【昭和の今日は何があった日?】8月22日──氷の三千キロと、スイカのタネ

正直に書きます。私はこの日のことを、まったく知りませんでした。 八月二十二日に何があったのか調べていて、ひとつの名前に行き当たりました。植村直己。名前は知っています。知らない日本人のほうが少ないでしょう。でも、その人が昭和53年の八月二十二日に何を成し遂げたのか——私はこの記事を書くまで、知らなかったのです。 昭和53年8月22日、グリーンランド南端 その日、植村直己はグリーンランドの南端、ヌナタックと呼ばれる岩峰にたどり着きました。 出発は同じ年の五月十二日。グリーンランド最北端の、モーリス・ジェサップ岬。そこから犬ぞりで、この巨大な島を北から南へ、まっすぐ縦に走り抜ける。七月十二日には内陸氷床の最高地点、標高3240メートルを越えました。走った距離は3000キロ近く。三か月あまりの旅でした。 しかもこれは、後半戦にすぎません。 その年の一月三十日、彼は日本を発っています。二月にカナダ最北の島へ入り、三月五日、コロンビア岬から犬ぞり「オーロラ号」で出発。17頭のハスキー犬を率いて、乱氷の海を800キロ。四月二十九日、北極点に到達しました。犬ぞりによる単独での北極点到達は、世界で初めてのことでした。37歳。 北極点に立ち、そこから飛行機でグリーンランド北端へ運ばれ、休むことなくそのまま南へ走り出す。八月二十二日は、一月末に日本を出てから半年以上におよんだ、その長い旅の終着点だったのです。 「一口千円」で送り出された人 調べていて、いちばん胸に残ったのはここでした。 この冒険は、資金が足りませんでした。スポンサー三社だけでは賄いきれず、全国的に「一口千円募金」が呼びかけられたのだそうです。千円。当時の千円です。国家の事業でもなければ、大企業の宣伝でもない。ひとりの男が氷の上を走るために、日本中から千円札が集められた。 北極点をめぐっては、もうひとつの物語もありました。植村が到達する前日、四月二十八日に、日本大学の遠征隊5人が犬ぞりで日本人初の北極点到達を果たしていたのです。同じ時期に、同じ手段で。世間は「どちらが先に着くか」と沸いたといいます。 昭和53年の日本には、それだけの熱があった。北極が、氷が、犬ぞりが、新聞やテレビの真ん中にあったのです。 そして九月一日、旅を終えて帰国した彼は、記者会見でこう言ったそうです。「女房より犬がかわいい」。半年間、十七頭とだけ暮らして帰ってきた人の言葉です。 氷の上で、彼は何をしていたか 「犬ぞりで走った」と一行で書いてしまうと、なんだかスイスイ滑っていったように聞こえます。実際はまるで逆でした。 北極点をめざす前半戦、出発してすぐに待っていたのは乱氷帯です。氷が押し合ってできた大小の塊が、視界の果てまでひしめいている。そりが通れる道などありません。鉄棒で氷を叩き割り、ルートをこじ開けながら進む。二日たっても三日たっても、出発点の岬がすぐ後ろに見えている。そんな日が続いたといいます。 白熊にテントを襲われたこともありました。引き裂かれたテントの中で、ただ息を殺してじっとしていた。動かなかったことが幸いして、熊はドッグフードのほうへ興味を移していったそうです。 一方、後半のグリーンランド縦断では、そりに帆を張りました。風を受けて走れる日は、心にも余裕が生まれる。そして彼は、その余裕でこんなことをしています。 名古屋大学の研究所から依頼されて、雪や水や空気のサンプルを採集していたのです。停滞して動けない日には、のんびりと採集をしている——そんな記述が日誌に残っています。さらに六分儀で自分の位置を確認していたとき、グリーンランド北部のある山の位置が、地図と20キロずれていることに気づきました。のちに人工衛星による調査で、彼の指摘のほうが正しかったことが証明されています。 たった一人で氷の上を走りながら、地図の間違いを見つけて帰ってきた。そういう人だったのです。 その日、私はスイカのタネを飛ばしていた さて、ここからが本題です。 昭和53年8月22日。私は9歳、小学3年生でした。夏休みの終盤。あと十日ほどで二学期がはじまる、あの独特の焦りが漂いはじめる時期です。 その日私はたぶん、朝9時頃から友だちと区民プールへ行って、2時間くらい泳いでいました。帰宅してお昼ご飯を食べたあと、また友だちと再合流して、路地野球です。 途中で、誰かのお母さんがスイカを切ってお盆にのせて持ってきてくれる。なぜか縁台がどこの家にもあって、それを道路に出して腰を掛け、みんなでスイカにかぶりつき、タネをピュッ、ピュッと口から吹き飛ばしては笑い合っていた。そんな時代でした。 昭和53年といえば、私が巨人の打順をそらで言えるようになった年でもあります。柴田、土井、張本、王、柳田、高田、河埜、吉田、堀内。四十八年経った今でも口をついて出てきます。路地でバットを振っていた9歳の頭の中を占めていたのは、要するにそういうものでした。北極も氷床も、入り込む隙間などありません。 ——これが、昭和53年8月22日の私です。 同じ日、地球の北の果てで、ひとりの日本人が三千キロを走りきって旅を終えていた。氷点下の世界を半年かけて渡りきった男が、南端の岩にたどり着いていた。 こちらは葛飾の路地で、スイカのタネを飛ばしていました。 どちらが上でも下でもありません。ただ、同じ一日というものの中に、そんなに違うものが同時に入っているのだということに、四十八年経ってから気がついたわけです。 いつの間にか、知っていた名前 では、植村直己という名前を私はいつ知ったのか。 これがまた、はっきりしないのです。 たぶん中学生以降だったと思います。教科書や本で読んだ記憶はありませんから、おそらくテレビでしょう。子どもの頃の私には活字を読む習慣がありませんでしたから、教科書に載っていたとしても、素通りしていた可能性は大いにあります。 いつの間にか知っていた——というのが、いちばん正直な実感です。 昭和59年(1984年)の二月、彼が北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂に世界で初めて成功し、その下山中に消息を絶ったこと。二月十二日、43歳の誕生日に頂上に立ち、翌十三日を最後に消えたこと。没後に国民栄誉賞が贈られたこと。 これも、当時どうだったかの記憶がないのです。私は14歳、中学2年生。テレビも新聞も家にあったはずなのに、そのニュースを見た瞬間というものが、私の中に残っていません。その後にいつの間にか知ったんだと思います。 つまり私にとっての植村直己は、入口のない知識なのです。いつ入ってきたのかわからないまま、気づいたら中にあった。そういう名前が、誰にでもいくつかあるのではないでしょうか。 わからない、ということ こういう記事を書いていると、最後にうまいことを言いたくなります。 たとえば私は路線バスの運転手ですから、「毎日決まった道を走る自分と、道のないところを走った植村さんと」——などと並べてみたくなる。書けなくはありません。 でも、正直に言います。私にはわからないのです。 植村さんの立場に立って考えることなど、とてもできません。氷点下四十度の中で、たった一人で、犬十七頭だけを頼りに半年間を過ごす。その日々に何を思っていたのか、想像しようとしても手が届かない。そのくらい、常人とはかけ離れていた方なのではないでしょうか。 だから並べません。並べるのは、たぶん失礼です。 私にできるのは、知らなかったことを知った、と書くことだけです。九歳の私は知らなかった。十四歳の私も、たぶんぼんやりとしか知らなかった。五十七歳になって、ようやく八月二十二日という日付にたどり着いた。 それでいいのだと思います。人生のほとんどの日は、誰かの最良の一日と重なっていて、私たちはそれを知らないまま通り過ぎていく。でも、あとから知ることはできる。今日という日に、あとから意味を足すことはできる。これは、そんなに悪くないことのような気がします。 ...

August 22, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月21日──300点が出た夜、私は1歳だった

