものではなく、映画になった町を取材しに来る人たち。私が育った柴又は、もうその段階に入っていたということです。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い──」 あの啖呵を、自分の土地の話として聞いていたか、と言われると、正直、映画のセリフだという認識のほうが強かった。それでも、誇らしい気持ちになったのは確かです。 地元が全国に知られていること自体は、メチャクチャ誇らしかった。子どもの正直な感覚として、そこはごまかしようがありません。 それでも、映画館では一度も観ていない ここまで書いてきて、白状しなければならないことがあります。 私は『男はつらいよ』を、映画館で一度も観たことがありません。 一作もです。隣町が舞台で、あれだけ誇らしかったのに、封切りに足を運んだことがない。 お盆と正月に必ず新作がかかる、という感覚も、子ども時代にはありませんでした。家族の中に特別な寅さんファンがいたわけでもない。 では、どこで観たのか。 ひとつは、テレビです。「〇〇ロードショー」の類で流れているのを、なんとなく観ていました。 そしてもうひとつが、観光バスの中です。 信用金庫に勤めていた時代、お客様をお連れして旅行に行く機会がありました。その道中、バスの中で寅さんのビデオがよく流されていたんです。 柴又の隣で生まれ育った人間が、東京を離れる高速道路の上で、備え付けの小さなモニターに映る柴又を観ている。 いま思うと、なかなか妙な話です。地元だから観に行かなかった映画を、地元から遠ざかる乗り物の中で観ていた。しかも私は、その後バスを運転する側になりました。 近すぎるものを、人は正面から見ません。毎年通っている参道が映画の中に出てきても、「ああ、ここね」で終わってしまう。誇らしさと、わざわざ観に行くこととは、別なんです。 その第1作を、いまさらながら家で観ることはできます。マドンナは光本幸子、91分。1969年8月27日に二本立ての一本として封切られた、あの91分です。 男はつらいよ [DVD](第1作・HDリマスター版)山田洋次監督/松竹。渥美清、倍賞千恵子、森川信ほか。1969年製作、1時間31分。特典に撮影時のオフショットを収録。星4.5(144件) Amazonで見る › 隣町が、観光地になっていく 昭和が終わり、平成に入ると、柴又の変化は目に見えるものになりました。 ...

August 27, 2026

8月26日 ── 一回きりで終わるはずだった、あの土曜日の夜8時|昭和の今日は何があった日?

夏休みが、あと五日。 1978年、昭和53年8月26日は土曜日でした。私は9歳、小学3年生。宿題がどうなっていたかは、あえて思い出さないことにします。 その日の夜8時、日本テレビが妙な番組を始めました。翌日の夜8時まで、丸一日、生放送を続けるというのです。 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の、第1回でした。 土曜の夜8時は、空いていなかった いま思えば、日本テレビはとんでもない時間に旗を立てました。 1978年の土曜の夜8時といえば、TBSで『8時だョ!全員集合』が生放送されている時間です。1969年10月に始まり、1985年9月まで16年間、毎週土曜の20時から20時54分まで、日本中の茶の間を占領し続けた番組でした。 子供にとって、土曜の夜8時は交渉の余地のない時間帯です。翌日は日曜で、学校がない。その一週間分の解放感の入口に、ドリフが立っていました。 そこへ日本テレビが、丸一日の生放送をぶつけてきた。しかも中身は福祉と募金です。 深夜番組から生まれた企画 この番組の出発点は、意外なところにありました。当時、日本テレビが放送していた深夜番組『11PM』の、世界の福祉を扱った特集です。テレビというメディアで何ができるのか。そこから、開局25年の記念事業のひとつとして企画が立ち上がりました。 ところが、社内の反応は冷たいものでした。 当時の民放は、ひとつの番組をひとつのスポンサーが提供する「一社提供」が主流です。複数のスポンサーが並ぶこの仕組みに、スポンサー側が難色を示しました。さらに、週末のゴールデンタイムは編成が固まっている時間帯です。そこを丸ごと差し出すことに、局内からも反対の声が多く上がりました。 結果、この番組は「一回きり」の約束で放送されることになります。 テーマも掲げられました。「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」──今の目で見ると、驚くほど具体的です。地球を救うという壮大な副題の下に、お風呂と、車椅子と、リフト付きバスが並んでいる。