【昭和の今日は何があった日?】8月21日──300点が出た夜、私は1歳だった
8月21日は「パーフェクトの日」だそうです。 パーフェクト。完璧。何のことかと思ったら、ボウリングでした。1ゲーム、12回続けてストライクを出して300点。1本も残さない。1投も外さない。あのピンが全部倒れる小気味いい音を、12回続けて鳴らしきるということです。 昭和45年8月21日。東京・府中のスターレーンで、その300点が出ました。投げたのは中山律子さん。女子プロボウラーとして史上初の、公認パーフェクトゲームでした。 そして私は、その日、1歳4か月でした。 府中スターレーンの、あの一投 昭和44年、日本に女子プロボウラーが誕生します。第1期生は13人。プロテストの合格順がそのままライセンス番号になり、1番が須田開代子さん、2番が中山律子さん、3番が石井利枝さん。この顔ぶれが、のちに「花のトリオ」と呼ばれることになります。 そして翌昭和45年8月21日、府中スターレーンで開かれた女子プロ8月月例会。海野房枝さんとの優勝決定戦の場で、中山さんの手から放たれたボールが、12回続けてピンを薙ぎ倒しました。 この日が決定的だったのには、理由があります。テレビカメラが回っていたのです。当時のNETテレビ(現在のテレビ朝日)が『レディズ・チャレンジボウル』という番組を収録していて、その録画放送が夕食の時間帯だった。つまり、日本中の茶の間がいちばん賑わっている時間に、あの300点が流れたわけです。 ちなみに中山さんは、その最後の一投を見ていなかったそうです。怖くて目をつむってしまった。10本のピンが弾けたことは、場内の歓声で分かった。振り向いて客席に両手を突き上げ、その後のことはよく覚えていない——後年、そう語っています。完璧を達成した本人が、その瞬間だけを見ていない。何とも人間くさい話です。 さらに言えば、この日の中山さんは、会場へ向かうタクシーが交通事故に巻き込まれています。幸いけがはなく、予定通り月例会に出場した。その日に300点を出したわけです。 達成の報は、一夜にして列島を駆け巡りました。翌年にはシャンプーのCMに起用され、「さわやか律子さん」というフレーズが流行語になります。「300点への道 さわやか律子さん」というドキュメンタリーのレコードまで作られました。今の感覚だと、ちょっと想像がつきません。 3697軒という数字 数字で見ると、この熱狂の異常さがよく分かります。 昭和35年、日本全国にボウリング場はたった3か所しかありませんでした。それが昭和47年には、3697軒。12年で1000倍以上です。ちなみに近年の数字は、全国で700軒前後。ピーク時の5分の1以下です。 当時の熱狂ぶりを伝える話も、いま聞くと嘘のようです。ボウリング場は順番待ちが2時間当たり前。テレビのゴールデンタイムには各局にボウリング番組が並び、当時無敵だった巨人戦と視聴率を争ったといいます。巨人戦と、です。 その中心にいたのが、中山さんと須田さんでした。動物的なカンの持ち主と評された中山さんは長嶋茂雄、完璧主義者の須田さんは王貞治——当時はそう例えられ、その構図が新聞の挿絵にまでなったそうです。巨人ファンの私からすると、この比喩だけで当時の空気がだいたい想像できてしまいます。ONに例えられるということは、つまり、国民全員が知っている二人だったということですから。 そして、その熱がいちばん高かったころ、私は寝返りを打っていたか、つかまり立ちをしていたか、そのくらいの月齢でした。当然ながら——記憶にございません。 高砂、立石、青戸、金町 ただ、「記憶にない」で終わらないのが、この話の面白いところです。 ブームはオイルショックのころから急速にしぼんでいきました。私が物心つく昭和50年前後には、「一大ブーム」はもう過去のものです。けれど、ブームが去っても建物は残ります。私が知っているボウリング場は、熱狂そのものではなく、その燃えかすのほうでした。 そしてその燃えかすは、私の街にもありました。高砂のイトーヨーカドー。あの5階が、ボウリング場だったのです。買い物に行くたびに、あそこにある。分かってはいるけれど、小さかった私は、5階でプレーした記憶がありません。 高砂だけではありません。立石にも、青戸にも、金町にもありました。それぞれの街に、それぞれの「燃えかす」があった。屋上に立つ、あの巨大なピンの看板。白と赤の、あの奇妙に大きな物体が、空を突いていた光景を、私ははっきり覚えています。 