8月11日は「きのこの山の日」──昭和50年、里山の名前を持つお菓子が生まれた日|昭和の今日は何があった日?

8月11日は「きのこの山の日」だそうです。 株式会社明治が制定した記念日で、由来がなかなか凝っています。チョコレートの部分を縦に2つ並べると「8」に見える。クラッカーの部分を横に2つ並べると「11」に見える。そこに国民の祝日「山の日」が重なる。だから8月11日、というわけです。 ただし正直に申し上げておくと、この記念日が登録されたのは2016年です。昭和の8月11日にきのこの山をめぐる出来事が何かあったわけではありません。明治自身、山の日の制定に「真っ向から便乗しました」という趣旨のことを言っていたと伝わっています。潔いというか、なんというか。 それでも私がこの日を選んだのは、記念日ではなく主役のほうに用があったからです。 きのこの山が世に出たのは1975年、昭和50年。私が6歳の年です。小学校に上がる前の年に、あのお菓子は生まれていました。そしてその後の十数年で、山ができ、里ができ、そして村がひとつ、地図から消えていきます。 アポロが売れなかったから、きのこが生まれた きのこの山の始まりは、実はまったく別のお菓子の失敗でした。 1969年、明治の大阪工場でアポロの生産が始まります。あの円錐形の、上がピンクで下が茶色の小粒チョコです。ところが当初は売れ行きが振るわなかった。そこで大阪工場の担当者が考えたのが、「この円錐形の生産ラインを、何か別のものに使えないか」ということでした。思いついたのが、円錐のアポロを傘に見立てて、その底面にクッキーの軸を挿す。つまり、きのこの形にしてしまうというアイデアです。 1970年、この試作品が明治の研究所に持ち込まれます。当時のチョコレートといえば板チョコかチョコバーが当たり前で、ポッキーがようやく出始めたという時代です。そこにきのこの形をしたチョコが現れた。反応は賛否両論だったといいます。無理もない話です。 そこから5年かかりました。軸を食べやすくするためにクッキーからクラッカーに変える。焼き方を工夫する。形にかわいらしさを足す。チョコに軸を挿す工程そのものを何度も試す。何百という試作を重ねて、ようやく形になったそうです。 売れ残った生産ラインが動き始めたのは、奇しくも私が生まれた年でした。それが私の6歳の年に、あのお菓子を送り出したことになります。 「きのこの山」という、時代に逆らった名前 商品が固まった後、明治はもうひとつ大きな決断をしています。名前とパッケージです。 当時は暮らしの欧米化が進んでいて、お菓子の世界でもスタイリッシュな欧米風のネーミングとデザインが流行っていました。カタカナで、横文字で、都会的で。そのほうが売れると誰もが思っていた時代です。 ところが明治は逆に振りました。高度経済成長が一段落して安定成長に入ったこの時期、消費者はむしろ自然ののどかさを求めているのではないか、と読んだのです。そこで「郷愁や自然、人間のやさしさといったイメージを表現する親しみやすいネーミング」として選ばれたのが、「きのこの山」でした。パッケージも、当時は菓子に向かないとされていた緑をあえて基調にして、のどかな里山を描いています。 そして1975年、発売。結果は爆発的な大ヒットでした。新発売の菓子の販売記録を塗り替え、大阪工場はラインを増やしてフル稼働させても生産が追いつかない。営業からは納品を催促する電話が鳴りやまなかったそうです。 さて、ここで白状しておかなければなりません。 私が初めてきのこの山を食べたときの記憶が、まったくないのです。 発売の年に6歳ですから、最初の一箱はおそらく小学校に入ってからでしょう。しかし、それがどういう経緯で私の手元に届いたのかが、どうしても思い出せない。誰かにもらったのか、自分でねだったのか、気づいたら家にあったのか。何も出てこないのです。 大ヒット商品というのは、こういうものなのかもしれません。あまりにも当たり前にそこにあったから、「初めて」という区切りが残らない。出会った瞬間がないまま、いつのまにか私の世界の一部になっていた。 覚えているのは、その後のことです。母と買い物に行ったとき、スーパーマーケットの棚の前でおねだりして買ってもらう。あの緑の箱は、私にとってはっきりと特別なお菓子でした。日常的にいつでも食べられるものではなく、買ってもらえた日はうれしい、そういう位置づけのお菓子です。 食べ方も昔から変わっていません。一個をまるごと口に放り込んで、チョコとクラッカーを一緒に噛む。傘だけ先に舐めるとか、軸を残すとか、そういう分解をした覚えがない。あれは一緒に食べてこそのお菓子だと、体が最初から知っていた気がします。 そして今も、私はきのこの山が大好きです。 昭和54年、里ができた。でも「戦争」はまだなかった きのこの山の発売から4年後の1979年、昭和54年。姉妹品の「たけのこの里」が登場します。 きのこの山が軸にクラッカーを使っているのに対して、たけのこの里はクッキー生地。型を整えながら焼く「型焼」という手法で、あの三角の形を作っています。同じ兄弟のようでいて、食感の設計思想がまるで違うわけです。 1979年、私は10歳。小学4年生です。 私は昔からきのこ派でした。理由ははっきりしていて、食感です。たけのこの里のあの「モサッ」とした感じよりも、きのこの山の「カリッ」としたクラッカーのほうが好きだった。それだけです。そしてこの好みは、今に至るまで一度も変わっていません。 ただ、ひとつ正直に書いておきたいことがあります。 私の家では、きのこかたけのこかで兄妹が言い合いになったことは、一度もありませんでした。 今でこそ「きのこたけのこ戦争」などと呼ばれて、令和になってもネットで定期的に燃え上がっていますが、昭和のわが家にそんな戦線はありませんでした。私はきのこが好き、それだけの話です。相手を論破する必要も、陣営に属する必要もなかった。 考えてみれば、あの2つがライバルとして大々的に売り出されたのは平成に入ってからのことです。明治が「きのこ・たけのこ総選挙」で両者の対立をアピールしたのは2001年。売上が落ち込んでいたブランドを立て直すための一手でした。それが当たって、今の「戦争」につながっていきます。 つまり、私たち昭和の子どもは戦争をしていたわけではなかった。ただ好きなほうを食べていただけです。あとから戦争の名前がついた、というのが正確なところなのだろうと思います。 いまは1つの袋に両方入ったものまで売られています。争わせておいて、最後は仲良く箱に詰める。商売というのは、たいしたものです。 明治 きのこの山・たけのこの里 ビッグシェアパック 36袋(各18袋)食べきりサイズの小袋で、きのこ18・たけのこ18の同数アソート。家族で「どっち派か」を決着させるにはちょうどいい構成です Amazonで見る › そして、私が知らないうちに消えた村がある ここからが、今日いちばん書きたかった話です。 きのこの山があり、たけのこの里がある。それなら次は何か。明治が出した答えが、1987年、昭和62年に発売された「すぎのこ村」でした。 細長いビスケットに、クラッシュアーモンドを混ぜたミルクチョコレートをまとわせて、杉の木に見立てたお菓子です。パッケージにはやはりのどかな村の風景が描かれ、背景の山には小さな杉がびっしり生えている。当時の商品紹介では「きのこの山」「たけのこの里」に続くチョコスナックの傑作誕生、とまで言われていたそうです。価格は150円。CMにも、きのこ・たけのこと一緒に登場しました。 発売当初はヒットしました。しかし、その後は出荷が伸びず、1988年、昭和63年に販売終了。実質わずか1年ほどの命でした。明治の担当者は後年、終売の理由をこう説明しています。一時はヒットしたが、きのこ・たけのこに比べて出荷が減少したため、と。 山は残り、里は残り、村だけが消えた。 ──と、まるで見てきたように書いていますが、これも白状しなければなりません。 私は、すぎのこ村というお菓子を知りませんでした。 今回この記事を書くために調べていて、初めてその存在を知ったのです。1987年に発売され、1988年に消えた。この2年間、私は何をしていたか。1987年は高校3年生で、7月23日に神宮第二球場で高校野球が終わり、そこから先の進路も決めきれずにぼんやりしていた年です。翌1988年は浪人していました。大学に入ったのは、そのさらに翌年になります。 18歳と19歳。チョコスナックの新商品を追いかける年齢ではなくなっていた、ということなのでしょう。子どもの頃はあれほど棚の前で立ち止まっていたのに、いつのまにか、お菓子の棚は私の視界から外れていた。 お菓子は、消えるときに何のお別れもしてくれません。閉店の貼り紙も出なければ、最終日の行列もない。それどころか私の場合は、生まれたことにすら気づいていなかった。誕生も終売も、まるごと視界の外で起こっていたわけです。 ちなみにすぎのこ村はその後、1992年から「ラッキーミニアーモンド」と名前を変えて2008年まで売られ、2005年には一度だけ復刻もされています。名を変えて20年近く。それを生き延びたと呼ぶのか、消えたと呼ぶのかは、なんとも言えないところです。 後づけの記念日が、いちばん大事なものを指していた 最初に書いた通り、きのこの山の日は2016年にできた後づけの記念日です。それでも、結果的にいちばん大事なところを指していると思うのです。 昭和50年に明治が賭けたのは、味でも技術でもなく、「山」と「里」という言葉が持つ懐かしさでした。欧米風の名前が売れると誰もが思っていた時代に、あえて日本の里山を選んだ。そして半世紀後、その商品は国民の祝日「山の日」に便乗できるほどの存在になっていた。便乗できるということは、その名前が定着しているということです。緑の箱を選んだ判断が、50年かけて祝日と握手したわけです。 私は今、路線バスの運転士をしています。毎日同じ道を走っていると、沿線の店が変わっていくのがよく分かります。開いた店、閉じた店。気づいたら別の看板になっている場所。すぎのこ村の話を読んでいて、そういう景色のことを思い出しました。 残るものと、消えるもの。そして、消えたことにすら気づかれないもの。その差は、案外紙一重なのかもしれません。 みなさんは、きのこ派でしたか。たけのこ派でしたか。そして、すぎのこ村のことをご存じでしたか。私は今回、まったく知りませんでした。もし覚えていらっしゃる方がいたら、それはかなり貴重な記憶だと思います。 ...

