この連載は、たいてい子どもの目線で書いています。駄菓子屋の棚とか、木曜九時のテレビとか、高砂の線路脇とか。ですが今日の8月28日については、その目線を借りることすらできません。
1971年(昭和46年)8月28日。私は2歳4か月です。何も見ていないし、何ひとつ覚えていない。正真正銘、記憶にございません。
それでもこの日を書いておきたいと思ったのは、この日を境に始まった「あるもの」が、その後の私の人生に、形を変えて何度も顔を出し続けたからです。トイレットペーパーの行列として。ハワイのTシャツとして。信用金庫の窓口として。そして、150万円の授業料として。
22年間、1円も動かなかった数字
若い人に「昔は1ドルが360円だったんだよ」と言うと、たいてい「へえ、すごい円安ですね」という反応が返ってきます。それはその通りなのですが、あの360円が今の円安とまったく違うのは、その数字が動かなかったという一点です。
1949年、戦後の経済政策の一環として、1ドル=360円という単一の為替レートが定められました。以来22年間、この数字は1銭たりとも動いていません。円高も円安もない。為替は天気ではなく、暦のようなものでした。

そもそも当時、普通の日本人がドルに触れる機会などほとんどありませんでした。観光目的の海外渡航が自由化されたのは1964年4月1日。しかもこのとき、1人が持ち出せる外貨は年1回・500ドルまでという制限つきです。1966年に回数制限が外れ、1969年に700ドル、1970年に1000ドルへと、少しずつ引き上げられていきました。
つまり昭和の日本にとって、ドルとは「買うもの」ではなく「配られるもの」に近かった。値段の変わらない、限られた配給品のようなものだったのです。
十二日間の攻防
その暦のような数字が、たった十二日で崩れます。
1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領が、ドルと金の交換停止を柱とする新経済政策を突然発表しました。戦後の世界経済を支えてきた仕組みの土台を、当のアメリカが自分で抜いてしまったわけです。日本ではこれをドル・ショック、あるいはニクソン・ショックと呼びました。

株式市場の反応は激烈でした。翌16日の日経平均は215円安。下落率にして7.68パーセント。当時としては下落幅の過去最大記録です。動揺は収まらず、19日までの4日間で日経平均は550円も下げました。
ここからが、私がいちばん惹かれる部分です。
ヨーロッパの主要国は、混乱を避けるためにさっさと為替市場を閉じてしまいました。ところが日本は、市場を開けたまま360円を守ろうとしたのです。売られる円を、日本銀行がひたすらドルを買うことで支え続けました。その規模は1週間で約40億ドルに達したとも言われます。
いま振り返れば無謀にも見えます。ただ、22年間動かなかった数字を自分の代で手放すという判断が、当時の当局にとってどれほど重かったか。そう思うと、あの十二日間の粘りは、そう簡単に笑えるものではありません。
それでも限界は来ます。8月27日、日本の外貨準備高は125億ドルに膨れ上がっていました。買い支えた分だけドルが積み上がったわけです。この日の閣議で、翌28日から変動幅の制限を撤廃することが決まりました。
そして8月28日。変動相場制に移った初日、円は342円をつけます。その後は340円前後で推移し、年末には320円前後まで進みました。

同じ年の12月18日、ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた会議で、1ドル=308円という新しい固定レートが決まります。いったんは固定相場に戻ったのですが、それも長くは持ちませんでした。1973年2月14日、円は再び変動相場制へ。以来、日本が固定相場に帰ったことは一度もありません。
「1ドル360円」の時代は、あの夏に終わったのです。
「円安が悪いのか良いのか、正直よく分からない」──そう思ったまま何十年も過ごしてきた私のような人間には、ちょうどいい一冊がありました。仕組みのところから、データで説明してくれます。
覚えているのは、トイレットペーパーの行列
1971年のことを、私はもちろん覚えていません。ただ、その数年後のオイルショックのことは、いまでも少し記憶に残っています。
円が再び変動相場制に移った1973年の秋、第四次中東戦争をきっかけに原油価格が跳ね上がりました。第一次石油危機です。日本中で物がなくなるという噂が走り、翌1974年には物価が2割を超えて上がって「狂乱物価」と呼ばれました。
そのさなか、トイレットペーパーを買うために、たくさんの人でごった返した雑貨店へ、母に連れられて行ったことがあります。私は4歳です。
覚えているのは、人がぎゅうぎゅうに詰まった店の中の景色だけです。母がどんな顔をしていたのか、結局買えたのかどうか、そこまでは思い出せません。それでも、あの人いきれのようなものは、五十年たったいまも残っています。
固定相場という頑丈な壁が外れたあとの世界で、4歳の私が最初に手渡された感触が、それでした。
「意外と安いな」── 1992年、ホノルル
私が初めてドル紙幣を自分の手で握ったのは、大学4年のときです。生まれて初めて飛行機に乗り、ホノルルマラソンを走りに行きました。
1992年、第20回大会。エントリーは3万人を超え、そのうち日本人だけで1万8千人以上。当時のハワイは、日本人ランナーで埋まっていました。