集めたお金を何に使うかが、最初から名指しされていました。 この具体性は、そのまま当時の福祉の水準を映しています。寝たきりの高齢者が風呂に入れない。車椅子が足りない。車椅子のまま乗れるバスが、そもそも存在しない。それらはずっとそこにあって、テレビが取り上げてこなかっただけでした。 「愛は地球を救う」という副題は、いま聞くと少し照れくさい響きがあります。けれども、あの時代にゴールデンタイムで福祉を24時間喋り続けるには、それくらい大げさな旗を立てないと成立しなかったのだろうとも思います。 総合司会は萩本欽一と大竹しのぶ。パーソナリティーには大橋巨泉と竹下景子。そして番組のシンボルとして、ピンク・レディーが立っています。 前の日の記事で、私は昭和51年8月25日のピンク・レディーのデビューについて書きました。あの二人が、その二年後の8月26日、今度は違う立場でテレビの真ん中にいる。日付というのは、たまにこういう並び方をします。 会場を転々とした24時間 第1回には、後の「武道館」がありませんでした。 オープニングは芝公園の郵便貯金ホール。途中のコーナーは麹町の日本テレビのスタジオ。エンディングは代々木公園。場所を転々としながらの24時間でした。日本武道館がメイン会場に定着するのは、第3回、昭和55年からです。 代々木公園のフィナーレには人が殺到し、押し寄せた観客に子供や体の不自由な人が押されそうになり、迷子も出たと記録されています。段取りが完成していない、初回だけの混乱です。 そして、募金です。 日本テレビ麹町本社に設けられた受付電話には、189万本の電話がかかりました。そのうち実際につながったのは、3.7パーセントにも満たない7万本程度だったといいます。100本かけて、つながるのは4本足らず。それでも人は、かけ続けました。 29局の累計募金額は、11億9,011万8,399円。 この金額は、その後33年間、破られませんでした。更新されたのは2011年──東日本大震災の年です。 「俺、絶対に起きて全部観る」 当然、私は起きていませんでした。 ただ、この番組が子供の間で話題になっていたことは覚えています。学校で、「俺、絶対に起きて全部観る」なんて言っていた奴がいました。丸一日テレビが続くというだけで、9歳にとっては十分に事件だったのです。誰かが最後まで到達できるのかどうか、それ自体が競技のように受け止められていました。 ちなみに私も、チャレンジしてみようとチャンネルを合わせています。 そして、すぐに断念しました。 番組の中身が、さすがに小学3年生の観続けられるものではなかったからです。寝たきりの高齢者の暮らし、車椅子の話、途上国の福祉。どれも大切な内容だと今なら分かりますが、当時の私には、笑いも歌もないまま画面が延々と進んでいくようにしか見えなかったのだと思います。 考えてみれば、それは番組の側から見れば成功のしるしでもありました。子供が飽きるくらい真面目に作られていた、ということですから。 「絶対に全部観る」と言った奴が、翌週の学校でどう報告したのか。そこは、どうしても思い出せません。 羽根と、「億」という単位 募金そのものは、学校で経験していました。赤い羽根や緑の羽根の募金です。教室で袋を配られ、家から小銭を持ってきて、胸に羽根をつけて帰る。あれが、私にとっての「募金」の入口でした。 ただ、家からテレビに電話をかけた記憶はありません。あの夜、日本テレビに189万本かかったという電話の中に、高砂の我が家からの一本はなかったということです。 画面で読み上げられる金額についても、正直なところ実感はありませんでした。「億」という単位に対して私が受け取っていたのは、ただ「凄くたくさん」という感じだけです。 11億9,011万8,399円。 いま並べてみると、末尾まで一円単位で記録されているところに、この番組の性格が出ている気がします。凄くたくさん、ではなく、一円ずつの積み上げとして数えられている。9歳の私には、そこまで読めませんでした。 裏でドリフをやっていた、その『8時だョ!全員集合』のほうも、いまは映像で残っています。歌のゲストの顔ぶれを眺めているだけで、あの時代の土曜の夜がそのまま出てきます。 8時だョ!全員集合 ゴールデン・コレクション 通常版 [DVD]ザ・ドリフターズ。沢田研二、郷ひろみ、キャンディーズ、桜田淳子ほか歌のゲストも収録。星4.6(254件) Amazonで見る › 続けてしまった、一言 番組が終わろうとしていた代々木公園で、日本テレビの徳光和夫アナウンサーが、会場にいた一人の高校生にマイクを向けました。 その高校生は、こんな意味のことを言ったと伝えられています。欽ちゃん、あの聖火みたいに今日一日で消さないでずっと続けてほしい、消えてしまったらつまらないじゃないか、と。 ...

