【昭和の今日は何があった日?】7月14日──リカちゃんは、葛飾の子だった

7月14日、あの人形が生まれたとされる日 7月14日は、「リカちゃん人形」が発売された日とされています。1967年、昭和42年のことでした。ただ、正直に書いておくと、発売日には諸説あります。7月4日という説も、7月1日という説もあって、「今日は何の日」を紹介するメディアの中には、この7月14日を発売日として挙げているものがある、というのが正確なところです。ですから今日は、日付そのものよりも、この人形が生まれた昭和という時代と、私の家にあった一体のリカちゃんの話をさせてください。 そもそも私は、リカちゃんが発売された1967年には、まだこの世にいません。私が生まれたのは、その2年後の昭和44年、1969年の4月です。ですから、発売の瞬間を覚えているはずもありません。それでも私は、リカちゃんという名前を聞くと、はっきりと思い出す光景があります。我が家の畳の上に転がっていた、あの小さな人形。あれは私のものではありませんでした。妹のものでした。 タカラトミー本社(葛飾区立石)のショーウィンドウに並ぶ、いまのリカちゃんたち。ペットサロンにケーキショップ——時代は変わっても、女の子の憧れをぎゅっと詰め込む芸は健在だ バービーに負けない、日本の女の子のための人形 リカちゃんが生まれた背景には、一つの悔しさがあったといいます。昭和40年代のはじめ、着せ替え人形の売り場に並んでいたのは、アメリカ生まれのバービーをはじめとする、外国の顔をした人形たちでした。手足が長く、大人びていて、日本の子どもにとっては少し遠い存在です。 そこで玩具メーカーのタカラは、日本の女の子が本当に身近に感じられる人形を作ろうと考えました。まず、大きさ。当時すでに人気だった海外の人形に合わせてドールハウスを作ると、日本の狭い住宅には置き場所がなく、子どもが持ち運ぶこともできません。そこで人形そのものを、女の子の手のひらにすっぽり収まる身長21センチに設計しました。顔立ちは、当時の少女たちが夢中になっていた少女漫画のヒロインそのもの。大きな瞳に、星がひとつ。広告のイラストは漫画家の牧美也子さんが手がけました。 名前もよく考えられていました。「リカ」という響きは、日本人でも外国人でも通じるように選ばれたもの。少女漫画雑誌「りぼん」の誌上で名前を公募した、ということになっていますが、実際にはタカラ側が決めた名前だったといいます。本名は香山リカ。設定では小学5年生で、フランス人の音楽家のお父さんと、日本人でデザイナーのお母さんを持つ女の子でした。狭い日本の家に暮らす女の子が、人形を通して外国や華やかな世界を夢見られるように——そんな願いが、細やかな設定の一つひとつに込められていたのです。 この作戦は見事に当たりました。発売からわずか2年後の1969年、ちょうど私が生まれた年に、リカちゃんは日本国内の売り上げでバービーを追い抜きます。それ以来、リカちゃんは長く「着せ替え人形の女王」として君臨していくことになります。 面白いエピソードがあります。デビューした年、タカラに一本の電話がかかってきたそうです。「リカちゃんはいますか?」と、女の子からの電話でした。受けた女子社員が、子どもの夢を壊してはいけないと「こんにちは、私がリカよ」と応じたところ、その子は大喜び。リカちゃんとお話しできるという噂は口コミで広がり、やがて専用回線が敷かれて、翌1968年には「リカちゃん電話」が正式に開設されました。その声を長く担当したのは、のちにアニメ「アルプスの少女ハイジ」のハイジ役でおなじみになる杉山佳寿子さん。1997年まで、実に30年にわたって、リカちゃんは電話の向こうで女の子たちの話し相手をつとめたのです。人形が、ただの人形ではなく、女の子にとっての「お友だち」だった。その手の込みようには、今さらながら感心してしまいます。 「タカラ」は、葛飾の会社だった さて、ここからが、私にとって一番驚いた話です。このリカちゃんを生んだタカラという会社は、いったいどこにあったのか。調べてみて、思わず声が出ました。葛飾区です。私が生まれ育った、あの葛飾でした。 タカラの源流は、昭和30年、葛飾区の本田宝木塚町、今の宝町に生まれた小さなビニール工業所にさかのぼります。「タカラ」という社名も、この創業の地名からとられたものだそうです。その後、本社は青戸に移り、日本中の子どもを夢中にさせた数々のおもちゃを世に送り出していきました。空気でふくらむダッコちゃん、着せ替え人形のリカちゃん、家族で遊んだ人生ゲーム、手のひらでキュルッと走るチョロQ。そのどれもが、葛飾生まれだったのです。 とりわけ、リカちゃんより前の1960年に大ヒットした「ダッコちゃん」は、社会現象と呼べるほどの騒ぎを起こしました。腕にぶら下がる、あの黒くて愛らしいビニール人形です。一時は月に1000万個も作られたというのですから、当時の熱狂ぶりがしのばれます。ビニールを加工するその技術の蓄積があったからこそ、のちにリカちゃんという着せ替え人形が生まれた——そう考えると、葛飾の町工場が積み上げてきたものの厚みが見えてきます。 しかも、話はそれだけでは終わりません。のちの2006年、タカラは同じ葛飾の立石にあったトミーという会社と合併し、タカラトミーになります。