【昭和の今日は何があった日?】8月21日──300点が出た夜、私は1歳だった

8月21日は「パーフェクトの日」だそうです。 パーフェクト。完璧。何のことかと思ったら、ボウリングでした。1ゲーム、12回続けてストライクを出して300点。1本も残さない。1投も外さない。あのピンが全部倒れる小気味いい音を、12回続けて鳴らしきるということです。 昭和45年8月21日。東京・府中のスターレーンで、その300点が出ました。投げたのは中山律子さん。女子プロボウラーとして史上初の、公認パーフェクトゲームでした。 そして私は、その日、1歳4か月でした。 府中スターレーンの、あの一投 昭和44年、日本に女子プロボウラーが誕生します。第1期生は13人。プロテストの合格順がそのままライセンス番号になり、1番が須田開代子さん、2番が中山律子さん、3番が石井利枝さん。この顔ぶれが、のちに「花のトリオ」と呼ばれることになります。 そして翌昭和45年8月21日、府中スターレーンで開かれた女子プロ8月月例会。海野房枝さんとの優勝決定戦の場で、中山さんの手から放たれたボールが、12回続けてピンを薙ぎ倒しました。 この日が決定的だったのには、理由があります。テレビカメラが回っていたのです。当時のNETテレビ(現在のテレビ朝日)が『レディズ・チャレンジボウル』という番組を収録していて、その録画放送が夕食の時間帯だった。つまり、日本中の茶の間がいちばん賑わっている時間に、あの300点が流れたわけです。 ちなみに中山さんは、その最後の一投を見ていなかったそうです。怖くて目をつむってしまった。10本のピンが弾けたことは、場内の歓声で分かった。振り向いて客席に両手を突き上げ、その後のことはよく覚えていない——後年、そう語っています。完璧を達成した本人が、その瞬間だけを見ていない。何とも人間くさい話です。 さらに言えば、この日の中山さんは、会場へ向かうタクシーが交通事故に巻き込まれています。幸いけがはなく、予定通り月例会に出場した。その日に300点を出したわけです。 達成の報は、一夜にして列島を駆け巡りました。翌年にはシャンプーのCMに起用され、「さわやか律子さん」というフレーズが流行語になります。「300点への道 さわやか律子さん」というドキュメンタリーのレコードまで作られました。今の感覚だと、ちょっと想像がつきません。 3697軒という数字 数字で見ると、この熱狂の異常さがよく分かります。 昭和35年、日本全国にボウリング場はたった3か所しかありませんでした。それが昭和47年には、3697軒。12年で1000倍以上です。ちなみに近年の数字は、全国で700軒前後。ピーク時の5分の1以下です。 当時の熱狂ぶりを伝える話も、いま聞くと嘘のようです。ボウリング場は順番待ちが2時間当たり前。テレビのゴールデンタイムには各局にボウリング番組が並び、当時無敵だった巨人戦と視聴率を争ったといいます。巨人戦と、です。 その中心にいたのが、中山さんと須田さんでした。動物的なカンの持ち主と評された中山さんは長嶋茂雄、完璧主義者の須田さんは王貞治——当時はそう例えられ、その構図が新聞の挿絵にまでなったそうです。巨人ファンの私からすると、この比喩だけで当時の空気がだいたい想像できてしまいます。ONに例えられるということは、つまり、国民全員が知っている二人だったということですから。 そして、その熱がいちばん高かったころ、私は寝返りを打っていたか、つかまり立ちをしていたか、そのくらいの月齢でした。当然ながら——記憶にございません。 高砂、立石、青戸、金町 ただ、「記憶にない」で終わらないのが、この話の面白いところです。 ブームはオイルショックのころから急速にしぼんでいきました。私が物心つく昭和50年前後には、「一大ブーム」はもう過去のものです。けれど、ブームが去っても建物は残ります。私が知っているボウリング場は、熱狂そのものではなく、その燃えかすのほうでした。 そしてその燃えかすは、私の街にもありました。高砂のイトーヨーカドー。あの5階が、ボウリング場だったのです。買い物に行くたびに、あそこにある。分かってはいるけれど、小さかった私は、5階でプレーした記憶がありません。 高砂だけではありません。立石にも、青戸にも、金町にもありました。それぞれの街に、それぞれの「燃えかす」があった。屋上に立つ、あの巨大なピンの看板。白と赤の、あの奇妙に大きな物体が、空を突いていた光景を、私ははっきり覚えています。 昭和45年の熱狂を、私は知りません。けれど、その熱狂が街に残していった形だけは、毎日のように見上げて育ったわけです。 中学3年、ジュークボックスの夜 初めてボウリングをしたのは、中学3年生のときでした。 中学の友達同士で、大人の付き添いなしで行きました。これが大きい。あのころ、子どもだけで入っていい場所と、そうでない場所の線引きは、今よりずっとはっきりしていました。ボウリング場は、明らかに後者に近い。ちょっと悪いことをしているような、それでいて、大人の世界にほんの少し足を踏み入れたような——あの興奮を、今でも覚えています。 決定的だったのは、ジュークボックスでした。 置いてあるのは見えている。けれど、それが何なのか分からない。まごついている私に、友達の一人が実際に金を入れて、教えてくれました。コインを入れる。曲を選ぶ。すると機械の中でレコードが自動的に選ばれて、スピーカーから曲が流れる。 アメリカ映画に出てくるやつだ、と思いました。 考えてみれば、あのころ私にとって音楽とは、木曜9時の『ザ・ベストテン』であり、カセットに録るものでした。テレビが流してくれるものを、こちらは待つ。それが当たり前だった。ところがジュークボックスは、金を入れれば、自分の聴きたい曲がその場で鳴る。順番待ちも、司会の進行もない。あの箱は、音楽の主導権がこちらに移る装置だったわけです。 あのとき、たしかに私は「大人の世界」の入口を覗いたのだと思います。ボウリングそのものより、あの箱のほうが、はるかに強く記憶に残っています。 年に一度でも投げに行くなら、手首のサポーターがひとつあると違います。私のようにふだん投げない人間ほど、後半に手首が負けてくるので。 ABS スーパーリスト(ボウリング用リストサポーター)アメリカンボウリングサービスの定番。手首の角度が決まるので、終盤にフォームが崩れにくくなります。3サイズ展開 Amazonで見る › テレビの中の、背中の文字 中山律子さんについては、正直、記憶が曖昧です。 シャンプーのCMを見たような気がしているのですが、私が生まれた翌々年の放送ですから、リアルタイムのはずがありません。どこかで見た再放送か、あるいは後年の映像を、記憶が勝手に「見た」ことにしているのだと思います。 ただ、はっきり覚えていることが一つあります。中山さんが出ていたボウリング番組を、テレビで見たのです。昭和の終わりごろ、ゴールデンタイムにボウリング番組がある——それ自体、今では信じられない話ですが、たしかにありました。 そして、なぜかその記憶の中に、背中の文字が残っています。「エバラ食品」。ボウリングシャツの背中に、その文字があった気がするのです。 正直に書きますが、この記憶の裏付けは取れませんでした。所属先だったのか、大会のスポンサーだったのか、あるいは私の記憶違いなのか。分かりません。それでも、あの背中の文字だけが妙に鮮明に残っているのが、記憶というものの不思議なところです。 青戸に残った、一本のピン あの頃、高砂、立石、青戸、金町の空を突いていた巨大ピン。いま、かろうじて残っているのは青戸だけになりました。 高砂のヨーカドーの5階も、もうボウリング場ではありません。当時のブームの面影は、かけらも残っていない——そう書きたくなるところですが、実はそうでもないのです。 私の子どもたちは、小学生のうちにボウリングを経験しています。そして「とても面白い」と言う。毎年12月、学童野球チームでボウリング大会が開かれるのです。監督、コーチ、保護者、選手たち、みんなで行って、ワイワイと投げる。ガーターを出して笑い、ストライクが出れば大騒ぎになる。 3697軒の時代は、たしかに終わりました。けれど、あのレーンの上で人が笑う光景そのものは、形を変えて、まだちゃんと続いています。 いまの子どもは、両手で投げます。私たちの世代には見慣れないフォームですが、体の小さいうちから重い球を扱えるので理にかなっているのだそうです。子どもや孫と行くなら、一冊持っておくと会話が変わります。 ボウリング はじめてみよう、両手投げ塩山一美/ベースボール・マガジン社。いまの主流になった両手投げを、基礎から写真で解説。子どもや初心者が最初に読む一冊として Amazonで見る › おわりに 昭和45年8月21日の夜。テレビの前で、日本中の大人たちが息を呑んでいたはずです。12投目のボールがレーンを転がっていく、あの数秒間を。 ...

August 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月20日──あの夏、雑誌も終わっていた。『平凡』が幕を下ろした年に

