9月2日 ── 金曜の夜十時は、父の休みの日だった|昭和の今日は何があった日?

9月2日。 この日に始まったものと、この日に決められたものを、ふたつ書きます。ひとつは土曜の夜10時に流れ始めた時代劇。もうひとつは「く(9)じ(2)」という語呂合わせでつくられた記念日です。 まったく関係のない二つに見えます。実際、関係はありません。ただ、書いているうちに、私のなかでは同じ場所につながってしまいました。 昭和47年9月2日、土曜22時 1972年(昭和47年)9月2日、土曜日の夜10時。『必殺仕掛人』の第1回「仕掛けて仕損じなし」が放送されました。朝日放送と松竹の共同製作で、当時はTBS系。翌1973年4月14日までの全33話でした。 原作は池波正太郎。表向きは人足の口入屋を営む音羽屋半右衛門(山村聡)を元締めに、鍼医者の藤枝梅安(緒形拳)、浪人剣客の西村左内(林与一)が、金銭と引き換えに、晴らせぬ恨みを晴らしていく。 いま思えば、とんでもない企てです。当時のテレビ時代劇は勧善懲悪が基本でした。正義の側が悪を裁く。それが約束ごとだった場所に、「金をもらって人を殺す者たち」を据えたのです。 その企てが当たりました。以後この作品は『必殺シリーズ』として、昭和が終わるまで続いていくことになります。 ちなみに私は、このとき3歳です。 記憶にございません。土曜の夜10時、3歳の私はとっくに寝かされていたはずです。あの伝説は、私の知らないところで始まっていました。 その第1回「仕掛けて仕損じなし」は、いまは分冊百科のかたちで手に入ります。三話ぶん入って900円ほど。3歳で寝ていた夜を、あとから見に行けるわけです。 必殺シリーズDVDコレクション 創刊号(必殺仕掛人 第1話〜第3話)第1話「仕掛けて仕損じなし」を含む3話収録。マガジンでは各話の解説、裏稼業のヒーローたちの関係や殺し技、時代背景まで。星4.2(69件) Amazonで見る › 私の必殺は、金曜の夜10時だった 私が必殺シリーズをリアルタイムで観るようになったのは、それから13年後です。 1985年(昭和60年)1月11日から7月26日まで放送された『必殺仕事人V』。テレビ朝日系、毎週金曜22時。このシリーズから、京本政樹さん演じる組紐屋の竜と、村上弘明さん演じる花屋の政が登場しました。 始まった1月、私は中学3年生。4月から高校1年生になりました。同じ年の11月15日からは続編の『必殺仕事人V・激闘編』が始まります。つまり高校1年生の一年間、私はずっと金曜の夜10時に必殺を観ていたことになります。 高校では野球部です。毎日ボールを追いかけて、泥だらけになって帰ってくる。それでも金曜の夜だけは、テレビの前に座っていました。 なぜ観られたのか。理由ははっきりしています。 父の休みが、金曜日だったからです。 週に一日しかない父の休み。その夜、父は必殺を観ていました。父も大好きだったのです。だから私も隣に座っていた。中学生が、高校生が、親と並んで夜10時のテレビを観る。あの時間だけは、そういう時間でした。 我が家のテレビに、はっきりした門限はありませんでした。とはいえ小学生の頃は「9時まで」というのが暗黙の了解だったように思います。それが中学、高校と上がるにつれて、なんとなく緩んでいった。金曜の夜10時に父の隣に座れるようになったことは、たぶん、私にとってひとつの通過点だったのだと思います。 中村主水という人 主演は藤田まことさん演じる中村主水。 あのギャップが、とにかく良かった。 昼間は奉行所の同心で、上司にも、家の姑と妻にも頭が上がらない。「昼行灯」と呼ばれて役所でも軽んじられている。ところが夜になると、まったく別の顔を持っている。 能ある鷹は爪を隠す──と言うと、ちょっと違うでしょうか。でも、そういう気持ちよさがありました。 毎回必ず人が死にますし、内容はちょっと薄暗い。決して明るい話ではありません。それでも中村主水の、あの「おとぼけ」の加減がいい塩梅なのです。あれがあるから観ていられる。 そして今になって思うのは、ストーリーそのものが、なんとなく現代の世の中を風刺しているように感じられたことです。江戸の話をしているはずなのに、どこかで今の話をしている。あの絶妙さがあったから、高校生の私も面白いと感じたのだと思います。 法では裁けない悪がある。訴え出ることもできない理不尽がある。それを子どもに教えたのは、学校でも新聞でもなく、金曜の夜10時のテレビでした。 教室で真似したもの 真似している子は、いました。というより、私もやりました。 中条きよしさん演じる三味線屋の勇次、京本政樹さんの組紐屋の竜。これはもう定番です。 そして『激闘編』から加わった、柴俊夫さん演じる「壱」。この人の技は「怪力」でした。ものすごい握力で相手の首を素手で締め上げる。あれを真似するのです。手加減がわからない年頃ですから、いま思えば危ない遊びでした。 『必殺仕事人』(1979年)の、三田村邦彦さん演じる飾り職人の秀は、のちの再放送で観ました。確かにかっこよかった。最初はまだ仕事人として未熟だったのが、回を重ねるうちに技が洗練されていく。あの成長が描かれていたのを覚えています。その役柄は、のちに村上弘明さんの花屋の政へと受け継がれていきました。 観てはいけない時間のテレビ 必殺は父と一緒に観ていたので、堂々としたものでした。 けれど、そうではないものもあります。 中学生になってからですが、『11PM』と『トゥナイト』。これは思い出しますね。観てはいけないと明確に言われたわけではありません。ただ、あれは明らかに子どもが観る番組ではなかった。だからこそ記憶に残っています。 一方で、両親と一緒に観ていた時代劇もたくさんありました。『水戸黄門』『暴れん坊将軍』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』。家族で観るものと、こっそり観るもの。昭和の家庭のテレビには、その両方がありました。 いま、我が家には5人の子どもがいます。「これは早い」という線引きは、特にありません。 というより、そもそも地上波のテレビをほとんど観なくなりました。みんなYouTubeなどで、それぞれ好きなものを観ています。同じ時間に、同じ画面を、家族で囲むということ自体がなくなった。 父の休みが金曜日で、だから私は必殺を観ていた。あんな理由で番組と出会うことは、もうないのだろうと思います。 映像より先に、活字のほうを読んでみるのもいいかもしれません。緒形拳さんが演じたあの鍼医者が、池波正太郎の文章のなかでどう動いていたのか。第1弾がこれです。 新装版・殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安(一)(講談社文庫)池波正太郎/講談社。品川台町の鍼医師・藤枝梅安。表の顔は名医、その実、金次第で「生かしておいてはためにならぬやつ」を闇へ葬る仕掛人。『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶシリーズの第1弾。星4.4(325件) Amazonで見る › もうひとつの9月2日 ──「く(9)じ(2)」 同じ9月2日は、「宝くじの日」でもあります。 制定は1967年(昭和42年)。「く(9)じ(2)」の語呂合わせで、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)が定めました。私が生まれる2年前です。 目的は、お祝いでもキャンペーンでもありません。時効防止でした。 当たっているのに引き換えられないまま、支払期限を過ぎてしまう宝くじが、あまりに多い。だから「もう一度、手元のくじを確認してください」と呼びかける日をつくった。1973年(昭和48年)からは、ハズレ券を対象にした「宝くじの日 お楽しみ抽せん」も始まっています。いわば敗者復活戦です。 捨てる前に、もう一度見てくれ。そういう日なのです。 ...

September 2, 2026

9月1日 ── 防災頭巾をかぶって、机の下にもぐった日|昭和の今日は何があった日?

