野球少年の帽子、どう洗ってる?「キャップウォッシャー」で泥汗まみれのキャップを型崩れなしで丸洗いしてみた

我が家には野球をしている息子たちがいます。練習に試合に、毎日のように帽子をかぶって走り回るわけですが……この帽子、とにかく汚れる。そんな野球帽の悩みを解決してくれたアイテムを、今日は紹介します。 野球をやる子どもの帽子、想像以上に汚れます 汗でびっしょり。夏場なんて、練習から帰ってくると内側が真っ白に塩を吹いていることも。 土やホコリまみれ。ヘッドスライディングや守備で転がれば、あっという間にドロだらけ。 ニオイも気になる。汗と皮脂が染み込んで、正直かなりのもの。 しかも兄弟そろって野球をやっていると、洗いたい帽子が何個もたまっていく。これを一つひとつ手洗いするのは、正直かなりの重労働です。 かといって、そのまま洗濯機に放り込むと——丸いフォルムがつぶれて型崩れしてしまうのが心配。せっかくのお気に入りの帽子が、ヨレヨレになってしまっては元も子もありません。 「気軽に、でも型崩れさせずに洗いたい」。そんな思いで購入したのが、今回紹介するキャップ専用の洗濯アイテム「キャップウォッシャー」です。 「キャップウォッシャー」ってどんな商品? 一言でいうと、キャップを型崩れさせずに洗濯機で丸洗いできる、専用ホルダー&洗濯ネットのセットです。 やわらかいPPプラスチックのフレームでキャップをしっかり包み込み、洗濯中の水流や他の衣類からの圧力から、丸いフォルムを守ってくれる仕組み。上下ふたつのカゴでキャップをはさむ「シェル型」の構造になっているのが特徴です。 これなら、泥汗まみれの野球帽も安心して洗濯機に入れられそう。 3つのうれしいポイント ① やわらかPPプラスチック フレームは硬すぎず、しなやかな素材。帽子の生地を傷つけにくく、セットもスムーズです。 ② 型崩れ防止 洗濯機のなかで帽子が押しつぶされたり、他の洗濯物にもまれたりするのを防いでくれます。丸いシルエットをキープしたまま洗えるのが最大の魅力。 ③ 洗濯機で丸洗いOK 手洗いいらず。セットしてネットに入れたら、あとは洗濯機におまかせ。子どもの帽子を何個もまとめてケアしたい親にこそ、うれしい手軽さです。 スペック・基本情報 項目 内容 品名 キャップウォッシャー 材質 PPプラスチック 重さ(約) 100g(本体)/50g(洗濯ネット) サイズ(約) 高さ14cm × 長さ35cm × 奥行23cm カラー ブラック/ホワイト 原産国 中国(MADE IN CHINA) 軽量なので、洗濯機に入れても負担になりにくいのがうれしいところ。カラーはブラックとホワイトの2色展開なので、お好みや目的に合わせて選べます。 使い方はたったの4ステップ 実際の使い方はとってもシンプル。子どもでも手伝えるくらい簡単にセットできます。 STEP 1|前後左右にある四つのバックルを外す まずは上下のカゴを分けるところからスタート。 STEP 2|帽子を下半分にセットし、上半分を被せる 下のカゴに帽子を置いたら、上のカゴをかぶせてサンドイッチのように包みます。 STEP 3|四つのバックルを挟む 外した4か所のバックルを、パチッとはめ直して固定。これで帽子がしっかりホールドされます。 STEP 4|洗濯ネットに入れて完了 付属の洗濯ネットにすっぽり入れたら準備OK。あとは洗濯機を回すだけ! 実際に息子たちの帽子で使ってみた正直レビュー 👍 よかった点 型崩れが本当にしない。洗濯後もツバとフォルムがしっかりキープされていて感心しました。 汗ジミ・泥汚れがしっかり落ちた。気になっていた汚れがスッキリ。 セットが簡単。慣れれば1分もかからず、子ども自身にも準備を手伝ってもらえました。 🤔 気になった点 子ども用の帽子はフレームに対して少し小さめ。サイズ調整ができる帽子の場合は、かぶり口(後ろのアジャスター)を大きめに広げてからセットすると、フレームにうまくフィットして安定します。 泥汚れがひどいときは、洗濯前の下洗いがおすすめ。あらかじめ軽く下洗いしておくと、より効果的に汚れが落ちます。 こんな家庭・こんな人におすすめ 野球やサッカーなど、スポーツをする子どもの帽子を清潔に保ちたい家庭 兄弟・姉妹で洗いたい帽子が何個もたまりがちな家庭 手洗いが面倒で、つい帽子の洗濯を後回しにしてしまう人 お気に入りのキャップを型崩れさせたくないすべての人 まとめ|野球少年の帽子ケアがぐっとラクになる名脇役 これまで「型崩れが怖くて洗えなかった」「手洗いが面倒でつい放置していた」息子たちの野球帽も、キャップウォッシャーがあれば洗濯機でサッと丸洗いできるようになりました。 ...

July 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月19日──日本がいなかったオリンピック。モスクワ五輪開幕