8月21日は「パーフェクトの日」だそうです。 パーフェクト。完璧。何のことかと思ったら、ボウリングでした。1ゲーム、12回続けてストライクを出して300点。1本も残さない。1投も外さない。あのピンが全部倒れる小気味いい音を、12回続けて鳴らしきるということです。 昭和45年8月21日。東京・府中のスターレーンで、その300点が出ました。投げたのは中山律子さん。女子プロボウラーとして史上初の、公認パーフェクトゲームでした。 そして私は、その日、1歳4か月でした。 府中スターレーンの、あの一投 昭和44年、日本に女子プロボウラーが誕生します。第1期生は13人。プロテストの合格順がそのままライセンス番号になり、1番が須田開代子さん、2番が中山律子さん、3番が石井利枝さん。この顔ぶれが、のちに「花のトリオ」と呼ばれることになります。 そして翌昭和45年8月21日、府中スターレーンで開かれた女子プロ8月月例会。海野房枝さんとの優勝決定戦の場で、中山さんの手から放たれたボールが、12回続けてピンを薙ぎ倒しました。 この日が決定的だったのには、理由があります。テレビカメラが回っていたのです。当時のNETテレビ(現在のテレビ朝日)が『レディズ・チャレンジボウル』という番組を収録していて、その録画放送が夕食の時間帯だった。つまり、日本中の茶の間がいちばん賑わっている時間に、あの300点が流れたわけです。 ちなみに中山さんは、その最後の一投を見ていなかったそうです。怖くて目をつむってしまった。10本のピンが弾けたことは、場内の歓声で分かった。振り向いて客席に両手を突き上げ、その後のことはよく覚えていない——後年、そう語っています。完璧を達成した本人が、その瞬間だけを見ていない。何とも人間くさい話です。 さらに言えば、この日の中山さんは、会場へ向かうタクシーが交通事故に巻き込まれています。幸いけがはなく、予定通り月例会に出場した。その日に300点を出したわけです。 達成の報は、一夜にして列島を駆け巡りました。翌年にはシャンプーのCMに起用され、「さわやか律子さん」というフレーズが流行語になります。「300点への道 さわやか律子さん」というドキュメンタリーのレコードまで作られました。今の感覚だと、ちょっと想像がつきません。 3697軒という数字 数字で見ると、この熱狂の異常さがよく分かります。 昭和35年、日本全国にボウリング場はたった3か所しかありませんでした。それが昭和47年には、3697軒。12年で1000倍以上です。ちなみに近年の数字は、全国で700軒前後。ピーク時の5分の1以下です。 当時の熱狂ぶりを伝える話も、いま聞くと嘘のようです。ボウリング場は順番待ちが2時間当たり前。テレビのゴールデンタイムには各局にボウリング番組が並び、当時無敵だった巨人戦と視聴率を争ったといいます。巨人戦と、です。 その中心にいたのが、中山さんと須田さんでした。動物的なカンの持ち主と評された中山さんは長嶋茂雄、完璧主義者の須田さんは王貞治——当時はそう例えられ、その構図が新聞の挿絵にまでなったそうです。巨人ファンの私からすると、この比喩だけで当時の空気がだいたい想像できてしまいます。ONに例えられるということは、つまり、国民全員が知っている二人だったということですから。 そして、その熱がいちばん高かったころ、私は寝返りを打っていたか、つかまり立ちをしていたか、そのくらいの月齢でした。当然ながら——記憶にございません。 高砂、立石、青戸、金町 ただ、「記憶にない」で終わらないのが、この話の面白いところです。 ブームはオイルショックのころから急速にしぼんでいきました。私が物心つく昭和50年前後には、「一大ブーム」はもう過去のものです。けれど、ブームが去っても建物は残ります。私が知っているボウリング場は、熱狂そのものではなく、その燃えかすのほうでした。 そしてその燃えかすは、私の街にもありました。高砂のイトーヨーカドー。あの5階が、ボウリング場だったのです。買い物に行くたびに、あそこにある。分かってはいるけれど、小さかった私は、5階でプレーした記憶がありません。 高砂だけではありません。立石にも、青戸にも、金町にもありました。それぞれの街に、それぞれの「燃えかす」があった。屋上に立つ、あの巨大なピンの看板。白と赤の、あの奇妙に大きな物体が、空を突いていた光景を、私ははっきり覚えています。 昭和45年の熱狂を、私は知りません。けれど、その熱狂が街に残していった形だけは、毎日のように見上げて育ったわけです。 中学3年、ジュークボックスの夜 初めてボウリングをしたのは、中学3年生のときでした。 中学の友達同士で、大人の付き添いなしで行きました。これが大きい。あのころ、子どもだけで入っていい場所と、そうでない場所の線引きは、今よりずっとはっきりしていました。ボウリング場は、明らかに後者に近い。ちょっと悪いことをしているような、それでいて、大人の世界にほんの少し足を踏み入れたような——あの興奮を、今でも覚えています。 決定的だったのは、ジュークボックスでした。 置いてあるのは見えている。けれど、それが何なのか分からない。まごついている私に、友達の一人が実際に金を入れて、教えてくれました。コインを入れる。曲を選ぶ。すると機械の中でレコードが自動的に選ばれて、スピーカーから曲が流れる。 アメリカ映画に出てくるやつだ、と思いました。 考えてみれば、あのころ私にとって音楽とは、木曜9時の『ザ・ベストテン』であり、カセットに録るものでした。テレビが流してくれるものを、こちらは待つ。それが当たり前だった。ところがジュークボックスは、金を入れれば、自分の聴きたい曲がその場で鳴る。順番待ちも、司会の進行もない。あの箱は、音楽の主導権がこちらに移る装置だったわけです。 あのとき、たしかに私は「大人の世界」の入口を覗いたのだと思います。ボウリングそのものより、あの箱のほうが、はるかに強く記憶に残っています。 年に一度でも投げに行くなら、手首のサポーターがひとつあると違います。私のようにふだん投げない人間ほど、後半に手首が負けてくるので。 ABS スーパーリスト(ボウリング用リストサポーター)アメリカンボウリングサービスの定番。手首の角度が決まるので、終盤にフォームが崩れにくくなります。3サイズ展開 Amazonで見る › テレビの中の、背中の文字 中山律子さんについては、正直、記憶が曖昧です。 シャンプーのCMを見たような気がしているのですが、私が生まれた翌々年の放送ですから、リアルタイムのはずがありません。どこかで見た再放送か、あるいは後年の映像を、記憶が勝手に「見た」ことにしているのだと思います。 ただ、はっきり覚えていることが一つあります。中山さんが出ていたボウリング番組を、テレビで見たのです。昭和の終わりごろ、ゴールデンタイムにボウリング番組がある——それ自体、今では信じられない話ですが、たしかにありました。 そして、なぜかその記憶の中に、背中の文字が残っています。「エバラ食品」。ボウリングシャツの背中に、その文字があった気がするのです。 正直に書きますが、この記憶の裏付けは取れませんでした。所属先だったのか、大会のスポンサーだったのか、あるいは私の記憶違いなのか。分かりません。それでも、あの背中の文字だけが妙に鮮明に残っているのが、記憶というものの不思議なところです。 青戸に残った、一本のピン あの頃、高砂、立石、青戸、金町の空を突いていた巨大ピン。いま、かろうじて残っているのは青戸だけになりました。 高砂のヨーカドーの5階も、もうボウリング場ではありません。当時のブームの面影は、かけらも残っていない——そう書きたくなるところですが、実はそうでもないのです。 私の子どもたちは、小学生のうちにボウリングを経験しています。そして「とても面白い」と言う。毎年12月、学童野球チームでボウリング大会が開かれるのです。監督、コーチ、保護者、選手たち、みんなで行って、ワイワイと投げる。ガーターを出して笑い、ストライクが出れば大騒ぎになる。 3697軒の時代は、たしかに終わりました。けれど、あのレーンの上で人が笑う光景そのものは、形を変えて、まだちゃんと続いています。 いまの子どもは、両手で投げます。私たちの世代には見慣れないフォームですが、体の小さいうちから重い球を扱えるので理にかなっているのだそうです。子どもや孫と行くなら、一冊持っておくと会話が変わります。 ボウリング はじめてみよう、両手投げ塩山一美/ベースボール・マガジン社。いまの主流になった両手投げを、基礎から写真で解説。子どもや初心者が最初に読む一冊として Amazonで見る › おわりに 昭和45年8月21日の夜。テレビの前で、日本中の大人たちが息を呑んでいたはずです。12投目のボールがレーンを転がっていく、あの数秒間を。 ...

August 21, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月20日──あの夏、雑誌も終わっていた。『平凡』が幕を下ろした年に

毎朝、この連載のために「今日は何の日」の資料をめくるのが習慣になりました。8月20日のページを開いて、いくつも並ぶ記念日や出来事の中で、ある一行に手が止まりました。 ——昭和62年、マガジンハウスが月刊『平凡』と週刊『平凡』の休刊を発表。 『平凡』。その二文字を見た瞬間、頭の中で、あの表紙が何枚もめくれていくような感覚がありました。散髪屋の待合、親戚の家の茶の間、どこかの本棚。昭和の暮らしのあちこちに、当たり前のように置いてあった雑誌です。 100万部の雑誌が消えていく 『平凡』が創刊されたのは昭和20年11月。戦争が終わった、その年の秋のことです。やがて「歌と映画の娯楽雑誌」として、グラビアと連載小説を二本柱に、ラジオや映画、そしてテレビの時代の波に乗って、部数をぐんぐん伸ばしていきました。ライバルは集英社の『明星』。この二誌が、昭和のアイドル雑誌の二枚看板でした。 最盛期には140万部を超えたといいます。芸能人の素顔も、新曲の歌詞も、お茶の間に届く憧れの情報は、まずこの分厚いグラビア誌の中にありました。歌詞を書き写して覚えるのも、憧れのスターがどんな暮らしをしているのかを知るのも、多くの人にとっては、この一冊が入り口でした。今のスマホの画面が引き受けている役割の、ずいぶん多くを、あの紙の束が担っていたわけです。 その『平凡』が、静かに畳まれていきます。週刊『平凡』は昭和62年10月6日号を最後に休刊。月刊『平凡』も、同じ年の12月号で幕を下ろしました。驚くのは、その最終号すら100万部を超えていたと伝えられていることです。売れなくなったから終わったのではない。テレビがさらに情報の主役になり、出版社そのものが、もっと都会的でおしゃれな雑誌の会社へと姿を変えていく——その大きな流れの中で、昭和の芸能雑誌は、役目を終えたのだといわれています。 「まだ100万部も出ているのに、終わる」。子どもの頃にそれを聞かされても、たぶんピンとこなかったと思います。けれど57歳になった今、その一行は、妙に胸に残るのです。 私とアイドル雑誌 正直に打ち明けると、私は少しへそ曲がりな子どもでした。 世の中が松田聖子さん一色に染まっていくのが、なんだか面白くなくて、私はあえて河合奈保子さんを応援していました。みんなと同じ方を向くのが、どうにも照れくさかったのです。中学に上がる頃には、その気持ちは中森明菜さんへと移っていきました。 木曜の夜9時は『ザ・ベストテン』。赤いボタンと白いボタンを同時に押して、テレビの音をそのままカセットに録る。ソニーのウォークマンではなく、我が家の予算に合ったAIWAのカセットプレーヤーで、その録音を何度も聴き返しました。 そんな私にとって、『平凡』や『明星』のようなアイドル雑誌は、実はそれほど近い存在ではありませんでした。自分のお小遣いで買った記憶はありません。手に取ったのは、たいてい散髪屋や病院の待合室、あるいは友達の家。順番を待つあいだ、置いてあるのを何となくめくる。そのくらいの距離感でした。私にとっての芸能情報は、あくまでテレビとラジオが中心で、あの分厚いグラビア誌は、少し離れたところで開かれている、大人びた世界のように見えていたのです。 あの頃の歌は、いまベスト盤で一枚にまとまっています。まずは、へそ曲がりの私が選んだほうから。 河合奈保子 ゴールデン☆ベスト ~A面コレクション~日本コロムビア。デビュー曲からのシングルA面を集めた2時間32分。「スマイル・フォー・ミー」「ラブレター」「エスカレーション」ほか Amazonで見る › そして、中学に上がってから乗り換えたほう。 ベスト・コレクション ~ラブ・ソングス&ポップ・ソングス~ 中森明菜ワーナーミュージック・ジャパン。「少女A」「セカンド・ラブ」「DESIRE」ほか、2時間23分。レビュー677件・星4.5 Amazonで見る › あの夏、私自身も終わっていた ここまで書いてきて、ひとつ、動かせない事実に気づきました。 『平凡』が幕を下ろした昭和62年——1987年。それは、私にとっても特別な年でした。 この年の7月23日、私は神宮第二球場で、高校野球を終えています。真夏の炎天下、スパイク越しに伝わる砂の熱さ、ヘッドスライディング、止まらない涙。あの敗戦を最後に、私の少年時代は幕を閉じました。そこから先の夏は、いわゆる抜け殻状態。進路も決まらず、何を見て、何を考えていたのか、正直、ほとんど覚えていません。 つまり——自分の少年時代が終わったのと同じ年の、同じ夏に、少年時代を彩ってくれた雑誌たちも、静かに畳まれていた。 けれど、正直に書きます。当時の私は、そのことにまったく気づいていませんでした。『平凡』や『明星』が消えていくことなど、意識の外でした。それどころではなかった、というのが本当のところです。高校野球が抜けたあとにぽっかり空いた場所を、何かが埋めてくれることは、あの夏、ついにありませんでした。ラジオから流れる歌も、テレビの中のアイドルも、あの穴には届かなかった。ただ、時間だけが過ぎていったのを覚えています。 もうひとつの8月20日 ── 銀座の信号機 さて、少し話を変えます。8月20日は「交通信号設置記念日」でもあります。 昭和6年(1931年)のこの日、東京・銀座の尾張町交差点——今の銀座4丁目交差点です——や京橋など、34か所に、日本で初めての3色灯の自動信号機が設置されました。面白いのは、当時の信号機は、色が変わるたびにベルが鳴ったそうなのです。「やかましい」という苦情も出たと伝わっています。もっとも、設置された当初は、信号という仕組みそのものがまだ世の中に浸透しておらず、色を無視して進んでしまう人や車も多く、かえって事故が起きたともいわれています。 今では、信号は音もなく、当たり前に色を変えます。青、黄、赤、そしてまた青。誰に褒められるでもなく、毎日律儀に、同じ仕事を繰り返している。 子どもの頃を思い返すと、街の風景の中には、いつも信号と電車があったような気がします。 高砂のあたりには踏切があり、線路をまたぐ歩道橋もありました。踏切が鳴り始めると足を止め、遮断機の向こうを電車が通り過ぎていくのを眺める。今のように何か特別な目的があったわけではありません。ただ、赤や青に変わる信号や、規則正しく点滅する踏切の灯り、目の前を走り抜けていく電車そのものが、子どもの私には面白かったのでしょう。 学校へ行くようになると、信号はもっと身近なものになりました。 「青になったら渡るんだよ」 そんなことを親や先生から何度も言われた記憶があります。今考えれば当たり前のことですが、子どもにとって信号は、街の中で守らなければならない最初の約束事のようなものだったのかもしれません。 そして、もう一つ覚えているのが夕方の街の音です。 夢中になって遊んでいても、夕方5時になるとチャイムが聞こえてくる。その音を聞くと、「そろそろ帰らなきゃ」と思う。誰かに腕時計を見せられなくても、街そのものが時間を教えてくれていました。踏切の音、電車の走る音、信号の電子音、夕方のチャイム。そうしたもの全部が、あの頃の私たちの暮らしの中に溶け込んでいたのだと思います。 それから半世紀近くが過ぎました。 57歳になった今、私は路線バスの運転士として、一日じゅう信号と向き合っています。 赤信号で止まり、青信号で進む。それだけなら、子どもの頃に教わったことと何も変わりません。しかし今は、その信号の向こうに、お客様の安全があります。黄色に変わるタイミングを見ながら無理をせず、交差点の歩行者や自転車にも目を配る。一つの信号を見る意味が、子どもの頃とはまったく違うものになりました。 不思議なものです。子どもの頃、踏切のそばや交差点で何気なく見上げていた赤・黄・青の三色の光。それが今では、一日の仕事を共にする「相棒」のような存在になっています。 あの頃の私は、まさか何十年後、自分が大きなバスのハンドルを握り、毎日何百回となく信号を確認する仕事をしているとは想像もしなかったでしょう。けれど、赤なら止まり、青なら進む。街が変わり、自分も年を重ね、立場もずいぶん変わりました。それでも、子どもの頃から変わらずそこにある三色の光を見ると、ときどき人生というものは、思いがけないところで昔と今がつながっているものだな、と思うのです。 変わり続けるもの、終わるもの 雑誌は、一度きり、終わっていきます。あれだけ売れていても、時代が役目を返せと言えば、静かに幕を下ろす。100万部の『平凡』でさえ、そうでした。 信号は、終わりません。銀座にベルを鳴らして生まれてから90年あまり、色を変え続けながら、ずっとそこに在り続けています。変わり続けることで、変わらずにいる。 高校野球を失ったあの夏、私の手の中からは、いろいろなものがこぼれ落ちていきました。少年時代そのものも、それを彩った雑誌たちも。けれど、あのとき見上げていた三色の光だけは、今も変わらず、私の目の前で青に変わってくれます。 みなさんには、「気づかないうちに終わっていた」ものはありますか。いつもの店、いつもの雑誌、いつもの番組。そこにあるのが当たり前すぎて、消えたことにずっと後から気づく——そんな一つを、よかったらコメントで教えてください。 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【8月19日】20番乗り場と、祭壇のサインボール | 次の記事:【8月21日】300点が出た夜、私は1歳だった ▶ ...