夏休みが終わった翌朝のことを、私はいまだに体が覚えている。 久しぶりのランドセル。少し重くなった気がする体。校庭に集まった同級生の、日焼けした顔。そして、二学期の始業式が終わったあとに必ずやってきた、あの時間。 「訓練、訓練。ただいま大きな地震が発生しました」 9月1日は、二学期の始まりの日であると同時に、防災の日だった。 防災の日は、なぜ9月1日なのか 防災の日が定められたのは、昭和35年(1960年)の閣議了解による。私が生まれる9年前のことだ。 日付の由来は二つある。一つは、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したこと。もう一つは、この時期が暦の上で二百十日にあたり、台風の襲来しやすい厄日とされてきたこと。地震と風水害、日本を襲う二つの災いが、この一日に重ねられている。 つまり防災の日は、何かが「始まった」記念日ではない。忘れないための日として作られた日だ。 子どもの頃の私は、そんな由来など何も知らなかった。ただ、9月1日には訓練があるものだと思っていた。理由を考えたことすらなかった。 防災頭巾と、「お・か・し」 私の記憶にある避難訓練は、いつも同じ手順だった。 防災頭巾をかぶって机の下にもぐる。その後は校庭に整列して、集団下校という流れだった。 合言葉は「お・か・し」。おさない、かけない、しゃべらない。三つだけ。今の学校では「おかしも」「おかしもち」と、後ろに「もどらない」「ちかづかない」が足されているらしいが、私たちの頃は三つで足りていた。 椅子の背にくくりつけてあった防災頭巾は、ふだんは座布団を兼ねていた。あれをかぶって机の下にもぐると、視界が急に狭くなる。木の床の匂いと、あちこちで押し殺した笑い声。訓練というより、少しだけ非日常の遊びに近かった。 そもそも防災頭巾という道具は、戦時中の防空頭巾の流れをくむものだといわれる。関東大震災と空襲、その両方を経験した街の学校に、布一枚の備えが座布団の顔をして残り続けた。私たちはその由来を知らないまま、毎日それに座っていたことになる。 校庭に整列したあとは、そのまま集団下校だった。地区ごとに並び、上級生が先頭に立って歩く。訓練の日だけは、いつもの帰り道が少しだけ儀式めいて見えた。もっとも、角を曲がって班が解散してしまえば、あとはいつもと同じ寄り道である。 いま売られているものも、形はほとんど変わっていない。アルミ加工で、耳穴が開いていて、たたむと座布団になる。あの銀色を店で見かけると、木の床の匂いまで戻ってきます。 大明企画 セーフティクッションES アルミタイプ(日本防炎協会認定品)小学校低学年から大人まで。耐熱耐火のアルミ加工、防災無線が聞き取れる耳穴付き、暗闇で光る反射テープ付き。たためば座布団に。星4.4(675件) Amazonで見る › 昭和53年、世の中が「地震」を意識しはじめた ただ、私の子ども時代の避難訓練は、単なる年中行事ではなかったのかもしれない。 昭和51年(1976年)の秋、いわゆる東海地震説が唱えられた。駿河湾を震源とする巨大地震が、いつ起きてもおかしくない――そういう指摘だった。政府は観測体制の強化に動きはじめる。 そして昭和53年(1978年)。1月14日に伊豆大島近海地震が起き、6月12日には宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、仙台を中心に死者28人。このうち18人が、ブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている。東京でも震度4を記録した。その三日後の6月15日、大規模地震対策特別措置法――いわゆる大震法が制定される。地震の直前予知を前提にした法律は、国内でこれ一つしかない。 昭和53年、私は小学3年生だった。 学校でも家でも、地震の話はたぶんされていたと思う。ただ正直に言うと、小学生当時の私は、自分ごととしては受け止めていなかった。どこか遠い話だった。 けれど、ブロック塀については注意された。これははっきり覚えている。 なにしろ本当にあちこちにブロック塀が立ち並んでいて、私を含む子どもたちは日常的にそのブロック塀の上に上がって、そこを歩いていたのだから。塀の上は近道であり、平均台であり、ちょっとした冒険だった。大人が真顔で「あれは危ない」と言いはじめたとき、私は危険よりも、遊び場を一つ取り上げられたような気分のほうを強く覚えている。 仙台で18人が亡くなった、その事実と私の通学路が地続きだったことに気づくのは、ずいぶん後になってからだ。 葛飾の子どもにとっての災害は、水だった もっとも、葛飾で育った私にとって、災害という言葉が最初に結びついたのは地震ではなかったかもしれない。 葛飾区は東京の東部低地にあり、区の大部分がいわゆるゼロメートル地帯だ。荒川と江戸川に挟まれ、中川が区の真ん中を流れている。台風が近づくたび、大人たちの顔つきが変わる土地だった。 台風に備えて、まず雨戸を閉める。現在のように軽く閉められるものじゃなかった。戸袋にしまってあって、そこから木製の戸に青色のとたん板が張られた雨戸2枚を引っ張りだすのだが、小学校低学年の頃の私では力が足りなかったんじゃないかと思う。父か母が閉める音を、家の中で聞いていた気がする。 我が家は私が保育園の年中か年長の時に、高砂駅の近くから、同じ高砂の中川の土手近くへと引っ越していた。だから台風などの大雨のあとには、友達と中川の土手へ行き、増水した川を見に行った。 やっちゃダメなやつである。 いつもは穏やかな中川が、茶色く濁って速く流れている。あの光景を見に行くことが、子どもにとってどれほど危ない行為かなど、当時の私は考えもしなかった。ブロック塀の上を歩いていたのと、まったく同じ神経である。 家の押し入れには、銀色のナップサックがあった。非常持ち出し袋だ。中を覗いたことはなかったし、実際に使われることもなかった。良かったと思う。 二百十日という言葉が防災の日の由来になっているのも、思えばこの土地の感覚に近い。地面が揺れることより、水が上がってくることのほうが、ここでは身近だった。 あの銀色のナップサックにあたるものを、いまは自分で用意する番になりました。中身を一から揃えるのは骨が折れるので、まずひとつ、封を切らずに置いておく。それだけでもずいぶん違うと思います。 防災グッズ 32点セット(防災士監修・1人用リュック)保存食、保存水、簡易トイレ、高輝度の懐中電灯、マスク、スリッパなど32点。全品が長期保管に対応。星4.8 Amazonで見る › 平成23年3月11日、私はバスの運転席にいた 遠い話だったものが、自分ごとになる日がいつか来る。子どもの私はそれを知らなかった。 ...

September 1, 2026

8月27日 ── わたくし、生まれも育ちも葛飾高砂です|昭和の今日は何があった日?

