菓子が、こわいものになった日 ― 昭和59年9月12日、森永製菓に脅迫状が届いた|昭和の今日は何があった日?
大阪に届いた、一通の封筒 昭和59年、1984年9月12日の朝。大阪にあった森永製菓の関西販売本部に、一通の脅迫状が届いた。 差出人は「かい人21面相」。文面はこうだった。グリコと同じ目にあいたくなければ、1億円を出せ。要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて店頭に置く。 そして封筒には、実際に青酸入りの菓子が同封されていた。 この年の3月、江崎グリコの社長が兵庫県西宮市の自宅から連れ去られた。犯人は身代金10億円と金塊100キロを要求し、社長は三日後に自力で脱出した。4月には本社が放火され、5月には新聞各社に「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」という挑戦状が届いた。それが報じられた途端、全国の店頭からグリコの商品が消えた。工場も止まった。 その矛先が、9月12日、森永に向いた。 菓子メーカーが狙われている。しかも、菓子そのものが凶器として使われる。子どもが最も近づきやすい場所に、毒が置かれるかもしれない。そういう事件だった。 中学三年生の秋だった 私はそのとき、中学三年生だった。 昭和44年4月生まれだから、15歳。受験という言葉が、そろそろ現実の重さを持ちはじめる頃だ。 事件のことは、テレビのニュースやワイドショー番組で知った。 「かい人21面相」という名前を初めて聞いたとき、私が感じたのは恐怖ではなかった。おふざけなのか、と思った。犯人が自分で名乗る名前としては、あまりにも軽い。江戸川乱歩の少年探偵団に出てくる怪盗をもじった、遊びのような響きだった。 そして正直に言えば、どこか他人事だった。 昭和59年という年を並べてみると、妙な取り合わせになる。この年の11月には新しい紙幣が発行され、一万円札の顔が福沢諭吉になった。テレビではコアラやエリマキトカゲが騒がれていた。その同じ年の裏側で、菓子メーカーが次々に脅されていたのだ。 事件が起きているのは関西で、私が住んでいるのは東京の東の端だ。テレビの中で起きていることとして眺めていた。あとから考えれば、それは幸運なことだったのかもしれない。 いま振り返ると、この事件は昭和の犯罪史の中でも特異な形をしている。犯人は一度も人前に姿を現さなかった。身代金の受け渡し現場にも現れなかった。そのかわり、新聞社やテレビ局に百四十通を超える手紙を送りつけ、警察を挑発し、世間を観客にした。のちに「劇場型犯罪」と呼ばれるようになる手口の、はしりだった。 観客席に座らされていたのは、私たちだ。菓子を買う側の、ごく普通の人間たちだった。 棚から消えた記憶は、ない 正直に書いておきたいことがある。 私には、葛飾の店から森永の菓子が消えたという記憶がない。 森永の商品で、当時これをよく食べていた、と言えるものも特にない。翌年には高校生になって、買い物の場所は主にコンビニエンスストアに変わっていった。そのどちらの時期を思い返しても、売り場から森永製品が減ったとか、姿が見えなくなったとか、そういう光景は残っていないのだ。 企業にとっては数十億円という単位の損害だったという。だが数字は、あとから知ったことだ。当時の私が見ていたのは、テレビの画面の中の大阪であって、自分が立っている売り場ではなかった。 記憶がないということ自体が、ひとつの事実だと思う。関西で起きた事件が、東京の中学生の日常の棚までは届いていなかった。少なくとも、私の目には映っていなかった。 その距離が縮まるのは、翌月のことだ。 「どくいり きけん たべたら しぬで」 10月7日から13日にかけて、大阪、京都、兵庫、愛知のスーパーやコンビニで、不審な森永製品が次々に見つかった。四府県で13個。そこには紙が貼られていた。 どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相 ひらがなで書かれていた。子どもでも読める字だった。そして実際に、中には青酸ソーダが入っていた。 10月8日には百貨店にも脅迫状が届く。森永製品を置くな、という要求だった。そこには「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」と書かれていた。 私はテレビでこの文言を見たのだと思う。関西弁で、ひらがなで、まるで子どもに話しかけるような書き方で、人が死ぬかもしれないことが書いてある。その落差が気味悪い。 そして、本当に毒が入っていたという報道が流れたとき、空気が変わった。 それまで他人事だったものが、私たちの周りでも話題になった。日々の会話の中に、この事件が入り込んできていた。学校で、家で、誰かが口にする。名前が軽いことも、関西の事件であることも、もう関係がなくなっていた。 「おふざけなの?」と思っていた名前が、人を殺しかねない名前になった。私にとってこの事件が本当に始まったのは、9月12日ではなく、その一ヶ月後だったのだと思う。 誰も捕まらないまま終わった この事件は、終わらないまま終わった。 翌昭和60年の夏、犯人グループはマスコミ宛の文書で事件の終息を告げ、それきり沈黙した。一年半近く続いた騒ぎは、解決ではなく、相手が勝手にやめるという形で終わった。捕まえて終わらせたのではない。終わったと言われたから、終わったのだ。 ...