August 20, 2026

帽子に黒い線を三本──8月14日、国民皆泳の日と昭和の学校プール|昭和の今日は何があった日?

8月14日は「国民皆泳の日」だそうです。 正直に言うと、私はこの記念日を知りませんでした。この連載のために日付を調べていて、初めて出会った名前です。「皆泳」——みんなで泳ぐ。ずいぶん堂々とした、そして少し古めかしい響きの言葉だと思いました。 国民全員が泳げるように。そんなことを国民的な目標として掲げていた時代があった。 ところが、その言葉を眺めているうちに気づいたのです。私自身、スイミングスクールになど一度も通わずに、小学1年生の夏には25メートルを泳いでいた。あの頃の私は、まさしく「皆泳」の中にいたのだと。 「国民皆泳の日」という記念日 この記念日を制定したのは日本水泳連盟です。1953年(昭和28年)、8月14日を「国民皆泳の日」と定めました。 「皆泳」という言葉づかいに、時代がよく出ています。健康増進という面もありますが、より切実だったのは水難事故を減らすという目的でした。四方を海に囲まれた国で、泳げない人が多すぎる。それは命に直結する問題だ——そういう認識です。 この記念日はその後いったん中断し、2014年(平成26年)に日本水泳連盟があらためて「水泳の日」として引き継ぎました。今は「泳いでつながる笑顔の輪」というスローガンが掲げられています。 昭和28年の「皆泳」と、平成26年の「笑顔の輪」。同じ日付に、まったく手触りの違う言葉が乗っている。この60年ほどの間に、日本人と水の関係が根本から変わったということなのだと思います。 泳げないと、死ぬ その変化を引き起こした出来事のひとつが、1955年(昭和30年)に起きています。 瀬戸内海で、宇高連絡船の紫雲丸が沈没しました。死者168人。そのうち100人以上が、修学旅行の途中だった小中学生でした。 修学旅行です。船に乗って、これから何日か楽しいことがあるはずだった子どもたちが、朝の海で亡くなった。この事故が全国に与えた衝撃は、私の想像できる範囲を超えているのだと思います。 そこから出てきた答えが「泳ぎを教えよう」でした。学校にプールをつくり、体育の授業として水泳を教える。子どもを水難から守るには、まず泳げるようにするしかない——その気運が全国に広がっていきます。 背中を押したのが行政でした。1961年(昭和36年)にスポーツ振興法が成立し、国からの補助金が出るようになると、各地の学校に次々とプールが造られます。東京オリンピック以前の学校プール設置率はおよそ12パーセント。それが1975年(昭和50年)には50パーセントを超えました。10年あまりで、日本の学校の風景が変わったわけです。 私が小学校に入学したのは1976年(昭和51年)の春でした。設置率がちょうど半分を越えた、その翌年ということになります。 校庭の端の、あと付けのプール 私の通った小学校にも、もちろんプールがありました。 校舎からは離れた、屋外です。今になって思い返すと、校庭の端に「あと付け」したのではないか、という感じの立地でした。もともとそこにあった建物ではなく、あとから場所を捻出して据えたような。全国で設置率が12パーセントから50パーセントへ駆け上がっていったあの時期のことを知ると、その「あと付け」感にも納得がいきます。校庭を削ってでもプールを造れ、という号令が、確かに全国に響いていたのでしょう。 6月の中旬になると、体育の授業はすべてプールに切り替わりました。実施の可否は、気温と水温を足した数字で決まります。定められた数値以上なら、雨でもプールでした。 そして当時の私たち子どもは、常にプールの授業を望んでいました。だから雨が本降りの中でプールに入った記憶があります。今から思えば、先生はやりたくなかったんじゃないかな(笑)。 手順もよく覚えています。まず教室で海水パンツに着替える。そのまま校庭に集合する。男性の先生が朝礼台の上に上がって、みんなで準備運動の「ラジオ体操」をする。もちろん朝礼台の上の先生も、海水パンツ一丁です。 そして校庭からプールサイドに向かう途中に、全員が一列に並んで順番にシャワーを通る。あの、冷たさに声が出る一瞬。 書きながら、笑ってしまいました。夏の校庭に、海水パンツ姿の小学生がずらりと並んで、朝礼台の上の先生に合わせて腕を回している。あの光景は、昭和の学校でしか成立しないものだったのかもしれません。 帽子に黒い線を三本 泳力には、明確な等級がありました。 技術が上がっていくにつれて進級していく仕組みで、級に応じてスイミングキャップに赤い線や黒い線を縫い付けていくのです。最上級は1級で、黒い線が三本。 私はあの黒三本が欲しくて、一生懸命に練習しました。目標が帽子の上に見える形で示されているというのは、子どもにとって強烈な動機でした。誰が何本かは、プールに並べば一目でわかってしまう。 つまり「泳げる子」と「泳げない子」を分ける仕組みが、そこには明確にあったということです。 今の感覚からすれば、残酷な仕組みだと言われるかもしれません。でも当時の私にとっては、あれはただ純粋に「登っていける階段」でした。線が増えるたびに、自分が確かに前へ進んでいるとわかる。 私自身は、1年生の夏休みには25メートルを泳げるようになっていました。 夏休みも、毎日プールだった なぜそんなに早く泳げるようになったのか。理由は単純で、とにかく毎日プールに入っていたからです。 夏休みに入っても、午前中にプール開放がありました。ふた学年ごとに時間が割り振られていて、参加の温度感としては「全員参加の授業」に近いものでした(笑)。判子カードもありました。当番の先生というより、該当クラスの先生が全員来ていたように記憶しています。先生は大変だったでしょうね。 友達と連れ立って歩いて行きました。そして学校のプールが開いていない日には、自分たちで区民プールに行っていたのです。 当時、葛飾のあちらこちらに区民プールがありました。小学生は1時間10円です。10円で泳げるのですから、行かない理由がありません。 学校のプール開放と区民プール。この二つを合わせれば、私はほとんど毎日のようにプールに入っていたことになります。スイミングスクールに通う必要などまったくなく、いつのまにか泳げるようになっていた。そのことに、今になって深く納得します。 「国民皆泳」という大きな言葉は、標語として達成されたのではありませんでした。校庭の端にあと付けされたプールと、1時間10円の区民プールと、夏休みの午前中の判子カード。その積み重ねが、地味に、確実に、子どもたちを泳げるようにしていったのです。 「足を引っ張られるから」 ところで、8月14日はお盆の真ん中です。 「お盆に泳ぐと足を引っ張られる」という言い伝えは全国的に知られていますし、この記事を書き始めたとき、私はその話から入るつもりでいました。ところが自分の記憶を掘り返してみると、お盆だから泳ぐな、と言われた覚えがないのです。 代わりに思い出したのは、母の言葉でした。 中川へオタマジャクシを取りに行くようなとき、母はこう言いました。 「足を引っ張られるから、水に入るんじゃないよ」 お盆に限らず、でした。つまりあれはお盆の禁忌ではなく、川そのものへの禁止だったのです。 もっとも、言われなくても川で泳ごうとは思いませんでした。当時の川は、汚かったですから(笑)。私にとって泳ぐ場所とは、あくまでプールでした。学校のプールと、区民プール。それだけです。 面白いものだと思います。プールでは級を上げるために毎日必死に泳ぎ、その一方で、家のすぐ近くを流れる川には決して入らなかった。管理された水では泳ぎを学び、自然の水は敬遠する。私の泳ぎは、最初から「プールの泳ぎ」でした。 そして、それは正しかったのかもしれません。水難による中学生以下の死者・行方不明者は、昭和54年(1979年)に年間1,044人を数えています。翌昭和55年に初めて1,000人を割り、そこから長い時間をかけて減り続けました。令和5年には27人です。 1,044人。私が小学4年生だった年の数字です。「泳げるようにしよう」という国の号令が大げさでもなんでもなかったことが、この数字を見るとよくわかります。 ...