毎朝、この連載のために「今日は何の日」の資料をめくるのが習慣になりました。8月20日のページを開いて、いくつも並ぶ記念日や出来事の中で、ある一行に手が止まりました。 ——昭和62年、マガジンハウスが月刊『平凡』と週刊『平凡』の休刊を発表。 『平凡』。その二文字を見た瞬間、頭の中で、あの表紙が何枚もめくれていくような感覚がありました。散髪屋の待合、親戚の家の茶の間、どこかの本棚。昭和の暮らしのあちこちに、当たり前のように置いてあった雑誌です。 100万部の雑誌が消えていく 『平凡』が創刊されたのは昭和20年11月。戦争が終わった、その年の秋のことです。やがて「歌と映画の娯楽雑誌」として、グラビアと連載小説を二本柱に、ラジオや映画、そしてテレビの時代の波に乗って、部数をぐんぐん伸ばしていきました。ライバルは集英社の『明星』。この二誌が、昭和のアイドル雑誌の二枚看板でした。 最盛期には140万部を超えたといいます。芸能人の素顔も、新曲の歌詞も、お茶の間に届く憧れの情報は、まずこの分厚いグラビア誌の中にありました。歌詞を書き写して覚えるのも、憧れのスターがどんな暮らしをしているのかを知るのも、多くの人にとっては、この一冊が入り口でした。今のスマホの画面が引き受けている役割の、ずいぶん多くを、あの紙の束が担っていたわけです。 その『平凡』が、静かに畳まれていきます。週刊『平凡』は昭和62年10月6日号を最後に休刊。月刊『平凡』も、同じ年の12月号で幕を下ろしました。驚くのは、その最終号すら100万部を超えていたと伝えられていることです。売れなくなったから終わったのではない。テレビがさらに情報の主役になり、出版社そのものが、もっと都会的でおしゃれな雑誌の会社へと姿を変えていく——その大きな流れの中で、昭和の芸能雑誌は、役目を終えたのだといわれています。 「まだ100万部も出ているのに、終わる」。子どもの頃にそれを聞かされても、たぶんピンとこなかったと思います。けれど57歳になった今、その一行は、妙に胸に残るのです。 私とアイドル雑誌 正直に打ち明けると、私は少しへそ曲がりな子どもでした。 世の中が松田聖子さん一色に染まっていくのが、なんだか面白くなくて、私はあえて河合奈保子さんを応援していました。みんなと同じ方を向くのが、どうにも照れくさかったのです。中学に上がる頃には、その気持ちは中森明菜さんへと移っていきました。 木曜の夜9時は『ザ・ベストテン』。赤いボタンと白いボタンを同時に押して、テレビの音をそのままカセットに録る。ソニーのウォークマンではなく、我が家の予算に合ったAIWAのカセットプレーヤーで、その録音を何度も聴き返しました。 そんな私にとって、『平凡』や『明星』のようなアイドル雑誌は、実はそれほど近い存在ではありませんでした。自分のお小遣いで買った記憶はありません。手に取ったのは、たいてい散髪屋や病院の待合室、あるいは友達の家。順番を待つあいだ、置いてあるのを何となくめくる。そのくらいの距離感でした。私にとっての芸能情報は、あくまでテレビとラジオが中心で、あの分厚いグラビア誌は、少し離れたところで開かれている、大人びた世界のように見えていたのです。 あの頃の歌は、いまベスト盤で一枚にまとまっています。まずは、へそ曲がりの私が選んだほうから。 河合奈保子 ゴールデン☆ベスト ~A面コレクション~日本コロムビア。デビュー曲からのシングルA面を集めた2時間32分。「スマイル・フォー・ミー」「ラブレター」「エスカレーション」ほか Amazonで見る › そして、中学に上がってから乗り換えたほう。 ベスト・コレクション ~ラブ・ソングス&ポップ・ソングス~ 中森明菜ワーナーミュージック・ジャパン。「少女A」「セカンド・ラブ」「DESIRE」ほか、2時間23分。レビュー677件・星4.5 Amazonで見る › あの夏、私自身も終わっていた ここまで書いてきて、ひとつ、動かせない事実に気づきました。 『平凡』が幕を下ろした昭和62年——1987年。それは、私にとっても特別な年でした。 この年の7月23日、私は神宮第二球場で、高校野球を終えています。真夏の炎天下、スパイク越しに伝わる砂の熱さ、ヘッドスライディング、止まらない涙。あの敗戦を最後に、私の少年時代は幕を閉じました。そこから先の夏は、いわゆる抜け殻状態。進路も決まらず、何を見て、何を考えていたのか、正直、ほとんど覚えていません。 つまり——自分の少年時代が終わったのと同じ年の、同じ夏に、少年時代を彩ってくれた雑誌たちも、静かに畳まれていた。 けれど、正直に書きます。当時の私は、そのことにまったく気づいていませんでした。『平凡』や『明星』が消えていくことなど、意識の外でした。それどころではなかった、というのが本当のところです。高校野球が抜けたあとにぽっかり空いた場所を、何かが埋めてくれることは、あの夏、ついにありませんでした。ラジオから流れる歌も、テレビの中のアイドルも、あの穴には届かなかった。ただ、時間だけが過ぎていったのを覚えています。 もうひとつの8月20日 ── 銀座の信号機 さて、少し話を変えます。8月20日は「交通信号設置記念日」でもあります。 昭和6年(1931年)のこの日、東京・銀座の尾張町交差点——今の銀座4丁目交差点です——や京橋など、34か所に、日本で初めての3色灯の自動信号機が設置されました。面白いのは、当時の信号機は、色が変わるたびにベルが鳴ったそうなのです。「やかましい」という苦情も出たと伝わっています。もっとも、設置された当初は、信号という仕組みそのものがまだ世の中に浸透しておらず、色を無視して進んでしまう人や車も多く、かえって事故が起きたともいわれています。 今では、信号は音もなく、当たり前に色を変えます。青、黄、赤、そしてまた青。誰に褒められるでもなく、毎日律儀に、同じ仕事を繰り返している。 子どもの頃を思い返すと、街の風景の中には、いつも信号と電車があったような気がします。 高砂のあたりには踏切があり、線路をまたぐ歩道橋もありました。踏切が鳴り始めると足を止め、遮断機の向こうを電車が通り過ぎていくのを眺める。今のように何か特別な目的があったわけではありません。ただ、赤や青に変わる信号や、規則正しく点滅する踏切の灯り、目の前を走り抜けていく電車そのものが、子どもの私には面白かったのでしょう。 学校へ行くようになると、信号はもっと身近なものになりました。 「青になったら渡るんだよ」 そんなことを親や先生から何度も言われた記憶があります。今考えれば当たり前のことですが、子どもにとって信号は、街の中で守らなければならない最初の約束事のようなものだったのかもしれません。 そして、もう一つ覚えているのが夕方の街の音です。 夢中になって遊んでいても、夕方5時になるとチャイムが聞こえてくる。その音を聞くと、「そろそろ帰らなきゃ」と思う。誰かに腕時計を見せられなくても、街そのものが時間を教えてくれていました。踏切の音、電車の走る音、信号の電子音、夕方のチャイム。そうしたもの全部が、あの頃の私たちの暮らしの中に溶け込んでいたのだと思います。 それから半世紀近くが過ぎました。 57歳になった今、私は路線バスの運転士として、一日じゅう信号と向き合っています。 赤信号で止まり、青信号で進む。それだけなら、子どもの頃に教わったことと何も変わりません。しかし今は、その信号の向こうに、お客様の安全があります。黄色に変わるタイミングを見ながら無理をせず、交差点の歩行者や自転車にも目を配る。一つの信号を見る意味が、子どもの頃とはまったく違うものになりました。 不思議なものです。子どもの頃、踏切のそばや交差点で何気なく見上げていた赤・黄・青の三色の光。それが今では、一日の仕事を共にする「相棒」のような存在になっています。 あの頃の私は、まさか何十年後、自分が大きなバスのハンドルを握り、毎日何百回となく信号を確認する仕事をしているとは想像もしなかったでしょう。けれど、赤なら止まり、青なら進む。街が変わり、自分も年を重ね、立場もずいぶん変わりました。それでも、子どもの頃から変わらずそこにある三色の光を見ると、ときどき人生というものは、思いがけないところで昔と今がつながっているものだな、と思うのです。 変わり続けるもの、終わるもの 雑誌は、一度きり、終わっていきます。あれだけ売れていても、時代が役目を返せと言えば、静かに幕を下ろす。100万部の『平凡』でさえ、そうでした。 信号は、終わりません。銀座にベルを鳴らして生まれてから90年あまり、色を変え続けながら、ずっとそこに在り続けています。変わり続けることで、変わらずにいる。 高校野球を失ったあの夏、私の手の中からは、いろいろなものがこぼれ落ちていきました。少年時代そのものも、それを彩った雑誌たちも。けれど、あのとき見上げていた三色の光だけは、今も変わらず、私の目の前で青に変わってくれます。 みなさんには、「気づかないうちに終わっていた」ものはありますか。いつもの店、いつもの雑誌、いつもの番組。そこにあるのが当たり前すぎて、消えたことにずっと後から気づく——そんな一つを、よかったらコメントで教えてください。 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【8月19日】20番乗り場と、祭壇のサインボール | 次の記事:【8月21日】300点が出た夜、私は1歳だった ▶ ...

August 20, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月19日──20番乗り場と、祭壇のサインボール