今日は7月19日。昭和55年(1980年)のこの日、モスクワで第22回オリンピック競技大会が開幕しました。 社会主義国では初めての開催となった、歴史に残る大会です。ただし、日本人にとってこの大会が「歴史に残る」理由は、まったく別のところにあります。 日本は、この大会に参加しませんでした。 当時、私は小学5年生。「日本はモスクワオリンピックに出ない」ということ自体は、子どもながらに知っていました。ただ、なぜ出ないのか、その裏で何が起きていたのか。詳しいことを理解したのは、ずっと後になってからです。今回この記事を書くにあたって改めて調べてみると、知らなかったことばかりでした。 「モスクワは近い!」はずだった まず驚いたのは、開幕前年の日本の盛り上がりぶりです。 昭和54年(1979年)、オリンピック協賛企業のテレビCMには「頑張れニッポン! モスクワは近い!」というフレーズが躍り、プレイベントも各地で大々的に行われていました。放送はテレビ朝日が独占放送権を獲得。局を挙げての一大プロジェクトでした。 そして、大会マスコットのこぐまのミーシャ。ソ連の絵本作家がデザインしたこの愛らしいクマは、日本でも大人気となり、なんとテレビアニメにまでなっています。『こぐまのミーシャ』、日本アニメーションと朝日放送の共同製作で、昭和54年10月から昭和55年4月まで、テレビ朝日系列で全26話が放送されました。 つまり日本は、国を挙げて「モスクワに行く気満々」だったのです。 放送時期は、私が小学4年生の秋から5年生に上がる春にかけて。年齢的にはドンピシャの世代です。 ところが正直に告白すると、このアニメのことは全く覚えていません。毎週楽しみにしていた番組はいくつもあったはずなのに、ミーシャの記憶だけがすっぽりと抜けている。日本中があれほど盛り上がっていたはずのモスクワへの道は、少なくとも高砂の小学生の頭の上を、静かに素通りしていたようです。 昭和55年5月24日、挙手の採決 ところが、昭和54年12月。ソ連が突如、アフガニスタンに軍事侵攻します。 これに抗議したアメリカのカーター大統領が、翌昭和55年1月、モスクワ五輪のボイコットを表明。西側諸国に同調を呼びかけました。日本政府もこれに追随する方針を固めていきます。 ただし、オリンピックに参加するかどうかを決める権限は、本来、政府ではなくJOC(日本オリンピック委員会)にあります。JOCの一部の委員は最後まで参加の道を模索し、選手たちもJOC本部に足を運んで出場を訴えました。柔道の山下泰裕選手、レスリングの高田裕司選手が涙ながらに参加を訴える姿は、今も映像に残っています。 しかし、当時のJOCは日本体育協会の一部門にすぎず、その体協は予算の半分を国からの補助金に頼っていました。財政的に、政府の方針に抗える構造ではなかったのです。 昭和55年5月24日、JOC臨時総会。採決は挙手で行われ、29対13で不参加が決定しました。会場には伊東正義官房長官の姿もあり、参加に手を挙げた競技団体には予算を分配しない、という圧力までかけられていたといいます。 さらに切ないのは、その後の6月11日、JOCが「モスクワ五輪日本選手団」の名簿を承認していることです。行かないことが決まった大会の、行くはずだった選手たちの名簿。「幻の選手団」と呼ばれるこの名簿には、山下選手も、マラソンの瀬古利彦選手も名を連ねていました。金メダル確実と言われた選手たちが、4年間積み上げてきたものを発揮する場所を、一度も走ることなく失ったのです。 小学5年生の夏、テレビの中に日本はいなかった さて、では当の小学5年生は、この夏をどう過ごしていたのか。 正直に言えば、モスクワオリンピックそのものの映像を見た記憶は、全くありません。テレビ朝日は独占放送権を持っていたのですから、何かしらの中継や録画放送はあったはずです。しかし11歳の私の記憶には、開会式も、競技の様子も、何ひとつ残っていません。 その代わり、鮮明に覚えている映像があります。 柔道の山下選手が、涙を流しながら無念さを訴えていたテレビニュースです。あの大きな山下選手が、テレビの中で泣いている。日本の不参加をめぐるニュースの中で、あの姿だけは、今もはっきりと目に焼き付いています。 選手たちが参加を訴えるのは、当然のことだと私は思います。本当に、残念なことでした。 山下選手も、マラソンの瀬古選手も、オリンピックとは関係なく、その存在は当然知っていました。それ以前から、様々な試合でその強さを目にしていましたから。あの二人が本番の畳の上に、コースの上に立っていたら――そう想像すると、やはりこの「不参加」は、返す返すも残念なできごとでした。 ミーシャの涙 大会は、日本のいないまま16日間の日程を終えました。 8月3日の閉会式。スタジアムのバックスタンドに、人文字で巨大なミーシャが描かれます。そしてその目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。場内にはお別れの歌が流れ、ミーシャの人形が風船とともに夜空へ打ち上げられ、森へ帰っていく――そんな演出で、大会は幕を閉じました。 「西側諸国のボイコットを悲しんで涙を流した」と語られることもあるようですが、これは俗説で、あくまで閉会の別れを表現した演出だったそうです。それでも、あの涙の人文字は、ボイコットに揺れた大会の記憶と分かちがたく結びついて、多くの人の心に残ることになりました。 日本の選手たちに次のチャンスが巡ってくるのは、4年後の昭和59年、ロサンゼルス。山下選手はそこで悲願の金メダルを獲得します。しかし、モスクワを最後の勝負の場と定めていた選手の中には、そのまま第一線を退いた人も少なくありませんでした。 あれから半世紀近く。スポーツと政治の関係は、少しずつ形を変えてきました。 モスクワでは60を超える国と地域が大会そのものをボイコットし、4年後のロサンゼルスでは、今度はソ連など東側諸国が報復的に不参加。国が「行かない」と決めれば、選手個人の意思とは関係なく出場の道が閉ざされる――そういう時代だったのです。 現在も、政治がスポーツ大会に影を落とすこと自体はなくなっていません。ただ、国ぐるみの全面ボイコットは減りました。代わりに、特定の国の選手を国旗も国歌もなしの「中立選手」として参加させたり、政府関係者だけが式典を欠席する「外交的ボイコット」にとどめたり。ロシアやベラルーシの選手をめぐる近年の対応は、その代表例でしょう。政治への抗議は行いつつ、選手個人への影響はできるだけ小さくする。もちろん今も議論は続いていますが、世界は回り道をしながら、あの日の山下選手の涙に応える方向へ、少しずつ進んでいるのだと信じたいところです。 おわりに 調べれば調べるほど、昭和55年のあの夏、大人の世界では実に大きなことが動いていたのだと知りました。当時の私は、その大半を知らないまま、いつもどおりの夏休みを過ごしていたのだと思います。 セミの声と、ラジオ体操と、真っ黒に日焼けした野球少年の夏。それでも、山下選手の涙のニュースだけは、11歳の記憶にしっかりと刻まれていました。子どもの目にも「これはただごとではない」と映るだけのものが、あの映像にはあったのでしょう。 みなさんは、モスクワオリンピックの記憶、ありますか? 「モスクワは近い!」のCMを覚えている方、幻の選手団に胸を痛めた方、ミーシャのぬいぐるみを持っていた方。よろしければ、コメントで教えてください。 この記事で書いた「幻の選手団」のその後を、選手たち本人への取材で描き切ったノンフィクションがこの一冊です。挙手の採決の裏側、涙の記者会見、そして28年後——あの夏に行き場を失った選手たちが、それぞれの人生をどう歩んだのか。山下選手の涙の意味を知りたい方に、深くおすすめします。 五輪ボイコット──幻のモスクワ、28年目の証言松瀬学/新潮社。モスクワに行けなかった選手たち本人の証言で綴る、ボイコットの真実とその後の人生 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月18日】コマネチは、ギャグじゃなかった | 次の記事:【7月20日】銀座に現れた80円のハンバーガー。マクドナルド日本1号店がオープンした日 ▶

July 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月26日──「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の夜