August 14, 2026

道の日──ブロックの破片で書いたホームベースと、いま毎日走っている道のこと|昭和の今日は何があった日?(8月10日)

八月の道は、いちばん道らしい 八月の道は、暑い。 当たり前のことを書いてどうするのかと自分でも思うのですが、この季節の道には、ほかの月にはない存在感があります。アスファルトから立ちのぼる熱、遠くの景色がわずかに揺れて見えるあの現象、白い横断歩道が目に痛いほど光る昼下がり。冬の道は静かに横たわっているだけですが、八月の道はこちらに向かって何かを主張してきます。 そして8月10日は「道の日」です。 私はこの記念日を、大人になってから、それも仕事に就いてから知りました。子どもの頃の私にとって、道はあまりに当たり前で、記念日をつけるようなものだとは思ってもみませんでした。 昭和61年、道に「日」ができた 「道の日」を制定したのは、建設省——現在の国土交通省——の道路局です。制定は1986年、昭和61年でした。 なぜ8月10日なのか。さかのぼると大正時代に行き着きます。1920年(大正9年)のこの日、日本で最初の近代的な道路整備計画である「第一次道路改良計画」が決定したのです。前年に旧道路法が制定され、明治期の道路路線をいったん廃止して国道を定め直した。その受け皿として、本格的な整備計画が動き出したのがこの日でした。今に続く日本の道づくりのスタート地点、と説明されることがあります。 制定の趣旨には、こんな言い方が使われています。道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本なのに、あまりに身近な存在であるために、その重要性が見過ごされがちである——だから改めて関心を持ってほしい、と。 見過ごされがちである。 この一文が、私にはやけに刺さります。子どもの頃の私は、まさに道を完全に見過ごしていました。見過ごしていたどころではありません。そこを自分の縄張りだと思って、毎日転がり回っていたのです。 ちなみに8月は、まるまる一か月が「道路ふれあい月間」でもあります。もとは7月10日から8月9日までの期間だったものが、昭和44年——私が生まれた年です——に、夏休みの啓発活動をやりやすくするという理由で8月1日から31日に変更されました。 制定と同じ年には「日本の道100選」の選定も始まっています。各都道府県が推薦した道路の中から、1986年度に53本、翌1987年に51本、合わせて104本。さらに昭和63年には、制定時に作られたハンミョウのキャンペーンキャラクターに「こっちだヨウ平」という愛称がつきました。ハンミョウは人の前を飛んで先を案内するように見えるので「道教え」とも呼ばれる虫だそうで、なるほど道案内役にはうってつけです。 昭和61年、私は高校2年生でした。「道の日」ができたというニュースの記憶は、まったくありません。あの夏の私が向き合っていたのは道路行政ではなく、野球部の練習だったはずです。 私の最初の運動場は、幅四メートルの道だった 私にとって最初の「道」は、家の前の路地でした。 幅は四メートルほど。車が一台通れば人はよけなければならない、あの寸法です。そこが私たちの野球場でした。いわゆる路地野球です。 ホームベースはいつも決まっていた場所に、ブロックの破片で道路に直接書いていました。それが薄くなるたびに、何度も何度もブロックの破片をガリガリと道路にこすりつけて書き直す。今考えると、道路に落書きをしていたわけですが、当時はそれが球場整備でした。 ほかの各ベースについても、「4メートル路地球場」のいつもの位置が決まっていました。「1塁は玄関の前のこの位置ね」「今日の2塁はこれね」と言い合って、ベースに見立てたちょうどいい大きさの、捨ててあったガラクタを拾ってきて置く。誰かが図面を引いたわけでもないのに、球場の設計は毎回きっちり再現されるのです。 バットはいわゆる「プラバット」、ボールは「カラーボール」でした。 ルールは、その道の形に合わせて育ちました。道の両サイドに建つ家の壁に当たって跳ね返ってきたボールを、地面につく前にキャッチしたらアウト。屋根の上に上がったボールも、地面に落ちる前にキャッチすればアウト。——プロ野球の中継を見ながら育った子どもたちが、自分たちの球場の壁と屋根を、そのままルールブックに書き足していったわけです。 そして、試合はしょっちゅう中断しました。気が付いた人が「車!」「自転車!」と叫ぶ。そこで全員が止まって、道の端に寄る。通り過ぎたら、また何ごともなかったように再開する。 いま思えば、あれは当たり前の話です。あそこは球場ではなく、道路だったのですから。 叱られた記憶も、いろいろあります。家の敷地内に打ち込んでしまったボールを、無断で入り込んで取りに行き、その家の人に見つかって叱られたことは何度もありました。打ったボールでガラスを割ってしまったときは母親に叱られましたし、車にボールを当てて叱られたこともあります。 つまり私は、道を借りて遊んでいたのに、その自覚がまるでなかったのです。舗装のわずかな傾き、マンホールの位置、どの家の塀が跳ね返りやすいか——そういうことは自分の家の間取り以上に正確に把握していたのに、その道が誰かのつくったものだという発想だけが、すっぽり抜け落ちていました。 いまの子どもは路地で野球をしません。それでも、公園や河川敷でプラバットを振る楽しさは変わりません。孫と外に出るときに一組あると、あの頃と同じ音がします。 KAISER キッズ ベースボールセット KW-543(バット・グローブ・ボール)対象6歳以上。カラーバットと8インチグローブ、やわらかいPUボールの3点セット。公園や河川敷で、孫と一組。当たっても痛くないので気兼ねなく振れます Amazonで見る › 同じ道を、いまも歩いている 私はいまも、子どもの頃に育った町で暮らしています。だから当時通っていた道を、今も普通に使っています。 これが、ときどき妙なことを起こします。 何気なく、道路の脇に立っている木を見て、「この木に子どもの頃上ったな」と思う。当時から変わっていないものを見た瞬間に、五十数年前の記憶に一瞬で飛ぶことがあるのです。 不思議なもので、思い出そうとして思い出すのではありません。歩いていて、目に入って、勝手に飛ぶ。道そのものは舗装も直され、建物も変わっているのに、たまたま残っていた一本の木が、当時の高さの感覚まで連れて戻ってくる。 道というのは、記憶の保管場所でもあるのだと思います。日記も写真も残していないのに、あの路地の傾きは体が覚えている。それは私が偉いのではなくて、道が変わらずにそこにあってくれたからです。 いま、私は道で働いている それから五十年近くたって、私は路線バスの運転士をしています。 つまり、道が職場になりました。 仕事で毎日、決まった道を走っています。すると、「道」がいたるところで思いのほか傷んでいることに気が付きます。同じ場所を毎日通るからこそ、少しずつの変化が見える。ここの継ぎ目が広がってきたな、あの白線が薄くなってきたな、と。 そして、誰かがそれを見つけては補修をしてくれていることも知ります。ある日通ったら、傷んでいた場所がきれいになっている。誰がいつ直したのか、私は知りません。それでも、確実に誰かが見つけて、直してくれている。 普通に生活している中では、あまり気にしていなかったことでした。子どもの頃の私にいたっては、路地の舗装をやり直す工事があっても「うるさいな」くらいにしか思っていなかったはずです。 現在の私は、道を使わせていただいて仕事をさせていただいています。だから、道を守ってくださっている方々に、感謝の気持ちがわいてきます。 「道の日」の制定趣旨にあった、あまりに身近な存在であるために重要性が見過ごされがちであるという言葉に戻ります。あれは、たぶん整備する側から見た実感なのでしょう。直しても、誰も気づかない。気づかれないことが、いちばんうまくいっている状態でもある。 でも、毎日同じ道を走る仕事に就いて、私はようやく気づく側にまわりました。四十年遅れの、ずいぶん時間のかかった理解です。 ブロックの破片で書いたホームベースの上を 昭和61年8月10日に「道の日」ができたとき、17歳の私はそんな記念日の存在すら知りませんでした。あの頃の私にとって道とは、走るもの、渡るもの、そしてかつてプラバットを振った場所でした。 いまの私にとって道とは、お客さまを乗せて進む場所です。同じものを見ているはずなのに、意味がすっかり入れ替わってしまいました。 それでも、住宅街の狭い区間でハンドルを切っているとき、幅四メートルの感覚が体の奥から出てくることがあります。この幅は、私がいちばんよく知っている幅です。ブロックの破片でホームベースを書き直していた子どもの勘が、まだどこかに残っているような気がするのです。 あのホームベースは、とっくに消えています。舗装も何度か直されたでしょう。それでも、あの位置は今でも指させます。 みなさんにとって、子どもの頃の「道」はどんな場所でしたか。路地でしょうか、田んぼのあいだの農道でしょうか、それとも団地のあいだの通路でしょうか。よかったら教えてください。 路地野球のほかにも、メンコ、ベーゴマ、ゴム跳び、缶けり。あの頃、道と空き地でやっていたことを一冊にまとめた本があります。ページをめくっていると、名前を忘れていた遊びのほうから戻ってきます。 ヤマケイ文庫 こども遊び大全遠藤ケイ/山と溪谷社。メンコ、ベーゴマ、馬乗り、ちゃんばらごっこ、ゴム跳び……町内の路地や裏の空き地で繰り広げられた遊びを、道具の作り方まで含めて記録した一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ...

August 10, 2026

そろばんの日──週6回の教室と、3級でやめる約束|昭和の今日は何があった日?(8月8日)

