雨の御茶ノ水、人の手が掘った谷を走る

東京ドームでの応援を終えて外に出ると、空は薄墨色で、小雨がぽつぽつと落ちていた。傘をさすほどでもない。こういう日は、いっそ走り出してしまったほうが気持ちがいい。 水道橋から神田川沿いに出る。川は深い谷の底を流れていて、両岸の石垣は一面、蔦と夏草に覆われている。梅雨どきの緑は、晴れた日よりもずっと濃い。雨に濡れて、葉の一枚一枚が光っているように見えた。 谷の底を、電車がすれ違う 御茶ノ水のあたりまで来ると、谷はいよいよ深くなる。眼下を中央線のオレンジと総武線の黄色がすれ違い、特急が静かに滑り込んでいく。崖の上には順天堂の新しいタワーや、ガラス張りのビルが並ぶ。電車と、川と、高層ビルが、ひとつの画面の中に層になって重なっている。東京でもなかなか出会えない景色だ。 ここに来るといつも、ひとつ不思議に思うことがある。 ——この谷は、自然にできたものではない。 四百年前、誰かが山を割った 実はこの渓谷は、四百年前に人の手で掘られたものだ。もともとここには神田山と呼ばれる台地(今の本郷台地)があった。江戸の洪水対策と外堀づくりのために、その台地を真っ二つに掘り割って川を通した。元和六年(1620)、徳川秀忠の命を受けて工事を担ったのが、仙台藩の伊達政宗。だからこの区間は今も「仙台堀」と呼ばれている。のちに四代藩主・綱村が川幅を広げ、おおよそ今の姿になった。 スコップも重機もない時代に、山を割って谷をつくる。雨に濡れた石垣をのぼる蔦を見上げながらそのことを思うと、足が少し止まってしまう。 聖橋にも、昭和が残っている 谷に架かる聖橋も、由来をたどると面白い。あの優美なコンクリートのアーチ橋は、昭和二年(1927)、関東大震災からの復興事業として架けられたものだ。設計は当時まだ若かった建築家・山田守。「聖橋」という名前は公募で決まったもので、両岸に建つ湯島聖堂とニコライ堂、二つの「聖堂」を結ぶことに由来している。 江戸の土木、昭和の復興、そして令和のガラスのビル。この谷の上では、ぜんぶの時間が一度に見えてしまう。 走る速さは、気づくための速さ 走るというのは、こういう景色とすれ違うためにちょうどいい速さなのかもしれない。車では速すぎて、歩きでは少し遠い。雨の日にゆっくり走っていると、いつもなら通り過ぎてしまう「誰かの手仕事」に、ふと目が留まる。 このあと湯島の坂を上がって、上野へ。京成上野の駅前で足を止めたころには、雨はほとんど上がっていた。四キロちょっとの、寄り道だらけの観光ラン。記録はたいしたことないけれど、四百年と昭和とをまたいで走った気がして、なんだか少し得をした気分になった。