書くかどうか、少し迷った日 このシリーズは、駄菓子やテレビ番組や野球の話が多い。子どもの目線でながめた昭和を、なるべく軽やかに書きたいと思ってやってきました。 でも8月19日を調べていて、どうしても素通りできない出来事に行き当たりました。しかもそれは、いまの私の仕事そのものに関わる出来事で、そして、私が四十六年ものあいだ忘れられずにいた出来事でもありました。 1980年(昭和55年)8月19日、火曜日。夜9時過ぎの、新宿駅西口バスターミナル。 20番乗り場 その日、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄。バス事業はのちに分社化されました)が運行する中野車庫行きの路線バスが、20番乗り場で発車を待っていました。車内には30人ほどのお客さんが乗っていたといいます。 そこに、一人の男が後部ドアからガソリンの入ったバケツと火のついた新聞紙を投げ入れました。 火は一瞬で燃え広がり、6人が亡くなり、14人が重軽傷を負いました。 犯人は当時38歳。駅前の階段で酒を飲んでいたところを誰かに注意され、腹を立てて犯行に及んだと供述しています。それだけです。乗っていた人たちは、誰一人その男と関わりがなかった。ただ、家に帰るためにバスに乗っていただけでした。 私は事件の詳しい様子をここに書きません。調べているあいだ、何度も画面を閉じました。ただ一つだけ、どうしても書いておきたいことがあります。 亡くなった方の中に、後楽園球場で行われた巨人対ヤクルト戦を観戦した帰りの父子がいました。お父さんは40歳、息子さんは8歳でした。 祭壇に置かれたサインボール 私は、この事件を覚えています。 ナイター観戦帰りの父子が巻き込まれたというニュース報道は、11歳の私にとっても衝撃的でした。そして、その少年は大の巨人ファンで、とりわけ王貞治選手が好きだったと報じられていました。 事件を聞いた後楽園スタヂアムと巨人軍は、父子の告別式に花を贈りました。そして王貞治さんが、球団関係者を通じて祭壇にサインボールを届けたことが報道されました。 はっきり覚えているのは、たぶんそのせいです。野球のニュースと事件のニュースが、あの夏、一本につながってしまった。 書きながら気づいたことがあります。1980年は、王貞治の現役最後の年でした。その年の11月、王さんは868号を残してユニフォームを脱いでいます。あの少年が最後に球場で見たのは、引退を目前にした王貞治だったということになります。 8歳の帰り道 一昨日、私はこのシリーズで「プロ野球ナイター記念日」の記事を書きました。布団の中でトランジスタラジオに耳を当てて巨人戦を聴いていた、小学生の私の話です。後楽園のナイターは、当時の私にとって手の届かない場所でした。行きたくてたまらなかった。 その記事を書いた二日後に、この事件に行き当たったわけです。 1980年の夏、私は11歳、小学5年生。あの少年は8歳、小学3年生でした。三つしか違わない。 お父さんに連れられて後楽園に行けたあの子は、私からすればうらやましくてたまらない子どもだったはずです。ナイターの帰り道、まだ興奮が残る頭で、眠い目をこすりながらバスに揺られていた。それは私が心の底から欲しかった時間そのものでした。 その帰り道が、途中で断ち切られた。 法律に「バス」は書かれていなかった この事件では、思わぬところで法律の穴が見つかりました。 刑法108条には、人がいる建造物や汽車、電車、船に火をつけた場合の重い罪が定められています。ところが、その条文に「バス」という言葉はなかった。バスは電車に準ずるものとして108条を適用すべきだという意見も出ましたが、判例がなく学説も分かれていたため、結局は110条の建造物等以外放火罪で起訴されることになりました。 もう一つ。亡くなった方の中に、勤め先からの帰りに子どもの運動靴を買うため、たまたま新宿に立ち寄った母子家庭のお母さんがいました。通常の帰宅経路から外れた場所での被害は労災と認められないのが当時の通例でしたが、この件では当時の労働大臣の発言もあって労災が認定されています。 そして京王帝都電鉄は、自社に落ち度のある事件ではなかったにもかかわらず、全社員に献血を呼びかけ、被害者の医療費を一時立て替えるなどの対応を全社を挙げて行いました。 一つの事件が、法律の言葉づかいと、働く人の補償と、事業者の姿勢を、いっぺんに問い直させたわけです。 8月19日は「バイクの日」でもある 少し空気を変えます。 8月19日は「バ(8)イ(1)ク(9)」の語呂合わせで「バイクの日」でもあります。制定は1989年、昭和64年=平成元年の夏でした。厳密には昭和の出来事ではありませんが、その背景にあったのは、まぎれもなく昭和の空気です。 私が中学生・高校生だったころ、夜になると爆音を鳴らして集団で走る「暴走族」がまだ存在していました。中学の先生は、生徒がそういうものに興味を示さないようにと、日ごろから「バイクにはさわるな!」と叫んでいました。触るな、です。乗るな、ですらない。 そして1982年(昭和57年)、全国高等学校PTA連合会が仙台大会で「三ない運動」を決議します。「免許を取らせない」「乗せない」「買わせない」。地域によっては「車に乗せてもらわない」を足した「四ない運動」、さらに「親は子どもの要求に負けない」まで加わったところもありました。 私が高校生だったのは1985年から1987年。まさに三ない運動の真っただ中で、私の高校の校則にもそれに近い内容が入っていました。ただ、都立高校だったこともあってか、そこまで厳格に守らせるわけではなく、登下校にバイクを使うこと以外にはかなり寛容だったのです。 ノーヘルで走っていた一年 正直に書きます。私は高校入学後まもなく原付免許を取り、原付バイクを買って、学校関係以外では乗り回していました。 当時はまだ、原付にヘルメット着用の義務がありませんでした。原付を含むすべてのバイク・すべての道路でヘルメット着用が義務化されたのは1986年(昭和61年)7月です。私が高校に入ったのが1985年の春ですから、ちょうど一年ちょっとのあいだ、私は法律上ノーヘルで走れたことになります。 いま思えば、ぞっとします。あのころの自分の頭は、風を切って気持ちよかった、としか記憶していません。 そして同時に思うのは、禁止することと教えることは別だ、ということです。危ないから遠ざける。触るな、と叫ぶ。それは大人にとっていちばん楽な方法でした。実際、私のように隠れて乗る高校生はいなくならなかったわけです。 三ない運動は2010年代に全国的な運動としては役目を終え、いまは「乗せて教える」方向へ舵を切った自治体もあります。半世紀近くかかりましたが、そちらのほうが筋が通っている気がします。 いまは自転車も、ヘルメットが努力義務になりました。あのころノーヘルで走っていた人間が言うのもなんですが、頭は一つしかありません。自転車用なら、帽子に近い形で違和感の少ないものも出ています。 OGK KABUTO 自転車ヘルメット キャンバスアーバン(M/L 57-59cm・JCF推奨)オージーケーカブト。自転車ヘルメットの定番メーカーで、見た目はキャップに近いアーバンタイプ。レビュー2,300件超・星4.3 Amazonで見る › 20番乗り場は、いまもある 事件の現場となった新宿駅西口バスターミナルの20番乗り場は、いまも中野方面へ向かうバスが使っています。 ...

August 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月18日──最後の月と、確かめなかった名前

知らなかったことが、二つ出てきた このシリーズを書いていると、たまに妙な体験をします。「昭和のあの日」を調べているつもりが、調べた先に出てくるのは、昭和を生きていたはずの自分がまるで知らなかったことばかり、という日です。 8月18日は、まさにそれでした。 一つは、1976年(昭和51年)8月18日。ソ連の月探査機「ルナ24号」が、月に降りた日です。私は小学一年生。まったく、これっぽっちも記憶にありません。 もう一つは、1989年(平成元年)8月18日。作曲家・古関裕而が亡くなった日です。この人が書いた曲を、私は子どもの頃から数え切れないほど口にしていました。それどころか、私の通っていた中学校の校歌まで、この人の作曲だったのです。 知らないうちに人類が月から引き揚げていた日と、知らないうちに自分のそばにいた人がいなくなった日。同じ8月18日の話を、順番にしていきます。 20世紀最後に、月に降りた機械 ルナ24号は、1976年8月9日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。月周回軌道を経て、8月18日、「危難の海」と呼ばれる平原に軟着陸します。 やったことは、いま読むと地味です。アームを伸ばし、月面の地下2メートルほどから土をすくい、カプセルに詰める。翌19日、そのカプセルを月面から打ち上げ、22日には西シベリアのスルグト近郊に無事着地させました。持ち帰った月の土は、170.1グラム。手のひらに載る量です。 しかしこの地味な成功には、二つの重い意味がありました。 一つは、これがソ連のルナ計画の最後だったということ。1959年のルナ1号から17年、40機以上を月へ送り続けた計画は、この24号で幕を閉じます。着陸地点から2.3キロ離れた場所には、2年前にサンプル回収に失敗したルナ23号が横たわっていました。24号は、その弔い合戦でもあったわけです。 もう一つ。これが、20世紀における最後の月面着陸だったということです。アポロ17号の有人飛行が1972年。無人のルナ24号が1976年。そこから先、月の表面に何かがそっと降りることは、20世紀のあいだ二度と起きませんでした。次の軟着陸は2013年、中国の嫦娥3号。実に37年後です。 1976年8月18日は、人類が月に手を伸ばすのをいったんやめた日でもありました。月は「行くところ」から「見上げるもの」に戻っていったのです。 そのころ私は、区民プールにいた そんな節目の日、七歳の私は何をしていたか。 水泳が上手くなりたくて、区民プール通いに明け暮れていました。頭にあったのは、あと何メートル泳げるようになるか。それだけです。 だからルナ24号については、当時の記憶がゼロです。子どもの世界に届かなかったのか、届いていたのに素通りしたのか、それすらわかりません。 ただ、月といえば思い出すことが一つだけあります。父が、事あるごとにこう言っていたのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよなぁ」 私が生まれる二か月ほど前の出来事です。父にとってそれは、生涯語り継ぎたくなるほどの衝撃だったのでしょう。だから私の中の「月」は、ずっとアポロと父の声で出来ていました。ソ連が黙々と無人機を送り続けていたことも、その最後の一機が私の小学一年生の夏に降りたことも、この記事を書くまで知らないままでした。 半世紀後の今、私はようやく知ったわけです。父が繰り返し語っていたあの熱狂の時代は、私がプールで水をかいていた年に、静かに終わっていたのだと。 六甲おろしを書いた人が、母校の校歌も書いていた 話を1989年に移します。 古関裕而。1909年(明治42年)、福島市の呉服店の長男として生まれました。本名は勇治。1930年に日本コロムビアの専属作曲家となり、生涯で約五千曲を書いたとされます。 代表作を並べると、たぶん誰でも一曲は知っています。早稲田大学の応援歌「紺碧の空」。阪神タイガースの歌「六甲おろし」。全国高校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」。1964年東京五輪の「オリンピック・マーチ」。「長崎の鐘」「君の名は」「鐘の鳴る丘」。 そして巨人ファンの私にとっては、これです。1963年(昭和38年)、球団創立30周年を記念して制定された三代目の球団歌「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」。歌詞は読売新聞が公募し、二万篇を超える応募から選ばれました。作曲は古関裕而。つまり「六甲おろし」と「闘魂こめて」は、同じ人の手から出ています。宿敵同士の球団歌を、一人の作曲家が書いていたわけです。 さらに古関は、全国の学校の校歌や応援歌をおびただしい数、手掛けました。福島市古関裕而記念館の調べでは、福島県内だけで101校。全国分は記念館が地方別の一覧を公開しているほどの規模です。そしてその一覧に、私の母校の名前がありました。 記念館のサイトに、こんな話も載っています。ある日、北海道の小さな小学校の校長から手紙が届く。校歌を作ってほしいが、予算がなく、お礼らしいお礼もできない──それでも思い切って書きました、と。古関は「お礼は結構です」と伝えて曲を送りました。しばらくして届いたお礼は、一斗缶いっぱいの小豆。児童たちが一人ひと握りずつ、家から持ち寄ったものだったそうです。 こういう人が、五千曲を書いた。数の異様さの中身が、少し見えた気がしました。 確かめなかった名前 私は中学の校歌を、歌詞もメロディーも、今でもはっきりと歌えます。 行事のあるごとに歌いました。入学した当初の音楽の授業では、「校歌」と「君が代」を繰り返し、しっかりと歌わされました。あのころ体に叩き込まれたものは、四十年以上たっても抜けないものです。 そして、これが今回いちばん自分でも驚いたことなのですが──当時から、思っていたのです。 「うちの校歌の作曲のところに書いてある名前、なんだか聞き覚えがあるな」 思っていたのに、確かめなかった。 十三歳の私は、その名前を目にしていました。聞き覚えがあるという感覚まで持っていました。あと一歩、誰かに聞くか、家で調べるかしていれば、そこで繋がっていたはずなのです。甲子園で流れるあの曲、六甲おろし、そして東京ドームの五回裏に鳴るあの曲と、自分が体育館で歌っている校歌が、同じ人の手から出ているということに。 私が中学に入った1982年(昭和57年)、古関裕而は72歳。まだ生きていました。私が音楽室で校歌を繰り返し歌っていたその時、作曲者は現役の人間として、この世のどこかにいたのです。その七年後の夏に亡くなりました。 1989年8月18日午後9時30分、脳梗塞。八十歳の誕生日を迎えてから一週間足らずでした。前年11月に福島市に記念館が開館していましたが、すでに入院生活に入っており、自分の名を冠した建物を訪ねることはできなかったといいます。 その夏、私は大学一年生でした。高校野球を追いかけていた時間が終わり、浪人の一年を経て、ようやく別の生活が始まったところです。訃報の記憶は、まったくありません。母校の校歌を書いた人が亡くなった日を、私は何も知らずに通り過ぎていました。 気づかないうちに、そばにあった いま東京ドームで巨人戦を見ていると、五回が終わったところで「闘魂こめて」が流れます。水道橋駅では、2006年から発車メロディにこの曲が使われています。夏になれば甲子園で「栄冠は君に輝く」が鳴り、私は子どもたちの試合を追いかけながらそれを聞いています。中学の三年間は、行事のたびに校歌を歌っていました。 全部、同じ人が書いた音だったのです。 ルナ24号のことは、知らなかったから記憶がありません。古関裕而のことは、名前に聞き覚えがありながら確かめなかったせいで、記憶だけが山ほどあります。素通りしたものと、体に入ったまま名前を持たなかったもの。同じ日付の両側に、ちょうど対になって並んでいました。 古関裕而には、自分の言葉で書いた自伝が残っています。福島で作曲に目覚めた小学生時代から、山田耕筰に見いだされてのデビュー、そしてあの名曲たちの誕生秘話まで。文庫で手に入ります。 鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝(集英社文庫)古関裕而/集英社。約5,000曲を書いた作曲家の、唯一無二の自伝。「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」「オリンピック・マーチ」がどう生まれたのかを本人が語っています Amazonで見る › 四十四年後の入学式 月の話には、続きがあります。ルナ24号から37年後の2013年、中国の嫦娥3号が軟着陸に成功。2024年1月には日本のSLIMが月面に降りました。そして今年、2026年4月。NASAのアルテミスII号が四人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられ、月をまわって帰ってきました。着陸こそしていませんが、有人で月の近くまで行ったのはアポロ以来、半世紀ぶりです。父に見せたかったな、と思います。 ...