8月8日は「そろばんの日」です。 由来は単純で、そろばんを弾くときの「パチパチ」という音を「8(パチ)」「8(パチ)」と読ませた語呂合わせ。制定したのは全国珠算教育連盟で、昭和43年(1968年)のことでした。私が生まれる前の年です。 語呂合わせの記念日は世の中に山ほどあって、たいていは商品を売るために後からつくられたものです。でもこの「そろばんの日」は、少し事情が違う気がします。昭和43年に、そろばんを教える人たちが自分たちの手で記念日を決めた。それはまだ、そろばんが日本中でパチパチと鳴っていた時代の話だからです。 そして私も、その音の中にいた一人でした。 みんなが通っていたから、私も通った 私がそろばん教室に通いはじめたのは、小学校3年生のときです。昭和53年(1978年)。 きっかけは、たいそうな話ではありません。友達の多くが通っていたから。ただそれだけです。 場所は、通っていた小学校の裏にありました。学校が終わって、いったん家に帰ってランドセルを置いて、また学校の方へ戻っていく。あの距離感が、そろばん教室という習い事の性格をよく表していたと思います。ピアノやバレエは「ちょっといいところの子」が通うもの、という空気がありましたが、そろばんは違いました。町の子がふつうに通う場所でした。 だから「習い事を始める」という決断めいたものは、正直あまりなかったように思います。放課後に友達が向かう場所がひとつ増えて、そこに自分もいた。それだけのことでした。誘われたというより、行かないほうが不自然だったのかもしれません。 親が通わせた理由もはっきりしていたはずです。当時のそろばんは、まだ「役に立つ技術」でした。商店の帳場でも会社の経理でも、そろばんを弾ける人は重宝された。習わせておいて損はない、という実感が親の世代にはあったのだと思います。 週に6回、休みは日曜と祭日だけ そして、ここからが今思い返すとすごいところです。 私が通っていたそろばん教室は、週に6回ありました。日曜日と祭日だけがお休み。つまり月曜から土曜まで、毎日です。 15時から50分の授業。終わると10分で次のクラスと入れ替え。16時からまた50分授業をやって、また10分で次のクラスと入れ替え。工場のラインみたいに、夕方の教室が回転していくわけです。そして級が上がっていくにつれて、遅い時間のクラスへと昇格していきました。低学年で下の級のうちは早い時間。上に行くほど遅い時間。時間割そのものが実力の順番になっていて、遅いクラスに移ることが子どもにとっての勲章でした。 授業が始まると、まず準備体操のように「読み上げ算」が始まります。「ご破算で願いましては」という決まり文句。あの合図で全員が一斉に指で珠を払い、盤面をゼロに戻す。それから先生が数字を読み上げて、生徒たちがパチパチはじいていく。読み上げのテンポは容赦なく、一度どこかで詰まったらもう追いつけません。 厳しい先生でしたから、教室内には緊張感がありました。おしゃべりなど、とてもできる雰囲気ではありません。読み上げの声と、珠が弾かれる音だけが部屋を満たしている。あの音の密度は、いま思い出しても独特です。 そろばんという習い事が全国的にどれだけ当たり前だったかは、こんなところにも表れています。昭和35年(1960年)から1990年代半ばまで、NHKラジオ第2放送では『そろばん教室』という番組がずっと放送されていました。昭和30年(1955年)には全国の高校生がそろばんの技を競う「全国高校珠算競技大会」も始まっている。通称、そろばん甲子園です。学校の裏の教室でパチパチやっていたあの時間は、日本中の子どもが同じようにやっていた時間でもありました。 毎日毎日、あの50分がありました。夏休みも、当然のようにありました。 「3級を取ったらやめていい」 私には、親との約束がありました。3級を取ったら、そろばんはやめていい。 そして6年生になってすぐ、私は3級に合格しました。約束通り、そろばんをやめることができた。そこからは野球に全力投球です。3年間ほぼ毎日通った教室から、私は野球のグラウンドへ移っていきました。 なぜ3級だったのか。当時から、珠算検定は3級以上が「履歴書に書けるライン」とされていました。親としては、そのくらいまでは持たせてやりたかったのだと思います。子どもの側からすれば、3級はゴールというより出口でした。ここまで行けば解放される、という一点を目指して珠を弾いていた。 いま考えると、少し不思議な話でもあります。やめるために頑張る。それでも小学校3年生から6年生までの3年間、ほぼ毎日そろばんを弾き続けたわけですから、目的がどうであれ、手は動き続けていたことになります。 正直に書いておくと、暗算は苦手でした。そろばんを目の前に置いて指を動かすぶんには何とかなるのに、頭の中に盤面を思い浮かべて計算する、あれがどうにも身につかなかった。同じ教室に、暗算がとんでもなく速い子がいたのを覚えています。あの差は、努力の量では埋まらないのだと子どもながらに感じていました。 そろばんの日の4年後、「答え一発」がやってきた ところで、そろばんの日が制定された4年後。カレンダーのほとんど同じ場所で、そろばんの立場を根本から揺さぶる製品が世に出ています。 昭和47年(1972年)8月3日、カシオ計算機が「カシオミニ」を発売しました。価格は1万2800円。それまでの電卓が7万円も8万円もしたことを考えると、破格でした。大きさも従来の4分の1。「答え一発、カシオミニ」というCMのフレーズをご記憶の方も多いでしょう。発売から10か月で100万台を超える大ヒットになりました。 8月8日にそろばんの日が決まり、その4年後の8月3日に、電卓が一家に一台の時代の扉を開けた。たった5日違いの、しかし決定的にすれ違った二つの出来事です。 カシオミニは発売から3年ほどで累計1000万台を売ったといわれます。当時の日本の人口を考えれば、10人に1人が手にした計算になる。私が生まれてまだ3歳のころに、日本の家庭は静かに、しかし決定的に「答えを一発で出す」側へ移りはじめていたわけです。 それでも、私がそろばん教室に通いはじめた昭和53年(1978年)、あの教室は週6日開いていて、夕方になれば子どもが集まってきました。電卓はもう珍しくもなかったのに、誰も「そろばんはもういらない」とは言わなかった。いま振り返れば、あれは坂を下りはじめた時代の、まだ日がよく当たっている斜面だったのだと思います。日が当たっているうちは、下り坂であることに誰も気づかないものです。 体にしみ込んだもの 正直、そろばんの技術は残っていません。 しかし当時そろばんを毎日毎日訓練したことの成果は、具体的に「これだ!」と示すことは出来ないのですが、私のカラダにしみ込んだ「そろばん」は確実にその後の人生に役立ってくれたと思います。 計算が速くなったとか、そういう分かりやすい話ではないのです。毎日決まった時間に教室へ行くこと。50分間、黙って手を動かし続けること。級というはっきりした目標に向かって、うまくいかない日も積み重ねること。そういうものが、たぶん形を変えて残っている。 そしてなんと、三男と四男が令和のこの時代に「そろばん教室」に通いました。四男は現在進行形です。2人は通い始めて明らかに良い効果が表れました。計算に対する苦手意識がなくなり、少しだけ賢くなったような気がします(笑)。 これは、うちだけの話ではないようです。そろばんは2000年代の半ばあたりから見直されはじめていて、教室に通う子どもは再び増える傾向にあると言われています。計算そのものは機械がやってくれる時代だからこそ、集中して数字と向き合う訓練の価値が、かえって浮かび上がってきたのかもしれません。 ただ、うちの子たちの教室が週6回でないことだけは確かです。あの回転寿司みたいな時間割は、たぶん昭和の教室にしかなかった。 わが家では、四男がいまも教室に通っています。そろばんは学校で買うものと思っていましたが、いまは家にもう一台あると練習がぐっと楽になります。23桁・四つ珠、ケース付き。私が昭和53年に抱えて歩いていたものと、形はほとんど変わっていません。 雲州堂 そろばんパック 23桁 ケース付き(サクラクレパス)学童用の定番。23桁・四つ珠でケース付き、本体178gと軽い。そろばん教室の指定品としてもよく使われる形です Amazonで見る › 電卓どころか、スマホが計算も翻訳もやってくれる時代です。それでもそろばん教室は残っていて、うちの子が通っている。昭和43年に「そろばんの日」を決めた人たちは、まさか半世紀以上あとの世界でこうなっているとは思わなかったでしょう。 けれど、あの人たちが守ろうとしたのは、たぶん計算の道具そのものではなかったのだと思います。あの、毎日決まった時間に子どもが集まってきて黙って手を動かす、教室というかたちのほうだった。 パチパチという乾いた木の音は、まだ鳴りやんでいません。 みなさんは、そろばんを習っていましたか。何級まで進みましたか。そして、やめたときのことを覚えているでしょうか。 「技術は残っていない」と書きましたが、正直なところ、もう一度あの音を鳴らしてみたい気持ちはあります。大人がゼロから、あるいは40年ぶりに握り直すための一冊も出ていました。1日10分。子どもと並んで弾くには、ちょうどいい分量かもしれません。 いしど式で簡単 大人のそろばんドリル 1日10分で計算力・集中力を活性化石戸珠算学園/メイツ出版。珠の置き方から検定レベルの練習まで、大人が独習できるように組まれたドリル。子どもの教室の宿題につきあう親にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月2日──道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場