トミーもまた、プラレールやトミカをつくってきた、葛飾を代表するおもちゃメーカーでした。つまり葛飾は、リカちゃんもプラレールも生み出した、まぎれもない「おもちゃのまち」だったのです。 葛飾区立石・タカラトミー本社の屋上看板。夏空に、あの青いロゴがよく映える 青戸も立石も、私の育った高砂と同じ葛飾区。京成線でつながる、ほんのご近所です。私が線路脇の家で、来る日も来る日も電車を見上げていたあの頃。同じ葛飾のどこかの工場では、たくさんのリカちゃんが生まれ、日本中の女の子のもとへと旅立っていたことになります。自分の遊んでいた街が、日本の子どもの夢をつくっていた——そう思うと、なんだか胸のあたりがくすぐったくなります。 妹のクリスマスと、ピンクの箱 我が家にリカちゃんがやってきたのは、あるクリスマスのことでした。妹が、プレゼントにリカちゃん人形と、着せ替え用のドレスを買ってもらったのです。そして妹は、それだけでは飽き足らなかったのでしょう。年が明けると、もらったばかりのお年玉を握りしめて、着せ替え用のドレスをさらに買い足していました。クリスマスにもらった人形のために、自分のお年玉をつぎ込む。今思えば、あれこそがタカラの狙いどおりの遊び方だったわけですが、当時の妹は、ただただ夢中だったのだと思います。 男の子だった私にとって、リカちゃんは完全な別世界でした。触ってみたいとも、うらやましいとも、思ったことは一度もありません。ピンク色のドレスや小さな靴は、同じ子ども部屋の中にありながら、まるで違う国の出来事のようでした。 なにしろ私には私で、夢中になっているものがあったのです。私もクリスマスプレゼントに買ってもらった記憶があります。「変身サイボーグ1号」と、確かキカイダーの着せ替えスーツでした。変身サイボーグ1号というのは、透明なボディの中に銀色のメカが透けて見える人形で、そこにウルトラマンや仮面ライダーといったテレビヒーローの「変身セット」を着せて遊ぶおもちゃです。仮面ライダーに始まる変身ブームの真っただ中、昭和47年に発売されて大ヒットしました。私はキカイダーのスーツを着せては脱がせ、着せては脱がせ、飽きることなく遊んだものです。 ——と、ここまで書いて、お気づきでしょうか。妹はリカちゃんにドレスを着せ、私はサイボーグにキカイダーのスーツを着せていた。やっていることは、まったく同じです。しかも、この変身サイボーグ1号を作っていたのは、どこの会社か。タカラです。リカちゃんと同じ、あの葛飾のタカラなのです。互いに「別世界」だと思い込んでいた兄と妹は、実は同じ葛飾生まれの着せ替え人形で、同じ遊びをしていたのでした。四十数年越しにこの事実に気づいたときは、思わず笑ってしまいました。 6000万体の、それぞれの物語 リカちゃんは、その後も時代に合わせて少しずつ顔立ちや設定を変えながら、令和の今日まで愛され続けています。これまでに世に送り出された数は、累計で6000万体を超えるといいます。6000万人の女の子が、それぞれのリカちゃんと、それぞれの物語を紡いできたということです。 そして、生みの親であるタカラトミーは、今もなお葛飾区立石に本社を構えています。おもちゃのまちの伝統は、令和になっても途切れていません。妹がクリスマスに抱きしめたあのリカちゃんも、そのうちの一体でした。名前も、フランス人のパパも、小学5年生という設定も、あの小さな体にぎゅっと詰まった夢も——すべては、私のご近所で生まれたものだったのです。 本社1階のショーウィンドウ。ベイブレードにポケモン、南葛SCのキャプテン翼まで——葛飾生まれの会社は、今も子どもたちの真ん中にいる 今になって思うことがあります。当時、私の身の回りにあったおもちゃは、意外と身近なところで生まれて、日本中へと広がっていたのですね。トミーのミニカー「トミカ」は立石。タカラのリカちゃんや変身サイボーグ、ミクロマンは青戸。そして、あのモンチッチを生んだセキグチも、西新小岩の会社です。調べてみれば、モンチッチが誕生したのは1974年、私が5歳のときのこと。線路脇で電車ばかり見上げていた葛飾の少年は、知らないうちに、日本中の子どもの宝物が生まれる場所のど真ん中で育っていたのでした。 みなさんの子ども時代、きょうだいや友だちが夢中になっていた「自分とは違う世界のおもちゃ」には、どんなものがありましたか。そして、そのおもちゃがどこで生まれたものだったか、考えてみたことはあるでしょうか。案外、みなさんのすぐ近くだったかもしれませんよ。 妹があの日抱きしめていたリカちゃんは、今も形を変えて、おもちゃ売り場の真ん中にいます。ドレスや小物のそろった定番のギフトセットは、お子さんやお孫さんへの贈り物にちょうどいい一箱。あの頃、妹や姉がリカちゃんに夢中だった——そんな方は、パッケージを眺めるだけでも、きっと何かを思い出すはずです。 リカちゃん ドール LD-01 だいすきリカちゃん ギフトセット(タカラトミー)ドレスや小物一式がそろった定番の入門セット。誕生から半世紀を超えて、いまも売り場の真ん中に Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月13日】少女Aが生まれた日、中森明菜と中学一年生の私 | 次の記事:【7月15日】ファミコンは買わなかった。でもチャンピオンは毎週読んでいた ▶