今日は六月二十六日。梅雨の晴れ間に、夏の気配がじわりと混じりはじめるころです。 昭和の家庭の夜といえば、茶の間のブラウン管テレビでした。チャンネル権は家族の誰かが握り、子どもはその後ろで寝転がって画面を見上げる。そんな数えきれない夜のなかに、日本中が、いや世界中が、固唾をのんで見つめた一戦がありました。 昭和五十一年(一九七六年)六月二十六日。東京・日本武道館で、「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた一戦が行われました。プロレスラー・アントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン・モハメド・アリ。畑のまったく違う格闘技の頂点に立つ二人が、同じリングの上で向かい合ったのです。 アリの「挑発」から始まった、世紀の一戦 ことの発端は、その前年にさかのぼります。 昭和五十年(一九七五年)、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と謳われた世界の英雄モハメド・アリが、こう言い放ちました。「東洋人で、俺と闘う勇気のある者はいないか」。世界中のメディアに向けられた、いかにもアリらしいビッグマウスでした。 多くの人がリップサービスと聞き流すなかで、その言葉を本気で受け止めた男がいました。アントニオ猪木です。猪木は自らアメリカへ飛び、粘り強く交渉を重ね、ついにこの「夢の対決」を現実のものにしてしまいます。当時、猪木は三十三歳、アリは三十四歳。アリは紛れもない世界のスーパースターで、いっぽうの猪木は、まだアメリカではほとんど無名のレスラーでした。 試合に先立つ六月十八日、東京で行われた記者会見も語り草になっています。アリは猪木に「松葉杖」をプレゼントするという挑発的なパフォーマンスを見せ、会場をどよめかせました。猪木も通訳を介して冷静に切り返し、二人は上半身裸になってファイティングポーズで威嚇し合いました。世界の注目は、否が応にも高まっていきます。 この一戦は、新日本プロレスが企画した「格闘技世界一決定戦」シリーズの第二戦にあたります。同じ年の二月、猪木は柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウィレム・ルスカと闘い、プロレスの強さを世に示したばかりでした。その勢いのまま、相手は現役のボクシング世界王者。世界三十四カ国に同時中継され、視聴者数は推定十五億人とも言われる、文字どおり前代未聞のスポーツイベントとなったのです。 茶の間も、世界も──中継がつないだお祭り騒ぎ この一戦がすごかったのは、リングの中だけではありません。世界中の人々が、まったく同じ瞬間を見ようとしていたことです。 当時、衛星生中継は今ほど身近ではありませんでした。そこでこの試合は、各地の映画館に有料で中継を流す「クローズドサーキット」という方式で、世界へ届けられました。その数、全米だけで百七十か所。カナダやイギリスなど、海を越えた劇場のスクリーンにも、猪木とアリの姿が映し出されたのです。一人二十ドルの入場料を払ってでも、人々はこの一戦をその目で見届けようとしました。 もちろん、日本中も大騒ぎでした。試合の三日前、六月二十三日の夜には、テレビで前夜祭の生中継まで組まれ、当時の人気タレントたちが顔をそろえて、期待をあおりにあおりました。リングを直接見られない茶の間の子どもにも、「なにか、とんでもないことが起きるらしい」という空気だけは、ひしひしと伝わっていたはずです。大人も子どもも、世界中が、たった一つのリングに視線を集めていた――それが、あの六月二十六日でした。 蹴りも寝技も封じられて──十五ラウンドの真実 子どもだった私が「なんで立って戦わないんだろう」と首をかしげた、あの寝転がる闘魂。じつはあの戦法には、切実な理由がありました。 アリ陣営は、当初この試合をショー的なエキシビションだと考えていたふしがありました。しかし、猪木の本気の公開練習を目の当たりにして警戒を強め、試合直前になってルールが大きく書き換えられます。パンチもキックも、そして寝技も――プロレスの得意技の多くが、封じられてしまったのです。 がんじがらめのルールのなかで、猪木が選んだのは、リングに寝転がったまま、アリの脚を執拗に蹴り続けるという戦法でした。のちに「アリキック」「スライディングキック」と呼ばれるあの蹴りです。立つアリと、寝た猪木。片方が立ち、片方が寝たままにらみ合うこの異様な攻防は、後年、総合格闘技の世界で「猪木アリ状態」と呼ばれる定番の形になりました。 立てば強烈なパンチが待っている。かといって寝たままでは攻めきれない。アリは「立て」「臆病者」と挑発しますが、猪木は乗りません。観客もセコンドもいらだち、会場には重い空気が流れます。それでも回が進むにつれ、猪木のローキックは確実にアリの左脚へ突き刺さっていきました。 勝負は十五ラウンドをフルに闘い抜き、三者三様の判定の末、引き分け。派手なKOシーンを期待していたマスコミは、この地味な展開に困惑し、翌日には「世紀の凡戦」「世紀の茶番」という酷評の言葉が紙面に躍りました。 しかし――蹴られ続けたアリの左脚は、赤く腫れ上がっていました。試合後、アリは左脚の血栓症で入院することになります。あの「蝶のように舞う」軽快なフットワークを、彼はこの一戦を境に失っていったとも言われています。茶番どころか、それは紛れもない真剣勝負でした。 「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の私 ここからは、当時小学一年生だった、私自身の記憶です。 あの頃、世の中には「人類最強は誰だ?」という空気が、たしかにありました。試合の一週間前くらいになると、テレビのワイドショーやニュースは、毎日のようにこの話題で持ちきりです。「世界チャンピオンのアリ来日!」「猪木は本当に勝てるのか?」――あくまで私の主観ですが、そんな見出しばかりが、頭に残っています。 学校でも同じでした。休み時間になると、「猪木が勝つ!」「いや、アリは世界チャンピオンだから無理だ」と、子どもたちの予想がぶつかり合います。今でいうなら、ワールドカップの日本代表戦と、大谷翔平のワールドシリーズと、オリンピックの決勝。あれが全部いっぺんに来たくらいの注目度だったと言っても、大げさではありません。 今のように録画も配信もない時代です。見逃したら、それで終わり。だから誰もが、リアルタイムでテレビにかじりつきました。私も、そのうちの一人です。 テレビで見るアリは、外国からやってきた本物のヒーローでした。「アリって、世界一強い人なんだ」。子ども心にそう思いながら、それでも私は信じていました。日本には、猪木がいる。「猪木なら、勝ってくれる!」と。友達とも、「猪木がバックドロップするんだ!」「コブラツイストでギブアップさせるんだ!」なんて、得意技の話で盛り上がっていた気がします。 試合の日は、夕方からもうソワソワしていました。「早く始まらないかな」。家族みんなで、テレビの前に集まります。 ところが、試合が始まると――「あれ?」。 猪木が、寝転がっているのです。立たない。ひたすら、蹴るばかり。子どもにルールなど分かりません。「なんで立って戦わないんだろう?」。正直、途中から少し退屈にもなりました。それでも、「最後にはきっと、猪木が必殺技を出すはずだ」と、最後まで信じて画面を見つめていたのです。 けれど、十五ラウンド終了。引き分け。 テレビが終わっても、胸に残ったのは「結局、どっちが強かったんだろう」という、もやもやした気持ちだけでした。 それでも――翌日の学校は、朝から晩までこの話題で持ちきりです。「昨日、見た?」「猪木のキック、すごかったな!」「でも、アリも本当に強かったよな!」。あのモヤモヤすら、友達と分かち合えば、立派なお祭りの続きでした。 「凡戦」と笑われた一戦が、「伝説」になるまで おもしろいのは、この試合の評価が、時とともにまったく逆転していったことです。 当時は嘲笑された一戦が、年月を経るにつれて「実はあれは本物の真剣勝負だったのだ」と再評価されていきました。派手な技の応酬を勝手に想像していたマスコミが、想像と違う展開に取り上げ方を見失った――そんな見方もされるようになります。一ラウンド開始直後に猪木がスライディングキックを放った瞬間、「ああ、こういう闘い方があったか!」と武道館の観客がどよめいた、という証言も残っています。 この一戦で、猪木の名は一気に世界へ知れ渡りました。直後にはパキスタンやドイツへ遠征し、新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになります。「アリと闘った男」という肩書きが、猪木を別のステージへと押し上げたのです。 その代償も小さくはありませんでした。猪木はこの興行で十億円近いとも言われる多額の借金を背負い、その返済のために、人気のあった異種格闘技路線を走り続けることになります。皮肉にも、その苦肉の選択が、のちの数々の名勝負を生んでいきました。 そして、闘い合った二人のあいだには、不思議な友情が芽生えていきます。アリは、自身の伝記映画で使われた曲「アリ・ボンバイエ」を猪木に贈りました。この曲こそ、のちに猪木の入場テーマ「イノキ・ボンバイエ(炎のファイター)」となる、あの旋律です。リングの上で本気でぶつかり合った者同士にしかわからない何かが、国境を越えて通い合ったのでしょう。 あの「凡戦」と笑われた十五ラウンドは、いまでは映像できちんと見ることができます。先入観なしに見返すと、子どものころには分からなかった、猪木の執念とアリの戦慄が、はっきりと伝わってきます。 格闘技世界一 モハメッド・アリ vs アントニオ猪木 [DVD]昭和51年6月26日、日本武道館。あの15ラウンドを、いま自分の目で確かめてみる Amazonで見る › おわりに──「世界格闘技の日」になった、あの夜 異なる競技の頂点同士が真剣に闘う。今でこそ、総合格闘技(MMA)という言葉とともに、私たちはそれを当たり前のように受け止めています。「猪木アリ状態」という専門用語が今も使われていることが、あの一戦がどれほど時代を先取りしていたかを物語っています。 平成二十八年(二〇一六年)、あの試合からちょうど四十年を機に、六月二十六日は「世界格闘技の日」と制定されました。そしてその制定が報じられた矢先、まるで運命のように、モハメド・アリはこの世を去りました。同年六月三日、享年七十四。さらに令和四年(二〇二二年)には、アントニオ猪木も七十九歳でその生涯を閉じています。リングの上で向かい合った二人は、もう二人ともいません。 ...