1969年、昭和44年8月27日。 映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。山田洋次監督・脚本、渥美清主演。舞台は、東京都葛飾区柴又です。 このときの私は、生後4か月です。 そして柴又は、私が生まれ育った高砂の、隣町でした。京成金町線で一駅。高砂──柴又──金町、たった三駅しかない短い路線の、真ん中の駅です。 この日付を見つけたとき、正直なところ、少し身構えました。生まれた年、生まれた月のすぐあと、そして地元。ここまで重なると、かえって何を書けばいいのか分からなくなる。 でも、調べていくうちに気づいたことがあります。この映画が公開された時点では、まだ誰も「柴又」を知らなかった、ということです。 テレビの中で、寅さんは一度死んでいる ご存じの方も多いと思いますが、『男はつらいよ』はもともとテレビドラマでした。 1968年10月から翌1969年3月まで、フジテレビで全26回。渥美清が少年時代に見てきたテキヤの記憶を語ったところから、山田洋次が膨らませた企画だったといいます。 問題は、その最終回でした。寅次郎はハブ酒でひと儲けしようと奄美大島に渡り、ハブに咬まれて死んでしまう。 ところが放送後、テレビ局に抗議が殺到しました。手紙、電話。山田監督自身が後年書いているところによれば、その中には「てめえの局の競馬は二度と見ねえ」といった調子のものも少なくなかったそうです。 ここが、私はいちばん面白いところだと思っています。 抗議した人たちは、番組の出来に文句を言ったわけではありません。知り合いが死んだことに怒ったんです。視聴者のなかでは、すでに寅さんが生きた人間として息づいていた。それを作者が自分の料簡で勝手に殺してしまったのは間違いではなかったか──山田監督は、そう反省させられたと書き残しています。 そして、映画のスクリーンの中でもう一度、寅を生き返らせようと決めた。 松竹の上層部は難色を示したそうです。一度テレビでやったものを、いまさら映画にして客が入るのか、と。もっともな話です。山田監督は当時の社長・城戸四郎に喧嘩腰で掛け合って、企画を通したと伝えられています。 つまりこの映画は、視聴者の怒りと、監督の後悔と、反対を押し切った押しの強さから始まっています。国民的シリーズという言葉から想像する、穏やかな始まりではありません。 そのテレビ版は、長く「幻」でした。いまはマスターテープの残っていた第1話と最終回が、そのままDVDになっています。つまり、寅さんが死ぬ回を、いまは家で観ることができる。 テレビドラマ版「男はつらいよ」 [DVD]昭和43年からフジテレビで全26回。奇跡的に残っていた初回と最終回を完全収録。柴又が舞台に決まるまでの経緯もスタッフ証言で収められています。星4.0 Amazonで見る › 二本立ての、54万3000人 昭和44年8月27日、公開。上映時間91分。同時上映は伴淳三郎主演の『喜劇 深夜族』でした。当時の日本映画は二本立てが当たり前で、『男はつらいよ』もその一本として封切られています。 観客動員は54万3000人。 正直に言うと、この数字を見たとき、私は「思ったより少ないな」と感じました。後にシリーズが1作あたり100万人、200万人を動員するドル箱になっていくことを知っているからです。第1作は、まだ大当たりではなかった。 評価のほうは高く、この年のキネマ旬報ベストテンで第6位、毎日映画コンクールでは山田洋次が監督賞、渥美清が男優賞を受けています。ただ、それは映画好きの世界の話です。 しかもこの第1作は、「これで完結」とも取れる終わり方をしています。1969年8月27日の時点では、まだ誰も、この先50年続くとは思っていません。 四人で歩いた、帝釈天への道 私が生まれた1969年の夏、柴又での撮影はもう終わっていました。 物心がついたころ、柴又はすでに「寅さんの町」になり始めていたはずです。けれど私にとっての柴又は、映画の舞台である前に、まず帝釈天でした。 物心ついた頃から今日まで、初詣は毎年、帝釈天です。一年も欠かしていません。 子どもの頃は、父、母、妹、私の四人そろってお詣りに行っていました。 ──ここは、書きながら少し立ち止まったところです。 父は仕事が極端に忙しい人で、連休らしい連休は正月しかありませんでした。母と妹と三人で出かけることのほうが、我が家では普通だった。その中で、帝釈天の初詣だけは四人そろっている。父が一年でほとんど唯一、家族と並んで歩いていた行事が、この参道だったことになります。 行き方は決まっていませんでした。ひと駅だけでも電車に乗ったこともあれば、歩いて行ったこともあります。いまは家族みんなで歩いて行くのが恒例です。 金町線というのは、柴又から金町までの区間を柴又街道の真ん中を通っていきます。改めて言われてみれば、たしかに路面電車のような走り方です。地元の人間には当たり前すぎて、そういう目で見たことがありませんでした。 参道の店も、ひととおり体に入っています。髙木屋老舗では、いまでも草団子を買います。ゑびす家さんは、信用金庫に勤めていた時代、職場の初詣の帰りに必ず寄って食事をした店です。 そして川千家。ここで、私たち夫婦の結納を行いました。 映画のロケ地として全国に知られている参道が、私にとっては初詣の道であり、職場の恒例行事の場所であり、結婚に向かう日の座敷でもある。そういう順番で、この町は私の中に積み上がっています。 観光地であり、近所であること 柴又が観光地であるという認識は、子どもの頃からありました。それは分かっていた。 ただ、無意識のところでは、やっぱり近所の延長なんです。 この二つは、どちらかが本当でどちらかが嘘、というものではありません。同時に成立しています。観光地だと知っていながら、身体のほうは「そこらへん」として扱っている。地元というのは、たぶんそういうものです。 寅さんの映画の撮影に出くわした記憶は、私にはありません。第1作の撮影は生まれる前ですし、それ以降も、たまたま通りかかることはなかった。 そのかわり、柴又をレポートする撮影には何度も遭遇しています。テレビカメラとレポーターが参道に立って、草団子の店の前で何かしゃべっている。あの光景なら、数えきれないほど見ました。 映画そのものではなく、映画になった町を取材しに来る人たち。私が育った柴又は、もうその段階に入っていたということです。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い──」 あの啖呵を、自分の土地の話として聞いていたか、と言われると、正直、映画のセリフだという認識のほうが強かった。それでも、誇らしい気持ちになったのは確かです。 地元が全国に知られていること自体は、メチャクチャ誇らしかった。子どもの正直な感覚として、そこはごまかしようがありません。 それでも、映画館では一度も観ていない ここまで書いてきて、白状しなければならないことがあります。 私は『男はつらいよ』を、映画館で一度も観たことがありません。 一作もです。隣町が舞台で、あれだけ誇らしかったのに、封切りに足を運んだことがない。 お盆と正月に必ず新作がかかる、という感覚も、子ども時代にはありませんでした。家族の中に特別な寅さんファンがいたわけでもない。 では、どこで観たのか。 ひとつは、テレビです。「〇〇ロードショー」の類で流れているのを、なんとなく観ていました。 そしてもうひとつが、観光バスの中です。 信用金庫に勤めていた時代、お客様をお連れして旅行に行く機会がありました。その道中、バスの中で寅さんのビデオがよく流されていたんです。 柴又の隣で生まれ育った人間が、東京を離れる高速道路の上で、備え付けの小さなモニターに映る柴又を観ている。 いま思うと、なかなか妙な話です。地元だから観に行かなかった映画を、地元から遠ざかる乗り物の中で観ていた。しかも私は、その後バスを運転する側になりました。 近すぎるものを、人は正面から見ません。毎年通っている参道が映画の中に出てきても、「ああ、ここね」で終わってしまう。誇らしさと、わざわざ観に行くこととは、別なんです。 その第1作を、いまさらながら家で観ることはできます。マドンナは光本幸子、91分。1969年8月27日に二本立ての一本として封切られた、あの91分です。 男はつらいよ [DVD](第1作・HDリマスター版)山田洋次監督/松竹。渥美清、倍賞千恵子、森川信ほか。1969年製作、1時間31分。特典に撮影時のオフショットを収録。星4.5(144件) Amazonで見る › 隣町が、観光地になっていく 昭和が終わり、平成に入ると、柴又の変化は目に見えるものになりました。 ...

August 27, 2026

8月25日 ──「うどん一玉六円」の時代に三十五円。魔法のラーメンが、高砂の戸棚に届くまで|昭和の今日は何があった日?

8月25日は、即席ラーメン記念日です。 1958年、昭和33年のこの日、日清食品が「チキンラーメン」を発売しました。世界で最初に、商売として成り立ったインスタントラーメンです。 昭和33年といえば、私が生まれる十一年前。長嶋茂雄が巨人でデビューした年で、東京タワーがまだ完成していない年です。当然、この日の記憶はありません。 けれど、私が物心ついたころ——昭和四十年代の葛飾区高砂の、我が家の台所の戸棚には、もうそれが当たり前のように積んでありました。 生まれる前に始まっていて、生まれたときにはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。インスタントラーメンというのは、私の世代にとってそういう存在です。 うどん一玉六円の時代に、三十五円 チキンラーメンを作ったのは、日清食品の創業者・安藤百福さんです。 発売のとき、四十八歳。四十七歳のときに、理事長を務めていた信用組合の倒産で築いてきた財産をほとんど失っています。無一文からの再出発でした。 きっかけは、戦後の大阪の闇市だったといわれます。屋台のラーメンに、寒空の下で人が行列を作っている。あれをもっと手軽に食べさせられないか——そう考えて、自宅の裏庭に小屋を建て、そこにこもりました。 つまずいたのは、麺の乾かし方でした。ある日、奥さんが台所で天ぷらを揚げているのを見て、ひらめきます。油の熱で水分を飛ばせばいい。こうして「瞬間油熱乾燥法」が生まれました。麺に味をつけ、蒸して、油で揚げる。今のチキンラーメンと、中身はほとんど変わりません。 そして昭和33年8月25日。 ところが、この商品はまったく歓迎されませんでした。 理由は値段です。85グラム入りで35円。当時、うどん玉ひとつが6円、普通の乾麺で25円という時代でした。国鉄の初乗りが10円、銭湯が16円。ラーメン屋で一杯食べるのと変わらない値段の袋麺を、誰が買うのか。しかも安藤さんは、二、三か月の手形が常識だった時代に、現金決済を要求しています。 問屋の主人たちは、そろって顔をしかめたそうです。 その日、大阪の問屋がひとつだけ、納入を引き受けてくれました。日清食品はのちにこの日を「ラーメン記念日」と定め、日本即席食品工業協会も8月25日を「即席ラーメン記念日」としています。つまりこの記念日は、大ヒットした日ではなく、やっと一軒だけが置いてくれた日なのです。 けれど、実際に食べた人たちの評判が、じわじわと広がっていきました。お湯をかけて二分(当時は三分ではありませんでした)で食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、やがて注文が殺到します。あれほど渋っていた問屋が、今度は「現金前払いでもいいから」と言ってくるようになった。工場の前に、仕入れのトラックが列を作ったといいます。安藤さんは後年、工場用地の代金を一か月分の売上でまかなえた、と語っています。 「中華そば」が「ラーメン」になった このチキンラーメンが、日本語をひとつ変えました。 それまで、あの食べ物は「支那そば」あるいは「中華そば」と呼ばれるのが普通でした。「ラーメン」という言い方が全国に広まったのは、商品名にその三文字が入っていたからだといわれています。 私たちが何気なく使っている「ラーメン」という言葉は、昭和33年8月25日に大阪の問屋に納められた、あの袋から来ている。そう考えると、少し不思議な気持ちになります。 ヒットには真似が続きます。似た即席麺が次々に出て、意匠権や特許の争いが激しくなり、食糧庁の指導で昭和39年に業界団体が作られました。昭和35年には森永製菓のインスタントコーヒーが出て、「インスタント」は流行語の筆頭になります。そして昭和46年、カップヌードル。アメリカへ売り込みに行った安藤さんが、丼のない向こうで現地の人が麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べているのを見た。そこから生まれた発想でした。 ——このあたりが、ようやく私の記憶に届く時代です。 うちの戸棚にあったのは、サッポロ一番しょうゆ味だった 正直に書きます。 即席ラーメン記念日の記事を書いておいてなんですが、我が家の戸棚にチキンラーメンが積んであった記憶は、ほとんどありません。 うちは、サッポロ一番しょうゆ味でした。 買っていたのは、高砂のイトーヨーカドーです。この連載でもう何度も出てきている、あの五階にボウリング場のあったヨーカドーです。母がまとめて買ってきて、台所の戸棚に積んでおく。それが我が家のラーメンでした。 サッポロ一番しょうゆ味の発売は、昭和41年1月。私が生まれる三年前です。作ったのは群馬・前橋のサンヨー食品で、もともとは乾麺の会社でした。 面白いのは、その会社が即席麺に乗り出したきっかけです。当時専務だった井田毅さんが、「関西でお湯をかけるだけで食べられる麺が流行っているらしい」と聞きつけた。それがチキンラーメンでした。井田さんは会社の方向を即席麺へ切り替え、全国で通用する醤油ラーメンを作ろうと各地を食べ歩いて、札幌のラーメン横丁で食べた一杯に感銘を受けます。そこから生まれたのが、サッポロ一番でした。 つまり我が家の戸棚にサッポロ一番が積んであったのも、もとをたどれば昭和33年8月25日に行き着くわけです。あの日、大阪の問屋が一軒だけ「置いてみる」と言わなければ、私が食べていた味も、たぶん存在しなかった。 ちなみにこのしょうゆ味は、長いあいだ関西より東を中心に売られていた商品だそうです。あの袋と、別添えの「特製スパイス」の小袋は、東日本の子どもの当たり前でした。 作ってくれていたのは、母でした。 そして父は、即席ラーメンを食べませんでした。 この連載で何度か書いてきたとおり、父は本当に休みのない人で、連休といえば正月の一日と二日だけ、という働き方をしていました。深夜に帰ってきて袋麺をすする父——そういう画は、私の記憶のなかにはありません。 いまも、あの袋はスーパーの棚にあります。別添えの「特製スパイス」も、あのままです。 サンヨー食品 サッポロ一番 しょうゆ味 5食パック 3個セット昭和41年1月発売。群馬・前橋のサンヨー食品が、札幌のラーメン横丁で食べた一杯から作り上げた醤油味。別添えの特製スパイス付き Amazonで見る › 小学六年生の鍋 インスタントラーメンは、多くの昭和の子どもにとって「生まれて初めて自分で作った料理」だったのではないでしょうか。 私の場合は、小学六年生でした。 鍋に水を入れて、火をつけて、沸くのを待って、袋を破って麺を落とす。そして、卵を落としました。最初から卵を入れているあたり、我ながら強気だったと思います。 思い返すと、親から「火を使うな」と言われた記憶がありません。危ないからやめなさい、とも言われなかった。台所に立って、ガスをひねって、鍋の前で三分待つ。それが小学六年生に許されていた家でした。 いまの感覚だと、少し驚かれるかもしれません。けれど当時は、たぶんどこの家もそうでした。学校から帰れば親は仕事か家事で手が離せず、子どもは自分の腹を自分で満たすのが普通だった。そのための道具として、袋麺が戸棚に積んであった。安藤さんが掲げた「手間がかからないこと」という条件は、昭和の子どもに台所を開放したのだと思います。 中学の夜と、高校の帰り道 中学に上がると、自分で作る回数が増えました。 試験勉強で夜更かしをする日です。夜中に腹が減る。母を起こすわけにもいかない。そういうとき、台所へ降りていって、自分で鍋に火をつける。 深夜のガスコンロの青い火と、鍋のなかで麺がほぐれていく音。家族が寝静まったあとの、自分ひとりの時間でした。あの夜を重ねるうちに、ラーメンは「作ってもらうもの」から「自分で確保するもの」に変わっていったのだと思います。 高校に入って野球部に入ると、今度は少し様子が変わります。 遠征試合の帰り。仲間数名で、決まって遠征先の最寄駅の近くのラーメン屋に入りました。試合に勝った日も、負けた日もです。学校での練習の帰りにも、馴染みの中華屋に寄って食べて帰ることがよくありました。 ...