July 14, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026

6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった

六月二十二日。梅雨空の下、紫陽花が雨を含んで重たそうに揺れています。一年でいちばん日が長いころ。けれど私がこの日に思い出すのは、季節の風景よりも、自分の育った町の名前です。 昭和五十一年(一九七六年)のこの日、一冊の少年漫画雑誌に、ある読み切り漫画が載りました。タイトルは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。──そう、私の生まれ育った葛飾区が、まるごと題名になった漫画です。 もっとも、この読み切りが世に出たとき、私はまだ七歳。小学一年生になったばかりで、正直に言えば、この漫画をリアルタイムで読んではいませんでした。私と両さんが本当に出会うのは、もう少しあと――私が『週刊少年ジャンプ』を、毎週夢中でめくるようになってからの話です。 葛飾の派出所から、世界一の漫画が始まった 昭和五十一年六月二十二日に発売された『週刊少年ジャンプ』二十九号。そこに、「山止たつひこ」という名前の新人が描いた読み切り漫画が掲載されました。その年の四月期、月例の「ヤングジャンプ賞」に入選した一作です。これが、のちに四十年も続く国民的漫画『こち亀』の、世に出た最初の一歩でした。 作者は、当時二十三歳の秋本治さん。実は、ペンネームの「山止たつひこ」は、当時『がきデカ』で大人気だった漫画家・山上たつひこさんの名前をもじったものでした。「長い題名と、ちょっと変わった名前にすれば、審査員の目に留まるだろう」。そんな新人らしい工夫だったといいます(のちに山上さんご本人から「紛らわしい」と苦情が来て、連載百回目を区切りに本名へと改めることになります)。 そして秋本さんご自身が、東京都葛飾区の亀有で生まれ育った人でした。だからこの漫画の舞台は、絵空事ではありません。主人公の破天荒な巡査・両津勘吉――通称「両さん」が駆け回る亀有公園前の派出所は、作者が実際に過ごした下町そのものだったのです。読み切りの段階で、すでに両さんの相棒・中川圭一も顔を出していました。 読み切りの評判は上々で、同じ年の九月二十一日発売の四十二号から、いよいよ本格的な連載が始まります。当初は劇画に近いリアルな絵柄で、拳銃をぶっ放す両さんと中川の暴走ぶりが描かれ、いま読むと驚くほど過激です。けれど、その荒っぽさの底にいつも下町の人情があったことが、この漫画が長く愛された理由なのだと思います。秋本さんは「短期で終わるとばかり思っていた」とのちに語っていますが、両さんは誰の予想もはるかに超えて走り続けることになります。 その「世に出た最初の一歩」は、いまも一巻として手に取ることができます。リアルな絵柄の、過激で若々しい両さん。四十年の長い旅の出発点を、ぜひ一度のぞいてみてください。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 1(ジャンプコミックス)秋本治/集英社。すべてはこの一巻から始まった Amazonで見る › 私がジャンプを開いたのは、黄金時代だった 私が『週刊少年ジャンプ』を毎週読むようになったのは、昭和五十六年から六十年(一九八一〜一九八五年)ごろ。中学から高校へと向かう、いちばん多感な時期でした。そしてそれは、ジャンプがまさに「黄金時代」へと駆け上がっていく時期と、そっくり重なっていたのです。 思い出してみてください。表紙は『キン肉マン』か『北斗の拳』、巻頭カラーは『キャプテン翼』、ギャグのページには『Dr.スランプ』や『奇面組』、そして『キャッツ♥アイ』。そんな号が、ちっとも珍しくなかった。「ウォーズマン対ラーメンマン」も、「翼くんの全国大会」も、「アラレちゃんブーム」も、ケンシロウの「お前はもう死んでいる」も、ぜんぶリアルタイムで浴びるように読んでいました。いま思えば、なんと贅沢な少年時代だったでしょう。 正直に白状すると、私のジャンプの楽しみ方には、はっきりとした主役がいました。熱血バトルの『キン肉マン』、ハードな格闘の『北斗の拳』、スポーツものの『キャプテン翼』、そして笑いの『Dr.スランプ』。この四本が、私の「メイン」でした。 では『こち亀』はどうだったか。──正直なところ、私にとってこち亀は、一番のお目当てではありませんでした。けれど、こう言えます。「こち亀は、毎週必ず読む」。派手な主役たちの陰で、両さんのページだけは、どんなに忙しい号でも、必ず開いていたのです。爆発もしない、必殺技も出ない。ただ下町の派出所で、両さんがいつものように騒いでいる。その「いつもどおり」が、なぜか妙に落ち着くのでした。 そしてあの長いタイトルを目にするたび、心のどこかで思っていました。「これ、うちの葛飾の話なんだよな」と。 寅さんと両さんと、葛飾という町 ここで少し、私自身の地元の話をさせてください。 葛飾区には、もう一人、全国に知られた看板役者がいます。映画『男はつらいよ』の車寅次郎――「寅さん」です。寅さんの故郷・柴又は、私の暮らした京成高砂のすぐ隣。金町線でひと駅、帝釈天の参道はもう目と鼻の先でした。 実は秋本さんも、あの長いタイトルをつけた理由を、こんなふうに語っています。「『男はつらいよ』のおかげで、葛飾区は全国に知られていた。亀有は知らなくても、葛飾区はみんな知っているだろうと思った」と。つまり『こち亀』のあの長い題名は、先輩格の寅さんへの目配せでもあったわけです。 柴又の寅さん、亀有の両さん。下町の人情と、破天荒な可笑しさ。葛飾という小さな区が、二人もの国民的キャラクターを生んだ町だということを、私はいまでも少し誇らしく思っています。事実、平成二十四年(二〇一二年)、秋本さんは葛飾区の名誉区民となりました。そして同じ日に並んで表彰されたのが、ほかでもない『男はつらいよ』の山田洋次監督。寅さんと両さんが、肩を並べて顕彰されたのです。 四十年、一度も休まなかった 『こち亀』のすごさは、その「続いた長さ」にもあります。 昭和五十一年に始まった連載は、平成二十八年(二〇一六年)まで、実に四十年間。その間、『週刊少年ジャンプ』で一度も休載しませんでした。毎週毎週、両さんは派出所で騒ぎを起こし続けたのです。最終回は平成二十八年九月十七日発売号。単行本は、ちょうど二百巻できれいに完結しました。 この二百巻という数字は、「もっとも発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として、ギネス世界記録に認定されました(令和のいまは『ゴルゴ13』に記録を譲りましたが、その後の二〇二一年に、新たに二百一巻が刊行されています)。累計の発行部数は、一億五千万部を超えるといいます。 漫画だけではありません。連載開始のわずか翌年、昭和五十二年には早くも実写映画になり、平成八年(一九九六年)から平成十六年(二〇〇四年)まではフジテレビでテレビアニメが放送されました。日曜の朝、ラサール石井さんの声で「両さん」が動き回るのを覚えている方も多いでしょう。葛飾の派出所から始まった物語は、紙の上を飛び出して、お茶の間にもしっかり住み着いていたのです。 ここで、ふと思うのです。少年時代の私が夢中になった「メイン」――キン肉マンも、北斗の拳も、キャプテン翼も、Dr.スランプも、それぞれの名場面を残して、いつしか連載を終えていきました。ところが、私が「サブ」だと思って、けれど毎週必ず読んでいた両さんだけは、平成の終わりまで走り続けた。いちばん派手だった主役たちより、いちばん「いつもどおり」だった脇役のほうが、ずっと長く生き残ったのです。あのころ、私はそんな未来を、まったく想像していませんでした。 私が小学一年生だった年に始まった漫画が、私が四十七歳になるまで、ずっと同じ雑誌で続いていた。あらためて考えると、これはとんでもないことです。両さんは、昭和と平成を、まるごと走り抜けていったのでした。 令和のいま、亀有の駅前で いま、亀有の駅前に立つと、あちこちに両さんの銅像が立っています。元気よく右手を挙げた両さん、ベンチに腰かけた両さん……全国からファンが訪ねてくる、すっかり「聖地」になりました。漫画の中の派出所が、現実の町の誇りになったのです。 その銅像を見るたびに、私は不思議な気持ちになります。 子どものころ、毎週少年ジャンプを開けば、当たり前のようにそこにいた両さん。テレビをつければ、アニメでも活躍していました。その両さんが、いま自分の目の前に、銅像となって立っている。もちろん漫画の主人公なのですが、亀有ではまるで、本当にこの町で暮らしていた人のような存在です。 私は葛飾という町に縁があります。だからこそ、全国の人が「亀有」と聞いて真っ先に思い浮かべるのが『こち亀』であり、両さんであることが、少し誇らしいのです。 考えてみれば、漫画やドラマの舞台になる町は数多くあります。けれど、何十年も連載が続き、世代を超えて親しまれ、その主人公の銅像が町のシンボルになっている例は、そう多くありません。 両さんの銅像の前に立つと、昭和のころの記憶もよみがえります。商店街のにぎわい。駄菓子屋。自転車で走り回る子どもたち。ジャンプを買って、夢中で読んだ放課後。そんな時代の空気が、両さんの後ろに見えるような気がするのです。 地元が漫画やドラマで取り上げられるというのは、ただ有名になるということではないのだと思います。その作品を通じて、その町で暮らした人々の思い出や風景が、多くの人の記憶の中に残るということ。 亀有と聞けば、両さんを思い出す人がいる。柴又と聞けば、寅さんを思い出す人がいる。それは葛飾という町が、日本中の人々の心の中に生き続けている、ということでもあります。 両さんの銅像を見上げながら、私はそんなことを考えます。少年時代に読んだ漫画の主人公が、いまも変わらず地元の駅前で笑っている。それは何とも言えない懐かしさと、少しの誇らしさを感じさせてくれる風景なのです。 おわりに あなたの町にも、漫画やドラマ、歌の舞台になった場所はありますか。そして、その作品と初めて出会ったときのことを、覚えているでしょうか。 両さんのように、何十年も変わらずそこにいてくれる「町の顔」は、私たちの記憶のいちばん柔らかいところに、そっと住み着いているのかもしれません。 ※この「昭和の今日は何があった日?」シリーズは、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、その時代に子ども時代を過ごした私の目線でつづっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった | 次の記事:6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった ▶