August 26, 2026

8月25日 ── 私は、ゴミ箱で「UFO」の振り付けを覚えた|昭和の今日は何があった日?

8月25日について、もう一本書かせてください。 即席ラーメン記念日のことを書いた同じ日に、実はもうひとつ、どうしても外せない出来事がありました。 1976年、昭和51年8月25日。ピンク・レディーが「ペッパー警部」でレコードデビューしています。 私は7歳、小学1年生でした。 そして——これは後で気づいたことですが——彼女たちは翌年から日清焼そばU.F.O.のコマーシャルに出ています。即席麺と、ピンク・レディー。同じ8月25日から始まった二本の線が、数年後に一本につながる。昭和というのは、たまにこういう妙なつながり方をします。 なぜ、8月の終わりだったのか デビュー日が8月25日に決まったこと自体が、実は「期待されていなかった」ことの証拠でした。 当時の芸能界では、新人賞を狙うなら4月前後にデビューするのが常識です。年末の賞レースまでに、じっくり時間をかけて育てる。それが筋でした。夏の終わりに出すというのは、要するにそこまで手をかける気がなかった、ということです。 作詞を担当した阿久悠さんも、後年こう振り返っています。8月25日にデビューするようなあまり期待されていない新人だったからこそ、作曲の都倉俊一さんと二人、自由に作れて幸運だった、と。 二人が世に出たきっかけは、日本テレビの『スター誕生!』でした。静岡の同じ学校に通っていたミーとケイは、はじめフォークデュオとして歌っていた二人です。決勝大会での合格から、半年足らずでのスピードデビューでした。 デビュー曲の候補は二曲ありました。「ペッパー警部」と、B面になった「乾杯お嬢さん」。レコード会社の中では後者を推す声が強かったといいます。ところが阿久さんは「キャンディーズの七掛けではつまらない」と主張し、予定どおり「ペッパー警部」がA面に決まりました。 もしここで大人たちの多数決が通っていたら、私たちが小学校の校庭で踊っていたのは、まったく別の曲だったことになります。 土居甫さんの振り付けも、当時としてはかなり際どいものでした。両脚を大きく開くポーズが賛否を呼び、それがまた話題になる。奇抜な名前、奇抜な曲、奇抜な振り付け、そして季節はずれのデビュー。その全部が、結果としてプラスに転がりました。 「ペッパー警部」はオリコン週間4位、売上60万枚。出荷ベースではミリオンセラーとなり、その年の日本レコード大賞で新人賞を獲っています。期待されていなかった新人が、年末には賞をもらっていた。 小学1年生の夏、テレビは一台だった その8月25日、私は小学校に入学して最初の夏休みのまっただ中にいました。 あのころ、どこの家も親は忙しくしていました。昼間は近所の子どもたちだけで、プールに行ったり、路地で野球をしたり、めんこをしたり。放っておかれていたわけですが、退屈した記憶はまるでありません。 そして夕方からは、テレビが中心になります。 いまのように家に何台もテレビがある時代ではありませんでした。一台しかないのだから、家族全員で同じ番組を見るしかない。『8時だョ!全員集合』や『サザエさん』。何を見るかを選ぶ余地は、そもそもなかったのです。 正直に書いておくと、1976年当時の歌番組の記憶は、私にはありません。プロ野球中継すら、まだ見ていない年齢でした。 それでも「ピンク・レディー」という名前は、たぶんデビューのころから知っていたと思うのです。どこで知ったのか。おそらく『8時だョ!全員集合』ではなかったか——そう見当をつけて調べてみたら、当たっていました。 彼女たちは1976年9月4日、デビューからわずか10日後の土曜日に、『8時だョ!全員集合』で「ペッパー警部」を歌っています。そこから10月16日、11月6日と、その年のうちに三度も同じ曲で出ている。 つまり私は、歌番組ではなくドリフのコント番組の合間に、あの二人を見ていたことになります。歌謡曲に興味のない7歳の男の子の視界に、それでもピンク・レディーが入り込んできた理由は、たぶんこれです。家族全員で一台のテレビを囲む土曜の夜八時。あの時間帯の破壊力です。 9曲連続1位、そして300億円 1977年から1978年にかけての熱狂は、いま数字で振り返ってもよくわからないところがあります。 