June 8, 2026

5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた

昭和27年(1952年)の5月19日、東京・後楽園球場に4万人の人間が詰めかけた。 野球の試合ではない。ボクシングだ。しかも特設リングをグラウンドの真ん中に組んで戦うというのだから、どれほど異様な熱気だったかが想像できる。 その夜から74年。5月19日は「ボクシングの日」として今も残っている。 そして私は今、この日付を眺めながら思う。日本人はずっと、ボクシングの世界チャンピオンに熱狂してきたのだ、と。時代ごとに「チャンピオン」は変わり、「熱狂の道具」も変わった。でも熱狂そのものは、変わらなかった。 昭和27年 ラジオの前に家族が集まった夜 白井義男という名前を、今の若い人はほとんど知らないだろう。でも昭和の大人たちに聞けば、きっと目が変わる。 彼は昭和27年5月19日、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノ(アメリカ)に15回判定勝ちし、日本人として初めてプロボクシングの世界王者となった。 当時の世界ボクシングにはフライ級からヘビー級まで8つの階級しかなかった。世界チャンピオンは地球上に8人しかいない、ということだ。その「世界の8分の1」に、敗戦からまだ7年しか経っていない日本人がなってしまった。 白井の戦い方は独特だった。「打たれたら打ち返す」が当時の日本ボクシングの常識だったのに対し、彼は「打たせないで打つ」スタイルを貫いた。それを仕込んだのは、GHQの職員として来日していたアルビン・カーン博士というアメリカ人。ボクシングの経験はほとんどないのに、スポーツ生理学の知識を武器に白井を育て上げた。このちょっと不思議なコンビが、日本に初めての世界チャンピオンをもたらした。 その夜、4万人が詰めかけた後楽園球場に来られなかった人々はどうしていたか。 テレビはまだほとんどの家庭にない時代だ(NHKのテレビ放送が始まるのは翌昭和28年)。だから人々はラジオに耳をかっていた。この試合のラジオ聴取率は83%を記録したという。日本中の家が、ラジオの前で固まっていたのだ。 83%という数字の凄まじさを想像してみてほしい。日本中の家がほぼ全部で、同じ音声を聴いている。家族全員が息を殺して、アナウンサーの声に耳を澄ませている。15ラウンドを戦い抜いて判定が告げられた瞬間、ラジオの前でも飛び上がった家族がいたに違いない。 白井が勝ったことは、単純な「スポーツで勝った」ではなかったと思う。あの戦争から立ち直れるんだ、という証明だった。敗戦後の日本人が、自分自身を取り戻す一つの節目。後楽園球場の4万人の歓声は、そういう重さを持っていた。 昭和50年代 テレビの前にかじりついた夜 それから四半世紀が過ぎ、日本は高度経済成長を経て、テレビが一家に一台の時代になっていた。 「私にとってのボクシング世界チャンピオンは具志堅用高だ」と言える世代は、おそらく昭和40年代生まれ前後だろう。その感覚、私にはよくわかる。 具志堅用高は昭和51年(1976年)10月10日にWBA世界ライトフライ級王座を獲得し、そこから昭和56年(1981年)3月8日まで、約4年5か月にわたってチャンピオンに君臨し続けた。13回連続防衛。これは長い間、日本記録だった。 小学生の間ずっと「世界チャンピオンが具志堅用高」という状況だったのだから、それはもう「当たり前の風景」のように感じていたはずだ。 試合の夜は特別だった。 ふだんはボクシングにそれほど興味がなくても、具志堅用高の世界タイトルマッチとなれば話は別だった。テレビの前にかじりついて応援した。家族みんなで。それが当時の日本の、ゴールデンタイムの風景だった。 具志堅の魅力は、強さだけではなかった。独特のアフロヘアと、沖縄訛りの底抜けに明るいキャラクター。「ちばりよー!」という言葉が全国に広まり、沖縄出身の若者が日本中のヒーローになった。那覇の小さな少年がここまで来たんだという物語が、日本人の感情を揺さぶった。 白井義男の時代に「83%のラジオ」があったとすれば、具志堅用高の時代には「茶の間のテレビ」があった。ゴールデンタイムに全国生中継。チャンネルを変えるという選択肢がない時代、日本中が同じ画面を見ていた。 