June 22, 2026

6月21日 ── 京成・都営・京急がつながった日、私はまだ生まれていなかった

六月も後半に入ると、空がぐずついて、空気がねっとりと重たくなってきます。一年でいちばん昼が長い、夏至のころ。傘を片手に駅へ向かう人の足取りも、どこか急いて見える季節です。 私が育ったのは、葛飾区の高砂という町です。最寄りは京成高砂駅。ここは、ただの駅ではありません。京成本線と押上線、それに金町線が分かれていく結節点で、すぐそばには電車をしまっておく大きな車庫——高砂検車区があります。線路が何本も並び、色とりどりの電車が、出たり入ったりする。子どもにとっては、これ以上ない景色でした。 そう、私の町は「電車の街」でした。 踏切の音で、時間を計っていた 六歳ごろまで、私は高砂駅のすぐそば、線路沿いの家で暮らしていました。だから、電車の走る音だけでなく、駅に流れるアナウンスや、笛の音まで聞こえてきました。電車は、それくらい身近な存在だったのです。一歩家を出れば、すぐ目の前を電車が走っている——そんな環境でした。 特に私が好んで電車を見ていたのは、駅の踏切のそばはもちろんですが、家のそばにあった、線路をまたぐ歩道橋からでした。そこからの開けた眺めと、絶え間なく行き交う電車を見ていると、飽きることはありませんでした。 いま思えば、保育園児が、柵があったとはいえ、たった一人で線路沿いをふらふらと出歩いている。なんとものんびりとした、呑気な時代だったのですね。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず見上げていた電車たちが、どこから来て、どこへ向かっていたのか。当時の私は、もちろん何ひとつ知りませんでした。 昭和四十三年六月二十一日 ── 三つの会社が、一本につながった日 さて、今日は六月二十一日です。 昭和四十三年——西暦でいえば一九六八年のこの日、東京の地下で、ひとつの「輪」が完成しました。 都営地下鉄一号線、いまの都営浅草線の、大門と泉岳寺のあいだが、新しく開業しました。同じ日に、京浜急行の品川と泉岳寺のあいだも開業して、京急と都営地下鉄が線路でつながり、相互直通運転——おたがいの電車が、相手の線路へ乗り入れる運転が始まったのです。 これが、どれほど大きなことだったか。 押上から先は、京成電鉄が千葉方面へと延びています。そして泉岳寺から先は、開業したばかりの京急が、神奈川の三浦半島の方へと延びていく。つまりこの日、千葉から東京の都心を貫いて神奈川まで、三つの会社の線路が一本につながりました。乗り換えなしで、県をまたいで走れる長距離の直通運転が、現実のものになった瞬間でした。 じつは、京成電鉄と都営一号線の直通そのものは、もっと前から、少しずつ始まっていました。昭和三十五年の十二月、押上と浅草橋のあいだが開業したときに、京成の電車はもう、都営の地下へ乗り入れはじめていたのです。そこから線路は一駅、また一駅と南へ延び、昭和三十九年の十月に、大門まで届きました。 この工事には、いかにも昭和らしい逸話があります。地下鉄の建設が始まったのは昭和三十三年。ところが昭和三十九年の東京オリンピックに向けた工事を優先するため、途中でいったん中断されたのです。世界に向けて東京の姿を整えることが、何より先だった時代でした。オリンピックが終わってから工事は再び動き出し、最後に残った泉岳寺までの区間と、京急との接続にたどり着きます。品川と泉岳寺をつなぐ、わずか一・二キロ。それが五年がかりの難工事だったというのですから、ひとつなぎのために、どれほどの汗が流されたか知れません。ちょうどこの年は、京急が創立七十周年を迎える、節目の年でもありました。 ちなみに、三つの会社の電車が、おたがいの線路を走り通せるのは、レールの幅——軌間がそろっているからです。京成も、都営浅草線も、京急も、新幹線と同じ広い軌間で造られている。だからこそ、会社の枠を越えて、一本の電車が走っていけるのです。 電車の乗り入れそのものは、開業の六日前、六月十五日から始まっていたそうです。この六日間は試運転の期間で、大門と品川のあいだを、お客を乗せない電車が、静かに行き来していました。そして六月二十一日、いよいよ本番を迎えます。なお、都営の地下鉄が西馬込まで全線そろうのは、この年の十一月のこと。ですから六月二十一日は、「全線開通の日」というよりも、「三つの会社の電車が、はじめて一本に手をつないだ日」と呼ぶのが、ふさわしいように思います。 おもしろいのは、この直通の道が、いまでこそ成田空港への大切なルートになっているのに、つながった昭和四十三年の時点では、その成田空港が、まだ影も形もなかった、ということです。空港が開港するのは、これより十年もあとの昭和五十三年。つまりこの線路は、行き先となる空港が生まれるよりも先に、ちゃんと用意されていたことになります。道が先にあって、人やものが、あとからその上を流れはじめる。鉄道というのは、そういう気の長い、先回りの仕事なのだと、あらためて思わされます。 私が生まれる前の年に、道はもうつながっていた ここで、ひとつ、正直に書いておかなければならないことがあります。 私は、この日のことを覚えていません。覚えているはずがありません。私が生まれたのは、その翌年——昭和四十四年の四月だからです。三つの会社の線路が一本につながったとき、私はまだ、この世にいませんでした。 不思議な気持ちになります。 あの歩道橋の上で、私が飽きもせず電車を見上げていたとき、その電車たちが走っていく道は、私が生まれる前の年に、もう出来上がっていたのです。子どもの私は、そんなことは、何ひとつ知りませんでした。電車はただ、空気や水のように、当たり前にそこにありました。当たり前すぎて、それが誰かの五年がかりの難工事の上に成り立っているなんて、想像もしませんでした。 私はいま、路線バスの運転士として、人を乗せて街を走っています。乗り物で人を運ぶというのは、地味ですが、誰かの一日を、誰かの人生を、たしかに前へ動かしている仕事です。バスのハンドルを握りながら、ときどき思います。子どものころ眺めていたあの電車たちも、こうして毎日、誰かの暮らしを運んでいるのだなと。 当たり前にそこにある道は、誰かが汗をかいて、つないでくれた道です。それに気づくのに、私はずいぶん長い時間がかかりました。 令和のいま、その道は二つの空港をつないでいる あの日つながった三社の直通は、いまもしっかりと生きています。それどころか、昭和の人が見たら驚くような姿になりました。 いまでは、この直通ルートは、羽田空港と成田空港という、二つの空の玄関口を結ぶ大動脈になっています。神奈川の三崎口から、京成線を経由して成田空港の方まで直通する電車の距離は、なんと百四十一・六キロにもなるそうです。東京から静岡のあたりまで、乗り換えなしで一本。昭和四十三年に泉岳寺で手をつないだ三つの会社の線路は、半世紀をかけて、ここまで遠くへ伸びていきました。 高砂の車庫をのぞくと、いまでも、赤い京急の電車が、京成の車庫に、当たり前のような顔をして停まっていることがあります。会社のちがう電車が、同じ屋根の下で肩を並べている。あの六月二十一日につながった輪が、半世紀以上たったいまも、こうして目の前で静かに回り続けているのだと思うと、なんだか胸が温かくなります。 思えば、あの歩道橋の上の私は、来る日も来る日も、その「輪」が回っているところを眺めていたのです。京成の電車にまじって、よその会社の電車が走っていく。子どもの私には、それがどれほど大きな出来事の続きなのか、わかるはずもありませんでした。ただ、いろんな色の電車が来るのが、うれしかった。本当に、それだけでした。でも、その「うれしい」を毎日くれていたのは、たしかに、あの日つながった三つの会社の線路だったのです。 高砂の駅には、いまも私の子どもたちが乗り降りしています。私が見上げていたのと同じ車庫の電車を、子らもまた、当たり前の景色として見ているのでしょう。その電車が走る道が、いつ、どんなふうにつながったのか——たぶん、知らないままに。 あの日、踏切で見上げたスカイライナーは、いまでは手のひらの上でも走らせられます。子や孫と、畳の上に線路をつないで、あの銀色の車体を走らせる。私が歩道橋から眺めていた景色を、こんどは小さな手といっしょに、もう一度たどってみるのも、いいものです。 プラレール S-54 京成スカイライナー AE形タカラトミー/あの踏切で見た銀色の車体。子・孫と畳の上で走らせる一台 Amazonで見る › それで、いいのだと思います。当たり前にそこにあることこそが、つないでくれた人たちへの、いちばんの恩返しなのかもしれませんから。 あなたの町には、「当たり前にそこにあるけれど、じつは誰かが汗をかいてつないでくれた道」はありますか。電車でも、橋でも、坂の上の階段でも。今日はひとつ、思い出してみませんか。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一篇です。昭和四十年から六十四年までの「今日」を、高砂で育った一人の子どもの目線で、少しずつ書き残しています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月20日 ── テレビの「向こう側」だったNHKホールに、息子と立った日 | 次の記事:6月22日 ── 両さんの亀有は、私の育った葛飾のすぐ隣だった ▶