「S・O・S」から「カメレオン・アーミー」まで9曲連続でオリコン1位。「ペッパー警部」から数えれば10曲連続のミリオンセラー。1978年には「UFO」で日本レコード大賞、「サウスポー」で日本歌謡大賞。 そして1978年1月19日、TBSで『ザ・ベストテン』の放送が始まります。記念すべき第1回の第1位が「UFO」でした。しかも第1回から第3回まで、三週続けての1位です。 キャラクター商品は、年間300億円以上を売り上げたといわれます。衣料品、文房具、食器、自転車、食品。二人の姿がプリントされていないものを探すほうが難しいくらいでした。 当時のことを、阿久悠さんはこう書き残しています。家庭用のビデオがまだない時代、子どもたちはテレビの前にラジカセを置いて音を録り、振り付けをメモに書き取った。そして次の日、学校でみんなで練習する——。 私が『ザ・ベストテン』を録音するためにアイワのラジカセをテレビの前に構えるのは、これよりもう少し後のことです。けれど、やっていることはまったく同じでした。あの姿勢は、ピンク・レディーの時代に日本中の子どもが発明したものだったのかもしれません。 私は、ゴミ箱で「UFO」を覚えた さて、その振り付けの話です。 女の子たちが踊っていた光景は、はっきり覚えています。そして白状すると、私も「UFO」の振り付けを覚えました。男子のくせに、と言われそうですが、覚えてしまったのです。 ただ、私の場合は経路が少し違いました。テレビの前でメモを取ったわけでも、校庭で教わったわけでもありません。 当時、うちには金属製の筒型のゴミ入れがありました。その表面に、ご本人たちが踊る「UFO」の振り付けが、順番にぐるりとプリントされていたのです。 毎日、目に入る。何かを捨てるたびに目に入る。ゴミ箱のまわりを一周すれば、振り付けが最初から最後まで並んでいる。 覚えないほうが難しいと思いませんか。 いま思えば、あれこそが「キャラクター商品が年間300億円」の正体です。下敷き、ペンケース、文房具——ありとあらゆるものに、あの二人はついていました。子どもが手を触れるものの表面という表面が、ピンク・レディーで埋まっていたのです。 私はレコードを買ったわけでも、コンサートに行ったわけでもありません。ファンだったという自覚すらありません。 それなのに、振り付けを覚えている。 熱狂というのは、こういう形でも人に入り込むのだと思います。ファンでない子どもの家のゴミ箱にまで、あの二人はいたのですから。 「ペッパー警部」から解散までのシングルが、順番に入ったベスト盤があります。あの振り付けを思い出しながら聴くと、なかなか妙な気分になります。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー コンプリート・シングル・コレクション「ペッパー警部」から「UFO」「サウスポー」「モンスター」まで、シングルを網羅した一枚。星4.4 Amazonで見る › 後楽園球場の、二つの日 私にとって後楽園球場は、巨人の球場です。それ以外の何物でもありませんでした。 その後楽園球場に、ピンク・レディーの絶頂と終わりが、両方とも刻まれています。 1978年の夏、後楽園球場でコンサートが開かれました。チケットを取れなかったファンが球場に殺到し、収拾がつかなくなりかけたため、急遽もう一日追加して二日間開催になったといわれています。真夏の夜のカーニバル、というやつです。 それからわずか3年後。 1980年9月1日に解散が発表され、1981年3月31日、同じ後楽園球場で解散コンサートが行われました。 その日は、みぞれ混じりの冷たい雨が降り続いていました。スタンドには空席が目立ち、観客動員は主催者発表で3万人。消防署関係者の証言では1万5000人程度だったともいわれます。1978年4月のキャンディーズの解散コンサートが超満員だったことと、しきりに比べられました。 かじかんだ手でマイクを握り、雨に打たれて歌う二人。しかも最後、涙を流して抱き合う場面まで、テレビの尺に収めるようディレクターに急かされたと伝わっています。 活動期間、4年7か月。 絶頂の球場と、みぞれの球場。同じ場所です。 ...

August 25, 2026

8月25日 ──「うどん一玉六円」の時代に三十五円。魔法のラーメンが、高砂の戸棚に届くまで|昭和の今日は何があった日?