August 11, 2026

道の日──ブロックの破片で書いたホームベースと、いま毎日走っている道のこと|昭和の今日は何があった日?(8月10日)

八月の道は、いちばん道らしい 八月の道は、暑い。 当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。 そして8月10日は「道の日」です。 私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。 昭和61年、道に「日」ができた 「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。 なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。 制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。 見過ごされがちである。 この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。 ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。 制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。 昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。 私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった 私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。 幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。 ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。 ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。 バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。 ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。 そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。 いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。 叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。 つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。 いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。 KAISER キッズ ベースボールセット KW-543(バット・グローブ・ボール)対象6歳以上。カラーバットと8インチグローブ、やわらかいPUボールの3点セット。公園や河川敷で、孫と一組。当たっても痛くないので気兼ねなく振れます Amazonで見る › 同じ道を、いまも歩いている 私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。 これが、ときどき妙なことを起こします。 何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。 不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。 道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。 いま、私は道で働いている それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。 つまり、道が職場になりました。 仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。 そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。 普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。 現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。 「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。 でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。 ブロックの破片で書いたホームベースの上を 昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。 いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。 それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。 あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。 みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。 路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。 ヤマケイ文庫 こども遊び大全遠藤ケイ/山と溪谷社。メンコ、ベーゴマ、馬乗り、ちゃんばらごっこ、ゴム跳び……町内の路地や裏の空き地で繰り広げられた遊びを、道具の作り方まで含めて記録した一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ...

August 10, 2026

同じ8月9日、二年続けて──近藤真一と、私の抜け殻の夏|昭和の今日は何があった日?(8月9日)

「や(8)きゅう(9)」の日 8月9日は「野球の日」だそうです。「や(8)きゅう(9)」の語呂合わせと、ちょうど全国高校野球選手権大会の期間中で野球への関心がいちばん高まる季節だから、という理由でスポーツ用品メーカーの直営店が制定したものです。制定は平成6年ですから、昭和の子どもだった私にとっては、後から知った新しい呼び名にすぎません。 それでも、この語呂合わせを考えた人は、よく八月という月を分かっていたと思います。昭和の八月は、朝から晩まで野球が鳴っている月でした。昼はテレビで甲子園、夜はナイター。窓を開け放した家々から、同じ実況が重なって聞こえてくる。そういう夏でした。 そして私にとって、8月9日は本当に野球の日です。記念日とはまったく関係のないところで、二年続けて、同じ日付に、同じ一人の投手のことを記憶しています。 一年目は、鮮明に。二年目は、まったくの空白として。 1986年8月9日、甲子園のマウンド 最初の8月9日は、1986年(昭和61)です。私は高校2年生でした。 その日、甲子園のマウンドに立っていたのが、享栄高校(愛知)の左腕・近藤真一投手です。3年生。春の選抜では「剛腕」と騒がれながら初戦で新湊(富山)に0対1で敗れていて、雪辱を誓って夏の第68回大会に乗り込んできていました。 1回戦の相手は唐津西(佐賀)。結果は8対0、近藤投手が被安打1、15奪三振の完封です。 私は当時、自分も高校野球の真っただ中にいました。3年生が引退して新チームが動き出したばかりの夏で、毎日、練習に明け暮れていた時期です。汗と土のまま帰ってきて、飯を食って、テレビをつければ甲子園をやっている。同じ高校生が、同じ白球で戦っているのを見る。あの頃の八月は、そういう組み立てでした。 だから近藤投手の姿は、単なる甲子園のスターというより「同じ高校生なのに、ここまで違うのか」と驚かされる存在でした。細かな場面まで鮮明に覚えているわけではありません。それでも、三振を次々と奪っていく左腕の速球と、打者に向かって堂々と投げ込む姿は強く印象に残りました。テレビの前で見ながら、球の速さだけでなく、甲子園の大舞台でもまったく臆する様子がないことに圧倒された記憶があります。 2回戦では優勝候補の一角と言われていた東海大甲府を2対1で破り、3回戦で高知商に敗れました。相手の先発は、後にヤクルトへ進む岡林洋一投手。投手戦の末の惜敗でした。ただ、その時点ですでに「この投手はプロへ行くのだろう」と感じさせる、特別な存在でした。 そのころの私にとって、近藤投手は手の届かない別世界の選手でもありました。同じ高校野球をしていても、こちらは毎日の練習と目の前の試合に精いっぱいです。一方、甲子園のマウンドには、全国から注目され、プロへの道を切り開こうとしている同世代の投手が立っている。憧れよりも先に、その才能の差を思い知らされた——というのが、正直なところだったかもしれません。 それから一年、私の野球は終わった 1987年(昭和62)7月23日。神宮第二球場、東東京大会の四回戦。2対3。一点差で負けて、私の高校野球は終わりました。小学校の路地野球から中学、高校とずっと続けてきたものが、あの日、あの球場で終わったのです。 そのあとの日々は、正直に言えば、何もする気になれませんでした。先の進路も全く決まっていませんでしたから、まさに「抜け殻状態」です。 八月に入ればテレビでは甲子園が始まって、去年の自分と同じ場所に、今年は別の高校生たちが立っている。それを扇風機の前で眺めている。何をするでもなく、何を決めるでもなく、ただ日が過ぎていく。あの座り心地の悪さは、今でも思い出せます。 不思議なもので、負けた直後というのは、案外そこまで堪えないものです。効いてくるのはもっと後で、何でもない時間にふっと来る。今日は練習がない、明日も練習がない、来週も練習がない——十年近く体に染み込んでいた予定が、丸ごと消える。その空白の大きさに気づくまでに、少し時間がかかりました。 前の年の八月は、練習でくたくたになって帰ってきて、それでもテレビの甲子園を見ていました。この年の八月は、くたくたになる用事が何もない。同じ扇風機の前に座っているのに、体の芯の残り方がまるで違うのです。 1987年8月9日、ナゴヤ球場 その抜け殻の十七日目が、8月9日でした。 ナゴヤ球場、中日対巨人19回戦。中日の先発は、前年の同じ日に甲子園で唐津西を1安打に抑えたあの左腕、近藤真一投手です。前日に一軍へ初めて加わったばかりで、投手コーチから「行けるか」と言われ、驚きよりも先に「行きます」と答えたといいます。セ・リーグに予告先発のなかった当時、巨人の王貞治監督は試合前に「近藤はないんじゃないの」と語っていたそうです。 当時の巨人は2位の広島に7ゲーム差をつけて独走中。1番松本、篠塚、原、クロマティ、中畑という黄金打線でした。巨人ファンだった私からすれば、この年の打線は見ていて気持ちのいいものだったはずです。 その打線が、一本もヒットを打てませんでした。 中日は1回に3点を先制。近藤投手はこれを背に無安打投球を続け、6対0になった5回終了時、先輩から「狙ってみろ」と言われて「いっちょう狙うか」とその気になったといいます。9回、巨人の鴻野淳基が三塁にゴロを転がし、スタンドから悲鳴が上がりましたが、この年ロッテから移籍してきたばかりの落合博満が懸命にさばいて間一髪アウト。最後は篠塚利夫が近藤投手のカーブを見送ってゲームセットでした。 9回を投げて無安打無失点、四球2、失策1、奪三振13。プロ初登板・初先発でのノーヒットノーランは日本のプロ野球史上初で、アメリカのメジャーリーグにも例がありませんでした。18歳11か月。試合後、彼は「大変なことをやってしまった」と言い、「記録よりも自分の投球ができたことがうれしい」と続けたそうです。 そして約四十年経った今も、二人目は現れていません。 その夏、私は自分の野球を終えました。同じ夏に、同い年に近い左腕がプロのマウンドで歴史をつくった。80年代のプロ野球というのは、そういう出来事が毎年どこかで起きていた時代でもあります。 懐かしの80年代プロ野球 増補改訂版(TJMOOK)宝島社。江川・掛布・原・落合……テレビをつければ野球があった時代のスターと名場面をまとめた一冊。ちょうど本記事の1986〜87年あたりが、まるごと入っています Amazonで見る › 私には、この夜の記憶がない ここまで書いておいて申し訳ないのですが、私はこの試合を見た記憶がありません。 テレビで見たのか、ラジオで聞いたのか、翌朝のスポーツ紙で知ったのか。何ひとつ思い出せないのです。前年の8月9日、甲子園の同じ投手のことはあれだけ覚えているのに。 でも、たぶん、そういうことなのだと思います。あの夏の私は抜け殻でした。野球が終わって、進路も決まっていなくて、テレビをつけても何も入ってこない。おそらくこの年でいちばん大きな野球のニュースが、私の中を素通りしていったのです。 記憶というのは、そのとき何が起きたかではなく、そのとき自分がどういう状態だったかで残り方が決まるのだと思います。1986年の私には、受け止める側の準備がありました。毎日ボールを握っていて、甲子園の投手が投げる一球一球が、自分の握っている球と地続きだった。だから残った。1987年の私には、その手がありませんでした。同じ投手が、同じ日付に、もっとすごいことをやってのけたのに、私の側に受け皿がなかったのです。 失った記憶を惜しむ気持ちは、正直あります。ただ、あの夏に何も残らなかったこと自体が、あの夏がどういう夏だったかを一番よく語っている気もするのです。 同じ日付の、別々の場所 1986年8月9日、彼は甲子園にいて、私は高校2年生としてテレビの前にいました。 1987年8月9日、彼はナゴヤ球場のマウンドにいて、私は——どこで何をしていたのかも覚えていません。 私はグラウンドを去り、近藤投手はプロのマウンドに立った。同じ一年という時間の中で、それぞれの野球はまったく違う場所へ進んでいました。だからこそ1987年8月9日の快挙は、ただの大記録としてではなく、自分の高校野球が終わった夏と重なって、今も心に残っています。前年の甲子園で見たあの左腕が、本当に別世界へ駆け上がっていった夜でした。 ちなみにこの試合は、結果として「昭和最後のノーヒットノーラン」になりました。この一年半後に昭和は終わります。あの夜、球場にいた人もテレビの前にいた人も、まさか自分が昭和最後の一本を見ているとは思っていません。誰も知らないまま、時代の最後のページがめくられていたわけです。 今、8月9日にプロ野球のナイターがあっても、地上波で中継されることはほとんどありません。あの頃は、夜になればテレビをつければ野球がありました。それが当たり前すぎて、当たり前だと思っていなかった。近藤投手のノーヒットノーランがあれだけ多くの人の記憶に残っているのも、たまたま全国の茶の間にその中継が流れていたからです。私はそれを取りこぼしましたが、取りこぼせるだけの豊かさが、あの頃の八月にはありました。 みなさんは、1987年8月9日の中日対巨人を覚えていますか。あるいは、何かが終わった直後の、記憶がすっぽり抜け落ちている時期を過ごしたことはありますか。よかったら教えてください。 近藤投手のように、一球で球場の空気を変えてしまう投手が、どの球団にも一人はいました。あの時代の「エース」がどんな数字を残し、何を考えて投げていたのかをまとめた一冊もあります。名前を追っているだけで、あの頃のテレビの音が戻ってきます。 昭和プロ野球の豪腕投手(TJMOOK)宝島社。各球団の絶対的エースを、勝率・防御率などのデータと知られざるエピソードで特集。2009年刊『プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説』の再編集版 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 9, 2026