June 21, 2026

6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と

朝、玄関の戸を開けて、湿った土の匂いがふっと鼻に届くと、ああ、梅雨が来たな、と思います。きょう六月十一日は、暦の上の「入梅」。立春や八十八夜と同じ雑節のひとつで、梅の実が熟す頃に降る雨だから「梅雨」、その入り口だから「入梅」です。いまは気象庁が「梅雨入りしたとみられます」と発表してくれますが、昔の人は暦のこの日を境に、およそ三十日間を梅雨と心得ていたのだそうです。令和八年は、ちょうどきょうが暦の上の入梅にあたります。そこから六月十一日は「傘の日」という記念日にもなっています。 そしてもうひとつ。昭和四十七年(一九七二年)のこの日は、当時通産大臣だった田中角栄が、あの『日本列島改造論』を発表した日でもあります。 傘と、列島改造。一見なんのつながりもない二つですが、どちらも昭和の雨の日の風景の、すぐそばにあったものです。きょうは梅雨入りの朝にふさわしく、雨の話から始めさせてください。 雨の日の通学路 子どもの頃の梅雨は、いまよりずっと長く感じられました。 私が育った高砂のあたりは、当時はまだ木々の生い茂った空き地があちこちに残っている町でした。梅雨どきの雨の日に歩いていると、ブロック塀や草むらのそこかしこに、カタツムリやアマガエルの姿を頻繁に見つけることができたものです。アスファルトとコンクリートばかりになったいまの高砂からは、ちょっと想像がつかないかもしれません。 登校の途中でカタツムリを捕まえて、そのまま教室に持ってくるクラスメイトもいましたね。雨の日の教室の窓際で、誰かの筆箱の上をのんびり這っていくカタツムリ。あのカタツムリたちがその後どうなったのか、いまとなっては知るよしもありませんが、雨の日にしかない、あの小さなにぎわいだけは妙に記憶に残っています。 学校に着くころには、靴下のつま先がじっとり湿っている。教室の後ろにずらりと並んだ傘から、ぽたぽたと水が垂れて、廊下に細い川をつくる。雨の日の小学校には、あの独特の、濡れた布と土埃の混ざったような匂いがありました。 ビニール傘は、東京の下町生まれ ところで、いまや日本の雨の日の象徴のようになっているビニール傘。あれが東京の下町で生まれた発明品だということを、ご存じでしょうか。 つくったのは、江戸の享保年間から続く老舗の傘問屋「武田長五郎商店」、いまのホワイトローズという会社です。もとは煙草の商いから始まり、煙草を湿気から守る油紙で雨合羽をこしらえて雨具屋に転じ、大名行列の雨具まで納めたという、筋金入りの「雨」の家系。戦後すぐの傘は綿の布張りが主流で、雨に濡れると染料が溶けて色落ちし、服にシミをつけてしまうのが悩みの種でした。そこに目をつけた九代目が、進駐軍の持ち込んだ「ビニール」という新素材で、傘にかぶせる防水カバーをつくった。これが昭和二十八年(一九五三年)に大当たりします。 やがてナイロン傘の登場でカバーが売れなくなると、今度はビニールそのもので傘をつくってしまえと、昭和三十三年(一九五八年)、世界初のビニール傘を完成させました。昭和三十九年(一九六四年)の東京オリンピックで来日したアメリカのバイヤーの目にとまり、海を渡っていったといいますから、たいしたものです。 いまやコンビニのレジ脇に当たり前のように並ぶビニール傘。その元祖は、東京・下町の老舗傘問屋が昭和三十三年(一九五八年)に世に送り出した、世界初の発明品だった。(Photo: KKPCW / CC BY-SA 4.0) 余談をひとつ。昭和五十五年(一九八〇年)ごろ、この会社はある都議会議員から「顔が見える透明で丈夫な傘がほしい」と頼まれます。雨の日の街頭演説で、黒い傘は聴衆に圧迫感を与えるが、透明な傘なら表情が伝わるし、庶民的に見える、というのです。こうして生まれた選挙用の頑丈なビニール傘は、口コミで議員たちの間に広まったのだとか。選挙カーの上の透明な傘に、そんな来歴があったとは。 私が子どもだった昭和五十年代、ビニール傘はまだいまほど「使い捨て」のものではなかったように思います。透明な傘越しに見上げる雨空が、布傘の下より少しだけ明るかったこと。あの感じは、昭和の発明がくれた小さな贈り物だったのかもしれません。 三歳の私の頭の上で、日本が変わり始めた さて、もうひとつの六月十一日。昭和四十七年(一九七二年)のきょう、田中角栄が『日本列島改造論』を発表しました。 新幹線と高速道路で日本中を結び、太平洋側に集まりすぎた工場を地方に移して、東京の過密と地方の過疎を一気に解決する──そんな大風呂敷の構想です。当時の東京は、人口の三割が国土の一パーセントに住むといわれた超過密状態。発表の翌月には田中は総裁選を制して総理大臣になり、本は九十一万部を超えるベストセラーになりました。政策の本がその年の売り上げ四位に入ったというのですから、当時の熱気がうかがえます。 『日本列島改造論』を引っさげ、昭和四十七年(一九七二年)七月、総理大臣の座に駆け上がった田中角栄。新潟の寒村から身を起こした「今太閤」の描いた構想は、日本中を熱狂させた。(Photo: 首相官邸ホームページ / CC BY 4.0) このとき私は三歳。本の中身など知るよしもありません。けれど、いま振り返ると、私が子ども時代を過ごした昭和四十年代の終わりから五十年代の町には、たしかに、いつもどこかで工事の音がしていました。 なかでも印象に残っているのが、環状七号線──環七の工事です。 いまでこそ環七は当たり前のように中川を渡っていますが、私の小学生時代、あの橋はまだ存在しませんでした。環七は中川で分断されていて、青戸側と高砂側を行き来するには、けっこうな迂回を強いられたものです。その「最後の切れ目」をつなぐ橋の工事が、ちょうど私の小学生時代に進められていたのでした。 橋の名は、青砥橋。青戸二丁目と高砂一丁目を結ぶ、長さ六百四十メートル余りの長大橋です。昭和五十四年(一九七九年)の秋に工事が始まり、完成は昭和六十年(一九八五年)一月。私が中学三年の冬のことです。そして実は、この青戸から奥戸にかけての区間こそ環七で最後まで残っていた未開通区間で、青砥橋の完成によって、環七は計画からおよそ五十八年をかけて、ようやく全線がつながったのでした。子どもの頃に毎日眺めていた工事現場が、東京の大動脈の「最後のひと筆」だったとは。 中川をまたいで青戸と高砂を結ぶ青砥橋。スカイツリーを背に、ゆるい弧を描いて伸びている。当たり前のように渡っているこの橋が完成して、環七はようやく一本につながった。 いま車で渡ると、意外と登るな、と感じるゆるい坂。歩いてみると、想像よりずっと長い。そして橋の上から見おろす中川は、下町の空が広く感じられて、なかなかの抜け感があります。高砂側から青砥駅の方へ向かうときの目印にもなっていて、すっかり生活の一部です。当たり前のように渡っているこの橋が「なかった」頃の町を知っている、というのは、考えてみれば不思議な感覚ですね。 列島改造論が環七をつくったわけではありません。環七の計画自体は戦前にまでさかのぼります。それでも、日本中を道路と橋でつなごうという、あの時代の大きなうねりの末端が、私の町の、あの工事現場だったのだと思います。子どもの頃の耳に残る槌音は、日本がまだ「建設中」だった時代の音でした。 もっとも、列島改造の構想は土地の投機を呼んで地価が跳ね上がり、オイルショックと重なって「狂乱物価」と呼ばれるインフレを招くことにもなりました。茶の間で大人たちが顔を曇らせていた「物価が上がる」という言葉の出どころが、まさかこの日の発表にあったとは。子どもの私は、知るはずもありませんでした。 令和の雨の日に いまの東京で雨が降ると、駅前はビニール傘の花畑になります。コンビニで数百円。壊れたら、買い替える。あの下町の傘問屋が手塩にかけて生んだ発明は、皮肉なことに「いちばん粗末に扱われる傘」の代名詞にもなってしまいました。 それでも私は、透明な傘を差して見上げる梅雨空が、嫌いではありません。雨粒がビニールを叩く音は、昭和の雨の日と、たいして変わらないのですから。 みなさんは、子どもの頃の雨の日に、どんな思い出がありますか。お気に入りの傘の色、長靴の中に入ってしまった雨水の冷たさ、通学路で見つけたカタツムリ、そして、いつのまにか町から消えていった空き地のこと──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う | 次の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 ▶