8月25日は、即席ラーメン記念日です。 1958年、昭和33年のこの日、日清食品が「チキンラーメン」を発売しました。世界で最初に、商売として成り立ったインスタントラーメンです。 昭和33年といえば、私が生まれる十一年前。長嶋茂雄が巨人でデビューした年で、東京タワーがまだ完成していない年です。当然、この日の記憶はありません。 けれど、私が物心ついたころ——昭和四十年代の葛飾区高砂の、我が家の台所の戸棚には、もうそれが当たり前のように積んでありました。 生まれる前に始まっていて、生まれたときにはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。インスタントラーメンというのは、私の世代にとってそういう存在です。 うどん一玉六円の時代に、三十五円 チキンラーメンを作ったのは、日清食品の創業者・安藤百福さんです。 発売のとき、四十八歳。四十七歳のときに、理事長を務めていた信用組合の倒産で築いてきた財産をほとんど失っています。無一文からの再出発でした。 きっかけは、戦後の大阪の闇市だったといわれます。屋台のラーメンに、寒空の下で人が行列を作っている。あれをもっと手軽に食べさせられないか——そう考えて、自宅の裏庭に小屋を建て、そこにこもりました。 つまずいたのは、麺の乾かし方でした。ある日、奥さんが台所で天ぷらを揚げているのを見て、ひらめきます。油の熱で水分を飛ばせばいい。こうして「瞬間油熱乾燥法」が生まれました。麺に味をつけ、蒸して、油で揚げる。今のチキンラーメンと、中身はほとんど変わりません。 そして昭和33年8月25日。 ところが、この商品はまったく歓迎されませんでした。 理由は値段です。85グラム入りで35円。当時、うどん玉ひとつが6円、普通の乾麺で25円という時代でした。国鉄の初乗りが10円、銭湯が16円。ラーメン屋で一杯食べるのと変わらない値段の袋麺を、誰が買うのか。しかも安藤さんは、二、三か月の手形が常識だった時代に、現金決済を要求しています。 問屋の主人たちは、そろって顔をしかめたそうです。 その日、大阪の問屋がひとつだけ、納入を引き受けてくれました。日清食品はのちにこの日を「ラーメン記念日」と定め、日本即席食品工業協会も8月25日を「即席ラーメン記念日」としています。つまりこの記念日は、大ヒットした日ではなく、やっと一軒だけが置いてくれた日なのです。 けれど、実際に食べた人たちの評判が、じわじわと広がっていきました。お湯をかけて二分(当時は三分ではありませんでした)で食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、やがて注文が殺到します。あれほど渋っていた問屋が、今度は「現金前払いでもいいから」と言ってくるようになった。工場の前に、仕入れのトラックが列を作ったといいます。安藤さんは後年、工場用地の代金を一か月分の売上でまかなえた、と語っています。 「中華そば」が「ラーメン」になった このチキンラーメンが、日本語をひとつ変えました。 それまで、あの食べ物は「支那そば」あるいは「中華そば」と呼ばれるのが普通でした。「ラーメン」という言い方が全国に広まったのは、商品名にその三文字が入っていたからだといわれています。 私たちが何気なく使っている「ラーメン」という言葉は、昭和33年8月25日に大阪の問屋に納められた、あの袋から来ている。そう考えると、少し不思議な気持ちになります。 ヒットには真似が続きます。似た即席麺が次々に出て、意匠権や特許の争いが激しくなり、食糧庁の指導で昭和39年に業界団体が作られました。昭和35年には森永製菓のインスタントコーヒーが出て、「インスタント」は流行語の筆頭になります。そして昭和46年、カップヌードル。アメリカへ売り込みに行った安藤さんが、丼のない向こうで現地の人が麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べているのを見た。そこから生まれた発想でした。 ——このあたりが、ようやく私の記憶に届く時代です。 うちの戸棚にあったのは、サッポロ一番しょうゆ味だった 正直に書きます。 即席ラーメン記念日の記事を書いておいてなんですが、我が家の戸棚にチキンラーメンが積んであった記憶は、ほとんどありません。 うちは、サッポロ一番しょうゆ味でした。 買っていたのは、高砂のイトーヨーカドーです。この連載でもう何度も出てきている、あの五階にボウリング場のあったヨーカドーです。母がまとめて買ってきて、台所の戸棚に積んでおく。それが我が家のラーメンでした。 サッポロ一番しょうゆ味の発売は、昭和41年1月。私が生まれる三年前です。作ったのは群馬・前橋のサンヨー食品で、もともとは乾麺の会社でした。 面白いのは、その会社が即席麺に乗り出したきっかけです。当時専務だった井田毅さんが、「関西でお湯をかけるだけで食べられる麺が流行っているらしい」と聞きつけた。それがチキンラーメンでした。井田さんは会社の方向を即席麺へ切り替え、全国で通用する醤油ラーメンを作ろうと各地を食べ歩いて、札幌のラーメン横丁で食べた一杯に感銘を受けます。そこから生まれたのが、サッポロ一番でした。 つまり我が家の戸棚にサッポロ一番が積んであったのも、もとをたどれば昭和33年8月25日に行き着くわけです。あの日、大阪の問屋が一軒だけ「置いてみる」と言わなければ、私が食べていた味も、たぶん存在しなかった。 ちなみにこのしょうゆ味は、長いあいだ関西より東を中心に売られていた商品だそうです。あの袋と、別添えの「特製スパイス」の小袋は、東日本の子どもの当たり前でした。 作ってくれていたのは、母でした。 そして父は、即席ラーメンを食べませんでした。 この連載で何度か書いてきたとおり、父は本当に休みのない人で、連休といえば正月の一日と二日だけ、という働き方をしていました。深夜に帰ってきて袋麺をすする父——そういう画は、私の記憶のなかにはありません。 いまも、あの袋はスーパーの棚にあります。別添えの「特製スパイス」も、あのままです。 サンヨー食品 サッポロ一番 しょうゆ味 5食パック 3個セット昭和41年1月発売。群馬・前橋のサンヨー食品が、札幌のラーメン横丁で食べた一杯から作り上げた醤油味。別添えの特製スパイス付き Amazonで見る › 小学六年生の鍋 インスタントラーメンは、多くの昭和の子どもにとって「生まれて初めて自分で作った料理」だったのではないでしょうか。 私の場合は、小学六年生でした。 鍋に水を入れて、火をつけて、沸くのを待って、袋を破って麺を落とす。そして、卵を落としました。最初から卵を入れているあたり、我ながら強気だったと思います。 思い返すと、親から「火を使うな」と言われた記憶がありません。危ないからやめなさい、とも言われなかった。台所に立って、ガスをひねって、鍋の前で三分待つ。それが小学六年生に許されていた家でした。 いまの感覚だと、少し驚かれるかもしれません。けれど当時は、たぶんどこの家もそうでした。学校から帰れば親は仕事か家事で手が離せず、子どもは自分の腹を自分で満たすのが普通だった。そのための道具として、袋麺が戸棚に積んであった。安藤さんが掲げた「手間がかからないこと」という条件は、昭和の子どもに台所を開放したのだと思います。 中学の夜と、高校の帰り道 中学に上がると、自分で作る回数が増えました。 試験勉強で夜更かしをする日です。夜中に腹が減る。母を起こすわけにもいかない。そういうとき、台所へ降りていって、自分で鍋に火をつける。 深夜のガスコンロの青い火と、鍋のなかで麺がほぐれていく音。家族が寝静まったあとの、自分ひとりの時間でした。あの夜を重ねるうちに、ラーメンは「作ってもらうもの」から「自分で確保するもの」に変わっていったのだと思います。 高校に入って野球部に入ると、今度は少し様子が変わります。 遠征試合の帰り。仲間数名で、決まって遠征先の最寄駅の近くのラーメン屋に入りました。試合に勝った日も、負けた日もです。学校での練習の帰りにも、馴染みの中華屋に寄って食べて帰ることがよくありました。 ...