August 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月23日──腹いっぱい食べたい、と思っていた

今日は8月23日。夏休みも、もう終わりが見えてくる時期だ。昭和の子どもにとっては、宿題の山を前にして胃が重くなりはじめる、あの頃である。 そして今日は「湖池屋ポテトチップスの日」でもある。 昭和37年(1962年)のこの日、**「湖池屋ポテトチップス のり塩」**が発売された。日本で初めて本格的に世に出たポテトチップス。その最初の味が「うすしお」ではなく「のり塩」だったという事実を、私はずいぶん長いあいだ知らずにいた。 飲み屋で出てきた「高級珍味」 湖池屋の創業は昭和28年(1953年)。創業者は小池和夫という人だ。 社名の由来がなかなか面白い。小池氏の郷里は長野県の諏訪市。地元の諏訪湖を見ながら「会社も諏訪湖のように大きくしたい」と願い、「小池」の「小」を「湖」に置き換えて「湖池屋」とした。 創業当初に作っていたのは、豆やさくらえびを油で揚げて混ぜた「お好み揚げ」のようなおつまみ菓子である。 転機は、小池氏が仕事仲間と飲みに行った店で訪れる。そこで出されたのがポテトチップスだった。当時の日本では手作りが主流の珍しい食べ物で、飲み屋では高級珍味の扱いだったという。 一口食べた小池氏は「こんなにおいしいものが世の中にあったのか」と感動する。そして、これを多くの人に届けたいと考えた。ここが、日本のポテトチップスの出発点だ。 「せっかく日本で作るのだから」 とはいえ、作るのは簡単ではなかった。 お好み揚げも油で揚げる菓子だから、その釜を流用して開発に乗り出した。ところが、じゃがいもの品種、スライスの厚み、揚げる温度──どれをとってもノウハウがなく、品質がまるで安定しなかったという。 そのうえ、味付けをどうするかという問題があった。 本場アメリカでは塩をふりかけただけの「塩味」が主流。だが小池氏はこう考えた。 「せっかく日本でポテトチップスを作るのだから、日本人になじみのある味にしよう」 そこで目をつけたのが「のり」だった。青のりとあおさをまぶす。じゃがいもと海苔という、いま考えれば当たり前すぎる組み合わせも、当時は誰も試していない発想だった。 そうして昭和37年8月23日、「湖池屋ポテトチップス のり塩」が世に出た。世界で初めての「のり塩ポテトチップス」の誕生である。 日本のポテチは、うすしおではなく、のり塩から始まったのだ。 手で揚げていた五年間 ただし、この時点ではまだ「大量生産」ではなかった。 当時のポテトチップスは、どのメーカーも手作業で揚げていた。安定した量を作れない。だから店に並ぶ数も限られる。 「もっとたくさんの人に食べてもらいたい」──その一心で機械化を模索し、湖池屋が国産のオートフライヤーを導入して量産化に成功したのは、発売から五年後の昭和42年(1967年)のことだった。日本で初めてのポテトチップス量産化とされている。さらに原料を安定させるため、北海道で馬鈴薯の契約栽培にも踏み切った。 こうして、飲み屋の高級珍味だったポテトチップスは、少しずつ、町へ降りてきた。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)。量産化から二年後のことになる。 山車を引いて、もらった袋 正直なところ、私は「人生で初めてポテトチップスを食べた日」を覚えていない。 気がついたら食べていた、という感覚に近い。強いて言えば、保育園の年長の頃──昭和50年(1975年)あたりだったのではないかと思う。六歳になるかならないかの頃だ。 ただ、はっきり言えることが一つある。 母が買い物のときにポテトチップスを買っていた記憶が、まったくないのだ。つまり我が家では、ポテトチップスは日常的に食卓や茶の間に出てくるものではなかった。 では、どこで食べていたのか。 盆踊りや、祭りの山車を引いたときにもらうお菓子。あれがポテトチップスだったことが、よくあった。 葛飾の夏である。綱を握って、大人に混じって山車を引く。声を出しながら町内をぐるりと回って、帰ってくると菓子の袋を渡される。その中にポテトチップスが入っている。 子どもながらに「うまいな」と思った。 いま振り返ると、この記憶の位置づけが面白い。あの頃のポテトチップスは、私にとって「買うもの」ではなく「もらうもの」だった。祭りとか、行事とか、そういう非日常のときに、大人の側から降ってくるもの。 飲み屋の高級珍味からは遠く離れた。けれど、まだ完全な日常品にもなっていない。ちょうどその途中の、微妙な位置にあった。 味が増えていく時代 私が物心ついた昭和50年代は、ちょうどポテトチップスが「珍しいもの」から「あって当たり前のもの」へ変わっていく時期にあたる。 大手のカルビーがポテトチップス市場に参入したのが昭和50年(1975年)。「うすしお味」を出したのがこの年で、翌昭和51年(1976年)に「のりしお」、昭和53年(1978年)に「コンソメパンチ」が続く。 私は昭和44年4月生まれ。小学校に上がったのが昭和51年の春だから、コンソメパンチが世に出た昭和53年は小学3年生ということになる。 つまり私の小学生時代は、まるごと「ポテトチップスの味が増えていく時代」だった。棚に行くたびに知らない味が並んでいる。あの感覚は、いまの子どもにはたぶん想像しにくい。 そして子どもたちのあいだで激しかったのが「のり塩派」と「うすしお派」の対立である。あれは子どもながらに、けっこう真剣な議論だった。 私の中では、はっきりしていた。湖池屋といったら、のり塩である。 買う場所は、近所の駄菓子屋か、高砂のイトーヨーカドー。ただし、日々のお小遣いからポテトチップスを買った記憶はない。大袋がたしか100円くらい。何グラム入っていたかまでは覚えていないが、10円20円の駄菓子を握りしめて選んでいた子どもにとって、100円という数字は明らかに別の階層にあった。 駄菓子屋の棚に置いてあるのに、駄菓子ではない。ポテトチップスとは、そういう位置の菓子だった。 ちなみに、市場の話をすると、昭和59年(1984年)の時点でカルビーが約80%、湖池屋は約9%。先に始めたほうが、後から来たほうに大きく引き離されていた。子どもの私はそんなことを知る由もなく、ただ袋の色で選んでいた。 いまでも歌えるあの歌 湖池屋といえば、あのCMソングである。 ...

