【昭和の今日は何があった日?】8月22日──氷の三千キロと、スイカのタネ
正直に書きます。私はこの日のことを、まったく知りませんでした。 八月二十二日に何があったのか調べていて、ひとつの名前に行き当たりました。植村直己。名前は知っています。知らない日本人のほうが少ないでしょう。でも、その人が昭和53年の八月二十二日に何を成し遂げたのか——私はこの記事を書くまで、知らなかったのです。 昭和53年8月22日、グリーンランド南端 その日、植村直己はグリーンランドの南端、ヌナタックと呼ばれる岩峰にたどり着きました。 出発は同じ年の五月十二日。グリーンランド最北端の、モーリス・ジェサップ岬。そこから犬ぞりで、この巨大な島を北から南へ、まっすぐ縦に走り抜ける。七月十二日には内陸氷床の最高地点、標高3240メートルを越えました。走った距離は3000キロ近く。三か月あまりの旅でした。 しかもこれは、後半戦にすぎません。 その年の一月三十日、彼は日本を発っています。二月にカナダ最北の島へ入り、三月五日、コロンビア岬から犬ぞり「オーロラ号」で出発。17頭のハスキー犬を率いて、乱氷の海を800キロ。四月二十九日、北極点に到達しました。犬ぞりによる単独での北極点到達は、世界で初めてのことでした。37歳。 北極点に立ち、そこから飛行機でグリーンランド北端へ運ばれ、休むことなくそのまま南へ走り出す。八月二十二日は、一月末に日本を出てから半年以上におよんだ、その長い旅の終着点だったのです。 「一口千円」で送り出された人 調べていて、いちばん胸に残ったのはここでした。 この冒険は、資金が足りませんでした。スポンサー三社だけでは賄いきれず、全国的に「一口千円募金」が呼びかけられたのだそうです。千円。当時の千円です。国家の事業でもなければ、大企業の宣伝でもない。ひとりの男が氷の上を走るために、日本中から千円札が集められた。 北極点をめぐっては、もうひとつの物語もありました。植村が到達する前日、四月二十八日に、日本大学の遠征隊5人が犬ぞりで日本人初の北極点到達を果たしていたのです。同じ時期に、同じ手段で。世間は「どちらが先に着くか」と沸いたといいます。 昭和53年の日本には、それだけの熱があった。北極が、氷が、犬ぞりが、新聞やテレビの真ん中にあったのです。 そして九月一日、旅を終えて帰国した彼は、記者会見でこう言ったそうです。「女房より犬がかわいい」。半年間、十七頭とだけ暮らして帰ってきた人の言葉です。 氷の上で、彼は何をしていたか 「犬ぞりで走った」と一行で書いてしまうと、なんだかスイスイ滑っていったように聞こえます。実際はまるで逆でした。 北極点をめざす前半戦、出発してすぐに待っていたのは乱氷帯です。氷が押し合ってできた大小の塊が、視界の果てまでひしめいている。そりが通れる道などありません。鉄棒で氷を叩き割り、ルートをこじ開けながら進む。二日たっても三日たっても、出発点の岬がすぐ後ろに見えている。そんな日が続いたといいます。 白熊にテントを襲われたこともありました。引き裂かれたテントの中で、ただ息を殺してじっとしていた。動かなかったことが幸いして、熊はドッグフードのほうへ興味を移していったそうです。 一方、後半のグリーンランド縦断では、そりに帆を張りました。風を受けて走れる日は、心にも余裕が生まれる。そして彼は、その余裕でこんなことをしています。 名古屋大学の研究所から依頼されて、雪や水や空気のサンプルを採集していたのです。停滞して動けない日には、のんびりと採集をしている——そんな記述が日誌に残っています。さらに六分儀で自分の位置を確認していたとき、グリーンランド北部のある山の位置が、地図と20キロずれていることに気づきました。のちに人工衛星による調査で、彼の指摘のほうが正しかったことが証明されています。 たった一人で氷の上を走りながら、地図の間違いを見つけて帰ってきた。そういう人だったのです。 その日、私はスイカのタネを飛ばしていた さて、ここからが本題です。 