そろばんの日──週6回の教室と、3級でやめる約束|昭和の今日は何があった日?(8月8日)

8月8日は「そろばんの日」です。 由来は単純で、そろばんを弾くときの「パチパチ」という音を「8(パチ)」「8(パチ)」と読ませた語呂合わせ。制定したのは全国珠算教育連盟で、昭和43年(1968年)のことでした。私が生まれる前の年です。 語呂合わせの記念日は世の中に山ほどあって、たいていは商品を売るために後からつくられたものです。でもこの「そろばんの日」は、少し事情が違う気がします。昭和43年に、そろばんを教える人たちが自分たちの手で記念日を決めた。それはまだ、そろばんが日本中でパチパチと鳴っていた時代の話だからです。 そして私も、その音の中にいた一人でした。 みんなが通っていたから、私も通った 私がそろばん教室に通いはじめたのは、小学校3年生のときです。昭和53年(1978年)。 きっかけは、たいそうな話ではありません。友達の多くが通っていたから。ただそれだけです。 場所は、通っていた小学校の裏にありました。学校が終わって、いったん家に帰ってランドセルを置いて、また学校の方へ戻っていく。あの距離感が、そろばん教室という習い事の性格をよく表していたと思います。ピアノやバレエは「ちょっといいところの子」が通うもの、という空気がありましたが、そろばんは違いました。町の子がふつうに通う場所でした。 だから「習い事を始める」という決断めいたものは、正直あまりなかったように思います。放課後に友達が向かう場所がひとつ増えて、そこに自分もいた。それだけのことでした。誘われたというより、行かないほうが不自然だったのかもしれません。 親が通わせた理由もはっきりしていたはずです。当時のそろばんは、まだ「役に立つ技術」でした。商店の帳場でも会社の経理でも、そろばんを弾ける人は重宝された。習わせておいて損はない、という実感が親の世代にはあったのだと思います。 週に6回、休みは日曜と祭日だけ そして、ここからが今思い返すとすごいところです。 私が通っていたそろばん教室は、週に6回ありました。日曜日と祭日だけがお休み。つまり月曜から土曜まで、毎日です。 15時から50分の授業。終わると10分で次のクラスと入れ替え。16時からまた50分授業をやって、また10分で次のクラスと入れ替え。工場のラインみたいに、夕方の教室が回転していくわけです。そして級が上がっていくにつれて、遅い時間のクラスへと昇格していきました。低学年で下の級のうちは早い時間。上に行くほど遅い時間。時間割そのものが実力の順番になっていて、遅いクラスに移ることが子どもにとっての勲章でした。 授業が始まると、まず準備体操のように「読み上げ算」が始まります。「ご破算で願いましては」という決まり文句。あの合図で全員が一斉に指で珠を払い、盤面をゼロに戻す。それから先生が数字を読み上げて、生徒たちがパチパチはじいていく。読み上げのテンポは容赦なく、一度どこかで詰まったらもう追いつけません。 厳しい先生でしたから、教室内には緊張感がありました。おしゃべりなど、とてもできる雰囲気ではありません。読み上げの声と、珠が弾かれる音だけが部屋を満たしている。あの音の密度は、いま思い出しても独特です。 そろばんという習い事が全国的にどれだけ当たり前だったかは、こんなところにも表れています。昭和35年(1960年)から1990年代半ばまで、NHKラジオ第2放送では『そろばん教室』という番組がずっと放送されていました。昭和30年(1955年)には全国の高校生がそろばんの技を競う「全国高校珠算競技大会」も始まっている。通称、そろばん甲子園です。学校の裏の教室でパチパチやっていたあの時間は、日本中の子どもが同じようにやっていた時間でもありました。 毎日毎日、あの50分がありました。夏休みも、当然のようにありました。 「3級を取ったらやめていい」 私には、親との約束がありました。3級を取ったら、そろばんはやめていい。 そして6年生になってすぐ、私は3級に合格しました。約束通り、そろばんをやめることができた。そこからは野球に全力投球です。3年間ほぼ毎日通った教室から、私は野球のグラウンドへ移っていきました。 なぜ3級だったのか。当時から、珠算検定は3級以上が「履歴書に書けるライン」とされていました。親としては、そのくらいまでは持たせてやりたかったのだと思います。子どもの側からすれば、3級はゴールというより出口でした。ここまで行けば解放される、という一点を目指して珠を弾いていた。 いま考えると、少し不思議な話でもあります。やめるために頑張る。それでも小学校3年生から6年生までの3年間、ほぼ毎日そろばんを弾き続けたわけですから、目的がどうであれ、手は動き続けていたことになります。 正直に書いておくと、暗算は苦手でした。そろばんを目の前に置いて指を動かすぶんには何とかなるのに、頭の中に盤面を思い浮かべて計算する、あれがどうにも身につかなかった。同じ教室に、暗算がとんでもなく速い子がいたのを覚えています。あの差は、努力の量では埋まらないのだと子どもながらに感じていました。 そろばんの日の4年後、「答え一発」がやってきた ところで、そろばんの日が制定された4年後。カレンダーのほとんど同じ場所で、そろばんの立場を根本から揺さぶる製品が世に出ています。 昭和47年(1972年)8月3日、カシオ計算機が「カシオミニ」を発売しました。価格は1万2800円。それまでの電卓が7万円も8万円もしたことを考えると、破格でした。大きさも従来の4分の1。「答え一発、カシオミニ」というCMのフレーズをご記憶の方も多いでしょう。発売から10か月で100万台を超える大ヒットになりました。 8月8日にそろばんの日が決まり、その4年後の8月3日に、電卓が一家に一台の時代の扉を開けた。たった5日違いの、しかし決定的にすれ違った二つの出来事です。 カシオミニは発売から3年ほどで累計1000万台を売ったといわれます。当時の日本の人口を考えれば、10人に1人が手にした計算になる。私が生まれてまだ3歳のころに、日本の家庭は静かに、しかし決定的に「答えを一発で出す」側へ移りはじめていたわけです。 それでも、私がそろばん教室に通いはじめた昭和53年(1978年)、あの教室は週6日開いていて、夕方になれば子どもが集まってきました。電卓はもう珍しくもなかったのに、誰も「そろばんはもういらない」とは言わなかった。いま振り返れば、あれは坂を下りはじめた時代の、まだ日がよく当たっている斜面だったのだと思います。日が当たっているうちは、下り坂であることに誰も気づかないものです。 体にしみ込んだもの 正直、そろばんの技術は残っていません。 しかし当時そろばんを毎日毎日訓練したことの成果は、具体的に「これだ!」と示すことは出来ないのですが、私のカラダにしみ込んだ「そろばん」は確実にその後の人生に役立ってくれたと思います。 計算が速くなったとか、そういう分かりやすい話ではないのです。毎日決まった時間に教室へ行くこと。50分間、黙って手を動かし続けること。級というはっきりした目標に向かって、うまくいかない日も積み重ねること。そういうものが、たぶん形を変えて残っている。 そしてなんと、三男と四男が令和のこの時代に「そろばん教室」に通いました。四男は現在進行形です。2人は通い始めて明らかに良い効果が表れました。計算に対する苦手意識がなくなり、少しだけ賢くなったような気がします(笑)。 これは、うちだけの話ではないようです。そろばんは2000年代の半ばあたりから見直されはじめていて、教室に通う子どもは再び増える傾向にあると言われています。計算そのものは機械がやってくれる時代だからこそ、集中して数字と向き合う訓練の価値が、かえって浮かび上がってきたのかもしれません。 ただ、うちの子たちの教室が週6回でないことだけは確かです。あの回転寿司みたいな時間割は、たぶん昭和の教室にしかなかった。 わが家では、四男がいまも教室に通っています。そろばんは学校で買うものと思っていましたが、いまは家にもう一台あると練習がぐっと楽になります。23桁・四つ珠、ケース付き。私が昭和53年に抱えて歩いていたものと、形はほとんど変わっていません。 雲州堂 そろばんパック 23桁 ケース付き(サクラクレパス)学童用の定番。23桁・四つ珠でケース付き、本体178gと軽い。そろばん教室の指定品としてもよく使われる形です Amazonで見る › 電卓どころか、スマホが計算も翻訳もやってくれる時代です。それでもそろばん教室は残っていて、うちの子が通っている。昭和43年に「そろばんの日」を決めた人たちは、まさか半世紀以上あとの世界でこうなっているとは思わなかったでしょう。 けれど、あの人たちが守ろうとしたのは、たぶん計算の道具そのものではなかったのだと思います。あの、毎日決まった時間に子どもが集まってきて黙って手を動かす、教室というかたちのほうだった。 パチパチという乾いた木の音は、まだ鳴りやんでいません。 みなさんは、そろばんを習っていましたか。何級まで進みましたか。そして、やめたときのことを覚えているでしょうか。 「技術は残っていない」と書きましたが、正直なところ、もう一度あの音を鳴らしてみたい気持ちはあります。大人がゼロから、あるいは40年ぶりに握り直すための一冊も出ていました。1日10分。子どもと並んで弾くには、ちょうどいい分量かもしれません。 いしど式で簡単 大人のそろばんドリル 1日10分で計算力・集中力を活性化石戸珠算学園/メイツ出版。珠の置き方から検定レベルの練習まで、大人が独習できるように組まれたドリル。子どもの教室の宿題につきあう親にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月7日──同じ日付を、三度くぐった夏