車道の真ん中を、堂々と歩く 道路の真ん中を歩く。あれは何度やっても、少しだけ悪いことをしているような、妙にわくわくする感覚があります。いつもは白い線の内側にいなければいけない場所に、堂々と立っている。あの高揚は、大人になっても変わりません。 その感覚が東京で初めて公式に許されたのが、1970年(昭和45年)8月2日でした。銀座、新宿、池袋、浅草。この4か所で、東京都内初の歩行者天国が実施されたのです。このとき私は1歳4か月。当然ながら記憶はありませんが、今回調べていて、なぜ道路を人間に返さなければならなかったのかを知り、少し息を呑みました。 「道路が笑顔で埋まった」 その日の人出は、4か所あわせておよそ80万人。 翌8月3日の東京新聞は、朝刊の1面トップでこの日を伝えました。見出しは「道路が笑顔で埋まった」。当時の写真を見ると、銀座通りは本当に人・人・人で埋め尽くされています。日傘、半袖のワイシャツ、子どもの手を引く母親。そのすべてが、いつもは車が占領しているはずのアスファルトの上に立っている。 言い出したのは、当時の東京都知事・美濃部亮吉さんでした。「車から人間へ」。この一言に、あの時代の東京が抱えていたものが全部詰まっています。 なぜ、道路を人間に返す必要があったのか 1970年は、日本の交通事故死者数が過去最悪を記録した年でした。その数、1万6,765人。1年で、です。あまりの多さに、当時これは「交通戦争」と呼ばれました。日清戦争の戦死者数を上回る勢いで人が死んでいく、という意味です。しかもそのうち15歳以下の子どもが12.5パーセント。8人に1人が子どもでした。 そしてもうひとつ、歩行者天国のわずか2週間前の出来事があります。 1970年7月18日、東京都杉並区の東京立正高校で、体育の授業を受けていた生徒43人が次々と目やのどの痛みを訴え、病院に運ばれました。日本で初めて確認された、光化学スモッグの被害です。この日、同じ症状を訴えた人は都内だけで5,208人。原因は、自動車や工場から出る排気ガスが強い紫外線を浴びて化学反応を起こしたことでした。 体育の授業中に、高校生が空気で倒れる。そんな夏の直後に、東京は道路から車を追い出したのです。歩行者天国というのんびりした響きの裏に、これだけ切実な事情がありました。 道路は、もともと遊び場だった もっとも、道路を人に開放する試みはこれが最初ではありません。1958年(昭和33年)には神田の東紺屋町で、日曜と祝日に道路を柵で仕切って子どもたちの遊び場として提供する「遊戯道路」が設けられ、後に都内へ広がっていきました。 「遊戯道路」という言葉が、私はとても好きです。道路は遊ぶところだ、と大人が認めていた。子どもが道路で遊ぶのは当たり前で、だから車のほうに遠慮してもらう。そういう順番だったのです。 そして、その順番が生きていた場所を、私はよく知っています。 高砂の「路地球場」 高砂で過ごした子ども時代を思い返すと、いちばん印象に残っているのは、やはり「路地野球」です。私たちにとって道路は、単なる通り道ではなく、毎日のように集まる遊び場であり、野球場そのものでした。 もちろん幹線道路ではありません。遊んでいたのは幅4メートルほどの細い路地で、車が頻繁に通るような場所ではなく、近所の人が行き来する程度の静かな道でした。そこに数人、多い日には十数人もの子どもたちが集まり、二つのチームに分かれて試合をしていました。使うのは柔らかいビニール製のボールとプラスチックのバット。みんな思い思いに好きなプロ野球チームの帽子をかぶり、本物のプロ野球選手になったような気分でプレーしていたものです。 グラウンドづくりも子どもたちの仕事でした。どこから拾ってきたのか、ブロック塀の破片で道路にホームベースや塁の位置を書き、毎日試合をしていたので、その路地にはいつもベースの跡が残っていました。誰に教わるでもなく、みんなで自然に「球場」を作り上げていたのです。 路地で野球をする以上、本物の球場のようにはいきません。道の両側には民家が並び、打球は塀や壁に当たって思わぬ方向へ跳ね返ります。だからこそ独自のルールが次々と生まれました。塀に当たって跳ね返ったボールをノーバウンドで捕ればアウト。前方の家の庭まで打ち込めばホームラン。路地の形そのものが、球場のフェンスやスタンドの役割を果たしていたような感覚でした。 さらに面白かったのは、路地ごとにルールが違っていたことです。近所のあちこちに「路地球場」があり、別の町内の友達に誘われて遊びに行くと、その場所ならではのルールがある。まるで違う球場へ遠征するような気分になったものです。 中でも忘れられないのが、「かみなりおやじ」と呼ばれていた家です。その家にボールを打ち込むと、もしご主人に気づかれたら大目玉。だからその家に打ち込んだ瞬間、「即チェンジ!」という特別ルールがありました。ホームランでもアウトでもなく、とにかく攻守交代です。子どもたちは笑いながらも、その家だけは本気で避けようとしていました。今思えば、近所の大人たちとの距離が近かった時代ならではの、微笑ましいルールだったように思います。 もちろん道路ですから、人や車が通れば試合は一時中断です。「車!」「人来た!」と誰かが声を上げると、みんな一斉にプレーを止め、通り過ぎるのを待ってから何事もなかったように再開しました。当時は今ほど交通量も多くなく、子どもたちも自然と周囲に気を配りながら遊んでいました。 今では道路で野球をする光景を見ることはほとんどありません。しかし昭和のあの頃、私たちにとって路地は最高の野球場であり、毎日が公式戦のような真剣勝負の舞台でした。道幅わずか数メートルの小さな「球場」に、子どもたちの工夫と笑い声、そして野球への夢がぎっしり詰まっていたのです。 銀座は憧れの都会、上野は普段着の都会 歩行者天国そのものの記憶も、ひとつあります。 子どもの頃、歩行者天国といえば、何度か銀座へ連れて行ってもらった記憶があります。父は仕事で休日も家を空けることが多かったので、一緒に出かけるのは母と妹、そして私の三人でした。 当時の銀座は、私にとってまさに「特別な都会」でした。テレビや雑誌で見るような華やかな街で、大人がおしゃれをして歩く場所。実際に歩行者天国を歩いてみても、どこか自分が場違いなところへ来てしまったような感覚がありました。人の多さや洗練された街並みに圧倒され、わくわくする反面、なぜか落ち着かず、少し疲れてしまったことを覚えています。 そして帰り道、上野に立ち寄ると、不思議なくらい気持ちがほっとしました。「やっぱり上野くらいがちょうどいいな」「ここが自分にとって落ち着く都会なんだ」と感じた、その時の感覚は今でも印象に残っています。 私にとって本当に身近だった歩行者天国は、銀座ではなく上野中央通りでした。高砂から京成線一本、乗り換えもなく行けて、家族で買い物や食事に出かけるにはちょうどいい距離です。百貨店やアメ横があり、公園や動物園、美術館もある。見るものがたくさんあって、それでいて下町らしい親しみやすさも残っている。背伸びをしなくても楽しめる街だったのです。 銀座が「憧れの都会」だとすれば、上野は「普段着の都会」。そんな違いを、子どもながらに感じていたように思います。だからこそ上野では、歩行者天国を歩いていても緊張することはなく、人混みの中にいてもどこか安心感がありました。 高砂で育った私にとって、銀座は「東京を代表する特別な街」、上野は「自分たち下町の延長線上にある、一番身近な都会」でした。 実は、一本の道だった ところが今回、調べていて驚いたことがあります。 1973年(昭和48年)6月10日、上野から銀座まで5.5キロにわたる、当時「世界一長い」と言われた歩行者天国が実現していたのです。上野広小路にこれだけの人出があったのは、関東大震災のとき、昭和5年の海と空の博覧会に次いで三度目のことだったといいます。 つまり、私が場違いだと感じた銀座と、ほっとした上野は、同じ中央通りの南の端と北の端だったわけです。車を締め出されたアスファルトは、ずっと一本につながっていた。あの居心地の悪さと安心感の差は、道が違ったからではなく、同じ道のどちら側に立っているかの違いだったと思うと、少し可笑しくなります。 80万人と、十数人 こうして並べてみると、面白いことに気づきます。 銀座には80万人が車道にあふれ、高砂の路地には十数人が集まってブロック塀の破片でベースを描いていた。片方は都知事が号令をかけた一大イベントで、もう片方は誰の許可も得ていない勝手な占領です。けれど、やっていることは同じでした。アスファルトの上に、車ではなく人が立つ。銀座の80万人は日曜の数時間だけそれをやり、私たちは毎日やっていたわけです。 「車!」の一声でみんなが道の端に寄る。あれは、道路を借りている側の作法でした。歩行者天国が標識と警察官の力で実現していたものを、路地の子どもたちは声と目配りだけで成立させていたのかもしれません。 令和のいま 銀座の歩行者天国は、いまも続いています。土曜・日曜と祝日、中央通りから車が消えて、人が真ん中を歩く。あの日から56年、あの光景はまだ生きています。一方、5.5キロの「世界一長い歩行者天国」のほうは、神田のあたりで途切れ、上野までつながることはなくなりました。 交通事故の死者数は、2021年には2,636人まで減りました。1970年の1万6,765人の、およそ6分の1です。ガードレール、歩道橋、横断歩道。あの年に必死で整備が始まったものが、半世紀かけてこれだけの差を生みました。 その代わりに、路地から子どもの声が消えました。安全と引き換えに何かを手放した、と言うつもりはありません。1万6,765人という数字を知ってしまうと、あの時代がよかったとは、とても言えないからです。ただ、ブロック塀の破片で描いたベースの跡が、雨で消えるまで路地に残っていたこと。あれだけは覚えておきたいと思っています。 みなさんは、子どものころ道路で何をして遊んでいましたか。あるいは、歩行者天国の思い出はありますか。よかったら教えてください。 いまの子どもは、さすがに路地では野球ができません。でも公園や庭先でなら、あの頃と同じことができます。柔らかいカラーバットとボール、それにグローブがひとそろいになったセットです。当たっても痛くない素材なので、小さなお子さんやお孫さんの「はじめての野球」にちょうどいい。ブロック塀のかわりに、おじいちゃんがピッチャーをやってあげてください。 野球3種セット(カラーバット/やわらかボール/子供用グローブ)当たっても痛くないやわらか素材の入門セット。バット・ボール・グローブが揃うので、公園や庭先ですぐに遊べる。孫との初めてのキャッチボールにも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月29日──17年ぶりに、夏の夜空が帰ってきた

今日は7月29日。七月もいよいよ終わりに近づき、夏の暑さがいちばん濃くなる頃です。 昭和の夏を思い出すとき、まっさきに浮かぶもののひとつが、花火です。夕暮れの空がだんだんと藍色に沈んでいって、遠くのほうで「ドン」と腹に響く音がする。少し遅れて、夜空に大きな光の花が咲く。あの音と光は、下町に育った者にとって、夏そのものと分かちがたく結びついています。 昭和53年(1978年)の7月29日、その花火をめぐる大きなできごとがありました。長いあいだ途絶えていた両国の花火が、「隅田川花火大会」と名前を変えて、17年ぶりに夜空へ帰ってきたのです。 17年ぶりの、復活だった 隅田川の花火の歴史は、驚くほど古いものです。 さかのぼること江戸時代、享保18年(1733年)。前の年に大飢饉と疫病が江戸を襲い、多くの人が命を落としました。その死者を供養し、悪い病を追い払うことを願って、八代将軍・徳川吉宗が両国橋のたもとで水神祭を営み、川開きの日に花火を打ち上げた——これが、両国の川開き花火の始まりだと伝えられています。じつに300年近くも昔のことです。 そもそも「川開き」とは、その年の夏、隅田川での舟遊びや納涼が許される初日のこと。江戸の人々にとっては、待ちに待った夏の幕開けの合図でした。両国橋のあたりには涼み舟がびっしりと浮かび、川岸には屋台や見世物が立ち並ぶ。その夜空を彩る花火こそが、夏の到来を告げるいちばんの主役だったのです。 やがて花火職人のあいだに、「鍵屋」と、そこから分かれた「玉屋」という二つの名門が生まれました。見物人が夜空を見上げて「たまや〜」「かぎや〜」と声をかける、あの掛け声も、このころに生まれたものです。とりわけ人気を集めたのは玉屋のほうで、見事な花火が上がると、江戸っ子たちは惜しみなく「たまや〜」と声を張り上げたといいます。こうして両国の川開きは、多少の中断をはさみながらも、江戸から東京へと、夏の一大行事として受け継がれていきました。 ところが、その伝統がぷつりと途切れます。昭和36年(1961年)を最後に、両国の花火は打ち上げられなくなってしまったのです。理由のひとつは、川べりにあふれる車と、ふくれあがる見物客をさばききれなくなった交通事情。そしてもうひとつが、隅田川そのものの汚れでした。高度経済成長のただ中、工場排水や生活排水が流れ込み、川の水はどす黒く濁って、悪臭を放つほどになっていたのです。花火を映すはずの川面は、とても「涼」を感じられる状態ではありませんでした。 こうして、両国の夏から花火が消えました。以来17年ものあいだ、隅田川の夜空は静かなままでした。その間に生まれた子どもたち——昭和44年生まれの私も、その一人です——は、両国の花火というものを一度も見ないまま育っていったのです。 再び夜空を取り戻すまでには、17年という歳月がかかりました。下水道の整備が進み、汚れきっていた川の水も少しずつ息を吹き返して、ようやく機が熟したのが昭和53年です。かつての両国橋周辺は交通量が増えすぎていたため、会場を少し上流へと移し、名前も「隅田川花火大会」と改めました。桜橋から言問橋のあいだ(第一会場)と、駒形橋から厩橋のあいだ(第二会場)、二つの会場で花火を競い合う——今に続くあの形が、このとき生まれたのです。 昭和53年7月29日。17年ぶりに、隅田川の夜空に光の花が咲いたのです。 実に250年近い歴史を持つ夏の風物詩が、長い空白を経て帰ってきた。その復活は新聞やテレビでも大きく取り上げられ、東京の下町に暮らす人々にとっては、待ちに待った知らせだったにちがいありません。 正直に言えば、私の「花火」は、隅田川ではない ここまで書いておいて、正直に打ち明けます。 「花火」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、じつは、あの華やかな隅田川花火大会ではありません。 もちろん、小学3、4年生の頃だったでしょうか、母と妹と私の3人で浅草へ出かけた記憶はあります。でも残っているのは、夜空いっぱいに咲く大輪の花ではなく、押し寄せる人の波に揉まれながら、ただひたすら歩き続けたという記憶です(笑)。どこかに腰を下ろして、ゆっくり花火を見上げたという思い出ではないのが、少しだけ残念でもあります。 今にして思えば、あの日の人混みこそが、復活してまもない隅田川花火大会そのものだったのかもしれません。何十万もの人が、同じ夜空を目指して押し寄せる。その大きな渦のなかに、幼い私も、母と妹とともに確かにいたのです。花火の記憶はほとんど残っていないのに、あの熱気とざわめきだけは、今も体のどこかが覚えています。 私にとって本当の「花火大会」は、高砂の隣町・柴又で毎年開かれていた、江戸川の花火大会でした。物心ついた頃から、家族や近所の人たちと河川敷の土手まで歩いて向かうのが、夏の恒例行事だったのです。 間近で打ち上がる花火は、それまで見たことのないほど大きく、お腹の底まで響く轟音に、子どもの私は少し怖さを感じていました。それでも、夜空いっぱいに広がる光の美しさに見とれ、「夏が来た」という実感を味わっていたように思います。 あの頃は、今よりもずっとあちこちで盆踊りが開かれていました。母はにぎやかな場所が大好きな人で、夏になると毎晩のように近所の盆踊りへ出かけていました。私もその後をついて歩き、太鼓の音や提灯の灯り、屋台の賑わいに胸を躍らせたことを覚えています。あの夏の空気は、今でも忘れられません。 「花火大会をやってくる!」 そして小学生になると、夏の楽しみがもう一つ増えました。 昼間、近所の友達と駄菓子屋へ行き、バラ売りの花火を一人300円分くらい買うのです。ロケット花火やねずみ花火ではなく、手持ち花火や線香花火を思い思いに選び、夜になると「花火大会をやってくる!」と言って家を出る。子どもだけの、ささやかな夜遊びでした。 今思えば、本当にささやかな冒険です。でも、少しだけ悪いことをしているような気分が、その時間を何倍も特別なものにしてくれました。友達と囲んだ線香花火の、ぽとりと落ちる火の玉。その一瞬の明るさと、すぐに訪れる暗闇。あれもまた、まぎれもない私の「花火大会」でした。 どの夏にも、父はいなかった こうして思い返してみると、どの夏の思い出にも、父の姿がありません。 父はいつも仕事で忙しく、家族で出かけることはほとんどありませんでした。でもそれは、決して我が家だけのことではなく、近所にも同じような家庭がたくさんありました。父親たちは、みんな懸命に働いていたのです。 その代わり、私たちは地域の大人たちに見守られながら育ちました。子どもたちだけで夜道を歩き、花火をしていても、近所のおじさんやおばさんが、自然と目を配ってくれていた。そんな時代だったのです。 子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になった今、あの温かな見守りが、どれほどありがたいものだったのかを実感します。そして今度は、自分が地域の子どもたちを見守る側の世代になったのだ、ということにも気づかされます。 夏の花火は、美しかった夜空だけではなく、人と人とのつながりまで思い出させてくれる。私にとって、そういう特別な風景なのです。 おわりに 昭和53年7月29日、隅田川に17年ぶりの花火が咲きました。街じゅうの人が、その復活を心待ちにしていたといいます。 いま、隅田川花火大会は毎年当たり前のように開かれ、両岸には100万人近い人が押し寄せます。誰もがスマートフォンを夜空にかざし、光の花を写真におさめる。いっぽうで、私の夏を彩ってくれた近所の盆踊りは、櫓を見かけることさえ少なくなりました。子どもだけで夜道を歩き、線香花火に火をつけるようなことも、今では難しい時代です。 それでも——江戸の川開きも、大きな隅田川の花火も、柴又の小さな花火も、根っこにあるものは同じなのだと思います。人が集まり、同じ夜空を見上げ、「夏が来た」と感じ合う。300年ちかく前の江戸っ子が「たまや〜」と声を張り上げた気持ちと、土手で花火に見とれていた子どもの私の気持ちは、案外、地続きなのかもしれません。花火とは、光そのものよりも、その下に集う人と人とのつながりを照らすものなのでしょう。 17年ぶりの復活を待ちわびた大人たちの気持ちが、今なら少しだけ分かる気がします。当たり前に思える夏の風物詩も、途切れてみて初めて、どれほど大切だったかに気づく。だからこそ、毎年ちゃんと花火が上がるということは、それだけで、ありがたいことなのでしょう。 あなたにとって、いちばん心に残っている夏の花火は、どんな花火でしょうか。夜空いっぱいの大輪でしょうか。それとも、誰かと囲んだ、線香花火の小さな火でしょうか。 大きな花火大会に出かけるのもいいけれど、庭先や玄関先で、孫と一緒に線香花火をぽとりと落とす——そんな夏も、また格別です。これは、職人が一本ずつ手で作る純国産の線香花火。パチパチと火花を散らし、最後にほろりと玉が落ちるまで、驚くほど長く、美しく燃えます。中国産の安価なものとは、火のもちも風情もまるで別物。あの頃の夏を、今度は見守る側として、子や孫と分かち合ってみませんか。 純国産線香花火 巧(たくみ)国内の職人が手作業で仕上げる本物の線香花火。パチパチと繊細な火花が長く続き、最後に火の玉がほろりと落ちる風情は国産ならでは。桐箱風の化粧箱入りで贈り物にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