June 26, 2026

6月17日 ── 無敵のまま畳を降りた山下泰裕と、私が初めて応援した五輪の夏

六月十七日。梅雨の合間の、どんよりと重たい空を思い出します。昭和六十年(一九八五年)のこの日、一人の柔道家が現役引退を表明しました。山下泰裕さん。全日本選手権九連覇、ロサンゼルス五輪・無差別級の金メダリスト。そして、いまもって破られていない二〇三連勝という記録を抱えたままの、静かな引退でした。 でも、その話をする前に、どうしても先に書いておきたい夏があります。前の年、昭和五十九年(一九八四年)の夏。ロサンゼルス・オリンピックです。 受験勉強のはずが、テレビの前に座っていた 私にとってロス五輪は、物心がついて初めて、テレビ画面とはいえ自分の意思でしっかり「観て」「応援した」オリンピックでした。だからでしょうか、各競技での日本人選手の活躍は、いまでも驚くほどはっきりと記憶に残っています。 当時の私は中学三年生、十五歳。夏の大会を最後に野球部はもう引退していて、本来なら高校受験に向けて、机にかじりついていなければならない時期でした。ところが、です。連日のオリンピック中継が気になって気になって、どうにも勉強が手につかない。「いまは観ている場合じゃない」と頭では分かっているのに、参考書を開いては、つい音のするほうへ、テレビの前へと吸い寄せられてしまう。外では蝉が鳴いていて、母が台所で立ち働く音がして、そのなかで私だけが、教科書ではなく遠いロサンゼルスとつながっている。受験生としては、いささか困った夏でした。 このロス五輪というのは、日本にとって少し特別な大会でもありました。その四年前、昭和五十五年のモスクワ大会には、日本は政治的な事情で参加できなかった。出場すらかなわなかった選手たちの悔し涙を、子どもながらにニュースで見ていた記憶があります。だからこそ、八年ぶりに堂々と世界の舞台に戻ってきたロス五輪は、見る側の私たちにとっても、どこか「待ちわびていた夏」だったのです。受験を控えた中学三年生の私でさえ、こうして机を離れて引きずり込まれてしまうほどに。 ぴたりと止めた着地と、あの笑顔 なかでも忘れられないのが、体操の森末慎二さんです。種目別・鉄棒の決勝。最後の最後、二回宙返りで降りてきて、その着地をぴたりと止めた瞬間。そして、ゆっくりと、かみしめるように両手を上げていったときの、あの『笑顔』。子ども心にも、「完璧というのは、こういうことを言うんだ」と思いました。 あとで知ったのですが、森末さんはこの鉄棒で十点満点をマークしていたのですね。一切の減点がない、まさにパーフェクトの演技。それをリアルタイムで観ていたのだと思うと、いまさらながら鳥肌が立ちます。森末さんはこの大会、鉄棒で金、跳馬で銀、団体で銅と、一つの大会で金銀銅すべてを持ち帰りました。けれど私の中に焼きついているのは、メダルの色よりも、あの着地と、あの笑顔のほうなのです。 森末さんといえば、自分の名前がそのまま技の名前になっている、数少ない選手の一人でもあります。「モリスエ」と呼ばれるオリジナルの大技。世界のだれもやっていなかった動きを、自分の体で切りひらいて、自分の名を冠した技として残す。子どもだった私には、その意味の大きさまでは分かっていませんでしたが、「この人は、ただ上手なだけの人ではないんだ」ということだけは、なんとなく伝わってきていました。 あの夏、五輪の舞台に野球があった そして、野球です。 ロス五輪では、野球が公開競技として行われていました。正式競技ではないけれど、この大会から各国の代表チーム同士が本気でぶつかり合う形になった。野球小僧だった私には、これがたまらなくうれしかったのを覚えています。自分が毎日ボールを追いかけているその競技が、世界の頂点を決める同じ舞台に並んでいる。それだけで、なんだか誇らしいような気持ちになったものです。 日本代表は、大学生と社会人の選手で編成されたアマチュアチームでした。プロは一人もいない。それでも勝ち上がり、決勝では開催国アメリカを六対三で破って優勝。公開競技ながら、オリンピック初代の野球王者になったのです。プロのスターではない、自分と地続きのように見えるお兄さんたちが、世界の頂点に立った。あの夏、私の中で野球とオリンピックが、初めて一本の線でつながった気がしました。 いま思えば、あの夏の私は、ただ漫然とテレビを観ていたのではなかったのかもしれません。つい数か月前まで、来る日も来る日も土埃の舞うグラウンドで白球を追いかけ、思うようにいかずに悔し涙をのみ、それでも翌朝にはまたバットを握っていた。その日々の、地続きの延長線上に、画面の向こうの選手たちがいたのです。同じように汗をかき、同じように歯を食いしばってきた人たちが、世界のいちばん高いところで、笑ったり、足を引きずったりしている。だからこそ、どうしても人ごとには思えなかった。応援というより、ほとんど自分のことのように観ていた。それが、あの夏のオリンピックだったように思います。 「勝って当たり前」を背負った人 そして、山下泰裕さんです。 いまの若い人には少し想像しにくいかもしれませんが、当時の日本の柔道には「勝って当たり前」という独特の空気がありました。とりわけ山下さんのような絶対王者には、銀でも銅でもなく、金メダルしか許されない。そういう途方もないプレッシャーが、目に見えない重しのようにのしかかっていたはずなのです。 ロス五輪の無差別級。山下さんは二回戦で、右足のふくらはぎを痛めてしまいます。肉離れでした。足を引きずりながら畳に上がっていく王者の姿に、テレビの前の私は思わず息をのみました。あの強い山下さんが、まともに歩けていない。それでも山下さんは勝ち進み、決勝もきっちり制して、金メダルをもぎ取った。 あの瞬間、私はテレビ画面に向かって、歓喜の絶叫をあげていました。誰に聞かせるでもなく、一人で、本当に大きな声で叫んだのを覚えています。「勝って当たり前」を、怪我を負ってなお本当に勝ち切ってしまう人がいる。十五歳の私には、それが人間業とは思えない、途方もないことに見えました。 ただ、その本当の凄みを思い知ったのは、ずっと後年のことでした。大人になってから、私自身がふくらはぎを肉離れしたことがあります。そのとき、いやというほど分かったのです。肉離れというのは、満足に歩くことすらできない。一歩ごとに痛みが走って、足を引きずるのがやっと。スポーツをするなど、とんでもない話です。その状態で――しかも世界じゅうが見つめる五輪の決勝の舞台で――山下さんは相手を投げ、勝ち切ったのか、と。十五歳の夏にテレビの前で叫んだあの感動が、何十年もたって、今度は自分の足の痛みを通して、まったく違う重みでよみがえってきました。あのとき私が叫んでいたものの大きさを、本当の意味で理解できたのは、皮肉にも自分が同じ場所を痛めたときだったのです。 そして一年後、無敵のまま畳を降りた その山下さんが、翌・昭和六十年六月十七日――あの夏に勉強そっちのけでテレビにかじりついた私が、どうにか高校に進んで一年生になっていた、その年の初夏に――記者会見で引退を表明します。 全日本選手権は昭和五十二年から九連覇。世界選手権でも計四度、頂点に立ちました。そしてロス五輪の金メダル。引退から逆算して、その連勝記録は二〇三。負けないまま、誰にも倒されないまま、自分の意思で静かに畳を降りていったのです。前の年には国民栄誉賞も受けていました。アマチュアのスポーツ選手としては、初めての受賞だったと記憶しています。 「勝って当たり前」という重圧を、最後の最後まで背負い、そして実際に勝ち続けた人。その人が、傷を負ってもなお負けず、絶頂のまま身を引いていく。あの夏の絶叫とは、また違う種類の余韻が、私の胸の中に残りました。強い人が、強いまま去っていく。それはどこか、潔さとさみしさが半分ずつ混じったような、不思議な感覚でした。負けて去るのではなく、勝ったまま終わる。子どもだった私には、その引き際の美しさの意味が、まだ半分も分かっていなかったのだと思います。 ロス五輪が、また帰ってくる 時は流れて、令和です。 あのとき足を引きずりながら金メダルを取った山下さんは、のちに日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めるまでになりました。畳の上のたった一人の王者が、やがて日本のスポーツ全体を背負う立場になっていったわけです。あの夏に絶叫していた少年からすれば、なんとも感慨深い話です。 そして、もう一つ。私が生まれて初めて本気で応援した、あのロサンゼルスという街が、二〇二八年、ふたたびオリンピックの開催地になります。じつに四十四年ぶりのロス五輪です。あの夏、テレビの前で絶叫していた十五歳の少年は、その二〇二八年には五十九歳――六十歳を目前にした年齢になっています。子どもたちも、それぞれの道を歩き始めました。それでも、「ロサンゼルス」という地名を耳にすると、私はいまでも真っ先に、森末さんのあの笑顔と、山下さんの金メダルの瞬間を思い出すのです。 二〇二八年の夏、私はまた、テレビの前で誰かを本気で応援しているでしょうか。きっと、しているのだと思います。あの夏に教わった「観て、応援する」という幸せは、四十年あまりたっても、ちっとも色あせていないのですから。 あなたが、生まれて初めて自分の意思で「観て」「応援した」オリンピックは、どの大会でしたか。テレビの前で思わず叫んでしまった、あの瞬間の記憶があれば、ぜひ聞かせてください。 このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【番外編】インベーダーゲームと孫正義 ── ブームが冷めた中古機を、太平洋の向こうで宝に変えた青年 | 次の記事:6月18日 ── おにぎりの日に、千年の握り飯と母の手を思う ▶