今日は8月7日。暦の上では立秋を迎える頃で、8と7を「ハ・ナ・ビ」と読む語呂から「おもちゃ花火の日」でもあります。夏のいちばん濃いところに刺さっている、そんな日付です。 この日付を、私は昭和のあいだに何度もくぐってきました。ただ、くぐるたびに私の立っている場所は違っていました。 小学2年の夏。中学2年の夏。高校1年の夏。 同じ8月7日に、世の中では別々の大きな出来事が起きていました。そして私は、そのどれとも関係のないところで、その日を過ごしていたのです。 昭和52年8月7日──私は、区営プールにいた 昭和52年(1977年)8月6日の未明から、北海道の有珠山で有感地震が続発しはじめました。午前3時頃には、山のふもとで人がはっきり感じるほどの揺れになっていたといいます。 そして翌7日の午前9時12分。有珠山の山頂火口原から、真っ白な噴煙が突き上がりました。噴煙はおよそ1時間後には高さ12,000メートルに達したと記録されています。 昭和新山が生まれてから、32年ぶりの噴火でした。噴火は8月14日の未明まで断続的に続き、火山灰は北海道の広い範囲に降り積もりました。前日からの地震で住民が避難していたため、この日の噴火そのものによる人的被害は出ていません。 そのころ、私は8歳。小学2年生の夏休みでした。 あの夏、私はほぼ毎日、午前中を区営プールで過ごしていました。友達と連れ立って出かけていって、水から上がっては入り、また上がる。夏休みの午前中というのは、そういう時間の使い方をするものだと思っていました。 午前9時12分。日本の北の端で山が噴き上がったその時刻、私はたぶん、プールへ向かう途中か、着いたばかりだったはずです。塩素のにおいと、コンクリートの熱と、水面の照り返し。葛飾の8歳にとって、その日の世界はそれで全部でした。 北海道の空が灰色になっていることを、私は知りません。 そもそも当時の私にとって、北海道は地図の上にしかない場所でした。父は仕事の休みがほとんどなく、家族で泊まりがけの旅行に出たことは一度もありません。車もありませんでした。テレビの中の噴煙は、月のクレーターの映像と同じくらい遠いところの出来事です。 有珠山という山は、20数年から50年ほどの間隔で噴火を繰り返し、しかも噴火の前には必ず前兆の地震が起きる。そのため地元では「ウソをつかない山」と呼ばれています。前の活動は昭和18年から20年にかけてで、このとき麦畑が盛り上がって昭和新山が生まれました。32年たって、山はまた約束どおりに動いたわけです。 記録を読んでいて印象に残ったのは、7日の噴火のとき、洞爺湖を訪れていた多くの観光客が立ちのぼる噴煙に見とれ、それを背にして写真を撮っていたという一節でした。恐怖よりも先に、まず見とれてしまう。人間というのは、そういうものなのかもしれません。 昭和58年8月7日──私は、11時30分に家を出た それから6年後。昭和58年(1983年)8月7日、フィンランドのヘルシンキで、第1回世界陸上競技選手権大会が開幕しました。 オリンピックとは別に、陸上競技だけの世界一決定戦を開く。その第1回です。153の国と地域から1,355人が集まり、41種目が争われました。アメリカのカール・ルイスが100メートル、走幅跳、リレーで三つの金メダルを持っていき、男子4×100メートルリレーと女子400メートルでは世界新記録が生まれています。 日本からは監督以下22名(男子16名、女子6名)が派遣されました。結果は、入賞者ゼロ。8位以内に一人も入れなかった。当時の日本陸上と世界の距離は、それくらい離れていました。 ちなみに、この大会をテレビ中継したのはテレビ朝日系列でした。『世界陸上』といえば日本テレビ、そしてTBSという印象が強いのですが、第1回だけは別の局だったのです。 そのころ、私は14歳。中学2年生です。 この夏、3年生の先輩たちが引退して、新チームが始まったばかりでした。野球部の練習はほぼ毎日。11時30分に家を出て、練習が終わって帰り着くと19時頃になっている。そういう夏でした。 家を出るのが11時30分というのは、今から思えば妙な時間です。午前中がまるまる残っていて、それでいて何もできない。ヘルシンキと日本には6時間の時差がありますから、開幕日の競技が動いていたのは日本の夕方から夜にかけて。私が土のグラウンドにいた時間と、その中継が流れていた時間は、きれいにすれ違っています。 それに、8月上旬の日本でスポーツといえば、やはり甲子園でした。世の中の目は高校野球のほうを向いていて、その脇でフィンランドの競技場に世界中の選手が集まっていることなど、中学2年の野球部員の耳には届いていません。 世界最高峰の陸上大会が始まったその日、私は葛飾で、白球を追いかけていました。 昭和60年8月7日──私は、スタンドにいた さらに2年後。昭和60年(1985年)8月7日、宇宙開発事業団(現在のJAXA)が、日本人として初めての宇宙飛行士3人を発表しました。 北海道大学工学部助教授の毛利衛さん、慶応大学医学部助手で心臓外科医の内藤千秋さん(結婚後の姓は向井)、NASAの研究員だった土井隆雄さん。500人を超える応募者から選ばれた3人は、いずれも30代でした。 スペースシャトルに乗って宇宙で実験をする。当時の予定では、飛行は昭和63年の初め頃とされていました。 募集がかかったのは昭和58年12月。ちょうど、第1回の世界陸上が終わって4か月ほどあとのことです。応募は500人を超え、そこから一年半以上をかけて絞り込まれた結果が、この日の発表でした。 そのころ、私は16歳。高校1年生です。 その夏の東東京大会を、私はスタンドから応援していました。1年生ですから、当然といえば当然です。そして3年生が引退して新チームが始まった、その矢先。私は右足の甲を骨折しました。 新チームの秋の大会に出ることは、絶望的になりました。 野球は、走れないと何もできません。素振りはできても、守れないし、走れない。あの夏、私は松葉杖をついていました。両手がふさがっているというのは、思っていた以上に不便なものです。グラブも持てない。ボールも拾えない。 始まったばかりのチームに自分の場所がない。しかも、走れない。悔しい夏でした。あの年の夏の記憶は、その悔しさとセットになっています。 ただ、後から知ったことがあります。 選ばれた3人も、そこからずいぶん長く待たされました。昭和61年1月にチャレンジャー号の事故が起き、スペースシャトルの打ち上げそのものが止まってしまったのです。毛利さんが実際にエンデバーで宇宙へ上がったのは、平成4年(1992年)9月。選ばれた日から、7年が過ぎていました。 向井さんが飛んだのは平成6年、土井さんは平成9年。土井さんはこのとき、日本人として初めて宇宙船の外に出ています。三人とも、選ばれた日から10年前後を待っていることになります。 選ばれた人も待つ。選ばれなかった人も待つ。待っている時間の長さだけで言えば、案外そう変わらないのかもしれません。もっとも16歳の私は、そんなことは考えもしませんでしたが。 あの夏、松葉杖の私にはできないことばかりでした。それでも走れる人にとっては、8月7日はいまでも花火の日です。「ハ・ナ・ビ」の語呂に合わせて、庭先やベランダで小さく火をつける。派手な打ち上げ花火より、こちらのほうがよほど昭和の夏の記憶に近いように思います。 花火屋がおススメする手持ち花火400本セット(線香花火入り・キャンドル付)安全検査合格品。取り出しやすく、線香花火まで入って400本。子どもや孫と一緒に、庭先やキャンプで。最後の一本は、やっぱり線香花火で締めたい Amazonで見る › おわりに 有珠山は、平成12年(2000年)にも噴火しました。このときも前兆の地震をもとにした事前の避難が間に合い、人的被害はありませんでした。ウソをつかない山は、平成になっても約束を守ったわけです。 ...