初めての飛行機、初めてのハワイ、初めてのフルマラソン、そして初めてのドル紙幣。現地で買い物や食事をすると、「思ったより安いな」と感じる場面が多かったのを覚えています。当時のレートは1ドル120円台くらいだったはずです。何ドル払ったのかという具体的な金額はもう出てきませんが、「日本で買うより安い」という感触だけははっきり残っています。
そして調子に乗った私は、カラフルなトカゲがプリントされたTシャツを何枚も買い込みました。いま思えば、あれはハワイでよく見かけるゲッコー、つまりヤモリだったのでしょう。
初めて飛行機に乗り、初めてハワイへ行き、走って、初めてのドルで「意外と安い」と喜び、ゲッコーのTシャツを大量に抱えて帰ってくる。我ながら、1992年の大学生そのものです。
ただ、ひとつだけ言っておきたいことがあります。もしあの日、1971年8月28日がなかったら。1ドルが360円のままだったら、あのホノルルは私にとって三倍高い街だったはずです。学生の分際で海を渡って走れたのは、その21年前の夏に、日本銀行が守りきれなかったからでした。

「予約ライン」が、ちんぷんかんぷんだった頃
大学を出て、私は信用金庫に入りました。
入庫してまもなく、勉強のためにということで融資の窓口に配属になりました。そこで「予約ライン」という言葉に出くわします。外国為替の予約に関する限度額のようなもの、という説明を受けた記憶はあるのですが、当時の私にはまったくちんぷんかんぷんでした。
いま考えると、あれもまた1971年8月28日の子孫のようなものです。円が動くようになったから、動く前に値段を決めておく「予約」という仕組みが要る。予約を認めるなら、どこまで認めるかという線も引かなければならない。窓口に座っていた若造には、そこまで見えるはずもありませんでしたが。
150万円という授業料
もうひとつ、書くかどうか迷いましたが、書きます。私はFXで150万円ほど溶かしたことがあります。
始めたのは2013年の9月頃でした。ドル円は100円を切るくらいだったと思います。アベノミクスで円安が進んでいて、「FXなら儲かるのではないか」と、ほとんど仕組みも分からないまま始めました。今思えば、これが大きな間違いでした。レバレッジというものの怖さもよく分からないまま取引をして、結果的に150万円ほど失いました。
この経験は、私にとってかなり大きな勉強になりました。
「自分が相場の動きを予想して勝ち続けることなんて、できるわけがない」
身をもって、そう思い知らされたからです。
当てにいくのではなく、居続ける
それから、投資に対する考え方が少しずつ変わりました。
短期的な値動きを当てに行くのではなく、世界の企業が成長していく力そのものに乗る。そして、細かな値動きに一喜一憂せず、長い時間をかけて資産を育てていく。いま私が積み立てているS&P500やNASDAQ100の投資信託は、その考えの先にあります。
インデックス投資を続けているのは、単に「良いと聞いたから」ではありません。FXで150万円を失った経験があったからこそ、「相場を当てる」のではなく「市場に居続ける」ことのほうが自分には合っている、と考えるようになったのです。
150万円は決して安い授業料ではありませんでした。でも、その失敗があったからこそ、いまの自分の投資スタイルがあります。そう考えると、あの150万円は、私にとって失ったお金であると同時に、考え方を変えるための授業料だったのかもしれません。
もっとも、投資信託を持つということは、意識するとしないとにかかわらず、毎日ドルを持たされているということでもあります。バスのハンドルを握っているあいだも、口座の中では為替が動き続けている。1971年の夏に外れた壁は、いまも外れたままです。
「市場に居続ける」という考え方そのものを最初に世に出したのが、バンガードの創業者ジョン・ボーグルでした。私が読んだのはずっとあとですが、自分がFXで払った150万円の答え合わせのような本でした。
2歳の私は、何も知りませんでした。けれどあの日決まったことの上に、トイレットペーパーの行列も、ゲッコーのTシャツも、ちんぷんかんぷんだった窓口も、消えた150万円も、全部乗っかっていた。
記憶にはございません。でも、無関係ではありませんでした。
みなさんは「1ドル360円」だった時代を、どんな形で覚えていらっしゃいますか。あるいは、ご両親からどんなふうに聞いていらっしゃるでしょうか。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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