昭和46年9月18日。この日、日清食品が「カップヌードル」を発売した。世界で初めての、カップに入った即席麺である。
私はそのとき二歳五か月だった。当然、発売のニュースなど知るはずもない。ただ、この日に生まれた食べものは、そのあと五十年以上にわたって私の人生のあちこちに顔を出すことになる。小学校の帰り道にも、部活で疲れ切った夜にも、浪人中の深夜のコンビニにも、そして今の仕事の合間にも。
九月十八日は、私にとって「気づいたときにはもうそこにあったもの」が始まった日だ。
百円のカップと、割られた袋麺
カップヌードルを生んだのは、日清食品の創業者・安藤百福である。昭和33年に「チキンラーメン」で即席麺というものを世に出した人物だ。

日清が語り継いでいる有名な逸話がある。安藤がアメリカに渡って袋麺の売り込みをしたとき、現地の担当者が袋を開けて麺を割り、紙コップに入れ、湯を注いでフォークで食べはじめた。日本のようにどんぶりと箸があるとは限らない。ならば器ごと売ってしまえばいい ― そこからカップ入りの即席麺という発想が生まれた、という話である。
しかし、実際に商品にするまでの道のりは長かった。麺をカップの中でどう支えるか。上から落とし込んでも麺は底まで沈んでしまい、湯の回りが悪くなる。日清が編み出したのは、麺を容器の中ほどで止めるという構造だった。麺の下に空間ができ、注がれた湯が上下から均等に回る。カップを逆さにして麺をかぶせる、という発想の転換だったといわれる。
容器は発泡スチロール。当時としてはまだ高級な素材で、熱い湯を注いでも手で持てて、そのまま器になる。ふたを開ければフォークが付いている。エビ、肉、卵 ― 具が最初から入っている。

価格は百円だった。当時の袋入り即席麺が三十円前後だったことを思えば、三倍以上である。「ラーメン一杯に百円も出すのか」という値段だった。
発売直後の売れ行きは、決してよくなかったという。転機になったのは同じ年の11月21日、銀座の歩行者天国での試食販売である。屋外で、湯さえあれば立ったまま食べられる。この売り方が当たり、若い客が長い列をつくった。

そして翌昭和47年2月、あの映像が茶の間に流れる。
三分間という長さ
子どもにとって、湯を注いでから三分というのは妙に長い時間だった。ふたを押さえていないと開いてしまうので、私は何かで重しをした記憶がある。時計の秒針を見ていたわけではない。ただ「そろそろかな」と思ったところで開ける。早すぎれば麺が固く、遅すぎれば伸びている。
今にして思えば、あれは子どもが自分ひとりで完結させられる、数少ない「調理」だった。火を使わない。包丁もいらない。湯さえあれば、自分の食べるものを自分で作れる。大人の手を借りずに腹を満たせるという小さな自立が、あの発泡スチロールのカップには入っていた。
大人の世界と、湯気の立つカップ
昭和47年2月、長野県の山荘に人質をとって立てこもった事件を、国じゅうがテレビで見ていた。極寒の現場で、機動隊員が湯気の立つカップを手にしている姿が映し出される。あれがカップヌードルだった。
この映像が全国に流れたことで、カップ麺は一気に知られる存在になったといわれている。売れ行きは跳ね上がった。
私が物心ついたころには、カップヌードルはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。テレビの中の非常事態と結びついていたことなど、知る由もない。食べものというのは、そうやって世代ごとに違う記憶をまとっていくのだろう。私にとってのカップヌードルは、事件の記憶ではなく、日常の記憶である。
カップヌードルを生んだ安藤百福本人が、チキンラーメンからカップヌードルまでの道のりを書いた自伝です。事業に失敗して無一文になったあと、四十八歳でチキンラーメンを生んだ人の話なので、五十代で読むと身にしみます。
深夜のレジの向こう側
昭和63年、私は浪人していた。予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週に四日入れながら、自分で受験勉強を進めていた。
コンビニの夜勤をしたことがある人なら分かると思うが、深夜の店内でいちばん存在感があるのはカップ麺の棚である。壁一面に積み上がって、客が来ない時間はただ静かにそこにある。
昭和46年に百円で売り出された「ぜいたくなラーメン」は、私が浪人をしていたころにはもう、深夜に誰でも買える当たり前の食べものになっていた。十七年で、ぜいたくは日常に変わる。

昭和51年9月18日、注射がひとつ消えた
同じ九月十八日に、もうひとつ書いておきたいことがある。
昭和51年9月18日、厚生省は全国の市町村に対し、種痘 ― 天然痘の予防接種 ― の定期接種を取りやめるよう通達した。日本では長く、法律に基づいて子どもに種痘を受けさせることになっていたが、接種による健康被害を訴える声が続き、国内で天然痘の患者が出なくなって久しかったこともあって、この日を境に「全員が受けるもの」ではなくなった。
天然痘そのものは、その後の昭和55年にWHOが根絶を宣言している。人類が根絶させた唯一の感染症である。
私の世代 ― 昭和44年生まれ ― は、種痘を受けた最後のあたりの世代にあたる。少しあとに生まれた者の腕には、もうあの跡がない。

腕の丸い跡は、言葉にされない世代の目印のようなものだ。年上の人の腕にはあり、若い人の腕にはない。何年に生まれたかが、皮膚に書いてある。
昭和46年9月18日に、生活に入ってきたものがある。昭和51年9月18日に、生活から出ていったものがある。同じ日付の五年違いに、入口と出口が並んでいるのが面白い。

湯を注ぐ、という習慣
バスの運転士という仕事をしていると、食事の時間は自分で選べない。折り返しまでの十五分、二十分で腹に入れるものが必要になる日がある。
昭和46年に百円で始まったものが、五十年以上たった今も、ほとんど同じ形のまま売られている。容器の素材は変わり、値段も変わったが、ふたを開けて、湯を注いで、三分待つという手順は変わっていない。
私が子どものころに覚えた三分間を、今の子どもたちもまったく同じようにやっている。昭和にできた習慣のうち、こんなに何も変えずに残ったものは、そう多くない。
みなさんが初めてカップ麺を食べたのは、いつ、どこでしたか。そして、みなさんの腕には、あの丸い跡がありますか。
五十年以上、手順の変わらない一杯です。折り返しの二十分に、家での夜食に。二十個入りを置いておくと、いざというときの備えにもなります。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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