August 23, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月22日──氷の三千キロと、スイカのタネ

正直に書きます。私はこの日のことを、まったく知りませんでした。 八月二十二日に何があったのか調べていて、ひとつの名前に行き当たりました。植村直己。名前は知っています。知らない日本人のほうが少ないでしょう。でも、その人が昭和53年の八月二十二日に何を成し遂げたのか——私はこの記事を書くまで、知らなかったのです。 昭和53年8月22日、グリーンランド南端 その日、植村直己はグリーンランドの南端、ヌナタックと呼ばれる岩峰にたどり着きました。 出発は同じ年の五月十二日。グリーンランド最北端の、モーリス・ジェサップ岬。そこから犬ぞりで、この巨大な島を北から南へ、まっすぐ縦に走り抜ける。七月十二日には内陸氷床の最高地点、標高3240メートルを越えました。走った距離は3000キロ近く。三か月あまりの旅でした。 しかもこれは、後半戦にすぎません。 その年の一月三十日、彼は日本を発っています。二月にカナダ最北の島へ入り、三月五日、コロンビア岬から犬ぞり「オーロラ号」で出発。17頭のハスキー犬を率いて、乱氷の海を800キロ。四月二十九日、北極点に到達しました。犬ぞりによる単独での北極点到達は、世界で初めてのことでした。37歳。 北極点に立ち、そこから飛行機でグリーンランド北端へ運ばれ、休むことなくそのまま南へ走り出す。八月二十二日は、一月末に日本を出てから半年以上におよんだ、その長い旅の終着点だったのです。 「一口千円」で送り出された人 調べていて、いちばん胸に残ったのはここでした。 この冒険は、資金が足りませんでした。スポンサー三社だけでは賄いきれず、全国的に「一口千円募金」が呼びかけられたのだそうです。千円。当時の千円です。国家の事業でもなければ、大企業の宣伝でもない。ひとりの男が氷の上を走るために、日本中から千円札が集められた。 北極点をめぐっては、もうひとつの物語もありました。植村が到達する前日、四月二十八日に、日本大学の遠征隊5人が犬ぞりで日本人初の北極点到達を果たしていたのです。同じ時期に、同じ手段で。世間は「どちらが先に着くか」と沸いたといいます。 昭和53年の日本には、それだけの熱があった。北極が、氷が、犬ぞりが、新聞やテレビの真ん中にあったのです。 そして九月一日、旅を終えて帰国した彼は、記者会見でこう言ったそうです。「女房より犬がかわいい」。半年間、十七頭とだけ暮らして帰ってきた人の言葉です。 氷の上で、彼は何をしていたか 「犬ぞりで走った」と一行で書いてしまうと、なんだかスイスイ滑っていったように聞こえます。実際はまるで逆でした。 北極点をめざす前半戦、出発してすぐに待っていたのは乱氷帯です。氷が押し合ってできた大小の塊が、視界の果てまでひしめいている。そりが通れる道などありません。鉄棒で氷を叩き割り、ルートをこじ開けながら進む。二日たっても三日たっても、出発点の岬がすぐ後ろに見えている。そんな日が続いたといいます。 白熊にテントを襲われたこともありました。引き裂かれたテントの中で、ただ息を殺してじっとしていた。動かなかったことが幸いして、熊はドッグフードのほうへ興味を移していったそうです。 一方、後半のグリーンランド縦断では、そりに帆を張りました。風を受けて走れる日は、心にも余裕が生まれる。そして彼は、その余裕でこんなことをしています。 名古屋大学の研究所から依頼されて、雪や水や空気のサンプルを採集していたのです。停滞して動けない日には、のんびりと採集をしている——そんな記述が日誌に残っています。さらに六分儀で自分の位置を確認していたとき、グリーンランド北部のある山の位置が、地図と20キロずれていることに気づきました。のちに人工衛星による調査で、彼の指摘のほうが正しかったことが証明されています。 たった一人で氷の上を走りながら、地図の間違いを見つけて帰ってきた。そういう人だったのです。 その日、私はスイカのタネを飛ばしていた さて、ここからが本題です。 昭和53年8月22日。私は9歳、小学3年生でした。夏休みの終盤。あと十日ほどで二学期がはじまる、あの独特の焦りが漂いはじめる時期です。 その日私はたぶん、朝9時頃から友だちと区民プールへ行って、2時間くらい泳いでいました。帰宅してお昼ご飯を食べたあと、また友だちと再合流して、路地野球です。 途中で、誰かのお母さんがスイカを切ってお盆にのせて持ってきてくれる。なぜか縁台がどこの家にもあって、それを道路に出して腰を掛け、みんなでスイカにかぶりつき、タネをピュッ、ピュッと口から吹き飛ばしては笑い合っていた。そんな時代でした。 昭和53年といえば、私が巨人の打順をそらで言えるようになった年でもあります。柴田、土井、張本、王、柳田、高田、河埜、吉田、堀内。四十八年経った今でも口をついて出てきます。路地でバットを振っていた9歳の頭の中を占めていたのは、要するにそういうものでした。北極も氷床も、入り込む隙間などありません。 ——これが、昭和53年8月22日の私です。 同じ日、地球の北の果てで、ひとりの日本人が三千キロを走りきって旅を終えていた。氷点下の世界を半年かけて渡りきった男が、南端の岩にたどり着いていた。 こちらは葛飾の路地で、スイカのタネを飛ばしていました。 どちらが上でも下でもありません。ただ、同じ一日というものの中に、そんなに違うものが同時に入っているのだということに、四十八年経ってから気がついたわけです。 いつの間にか、知っていた名前 では、植村直己という名前を私はいつ知ったのか。 これがまた、はっきりしないのです。 たぶん中学生以降だったと思います。教科書や本で読んだ記憶はありませんから、おそらくテレビでしょう。子どもの頃の私には活字を読む習慣がありませんでしたから、教科書に載っていたとしても、素通りしていた可能性は大いにあります。 いつの間にか知っていた——というのが、いちばん正直な実感です。 昭和59年(1984年)の二月、彼が北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂に世界で初めて成功し、その下山中に消息を絶ったこと。二月十二日、43歳の誕生日に頂上に立ち、翌十三日を最後に消えたこと。没後に国民栄誉賞が贈られたこと。 これも、当時どうだったかの記憶がないのです。私は14歳、中学2年生。テレビも新聞も家にあったはずなのに、そのニュースを見た瞬間というものが、私の中に残っていません。その後にいつの間にか知ったんだと思います。 つまり私にとっての植村直己は、入口のない知識なのです。いつ入ってきたのかわからないまま、気づいたら中にあった。そういう名前が、誰にでもいくつかあるのではないでしょうか。 わからない、ということ こういう記事を書いていると、最後にうまいことを言いたくなります。 たとえば私は路線バスの運転手ですから、「毎日決まった道を走る自分と、道のないところを走った植村さんと」——などと並べてみたくなる。書けなくはありません。 でも、正直に言います。私にはわからないのです。 植村さんの立場に立って考えることなど、とてもできません。氷点下四十度の中で、たった一人で、犬十七頭だけを頼りに半年間を過ごす。その日々に何を思っていたのか、想像しようとしても手が届かない。そのくらい、常人とはかけ離れていた方なのではないでしょうか。 だから並べません。並べるのは、たぶん失礼です。 私にできるのは、知らなかったことを知った、と書くことだけです。九歳の私は知らなかった。十四歳の私も、たぶんぼんやりとしか知らなかった。五十七歳になって、ようやく八月二十二日という日付にたどり着いた。 それでいいのだと思います。人生のほとんどの日は、誰かの最良の一日と重なっていて、私たちはそれを知らないまま通り過ぎていく。でも、あとから知ることはできる。今日という日に、あとから意味を足すことはできる。これは、そんなに悪くないことのような気がします。 ...