June 11, 2026

ドライブシュートだぁぁぁ ― ワールドカップ前夜に、四つ木と『キャプテン翼』を思う

明日、ワールドカップが開幕する 明日、二〇二六年六月十一日。北中米の三か国――アメリカ、カナダ、メキシコを舞台に、ワールドカップが開幕する。三つの国にまたがって行われるのは大会史上はじめてのことで、出場国はこれまでで最多の四十八か国にまでふくらんだ。開幕戦の地は、メキシコシティ。あの伝説的なスタジアム、エスタディオ・アステカに、世界中の目が集まる。 そして、私たちの日本代表も、当然のようにそこにいる。八大会連続、八度目の出場である。グループステージの初戦も、開幕からほんの数日後に控えている。眠い目をこすりながら、夜中や明け方にテレビの前に陣取る――そんな夏が、また始まろうとしている。 ――「当然のように」と書いて、ふと手が止まった。本当に、当然なのだろうか。少なくとも私が少年だったころの日本にとって、ワールドカップという舞台は、月の裏側のように遠い、手のとどかない場所だった。テレビの中の、よその国のお祭りだった。それが今では、出ていることに誰も驚かない。この四十年あまりで、私たちはずいぶん遠くまで来たものだと思う。 野球少年が、ボールを持ち出した日 時間を、その四十年あまり巻き戻したい。 一九八三年(昭和五十八年)十月十三日。木曜日の夜、テレビ東京系で一本のアニメがはじまった。『キャプテン翼』である。原作はその二年前から週刊少年ジャンプで連載がはじまっていたが、動いて、しゃべって、必殺シュートを放つ翼くんたちを茶の間で見たときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。汗くさい根性ものとはまるで違う、明るくて、爽やかで、空までボールが飛んでいきそうな世界だった。 そのとき私は十四歳、中学二年生。野球一筋の、バリバリの野球少年だった。バットを振り、白球を追うことしか頭になかった少年が、たった一本のアニメに足もとをすくわれた。サッカーである。野球少年でありながら、私はすっかりサッカーに夢中になってしまった。 思えば、あの作品にはずるいくらいの魅力があった。重力を無視したようなドライブシュート、二人で放つツインシュート、そして地を這うようなタイガーショット。スポーツの「正しさ」よりも、少年の「こうだったらいいのに」を真ん中に置いた世界。野球で鍛えた負けん気が、そっくりそのままサッカーへ流れ込んでいくのに、時間はかからなかった。 困ったのは、サッカーボールなど持っていなかったことだ。そこで私は、部活が終わったあと、こっそりと学校のサッカーボールを持ち出した。そして帰り道の途中にある空き地で、野球のユニフォーム姿のまま、ボールを蹴った。胸には野球部の誇り、足もとには翼くんへの憧れ。今思えば、なんともちぐはぐな格好だったろう。 それでも、私は本気だった。あるときは大空翼になり、あるときは岬太郎になり、あるときはライバルの日向小次郎になりきった。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と叫びながらボールを蹴り上げ、「タイガーショット!!」と、一人で実況までつけた。極めつけは帽子だ。野球少年のくせに、私はゴールキーパー・若林源三と同じアディダスの帽子をかぶっていた。野球帽ではなく、である。あのころの私の頭の中では、グラウンドとサッカー場の境目が、もう溶けてなくなっていたのだと思う。 そしてこれは、私だけのことではなかったはずだ。あの放送がはじまってから、全国の公園や空き地は、ボールを追う少年たちであふれかえった。それまで野球少年ばかりだった日本の原っぱの景色を、一本のアニメが塗り替えてしまったのだ。今の日本サッカーの土台には、あのとき足もとを変えられた、数えきれない少年たちがいる。私も、その末席に、確かにいた。 翼くんは、葛飾の子だった 大人になってから知って、思わず膝を打ったことがある。『キャプテン翼』の作者・高橋陽一先生が、私の暮らす葛飾区の、それも四つ木の出身だということだ。 作中で翼くんが所属するチーム「南葛」。この名前は、高橋先生の母校である東京都立南葛飾高校の略称からきているという。物語の舞台そのものはサッカー王国・静岡をイメージしているそうだが、その名前のルーツは、まぎれもなく、私たちの葛飾にあったのだ。テレビの向こうのまぶしい世界が、実はすぐ隣町とつながっていた。そう知ったときの、くすぐったいような誇らしさは、今でもうまく言葉にできない。 その縁もあって、今の四つ木界隈は、すっかり「キャプテン翼の街」になっている。京成電鉄の四ツ木駅は翼くんたちの名場面で彩られ、駅を出れば、高橋先生監修のキャラクター銅像が、四つ木・立石の各所に九体も点在している。最初の大空翼像が四つ木つばさ公園にお披露目されたのが二〇一三年。地元には作中と同じ名を冠したサッカークラブ「南葛SC」も生まれ、毎年一月には「キャプテン翼CUPかつしか」という大会まで開かれている。漫画の中の南葛が、現実の葛飾の街へと、ゆっくり染み出してきたようなものである。 九体の銅像を、走って巡った そして今日、二〇二六年六月十日。ワールドカップ開幕の前日に、私は仕事の休憩時間を使って、九体すべてをランニングで巡ってきた。