August 7, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月5日──「はんぶんこ」は、しなかった。パピコが生まれた昭和49年と、溶ける前に飲み干した夏

8月5日は「パピコの日」 8月5日と書いて、「パピ(8)コ(5)」と読む。 グリコが定めた「パピコの日」です。語呂合わせだけではありません。パピコ1本の形が数字の「8」に似ていること、2本をパキッと分けたときの姿が漢数字の「八」に見えること。そして何より、2本1組のパピコを二人で「はんぶんこ(5)」してほしい——という願いが、この日付には込められています。 大切な人と分け合う日。 そういう趣旨だそうです。とても良い記念日だと思います。思うのですが、私はこの記念日の趣旨を、子どもの頃に一度も実践したことがありません。 一度もです。それどころか、実践する気すらなかった。今日はその話を書きます。 「2本で1つ」は、分け合うために生まれた パピコが世に出たのは、1974年(昭和49年)のことでした。私は5歳。まだ小学校にも上がっていません。 当時発売されたのは「パピコ<乳酸ミルク>」。いまの<ホワイトサワー>の原型にあたる白いアイスです。子どもが好きな乳酸飲料を氷菓にできないか、という発想から生まれたもので、パッケージは縦型。水玉模様と女の子の絵が描かれた、いかにも昭和らしい爽やかな意匠でした。 面白いのは、あの「2本で1つ」という形が、最初から狙って作られたわけではなかったということです。 グリコには当時、「グリコWソーダアイス」という2つに分けられるバーアイスがありました。仲の良い友達同士で分け合う、いわばコミュニケーションの道具として買われることを想定した商品です。パピコも企画当初は1本で検討していたそうですが、どうにも「らしさ」が出ない。そこでWソーダにならって2本1組にしてみたところ、急に楽しさが加わり、支持を得て発売にこぎつけた——そういう経緯だったといいます。 つまりパピコのあの形は、はじめから「誰かと分け合うこと」を前提に設計されているのです。50年以上たった今も、その形はほとんど変わっていません。 幼児向けのはずが、買っていたのは中学生だった 片手で持って、手軽に吸える。その形状から、パピコは当初、幼児向けの商品として売り出されました。 ところが蓋を開けてみると、意外にも中学生がたくさん買っていることが分かった。そこでグリコは1977年(昭和52年)、姉妹品として<チョココーヒー>を発売します。コーヒーにチョコレートを加えた、当時ほかにない味。これが大ヒットしました。 1977年、私は小学2年生です。 そして「中学生がやたらとパピコを買っている」と言われていた時期に中学生になったのが、まさに私の世代でした。企業が想定した客層と、実際に手を伸ばした子どもたちが、少しずれていた。そのズレがあったからこそチョココーヒーが生まれたわけで、なんだか他人事とは思えない話です。 私が食べていたのも、コーヒー系でした。 商店の冷凍ケースと、家の冷凍庫 私にとって、パピコは「商店の冷凍ケースで買うもの」でした。 家に買い置きがあったことはありません。うちの冷凍庫に常備されていたのは、自宅で凍らせる、俗に言うチュウチュウアイスのほうです。安い。とにかく安い。夏のあいだ、母はあれをまとめて買ってきては凍らせていました。 だから我が家では、アイスに二種類ありました。 いつでも冷凍庫にある、ケ(日常)のアイス。そして商店まで出かけていって、冷凍ケースの重い蓋を開けて選ぶ、ハレのアイス。パピコは、間違いなく後者です。同じ「氷菓」であっても、家の冷凍庫から取り出すものと、お金を出して買うものとでは、口に入れたときの意味がまるで違いました。 家のアイスは、いつでもある。だから、ありがたくない。買ったアイスは、そこにしかない。だから急いで食べる。 いま考えると、あの二種類の使い分けは、そのまま昭和の家計の話でもあったのだと思います。たくさん買って安く凍らせておくものと、たまに一つだけ買うもの。子どもだった私はそんなことを考えもせず、ただ「今日はいいほうが食べられる」と喜んでいただけでしたが。 パッケージが横を向いた年 パピコの歴史をたどっていて、ひとつ手が止まった年があります。 1987年(昭和62年)。この年、パピコのパッケージは縦型から横型に変わりました。1970年代から80年代にかけてコンビニが急成長し、コンビニの店頭に並ぶことを想定した変更だったといいます。同時に、発売以来ずっと描かれていた女の子の絵柄がなくなり、「papico」のロゴが大きく表示されるようになりました。 1987年。私は高校3年生です。 つまり私が最後の夏の大会に向けてグラウンドにいたころ、パピコは商店の冷凍ケースから、コンビニの棚のほうを向きはじめていた。あの女の子の絵は、私が高校を出るのとほとんど同じころに、静かに消えていたことになります。 もちろん当時の私は、そんなことにはまるで気づいていません。気づくはずもない。子どもの世界が終わっていくのと歩調を合わせるように、駄菓子屋や商店の冷凍ケースを前提にしていた商品が、次の時代の売り場に合わせて姿を変えていた——それを知ったのは、57歳になった今日でした。 「はんぶんこ」は、しなかった さて、記念日の趣旨に戻ります。 私はパピコを、誰かとはんぶんこした記憶がありません。妹とも、友達とも。買ったら2本とも自分のものでした。 そうなると、あの形は「楽しさ」ではなく「試練」に変わります。 2本あるということは、1本目を吸っているあいだ、2本目はずっと手の中で温まり続けているということです。溶けてしまう前に食べきらなければならない。だからパピコを食べるときは、スピードが大切でした。 とくに問題になるのが、2本目の吸い口です。溶けてやわらかくなってしまうと、これが実に切り取りづらい。しっかり凍っているうちならスパッといくものが、ぐにゃりとして言うことを聞かなくなる。分け合う相手がいれば、2本は同時に開封されて、それぞれの手の中で最短時間のうちに消えていったはずです。一人で持ってしまうと、2本目は必ず「待たされる」。 分け合うために生まれた形が、分け合わない子どもの手の中では、制限時間つきの競技になっていたわけです。 噛みちぎり派 もうひとつ、告白しておくことがあります。 私は「噛みちぎり派」でした。 いまのパピコには、先端に引っ張るためのリングがついています。「リング式イージーオープン」という正式名称まであるそうですが、あれが登場したのは2004年のこと。発売当初のパピコに、リングはありませんでした。 つまり昭和のパピコは、自力で開けるしかなかったのです。手でちぎるか、噛みちぎるか。私は迷わず後者でした。歯で先端をくわえて、ぐいっとやる。行儀が良いとは言えませんが、あれが一番速い。溶ける前に食べきらなければならない子どもにとって、開封は一秒でも短いほうが良かったのです。 ついでに言えば、当時のパピコは今よりずっと硬いものでした。パピコが「なめらか食感」になったのは1998年(平成10年)のリニューアルからで、それ以前は押し出すのにも力が要りました。噛みちぎった先から、硬い氷の塊をぐいぐい押し上げる。あの手ごたえこそが、私の記憶にあるパピコです。 いまのパピコを食べると、正直なところ「やわらかいな」と思います。おいしいのです。おいしいのですが、あの、下から親指で押し上げてもなかなか出てこない、じれったいような硬さが、どこにも残っていない。 硬かったから急いだのか、急いでいたから硬く感じたのか。いまとなっては、もう確かめようがありません。 令和の8月5日に 「パピコの日」が正式に制定されたのは、2019年のことでした。昭和どころか、平成もほとんど終わったころの話です。 パピコの累計販売個数は、40億個を超えているといいます。ただしこの集計は1982年からのものだそうです。1982年——私が中学に上がった年です。 ということは、私が小学生のころに商店の冷凍ケースの前でかがみ込み、噛みちぎって飲み干したパピコは、あの40億個には入っていないことになります。数えられていない。誰の記録にも残っていない。 けれど、私は覚えています。統計に入っていないアイスの味を、50年近くたっても覚えている。記念日というのは、たぶんそういうもののためにあるのだと思います。 そして今日という日は、「大切な人と分け合う日」ということになっている。 半世紀近く遅れて、私はようやくこの記念日の趣旨を実践できる立場にいます。今日あたり2本買ってきて、1本を誰かに渡してみるのも悪くありません。もっとも、渡した瞬間に「そっちのほうが多い」と言われる可能性は、大いにあるのですが。 みなさんは、パピコを「はんぶんこ」する側でしたか。それとも、私と同じく2本とも自分で抱え込む側でしたか。 記念日なので、久しぶりに買ってきました。私にとってのパピコは、やはり<チョココーヒー>です。昭和52年に「中学生がよく買っている」という発見から生まれた味が、半世紀近くたった今も定番として棚に並んでいる——それだけで、なんだか嬉しくなります。冷凍庫に何本かストックしておけば、この夏はいつでも「はんぶんこ」ができます。 江崎グリコ パピコ チョココーヒー 160ml×6袋1977年(昭和52年)発売のロングセラー。コーヒーにチョコを合わせた、あの味。2本1組だから、誰かと分け合うのも、ひとりで2本抱えるのも自由です Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月4日──同い年の黄門さまとは、夕方に出会った