August 22, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月21日──300点が出た夜、私は1歳だった

8月21日は「パーフェクトの日」だそうです。 パーフェクト。完璧。何のことかと思ったら、ボウリングでした。1ゲーム、12回続けてストライクを出して300点。1本も残さない。1投も外さない。あのピンが全部倒れる小気味いい音を、12回続けて鳴らしきるということです。 昭和45年8月21日。東京・府中のスターレーンで、その300点が出ました。投げたのは中山律子さん。女子プロボウラーとして史上初の、公認パーフェクトゲームでした。 そして私は、その日、1歳4か月でした。 府中スターレーンの、あの一投 昭和44年、日本に女子プロボウラーが誕生します。第1期生は13人。プロテストの合格順がそのままライセンス番号になり、1番が須田開代子さん、2番が中山律子さん、3番が石井利枝さん。この顔ぶれが、のちに「花のトリオ」と呼ばれることになります。 そして翌昭和45年8月21日、府中スターレーンで開かれた女子プロ8月月例会。海野房枝さんとの優勝決定戦の場で、中山さんの手から放たれたボールが、12回続けてピンを薙ぎ倒しました。 この日が決定的だったのには、理由があります。テレビカメラが回っていたのです。当時のNETテレビ(現在のテレビ朝日)が『レディズ・チャレンジボウル』という番組を収録していて、その録画放送が夕食の時間帯だった。つまり、日本中の茶の間がいちばん賑わっている時間に、あの300点が流れたわけです。 ちなみに中山さんは、その最後の一投を見ていなかったそうです。怖くて目をつむってしまった。10本のピンが弾けたことは、場内の歓声で分かった。振り向いて客席に両手を突き上げ、その後のことはよく覚えていない——後年、そう語っています。完璧を達成した本人が、その瞬間だけを見ていない。何とも人間くさい話です。 さらに言えば、この日の中山さんは、会場へ向かうタクシーが交通事故に巻き込まれています。幸いけがはなく、予定通り月例会に出場した。その日に300点を出したわけです。 達成の報は、一夜にして列島を駆け巡りました。翌年にはシャンプーのCMに起用され、「さわやか律子さん」というフレーズが流行語になります。「300点への道 さわやか律子さん」というドキュメンタリーのレコードまで作られました。今の感覚だと、ちょっと想像がつきません。 3697軒という数字 数字で見ると、この熱狂の異常さがよく分かります。 昭和35年、日本全国にボウリング場はたった3か所しかありませんでした。それが昭和47年には、3697軒。12年で1000倍以上です。ちなみに近年の数字は、全国で700軒前後。ピーク時の5分の1以下です。 当時の熱狂ぶりを伝える話も、いま聞くと嘘のようです。ボウリング場は順番待ちが2時間当たり前。テレビのゴールデンタイムには各局にボウリング番組が並び、当時無敵だった巨人戦と視聴率を争ったといいます。巨人戦と、です。 その中心にいたのが、中山さんと須田さんでした。動物的なカンの持ち主と評された中山さんは長嶋茂雄、完璧主義者の須田さんは王貞治——当時はそう例えられ、その構図が新聞の挿絵にまでなったそうです。巨人ファンの私からすると、この比喩だけで当時の空気がだいたい想像できてしまいます。ONに例えられるということは、つまり、国民全員が知っている二人だったということですから。 そして、その熱がいちばん高かったころ、私は寝返りを打っていたか、つかまり立ちをしていたか、そのくらいの月齢でした。当然ながら——記憶にございません。 高砂、立石、青戸、金町 ただ、「記憶にない」で終わらないのが、この話の面白いところです。 ブームはオイルショックのころから急速にしぼんでいきました。私が物心つく昭和50年前後には、「一大ブーム」はもう過去のものです。けれど、ブームが去っても建物は残ります。私が知っているボウリング場は、熱狂そのものではなく、その燃えかすのほうでした。 そしてその燃えかすは、私の街にもありました。高砂のイトーヨーカドー。あの5階が、ボウリング場だったのです。買い物に行くたびに、あそこにある。分かってはいるけれど、小さかった私は、5階でプレーした記憶がありません。 高砂だけではありません。立石にも、青戸にも、金町にもありました。それぞれの街に、それぞれの「燃えかす」があった。屋上に立つ、あの巨大なピンの看板。白と赤の、あの奇妙に大きな物体が、空を突いていた光景を、私ははっきり覚えています。 昭和45年の熱狂を、私は知りません。けれど、その熱狂が街に残していった形だけは、毎日のように見上げて育ったわけです。 中学3年、ジュークボックスの夜 初めてボウリングをしたのは、中学3年生のときでした。 中学の友達同士で、大人の付き添いなしで行きました。これが大きい。あのころ、子どもだけで入っていい場所と、そうでない場所の線引きは、今よりずっとはっきりしていました。ボウリング場は、明らかに後者に近い。ちょっと悪いことをしているような、それでいて、大人の世界にほんの少し足を踏み入れたような——あの興奮を、今でも覚えています。 決定的だったのは、ジュークボックスでした。 置いてあるのは見えている。けれど、それが何なのか分からない。まごついている私に、友達の一人が実際に金を入れて、教えてくれました。コインを入れる。曲を選ぶ。すると機械の中でレコードが自動的に選ばれて、スピーカーから曲が流れる。 アメリカ映画に出てくるやつだ、と思いました。 考えてみれば、あのころ私にとって音楽とは、木曜9時の『ザ・ベストテン』であり、カセットに録るものでした。テレビが流してくれるものを、こちらは待つ。それが当たり前だった。ところがジュークボックスは、金を入れれば、自分の聴きたい曲がその場で鳴る。順番待ちも、司会の進行もない。あの箱は、音楽の主導権がこちらに移る装置だったわけです。 あのとき、たしかに私は「大人の世界」の入口を覗いたのだと思います。ボウリングそのものより、あの箱のほうが、はるかに強く記憶に残っています。 年に一度でも投げに行くなら、手首のサポーターがひとつあると違います。私のようにふだん投げない人間ほど、後半に手首が負けてくるので。 ABS スーパーリスト(ボウリング用リストサポーター)アメリカンボウリングサービスの定番。手首の角度が決まるので、終盤にフォームが崩れにくくなります。3サイズ展開 Amazonで見る › テレビの中の、背中の文字 中山律子さんについては、正直、記憶が曖昧です。 シャンプーのCMを見たような気がしているのですが、私が生まれた翌々年の放送ですから、リアルタイムのはずがありません。どこかで見た再放送か、あるいは後年の映像を、記憶が勝手に「見た」ことにしているのだと思います。 ただ、はっきり覚えていることが一つあります。中山さんが出ていたボウリング番組を、テレビで見たのです。昭和の終わりごろ、ゴールデンタイムにボウリング番組がある——それ自体、今では信じられない話ですが、たしかにありました。 そして、なぜかその記憶の中に、背中の文字が残っています。「エバラ食品」。ボウリングシャツの背中に、その文字があった気がするのです。 正直に書きますが、この記憶の裏付けは取れませんでした。所属先だったのか、大会のスポンサーだったのか、あるいは私の記憶違いなのか。分かりません。それでも、あの背中の文字だけが妙に鮮明に残っているのが、記憶というものの不思議なところです。 青戸に残った、一本のピン あの頃、高砂、立石、青戸、金町の空を突いていた巨大ピン。いま、かろうじて残っているのは青戸だけになりました。 高砂のヨーカドーの5階も、もうボウリング場ではありません。当時のブームの面影は、かけらも残っていない——そう書きたくなるところですが、実はそうでもないのです。 私の子どもたちは、小学生のうちにボウリングを経験しています。そして「とても面白い」と言う。毎年12月、学童野球チームでボウリング大会が開かれるのです。監督、コーチ、保護者、選手たち、みんなで行って、ワイワイと投げる。ガーターを出して笑い、ストライクが出れば大騒ぎになる。 3697軒の時代は、たしかに終わりました。けれど、あのレーンの上で人が笑う光景そのものは、形を変えて、まだちゃんと続いています。 いまの子どもは、両手で投げます。私たちの世代には見慣れないフォームですが、体の小さいうちから重い球を扱えるので理にかなっているのだそうです。子どもや孫と行くなら、一冊持っておくと会話が変わります。 ボウリング はじめてみよう、両手投げ塩山一美/ベースボール・マガジン社。いまの主流になった両手投げを、基礎から写真で解説。子どもや初心者が最初に読む一冊として Amazonで見る › おわりに 昭和45年8月21日の夜。テレビの前で、日本中の大人たちが息を呑んでいたはずです。12投目のボールがレーンを転がっていく、あの数秒間を。 ...