August 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月24日──ヒット曲のないまま武道館に立った三人と、新キャプテンの夏

今日は8月24日。夏休みも残りわずか、カレンダーの数字が急に重たく見えてくる頃です。 1983年(昭和58年)のこの日、東京・九段下の日本武道館に、1万人が集まりました。ステージに立ったのは、THE ALFEE。桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の三人組です。 いまでこそ「武道館といえばアルフィー」ですが、この日はその一回目でした。しかもこの時点で、彼らには誰もが口ずさめるヒット曲が、一曲もなかったのです。 デビューから10年、まだ何者でもなかった THE ALFEEの結成は1973年。東京のある大学のキャンパスで出会った三人を中心に始まり、翌1974年8月25日、「夏しぐれ」でデビューしました。当時は四人組のフォークグループです。 しかし、デビュー曲は売れませんでした。翌年の2作目も不発。メンバーの一人が脱退して三人になり、3作目に予定していた曲は発売そのものが中止になります。これをきっかけにレコード会社との契約が切れ、所属レーベルのない状態でライブハウスを回る日々が続きました。 この時期、彼らは事務所の先輩である、かまやつひろしさん、由紀さおりさん、研ナオコさんのバックバンドを務めています。つまり、ステージの後ろで演奏する側にいたわけです。 余談ですが、『ザ・ベストテン』への出演も、自分たちの曲より研ナオコさんのバックとしての出演が先だったといいます。あの番組を毎週欠かさず見ていた身としては、なんとも言えない気持ちになる話です。私はきっと、画面の奥のほうにいた三人を、なんとも思わずに見過ごしていたはずですから。 1979年にキャニオンレコードから「ラブレター」で再デビュー。音楽性はフォークからロックへと少しずつ舵を切り、コンサートの動員力だけは日本のバンドでも屈指と言われるまでになっていきます。 それでも、代表曲がない。そういう10年でした。 チケットを売り出したときは、まだ売れていなかった そんな彼らが武道館を押さえたのが、1983年8月24日、水曜日です。公演名は「OVER DRIVE 1983 ALFEE 8-24 BUDOKAN」。 ここがこの話のいちばん面白いところなのですが──チケットの予約が始まった時点で、「メリーアン」はまだヒットしていませんでした。 「メリーアン」がシングルとして世に出たのは、この年の6月。本来はアルバム収録曲になる予定だった一曲です。それが発売後、じわじわと、そして夏に入ってから一気にチャートを駆け上がっていきました。 つまり武道館当日、この曲はちょうど坂を駆け上がっている最中だったのです。チケットを買った人たちは「まだ売れていないバンド」を見に行くつもりでいたら、いざ会場に着いてみると、そのバンドがまさに世に出ようとしている瞬間に立ち会うことになった。そういう夜でした。 演奏は、メドレーを含めて14曲。「トラベリング・バンド」で始まり、「誓いの明日」「SAVED BY THE LOVE SONG」「Musician」と続いて、5曲目に「メリーアン」。後半には「ジェネレーション・ダイナマイト」「See You Again」「ラジカル・ティーンエイジャー」「夢よ急げ」と、いまもライブの定番になっている曲が並んでいます。 そしてこの日、彼らは会場に来た1万人全員に、記念バッヂとプロモーションビデオを収録したビデオテープを配りました。売れていないバンドが、初めての武道館で、1万人分の土産を用意したのです。採算のことを考えたら、正気の沙汰ではありません。 この年の暮れ、THE ALFEEは『第34回NHK紅白歌合戦』に初出場します。8月にはまだ「ヒット曲のないバンド」だった三人が、大晦日にはお茶の間にいた。わずか四か月の出来事でした。 その夏、私は新キャプテンになったばかりだった その頃、私は何をしていたか。 中学2年、14歳。夏の大会が終わって3年生が引退し、新チームの最上級生になったばかりでした。そして私が、新しいキャプテンになりました。 これが、思っていたよりずっと難しいのです。昨日まで先輩の背中を見ていればよかったのが、急に自分の背中を見られる側になる。声のかけ方ひとつ、練習メニューの組み方ひとつ、何が正解なのかわからない。試行錯誤しながら、新人戦に向けて毎日グラウンドに立っていました。 だから8月24日の夜、九段下で1万人が沸いていたことなど、当然知りません。私はたぶん、日が暮れるまでノックを受けていたか、翌日の練習のことを考えて寝床に入っていたかのどちらかです。 音楽との付き合いは、テレビでした。『ザ・ベストテン』だけは、毎週きちんとチェックしていたと思います。ラジオでもレコードでもなく、あの番組が私にとっての音楽の窓でした。 「メリーアン」を初めて知ったのも、その窓の中です。記憶をたどると、ランキングの中ではなく「今週のスポットライト」で登場して歌っていたように思います。ランクインする前の曲を紹介するコーナーですから、まさにあの夏の、坂を駆け上がっている途中の姿だったのでしょう。 「メリーアン、メリーアン」と、曲名がそのまま呼びかけられるサビ。あれが耳から離れませんでした。中学生ながら、これはヒットするだろうな、と感じたのを覚えています。実際、その通りになりました。 そして武道館。当時の私にとって、あそこは行ったことのない場所でした。テレビの中でだけ見る場所。葛飾から九段下まで、電車に乗れば大した距離ではないはずなのに、子どもの感覚では、ずいぶん遠いところにあると思っていました。 あの夏の「メリーアン」も、その後の曲も、まとめて聴けるベスト盤が出ています。デビューから30年ぶんのシングルを37曲おさめたものです。 THE ALFEE 30th ANNIVERSARY HIT SINGLE COLLECTION 37デビュー30周年の記念盤。1974年のデビュー曲から順にシングル37曲を収録。「メリーアン」も入っています。星4.4 Amazonで見る › 42年、105回 あの1983年8月24日から、THE ALFEEの武道館公演は毎年続きました。翌1984年からは12月開催になり、2018年まで36年連続。12月23日にいたっては1984年から35年連続で、武道館の「史上最多同一日連続公演」の記録になっています。 通算公演数は、2025年12月の時点で105回。バンドとしては歴代1位です。コンサートの総本数は3000本を超えました。「メリーアン」以降、シングルは59作連続でオリコンのトップ10に入っています。1983年から途切れていない、ということです。 数字を並べていると、少し目がくらみます。けれど私が本当にすごいと思うのは、105回のほうではありません。1回目のほうです。 売れていない。ヒット曲がない。それでも武道館を押さえて、1万人を集めて、その1万人全員に土産を持たせて帰した。あの晩の三人は、まさか42年後にこんな数字になっているとは思っていなかったはずです。ただ、その日の一回を、めいっぱいやっただけでしょう。 続いたものというのは、たいてい、続けるつもりで始まったものではないような気がします。 続いたもの、続けてきたもの 正直に言うと、彼らと自分を重ねるつもりはありません。10年売れずに耐えたバンドと、葛飾で野球をやっていた中学生とでは、並べようがないからです。 ...