今日は8月4日。夏休みも折り返しにさしかかる、暑さのいちばん厚い時期です。 今から57年前、1969年(昭和44年)のこの日、TBS系の月曜夜8時、『ナショナル劇場』という枠でひとつの時代劇が始まりました。 『水戸黄門』です。 私が生まれたのは、その年の4月。つまりこの番組がスタートしたとき、私は生後4か月の赤ん坊でした。まったくの同い年です。 ──と書くと思い入れたっぷりに聞こえますが、正直に申し上げます。私は月曜夜8時の『水戸黄門』を、ほとんど見ていません。 私の『水戸黄門』は、夕方の再放送で始まりました。 定着しない枠に、京都から時代劇を まずは、その始まりのほうから。 『水戸黄門』は、松下電器(現・パナソニック)の一社提供による『ナショナル劇場』という枠で放送が始まりました。この枠、それまではハナ肇とクレージーキャッツのコメディや布施明主演の青春ドラマなど、現代劇が多かったといいます。ところがどれもシリーズとして定着しない。ならば京都発の時代劇でいこう、と方針が決まって生まれたのが『水戸黄門』でした。企画の中心にいたのは、松下電器宣伝部の逸見稔さんと、制作会社C.A.Lの西村俊一さんです。 初代の黄門さまを演じたのは、俳優座の東野英治郎さん。それまで映画やドラマでは悪役を演じることが多かった人で、62歳にして水戸黄門役が初主演だったそうです。助さんは杉良太郎さん、格さんは横内正さん、元義賊で伊賀忍者という設定の風車の弥七は中谷一郎さん。うっかり八兵衛の高橋元太郎さんは第2部からの登場なので、この時点ではまだ一行にいません。 第1部は1969年8月4日から翌1970年3月9日まで、全32話。記念すべき第1話のタイトルは「俺は助さんおまえは格さん」でした。 こうして日本中の茶の間に、黄門さまが歩き出しました。その同じ年、私は生まれたばかりで、まだ何も見ていません。 私の『水戸黄門』は、外が明るいうちに始まった 小学生になったころ、私は夕方の再放送で『水戸黄門』を見るようになりました。 毎日欠かさず、というほどではありません。平日の、ときどき。学校から帰ってきて、そのままテレビの前に座る日がある、という程度です。そしてたいていの場合、私は一人で見ていました。 いま思うと、これは少し不思議な体験でした。 月曜の夜8時には、最新シリーズの黄門さまが日本中の茶の間を歩いている。その同じ番組を、私は何年も前に作られた回で、平日の夕方に見ていた。同い年のはずなのに、リアルタイムではずっとすれ違い続けていたわけです。 しかも第何部の第何話かなど、子どもの私には知りようがありません。話は毎回きれいに完結するので、順番を気にする必要もない。私にとって『水戸黄門』は、時系列というものが最初から存在しない番組でした。どこから見ても始まりで、どこで終わっても終わりだった。 それでいて、何も困らなかった。むしろそれが、あの番組のいちばんの発明だったのかもしれません。 そして、相撲へ 夕方の再放送には、決まった続きがありました。 黄門さまの旅が終わると、私はそのまま大相撲の中継に移ります。ちょうど上位の取り組みが始まるころ合いでした。江戸時代の旅から、いきなり土俵の上へ。いま並べると妙な取り合わせですが、当時の私にはひと続きの夕方でした。 相撲を見ていた理由については、以前この連載でも書きました。夕方5時の門限です。外で遊べる時間には終わりがあって、それを過ぎたら家にいるしかない。家にいるということは、テレビの前にいるということでした。 つまり私の『水戸黄門』は、「見たくて見た番組」というより、「家にいる時間にそこで流れていたもの」に近い。夜8時に家族そろって見る番組ではなく、一人で、外の明るさを背中に感じながら見る番組だった。同じ番組でも、見る時間帯が違えば、まるっきり別の記憶になるのだと思います。 「お決まり」は、最初からあったわけではない いまや誰でも知っている、あの終盤の場面。格さんが印籠を掲げ、悪代官たちが一斉に平伏す。 ところが、あの様式は最初から完成していたわけではないようです。ひと暴れした後に印籠を見せて正体を明かす──あのお馴染みのパターンに近い形が使われるようになったのは第2部からで、第1部で使われていた印籠とはデザインも違っていたといいます。 主題歌の「あゝ人生に涙あり」も、番組とともに歩いた一曲でした。作詞は山上路夫さん、作曲は木下忠司さん。初代の歌い手は、助さんと格さん──つまり杉良太郎さんと横内正さんです。その後、第4部からは里見浩太朗さんと横内正さん、第9部からは里見浩太朗さんと大和田伸也さん、と、歌い手も助さん格さんの交代とともに移り変わっていきました。 再放送でバラバラに見ていた私は、当然そんな変遷を知りません。黄門さまが印籠を出すのは、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことでした。生まれたときからそこにあったものを、人は「最初からそうだった」と思い込む。あの番組は、私にとってその典型だったのだと思います。 いま振り返ると、私があの番組を見ていた理由も、そこにあった気がします。物語の流れが、おおむね決まっている。誰が悪いのか、最後にどうなるのか、見る前からわかっている。ふつうならそれは退屈の理由になるはずですが、子どもの私にとっては逆でした。あの安心感、あの安定感が、心地よかったのだと思います。 先が読めないものを追いかけるのは、それなりに体力が要ります。夕方の一時間に私が求めていたのは、そういうものではありませんでした。今日も黄門さまは旅をしていて、今日も悪いやつは負ける。それがそのとおりに起きるのを確かめるために、私は座っていたのかもしれません。 私は、助さん派だった 子どもが時代劇を見るとき、たいてい黄門さま本人には感情移入しません。おじいさんですから。目がいくのは、暴れるほうです。 私は、助さん派でした。それも、里見浩太朗さんの助さんが一番のお気に入りでした。 里見さんが佐々木助三郎を演じたのは、第3部から第17部まで。年数にして16年半にわたります。つまり私が小学生で夕方の再放送を見ていたころ、画面の中の助さんは、まず間違いなく里見浩太朗さんでした。「助さんといえばこの人」と刷り込まれたのは、当然といえば当然だったわけです。 格さんには、印籠を掲げて「この紋所が目に入らぬか」と言う、あの一番おいしい役目があります。それでも私は助さんのほうがよかった。子どもが誰を好きになるかは、だいたい理屈ではないものです。 42年の旅の、終わり 『水戸黄門』は、その後ずっと続きました。 黄門さまは東野英治郎さんから西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さんへと引き継がれていきます。そして2002年、第31部。ついに里見浩太朗さんが、黄門役に座りました。 あの助さんが、黄門さまになったのです。 夕方の再放送で、私が一番かっこいいと思っていた男。その人が三十年かけて、旅の主役の側へ回った。子どものころに刷り込まれた序列というのは、四十を過ぎても案外そのまま残っているものです。 そして2011年。第43部をもって、TBS系のレギュラー放送としての『水戸黄門』は終わりました。最終回スペシャルの放送は、同年12月19日。42年の歴史に幕、と報じられました。終了が明らかになった際、里見浩太朗さんはTBS本社での会見で、後ろから斬られたようだ、残念というより痛い、という趣旨のことを語っています。この年はほかにも『3年B組金八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』が区切りを迎え、TBSの長寿ドラマがまとめて姿を消しました。 私はそのとき42歳。生後4か月だった赤ん坊は、番組が終わるときに42歳になっていた。つまり私は、『水戸黄門』とほとんど同じ年月を生きてきたことになります。 これほど正確に自分と並走した番組を、ほかに思いつきません。しかも私は、その42年のうちの何割かを、夕方の再放送という裏口から覗いていただけでした。 令和の茶の間から いま私の家には、地上波のテレビがありません。大きな液晶モニターで、YouTubeやNetflixを見ています。見たいものを、見たいときに、見たいだけ。便利です。文句のつけようがありません。 ただ、いまの配信の見方は、あのころの夕方の再放送によく似ています。順番など気にせず、途中から入って、話が終わればそれでいい。私は昭和の夕方に、すでに配信のような見方をしていたのかもしれません。 違うのは、選んでいなかったということです。テレビをつけたら黄門さまが歩いていて、終わったら相撲が始まった。選んでいないからこそ、体に残っている。いま自分で選んで見ているものが、40年後に同じように残っている自信は、正直あまりありません。 おわりに 1969年8月4日。私が生後4か月だったその夜、テレビの中でひとりの老人が旅に出ました。 その旅は42年続き、私が42歳になった年に終わりました。同い年でありながら、私はその始まりも終わりも、きちんとは見ていません。見ていたのは、小学生のころの、外がまだ明るい夕方の一時間だけです。 それでも「黄門さまがずっとそこにいた」という感覚だけは、いまも体に残っています。たぶん、選ばずに浴びたものというのは、そういうふうに残るのでしょう。 そして、あの旅の最後にいたのは、私が一番好きだった助さんでした。夕方の茶の間で刀を振っていた男が、四十年かけて黄門さまになり、そのまま番組を送り出した。私が見届けなかった終わりを、あの人が引き受けてくれていた。そう思うと、見ていなかったことが、少しだけ許される気がします。 あなたにとっての『水戸黄門』は、夜の番組でしたか。それとも私と同じ、夕方の番組でしたか。何代目の黄門さまがいちばんしっくりきますか。よろしければ、あなたの茶の間の話も聞かせてください。 ...