August 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月20日──あの夏、雑誌も終わっていた。『平凡』が幕を下ろした年に

毎朝、この連載のために「今日は何の日」の資料をめくるのが習慣になりました。8月20日のページを開いて、いくつも並ぶ記念日や出来事の中で、ある一行に手が止まりました。 ——昭和62年、マガジンハウスが月刊『平凡』と週刊『平凡』の休刊を発表。 『平凡』。その二文字を見た瞬間、頭の中で、あの表紙が何枚もめくれていくような感覚がありました。散髪屋の待合、親戚の家の茶の間、どこかの本棚。昭和の暮らしのあちこちに、当たり前のように置いてあった雑誌です。 100万部の雑誌が消えていく 『平凡』が創刊されたのは昭和20年11月。戦争が終わった、その年の秋のことです。やがて「歌と映画の娯楽雑誌」として、グラビアと連載小説を二本柱に、ラジオや映画、そしてテレビの時代の波に乗って、部数をぐんぐん伸ばしていきました。ライバルは集英社の『明星』。この二誌が、昭和のアイドル雑誌の二枚看板でした。 最盛期には140万部を超えたといいます。芸能人の素顔も、新曲の歌詞も、お茶の間に届く憧れの情報は、まずこの分厚いグラビア誌の中にありました。歌詞を書き写して覚えるのも、憧れのスターがどんな暮らしをしているのかを知るのも、多くの人にとっては、この一冊が入り口でした。今のスマホの画面が引き受けている役割の、ずいぶん多くを、あの紙の束が担っていたわけです。 その『平凡』が、静かに畳まれていきます。週刊『平凡』は昭和62年10月6日号を最後に休刊。月刊『平凡』も、同じ年の12月号で幕を下ろしました。驚くのは、その最終号すら100万部を超えていたと伝えられていることです。売れなくなったから終わったのではない。テレビがさらに情報の主役になり、出版社そのものが、もっと都会的でおしゃれな雑誌の会社へと姿を変えていく——その大きな流れの中で、昭和の芸能雑誌は、役目を終えたのだといわれています。 「まだ100万部も出ているのに、終わる」。子どもの頃にそれを聞かされても、たぶんピンとこなかったと思います。けれど57歳になった今、その一行は、妙に胸に残るのです。 私とアイドル雑誌 正直に打ち明けると、私は少しへそ曲がりな子どもでした。 世の中が松田聖子さん一色に染まっていくのが、なんだか面白くなくて、私はあえて河合奈保子さんを応援していました。みんなと同じ方を向くのが、どうにも照れくさかったのです。中学に上がる頃には、その気持ちは中森明菜さんへと移っていきました。 木曜の夜9時は『ザ・ベストテン』。赤いボタンと白いボタンを同時に押して、テレビの音をそのままカセットに録る。ソニーのウォークマンではなく、我が家の予算に合ったAIWAのカセットプレーヤーで、その録音を何度も聴き返しました。 そんな私にとって、『平凡』や『明星』のようなアイドル雑誌は、実はそれほど近い存在ではありませんでした。自分のお小遣いで買った記憶はありません。手に取ったのは、たいてい散髪屋や病院の待合室、あるいは友達の家。順番を待つあいだ、置いてあるのを何となくめくる。そのくらいの距離感でした。私にとっての芸能情報は、あくまでテレビとラジオが中心で、あの分厚いグラビア誌は、少し離れたところで開かれている、大人びた世界のように見えていたのです。 あの頃の歌は、いまベスト盤で一枚にまとまっています。まずは、へそ曲がりの私が選んだほうから。 河合奈保子 ゴールデン☆ベスト ~A面コレクション~日本コロムビア。デビュー曲からのシングルA面を集めた2時間32分。「スマイル・フォー・ミー」「ラブレター」「エスカレーション」ほか Amazonで見る › そして、中学に上がってから乗り換えたほう。 ベスト・コレクション ~ラブ・ソングス&ポップ・ソングス~ 中森明菜ワーナーミュージック・ジャパン。「少女A」「セカンド・ラブ」「DESIRE」ほか、2時間23分。レビュー677件・星4.5 Amazonで見る › あの夏、私自身も終わっていた ここまで書いてきて、ひとつ、動かせない事実に気づきました。 『平凡』が幕を下ろした昭和62年——1987年。それは、私にとっても特別な年でした。 この年の7月23日、私は神宮第二球場で、高校野球を終えています。真夏の炎天下、スパイク越しに伝わる砂の熱さ、ヘッドスライディング、止まらない涙。あの敗戦を最後に、私の少年時代は幕を閉じました。そこから先の夏は、いわゆる抜け殻状態。進路も決まらず、何を見て、何を考えていたのか、正直、ほとんど覚えていません。 つまり——自分の少年時代が終わったのと同じ年の、同じ夏に、少年時代を彩ってくれた雑誌たちも、静かに畳まれていた。 けれど、正直に書きます。当時の私は、そのことにまったく気づいていませんでした。『平凡』や『明星』が消えていくことなど、意識の外でした。それどころではなかった、というのが本当のところです。高校野球が抜けたあとにぽっかり空いた場所を、何かが埋めてくれることは、あの夏、ついにありませんでした。ラジオから流れる歌も、テレビの中のアイドルも、あの穴には届かなかった。ただ、時間だけが過ぎていったのを覚えています。 もうひとつの8月20日 ── 銀座の信号機 さて、少し話を変えます。8月20日は「交通信号設置記念日」でもあります。 昭和6年(1931年)のこの日、東京・銀座の尾張町交差点——今の銀座4丁目交差点です——や京橋など、34か所に、日本で初めての3色灯の自動信号機が設置されました。面白いのは、当時の信号機は、色が変わるたびにベルが鳴ったそうなのです。「やかましい」という苦情も出たと伝わっています。もっとも、設置された当初は、信号という仕組みそのものがまだ世の中に浸透しておらず、色を無視して進んでしまう人や車も多く、かえって事故が起きたともいわれています。 今では、信号は音もなく、当たり前に色を変えます。青、黄、赤、そしてまた青。誰に褒められるでもなく、毎日律儀に、同じ仕事を繰り返している。 子どもの頃を思い返すと、街の風景の中には、いつも信号と電車があったような気がします。 高砂のあたりには踏切があり、線路をまたぐ歩道橋もありました。踏切が鳴り始めると足を止め、遮断機の向こうを電車が通り過ぎていくのを眺める。今のように何か特別な目的があったわけではありません。ただ、赤や青に変わる信号や、規則正しく点滅する踏切の灯り、目の前を走り抜けていく電車そのものが、子どもの私には面白かったのでしょう。 学校へ行くようになると、信号はもっと身近なものになりました。 「青になったら渡るんだよ」 そんなことを親や先生から何度も言われた記憶があります。今考えれば当たり前のことですが、子どもにとって信号は、街の中で守らなければならない最初の約束事のようなものだったのかもしれません。 そして、もう一つ覚えているのが夕方の街の音です。 夢中になって遊んでいても、夕方5時になるとチャイムが聞こえてくる。その音を聞くと、「そろそろ帰らなきゃ」と思う。誰かに腕時計を見せられなくても、街そのものが時間を教えてくれていました。踏切の音、電車の走る音、信号の電子音、夕方のチャイム。そうしたもの全部が、あの頃の私たちの暮らしの中に溶け込んでいたのだと思います。 それから半世紀近くが過ぎました。 57歳になった今、私は路線バスの運転士として、一日じゅう信号と向き合っています。 赤信号で止まり、青信号で進む。それだけなら、子どもの頃に教わったことと何も変わりません。しかし今は、その信号の向こうに、お客様の安全があります。黄色に変わるタイミングを見ながら無理をせず、交差点の歩行者や自転車にも目を配る。一つの信号を見る意味が、子どもの頃とはまったく違うものになりました。 不思議なものです。子どもの頃、踏切のそばや交差点で何気なく見上げていた赤・黄・青の三色の光。それが今では、一日の仕事を共にする「相棒」のような存在になっています。 あの頃の私は、まさか何十年後、自分が大きなバスのハンドルを握り、毎日何百回となく信号を確認する仕事をしているとは想像もしなかったでしょう。けれど、赤なら止まり、青なら進む。街が変わり、自分も年を重ね、立場もずいぶん変わりました。それでも、子どもの頃から変わらずそこにある三色の光を見ると、ときどき人生というものは、思いがけないところで昔と今がつながっているものだな、と思うのです。 変わり続けるもの、終わるもの 雑誌は、一度きり、終わっていきます。あれだけ売れていても、時代が役目を返せと言えば、静かに幕を下ろす。100万部の『平凡』でさえ、そうでした。 信号は、終わりません。銀座にベルを鳴らして生まれてから90年あまり、色を変え続けながら、ずっとそこに在り続けています。変わり続けることで、変わらずにいる。 高校野球を失ったあの夏、私の手の中からは、いろいろなものがこぼれ落ちていきました。少年時代そのものも、それを彩った雑誌たちも。けれど、あのとき見上げていた三色の光だけは、今も変わらず、私の目の前で青に変わってくれます。 みなさんには、「気づかないうちに終わっていた」ものはありますか。いつもの店、いつもの雑誌、いつもの番組。そこにあるのが当たり前すぎて、消えたことにずっと後から気づく——そんな一つを、よかったらコメントで教えてください。 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【8月19日】20番乗り場と、祭壇のサインボール | 次の記事:【8月21日】300点が出た夜、私は1歳だった ▶ ...

August 20, 2026

帽子に黒い線を三本──8月14日、国民皆泳の日と昭和の学校プール|昭和の今日は何があった日?