June 17, 2026

6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入

六月も半ばになると、教室の窓の外はもう夏の匂いがしていました。昭和五十九年(一九八四年)のきょう六月十四日。中学三年生、十五歳だった私たちの世界で、いちばん熱かったものは何かと聞かれたら、私は迷わずこう答えます。プロレスです。 この日の夜、東京・蔵前国技館で行われた第二回IWGP優勝戦、アントニオ猪木対ハルク・ホーガン。昭和のプロレス史に「蔵前暴動」として刻まれることになる、あの夜の話をさせてください。 金曜八時、テレビの前の私 当時の私は、毎週欠かさずプロレスを見ていました。金曜夜八時、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』。野球部員でしたから、昼間はボールを追いかけて、夜はテレビの前でリングに釘付けになる。そんな中学生でした。 金曜八時といえば、裏では『太陽にほえろ!』が放送されていた激戦の時間帯です。チャンネルをどちらに合わせるか。それは昭和の茶の間における、ひとつの政治問題でもありました。そして画面の中では、古舘伊知郎アナウンサーの実況が炸裂している。「闘いのワンダーランド」「燃える闘魂」──次から次へと繰り出される言葉の砲弾が、リングの上の攻防を何倍にも大きく見せてくれました。プロレスは目で見るだけのものではなく、耳で聴くものでもあったのです。 夢中になった入り口は、初代タイガーマスクです。佐山聡さんがマスクの下にいた、あのタイガーマスク。ダイナマイト・キッドとの空中戦、小林邦昭との抗争。四次元殺法という言葉がぴったりの、見たこともない動きの連続に、テレビの前で本当にワクワクドキドキしたものです。私が小学六年生の春にデビューして、中学二年の夏に突然マスクを置いて消えてしまった。あの喪失感も含めて、タイガーマスクは私の昭和プロレスの原点でした。 そして、なんといってもアントニオ猪木です。ホーガンはもちろん、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン。強敵が次から次へとやってくる。なかでも忘れられないのが、昭和五十七年の、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の「はぐれ国際軍団」三人を相手にした、一対三のハンディキャップマッチです。一人対三人ですよ。いま冷静に振り返ると、とんでもないことをやっていたと思います。けれど当時の私たちは、それを大真面目に、固唾をのんで見ていたのです。猪木なら、本当に三人倒すかもしれない。そう思わせる何かが、あの人にはありました。 一年越しのリベンジマッチ さて、昭和五十九年六月十四日です。 この試合には前段があります。ちょうど一年と少し前、昭和五十八年六月二日。同じ蔵前国技館で行われた第一回IWGP優勝戦で、猪木はホーガンの必殺技アックスボンバーを浴び、場外で失神KO負けを喫しました。世に言う「舌出し失神」です。あの猪木が、リング下で白目をむいて伸びている。テレビの前の少年には、にわかには信じられない光景でした。 しかもこの一年で、ホーガンはさらに大きくなっていました。映画『ロッキー3』に出演し、昭和五十九年の一月にはWWF世界ヘビー級王者にまで上りつめている。四十一歳の猪木と、三十一歳の絶頂期ホーガン。一年越しのリベンジマッチに、蔵前国技館は超満員。誰もが、猪木の雪辱だけを信じて集まっていました。 試合は午後八時二十分にゴング。一進一退の攻防から両者場外でもつれ、十七分十五秒、両者リングアウト。協議の末に時間無制限の延長戦が決まりますが、これもわずか二分余りで再び両者カウントアウト。そして再々延長に突入した、そのときでした。 ここで少しだけ、長州力という男の話をしなければなりません。昭和五十七年、長州は藤波辰巳(現・辰爾)に向かって「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と吠え、下剋上ののろしを上げました。そこから始まった藤波との抗争は「名勝負数え歌」と呼ばれ、長州は維新軍のリーダーとして、猪木の新日本に反旗を翻す側のスターになっていた。つまりこの夜、リングサイドの長州は、猪木とは敵対関係の真っただ中にいたのです。 リングサイドにいたその長州力が、再々延長のさなか、突如として猪木とホーガンの双方にリキ・ラリアットを見舞いました。混乱の中、先にリングに戻った猪木がリングアウト勝ち。猪木は念願のIWGP初制覇を果たしました──が、館内は祝福どころではありません。 「こんな決着があるか」。一年待ったリベンジマッチの結末が、第三者の乱入によるリングアウト勝ちでは、納得できるはずもない。怒った観客が座布団やゴミをリングに投げ込み、場内は騒然。ついには蔵前警察署から警官十八人が出動する事態となりました。新日本プロレス史上初の本格的な暴動、「蔵前暴動」です。 さて、ここで正直に告白しなければなりません。私はこの夜のことを、覚えていないのです。 毎週欠かさず『ワールドプロレスリング』を見ていた中学三年生が、昭和プロレス史に残る大事件の夜を思い出せない。自分でも不思議でなりません。翌日の教室では、絶対に話題になっていたはずなのです。誰かが「昨日の蔵前、すごかったらしいぞ」と騒ぎ、誰かがスポーツ新聞の見出しを語り、長州はけしからんと誰かが憤っていたはずなのです。それなのに、その場面がどうしても出てこない。 記憶とは不思議なものです。タイガーマスクの宙を舞う姿や、一対三に挑む猪木の背中のような「画」は、四十年経ったいまも鮮明に焼き付いているのに、事件としてのあの夜だけが、すっぽりと抜け落ちている。けれど、こうも思うのです。覚えていないのは、あの頃の私にとって、金曜八時のプロレスがそれだけ「当たり前の日常」だったからではないか、と。特別な夜として構えて見ていたのではなく、毎週の暮らしの中に、プロレスが空気のように溶け込んでいた。覚えていないことが、かえって熱中の深さの証拠になっている気がするのです。 蔵前国技館、最後の年 ところで、この昭和五十九年は、蔵前国技館にとって最後の年でもありました。この年の秋場所を最後に三十年余りの役目を終え、翌昭和六十年一月には隅田川の対岸に両国国技館が開館します。力道山の時代から数々の名勝負を見届けてきた「プロレスの聖地」は、最後の最後に、座布団の舞う大暴動まで見届けて幕を下ろしたことになります。 蔵前という土地は、私にとって遠い場所ではありませんでした。子どもの頃から乗り慣れた都営浅草線で、京成高砂から押上を抜けて、まっすぐ行った先に蔵前駅はあります。同じ一本の線路の先で、あの夜、大人たちが本気で怒り、警官隊が駆けつけていた。そう思うと、テレビの中の出来事が、急に地続きのものに感じられるのです。 本気で信じていた、あの熱 いまになって思います。あの頃の私たちは、プロレスを「本当か嘘か」という物差しで見ていませんでした。猪木は本当に強いのか。あの技は本当に効いているのか。そんなことを教室で大真面目に議論するのが、あの時代の男子の日常でした。答えなんて出ません。でも、その答えの出なさこそが、昭和のプロレスの魔力だったのだと思います。 大人たちは時々、「プロレスなんて八百長だろう」と水を差しました。けれど少年の私には、それはどうでもいいことでした。一対三で立ち向かう猪木の背中も、四次元殺法のタイガーマスクも、舌を出して失神した猪木が一年かけて挑んだリベンジマッチも、私の中ではぜんぶ「本当」だったからです。観客が本気で怒って暴動になるくらい、みんなが本気で信じていた。あの夜の蔵前の怒りは、裏を返せば、それだけ深く信じられていたことの証拠なのだと、いまなら分かります。 あれから四十年余り。IWGPの名前は、いまも新日本プロレスの最高峰のベルトに受け継がれています。あの夜、蔵前で観客を激怒させた「IWGP」という三文字が、令和の東京ドームで歓声を浴びている。猪木さんも、ホーガンも、もうこの世にいません。けれど「元気ですかーッ!」の声は、私の耳の奥で、いまもはっきりと鳴っています。そして令和のいま、見たい試合はいつでもスマートフォンで呼び出せます。便利になりました。けれど、家族でチャンネルを取り合いながら、週に一度の放送を正座して待った、あのざわざわした金曜八時の夜は、もうどこにもないのです。 みなさんは、昭和のプロレスにどんな思い出がありますか。テレビの前で叫んだ技の名前、学校でのプロレスごっこ、忘れられない名勝負──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった | 次の記事:6月15日 ── 高校球児だった私の知らないところで、ジブリが産声を上げていた ▶