令和の今 スマホの画面に映る「モンスター」 そして今、令和の日本に「モンスター」がいる。 井上尚弥だ。 神奈川県座間市出身、1993年生まれ。ライトフライ級から始まり、スーパーバンタム級まで世界4階級を制覇した。愛称は「モンスター」。 何がそこまで凄いのか。 軽量級というのは、一般に「判定が多い」と言われる。体重が軽い分、一発でKOするほどのパワーを出しにくいからだ。ところが井上尚弥は、世界王者クラスの相手でも試合を終わらせてしまう。ボディブロー、左フック、カウンター、連打——どれもが凶器になる。特にボディ打ちは「内臓をえぐる」とまで表現されるほどだ。 しかも、スピード・テクニック・パワーのどれか一つが突出しているのではなく、全部がトップ水準にある。ボクシング関係者から「欠点が少なすぎる」と言われるゆえんだ。 忘れられない試合がある。2019年のノニト・ドネア戦。井上選手は眼窩底骨折を負いながら激闘を制し、強さだけでなく精神力と修正能力を世界に示した。2023年のスティーブン・フルトン戦では階級を上げて挑み、内容で圧倒してTKO勝利。「井上尚弥は本物中の本物」という評価が決定的になった試合だった。 海外でも評価は高い。パウンド・フォー・パウンド(階級の差を取り払った最強ランキング)で常に上位に名前があり、アメリカやイギリスでもスター選手扱いだ。「日本ボクシング史上最高のボクサー」と評価する声は、国内にとどまらない。 ところで、どこで見るのか問題 ただし、である。 井上尚弥の試合を見たいと思ったとき、かつてのような「テレビをつければゴールデンタイムにやっている」という状況ではなくなっている。 主な視聴方法は今やこうなっている。 まずAmazon Prime Video。近年の日本開催ビッグマッチはAmazonが独占することが多く、プライム会員なら追加料金なしで生配信を観られる。次にLemino(NTTドコモ系の配信サービス)。ボクシング関連コンテンツを多く扱っており、無料部分もある。それからWOWOW。海外開催の試合やビッグマッチで今も放送される。以前より頻度は減ったが、ボクシング中継の伝統は残っている。 地上波テレビはどうなったかというと、具志堅用高の時代、辰吉丈一郎の時代、亀田興毅の時代のような「ゴールデンタイム全国生中継」はかなり減った。放映権料の高騰、配信サービスの普及、若年層のテレビ離れ、配信会社による独占契約——理由はいくつか重なっている。 昭和世代からすれば「寂しい」と感じる変化かもしれない。茶の間のテレビで家族みんなが見ていたあの感覚は、もう戻らない。 でも、実は今のほうが「見やすい」面もある。 かつては深夜開始の試合もあった。録画に失敗することもあった。延長で別の番組がズレることもあった。今はスマホでも観られるし、Amazon Prime Videoなら高画質・見逃し配信・一時停止が当たり前だ。テレビに接続すれば大画面でも楽しめる。「意外と便利」と感じている昭和・平成世代も多いはずだ。 ラジオ、テレビ、スマホ。道具は変わっても 昭和27年、日本中がラジオの前で固まって白井義男を応援した。 昭和50年代、日本中が茶の間のテレビで具志堅用高にかじりついた。 令和の今、日本中がスマホやタブレットの画面で井上尚弥を追いかけている。 道具は変わった。でも熱狂は変わっていない。 白井義男が戦後の日本人に「俺たちも世界一になれる」という夢を見せたように、具志堅用高が沖縄の少年を「日本中のヒーロー」にしたように、井上尚弥は今まさに「日本人が世界の頂点に立てる」ことを体で証明し続けている。 5月19日、ボクシングの日。 後楽園球場に4万人が詰めかけたあの夜から、時代は変わった。でも変わらないものが、ちゃんとある。 昭和50年代当時、具志堅用高の試合は何度ゴールデンタイムで中継されたことか。ボクシングにさほど興味のない私でさえテレビの前にかじりついていたのだから、それがどれほど特別な時間だったかがわかる。そういう「日常の中の非日常」が、もう少しテレビにあってもいいのになあと、たまに思う。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 | 次の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 ▶