昭和45年の熱狂を、私は知りません。けれど、その熱狂が街に残していった形だけは、毎日のように見上げて育ったわけです。 中学3年、ジュークボックスの夜 初めてボウリングをしたのは、中学3年生のときでした。 中学の友達同士で、大人の付き添いなしで行きました。これが大きい。あのころ、子どもだけで入っていい場所と、そうでない場所の線引きは、今よりずっとはっきりしていました。ボウリング場は、明らかに後者に近い。ちょっと悪いことをしているような、それでいて、大人の世界にほんの少し足を踏み入れたような——あの興奮を、今でも覚えています。 決定的だったのは、ジュークボックスでした。 置いてあるのは見えている。けれど、それが何なのか分からない。まごついている私に、友達の一人が実際に金を入れて、教えてくれました。コインを入れる。曲を選ぶ。すると機械の中でレコードが自動的に選ばれて、スピーカーから曲が流れる。 アメリカ映画に出てくるやつだ、と思いました。 考えてみれば、あのころ私にとって音楽とは、木曜9時の『ザ・ベストテン』であり、カセットに録るものでした。テレビが流してくれるものを、こちらは待つ。それが当たり前だった。ところがジュークボックスは、金を入れれば、自分の聴きたい曲がその場で鳴る。順番待ちも、司会の進行もない。あの箱は、音楽の主導権がこちらに移る装置だったわけです。 あのとき、たしかに私は「大人の世界」の入口を覗いたのだと思います。ボウリングそのものより、あの箱のほうが、はるかに強く記憶に残っています。 年に一度でも投げに行くなら、手首のサポーターがひとつあると違います。私のようにふだん投げない人間ほど、後半に手首が負けてくるので。 ABS スーパーリスト(ボウリング用リストサポーター)アメリカンボウリングサービスの定番。手首の角度が決まるので、終盤にフォームが崩れにくくなります。3サイズ展開 Amazonで見る › テレビの中の、背中の文字 中山律子さんについては、正直、記憶が曖昧です。 シャンプーのCMを見たような気がしているのですが、私が生まれた翌々年の放送ですから、リアルタイムのはずがありません。どこかで見た再放送か、あるいは後年の映像を、記憶が勝手に「見た」ことにしているのだと思います。 ただ、はっきり覚えていることが一つあります。中山さんが出ていたボウリング番組を、テレビで見たのです。昭和の終わりごろ、ゴールデンタイムにボウリング番組がある——それ自体、今では信じられない話ですが、たしかにありました。 そして、なぜかその記憶の中に、背中の文字が残っています。「エバラ食品」。ボウリングシャツの背中に、その文字があった気がするのです。 正直に書きますが、この記憶の裏付けは取れませんでした。所属先だったのか、大会のスポンサーだったのか、あるいは私の記憶違いなのか。分かりません。それでも、あの背中の文字だけが妙に鮮明に残っているのが、記憶というものの不思議なところです。 青戸に残った、一本のピン あの頃、高砂、立石、青戸、金町の空を突いていた巨大ピン。いま、かろうじて残っているのは青戸だけになりました。 高砂のヨーカドーの5階も、もうボウリング場ではありません。当時のブームの面影は、かけらも残っていない——そう書きたくなるところですが、実はそうでもないのです。 私の子どもたちは、小学生のうちにボウリングを経験しています。そして「とても面白い」と言う。毎年12月、学童野球チームでボウリング大会が開かれるのです。監督、コーチ、保護者、選手たち、みんなで行って、ワイワイと投げる。ガーターを出して笑い、ストライクが出れば大騒ぎになる。 3697軒の時代は、たしかに終わりました。けれど、あのレーンの上で人が笑う光景そのものは、形を変えて、まだちゃんと続いています。 いまの子どもは、両手で投げます。私たちの世代には見慣れないフォームですが、体の小さいうちから重い球を扱えるので理にかなっているのだそうです。子どもや孫と行くなら、一冊持っておくと会話が変わります。 ボウリング はじめてみよう、両手投げ塩山一美/ベースボール・マガジン社。いまの主流になった両手投げを、基礎から写真で解説。子どもや初心者が最初に読む一冊として Amazonで見る › おわりに 昭和45年8月21日の夜。テレビの前で、日本中の大人たちが息を呑んでいたはずです。12投目のボールがレーンを転がっていく、あの数秒間を。 ...