6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃

今日は5月7日。五月の日差しが少しずつ強くなってくる。 昭和の子どもにとって、初夏の楽しみといえば学校帰りの駄菓子屋や商店で買うアイスだった。10円、20円、30円。小さなお小遣いを握りしめて、冷凍ショーケースの白い霧の向こうを覗き込んで選ぶ、あの時間。 昭和44年(1969年)の5月7日、佐賀県の小さなお菓子屋から、一本のアイスが世に出た。 「ブラックモンブラン」。 今も九州の人々に愛され続けるそのアイスは、遠いフランスの雪山の麓で生まれた夢から始まった。そしてそのアイスが作り上げた「チョコバリ系」というジャンルが、昭和50年代の東京の子どもに、忘れられない衝撃を与えることになる。 モンブランを見た男の、とんでもない発想 昭和40年代の初め、竹下製菓の3代目社長・竹下小太郎はヨーロッパへの経済視察旅行に参加した。 訪れたのはフランス・アルプスの山岳リゾート地、シャモニー。標高が高く、夏でも冷え込むその街の向こうに、ヨーロッパ最高峰の白銀の頂・モンブラン山がそびえていた。 それを眺めながら、竹下小太郎の頭に一つの考えが浮かんだ。 「この真っ白い雪山に、チョコレートをかけて食べたらさぞ美味しいだろう」 帰国後、竹下は試作を繰り返した。バニラアイスをチョコレートで包み、その外側にザクザクとしたクッキークランチをまぶす。シンプルだが、当時のアイスとしては革命的な組み合わせだった。 当時の子ども向けアイスといえば、甘味料を加えた色水を棒に刺して固めただけのシンプルなアイスキャンデーが主流だった。バニラアイスにチョコレートとクッキーという「洋菓子風の高級感」は、それまでの駄菓子アイスとはまったく別の存在だった。 アイスクリームの最高峰を目指すという意味を込め、その名前にあの山を冠した。昭和44年5月7日、ブラックモンブランが誕生した。 フライみたいなアイスの、あの衝撃 ブラックモンブランは九州を中心に広まった。しかし昭和50年代に入ると、同じ「チョココーティングのクランチアイス」という系統の商品が、少しずつ全国にも姿を現し始めた。 私が東京でそれを初めて目にしたのは、昭和50年代のことだった。 近所の商店の冷凍ケースの中に、見たことのない形のアイスがあった。「チョコバリ」。 最初は、アイスだとわからなかった。表面がチョコレートでびっしりと覆われていて、まるでフライのようにゴツゴツとしている。「これ、アイスなの?」という衝撃だった。それまでのアイスといえば、細長い棒に色のついた氷が刺さったもの、あるいは丸いカップに入ったもの。チョコレートの鎧をまとった、あんな見た目のアイスを見たことがなかった。 どんな味がするんだろう。かじったらどうなるんだろう。中は何が入っているんだろう。 ところが、当時の私のお小遣いでは、チョコバリは少し高価に感じた。いつも買っていた棒アイスや氷菓子に比べると、値段がワンランク上だった。友達と一緒にいるのに「買えない」とは言いたくない。でも財布の中身が心もとない。そういう複雑な気持ちで、ケースの前でしばらくじっと見つめていた記憶がある。 結局その日は買えなかった。 初めてチョコバリを口にしたとき、チョコレートとクランチがバリッと割れて、中からひんやりとしたバニラが出てくるあの瞬間の感触は、今でも鮮明に覚えている。「こんな食べ物があったのか」という発見の味だった。 アイスが呼び起こす、リアルな記憶 今でも、スーパーやコンビニでチョコバリ系のアイスを見かけることがある。 棒に刺さったチョココーティングのアイスが、冷凍ケースの中に並んでいる。何気なく目に入るだけで、あの頃の記憶が一気によみがえってくる。 不思議なことに、映像として出てくるのだ。 昭和50年代のあの商店の前。一緒にいた友達の顔。その日に何をしていたか。どんな季節だったか。アイスを眺めながら「買おうかどうしようか」と迷っていた自分の、あの気持ち。 アイスひとつで、そこまで鮮明に出てくることが、我ながら不思議だと思う。 これは「プルーストの記憶」と呼ばれる現象に近いのかもしれない。フランスの作家マルセル・プルーストが、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に幼少期の記憶が洪水のようによみがえるという体験を書いた有名な場面だ。味や匂い、視覚の記憶は、言葉や論理で整理された記憶よりも深いところに刻まれていて、ふとしたきっかけで突然、リアルな映像として浮かび上がってくることがある。 チョコバリを見るたびに、私の中の昭和50年代の夏が戻ってくる。あの頃の友達と、あの頃の町の空気と、お小遣いが足りなくて買えなかったあの悔しさまで、セットで。 「当たり」が出たときの、あの興奮 ブラックモンブランには、子どもたちを夢中にさせるもう一つの仕掛けがあった。 アイスの棒に書かれた**「当たり」くじ**だ。 食べ終わった棒をそっとめくると、「はずれ」か「当たり」の文字が現れる。「当たり」が出れば、お店でもう一本と交換できる。昭和52年から数年間は、特賞として500円の当たりが設けられていた時期もあったという。子どものお小遣いが数百円の時代に、アイス一本で500円が当たる。それはもう、宝くじに近い興奮だった。 棒をじっと見つめて、息をのんで文字を確認するあの瞬間。「当たり」の文字が見えたときの「やった!」という叫びは、九州でも東京でも、昭和の子どもたちに共通の体験だったはずだ。 おわりに 昭和44年5月7日、一人の菓子屋の社長がフランスの雪山に見た夢が、佐賀の工場でアイスになった。 そのアイスが生み出した「チョコバリ系」というジャンルは、やがて九州を飛び出して日本中の冷凍ケースに並ぶようになった。東京の子どもが「フライみたいなアイス」に目を丸くした昭和50年代の夏も、その流れの中の一コマだ。 今もスーパーの冷凍ケースの前で、チョコバリをじっと眺めることがある。買うかどうか迷いながら。あの頃と違うのは、今は買える財布の中身があるということだけだ。 それでも、手に取る前の一瞬、昭和50年代の夏がリアルな映像となってよみがえってくる。あの頃の友達と、あの頃の商店と、あの「フライみたいなアイス」への、ときめきとともに。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった ▶

May 6, 2026