8月14日は「国民皆泳の日」だそうです。 正直に言うと、私はこの記念日を知りませんでした。この連載のために日付を調べていて、初めて出会った名前です。「皆泳」——みんなで泳ぐ。ずいぶん堂々とした、そして少し古めかしい響きの言葉だと思いました。 国民全員が泳げるように。そんなことを国民的な目標として掲げていた時代があった。 ところが、その言葉を眺めているうちに気づいたのです。私自身、スイミングスクールになど一度も通わずに、小学1年生の夏には25メートルを泳いでいた。あの頃の私は、まさしく「皆泳」の中にいたのだと。 「国民皆泳の日」という記念日 この記念日を制定したのは日本水泳連盟です。1953年(昭和28年)、8月14日を「国民皆泳の日」と定めました。 「皆泳」という言葉づかいに、時代がよく出ています。健康増進という面もありますが、より切実だったのは水難事故を減らすという目的でした。四方を海に囲まれた国で、泳げない人が多すぎる。それは命に直結する問題だ——そういう認識です。 この記念日はその後いったん中断し、2014年(平成26年)に日本水泳連盟があらためて「水泳の日」として引き継ぎました。今は「泳いでつながる笑顔の輪」というスローガンが掲げられています。 昭和28年の「皆泳」と、平成26年の「笑顔の輪」。同じ日付に、まったく手触りの違う言葉が乗っている。この60年ほどの間に、日本人と水の関係が根本から変わったということなのだと思います。 泳げないと、死ぬ その変化を引き起こした出来事のひとつが、1955年(昭和30年)に起きています。 瀬戸内海で、宇高連絡船の紫雲丸が沈没しました。死者168人。そのうち100人以上が、修学旅行の途中だった小中学生でした。 修学旅行です。船に乗って、これから何日か楽しいことがあるはずだった子どもたちが、朝の海で亡くなった。この事故が全国に与えた衝撃は、私の想像できる範囲を超えているのだと思います。 そこから出てきた答えが「泳ぎを教えよう」でした。学校にプールをつくり、体育の授業として水泳を教える。子どもを水難から守るには、まず泳げるようにするしかない——その気運が全国に広がっていきます。 背中を押したのが行政でした。1961年(昭和36年)にスポーツ振興法が成立し、国からの補助金が出るようになると、各地の学校に次々とプールが造られます。東京オリンピック以前の学校プール設置率はおよそ12パーセント。それが1975年(昭和50年)には50パーセントを超えました。10年あまりで、日本の学校の風景が変わったわけです。 私が小学校に入学したのは1976年(昭和51年)の春でした。設置率がちょうど半分を越えた、その翌年ということになります。 校庭の端の、あと付けのプール 私の通った小学校にも、もちろんプールがありました。 校舎からは離れた、屋外です。今になって思い返すと、校庭の端に「あと付け」したのではないか、という感じの立地でした。もともとそこにあった建物ではなく、あとから場所を捻出して据えたような。全国で設置率が12パーセントから50パーセントへ駆け上がっていったあの時期のことを知ると、その「あと付け」感にも納得がいきます。校庭を削ってでもプールを造れ、という号令が、確かに全国に響いていたのでしょう。 6月の中旬になると、体育の授業はすべてプールに切り替わりました。実施の可否は、気温と水温を足した数字で決まります。定められた数値以上なら、雨でもプールでした。 そして当時の私たち子どもは、常にプールの授業を望んでいました。だから雨が本降りの中でプールに入った記憶があります。今から思えば、先生はやりたくなかったんじゃないかな(笑)。 手順もよく覚えています。まず教室で海水パンツに着替える。そのまま校庭に集合する。男性の先生が朝礼台の上に上がって、みんなで準備運動の「ラジオ体操」をする。もちろん朝礼台の上の先生も、海水パンツ一丁です。 そして校庭からプールサイドに向かう途中に、全員が一列に並んで順番にシャワーを通る。あの、冷たさに声が出る一瞬。 書きながら、笑ってしまいました。夏の校庭に、海水パンツ姿の小学生がずらりと並んで、朝礼台の上の先生に合わせて腕を回している。あの光景は、昭和の学校でしか成立しないものだったのかもしれません。 帽子に黒い線を三本 泳力には、明確な等級がありました。 技術が上がっていくにつれて進級していく仕組みで、級に応じてスイミングキャップに赤い線や黒い線を縫い付けていくのです。最上級は1級で、黒い線が三本。 私はあの黒三本が欲しくて、一生懸命に練習しました。目標が帽子の上に見える形で示されているというのは、子どもにとって強烈な動機でした。誰が何本かは、プールに並べば一目でわかってしまう。 つまり「泳げる子」と「泳げない子」を分ける仕組みが、そこには明確にあったということです。 今の感覚からすれば、残酷な仕組みだと言われるかもしれません。でも当時の私にとっては、あれはただ純粋に「登っていける階段」でした。線が増えるたびに、自分が確かに前へ進んでいるとわかる。 私自身は、1年生の夏休みには25メートルを泳げるようになっていました。 夏休みも、毎日プールだった なぜそんなに早く泳げるようになったのか。理由は単純で、とにかく毎日プールに入っていたからです。 夏休みに入っても、午前中にプール開放がありました。ふた学年ごとに時間が割り振られていて、参加の温度感としては「全員参加の授業」に近いものでした(笑)。判子カードもありました。当番の先生というより、該当クラスの先生が全員来ていたように記憶しています。先生は大変だったでしょうね。 友達と連れ立って歩いて行きました。そして学校のプールが開いていない日には、自分たちで区民プールに行っていたのです。 当時、葛飾のあちらこちらに区民プールがありました。小学生は1時間10円です。10円で泳げるのですから、行かない理由がありません。 学校のプール開放と区民プール。この二つを合わせれば、私はほとんど毎日のようにプールに入っていたことになります。スイミングスクールに通う必要などまったくなく、いつのまにか泳げるようになっていた。そのことに、今になって深く納得します。 「国民皆泳」という大きな言葉は、標語として達成されたのではありませんでした。校庭の端にあと付けされたプールと、1時間10円の区民プールと、夏休みの午前中の判子カード。その積み重ねが、地味に、確実に、子どもたちを泳げるようにしていったのです。 「足を引っ張られるから」 ところで、8月14日はお盆の真ん中です。 「お盆に泳ぐと足を引っ張られる」という言い伝えは全国的に知られていますし、この記事を書き始めたとき、私はその話から入るつもりでいました。ところが自分の記憶を掘り返してみると、お盆だから泳ぐな、と言われた覚えがないのです。 代わりに思い出したのは、母の言葉でした。 中川へオタマジャクシを取りに行くようなとき、母はこう言いました。 「足を引っ張られるから、水に入るんじゃないよ」 お盆に限らず、でした。つまりあれはお盆の禁忌ではなく、川そのものへの禁止だったのです。 もっとも、言われなくても川で泳ごうとは思いませんでした。当時の川は、汚かったですから(笑)。私にとって泳ぐ場所とは、あくまでプールでした。学校のプールと、区民プール。それだけです。 面白いものだと思います。プールでは級を上げるために毎日必死に泳ぎ、その一方で、家のすぐ近くを流れる川には決して入らなかった。管理された水では泳ぎを学び、自然の水は敬遠する。私の泳ぎは、最初から「プールの泳ぎ」でした。 そして、それは正しかったのかもしれません。水難による中学生以下の死者・行方不明者は、昭和54年(1979年)に年間1,044人を数えています。翌昭和55年に初めて1,000人を割り、そこから長い時間をかけて減り続けました。令和5年には27人です。 1,044人。私が小学4年生だった年の数字です。「泳げるようにしよう」という国の号令が大げさでもなんでもなかったことが、この数字を見るとよくわかります。 ...

August 14, 2026

道の日──ブロックの破片で書いたホームベースと、いま毎日走っている道のこと|昭和の今日は何があった日?(8月10日)

八月の道は、いちばん道らしい 八月の道は、暑い。 当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。 そして8月10日は「道の日」です。 私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。 昭和61年、道に「日」ができた 「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。 なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。 制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。 見過ごされがちである。 この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。 ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。 制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。 昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。 私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった 私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。 幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。 ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。 ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。 バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。 ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。 そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。 いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。 叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。 つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。 いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。 KAISER キッズ ベースボールセット KW-543(バット・グローブ・ボール)対象6歳以上。カラーバットと8インチグローブ、やわらかいPUボールの3点セット。公園や河川敷で、孫と一組。当たっても痛くないので気兼ねなく振れます Amazonで見る › 同じ道を、いまも歩いている 私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。 これが、ときどき妙なことを起こします。 何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。 不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。 道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。 いま、私は道で働いている それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。 つまり、道が職場になりました。 仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。 そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。 普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。 現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。 「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。 でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。 ブロックの破片で書いたホームベースの上を 昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。 いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。 それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。 あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。 みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。 路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。 ヤマケイ文庫 こども遊び大全遠藤ケイ/山と溪谷社。メンコ、ベーゴマ、馬乗り、ちゃんばらごっこ、ゴム跳び……町内の路地や裏の空き地で繰り広げられた遊びを、道具の作り方まで含めて記録した一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ...

August 10, 2026