June 14, 2026

6月13日 ── スペインW杯が素通りした夜も、枕元にはラジオがあった

六月十三日。カレンダーの記念日欄には「FMの日」とあります。アルファベットでFが六番目、Mが十三番目だから、という語呂合わせです。そして昭和五十七年(一九八二年)のこの日、スペインでサッカーのワールドカップが開幕しました。 ちなみにこの日は、昭和六十二年(一九八七年)に広島の衣笠祥雄選手がルー・ゲーリッグの連続試合出場世界記録を塗り替えた日でもあります。ただ、鉄人の話は六月七日の記事でたっぷり書いたばかりなので、きょうは別の話を。 実は今回の二つ──FMもスペイン大会も、正直に白状すると、当時の私の記憶にはほとんど残っていません。けれど「覚えていない」ことにも、それなりの理由がありました。きょうは、その理由のほうの話です。 世界が沸き始めた日、野球少年は素振りをしていた 昭和五十七年六月十三日、スペイン・バルセロナのカンプノウ・スタジアム。九万人を超える大観衆の前で、前回王者アルゼンチンとベルギーの開幕戦が行われました。アルゼンチンの十番をつけていたのが、当時二十一歳のディエゴ・マラドーナ。これが彼のワールドカップ・デビュー戦でした(試合はベルギーが一対〇で勝っています)。大会はその後、パオロ・ロッシを擁するイタリアが優勝。いまもサッカー史に残る名大会として語り継がれています。 で、そのとき十三歳、中学一年生だった私はといえば──何も覚えていません。本当に、何ひとつ。 もっとも、これは私だけのことではなかったと思います。昭和五十七年の日本にとって、ワールドカップはまだ遠い遠い大会でした。日本代表は一度も本大会に出場したことがなく、Jリーグもまだ影も形もない時代。テレビでサッカーといえば、正月の高校サッカーくらいのもので、海の向こうの大会を生中継で追いかけるという習慣そのものが、お茶の間にはほとんどなかったのです。 そして当時の私は野球部に入ったばかりの、根っからの野球小僧でした。『キャプテン翼』の連載が少年ジャンプで始まったのは前年の昭和五十六年。けれど翼くんが私の心に飛び込んでくるのは、もう少し先の話です。つまりこの開幕の日の私は、まだ「キャプテン翼以前」。マラドーナという名前すら、知らなかったはずです。世界中がスペインの熱狂に沸いていたその夜も、私はたぶん、いつもどおり素振りをして、巨人戦を見て、眠っていたのだと思います。サッカーのワールドカップは、昭和五十七年の野球少年の暮らしの、ずっと外側にありました。 四年後の早朝、マラドーナに釘付けになった ところが、です。四年後の昭和六十一年(一九八六年)、メキシコ大会。十七歳の高校二年生になっていた私は、早朝のテレビ放映を夢中で見ていました。 メキシコと日本の時差は十五時間。向こうの昼の試合は、日本ではちょうど夜明け前から早朝の時間帯にあたります。つまりワールドカップを見るということは、いつもよりずっと早く起きるということでした。野球少年だった私を、早起きしてまでテレビの前に座らせる「サッカーの大会」。四年前には考えられなかったことです。 きっかけは、もちろん翼くんです。中学時代にこっそりはまった『キャプテン翼』が、野球少年の中に「サッカーを見る目」を作ってくれていた。そして画面の中には、漫画よりも漫画みたいな選手が、本当にいたのです。 マラドーナ。決して大きくはない体で、次々とドリブルで相手選手を抜き去っていく、あの力強いプレー。ボールが足に吸い付いたまま、屈強なディフェンダーが何人がかりで止めにきても、倒れない、止まらない。準々決勝のイングランド戦では、のちに「神の手」と呼ばれるあの一撃と、五人抜きの「世紀のゴール」を、わずか数分のあいだに両方やってのけました。手で押し込んだゴールですら「ゴール」と言わせてしまう。理屈ではありません。あの小さな背中には、それを許させてしまうだけの、圧倒的な存在感があったのです。 スペイン大会を素通りした少年は、四年かけて、ようやくワールドカップに追いついた──いや、翼くんとマラドーナに、追いつかされたのでした。 FMは「お兄さんのもの」、私の相棒は携帯ラジオ さて、もうひとつの「FMの日」。これも白状すると、当時の私はFM放送をあまり聞いた記憶がありません。FMといえば音楽番組。本屋には「FMレコパル」や「週刊FM」といったFM情報誌が並び、二週間分の番組表を蛍光ペンでチェックして、お目当ての曲が流れる時間にカセットテープの録音ボタンに指をかけて待つ──そんな「エアチェック」に励むのは、もう少し年上の、ちょっとお兄さんたちの世界。レコードを買うお金のない時代に、FMとカセットは音楽好きの強い味方だったわけですが、小学生の私には、まだずいぶんと背伸びの領域に感じられていました。 そのかわり、ラジオそのものとは、ずっと早くから深い付き合いがありました。 小学三年生のころ。すでに立派な野球小僧だった私は、プロ野球の巨人戦をテレビで欠かさず見ていました。ところが、テレビ中継には終わりがあります。たいてい二十一時前ごろ、試合の決着がつこうがつくまいが、中継はぷつりと終わってしまう。九回裏、一打逆転の場面でも、お構いなしに、です。あの「続きが見られない」悔しさは、昭和の野球少年なら誰もが知っていると思います。 でも、ラジオなら最後まで聞ける。テレビが「ここまで」と打ち切ったその先を、ラジオの実況はちゃんと最後のアウトまで届けてくれるのです。当時のAMラジオは夜の看板がナイター中継で、各局が看板アナウンサーと解説者をそろえて、延長になろうが何だろうが、試合が終わるまで付き合ってくれました。テレビに置いていかれた野球少年にとって、これほど頼もしい存在はありません。 それを知った私は、誕生日のプレゼントに携帯ラジオを選び、買ってもらいました。年に一度の誕生日プレゼントです。おもちゃでも、野球の道具でもなく、ラジオ。小学三年生の選択としてはずいぶん渋い気もしますが、当時の私にとっては「巨人戦の続きが聞ける魔法の箱」だったのですから、迷いはなかったのだと思います。 それからの習慣は決まっています。テレビ中継が終わると、携帯ラジオのチャンネルを野球中継に合わせ、枕元に置いて、布団に入る。画面はないけれど、アナウンサーの声と球場のざわめきだけで、場面はいくらでも目に浮かびました。実況が早口になれば走者が走り、歓声がわっと膨らめば白球が外野の頭上を越えていく。むしろ目をつぶっているぶん、想像のグラウンドはテレビより広かったかもしれません。 スペイン大会が開幕した昭和五十七年の夜も、きっと私の枕元では、ナイター中継が小さく流れていたはずです。世界の熱狂は、まだ私の布団までは届いていなかったけれど、私には私の、夜の続きがあったのです。 手のひらサイズのラジオは、令和のいまも現役です。あの頃の相棒のような一台は、枕元のナイター中継はもちろん、いざというときの防災ラジオとしても、ひとつ持っておくと心強いものです。 ソニー ポケットラジオ ICF-P27(FM/AM/ワイドFM)手のひらサイズの定番。枕元のナイターにも、防災の備えにも Amazonで見る › 令和の今、枕元にはスマホがあるけれど あれから四十四年。いままさに、北中米でワールドカップが開幕したばかりです。スペイン大会を素通りしたあの野球少年が、いまは開幕戦の日程を指折り数えて待つようになったのですから、人生はわからないものです。つい先日は、地元の四つ木・立石に点在する『キャプテン翼』の銅像九体を、ランニングで巡ってきた話も書きました。十三歳の私に教えてあげたら、きっと信じないでしょう。 観る環境も、すっかり変わりました。スマホひとつで試合が見られて、見逃した試合は翌朝に配信で追いかけられる。ラジオもradikoで、全国の放送局が手のひらに収まる時代になりました。野球中継が「二十一時前に終わってしまう」悔しさを、いまの子どもたちは知らないでしょう。続きが気になるなら、指先ひとつで続きが手に入るのですから。 それでも、ふと思うのです。枕元の小さなラジオに耳を澄ませて、音だけで満員の球場を思い描いた、あの夜の豊かさのことを。見えないからこそ見えたものが、確かにあった気がします。情報がいくらでも手に入る時代になったからこそ、あの「音だけの夜」が、妙に贅沢なものだったように思えてくるのです。 みなさんには、「枕元のラジオ」の思い出はありますか。そして、初めて夢中になったワールドカップは、どの大会でしたか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 | 次の記事:6月14日 ── 蔵前が燃えた夜。猪木対ホーガン、そして長州力乱入 ▶