名づけて「キャプテン翼銅像コンプリートラン」。総距離は、およそ七キロである。 出発は、翼くんたちの装飾でいろどられた京成・四ツ木駅。駅前のポケットパークに立つ石崎了から走り出し―― 四つ木公園の日向小次郎、 四つ木つばさ公園の大空翼、 めだかの小道のロベルト本郷と翼――このあたりは住宅街で信号も少なく、足が気持ちよく前へ出た。 葛飾郵便局前の中沢早苗、 渋江公園の岬太郎を過ぎると、道はいよいよ立石エリアへ。 下町の商店街の匂いの中を進み、立石みちひろばで若林源三と再会したときには、思わず足が止まった。中学のころ、野球少年のくせに、わざわざ同じアディダスの帽子をかぶっていた、あの守護神である。 そして奥戸街道を東へ。最後にたどり着いたゴールは、南葛飾高校の前に立つ、ツインシュートの翼像だった。 走り終えて、はっとした。出発点は翼くんの装飾に包まれた駅、そして終着点は、「南葛」という名前そのものが生まれた高校の前。私はこの七キロで、知らず知らずのうちに、物語の名前の故郷まで走り着いていたことになる。よくできた円環だと、一人で妙に感心してしまった。 走りながら、おかしくなって、つい笑ってしまった。四十年あまり前、放課後の空き地まで、こっそり持ち出したサッカーボールを抱えて走っていったあの少年が、今は仕事の合間に、同じ葛飾の路地を、銅像を追いかけて走っている。格好こそ違え、やっていることはちっとも変わっていない。翼くんに会いに行くためなら、私はいつだって走り出してしまうらしい。 あの空き地で、私が一人何役もこなして「なりきって」いた翼も、岬も、小次郎も若林も、今は確かなかたちを与えられて、私の暮らす町に立っている。憧れて真似していたヒーローたちの足もとに、五十代も半ばを過ぎた私が、息を切らせて立つ。なんだか、長い夢の続きの中を走っているような心地だった。 その『キャプテン翼』も、二〇二五年の春、四十三年にわたる長い連載に幕を下ろした。私が中学二年で出会った翼くんは、私が還暦を前にするまで、ずっとどこかで走り続けていたことになる。今日、銅像となって動かない翼くんの前に立っても、不思議と「終わった」という感じはしなかった。むしろ、ここから先はきみたちを見てきた私たちが走る番だ、とでも言われているような気がした。 「ワールドカップ」という、かつての夢のゴール 最初の翼像の除幕式で、高橋先生はこんなことを語っていたという。この作品のゴールは、大空翼がワールドカップの舞台に立ち、そこで活躍することだ、と。 このひとことに、私はしばらく胸を掴まれた。 考えてみてほしい。翼くんがテレビの中を駆け回っていたあのころ、現実の日本代表は、ワールドカップに一度も出たことがなかった。ワールドカップで活躍することなど、漫画の中だけの、それこそ翼くんの夢物語だったのだ。空き地でドライブシュートを蹴っていた野球少年の私も、まさか自分が生きているうちに、日の丸を背負った選手たちが本当にあの舞台に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。 それが、どうだろう。今や日本代表は八大会連続の出場を果たし、選手たちは「ワールドカップ優勝が目標」と、ためらいなく口にする。そして私たち国民も、「もしかしたら」と、本気で期待してしまう時代になった。翼くんがひたむきに追いかけた夢のゴールに、現実のほうがいつのまにか追いつき、いまや肩を並べ、追い越そうとさえしている。漫画が現実の先を走り、現実が必死にそれを追いかけ、そしてとうとう手が届いた。これは、本当に、すごいことだ。 明日、開幕の笛が鳴る。テレビの前に座るとき、私はきっと、今日めぐった九体の銅像を――そしてその向こうに、あの空き地で、野球のユニフォームのままボールを蹴っていた十四歳の自分を思い出すだろう。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と、誰もいない原っぱで叫んでいた、あの少年を。あの少年に、教えてやりたい。きみが夢中で真似していたあの夢物語は、いつか本物になるんだよ、と。そして四十年あまり経っても、きみはやっぱり、翼くんを追いかけて走っているよ、と。 あなたには、サッカーにまつわる「あのころの夢」が、ありますか。 【コースガイド】キャプテン翼銅像コンプリートラン(約7km) 最後に、今日走ったコースを記しておきます。葛飾の下町を巡りながら、翼くんたちに会える約7キロ。走ってみたい方は、ぜひ。 スタート:京成四ツ木駅(駅前のラッピング・翼の装飾を見てから出発) ① 石崎了像 ― 四ツ木駅前ポケットパーク(駅から徒歩1分) ② 日向小次郎像 ― 四つ木公園(平和橋通りを北へ/約300m) ③ 大空翼像 ― 四つ木つばさ公園(北東方向へ/約450m) ④ ロベルト本郷&翼像 ― めだかの小道(木根川中央公園方向へ/約500m) ⑤ 中沢早苗像 ― 葛飾郵便局前(約350m) ⑥ 岬太郎像 ― 渋江公園(平和橋通り方向へ/約900m) ⑦ 翼〈ヒールリフト〉像 ― 立石一丁目児童遊園(約800m) ⑧ 若林源三像 ― 立石みちひろば(京成立石駅方面へ/約900m) ⑨ 翼〈ツインシュート〉像 ― 南葛飾高校前(奥戸街道を東へ/約1.3km) ゴール! ...

