9月6日 ── 銀のエンゼルと、言えなかった「欲しい」|昭和の今日は何があった日?
今日は9月6日。 数字の語呂合わせでできた記念日が、この日はやたらと多い日です。「く(9)ろ(6)」で黒の日、黒豆の日、黒酢の日。「ク(9)リーム(6)」で生クリームの日。そんな中に、昭和の子どもにとって一番なじみ深い一つがあります。 「キ(9)ョロ(6)ちゃんの日」。森永製菓が制定した、チョコボールの日です。 そしてもう一つ。この9月6日は、昭和の子どもたちの頭の中に巨大ロボットを住みつかせた、あの漫画家の誕生日でもあります。 永井豪。1945年(昭和20年)9月6日生まれ。 駄菓子屋の棚と、テレビの中のロボット。まったく別の場所にあった二つが、9月6日という一日でつながっている。今日はその話をします。 選ぶのは、必ずピーナッツだった チョコボールが世に出たのは1967年(昭和42年)。私が生まれる2年前のことです。 当時、チョコレートといえば板チョコが主流で、子どもが気軽に買えるお菓子ではありませんでした。森永製菓は1964年に大人向けの高級チョコレート「ハイクラウン」を大ヒットさせており、その次に「子どもたちも楽しめるチョコレートを」という発想で生まれたのがチョコボールでした。粒状で、手が汚れない。この「手につかない」というのが、実は大きな発明だったのだと思います。 パッケージにあの鳥のキャラクターが登場したのも1967年。ちょっとドジで憎めないあの顔は、子どもたちのほうが先に受け入れてしまいました。 そして仕掛けが、エンゼルマークです。箱のくちばしの部分を開くと、内側に金か銀のエンゼルが印刷されていることがある。金なら1枚、銀なら5枚で「おもちゃのカンヅメ」がもらえる。景品の歴史は1967年2月の「まんがのカンヅメ」に始まり、1969年4月に「おもちゃのカンヅメ」として本格的にスタートしました。第1弾の缶に描かれていたのは、タツノコプロのアニメ『ドカチン』。1973年にはウルトラマンや『科学忍者隊ガッチャマン』が缶を飾るようになります。テレビっ子の視線を、お菓子メーカーがきっちり読んでいたわけです。 私にとってチョコボールは、頻繁に買えるお菓子ではありませんでした。買ってもらえるのは、母の高砂のイトーヨーカドーへの買い物についていったときです。売り場で「何か買っていいよ」と声がかかる。あの一言のための買い物同行だったと言ってもいい。 選ぶのは、必ずピーナッツでした。他の味に浮気した記憶がありません。今思えば、母のほうも「まあこれを選ぶんだろうな」と分かったうえで声をかけていたのでしょう。 エンゼルは、銀しか当たったことがありません。そして5枚集まるまでくちばしを保管できたことも、ついに一度もありませんでした。集めているつもりでいるうちに、どこかへいってしまう。あれは全国の子どもに共通の結末だったんじゃないでしょうか。 その、必ず選んでいたピーナッツです。20個入りで届きます。くちばしを開ける瞬間だけは、いまも変わりません。 森永製菓 チョコボール〈ピーナッツ〉 28g×20個1967年発売のロングセラー。箱のくちばしを開けると、金か銀のエンゼルが出ることがあります。星4.0(72件) Amazonで見る › テーブルの上の、100円玉が2枚 小学生の頃、私のお小遣いは1日100円でした。 母はパートタイマーの仕事に出ていて、学校から帰ると家には誰もいません。テーブルの上に置き手紙があって、「お帰りなさい」と書かれている。その脇に100円玉が2枚。私の分と、妹の分です。 決して少ない額ではなかったと思います。友だちと比べて劣等感を覚えたことは一度もありませんでした。その100円は、もっぱら遊びの途中の買い食いに消えていきます。駄菓子屋で使い切って帰る、その繰り返しでした。 「これは買っちゃだめ」と言われた記憶がないのは、そもそも言われるほどの金額を持っていなかったからかもしれません。100円という枠が、最初から線を引いてくれていた。 同じ9月6日に生まれた男 さて、もう一人の主役です。 永井豪さんは1945年9月6日、石川県輪島市に生まれました。7歳だった1952年から東京・豊島区で育ち、都立板橋高校を卒業。幼い頃に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことが、漫画家を志すきっかけだったといいます。 石ノ森章太郎のアシスタントを務めたのち、デビューは1967年。『ぼくら』(講談社)に載った『目明しポリ吉』でした。 1967年。チョコボールが世に出て、キョロちゃんが生まれたのと、同じ年です。 翌1968年には『週刊少年ジャンプ』で『ハレンチ学園』の連載が始まり、たちまち大ブームになる一方、PTAをはじめとする大人たちから猛烈な批判を浴びます。1969年4月にはダイナミックプロダクションを設立。奇しくも、おもちゃのカンヅメが始まったのと同じ月でした。 そして1972年(昭和47年)、『デビルマン』と『マジンガーZ』が漫画とテレビで同時に走り出します。 このとき永井豪さんがやったことは、いま振り返ると異様に大きい。それまでの巨大ロボットは、リモコンで外から操縦するものでした。それを「人が乗り込んで、自分の体のように動かす」ものに変えた。ロボットが道具から乗り物になり、子どもは自分がその中に座っている想像ができるようになったのです。 『マジンガーZ』を、私は途中からですが確かに見ています。1974年9月の最終回で、ぼろぼろになったマジンガーZの前にグレートマジンガーが現れる、あの回もリアルタイムで見ました。5歳のときです。続く『UFOロボ グレンダイザー』は、6歳の秋から。こちらは最初からリアルタイムでした。 『デビルマン』は、おそらく再放送だったのだと思います。意識して待っていたわけではなく、夕方にテレビをつけたらデビルマンがやっていたから見る、という温度感でした。 その『デビルマン』の原作は、いまも手に入ります。夕方に何気なく見ていたあの話が、紙の上ではどこへ向かっていたのか。読み返すと、たぶん驚きます。 デビルマン(画業50周年愛蔵版)全5巻永井豪とダイナミックプロ/小学館。1972年連載の原作を全5巻にまとめた愛蔵版。星4.7(30件) Amazonで見る › 60センチの、言えなかった「欲しい」 永井豪さんの発明は、テレビの中だけでは終わりませんでした。玩具メーカーのポピーが、そのロボットを子どもの手の中に持ってきます。1974年末に登場した超合金の第1号がマジンガーZ。ずしりと重い金属の手ざわりで、ロケットパンチが飛ぶ。 ...