August 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月17日──布団の中で聴いた、9回裏

今日は8月17日。夏の夜が、いちばん濃くなる頃だ。 昭和の子どもにとって、夏の夜といえば、まだ寝たくない時間だった。窓を開け放てば、扇風機の風、遠くの花火の音、そしてどこかの家から漏れてくるナイター中継の実況の声。それが、夏の夜の空気だった。 きょう8月17日は、その「ナイター」が日本のプロ野球に初めて灯った日、プロ野球ナイター記念日である。昭和23年(1948年)のこの日、日本の野球は初めて「夜」を手に入れた。 そしてそれから30年後の夏、小学3年生だった私は、その「夜の野球」を、布団の中で、イヤホン越しに聴いていた。 日本の野球が、夜を手に入れた日 昭和23年8月17日、横浜の球場で、日本プロ野球史上初のナイトゲームが行われた。カードは、東京巨人軍対中日ドラゴンズ。 会場は、当時「横浜ゲーリック球場」と呼ばれていた球場だ。終戦から3年、この球場は進駐軍に接収され、大リーグの名選手にちなんで「ルー・ゲーリック・スタジアム」と改称されていた。そして他の球場に先駆けて照明設備が設けられていた。とはいえ、それは駐留部隊の兵士が余暇に野球を楽しむためのもので、決して明るいものではなかったという。 出場した選手のうち、ナイトゲームを経験したことがあるのは、巨人の2人の選手と、2人の審判だけ。昭和11年の渡米時に体験しただけで、あとの全員が初めての夜間試合だった。 連盟は慎重だった。この日の横浜の日の入りは午後7時29分。薄暮の、いちばん白球が見えにくい時間帯を避けるため、空が完全に真っ暗になる午後8時8分まで、あえて試合開始を遅らせている。夜の野球に、誰もがまだ手探りだった。 球場には2万人の観衆が詰めかけた。入りきれないファンのために、グラウンド内にまで特設シートが作られたというから、その熱気が伝わってくる。 だが、案の定というべきか、暗さは試合に影を落とした。1回裏、巨人の青田昇は、速球が見えにくかったのか、顔面に死球を受けて退場。8回裏には、川上哲治の当たりを照明の暗さで審判がとっさに見極められず、判定をめぐって試合が10分間も中断したという。 試合は3対2で中日が競り勝った。 もう一つ、忘れがたい逸話がある。試合の前日、海の向こうでベーブ・ルースが亡くなっていた。そのため日本初のナイターは、球場全体でルースに黙祷を捧げるところから始まっている。「ナイター」という和製英語が定着するのは、実はこの2年後のことだったというが──ともあれ、日本の夜の野球は、こうして薄暗い照明の下から始まった。 夜の野球は、いつも途中で終わった それから30年。昭和53年(1978年)の夏、私は小学3年生になっていた。 このころには、テレビをつければ、どこかのチャンネルで必ずプロ野球中継をやっていた。もちろん、葛飾の野球少年だった私が観るのは、読売ジャイアンツ一択である。 ところが、子どもにとって、テレビのナイター中継には一つの大きな「壁」があった。 放送が、試合の途中で終わってしまうのだ。 当時のテレビ中継は、だいたい午後9時前後にきっちり終わる。試合がまだ7回だろうが8回だろうが、放送時間が来れば画面はぷつりと切り替わり、次の番組が始まってしまう。競った展開のまま「この続きは……」と放り出される、あの無情さ。夜の野球は、子どもにとって、いつも最後まで見せてもらえないものだった。 その悔しさを埋めてくれたのが、トランジスタラジオだった。 3年生のとき、誕生日のプレゼントに、手のひらに収まる小さなトランジスタラジオをもらった。テレビ中継が切れても、ラジオならまだ試合をやっている。それに気づいてからの私は、夜になると布団に入り、ラジオを枕元に置いて、イヤホンを片耳に差し込み、ジャイアンツ戦の続きを聴くようになった。 真っ暗な部屋で、布団にくるまって、耳の奥だけに、実況の声とスタンドのざわめきが響いている。家族と観るのとはまた違う、自分ひとりだけの野球中継。あの時間が、たまらなく好きだった。 そのまま、試合の途中で眠ってしまった夜も、何度もあった。それでも困ることはなかった。朝、目が覚めれば、新聞のスポーツ欄で結果を知ることができたからだ。ゆうべ聴きながら寝落ちしたあの試合がどうなったのか、朝刊で確かめるのも、一日の楽しみだった。 しかも、あの昭和53年の夏の巨人は、ただの巨人ではなかった。この年、ジャイアンツは首位を走っていた。8月下旬には2位ヤクルトに4ゲーム半もの差をつけ、優勝目前まで迫っていたのだ。(結局この年は終盤に失速し、球団初優勝を遂げたヤクルトに優勝をさらわれるのだが──それはまだ、夏の私の知らない秋の話だ。) 首位を走るジャイアンツを毎晩、布団の中で追いかける。あの夏の熱を、私は今でも覚えている。だからだろうか、あのころの打順は、今でもすらすら口をついて出てくる。 1番・センター 柴田 2番・セカンド 土井 3番・レフト 張本 4番・ファースト 王 5番・ライト 柳田 6番・サード 高田 7番・ショート 河埜 8番・キャッチャー 吉田 9番・ピッチャー 堀内 我ながら、よく覚えているものだと思う。学校の勉強はとっくに忘れてしまったのに、この9人の名前と守備位置だけは、40年以上たった今も順番どおりに出てくる。布団の中でイヤホン越しに何度も聴いた名前は、頭ではなく、体のどこかに刻まれているのだろう。 いまも、手のひらに収まるラジオは売られている。ワイドFM対応で、イヤホン付き。単4電池2本でイヤホン使用なら150時間以上もつというから、あのころより性能はずっと上だ。枕元に置くのはもちろん、災害のときにも役に立つ。 オーム電機 AudioComm AM/FMポケットラジオ RAD-P212S-S(イヤホン付属)幅55×高さ92mmの手のひらサイズ。ワイドFM対応、イヤホン付属、単4電池2本でイヤホン使用時AM約155時間。防災用の備えとしても Amazonで見る › 球場のナイターは、もっと遠かった テレビとラジオでこれだけ夢中になっていたのだから、当然、本物の球場でナイターを観たくてたまらなかった。 だが、後楽園球場のナイターへは、小学生の私にも、中学生の私にも、行くことはできなかった。 ...