July 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月24日──注意報の放送を、私たちは聞き流していた

今日は7月24日。夏休みが始まって、まだ数日というところです。 令和の夏、子どもたちが「今日は外に出るのをやめなさい」と言われる理由は、たいてい熱中症警戒アラートです。 けれど私たちが子どもだった頃、夏の外遊びを止めた言葉は、まったく別のものでした。 「光化学スモッグ注意報が発令されました」 あの、少しだけ事務的な声。同じ世代の方なら、きっと頭より先に体が覚えているはずです。 そして1972年(昭和47年)の今日、7月24日。その「汚れた空」をめぐる、戦後日本に残る判決が、三重県の小さな法廷で言い渡されました。 校内放送は流れた。けれど、私たちは止まらなかった 私が小学校に上がったのは1976年(昭和51年)の4月です。葛飾区の高砂で育った私にとって、夏とは朝から日が暮れるまで外にいるものでした。空き地で野球、自転車で川べりを走り回る。その日課を止めにくるのが、あの放送でした。 注意報を知るのは、主に校内放送です。教室のスピーカーから声が流れてくると、中休みと昼休みの外遊びが禁止になる。放課後についても、外で遊ぶのは控えるようにと言われました。 ところが、です。 私は「目がチカチカする」「のどが痛い」という症状を、自覚した経験が一度もありません。だからなのか——注意報が出ても、私も、周りの友達も、平気で外遊びをしていました。 放送は流れる。先生は控えろと言う。でも、体はなんともない。ならば行くに決まっている。あの頃の子どもの理屈は、それだけで十分でした。 今にして思えば、ずいぶん危なっかしいことをしていたのかもしれません。同じ空の下で、実際に苦しい思いをした子どもも全国にはたくさんいたはずです。ただ、当時の私の中では、「注意報」という言葉と「自分の体」が、どうしても結びつかなかったのです。 1970年7月18日、東京の空で起きたこと 光化学スモッグという言葉が日本中に広まるきっかけは、私がまだ1歳の頃の出来事でした。 1970年(昭和45年)7月18日、東京都杉並区。環七通りのすぐそばにある東京立正中学校・高等学校で、グラウンドで体育の授業を受けていた生徒43人が、目の痛みやのどの痛みを訴えて次々に倒れました。 原因はすぐには分かりませんでした。のちの東京都の調査で、自動車などから出た窒素酸化物が強い紫外線を浴びて化学反応を起こし、光化学オキシダントという別の物質に変わっていたことが判明します。日本で初めて確認された光化学スモッグの被害でした。 この日、体の異常を訴えた人は都内だけで5200人。隣の埼玉県でも407人にのぼりました。 以後、注意報は夏の風物詩のようになっていきます。全国の発表延べ日数は1973年(昭和48年)に328日でピークを迎え、1975年までの3年間は毎年250日を超えました。夏のあいだ、日本のどこかでほぼ毎日、誰かが「外に出るな」と言われていた計算になります。 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部 そしてその2年後の今日、7月24日。三重県四日市市。津地方裁判所四日市支部の法廷で、日本の空気の歴史を変える判決が言い渡されました。四日市公害裁判です。 四日市市の海沿いに、磯津という地区があります。1960年代、目の前の埋立地に巨大な石油コンビナートが次々と建ちました。煙突から出る煙には、硫黄酸化物——いわゆる亜硫酸ガスが大量に含まれています。1964年の磯津地区の二酸化硫黄の年平均濃度は0.075ppm。今の環境基準のおよそ4倍近い数字でした。住民は激しい咳と呼吸困難に苦しみます。これが四日市ぜんそくです。 1967年(昭和42年)9月1日、公害病と認定された患者と遺族あわせて12人が、コンビナートの6社を相手取って裁判を起こしました。 法廷で、企業側はこう主張します。 「どの煙突から出た煙が、誰のぜんそくを引き起こしたのか。それを立証できないのなら、我々に責任を問うことはできない」 煙は混ざり合い、風に流され、そこに境目などありません。たしかに手強い主張でした。 しかし判決は、これを退けます。 裁判所は、コンビナート各社の行為を共同不法行為と認定します。個々の煙突を特定できなくても、一体となって汚染を生んだ以上、責任は共同で負う。因果関係の立証も、疫学調査の結果で足りるとしました。 さらに判決は、企業に対してこう述べています。人の生命や身体に危険が及ぶと知り得る汚染物質を排出する以上、企業は経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員して防止措置を講ずるべきである。それを怠れば、過失は免れない——。 賠償額は8800万円あまり。被告6社は控訴を断念し、判決はそのまま確定しました。 イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市、熊本水俣病。四大公害裁判の三番目にあたるこの判決は、四つのなかで唯一、大気汚染を正面から裁いたものでした。 このとき私は3歳3か月。もちろん、何ひとつ知りません。 なぜ私は、「チカチカ」を知らずに済んだのか 判決の影響は、思いのほか早く現れます。 企業は総額1000億円ともいわれる費用をかけて排煙脱硫装置を整備し、三重県は全国で初めて硫黄酸化物の総量規制に踏み切りました。1973年(昭和48年)10月には公害健康被害補償法が成立します。 ここで正直に補足しておきます。四日市の煙突から出ていた硫黄酸化物と、東京の空をかすませた光化学スモッグは、じつは原因物質が違います。後者の主犯は自動車などから出る窒素酸化物でした。 けれど、四日市の判決が動かしたのは、一つの煙突ではありませんでした。「経済性を度外視してでも」と裁判所が迫ったあの論理は、そのまま自動車にも向かっていきます。1978年(昭和53年)4月、日本は当時世界一厳しいといわれた自動車排出ガス規制を実施します。いわゆる日本版マスキー法です。 このとき私は、小学3年生です。 つまり私の小学生時代の6年間は、ちょうど「日本の空が、ゆっくりきれいになっていく途中」でした。注意報はまだ夏の日常でしたが、いちばんひどい時期はすでに過ぎ、全国の発表日数は1980年代に入ると100日前後まで減っていきます。 私が「チカチカ」を知らずに済んだのは、私が丈夫だったからではないのでしょう。私が校内放送を聞き流して校庭に飛び出す何年も前に、四日市の患者さんたちが5年近くかけて裁判を戦い、その判決を受けた大人たちが、空を洗い始めていたからです。 もっとも、当時の私がそんなことを知るはずもありません。「公害」という言葉を知ったのは、学校の社会科の授業でした。教科書の中の、遠い場所で起きた出来事として。それが自分の外遊びの日数と地続きだなどとは、思いもしませんでした。 そして、7月24日生まれのカナリー・ガール 少し重たい話が続いたので、ここで一息つかせてください。 7月24日は、河合奈保子さんの誕生日でもあります。1963年(昭和38年)、大阪市生まれ。 1980年(昭和55年)、「第1回 ヒデキの弟・妹コンテスト」でグランプリを受賞し、同年6月1日に「大きな森の小さなお家」でデビュー。キャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」。同期は4月デビューの松田聖子さん、同じ6月の柏原よしえさん、岩崎良美さん。のちに「1980年組」と呼ばれる、アイドル黄金期の幕開けを飾った顔ぶれです。 そして私は、その中の奈保子さん一択でした。 まわりは圧倒的に松田聖子ファンが多かったので、その反発心から河合奈保子ファンになったのかな? 自分でもよくわかりませんが、一番の「推し」でした。 当時、アイドルグッズを売る店がありました。プロマイドも何枚も買いましたし、生写真も買いました。今の言葉でいうなら、なかなかのガチ勢です。 曲でいえば、「スマイル・フォー・ミー」ですね。 1981年(昭和56年)6月1日発売の5枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・馬飼野康二、編曲・大村雅朗。オリコン最高4位、26万枚。奈保子さんにとって初のトップ10入りで、この曲で年末の第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。ハート形のスマイルマークが付いた、あの特注のスタンドマイクを覚えている方も多いはずです。 この曲には、こんな逸話があります。もともとコンサートでだけ披露していた曲を、ファンの熱い要望に応えてレコード化したのだそうです。つまりあの曲は、客席にいた私たちのような子どもが、レコードにさせたことになります。 発売は1981年6月1日。私は小学6年生でした。 つまり、校内放送を聞き流して校庭へ飛び出していたあの夏と、まったく同じ夏の話なのです。 おわりに 今年の夏も、熱中症警戒アラートが何度も出ています。子どもたちは、あの頃の私たちとまったく同じように「今日は外に出るのはやめておきなさい」と言われている。 止められる理由だけが、入れ替わりました。昭和の子どもは「空気が汚いから」。令和の子どもは「暑すぎるから」。 けれど、決定的に違うことが一つあります。 私たちは、放送を聞き流して外へ飛び出すことができました。今の子どもたちには、それができません。アラートを無視して炎天下に出れば、本当に倒れてしまうからです。 そして私たちが平気でいられたのは、顔も名前も知らない誰かが、その何年も前に代わりに戦ってくれていたからでした。 1972年7月24日の判決文にあった、あの一節を思い出します。経済性を度外視してでも、世界最高の技術と知識を動員せよ——。半世紀以上前の裁判所が企業に突きつけたその言葉は、この暑すぎる夏空の下で読み返すと、まだ終わっていない宿題のように響いてきます。 ...