August 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月23日──腹いっぱい食べたい、と思っていた

今日は8月23日。夏休みも、もう終わりが見えてくる時期だ。昭和の子どもにとっては、宿題の山を前にして胃が重くなりはじめる、あの頃である。 そして今日は「湖池屋ポテトチップスの日」でもある。 昭和37年(1962年)のこの日、**「湖池屋ポテトチップス のり塩」**が発売された。日本で初めて本格的に世に出たポテトチップス。その最初の味が「うすしお」ではなく「のり塩」だったという事実を、私はずいぶん長いあいだ知らずにいた。 飲み屋で出てきた「高級珍味」 湖池屋の創業は昭和28年(1953年)。創業者は小池和夫という人だ。 社名の由来がなかなか面白い。小池氏の郷里は長野県の諏訪市。地元の諏訪湖を見ながら「会社も諏訪湖のように大きくしたい」と願い、「小池」の「小」を「湖」に置き換えて「湖池屋」とした。 創業当初に作っていたのは、豆やさくらえびを油で揚げて混ぜた「お好み揚げ」のようなおつまみ菓子である。 転機は、小池氏が仕事仲間と飲みに行った店で訪れる。そこで出されたのがポテトチップスだった。当時の日本では手作りが主流の珍しい食べ物で、飲み屋では高級珍味の扱いだったという。 一口食べた小池氏は「こんなにおいしいものが世の中にあったのか」と感動する。そして、これを多くの人に届けたいと考えた。ここが、日本のポテトチップスの出発点だ。 「せっかく日本で作るのだから」 とはいえ、作るのは簡単ではなかった。 お好み揚げも油で揚げる菓子だから、その釜を流用して開発に乗り出した。ところが、じゃがいもの品種、スライスの厚み、揚げる温度──どれをとってもノウハウがなく、品質がまるで安定しなかったという。 そのうえ、味付けをどうするかという問題があった。 本場アメリカでは塩をふりかけただけの「塩味」が主流。だが小池氏はこう考えた。 「せっかく日本でポテトチップスを作るのだから、日本人になじみのある味にしよう」 そこで目をつけたのが「のり」だった。青のりとあおさをまぶす。じゃがいもと海苔という、いま考えれば当たり前すぎる組み合わせも、当時は誰も試していない発想だった。 そうして昭和37年8月23日、「湖池屋ポテトチップス のり塩」が世に出た。世界で初めての「のり塩ポテトチップス」の誕生である。 日本のポテチは、うすしおではなく、のり塩から始まったのだ。 手で揚げていた五年間 ただし、この時点ではまだ「大量生産」ではなかった。 当時のポテトチップスは、どのメーカーも手作業で揚げていた。安定した量を作れない。だから店に並ぶ数も限られる。 「もっとたくさんの人に食べてもらいたい」──その一心で機械化を模索し、湖池屋が国産のオートフライヤーを導入して量産化に成功したのは、発売から五年後の昭和42年(1967年)のことだった。日本で初めてのポテトチップス量産化とされている。さらに原料を安定させるため、北海道で馬鈴薯の契約栽培にも踏み切った。 こうして、飲み屋の高級珍味だったポテトチップスは、少しずつ、町へ降りてきた。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)。量産化から二年後のことになる。 山車を引いて、もらった袋 正直なところ、私は「人生で初めてポテトチップスを食べた日」を覚えていない。 気がついたら食べていた、という感覚に近い。強いて言えば、保育園の年長の頃──昭和50年(1975年)あたりだったのではないかと思う。六歳になるかならないかの頃だ。 ただ、はっきり言えることが一つある。 母が買い物のときにポテトチップスを買っていた記憶が、まったくないのだ。つまり我が家では、ポテトチップスは日常的に食卓や茶の間に出てくるものではなかった。 では、どこで食べていたのか。 盆踊りや、祭りの山車を引いたときにもらうお菓子。あれがポテトチップスだったことが、よくあった。 葛飾の夏である。綱を握って、大人に混じって山車を引く。声を出しながら町内をぐるりと回って、帰ってくると菓子の袋を渡される。その中にポテトチップスが入っている。 子どもながらに「うまいな」と思った。 いま振り返ると、この記憶の位置づけが面白い。あの頃のポテトチップスは、私にとって「買うもの」ではなく「もらうもの」だった。祭りとか、行事とか、そういう非日常のときに、大人の側から降ってくるもの。 飲み屋の高級珍味からは遠く離れた。けれど、まだ完全な日常品にもなっていない。ちょうどその途中の、微妙な位置にあった。 味が増えていく時代 私が物心ついた昭和50年代は、ちょうどポテトチップスが「珍しいもの」から「あって当たり前のもの」へ変わっていく時期にあたる。 大手のカルビーがポテトチップス市場に参入したのが昭和50年(1975年)。「うすしお味」を出したのがこの年で、翌昭和51年(1976年)に「のりしお」、昭和53年(1978年)に「コンソメパンチ」が続く。 私は昭和44年4月生まれ。小学校に上がったのが昭和51年の春だから、コンソメパンチが世に出た昭和53年は小学3年生ということになる。 つまり私の小学生時代は、まるごと「ポテトチップスの味が増えていく時代」だった。棚に行くたびに知らない味が並んでいる。あの感覚は、いまの子どもにはたぶん想像しにくい。 そして子どもたちのあいだで激しかったのが「のり塩派」と「うすしお派」の対立である。あれは子どもながらに、けっこう真剣な議論だった。 私の中では、はっきりしていた。湖池屋といったら、のり塩である。 買う場所は、近所の駄菓子屋か、高砂のイトーヨーカドー。ただし、日々のお小遣いからポテトチップスを買った記憶はない。大袋がたしか100円くらい。何グラム入っていたかまでは覚えていないが、10円20円の駄菓子を握りしめて選んでいた子どもにとって、100円という数字は明らかに別の階層にあった。 駄菓子屋の棚に置いてあるのに、駄菓子ではない。ポテトチップスとは、そういう位置の菓子だった。 ちなみに、市場の話をすると、昭和59年(1984年)の時点でカルビーが約80%、湖池屋は約9%。先に始めたほうが、後から来たほうに大きく引き離されていた。子どもの私はそんなことを知る由もなく、ただ袋の色で選んでいた。 いまでも歌えるあの歌 湖池屋といえば、あのCMソングである。 ...

August 23, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月22日──氷の三千キロと、スイカのタネ