August 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月16日──二死から、二度。延長18回の夜、私は花火をしていた

今日は8月16日。京都の五山送り火が灯り、お盆が静かに終わっていく日です。子どものころの私にとっては、「夏休みが折り返しどころか、下り坂に入った」と気づかされる、少し落ち着かない日でもありました。そして甲子園は、ちょうど大会が佳境に入るころです。 1979年(昭和54年)8月16日、木曜日。夏休みの真ん中のこの日、甲子園球場で一つの試合が始まりました。第61回全国高等学校野球選手権大会の3回戦、和歌山代表・箕島高校と、石川代表・星稜高校。第4試合、プレーボールは午後4時6分でした。 その試合が終わったのは、日がとっぷり暮れたあとのことです。 当時、私は10歳。小学4年生でした。 そして正直に告白すると、私はこの試合をリアルタイムでは見ていません。 その夜、私は花火をしていた 小学4年生の夏、私の野球はプロ野球でした。高校野球というものに、まだそこまでの興味を持っていなかったのだと思います。家でのテレビといえば、当然のように巨人戦のナイター中継。それが私にとっての「野球を見る」ということでした。 そして、テレビの前にいない夜のほうが多かったかもしれません。 あのころの夏休み、私は昼間のうちに友達と花火を買い込んで、夜7時ごろに集合していました。名づけて「花火大会」です。ひと夏に何回やるんだと突っ込まれるレベルで、何度も何度も開催していました(笑)。要するに、花火を口実にした夜遊びです。暗くなってから外に出られるというだけで、あのころは特別なことでした。 午後4時6分に始まった箕島と星稜の試合が、まさにその時間帯まで続いていたことを、私は当時まったく知りませんでした。日本中がテレビにかじりついていたその夜、葛飾の小学4年生は、線香花火の火玉が落ちるのを友達と見つめていたわけです。 春の王者と、北陸のエース 箕島は、この年の春の選抜で優勝しています。夏も勝てば、公立高校としては史上初の春夏連覇。エース石井毅と捕手・嶋田宗彦のバッテリーを擁する、文句なしの優勝候補でした。 対する星稜には、エース堅田外司昭がいました。北陸の高校がまだ全国で無名に近かった時代に、この一戦で全国に名を知らしめてしまう力を、彼らは持っていました。 試合は投手戦になります。4回に両校が1点ずつを取り合ったあとは、スコアボードにゼロが並ぶ。9回を終えて1対1。延長に入り、甲子園の照明のスイッチが入れられました。青空が薄暮になり、やがて星ひとつ見えない夜空に変わっていく。ナイターになった甲子園で、ここから信じがたいことが起こります。 12回裏、二死無走者から 延長12回表、星稜が勝ち越します。打球は二塁への何でもないゴロでしたが、堅守を誇る箕島の二塁手がこれをトンネルしてしまう。 その裏、箕島の攻撃はあっさり二死。走者もいません。あと一人。 箕島の尾藤公監督が敗戦を覚悟したとき、次の打者である一番・嶋田宗彦が、監督の前に立ちはだかってこう言いました。ホームランを狙ってきます、と。我に返った尾藤監督は「よし、狙え」と嶋田の尻を叩いた。 そして嶋田は、本当に打ちました。左翼ラッキーゾーンへの、同点本塁打です。宣言して打つ。漫画でもやりすぎだと言われそうな場面が、この日、甲子園で本当に起きました。 14回の隠し球、16回のつまずき まだ終わりません。 14回裏、箕島はサヨナラのチャンスを作ります。走者の森川康弘が三盗を決めた――ところが、そこで待っていたのは星稜の三塁手による隠し球でした。アウト。12回表の攻撃でスクイズを失敗していた選手が、守備で借りを返した格好です。 そして16回表、星稜が三たび勝ち越します。 16回裏、箕島はまたも二死無走者。打席には、14回に隠し球でアウトになったあの森川。彼が打ち上げた一塁側のファウルフライは、完全に打ち取られた打球でした。星稜の一塁手・加藤が追う。誰もが試合終了を覚悟した、そのとき。 加藤が、つまずいて転倒しました。 原因は、この年から甲子園のファウルグラウンドに敷かれたばかりの人工芝だったといわれています。ボールは落ち、森川は命拾いをした。その直後、森川は左中間へ同点本塁打を放ちます。彼にとって、練習試合を含めても生まれて初めての本塁打でした。 二死無走者から同点本塁打。それが、一試合のうちに二度。 18回裏、3時間50分 18回表、星稜は満塁のチャンスを作りますが、無得点。当時の規定では延長は18回まで。この時点で、星稜の勝ちは消えました。 そして18回裏、箕島がサヨナラ勝ち。4対3。 試合時間3時間50分。観衆は3万4千余。石井毅は18回を257球で投げ抜き、16三振を奪いました。堅田外司昭は17回1/3を208球。甲子園で延長18回まで戦った試合は他にもありますが、18回で決着がついたのは、この試合だけです。ほかはすべて引き分け再試合になっています。 作詞家の阿久悠はこの一戦に感銘を受けて「最高試合」という詩をスポーツ紙に投稿し、作家の山際淳司は「八月のカクテル光線」という短篇を書き上げています。箕島はこのあと大会を制し、公立高校として初めての春夏連覇を達成しました。 日本中が、3チャンネルに回した夜 この試合を調べていて、いちばん「あっ」と声が出たのは、テレビの話でした。 この試合は第4試合です。NHKは総合テレビで中継していましたが、午後6時になると総合はニュースに切り替わらなければならない。そこでNHKは、午後6時から試合終了までを教育テレビに引き継ぐリレー中継を行いました。 つまりあの夜、日本中の茶の間で、テレビのチャンネルが1から3へ回されたわけです。 そして教育テレビの、その時間帯の視聴率は29.4パーセント(関東・ビデオリサーチ)。この数字は、いまもNHK教育テレビの歴代最高記録です。 我が家のテレビが、そのとき3チャンネルに回されたことは、おそらくなかったと思います。私はといえば外で花火に火をつけていたか、家にいたとしても、追いかけていたのは巨人のナイターだったはずですから。 日本中が息を呑んでいた3時間50分と、私の夏休みの夕方は、ぴったり重なっていて、まったく交わっていなかった。同じ夜に、まったく別のものを見ていたわけです。 何度も見た、あの映像 では、私がこの試合を知らないままだったかというと、そうではありません。 何番組だったかまでは特定できませんが、私はこの試合の映像を、後年に何度もテレビの画面で見ています。甲子園の大会期間中、試合と試合の間に流れる名勝負の特集。そういう場面で、あのカクテル光線に照らされた球場と、二死からの本塁打が、繰り返し流れてくるのです。 そのたびに、私は素直に思いました。すごい試合だなぁ、と。 リアルタイムで見た人は「そのとき何をしていたか」を語り、あとから知った私は「何度も見せられて、そのつど驚いた」と語る。同じ一試合が、こんなに違う形で残るのです。 昭和54年の夏、山際淳司はこの試合を「八月のカクテル光線」という短篇に書きました。ホームランを打ったことのない少年が、16回に打った一球の話です。同じ本には、江夏豊の21球を描いた表題作も入っています。私にとっては、あの映像で見た場面が文章になっている、という読み方になりました。 スローカーブを、もう一球(角川文庫)山際淳司/KADOKAWA。この日の箕島-星稜を描いた「八月のカクテル光線」と、江夏の21球を描いた表題作を含む8篇。スポーツノンフィクションのロングセラー Amazonで見る › 「8・16」という日付 この日付には、もう一つ因縁があります。 13年後の1992年8月16日。同じ甲子園で、明徳義塾が星稜の松井秀喜を5打席連続で敬遠しました。星稜が、8月16日に二度、球史に名を刻んだことになります。 さらに驚くのは、この延長18回の試合に星稜の控え選手としてベンチ入りしていた高桑充裕という選手が、のちに地元の中学校で教員兼野球部監督となり、後輩にあたる少年を鍛え上げたことです。その少年が、松井秀喜でした。負けた側のベンチにいた高校生が、13年後の同じ日に敬遠され続ける少年を育てていた。日付というものが、少し不気味に思えてきます。 箕島の尾藤監督は2011年に亡くなりました。葬儀では、星稜の山下智茂前監督が男泣きしながら弔辞を読んだと伝えられています。 この試合は、もう起こらない。それでいい 令和の高校野球では、この試合は物理的に起こりえません。 2018年にタイブレークが導入され、2023年からは延長10回、無死一・二塁から始まることになりました。一人の投手が1日に投げられるのは15イニングまで。2020年からは、1週間の投球数を500球以内とする球数制限もあります。18回を257球で投げ抜くという戦い方は、もう制度が許しません。 こうしたルールには賛否があります。あくまで私個人の意見ですが、私は今のルールを支持する立場です。 たしかに、過去のあの手の凄まじい試合は、もう生まれないでしょう。けれど、ルールが変わったあとには、そのルールの中でまた別の『伝説』がきっと生まれるはずだと、私は信じています。一試合を複数の投手でつないでいくことで、一人ひとりの投手が心理的にも体力的にも持てる全力を発揮できる、ということだってあるかもしれませんしね。 そして何より、将来のある選手たちの「からだ」を守る。この意味は、非常に大きいと考えています。石井投手の257球を語り継ぐことと、いまの球児に同じものを求めることは、まったく別のことですから。 おわりに 宣言してから打った男と、生まれて初めて打った男。隠し球。人工芝のつまずき。作り話にしたら「都合が良すぎる」と没にされそうな出来事が、1979年8月16日の甲子園には、全部そろっていました。 実を言うと私、昨日、その甲子園から帰ってきたばかりです。 令和8年の夏の大会を、社会人の息子、大学1年の娘、中学1年の息子、小学3年の息子と、子ども4人を連れて観てきました。 もう一人、高校2年の息子だけは同行していません。来年の甲子園出場を目指して、この夏も練習と試合に明け暮れているからです。あの球場のスタンドに座りながら、私はどうしても、来年ここに立てるかもしれないもう一人の子のことを考えていました。 ...

August 16, 2026

意味も分からないまま、私も頭を下げた──8月15日、甲子園の正午のサイレン|昭和の今日は何があった日?