June 13, 2026

ドライブシュートだぁぁぁ ― ワールドカップ前夜に、四つ木と『キャプテン翼』を思う

明日、ワールドカップが開幕する 明日、二〇二六年六月十一日。北中米の三か国――アメリカ、カナダ、メキシコを舞台に、ワールドカップが開幕する。三つの国にまたがって行われるのは大会史上はじめてのことで、出場国はこれまでで最多の四十八か国にまでふくらんだ。開幕戦の地は、メキシコシティ。あの伝説的なスタジアム、エスタディオ・アステカに、世界中の目が集まる。 そして、私たちの日本代表も、当然のようにそこにいる。八大会連続、八度目の出場である。グループステージの初戦も、開幕からほんの数日後に控えている。眠い目をこすりながら、夜中や明け方にテレビの前に陣取る――そんな夏が、また始まろうとしている。 ――「当然のように」と書いて、ふと手が止まった。本当に、当然なのだろうか。少なくとも私が少年だったころの日本にとって、ワールドカップという舞台は、月の裏側のように遠い、手のとどかない場所だった。テレビの中の、よその国のお祭りだった。それが今では、出ていることに誰も驚かない。この四十年あまりで、私たちはずいぶん遠くまで来たものだと思う。 野球少年が、ボールを持ち出した日 時間を、その四十年あまり巻き戻したい。 一九八三年(昭和五十八年)十月十三日。木曜日の夜、テレビ東京系で一本のアニメがはじまった。『キャプテン翼』である。原作はその二年前から週刊少年ジャンプで連載がはじまっていたが、動いて、しゃべって、必殺シュートを放つ翼くんたちを茶の間で見たときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。汗くさい根性ものとはまるで違う、明るくて、爽やかで、空までボールが飛んでいきそうな世界だった。 そのとき私は十四歳、中学二年生。野球一筋の、バリバリの野球少年だった。バットを振り、白球を追うことしか頭になかった少年が、たった一本のアニメに足もとをすくわれた。サッカーである。野球少年でありながら、私はすっかりサッカーに夢中になってしまった。 思えば、あの作品にはずるいくらいの魅力があった。重力を無視したようなドライブシュート、二人で放つツインシュート、そして地を這うようなタイガーショット。スポーツの「正しさ」よりも、少年の「こうだったらいいのに」を真ん中に置いた世界。野球で鍛えた負けん気が、そっくりそのままサッカーへ流れ込んでいくのに、時間はかからなかった。 困ったのは、サッカーボールなど持っていなかったことだ。そこで私は、部活が終わったあと、こっそりと学校のサッカーボールを持ち出した。そして帰り道の途中にある空き地で、野球のユニフォーム姿のまま、ボールを蹴った。胸には野球部の誇り、足もとには翼くんへの憧れ。今思えば、なんともちぐはぐな格好だったろう。 それでも、私は本気だった。あるときは大空翼になり、あるときは岬太郎になり、あるときはライバルの日向小次郎になりきった。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と叫びながらボールを蹴り上げ、「タイガーショット!!」と、一人で実況までつけた。極めつけは帽子だ。野球少年のくせに、私はゴールキーパー・若林源三と同じアディダスの帽子をかぶっていた。野球帽ではなく、である。あのころの私の頭の中では、グラウンドとサッカー場の境目が、もう溶けてなくなっていたのだと思う。 そしてこれは、私だけのことではなかったはずだ。あの放送がはじまってから、全国の公園や空き地は、ボールを追う少年たちであふれかえった。それまで野球少年ばかりだった日本の原っぱの景色を、一本のアニメが塗り替えてしまったのだ。今の日本サッカーの土台には、あのとき足もとを変えられた、数えきれない少年たちがいる。私も、その末席に、確かにいた。 翼くんは、葛飾の子だった 大人になってから知って、思わず膝を打ったことがある。『キャプテン翼』の作者・高橋陽一先生が、私の暮らす葛飾区の、それも四つ木の出身だということだ。 作中で翼くんが所属するチーム「南葛」。この名前は、高橋先生の母校である東京都立南葛飾高校の略称からきているという。物語の舞台そのものはサッカー王国・静岡をイメージしているそうだが、その名前のルーツは、まぎれもなく、私たちの葛飾にあったのだ。テレビの向こうのまぶしい世界が、実はすぐ隣町とつながっていた。そう知ったときの、くすぐったいような誇らしさは、今でもうまく言葉にできない。 その縁もあって、今の四つ木界隈は、すっかり「キャプテン翼の街」になっている。京成電鉄の四ツ木駅は翼くんたちの名場面で彩られ、駅を出れば、高橋先生監修のキャラクター銅像が、四つ木・立石の各所に九体も点在している。最初の大空翼像が四つ木つばさ公園にお披露目されたのが二〇一三年。地元には作中と同じ名を冠したサッカークラブ「南葛SC」も生まれ、毎年一月には「キャプテン翼CUPかつしか」という大会まで開かれている。漫画の中の南葛が、現実の葛飾の街へと、ゆっくり染み出してきたようなものである。 九体の銅像を、走って巡った そして今日、二〇二六年六月十日。ワールドカップ開幕の前日に、私は仕事の休憩時間を使って、九体すべてをランニングで巡ってきた。名づけて「キャプテン翼銅像コンプリートラン」。総距離は、およそ七キロである。 出発は、翼くんたちの装飾でいろどられた京成・四ツ木駅。駅前のポケットパークに立つ石崎了から走り出し―― 四つ木公園の日向小次郎、 四つ木つばさ公園の大空翼、 めだかの小道のロベルト本郷と翼――このあたりは住宅街で信号も少なく、足が気持ちよく前へ出た。 葛飾郵便局前の中沢早苗、 渋江公園の岬太郎を過ぎると、道はいよいよ立石エリアへ。 下町の商店街の匂いの中を進み、立石みちひろばで若林源三と再会したときには、思わず足が止まった。中学のころ、野球少年のくせに、わざわざ同じアディダスの帽子をかぶっていた、あの守護神である。 そして奥戸街道を東へ。最後にたどり着いたゴールは、南葛飾高校の前に立つ、ツインシュートの翼像だった。 走り終えて、はっとした。出発点は翼くんの装飾に包まれた駅、そして終着点は、「南葛」という名前そのものが生まれた高校の前。私はこの七キロで、知らず知らずのうちに、物語の名前の故郷まで走り着いていたことになる。よくできた円環だと、一人で妙に感心してしまった。 走りながら、おかしくなって、つい笑ってしまった。四十年あまり前、放課後の空き地まで、こっそり持ち出したサッカーボールを抱えて走っていったあの少年が、今は仕事の合間に、同じ葛飾の路地を、銅像を追いかけて走っている。格好こそ違え、やっていることはちっとも変わっていない。翼くんに会いに行くためなら、私はいつだって走り出してしまうらしい。 あの空き地で、私が一人何役もこなして「なりきって」いた翼も、岬も、小次郎も若林も、今は確かなかたちを与えられて、私の暮らす町に立っている。憧れて真似していたヒーローたちの足もとに、五十代も半ばを過ぎた私が、息を切らせて立つ。なんだか、長い夢の続きの中を走っているような心地だった。 その『キャプテン翼』も、二〇二五年の春、四十三年にわたる長い連載に幕を下ろした。私が中学二年で出会った翼くんは、私が還暦を前にするまで、ずっとどこかで走り続けていたことになる。今日、銅像となって動かない翼くんの前に立っても、不思議と「終わった」という感じはしなかった。むしろ、ここから先はきみたちを見てきた私たちが走る番だ、とでも言われているような気がした。 「ワールドカップ」という、かつての夢のゴール 最初の翼像の除幕式で、高橋先生はこんなことを語っていたという。この作品のゴールは、大空翼がワールドカップの舞台に立ち、そこで活躍することだ、と。 このひとことに、私はしばらく胸を掴まれた。 考えてみてほしい。翼くんがテレビの中を駆け回っていたあのころ、現実の日本代表は、ワールドカップに一度も出たことがなかった。ワールドカップで活躍することなど、漫画の中だけの、それこそ翼くんの夢物語だったのだ。空き地でドライブシュートを蹴っていた野球少年の私も、まさか自分が生きているうちに、日の丸を背負った選手たちが本当にあの舞台に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。 それが、どうだろう。今や日本代表は八大会連続の出場を果たし、選手たちは「ワールドカップ優勝が目標」と、ためらいなく口にする。そして私たち国民も、「もしかしたら」と、本気で期待してしまう時代になった。翼くんがひたむきに追いかけた夢のゴールに、現実のほうがいつのまにか追いつき、いまや肩を並べ、追い越そうとさえしている。漫画が現実の先を走り、現実が必死にそれを追いかけ、そしてとうとう手が届いた。これは、本当に、すごいことだ。 明日、開幕の笛が鳴る。テレビの前に座るとき、私はきっと、今日めぐった九体の銅像を――そしてその向こうに、あの空き地で、野球のユニフォームのままボールを蹴っていた十四歳の自分を思い出すだろう。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と、誰もいない原っぱで叫んでいた、あの少年を。あの少年に、教えてやりたい。きみが夢中で真似していたあの夢物語は、いつか本物になるんだよ、と。そして四十年あまり経っても、きみはやっぱり、翼くんを追いかけて走っているよ、と。 あなたには、サッカーにまつわる「あのころの夢」が、ありますか。 【コースガイド】キャプテン翼銅像コンプリートラン(約7km) 最後に、今日走ったコースを記しておきます。葛飾の下町を巡りながら、翼くんたちに会える約7キロ。走ってみたい方は、ぜひ。 スタート:京成四ツ木駅(駅前のラッピング・翼の装飾を見てから出発) ① 石崎了像 ― 四ツ木駅前ポケットパーク(駅から徒歩1分) ② 日向小次郎像 ― 四つ木公園(平和橋通りを北へ/約300m) ③ 大空翼像 ― 四つ木つばさ公園(北東方向へ/約450m) ④ ロベルト本郷&翼像 ― めだかの小道(木根川中央公園方向へ/約500m) ⑤ 中沢早苗像 ― 葛飾郵便局前(約350m) ⑥ 岬太郎像 ― 渋江公園(平和橋通り方向へ/約900m) ⑦ 翼〈ヒールリフト〉像 ― 立石一丁目児童遊園(約800m) ⑧ 若林源三像 ― 立石みちひろば(京成立石駅方面へ/約900m) ⑨ 翼〈ツインシュート〉像 ― 南葛飾高校前(奥戸街道を東へ/約1.3km) ゴール! ...