June 10, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

June 8, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報

六月六日になりました。 この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。 この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。 なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。 それが――「光化学スモッグ注意報」。 今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。 テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句 小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。 「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」 子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。 「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」 スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。 晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。 「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私 ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。 私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。 ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。 それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。 抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。 むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。 あの白い空の、ほんとうの正体 では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。 ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。 おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。 日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年(一九七〇年)七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。 そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年(一九七二年)の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。 注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年(一九七三年)にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。 当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。 高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。 令和の子どもたちには、別の言葉が ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。 車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。 その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。 もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。 あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。 みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。 また明日、別の「今日」でお会いしましょう。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に | 次の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと ▶

June 6, 2026

パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日

5月22日。私にとってこの日付は、黄色い丸い生き物と、東京じゅうに積み上がったゴミの山という、まったく違う二つの光景が重なる日だ。 「パクパク」が迷路を走り出した日 昭和55年(1980年)5月22日、渋谷のゲームセンターに一台の筐体が置かれた。 黄色い丸がパクパクとエサを食べながら迷路を走り、赤・ピンク・青・オレンジの4匹のモンスターから逃げる。ゲームの名前は『パックマン』。ナムコが送り出したそのゲームが、のちに世界を席巻することになるとは、だれも思っていなかっただろう。 Photo by inunami / CC BY 2.0 当時、ゲームセンターはスペースインベーダーの衝撃がまだ冷めやらない頃だった。エイリアンを撃つ、戦車を撃つ。アーケードというのは「撃つ」場所だった。ところが、パックマンには敵を攻撃する要素がない。ひたすら「食べて逃げる」だけだ。 開発者の岩谷徹氏は「アーケードは暴力的なゲームであふれていた。エイリアンをやっつけるような内容のものばかりだった」と振り返る。だからこそ、違うものを作りたかった。食べることをテーマにした、やわらかいゲームを。パックマンという名前も、物を食べる時の「パクパク」という日本語の擬態語から生まれた。 私がパックマンをはじめて目にしたのは、あの安い倉庫みたいなゲームセンターだったと思う。30円か50円のコインを握りしめて薄暗い店内に入ると、ブラウン管の光の中でそのまるっこい黄色い顔が笑っていた。レバーを4方向に倒しながら迷路を走る感覚は、それまでのシューティングゲームとはまるで違っていた。「逃げる」という体験が、あんなに面白いとは知らなかった。 敵には、それぞれ「性格」があった ゲームに夢中になりながら、私たちは気づかないうちにある不思議を感じていたはずだ。「なんか敵が生きてるみたいだな」と。 実は4匹のモンスターには、それぞれ個性が設計されていた。 赤の「アカベイ」はパックマンをしつこく追いかけてくる。ピンクの「ピンキー」は追いかけるのではなく、パックマンの進行方向の先へ先回りする。水色の「アオスケ」は気まぐれな動きをして、どこへ来るか読みにくい。オレンジの「グズタ」はパックマンに近づきすぎると急にふらふらと離れていく。 これは「個性のある敵キャラクター」という発想の、世界でも最初期の試みだった。今でいえばAIのような概念が、1980年という時代にすでに迷路の中に息づいていた。「追う」「先回り」「気まぐれ」「迷う」という4つの行動パターンが絡み合うことで、迷路の中の戦況は毎回違う顔を見せた。それが「なんか生きてる感じ」の正体だったのだ。 今から46年前のゲームが、現代のAI技術にも通じる考え方を持っていたとは、当時の子どもだった私には想像もできなかった。 パックマンには迷路を攻略するパターンがあり、友達の間で「このルートで行けば5面まで死なない」という攻略法が口伝えに広まった。放課後のゲームセンターで真剣に迷路を走る子どもたちの後ろに人だかりができる。そんな光景が各地であったはずだ。 1980年から7年間で総販売台数は約29万台を超え、「最も成功した業務用ゲーム機」としてギネス・ワールド・レコーズにも認定された。あの黄色い丸が初めて走り出したのが、昭和55年の今日だったとは、当時は知るよしもなかった。 東京が「ゴミ戦争」を戦っていた日 もうひとつ、この5月22日には忘れられない出来事がある。 昭和48年(1973年)5月22日、東京・江東区が杉並区のゴミ搬入を実力で阻止した日だ。 「東京ゴミ戦争」という言葉は、正直なところ、私の記憶にない。当たり前といえば当たり前で、昭和48年の私はまだ4歳だった。怒鳴り合うニュース映像もわかるはずがない。それでも、この出来事を調べていたとき、ふと頭に浮かんだ光景があった。 葛飾区・水元のあの温水プールだ。 社会科見学と、ゴミを燃やす熱 小学4年生、昭和54年ごろのことだ。葛飾区の小学生は「社会科見学」で水元の葛飾清掃工場を訪れた。職員の方に焼却炉の仕組みを教えてもらい、ゴミを燃やした時に出る熱が蒸気となって、隣接する施設のプールを温めていると聞いた。「ゴミの熱でプールが温かくなる」という話は、10歳の子どもにも妙に印象深く残った。 見学のあと、友達とそのプールでばちゃばちゃと泳いだ。余熱利用の仕組みは頭に入っていたけれど、それがどんな歴史の流れの上にあるのかまでは、もちろんわかっていなかった。 「自分のゴミは自分で処理せよ」 ゴミ戦争のあらましはこうだ。江戸時代から現代まで、東京のゴミを受け入れてきた土地が江東区だった。昭和40年代の大量消費社会でゴミが激増すると、江東区の「夢の島」はハエやネズミが大量発生する悪臭の島と化した。東京都は各区に清掃工場を建設して「自区内処理」を推進しようとしたが、杉並区では住民の反対で建設計画が何度も頓挫した。 杉並区で5月21日に反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日、杉並区のゴミ搬入を実力阻止した。東京都清掃労働組合も連帯してボイコットし、杉並区内のゴミ収集は止まった。 自分たちのゴミを処理する施設を「うちには要らない」と拒み続けた結果、区内にゴミの山が積み上がる。この対立は全国ニュースとなり、「自分のゴミは自分の区で処理する」という原則が東京じゅうで問い直された。 東京・江東区の夢の島。かつてゴミで埋め立てられた島は、現在は公園として整備されている。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報(カラー空中写真)」 あの夏のプールと歴史の線 その問い直しの流れが、東京各区の清掃工場整備を加速させた。葛飾区も例外ではなかった。工場が整備されれば、その焼却熱を地域に還元しようという発想が生まれる。余熱は蒸気となり、隣接する施設のプールを温める。 私が友達と泳いだあの水元のプールは、その歴史的な流れの終着点のひとつだったのだ。 「東京ゴミ戦争」→「自区内処理の推進」→「各区の清掃工場整備」→「余熱利用施設(温水プール)の設置」 社会科見学でその仕組みを教わっていたのに、どうしてその工場ができたのか、なぜ余熱利用という発想が生まれたのか、その背景まで考えたことは一度もなかった。4歳の私には届かなかったニュースが、10歳の私をプールで泳がせていたとは。 昭和55年5月22日、黄色い丸が東京の繁華街に生まれた日。 昭和48年5月22日、東京じゅうのゴミの置き場をめぐって大人たちが怒鳴り合った日。 子どもには見えなかったことが、50年近く経ってようやくつながる。歴史の線は、いつもあとから引かれるものらしい。 あなたの子ども時代に「あれはそういうことだったのか」と気づいた出来事は、何かあるだろうか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40年〜64年のできごとを、ひとつひとつ掘り起こしていく連載です。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ ▶

May 22, 2026