August 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月3日──トラと基板とひまわりと。少年に届かなかった三つのニュース

三つ並んで、三つとも空白だった 8月3日という日付を調べていて、少し困ったことになりました。 昭和の出来事が、きれいに三つ出てきたのです。昭和51年のTK-80発売、昭和54年の神野寺トラ脱走事件、昭和59年のひまわり3号打ち上げ。しかも自分の年齢を当てはめてみると、順に小学1年生、小学4年生、中学3年生。少年時代がちょうど三段に切り取られている。 これはいい記事が書けそうだ、と思いました。 思ったのですが、正直に申し上げます。私は、この三つをどれ一つとして覚えていません。 「あの夏か」という手応えが、まったく立ち上がってこない。三つ並んで、三つとも空白でした。 ただ、書きながら気づいたことがあります。同じ「覚えていない」でも、覚えていない理由がそれぞれ違うのです。早すぎて届かなかったもの。近いのに届かなかったもの。近すぎて、届いていることにさえ気づかなかったもの。 その三つの距離の話を、今日は書いてみます。 昭和54年、隣の県でトラが逃げた まずは真ん中の、いちばん派手な話から。 昭和54年8月2日の夜、千葉県君津市の鹿野山にある神野寺という寺で、飼われていたベンガルトラ3頭が檻から逃げ出しました。関東最古とも伝えられる古刹の境内に、当時は観光用の動物園が併設されていて、十二支にちなんだ動物たちが飼われていたのだそうです。 3頭のうち1頭はすぐに戻ってきましたが、生後1年ほどのオスとメスの2頭が行方不明になりました。体長はおよそ1.5メートル、体重は100キロ前後。まだ子どもとはいえ、山に放たれたトラです。 寺からの通報を受けた千葉県警が現地対策本部を設置したのが、翌3日の未明でした。警察官、消防団、猟友会。総勢およそ500人が山に入り、周辺の住民には外出禁止令が出されます。夏休みの真っ最中で、寺の周辺には観光客や合宿中の学生も滞在していました。近くのマザー牧場で予定されていた野外コンサートも中止になっています。 メスは4日の朝に射殺されました。ここで話が複雑になります。全国から「射殺するな」「かわいそうだ」という抗議が殺到し、寺の住職までが射殺という判断を疑問視する発言をした。これに猟友会が激怒して、捜索は一時中断してしまいます。 残るオスは、そこから山中を逃げ続けました。決着がついたのは28日。近隣の民家の飼い犬がトラに襲われて死んでいるのが見つかり、その日のうちに射殺されて、27日間の騒動はようやく終わりました。 日本中がひと夏、山に潜む1頭のトラを追いかけていたわけです。連日ニュースになったはずですし、テレビの前で息を呑んだ子どもも大勢いたはずです。 なのに、私にはその記憶がない。 なぜだろうと考えて、地図を見て、腑に落ちました。君津は、たしかに隣の県です。距離でいえば東京の西のはずれより近いくらいかもしれません。でも当時のわが家に車はなく、父は休みらしい休みがない人で、家族で泊まりがけの旅行に出た記憶も一度もない。房総というのは、私にとって「行ったことのない土地」でした。 行ったことのない土地は、地図の上でどれだけ近くても、遠いのです。10歳の私にとって、鹿野山は月の裏側と大差なかったのだと思います。 昭和51年、8万8500円の基板 次は、いちばん古い話。 昭和51年8月3日、日本電気――今のNECが、TK-80という製品を発売しました。「Training Kit」の頭文字を取った名前のとおり、これは完成品ではありません。ビニール袋に入った部品と、組み立て説明書と、回路図。買った人が自分でハンダごてを握って、一枚の基板の上に組み上げる。そういう代物でした。 価格は8万8500円。中途半端な数字に見えますが、これには理由があって、当時の企業で係長や課長が自分の判断で決裁できる金額の上限が10万円だったからだ、と伝えられています。技術者が上司に相談せずに買える値段。それが8万8500円でした。 そもそも売る側も、これが売れるとは思っていませんでした。マイクロプロセッサという新しい部品を売り込もうにも、客先を回って説明しても理解してもらえない。ならば技術者に触って覚えてもらおう、という販売促進のための教材だったのです。月に200台も出れば上出来、という見込みでした。 ふたを開けたら、月に2000台売れました。 しかも買ったのは想定していた企業の技術者だけではなく、学生や、経営者や、ただの物好きたちでした。秋葉原のラジオ会館に開設されたサポート窓口には人が集まり、そこからパソコンという文化が立ち上がっていく。日本のマイコンブームは、この一枚の基板から始まったといわれています。 このとき、私は7歳。小学1年生の夏休みです。 覚えていないのは当然だ、と胸を張って言えます。だってこれは、大人ですら誰も知らなかった出来事なのですから。売っている本人たちが月200台と踏んでいたものが、どうして下町の小学1年生に届くでしょうか。 ニュースが子どもに届かなかったのではなく、ニュースそのものがまだ存在していなかった。トラの話とは、まるで種類の違う「遠さ」です。 昭和59年、天気予報の裏側が打ち上がった 三つめ。昭和59年8月3日、種子島宇宙センターからN-IIロケット6号機が飛び立ちました。積んでいたのは静止気象衛星「ひまわり3号」です。 ここで少しおかしな話があります。この打ち上げ、本来の予定より2日遅れました。理由は、台風7号の接近です。 台風を見張るために飛ばす衛星が、台風に足止めされていた。昭和の夏らしいというか、なんとも人間くさい話だと思います。 ひまわり3号は、この年の秋から本格的な運用に入りました。地球の雲の画像を1日に何度も送ってきて、それがそのまま夕方のテレビの天気予報に流れる。私たちが「明日は雨か」と口にするとき、その根拠は宇宙から届いていたわけです。 このとき、私は15歳。中学3年生でした。 そして三つのなかで、この打ち上げを覚えていないことが、いちばん自分でも意外でした。トラや基板と違って、ひまわりの成果は毎日目に入っていたはずだからです。テレビをつければ、白い渦がぐるぐると回っている。あの映像を見ていない日のほうが少なかったでしょう。 ひまわりの初号機が上がったのは昭和52年です。私が小学2年生のときですから、物心ついてからこちら、雲の写真が映る天気予報しか知らずに育ったことになります。3号はその三代目。世代交代が起きていたことにも、当然ながらまるで気づいていませんでした。 つまり私は、恩恵だけを受け取って、その出どころに一度も関心を向けなかったということになります。近すぎて、意識の対象にすらならなかった。空気を覚えていないのと同じことです。 遠すぎて届かないものと、近すぎて見えないもの。人間が取りこぼすものには、どうやら両側があるらしいと、この歳になって思います。 同じ日付、同じ会社 ここまで書いてきて、ひとつ気づいたことがあります。 TK-80をつくったのは日本電気です。そしてひまわり3号を開発・製造したのも、日本電気でした。 8年の隔たりを挟んで、同じ8月3日に、同じ会社が、一方では8万8500円の裸の基板を、一方では宇宙に浮かべる気象衛星を世に出している。片方は日本のパソコン文化の出発点になり、片方は毎日の天気予報を支えた。 昭和という時代の底力みたいなものが、この符合には少しだけ透けて見える気がします。 そして今、私はその基板の子孫にあたる機械でこの文章を書き、朝はその衛星の子孫が撮った雲を見て一日の見通しを立てている。覚えていなかった二つの出来事が、いつのまにか私の生活そのものになっていた。 ...