夏の甲子園には、年に一度だけ、不思議な瞬間があります。 試合の途中で、突然プレーが止まる。場内アナウンスが流れ、サイレンが鳴り、選手も審判も、スタンドの何万人もが、いっせいに帽子を取って頭を下げる。実況の声も消える。あの騒々しい球場から、音がなくなるのです。 8月15日、正午。 正直に言うと、私は毎日欠かさず大会中継を見ているような子どもではありませんでした。ですから、あの一分間に立ち会ったのも、たまたまです。8月15日の昼、たまたまテレビをつけていて、たまたま試合が映っていた。そういう出会い方でした。 たいてい、一人で見ていました。 そして、サイレンが鳴って画面の中の時間が止まったとき、小学生の私も、テレビの前で一緒に頭を下げたのです。 誰かに言われたわけではありません。何のために下げているのかも、たぶん分かっていませんでした。それでも、頭は下がった。 サイレンが鳴りはじめたのは、昭和38年から 甲子園のあの黙祷は、いつから始まったのか。 調べてみると、1963年(昭和38年)の第45回大会からでした。8月15日は終戦の日にあたるため、正午前にプレーを中断し、正午ちょうどに選手・審判員・観客の全員で一分間の黙祷を捧げる。サイレンも鳴らす。以来、大会日程がこの日にかかる年は、ずっと続けられてきました。 なぜ昭和38年からなのか。理由があります。同じ1963年、東京でも8月15日に政府主催の追悼式が行われるようになったからです。 全国戦没者追悼式そのものは、それ以前にもありました。第1回は1952年(昭和27年)5月2日、新宿御苑。日付も場所も、まだ定まっていません。それが1963年に日比谷公会堂で8月15日に開かれ、翌1964年(昭和39年)は靖国神社、そして1965年(昭和40年)から東京・九段の日本武道館へ。以来この式典は、一度も途切れることなく毎年8月15日に続いています。 正午の時報を合図に、武道館では参列者全員が起立して一分間の黙祷を捧げる。ちょうど同じ時刻、兵庫県西宮市の甲子園球場では、球児たちが帽子を脱いで頭を下げている。 つまり、この連載が扱う昭和40年から64年という時代は、「8月15日の正午に、日本中がいっせいに黙る」という習慣が固まり、あたりまえになっていった時期とぴたりと重なります。1969年(昭和44年)生まれの私にとって、それは物心ついたときにはすでに完成していた、動かしがたい夏の風景でした。 だから私は、何も教わらないまま、頭を下げることだけを覚えたのだと思います。 なぜ、よりによって野球なのか 「その日は日本中で黙祷するのだから、球場だけが特別なわけではないだろう」と思われるかもしれません。 ただ、甲子園と8月15日の縁は、実はかなり深いのです。 戦争が激しくなるなかで、夏の全国大会は1941年(昭和16年)を最後に中止されました。当時は中等学校野球。グラウンドに立っていたはずの若者たちは、次々と戦地へ送られていきました。 その大会が復活したのが、終戦からちょうど一年後——1946年(昭和21年)8月15日です。しかも会場は甲子園ではありませんでした。甲子園球場はGHQに接収されていたため、代わりに西宮球場で開かれています。 物資は何もない時代です。ボールは破れたら縫って使い、折れたバットにはテープを巻いて再利用する。ユニフォームは戦前のものを真似て選手が自分で縫った。全国から集まった代表校はそれぞれ米などの食料を持参して大会に臨み、勝ち進むと滞在が延びて食料が尽きる、と心配したという話まで残っています。 甲子園の正午の黙祷が昭和38年に始まったとき、関係者のなかには、この1946年の夏を身をもって知っている人が大勢いたはずです。あのサイレンは、単に国の行事に合わせただけのものではなかったのだろうと思います。 合宿の真ん中にあった、8月15日 さて、私自身の8月15日です。 高校に入ってからの三度の夏、この日は毎年、決まって野球部の合宿の最中でした。しかも合宿地は長野県です。世間がお盆で帰省したり墓参りをしたりしているその時期に、私たちは葛飾を離れ、信州でボールを追っていたわけです。 1985年(昭和60年)、1年生。この夏の私は足を骨折していて、合宿はほぼ見学でした。 1986年(昭和61年)、2年生。先輩が引退し、新チームの一員として迎えた夏です。 1987年(昭和62年)、3年生。7月の東東京大会で敗れてすでに引退した身で、OBとして合宿の手伝いに入っていました。 三年とも、8月15日の正午は合宿の中にありました。 ところが——黙祷をした記憶が、まったくないのです。 サイレンが鳴った覚えもなければ、監督が集合をかけた覚えもない。テレビの前の小学生だった私は頭を下げていたのに、実際にユニフォームを着てグラウンドに立っていた高校生の私には、その記憶がない。 不思議なものだと思います。甲子園では、まさにその同じ時刻に、球児たちが帽子を取って頭を下げていたはずなのです。あの中に入りたくてボールを追っていた私は、その一分間に加わることのないまま、長野の山あいのグラウンドで汗をかいていた。 近づくほど、遠くなった もうひとつ、正直に書いておきたいことがあります。 甲子園は、私にとってずっと憧れの目標でした。テレビの向こうにある、いつかたどり着きたい場所。 ところが、2年生になって新チームが動きだし、「一年後には自分たちの番だ」となったとき——甲子園は、むしろ遠い存在に感じられるようになったのです。 近づいたはずなのに、遠くなった。 いま振り返ってみて思うのは、自分のいる場所に対する現実感がそうさせたのだろう、ということです。憧れているうちは、距離は測らなくていい。けれど自分が挑戦者の側に立った瞬間、その距離が実寸で見えてしまう。東東京の球場からあの銀傘までが、何段跳びなのかが分かってしまう。 夢が目標に変わると、そこには初めて「届くか、届かないか」という物差しが当てられます。物差しを当てた瞬間に、夢は少しだけ痩せる。 たぶん、これは野球に限った話ではないのだと思います。 正午に、走っている いま、私は路線バスのハンドルを握っています。 この仕事をするようになって気づいたことがあります。8月15日の正午に、私はしばしば、動いているのです。 ダイヤは終戦の日だからといって止まりません。正午に交差点で信号待ちをしていることもあれば、乗客を乗せて次の停留所へ向かっている最中のこともある。目を閉じて頭を下げるわけには、当然いきません。ハンドルを握っている人間に、黙祷はできないのです。 工場のラインも、病院も、鉄道も、きっと同じでしょう。日本中がいっせいに黙るといっても、実際には誰かが動き続けている。動き続けている人がいるからこそ、ほかの誰かが安心して一分間、目を閉じていられる。 そう考えると、甲子園が試合を止めるというのは、なかなかすごいことです。何万人もが集まった真夏の球場で、興行を、勝負を、一分だけ完全に止めてしまう。あれを昭和38年から毎年きっちり続けているというのは、決して簡単なことではないはずです。 21番ゲートの前を、私は何度も通っていた この記事を書くために調べていて、初めて知ったことがあります。 1981年(昭和56年)4月、当時の後楽園球場の脇に「鎮魂の碑」という碑が建立されていました。太平洋戦争などで戦死したプロ野球選手の名を刻んだ碑です。中心になって動いたのは、セントラル・リーグ会長だった鈴木龍二さん。戦前の職業野球の時代からこの世界にいて、選手たちを戦地へ送り出し、戦死の報せを受け取ってきた人でした。八十代半ばになってなお、戦死した選手をそのままにはしておけない、という思いが消えなかったといいます。 ...

August 15, 2026

帽子に黒い線を三本──8月14日、国民皆泳の日と昭和の学校プール|昭和の今日は何があった日?

8月14日は「国民皆泳の日」だそうです。 正直に言うと、私はこの記念日を知りませんでした。この連載のために日付を調べていて、初めて出会った名前です。「皆泳」——みんなで泳ぐ。ずいぶん堂々とした、そして少し古めかしい響きの言葉だと思いました。 国民全員が泳げるように。そんなことを国民的な目標として掲げていた時代があった。 ところが、その言葉を眺めているうちに気づいたのです。私自身、スイミングスクールになど一度も通わずに、小学1年生の夏には25メートルを泳いでいた。あの頃の私は、まさしく「皆泳」の中にいたのだと。 「国民皆泳の日」という記念日 この記念日を制定したのは日本水泳連盟です。1953年(昭和28年)、8月14日を「国民皆泳の日」と定めました。 「皆泳」という言葉づかいに、時代がよく出ています。健康増進という面もありますが、より切実だったのは水難事故を減らすという目的でした。四方を海に囲まれた国で、泳げない人が多すぎる。それは命に直結する問題だ——そういう認識です。 この記念日はその後いったん中断し、2014年(平成26年)に日本水泳連盟があらためて「水泳の日」として引き継ぎました。今は「泳いでつながる笑顔の輪」というスローガンが掲げられています。 昭和28年の「皆泳」と、平成26年の「笑顔の輪」。同じ日付に、まったく手触りの違う言葉が乗っている。この60年ほどの間に、日本人と水の関係が根本から変わったということなのだと思います。 泳げないと、死ぬ その変化を引き起こした出来事のひとつが、1955年(昭和30年)に起きています。 瀬戸内海で、宇高連絡船の紫雲丸が沈没しました。死者168人。そのうち100人以上が、修学旅行の途中だった小中学生でした。 修学旅行です。船に乗って、これから何日か楽しいことがあるはずだった子どもたちが、朝の海で亡くなった。この事故が全国に与えた衝撃は、私の想像できる範囲を超えているのだと思います。 そこから出てきた答えが「泳ぎを教えよう」でした。学校にプールをつくり、体育の授業として水泳を教える。子どもを水難から守るには、まず泳げるようにするしかない——その気運が全国に広がっていきます。 背中を押したのが行政でした。1961年(昭和36年)にスポーツ振興法が成立し、国からの補助金が出るようになると、各地の学校に次々とプールが造られます。東京オリンピック以前の学校プール設置率はおよそ12パーセント。それが1975年(昭和50年)には50パーセントを超えました。10年あまりで、日本の学校の風景が変わったわけです。 私が小学校に入学したのは1976年(昭和51年)の春でした。設置率がちょうど半分を越えた、その翌年ということになります。 校庭の端の、あと付けのプール 私の通った小学校にも、もちろんプールがありました。 校舎からは離れた、屋外です。今になって思い返すと、校庭の端に「あと付け」したのではないか、という感じの立地でした。もともとそこにあった建物ではなく、あとから場所を捻出して据えたような。全国で設置率が12パーセントから50パーセントへ駆け上がっていったあの時期のことを知ると、その「あと付け」感にも納得がいきます。校庭を削ってでもプールを造れ、という号令が、確かに全国に響いていたのでしょう。 6月の中旬になると、体育の授業はすべてプールに切り替わりました。実施の可否は、気温と水温を足した数字で決まります。定められた数値以上なら、雨でもプールでした。 そして当時の私たち子どもは、常にプールの授業を望んでいました。だから雨が本降りの中でプールに入った記憶があります。今から思えば、先生はやりたくなかったんじゃないかな(笑)。 手順もよく覚えています。まず教室で海水パンツに着替える。そのまま校庭に集合する。男性の先生が朝礼台の上に上がって、みんなで準備運動の「ラジオ体操」をする。もちろん朝礼台の上の先生も、海水パンツ一丁です。 そして校庭からプールサイドに向かう途中に、全員が一列に並んで順番にシャワーを通る。あの、冷たさに声が出る一瞬。 書きながら、笑ってしまいました。夏の校庭に、海水パンツ姿の小学生がずらりと並んで、朝礼台の上の先生に合わせて腕を回している。あの光景は、昭和の学校でしか成立しないものだったのかもしれません。 帽子に黒い線を三本 泳力には、明確な等級がありました。 技術が上がっていくにつれて進級していく仕組みで、級に応じてスイミングキャップに赤い線や黒い線を縫い付けていくのです。最上級は1級で、黒い線が三本。 私はあの黒三本が欲しくて、一生懸命に練習しました。目標が帽子の上に見える形で示されているというのは、子どもにとって強烈な動機でした。誰が何本かは、プールに並べば一目でわかってしまう。 つまり「泳げる子」と「泳げない子」を分ける仕組みが、そこには明確にあったということです。 今の感覚からすれば、残酷な仕組みだと言われるかもしれません。でも当時の私にとっては、あれはただ純粋に「登っていける階段」でした。線が増えるたびに、自分が確かに前へ進んでいるとわかる。 私自身は、1年生の夏休みには25メートルを泳げるようになっていました。 夏休みも、毎日プールだった なぜそんなに早く泳げるようになったのか。理由は単純で、とにかく毎日プールに入っていたからです。 夏休みに入っても、午前中にプール開放がありました。ふた学年ごとに時間が割り振られていて、参加の温度感としては「全員参加の授業」に近いものでした(笑)。判子カードもありました。当番の先生というより、該当クラスの先生が全員来ていたように記憶しています。先生は大変だったでしょうね。 友達と連れ立って歩いて行きました。そして学校のプールが開いていない日には、自分たちで区民プールに行っていたのです。 当時、葛飾のあちらこちらに区民プールがありました。小学生は1時間10円です。10円で泳げるのですから、行かない理由がありません。 学校のプール開放と区民プール。この二つを合わせれば、私はほとんど毎日のようにプールに入っていたことになります。スイミングスクールに通う必要などまったくなく、いつのまにか泳げるようになっていた。そのことに、今になって深く納得します。 「国民皆泳」という大きな言葉は、標語として達成されたのではありませんでした。校庭の端にあと付けされたプールと、1時間10円の区民プールと、夏休みの午前中の判子カード。その積み重ねが、地味に、確実に、子どもたちを泳げるようにしていったのです。 「足を引っ張られるから」 ところで、8月14日はお盆の真ん中です。 「お盆に泳ぐと足を引っ張られる」という言い伝えは全国的に知られていますし、この記事を書き始めたとき、私はその話から入るつもりでいました。ところが自分の記憶を掘り返してみると、お盆だから泳ぐな、と言われた覚えがないのです。 代わりに思い出したのは、母の言葉でした。 中川へオタマジャクシを取りに行くようなとき、母はこう言いました。 「足を引っ張られるから、水に入るんじゃないよ」 お盆に限らず、でした。つまりあれはお盆の禁忌ではなく、川そのものへの禁止だったのです。 もっとも、言われなくても川で泳ごうとは思いませんでした。当時の川は、汚かったですから(笑)。私にとって泳ぐ場所とは、あくまでプールでした。学校のプールと、区民プール。それだけです。 面白いものだと思います。プールでは級を上げるために毎日必死に泳ぎ、その一方で、家のすぐ近くを流れる川には決して入らなかった。管理された水では泳ぎを学び、自然の水は敬遠する。私の泳ぎは、最初から「プールの泳ぎ」でした。 そして、それは正しかったのかもしれません。水難による中学生以下の死者・行方不明者は、昭和54年(1979年)に年間1,044人を数えています。翌昭和55年に初めて1,000人を割り、そこから長い時間をかけて減り続けました。令和5年には27人です。 1,044人。私が小学4年生だった年の数字です。「泳げるようにしよう」という国の号令が大げさでもなんでもなかったことが、この数字を見るとよくわかります。 ...