昭和53年8月22日。私は9歳、小学3年生でした。夏休みの終盤。あと十日ほどで二学期がはじまる、あの独特の焦りが漂いはじめる時期です。 その日私はたぶん、朝9時頃から友だちと区民プールへ行って、2時間くらい泳いでいました。帰宅してお昼ご飯を食べたあと、また友だちと再合流して、路地野球です。 途中で、誰かのお母さんがスイカを切ってお盆にのせて持ってきてくれる。なぜか縁台がどこの家にもあって、それを道路に出して腰を掛け、みんなでスイカにかぶりつき、タネをピュッ、ピュッと口から吹き飛ばしては笑い合っていた。そんな時代でした。 昭和53年といえば、私が巨人の打順をそらで言えるようになった年でもあります。柴田、土井、張本、王、柳田、高田、河埜、吉田、堀内。四十八年経った今でも口をついて出てきます。路地でバットを振っていた9歳の頭の中を占めていたのは、要するにそういうものでした。北極も氷床も、入り込む隙間などありません。 ——これが、昭和53年8月22日の私です。 同じ日、地球の北の果てで、ひとりの日本人が三千キロを走りきって旅を終えていた。氷点下の世界を半年かけて渡りきった男が、南端の岩にたどり着いていた。 こちらは葛飾の路地で、スイカのタネを飛ばしていました。 どちらが上でも下でもありません。ただ、同じ一日というものの中に、そんなに違うものが同時に入っているのだということに、四十八年経ってから気がついたわけです。 いつの間にか、知っていた名前 では、植村直己という名前を私はいつ知ったのか。 これがまた、はっきりしないのです。 たぶん中学生以降だったと思います。教科書や本で読んだ記憶はありませんから、おそらくテレビでしょう。子どもの頃の私には活字を読む習慣がありませんでしたから、教科書に載っていたとしても、素通りしていた可能性は大いにあります。 いつの間にか知っていた——というのが、いちばん正直な実感です。 昭和59年(1984年)の二月、彼が北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂に世界で初めて成功し、その下山中に消息を絶ったこと。二月十二日、43歳の誕生日に頂上に立ち、翌十三日を最後に消えたこと。没後に国民栄誉賞が贈られたこと。 これも、当時どうだったかの記憶がないのです。私は14歳、中学2年生。テレビも新聞も家にあったはずなのに、そのニュースを見た瞬間というものが、私の中に残っていません。その後にいつの間にか知ったんだと思います。 つまり私にとっての植村直己は、入口のない知識なのです。いつ入ってきたのかわからないまま、気づいたら中にあった。そういう名前が、誰にでもいくつかあるのではないでしょうか。 わからない、ということ こういう記事を書いていると、最後にうまいことを言いたくなります。 たとえば私は路線バスの運転手ですから、「毎日決まった道を走る自分と、道のないところを走った植村さんと」——などと並べてみたくなる。書けなくはありません。 でも、正直に言います。私にはわからないのです。 植村さんの立場に立って考えることなど、とてもできません。氷点下四十度の中で、たった一人で、犬十七頭だけを頼りに半年間を過ごす。その日々に何を思っていたのか、想像しようとしても手が届かない。そのくらい、常人とはかけ離れていた方なのではないでしょうか。 だから並べません。並べるのは、たぶん失礼です。 私にできるのは、知らなかったことを知った、と書くことだけです。九歳の私は知らなかった。十四歳の私も、たぶんぼんやりとしか知らなかった。五十七歳になって、ようやく八月二十二日という日付にたどり着いた。 それでいいのだと思います。人生のほとんどの日は、誰かの最良の一日と重なっていて、私たちはそれを知らないまま通り過ぎていく。でも、あとから知ることはできる。今日という日に、あとから意味を足すことはできる。これは、そんなに悪くないことのような気がします。 ...