正直に書きます。私はこの日のことを、まったく知りませんでした。 八月二十二日に何があったのか調べていて、ひとつの名前に行き当たりました。植村直己。名前は知っています。知らない日本人のほうが少ないでしょう。でも、その人が昭和53年の八月二十二日に何を成し遂げたのか——私はこの記事を書くまで、知らなかったのです。 昭和53年8月22日、グリーンランド南端 その日、植村直己はグリーンランドの南端、ヌナタックと呼ばれる岩峰にたどり着きました。 出発は同じ年の五月十二日。グリーンランド最北端の、モーリス・ジェサップ岬。そこから犬ぞりで、この巨大な島を北から南へ、まっすぐ縦に走り抜ける。七月十二日には内陸氷床の最高地点、標高3240メートルを越えました。走った距離は3000キロ近く。三か月あまりの旅でした。 しかもこれは、後半戦にすぎません。 その年の一月三十日、彼は日本を発っています。二月にカナダ最北の島へ入り、三月五日、コロンビア岬から犬ぞり「オーロラ号」で出発。17頭のハスキー犬を率いて、乱氷の海を800キロ。四月二十九日、北極点に到達しました。犬ぞりによる単独での北極点到達は、世界で初めてのことでした。37歳。 北極点に立ち、そこから飛行機でグリーンランド北端へ運ばれ、休むことなくそのまま南へ走り出す。八月二十二日は、一月末に日本を出てから半年以上におよんだ、その長い旅の終着点だったのです。 「一口千円」で送り出された人 調べていて、いちばん胸に残ったのはここでした。 この冒険は、資金が足りませんでした。スポンサー三社だけでは賄いきれず、全国的に「一口千円募金」が呼びかけられたのだそうです。千円。当時の千円です。国家の事業でもなければ、大企業の宣伝でもない。ひとりの男が氷の上を走るために、日本中から千円札が集められた。 北極点をめぐっては、もうひとつの物語もありました。植村が到達する前日、四月二十八日に、日本大学の遠征隊5人が犬ぞりで日本人初の北極点到達を果たしていたのです。同じ時期に、同じ手段で。世間は「どちらが先に着くか」と沸いたといいます。 昭和53年の日本には、それだけの熱があった。北極が、氷が、犬ぞりが、新聞やテレビの真ん中にあったのです。 そして九月一日、旅を終えて帰国した彼は、記者会見でこう言ったそうです。「女房より犬がかわいい」。半年間、十七頭とだけ暮らして帰ってきた人の言葉です。 氷の上で、彼は何をしていたか 「犬ぞりで走った」と一行で書いてしまうと、なんだかスイスイ滑っていったように聞こえます。実際はまるで逆でした。 北極点をめざす前半戦、出発してすぐに待っていたのは乱氷帯です。氷が押し合ってできた大小の塊が、視界の果てまでひしめいている。そりが通れる道などありません。鉄棒で氷を叩き割り、ルートをこじ開けながら進む。二日たっても三日たっても、出発点の岬がすぐ後ろに見えている。そんな日が続いたといいます。 白熊にテントを襲われたこともありました。引き裂かれたテントの中で、ただ息を殺してじっとしていた。動かなかったことが幸いして、熊はドッグフードのほうへ興味を移していったそうです。 一方、後半のグリーンランド縦断では、そりに帆を張りました。風を受けて走れる日は、心にも余裕が生まれる。そして彼は、その余裕でこんなことをしています。 名古屋大学の研究所から依頼されて、雪や水や空気のサンプルを採集していたのです。停滞して動けない日には、のんびりと採集をしている——そんな記述が日誌に残っています。さらに六分儀で自分の位置を確認していたとき、グリーンランド北部のある山の位置が、地図と20キロずれていることに気づきました。のちに人工衛星による調査で、彼の指摘のほうが正しかったことが証明されています。 たった一人で氷の上を走りながら、地図の間違いを見つけて帰ってきた。そういう人だったのです。 その日、私はスイカのタネを飛ばしていた さて、ここからが本題です。 昭和53年8月22日。私は9歳、小学3年生でした。夏休みの終盤。あと十日ほどで二学期がはじまる、あの独特の焦りが漂いはじめる時期です。 その日私はたぶん、朝9時頃から友だちと区民プールへ行って、2時間くらい泳いでいました。帰宅してお昼ご飯を食べたあと、また友だちと再合流して、路地野球です。 途中で、誰かのお母さんがスイカを切ってお盆にのせて持ってきてくれる。なぜか縁台がどこの家にもあって、それを道路に出して腰を掛け、みんなでスイカにかぶりつき、タネをピュッ、ピュッと口から吹き飛ばしては笑い合っていた。そんな時代でした。 昭和53年といえば、私が巨人の打順をそらで言えるようになった年でもあります。柴田、土井、張本、王、柳田、高田、河埜、吉田、堀内。四十八年経った今でも口をついて出てきます。路地でバットを振っていた9歳の頭の中を占めていたのは、要するにそういうものでした。北極も氷床も、入り込む隙間などありません。 ——これが、昭和53年8月22日の私です。 同じ日、地球の北の果てで、ひとりの日本人が三千キロを走りきって旅を終えていた。氷点下の世界を半年かけて渡りきった男が、南端の岩にたどり着いていた。 こちらは葛飾の路地で、スイカのタネを飛ばしていました。 どちらが上でも下でもありません。ただ、同じ一日というものの中に、そんなに違うものが同時に入っているのだということに、四十八年経ってから気がついたわけです。 いつの間にか、知っていた名前 では、植村直己という名前を私はいつ知ったのか。 これがまた、はっきりしないのです。 たぶん中学生以降だったと思います。教科書や本で読んだ記憶はありませんから、おそらくテレビでしょう。子どもの頃の私には活字を読む習慣がありませんでしたから、教科書に載っていたとしても、素通りしていた可能性は大いにあります。 いつの間にか知っていた——というのが、いちばん正直な実感です。 昭和59年(1984年)の二月、彼が北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂に世界で初めて成功し、その下山中に消息を絶ったこと。二月十二日、43歳の誕生日に頂上に立ち、翌十三日を最後に消えたこと。没後に国民栄誉賞が贈られたこと。 これも、当時どうだったかの記憶がないのです。私は14歳、中学2年生。テレビも新聞も家にあったはずなのに、そのニュースを見た瞬間というものが、私の中に残っていません。その後にいつの間にか知ったんだと思います。 つまり私にとっての植村直己は、入口のない知識なのです。いつ入ってきたのかわからないまま、気づいたら中にあった。そういう名前が、誰にでもいくつかあるのではないでしょうか。 わからない、ということ こういう記事を書いていると、最後にうまいことを言いたくなります。 たとえば私は路線バスの運転手ですから、「毎日決まった道を走る自分と、道のないところを走った植村さんと」——などと並べてみたくなる。書けなくはありません。 でも、正直に言います。私にはわからないのです。 植村さんの立場に立って考えることなど、とてもできません。氷点下四十度の中で、たった一人で、犬十七頭だけを頼りに半年間を過ごす。その日々に何を思っていたのか、想像しようとしても手が届かない。そのくらい、常人とはかけ離れていた方なのではないでしょうか。 だから並べません。並べるのは、たぶん失礼です。 私にできるのは、知らなかったことを知った、と書くことだけです。九歳の私は知らなかった。十四歳の私も、たぶんぼんやりとしか知らなかった。五十七歳になって、ようやく八月二十二日という日付にたどり着いた。 それでいいのだと思います。人生のほとんどの日は、誰かの最良の一日と重なっていて、私たちはそれを知らないまま通り過ぎていく。でも、あとから知ることはできる。今日という日に、あとから意味を足すことはできる。これは、そんなに悪くないことのような気がします。 ...

August 22, 2026