August 14, 2026

昭和58年8月13日──銀行が閉まった土曜日と、「半ドン」という言葉|昭和の今日は何があった日?(8月13日)

昭和58年8月13日。この日は土曜日でした。そしてこの日から、毎月第2土曜日は銀行や証券会社の窓口が閉まることになりました。東京証券取引所の株取引も休みです。日本の金融機関が「土曜日に休む」ということを、初めてやった日でした。 当時、私は中学2年生。14歳の夏です。 銀行が閉まった、最初の土曜日 いまの感覚だと、何が事件なのかわかりにくいと思います。銀行は土日休みで当たり前ではないか、と。 でも昭和58年までは違いました。銀行は土曜日も開いていました。月曜から金曜まではフルに働き、土曜日は午前中だけ営業して閉める。それが普通でした。だから第2土曜日だけでも終日休みにするというのは、当時としては相当に大きな決断だったのです。 いまなら、窓口が閉まっていてもATMがあり、振込も入出金もスマートフォンで済みます。しかし当時は、お金にまつわることの多くが「窓口へ行って人と話す」ことで動いていました。窓口が閉まるというのは、そのままお金が動かせなくなるということです。第2土曜日だけとはいえ、その日に用のあった人は前日までに済ませておかなければならない。休みが増えるというのは、当時それなりに面倒を伴う変化でもあったのだと思います。 しかもこの昭和58年8月13日は、月遅れのお盆の入りでもありました。迎え火をたいて先祖の霊を迎える日です。世の中がいちばん「休みらしい空気」になる日に、銀行のシャッターが初めて土曜日に下りた。並べてみると、偶然にしてはよくできているような気がします。 「半ドン」という言葉 土曜日の午前中だけ働くことを、当時は「半ドン」と呼びました。 この「ドン」は、休日を意味する「どんたく」が縮まったものだそうです。そしてその「どんたく」は、オランダ語で日曜日を意味する「ゾンターク」が江戸時代に日本語のなかへ取り込まれたもの、とされています。博多どんたくの「どんたく」も同じ語源だといいます。江戸時代のオランダ語が、昭和の勤め人と中学生の口から毎週出ていたわけです。言葉というのは、ずいぶん遠くから旅をしてくるものです。 中学2年の、土曜日の午後 学校も半ドンでした。土曜日は午前で授業が終わり、給食もなく、昼前に帰る。 ただし私の場合、それで一日が終わるわけではありませんでした。中学の野球部にいましたから、土曜日は一度家に帰って昼食をとり、それからまた学校へ出直して練習、という流れです。 いま思うと、この「一度帰る」というひと手間が、土曜日という日をよけいに特別なものにしていた気がします。平日ならそのまま部活に入る。日曜なら朝から丸ごと練習の日になる。土曜日だけが、家の食卓を一回はさむのです。昼にいったん家の匂いのする時間があって、そこからまた着替えて出ていく。あの往復が、土曜日の記憶にはくっついています。 世の中では、この年から銀行が第2土曜日に閉まりはじめていました。もちろん14歳の私が、そんなことを気にしていたはずはありません。 なぜ土曜日が休みになったのか きっかけは、外からの声でした。 高度成長を続けた日本に対し、欧米から「日本人は働き過ぎだ」「労働者をあれだけ働かせるのは不公正だ」という批判が強まっていました。国内からも、もっと生活にゆとりを、という声が出はじめます。そこで官公庁が主導する形で土曜日の休日化が動き出し、金融機関などの民間もそれに追随した。その第一歩が、昭和58年8月13日の第2土曜日休業でした。 つまりこの日の休みは、「働く人が勝ち取った休み」というより、「外から言われて日本が重い腰を上げた休み」だったわけです。そのあたりが、いかにも昭和という感じもします。 制度の側もあとから追いついてきます。昭和22年に制定された労働基準法は、1日8時間・1週48時間という体制を40年続けてきました。それが改められ、1週40時間労働が規定されたのは昭和63年4月施行の改正労働基準法から。ただしこれも段階的な移行と猶予期間つきでした。土曜日というのは、法律を一本変えれば消えるようなものではなく、20年近くかけてじりじりと後退していったわけです。 休みが金曜日だった父 うちの父は、飲食店に勤めていました。 飲食店ですから、土曜も日曜も、世の中が休む日ほど忙しい。父の休みは毎週金曜日でした。そして世間が半ドンから週休二日へと移っていくあいだも、父の「毎週金曜日休み」は最後まで変わりませんでした。 だからわが家の食卓に、「週休二日」という言葉が出てきた記憶がありません。土曜日が半日になろうが休みになろうが、うちの父には関係のない話だったのです。家族そろって連続して休めるのは正月の1日と2日だけ。車もなく、子どものころに泊まりの家族旅行をした覚えもありません。 世の中が休み方を変えていくニュースというのは、たいてい「勤め人の休み方」の話です。その外側に、休みが動かない仕事の人たちがずっといた。父はその一人でした。 土曜日は、少しずつ消えていった 第2土曜日から始まった土曜休業は、そこから段階を追って広がっていきます。 昭和61年8月9日、第3土曜日も休業日に加わり、いわゆる「4週6休」になりました。そして平成元年2月4日以降、金融機関はすべての土曜日が休みになります。官公庁の土曜閉庁が始まったのは平成元年1月14日で、こちらもまず第2・第4土曜日から。国家公務員の完全週休二日制は、平成4年5月1日からでした。 学校はもっと後です。全国の国公立の学校で毎月第2土曜日が休業日になったのは平成4年9月から。平成7年4月に月2回、完全な学校週5日制になったのは平成14年4月のことでした。 ここで自分の年表と重ねてみて、あらためて気づいたことがあります。 私は昭和51年4月に小学校へ入り、昭和63年3月に高校を卒業しました。その12年間、土曜日はずっと学校がありました。一度も「土曜が休みの学校生活」を経験していません。土曜休みの学校というものを、私はまったく知らない世代なのです。 平成5年、私は信用金庫に入った そして話には続きがあります。 一年の浪人を経て平成元年に大学へ入り、平成5年に卒業した私が新卒で就職した先は、信用金庫でした。金融機関です。昭和58年8月13日に、日本で最初に土曜日を休みにした業界です。 入ってみれば、土曜日は当然のように休みでした。私が中学2年で野球の練習に出直していたころに始まった第2土曜日の休業は、10年かけて全部の土曜日に広がり、私が社会に出たときにはもう「そういうものだ」という顔をしていたわけです。 ただ、職場の先輩方は違いました。ときどき「半ドン」という言葉を使いながら、昔の土曜日の話をしてくれるのです。午前中だけ窓口を開けて、昼で締めて、そのあとどうしていたか。その口ぶりには、面倒だったという顔と、少し懐かしがる顔が両方ありました。 私はその話を、休みが当たり前になった側の人間として聞いていました。変わり目を挟んで、同じ職場に両方の世代がいたということです。いま振り返ると、あれはなかなか贅沢な昔話を聞かせてもらっていたのだと思います。 曜日のない仕事につくということ いま私は路線バスの運転士をしています。 この仕事に、土日休みという概念はありません。むしろ土曜日は、平日とは別のダイヤで走る日です。平日ダイヤ、土曜ダイヤ、休日ダイヤ。バスの世界では曜日は「休むための区分」ではなく、「走り方を変えるための区分」なのです。 そして実際に走っていると、いまの土曜日の車内は、日曜や祝日とほとんど変わりません。平日とは明らかに別物です。通勤通学の流れがなく、乗ってくる人も、時間帯も、車内の空気も違う。昭和58年に第2土曜日から始まったあの動きは、40年かけて、バスの車内の景色まで完全に作り替えてしまったのだと思います。 半ドンだったころの土曜日の車内は、きっと平日寄りだったはずです。私はその土曜日を運転士としては知りません。中学生として、昼前の道を家に向かって歩いていただけです。 半ドンを知っている、最後のあたり 「半ドン」は、いまではほぼ死語です。 言葉が消えたのは、その言葉が指していたものが消えたからです。土曜日の午前中だけ働くという習慣がなくなれば、それを呼ぶ言葉もいらなくなる。昭和58年8月13日の第2土曜日休業は、その長い消滅の始まりの一日でした。 あの日から40年以上たって、土曜日は完全に休みの日になりました。それは間違いなく良いことだと思います。金曜日にしか休めなかった父の世代を思えば、なおさらです。 ただ、昼前に授業が終わって、一度家に帰って昼飯を食い、また学校へ出直していったあの土曜日を覚えている人間は、だんだん少なくなっていきます。信用金庫の先輩たちが私に「半ドン」の話をしてくれたように、こうして書き残しておくのも役目なのだろうと思っています。 「なぜ日本の会社はこうなっているのか」を、雇用・教育・福祉の歴史からたどった一冊があります。土曜日が20年かけてしか消えなかった理由も、この本を読むと腑に落ちます。新書ですが読みごたえは相当なものです。 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学(講談社現代新書)小熊英二/講談社。日本型雇用はいつ、なぜできたのか。年功序列も新卒一括採用も長時間労働も、歴史をたどると理由がある。レビュー447件・星4.3の定番書 Amazonで見る › 半ドンの土曜日そのものを写した本はなかなかありませんが、あの頃の家と道具を写真で残した図鑑ならあります。ページをめくっていると、土曜の昼に帰った家の台所が出てきます。 ...