August 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月1日──「男の子女の子」が鳴り出した日。新御三家と、茶の間のテレビ

夏休みのど真ん中に、ひとりのスターが生まれた 8月1日。子どものころ、この日は「夏休みがまだたっぷり残っている」という、いちばん贅沢な時期でした。カレンダーの残りが分厚くて、8月31日という言葉がまだ他人事だったころです。 その8月1日に、16歳の少年がレコード店の棚に並びました。1972年(昭和47年)、郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューします。 このとき、私は3歳です。当然ながら、この日のことは何ひとつ覚えていません。ただ、この日から始まったものが、そのあと十数年にわたって、私の家の夜の「音」をつくり続けることになります。 「フォーリーブスの弟」から始まった デビュー曲のキャッチフレーズは「フォーリーブスの弟」。4人組の先輩より多く伸びるようにと、4より大きい5(ゴー)から「郷」の字が当てられました。芸名の由来からして、いま聞くとずいぶん大らかな、昭和らしい話です。 郷さんはこの年の1月2日にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビューしており、歌手はその後でした。9月25日にはデビュー曲がオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、11月には第14回日本レコード大賞の新人賞を受賞します。 三人が揃った 「新御三家」。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の三人です。 いちばん早かったのは野口五郎さんでした。1971年5月1日に「博多みれん」でデビュー。これが演歌調で、2作目の「青いリンゴ」でポップス路線に転じて成功します。次が西城秀樹さんで、1972年3月25日の「恋する季節」。そして同じ年の8月1日に郷ひろみさん。 三人のなかでデビューはいちばん遅かったのに、オリコンのベストテン入りは郷さんが最初でした。野口さんの「オレンジの雨」、西城さんの「情熱の嵐」がベストテンに入るのは翌1973年になってから。そしてその1973年、郷さんはブロマイドの年間売上で1位となり、三人は「新御三家」と呼ばれるようになります。 こうして1年3か月ほどの間に三人が出そろい、ここから昭和50年代いっぱい、茶の間のテレビは、この三人抜きには回らなくなります。 相撲から歌番組へ ——我が家の、いつもの夜 当時は本当に毎日のように、どこかの局で歌番組が放送されていた印象があります。今のように音楽を好きなときに聴ける時代ではなかったので、新しい曲や人気歌手を見ることができる歌番組は、家族みんなの楽しみでした。 我が家でも夕食時になると自然とテレビがつき、ニュースや野球中継がない日は歌番組が流れていました。とくに1978年に始まった『ザ・ベストテン』は家族みんなが楽しみにしていた番組で、「今日は誰が1位かな」「あの歌手は何位まで上がるかな」と順位を見ながら話をするのも毎週の楽しみでした。ベストテン入りした曲は学校でも話題になり、翌日には友達同士で口ずさんでいた記憶があります。 チャンネル権というものは、我が家には特にありませんでした。父が家にいる時間帯は父の希望が優先でしたが、歌番組は家族全員で楽しめる内容だったため、大きくチャンネル争いになることはあまりなかったのです。相撲中継の時期には夕方5時の門限に間に合うように帰宅し、そのまま相撲を見て、夕食後はその流れで歌番組を見る。相撲から歌番組へと続くこの流れが、我が家のいつもの夜の過ごし方でした。 テレビは一家に一台という家庭もまだ珍しくなく、家族が同じ番組を一緒に見るのが当たり前の時代です。だからこそ流行歌は家族全員が自然と覚えてしまい、歌手の名前や新曲が共通の話題になっていました。今振り返ると、家族みんなで同じ音楽を楽しんだ、とても温かい時間だったと思います。 男の子だって、夢中でした ここで、はっきり書いておきたいことがあります。男子から見た新御三家は、決して「女の子だけのアイドル」ではありませんでした。私自身、かなり夢中になって見ていました。歌番組が始まると自然とテレビの前に座り、誰が出るのか楽しみにしていたものです。 郷ひろみさんといえば、「お嫁サンバ」はもちろん、「哀愁のカサブランカ」、そして樹木希林さんとのデュエット曲「林檎殺人事件」。あの曲は『ザ・ベストテン』で4週連続の1位になりました。ほかにも「よろしく哀愁」「ハリウッド・スキャンダル」と、挙げ始めたらきりがありません。テレビに郷さんが登場すると、華やかな衣装とキレのあるダンス、そして抜群のスター性に、子どもながら「やっぱりスターは違うな」と感じていました。 西城秀樹さんは、やはり何といっても「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。1979年のこの曲はオリコンで5週連続1位、80.8万枚を売り上げ、『ザ・ベストテン』では番組初の満点9999点を記録しました。あの曲が流れ始めると、日本中が熱狂していたと言っても大げさではないと思います。サビになると、みんなが自然と腕で「Y」「M」「C」「A」の文字を作りながら歌っていました。学校でも友達同士でまねをしたり、運動会やレクリエーションで振り付けを踊ったりして、「YMCA」のポーズを知らない子はいないくらいの大ブーム。今でもイントロを聴くだけで、当時の熱気がよみがえってきます。 野口五郎さんも歌唱力が抜群で、「私鉄沿線」や「甘い生活」など、しっとりとした名曲を数多く歌っていました。郷さんや西城さんとはまた違う魅力があり、新御三家はそれぞれ個性がはっきりしていて、そこが歌番組を見る楽しみの一つでもありました。 数字にも占有ぶりが出ています。1970年代後半から1980年代前半にかけて、三人のうち誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』に出演していました。出演回数は西城さん188回、郷さん175回、野口さん123回です。 新曲は歌番組で初めて耳にし、翌日には学校で「あの歌よかったね」「昨日見た?」という会話が自然に始まる。男子も女子も関係なく新御三家の曲を口ずさんでいましたし、誰が好きかを話題にすることも珍しくありませんでした。彼らはまさに、時代を象徴するスターだったと思います。 「上の世代の大スター」になっていく 中学、高校へと進むにつれて、子どものころのように毎週欠かさず歌番組を見ることは少なくなっていきました。部活動や受験勉強で忙しくなり、テレビそのものを見る時間が減っていったこともあります。私自身が夢中になったのはプロレスと野球で、アイドルといえば松田聖子ではなく河合奈保子、そして中森明菜でした。 それでも、新曲が出れば気になりますし、新御三家の存在が自分の中から消えることはありませんでした。子どものころに夢中になって見ていたスターですから、歌番組で見かければ自然と足を止めてしまう、そんな存在だったように思います。 高校生になるころには、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんは、もはや「憧れのお兄さん」というよりも、日本を代表する大スターという印象でした。自分たちよりずっと上の世代のスターという感覚になっていましたが、それでも新曲や活躍はしっかりチェックしていました。 二十数年後、体育館のステージに そして、その思いが何十年か後に、思いがけない形でよみがえる出来事がありました。 以前、中森明菜さんについて書いた記事で、社会人になって勤務していた会社の全国大会で、突然、体育館のステージに明菜さんが現れた感動を書きました。実はその前年の全国大会にも、私は野球で出場していたのです。そして、その年のシークレットゲストこそが、郷ひろみさんでした。 大会二日目の夜、会場となった体育館には大勢の社員が集まり、「今年は誰が来るんだろう」と期待に胸を膨らませていました。そして照明が落ち、ステージに現れたのが郷ひろみさん。あの瞬間の歓声は、今でも忘れることができません。 披露してくれたのは、当時大ヒットしていた「GOLDFINGER ‘99」。イントロが流れた瞬間、会場のボルテージは一気に最高潮に達しました。体育館中の誰もがリズムに乗り、手拍子をしながらサビを大合唱。「ア・チ・チ・ア・チ!」というフレーズは、会場全体が一つになって響き渡り、まるで本物のコンサート会場にいるような熱気でした。 子どものころ、茶の間のテレビ越しに「お嫁サンバ」や「林檎殺人事件」を夢中で見ていたあの郷ひろみさんが、いまは目の前のステージで歌っている——その不思議な感覚は、言葉では表せません。テレビの向こう側の遠いスターだった人と、同じ空間で歌い、同じ時間を共有している。その事実だけで胸がいっぱいになりました。 翌年には、中森明菜さんが同じ体育館のステージに立ちました。子どものころに歌番組で憧れていたスターたちと、大人になって同じ空間を共有できたあの二年間は、私にとって忘れることのできない特別な思い出です。少年時代にブラウン管の向こうで輝いていたスターたちが、時を経て目の前で歌ってくれた。昭和という時代を生きた私だからこそ味わえた、何ものにも代えがたい幸せな時間だったように思います。 令和のいま 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなりました。63歳でした。三人揃って毎週テレビに映っていたころを知っている身には、いまだにうまく飲み込めない出来事です。 一方で郷ひろみさんは、70歳になったいまも現役です。1972年8月1日に棚に並んだ16歳が、54年間ずっと第一線にいる。ちょっと考えられないことです。 そして「YOUNG MAN」は、いまも運動会や応援席で鳴っています。歌った人が誰かを知らない子どもたちが、あの「Y・M・C・A」のポーズをとっている。それを見るたびに、あの人たちが作ったものは、名前が消えてもまだ残っているんだな、と思います。 みなさんは、新御三家のうち誰派でしたか。あるいは、ご家庭の茶の間ではどの歌番組が流れていましたか。よかったら教えてください。 あの夜9時、家族みんなでテレビの前に集まった『ザ・ベストテン』。その舞台裏を、番組を作った総合演出者みずからが書いた一冊です。ランキングはどう決まっていたのか、あの中継はどうやって実現したのか——歌手を追いかけて全国を飛び回ったスタッフたちの奮闘が、昭和の歌謡曲の熱気とともによみがえります。あの頃テレビの前にいた方には、たまらない読み物です。 ザ・ベストテン(新潮文庫)山田修爾。番組の総合演出者が明かす『ザ・ベストテン』の舞台裏。ランキングの仕組みから中継の裏側まで、昭和歌謡が最も輝いた時代の記録 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月31日】欠けていく太陽と、黒い下敷き | 次の記事:【8月2日】道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場 ▶ ...

August 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026