6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

June 8, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報

六月六日になりました。 この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。 この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。 なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。 それが――「光化学スモッグ注意報」。 今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。 テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句 小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。 「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」 子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。 「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」 スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。 晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。 「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私 ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。 私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。 ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。 それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。 抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。 むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。 あの白い空の、ほんとうの正体 では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。 ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。 おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。 日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年(一九七〇年)七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。 そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年(一九七二年)の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。 注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年(一九七三年)にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。 当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。 高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。 令和の子どもたちには、別の言葉が ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。 車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。 その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。 もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。 あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。 みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。 また明日、別の「今日」でお会いしましょう。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に | 次の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと ▶

June 6, 2026

パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日

5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。 「パクパク」が迷路を走り出した日 昭和55年(1980年)5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。 黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。 Photo by inunami / CC BY 2.0 当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。 開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。 私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。 敵には、それぞれ「性格」があった ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。 実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。 赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。 これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。 今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。 パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。 1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。 東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日 もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。 昭和48年(1973年)5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。 「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。 葛飾区・水元のあの温水プールだ。 社会科見学と、ゴミを燃やす熱 小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。 見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。 「自分のゴミは自分で処理せよ」 ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。 杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。 自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。 東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報(カラー空中写真)」 あの夏のプールと歴史の線 その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。 私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。 「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設(温水プール)の設置」 社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。 昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。 昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。 子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。 あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ ▶

May 21, 2026

昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝

昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶

May 20, 2026