July 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月16日──私が生まれた年、人類は月へ向かった

昭和44年7月16日。世界初の有人月宇宙船「アポロ11号」が、アメリカ・フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 昭和44年生まれの私にとって、これは「同い年」の出来事です。とはいえ、当時の私は生後3ヶ月半。首がようやく据わったかどうかという赤ん坊ですから、当然ながら記憶にございません。 それどころか、白状してしまうと、私はアポロについて詳しく知らないまま50年以上を生きてきました。「アームストロング船長が月に降りた」「人類にとっては偉大な飛躍である、という名言」。知っているのは、せいぜいその程度。物心ついたときには月面着陸はすでに「歴史」であり、教科書の中の出来事だったのです。 今回、この記事を書くにあたって初めてアポロ11号のことを腰を据えて調べました。すると、これが面白い。知らなかったことだらけでした。今日は、55歳を過ぎてようやく「月への旅」を追体験した男の話に、しばしお付き合いください。 昭和44年7月16日、夜10時32分 まず驚いたのは、打ち上げの正確な時刻です。現地フロリダでは7月16日の午前9時32分。日本時間に直すと、同じ7月16日の夜10時32分でした。 つまり、日本では多くの家庭がテレビの前でこの瞬間を見ていたのです。NHKは夜9時45分から75分間の報道特別番組「アポロ11号発射」を放送し、視聴率は43.8%を記録したといいます。夜10時半に、国民の4割以上がロケットの発射を見守っていた。今では考えられない光景です。 発射場の周辺には推定100万人もの見物客が詰めかけ、打ち上げの様子は世界33ヶ国にテレビ中継されました。全長110メートルを超える巨大なサターンVロケットが、3人の宇宙飛行士――アームストロング船長、オルドリン、コリンズ――を乗せて、轟音とともに空へ昇っていく。 その夜、東京の下町・葛飾の片隅では、生後3ヶ月の私が寝ていたはずです。当時、我が家にテレビがあったかどうかは、今となっては確かめようがありません。ただ、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあります。 3歳くらいになって、いろいろなことが分かるようになった頃、父が私に何度もこう言ったのです。 「アポロ11号は人を乗せて月に着陸したんだぞ。すごいよな」 一度や二度ではありません。何度も、です。幼い私の記憶に刻み込まれるほど繰り返したということは、父にとってそれだけ強烈な出来事だったのでしょう。あの夜、あるいはあの昼、父もどこかでテレビの前に立っていたのかもしれません。 8年がかりの「月への競争」だった 調べてみて次に驚いたのは、アポロ11号が決して「順風満帆の一発成功」ではなかったということです。 始まりは昭和36年(1961年)。ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、宇宙開発競争でアメリカは完全に後れを取っていました。そこでケネディ大統領が打ち出したのが「1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、安全に地球へ帰還させる」という国家目標です。 しかし道のりは平坦ではありませんでした。昭和42年(1967年)にはアポロ1号が訓練中の火災事故で炎上し、3人の宇宙飛行士が亡くなっています。計画は一時中断。それでも8号で月の周回飛行を、10号で月面1万5000メートルまで接近する「予行演習」を積み重ね、ようやく11号で本番を迎えたのです。 ケネディ大統領の公約から8年。大統領自身はその実現を見ることなく世を去っていました。期限とされた「60年代」の残りは、あと半年もありません。まさに滑り込みの挑戦だったわけです。 日本中が見た「小さな一歩」 打ち上げから約4日後の7月21日(日本時間)、月着陸船「イーグル」が月の「静かの海」に着陸します。早朝5時18分のことでした。 そしてお昼前の11時56分、アームストロング船長が月面に第一歩を踏み下ろします。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――あの名言が生まれた瞬間です。 日本では平日月曜日の昼前。それなのに、NHKの中継の視聴率は68%に達したといいます。その日のうちに何らかの形で映像を見た人は、実に91%。学校でも職場でも、テレビのある場所に人が集まり、38万キロ彼方から届く白黒の映像に見入っていたのでしょう。 面白いのは、この年、日本の家電メーカーが「月面着陸をカラーで観よう」というキャッチコピーでカラーテレビを売り込んでいたことです。昭和44年のカラーテレビ生産台数は約483万台と、わずか4年前の48倍に跳ね上がりました。ところが肝心の月面からの映像は、機材の重量制限のため白黒だった。なんとも皮肉な話ですが、アポロが日本の茶の間のカラー化を後押ししたのは間違いなさそうです。 3人目の男と、持ち帰られた月 もうひとつ、調べていて心に残ったことがあります。月に降り立ったのは2人ですが、アポロ11号の乗組員は3人だったということです。 アームストロングとオルドリンが月面を歩いている間、司令船操縦士のマイケル・コリンズは、たったひとりで月の周回軌道を飛び続けていました。月の裏側に回れば、地球との交信も途絶えます。人類の歓喜の輪から38万キロ離れた場所で、静かに仲間の帰りを待つ。子供の頃に「月に降りた人」の名前だけを覚えていた私は、この3人目の男の存在をほとんど意識したことがありませんでした。野球で言えば、派手なホームランの裏で黙々と走者を進めるバントのような仕事です。歳を重ねた今だからこそ、この人に一番心を惹かれるのかもしれません。 2人は月面に約21時間半滞在し、およそ21キロの「月の石」を採取しました。3人を乗せた司令船は7月25日(日本時間)、太平洋に無事着水。ケネディの公約――月に人間を着陸させ、安全に地球へ帰還させる――は、ここで完全に達成されたのです。 そして持ち帰られた月の石は、翌昭和45年の大阪万博でも大きな話題になります。アメリカ館に展示された「月の石」(こちらは続くアポロ12号が持ち帰ったものだそうです)を一目見ようと、連日長蛇の列ができたという話は、私も後年何度も耳にしました。当時1歳の私はもちろん万博には行っていませんが、日本中が月に熱狂した時代の余韻は、その後の子供時代のそこかしこに残っていたように思います。 思えば、子供時代の私にとって「月」は、今よりずっと不思議で、特別な存在でした。 夜になると必ず空に現れる、大きくて明るいもの。手を伸ばしても絶対に届かない、遠い世界。「月にはうさぎがいて、おもちをついている」と本気で信じていました。その一方で、ウルトラマンや仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマトの影響から、「宇宙人がいる場所」「秘密基地がある場所」というイメージも重なっていました。満月はとてもきれいだけれど、夜遅くにひとりで見上げると少し怖い。「月の裏側には何かいるかもしれない」と想像したこともあります。 きれいで、不思議で、少し怖くて、でもずっと見ていたくなる特別なもの。そんな月に、本当に人が行ったのだと後にテレビや本で知ったときの驚きは、父のあの言葉と地続きだったのだと、今にして思います。 「同い年」として思うこと 先日の記事で、週刊少年チャンピオンが私と同じ昭和44年生まれだと書きました。創刊は7月15日。そしてその翌日の7月16日に、アポロ11号は月へ飛び立っています。私が生まれた年の7月は、少年漫画誌が産声を上げ、人類が月を目指した、そんな夏だったのです。 自分が赤ん坊だった頃の世界を、50年以上経ってから調べてみる。これはなかなか不思議な体験でした。両親がまだ30代だった頃の日本で、人々は夜10時半にテレビの前に集まり、ロケットの発射に固唾を呑んでいた。その熱気を、私は知りません。知らないけれど、その時代の空気の中で育てられたのだと思うと、アポロ11号が少しだけ「自分ごと」に感じられてくるのです。 最後に、余談をひとつ。地元・葛飾の北沼公園には、「月面歩行にチャレンジ!!」という掲示とともに「ムーンウォーカー」という遊具があります。バネの調節によって月面の6分の1の重力を疑似体験できるという、NASAの宇宙飛行士の月面歩行訓練機をもとに子供用に設計されたものだそうです。 アポロが月へ飛び立ってから半世紀以上。下町の公園では、今も子供たちが「月面」を歩いています。 夜、ふと月を見上げます。あそこに人類が立ったのは、私が生まれた年のことでした。 みなさんは、アポロ11号の記憶がありますか? リアルタイムで中継をご覧になった方も、私と同じように「歴史」として知った方も、よろしければ思い出をお聞かせください。 私がこの記事で追体験した「月への旅」を、絵と言葉でまるごと味わえるのがこの一冊です。打ち上げの轟音から、月面の静けさ、そして帰還まで。大人が読んでも胸が熱くなり、お孫さんに読み聞かせるにもちょうどいい。あの夏、人類が本当に月へ行ったのだと、あらためて教えてくれます。 月へ アポロ11号のはるかなる旅ブライアン・フロッカ作/日暮雅通訳(偕成社)。打ち上げから帰還までを、迫力の絵と詩のような文で描く絵本。世代を超えて読める一冊 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた | 次の記事:【7月17日】江夏豊、9者連続奪三振。私が生まれた2年後の「見ていない伝説」 ▶

July 16, 2026