August 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月12日──甲子園と、御巣鷹と、同じ夏

今日は8月12日。明日からお盆に入るという、一年でいちばん人の動く時期です。 昭和60年(1985年)のこの日も、まさにそういう日でした。新幹線も、高速道路も、空の便も、帰省する人と旅行に出る人でぎっしりと埋まっていた。羽田から大阪へ向かう便は、三週間も前からほとんど満席だったといいます。 その夕方、日本航空123便が群馬県の山中に墜落しました。乗客乗員524名のうち、520名が亡くなった。単独機の事故としては、いまなお世界最悪の航空事故です。 この連載を書きながら、8月12日をどう扱うか、私はずっと考えていました。軽く触れて通り過ぎることはできない。かといって、私が何かを語れる立場でもない。 それでも書こうと思ったのは、あの日が私にとって、忘れようのない「あの夏」の一部だからです。そして今、私が人を乗せて運ぶ仕事をしているからです。 あの夏の関心事は、甲子園だった 昭和60年8月12日。私は16歳、高校1年生でした。 正直に書きますが、あの日の日中の私の頭の中にあったのは、飛行機のことでも、お盆のことでもありません。甲子園でした。 第67回全国高等学校野球選手権大会は、この年の8月8日に開幕していました。そして何より、PL学園の桑田真澄と清原和博――「KKコンビ」にとって、最後の夏だったのです。あの二人が甲子園で戦う姿を見られるのは、この夏で終わり。高校で野球をやっている人間にとって、これ以上の関心事はありませんでした。 その夏、私は足を骨折していたはずです。それでも昼間は学校へ行き、野球部の練習に出ていました。 夕方、家に帰りました。今日の甲子園はどうなったんだろう、と確認するつもりでテレビをつけたのだと思います。 そこに流れていたのは、まったく別のニュースでした。 日航機が、レーダーから消えた。 18時12分から、18時56分まで 事故当日の123便は、定刻より12分遅れて、18時12分に羽田を離陸しました。 離陸から12分後の18時24分。伊豆半島南部の東岸上空にさしかかったあたりで、機体後部の圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼の大部分と補助動力装置が吹き飛び、四系統ある油圧の操縦システムを、すべて失いました。 飛行機の操縦は、油圧で舵を動かすことで成り立っています。それが全部なくなった。ハンドルもブレーキも効かない車が、時速数百キロで走り出したようなものです。 普通なら、そこで終わりです。 ところが123便は、そこから32分間、飛び続けました。 機体は上下に激しく揺れ、左右に振られながら、それでも空にとどまり続けた。乗務員は、左右のエンジンの出力をわずかずつ変えることで、機首の向きを変えようとしていました。効くはずのない方法で、それでも機体を立て直そうとし続けたのです。 そして18時56分、群馬県多野郡上野村、高天原山の尾根に墜落しました。標高1,565メートル。のちに「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになる場所です。 夜の山中で、墜落地点の特定は難航しました。地上から現場を目で確認できたのは、翌13日の朝7時34分。最初の生存者が見つかったのは、10時45分でした。 生存者は4名。全員が女性で、全員が重傷でした。524名のうち、4名。 原因は、7年前にさかのぼります。事故機は昭和53年6月、伊丹空港で機体の尾部を滑走路に打ちつける事故を起こしていました。そのとき損傷した後部圧力隔壁の修理が、正しく行われていなかった。7年間飛び続けたあとで、その箇所が耐えきれなくなったのです。 名簿に並んだ、名前 翌日から、搭乗者名簿が少しずつ明らかになっていきました。 歌手の坂本九さん。当時43歳。「上を向いて歩こう」が海の向こうで『SUKIYAKI』という題名になり、アメリカのヒットチャートで1位になった、日本でただ一人の歌手です。ただ私たちの世代にとっては、伝説の人というより、テレビでよく見る「九ちゃん」でした。 あの訃報には、本当にショックを受けました。今でもこの事故の話を耳にすると、テレビの中で「上を向いて歩こう」を歌う九さんの映像が、条件反射のようによみがえってきます。 宝塚歌劇団の娘役だった北原遥子さん、24歳。阪神タイガース球団社長の中埜肇さん。 そして、竹下元章さん、47歳。 この方の名前を、私は今回この記事を書くために調べていて初めて知りました。元プロ野球選手で、捕手だった方です。現役引退後は会社勤めをされ、勤務先の関係で群馬県に住んでおられました。 竹下さんは、あの日、甲子園に向かっていました。 群馬県代表として第67回大会に出場していた、東京農業大学第二高等学校。その野球部に、竹下さんの息子さんがいたのです。息子の応援に行くために、羽田発伊丹行きの便に乗った。それが123便でした。 四十年経って、私はこの事実の前でしばらく手が止まりました。 あの夏、私が「今日の甲子園はどうなったかな」とテレビをつけたのと同じ日に、息子の試合を見に甲子園へ向かった父親が、あの飛行機に乗っていた。私の頭の中でまったく別々の場所にあった「甲子園」と「御巣鷹」が、一人の方の上で交差していました。 一日のうちに、終わったものと始まったもの もう一人、名簿に載っていた方がいます。ハウス食品工業社長の、浦上郁夫さん。47歳。 この方の名前のところで、この日のもうひとつの出来事が重なります。 同じ8月12日、報道機関に一通の手紙が届いていました。差出人は「かい人21面相」。1年半にわたって食品会社を脅し続け、日本中を不安に陥れたグリコ・森永事件の犯人グループからの、一方的な終結宣言でした。 脅迫を受けていた企業のひとつが、ハウス食品工業です。浦上社長は、事件が終わったことを、大阪にある父上――同社の創業者――の墓前に報告するため、その日のうちに大阪へ向かいました。 その便が、123便でした。 一日のうちに、昭和を騒がせたひとつの事件が幕を引き、もうひとつの惨事が始まった。そしてその二つが、一人の方の上で交差してしまった。何かの意味を見出したくなるような偶然ですが、意味などありません。ただ、そういうことが起きた、というだけです。 昭和60年の夏というのは、そういう夏でした。 「同じ夏」の記憶 あの頃の我が家は、テレビが必ずついている家でした。朝も、夕方も、夜も。だから事故の報道は、いやでも何度も目に入ってきました。 とりわけ生々しく残っているのが、翌朝の救出の映像です。 自衛隊のヘリコプターが山の上でホバリングして、隊員が降りていき、12歳の少女を吊り上げていく。あの映像は、四十年経った今でも、私の中で色褪せていません。テレビの前で、家族全員が黙って画面を見ていたあの空気ごと、覚えています。 そしてその同じ夏、甲子園ではKKコンビが暴れ回っていました。清原がホームランを打ち、桑田が投げ、PL学園は8月21日の決勝で宇部商業を下して優勝しました。私はそれを、テレビの前で夢中になって見ていたはずです。 不思議なのは、この二つが私の中で、まったく同じ強さで残っていることです。 普通なら、520人が亡くなった事故のほうが圧倒的に重いはずです。でも私の記憶の中では、清原のホームランと、ヘリコプターから吊り上げられる少女の映像が、同じ濃さで並んでいる。 たぶん、それが「同じ夏」だったからなのでしょう。 16歳の私は、あの二つを別々の出来事として整理する術を持っていませんでした。ただ、同じテレビの中で、同じ夏に、続けて起きたこととして受け取った。だから記憶の棚に、隣り合わせで入っている。振り返れば不謹慎な並べ方に思えるかもしれませんが、記憶というのはそういうものなのだと思います。 お命を預かる、ということ 私は今、路線バスの運転士をしています。 初めてお客さまを乗せて運行に出た日のことを、はっきり覚えています。 ...

August 12, 2026