May 18, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた

今日は4月29日。 今は「昭和の日」と呼ばれているこの祝日、昭和の時代には「天皇誕生日」という名前だった。学校は休みで、街全体がどこかお祝いムードに包まれていた、あの春の日。 ゴールデンウィークの始まりでもあって、子どもにとっては嬉しくてたまらない一日だった。 そんな4月29日という日に、昭和40年代から64年のあいだ、いったい何が起きていたのか。今回は、私自身が「知らなかった」と驚いた出来事を3つ、掘り起こしてみた。 昭和48年(1973年)4月29日──黒と白のゲームが、この日に生まれた オセロの盤と石(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン) 「オセロ」が発売されたのは、昭和48年のこの日だ。 黒と白のコマを置いて、相手のコマを挟んでひっくり返す。ルールはシンプルなのに、一手ごとに形勢がガラリとひっくり返る。あの独特の緊張感は、子どもの頃に家族や友達と何度も経験したはずだ。 発売したのは株式会社ツクダ。発明したのは茨城県水戸市出身の長谷川五郎さんという人物で、なんと牛乳びんのフタを改造してコマの試作品を作り、玩具メーカーに売り込んだのが始まりだという。 企画段階でメーカー側が検討していた名前は、前年に中国から贈られて日本中の人気者になっていたジャイアントパンダにちなんで「ランランとカンカン」が有力候補だったそうだ。 なるほど、昭和48年はパンダ旋風が巻き起こっていた年でもあった。もしその名前になっていたら、今ごろどうなっていただろうか。 「覚えるのは1分、極めるのは一生」。そのキャッチコピーのとおり、オセロは今も世界中で愛されているボードゲームだ。あの黒と白は、昭和48年の4月29日に産声を上げた。 昭和60年(1985年)4月29日──「皇帝」が、五冠に輝いた日 競馬の話を一つ。 昭和60年のこの日、シンボリルドルフが天皇賞(春)を制して、史上2頭目となる「五冠馬」に輝いた。 シンボリルドルフは、前年の昭和59年に史上初の無敗での三冠を達成した名馬だ。皐月賞、ダービー、菊花賞をすべて勝って、そのまま有馬記念も制した。翌年も日経賞を圧勝し、そして迎えたこの天皇賞(春)でも、もう一頭の三冠馬・ミスターシービーの奇襲を冷静にかわして優勝。表彰式で騎手の岡部幸雄が高々と5本指を掲げた映像は、競馬ファンなら知っている名シーンだ。 「競馬に絶対はない」というのがこの世界の常識だが、この馬には絶対があると言われた。のちに「皇帝」「七冠馬」と呼ばれるシンボリルドルフの、その五冠目の勝利がこの日だった。 4月29日は天皇誕生日。そして「天皇賞」という名のレースが行われる日。まるで誂えたような一致だと思った。 昭和52年(1977年)4月29日──19歳の大学生が、日本一になった スポーツをもう一つ。 全日本柔道選手権大会は毎年4月29日、東京の日本武道館で開かれていた。体重の区別なし、体格も年齢も関係なく、すべての選手が同じ畳の上で戦う。日本最高峰の一本勝負だ。 昭和52年のこの日、一人の大学2年生が日本中を驚かせた。 山下泰裕、19歳。 決勝でオリンピック銅メダリストを判定で制し、史上最年少での優勝を果たした。まだ大学の授業を受けているような年齢で、日本一の称号を手にしたのだ。それまで「怪童」と呼ばれていたこの青年は、この日から「怪物」と呼ばれるようになった。 その後の山下泰裕はご存知のとおり。全日本選手権9連覇、ロサンゼルスオリンピック金メダル、公式戦203連勝。2019年にはギネス世界記録にも認定されている。 おわりに 昭和40〜64年の4月29日には、こんな出来事があった。 牛乳びんのフタから生まれたオセロ。5本指を高く掲げた騎手。19歳で日本一になった怪物。 どれもあの「天皇誕生日」という祝日の空気の中で起きた出来事だ。昭和を生きた私たちにとって、4月29日はそういう日だった。 あなたの記憶の中の4月29日と、ここで書いた出来事が、どこかで交差してくれたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた ▶

April 29, 2026