June 10, 2026

雨の御茶ノ水、人の手が掘った谷を走る

東京ドームでの応援を終えて外に出ると、空は薄墨色で、小雨がぽつぽつと落ちていた。傘をさすほどでもない。こういう日は、いっそ走り出してしまったほうが気持ちがいい。 水道橋から神田川沿いに出る。川は深い谷の底を流れていて、両岸の石垣は一面、蔦と夏草に覆われている。梅雨どきの緑は、晴れた日よりもずっと濃い。雨に濡れて、葉の一枚一枚が光っているように見えた。 谷の底を、電車がすれ違う 御茶ノ水のあたりまで来ると、谷はいよいよ深くなる。眼下を中央線のオレンジと総武線の黄色がすれ違い、特急が静かに滑り込んでいく。崖の上には順天堂の新しいタワーや、ガラス張りのビルが並ぶ。電車と、川と、高層ビルが、ひとつの画面の中に層になって重なっている。東京でもなかなか出会えない景色だ。 ここに来るといつも、ひとつ不思議に思うことがある。 ——この谷は、自然にできたものではない。 四百年前、誰かが山を割った 実はこの渓谷は、四百年前に人の手で掘られたものだ。もともとここには神田山と呼ばれる台地(今の本郷台地)があった。江戸の洪水対策と外堀づくりのために、その台地を真っ二つに掘り割って川を通した。元和六年(1620)、徳川秀忠の命を受けて工事を担ったのが、仙台藩の伊達政宗。だからこの区間は今も「仙台堀」と呼ばれている。のちに四代藩主・綱村が川幅を広げ、おおよそ今の姿になった。 スコップも重機もない時代に、山を割って谷をつくる。雨に濡れた石垣をのぼる蔦を見上げながらそのことを思うと、足が少し止まってしまう。 聖橋にも、昭和が残っている 谷に架かる聖橋も、由来をたどると面白い。あの優美なコンクリートのアーチ橋は、昭和二年(1927)、関東大震災からの復興事業として架けられたものだ。設計は当時まだ若かった建築家・山田守。「聖橋」という名前は公募で決まったもので、両岸に建つ湯島聖堂とニコライ堂、二つの「聖堂」を結ぶことに由来している。 江戸の土木、昭和の復興、そして令和のガラスのビル。この谷の上では、ぜんぶの時間が一度に見えてしまう。 走る速さは、気づくための速さ 走るというのは、こういう景色とすれ違うためにちょうどいい速さなのかもしれない。車では速すぎて、歩きでは少し遠い。雨の日にゆっくり走っていると、いつもなら通り過ぎてしまう「誰かの手仕事」に、ふと目が留まる。 このあと湯島の坂を上がって、上野へ。京成上野の駅前で足を止めたころには、雨はほとんど上がっていた。四キロちょっとの、寄り道だらけの観光ラン。記録はたいしたことないけれど、四百年と昭和とをまたいで走った気がして、なんだか少し得をした気分になった。 走って考えたことシリーズ、ほかの記事はこちら▼ ドライブシュートだぁぁぁ──四つ木と『キャプテン翼』を思う 厚底シューズ歴7年の私が「ワラーチ」で走ったら、ニヤけが止まらなくなった話 『坂の上の雲』と正岡子規の野球──上野公園に残る明治のベースボール

June 8, 2026

5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた

昭和27年(1952年)の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。 野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。 その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。 そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。 昭和27年 ラジオの前に家族が集まった夜 白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。 彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(アメリカ)に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。 当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。 白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。 その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。 テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ(NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年)。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。 83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。 白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。 昭和50年代 テレビの前にかじりついた夜 それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。 「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。 具志堅用高は昭和51年(1976年)10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年(1981年)3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。 小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。 試合の夜は特別だった。 ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。 具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー!」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。 白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。 令和の今 スマホの画面に映る「モンスター」 そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。 井上尚弥だ。 神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。 何がそこまで凄いのか。 軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。 しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。 忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。 海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド(階級の差を取り払った最強ランキング)で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。 ところで、どこで見るのか問題 ただし、である。 井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。 主な視聴方法は今やこうなっている。 まずAmazon Prime Video。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次にLemino(NTTドコモ系の配信サービス)。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それからWOWOW。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。 地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。 昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。 でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。 かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。 ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても 昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。 昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。 令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。 道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。 白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。 5月19日、ボクシングの日。 後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。 昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 | 次の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 ▶

May 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた

今日は4月29日。 今は「昭和の日」と呼ばれているこの祝日、昭和の時代には「天皇誕生日」という名前だった。学校は休みで、街全体がどこかお祝いムードに包まれていた、あの春の日。 ゴールデンウィークの始まりでもあって、子どもにとっては嬉しくてたまらない一日だった。 そんな4月29日という日に、昭和40年代から64年のあいだ、いったい何が起きていたのか。今回は、私自身が「知らなかった」と驚いた出来事を3つ、掘り起こしてみた。 昭和48年(1973年)4月29日──黒と白のゲームが、この日に生まれた オセロの盤と石(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン) 「オセロ」が発売されたのは、昭和48年のこの日だ。 黒と白のコマを置いて、相手のコマを挟んでひっくり返す。ルールはシンプルなのに、一手ごとに形勢がガラリとひっくり返る。あの独特の緊張感は、子どもの頃に家族や友達と何度も経験したはずだ。 発売したのは株式会社ツクダ。発明したのは茨城県水戸市出身の長谷川五郎さんという人物で、なんと牛乳びんのフタを改造してコマの試作品を作り、玩具メーカーに売り込んだのが始まりだという。 企画段階でメーカー側が検討していた名前は、前年に中国から贈られて日本中の人気者になっていたジャイアントパンダにちなんで「ランランとカンカン」が有力候補だったそうだ。 なるほど、昭和48年はパンダ旋風が巻き起こっていた年でもあった。もしその名前になっていたら、今ごろどうなっていただろうか。 「覚えるのは1分、極めるのは一生」。そのキャッチコピーのとおり、オセロは今も世界中で愛されているボードゲームだ。あの黒と白は、昭和48年の4月29日に産声を上げた。 昭和60年(1985年)4月29日──「皇帝」が、五冠に輝いた日 競馬の話を一つ。 昭和60年のこの日、シンボリルドルフが天皇賞(春)を制して、史上2頭目となる「五冠馬」に輝いた。 シンボリルドルフは、前年の昭和59年に史上初の無敗での三冠を達成した名馬だ。皐月賞、ダービー、菊花賞をすべて勝って、そのまま有馬記念も制した。翌年も日経賞を圧勝し、そして迎えたこの天皇賞(春)でも、もう一頭の三冠馬・ミスターシービーの奇襲を冷静にかわして優勝。表彰式で騎手の岡部幸雄が高々と5本指を掲げた映像は、競馬ファンなら知っている名シーンだ。 「競馬に絶対はない」というのがこの世界の常識だが、この馬には絶対があると言われた。のちに「皇帝」「七冠馬」と呼ばれるシンボリルドルフの、その五冠目の勝利がこの日だった。 4月29日は天皇誕生日。そして「天皇賞」という名のレースが行われる日。まるで誂えたような一致だと思った。 昭和52年(1977年)4月29日──19歳の大学生が、日本一になった スポーツをもう一つ。 全日本柔道選手権大会は毎年4月29日、東京の日本武道館で開かれていた。体重の区別なし、体格も年齢も関係なく、すべての選手が同じ畳の上で戦う。日本最高峰の一本勝負だ。 昭和52年のこの日、一人の大学2年生が日本中を驚かせた。 山下泰裕、19歳。 決勝でオリンピック銅メダリストを判定で制し、史上最年少での優勝を果たした。まだ大学の授業を受けているような年齢で、日本一の称号を手にしたのだ。それまで「怪童」と呼ばれていたこの青年は、この日から「怪物」と呼ばれるようになった。 その後の山下泰裕はご存知のとおり。全日本選手権9連覇、ロサンゼルスオリンピック金メダル、公式戦203連勝。2019年にはギネス世界記録にも認定されている。 おわりに 昭和40〜64年の4月29日には、こんな出来事があった。 牛乳びんのフタから生まれたオセロ。5本指を高く掲げた騎手。19歳で日本一になった怪物。 どれもあの「天皇誕生日」という祝日の空気の中で起きた出来事だ。昭和を生きた私たちにとって、4月29日はそういう日だった。 あなたの記憶の中の4月29日と、ここで書いた出来事が、どこかで交差してくれたら嬉しい。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた ▶

April 29, 2026