駅で「みどりの窓口」の看板を見かけると、なぜだか少しほっとします。

券売機でもスマホでも買えない、ちょっと込み入ったきっぷ。乗り継ぎのややこしい旅程。そういうときに頼れる、人のいる窓口。その「みどりの窓口」が生まれたのが、昭和40年(1965年)の今日、9月24日です。

私が生まれる、4年前のことでした。

みどりの窓口(下関駅、2022年撮影)。(Photo: なしはな, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

正直に書くと、私自身はこの窓口とほとんど縁がないまま大人になりました。それでも今日は、この緑色の看板の話をしてみたいと思います。


電話と台帳の時代

みどりの窓口ができる前、特急や寝台の指定券はどうやって売られていたのか。

答えは「台帳」と「電話」です。列車ごとに座席の台帳があり、それを持つ駅や乗車券センターへ、窓口の駅員さんが電話で空席を問い合わせる。空いていれば押さえてもらい、きっぷを書いて渡す。1枚の指定券を出すのに1〜2時間かかることもあり、同じ座席を二重に売ってしまうことさえあったそうです。

これを変えたのが、コンピュータでした。国鉄は昭和35年から「マルス(MARS)」と呼ばれる座席予約システムを試験的に動かし始め、昭和40年9月24日、それを本格的に使う指定券の売り場を、全国の主要152駅と日本交通公社の83か所の営業所に一斉に開設します。これが「みどりの窓口」です。10月1日のダイヤ改正で走り出す列車から、発売が始まりました。

マルス101の中央装置室(昭和39年、国鉄秋葉原)。この部屋のコンピュータが、全国の窓口とつながっていた。(『JREA』1964年2月号より/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

開設を前にした昭和40年の夏には、新聞の新潟版で、県内3駅へのみどりの窓口設置が報じられています。両親のふるさとでも、同じ年に緑色のきっぷが売られ始めていたわけです。

名前の由来も、なかなか味わい深いものです。当時、駅にあらかじめ刷って置いてあるきっぷは赤や青の地紋が主流でした。ところがマルスの端末から打ち出される指定券は、淡い緑色だった。その緑色のきっぷを売る窓口だから、「みどりの窓口」。

コンピュータという最新の機械に、色の名前をつけて呼んだ。その素朴さが、いかにも昭和らしいなと思います。

みどりの窓口、六十年。


昭和五十年代、まだ国鉄だった全線をきっぷ一枚ずつ乗りつぶしていった人の記録です。時刻表の読み方そのものが旅になっていた頃の空気が、そのまま残っています。

時刻表2万キロ(河出文庫・Kindle版)
宮脇俊三/河出書房新社。サラリーマンをしながら国鉄全線約2万キロの完乗を目指した紀行。日本ノンフィクション賞受賞作。星4.3
Amazonで見る ›

京成の子と、金町駅

私が育ったのは、京成高砂駅のすぐそば、線路沿いの家でした。小さい頃は、線路をまたぐ歩道橋の上から、飽きもせずに電車を眺めていたものです。

高砂の歩道橋から見た線路。子どもの頃、飽きもせずここから電車を眺めていた。(筆者撮影)

ただ、私にとっての「いつもの電車」は、あくまで京成でした。いちばん身近な国鉄の駅は金町駅。とはいえ、日常的に使う駅ではありません。

子どもの私にとって、国鉄は「特別なお出掛けのときに乗る電車」でした。京成が毎日の足なら、国鉄はよそ行きの服を着て乗るもの。そんな感覚です。

だから、みどりの窓口とはまったく縁がありませんでした。緑の看板の前に並んだ記憶も、窓口の奥の機械を覗き込んだ記憶もない。指定席をとって遠くへ行く、ということ自体が、我が家の暮らしのなかにほとんどなかったのだと思います。


15歳の春、ひとりで新潟へ

そんな私にも、一度だけ、国鉄で遠くへ出かけた忘れられない旅があります。

私の両親は、ふたりとも新潟の出身です。母・時子は昭和13年、新潟の農家に生まれました。母は農作業が嫌で嫌で仕方なかったそうで、「早く東京へ出たかった」とよく言っていました。そうして東京へ出てきた両親のもとに生まれたのが、私です。

子どもの頃、両親のふるさとへ行ったのは、中学までの間に2、3回くらい。そのなかでいちばんよく覚えているのが、中学を卒業して高校に入学するまでの春休み、昭和60年(1985年)の春に、ひとりで新潟へ行ったときのことです。

15歳の、はじめてのひとり旅でした。

ところが、肝心のきっぷのことを、ほとんど覚えていないのです。なんとか自分で買ったのでしょうが、どこで、どうやって買ったのか。窓口に並んだ記憶はありません。乗ったのはたぶん特急だったと思うのですが、それも「だったのかな」という程度です。

覚えているのは、横川の釜めしを買って食べたこと。……いや、正確には「食べた、ような気がする」です。益子焼の土釜に入った、あの「峠の釜めし」。碓氷峠のふもと、信越本線の横川駅の名物駅弁です。

横川駅の駅弁「峠の釜めし」。益子焼の土釜に入っている。(2019年撮影/Photo: くろふね, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

記憶のほうが正しいとすれば、私が乗ったのは上野から高崎、横川を越えて、長野を経由して新潟へ向かう信越本線の列車だったことになります。15歳の私にとって、行き先までの細かい道筋はたいした問題ではなかったのでしょう。残っているのは、きっぷではなく、駅弁の記憶でした。

横川駅のホームで釜めしを売るおぎのやの人たち(平成9年9月)。峠越えの線路が廃止される、ひと月ほど前の風景。(Photo: Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

横川という駅には、釜めしが名物になるだけの理由がありました。すぐ先に待っているのは、急勾配で知られる碓氷峠です。当時、横川から軽井沢へ向かう列車には、すべて専用の電気機関車EF63形が補機として連結され、峠の上まで後ろから押し上げていました。その連結作業のために、列車は横川駅でしばらく停まる。その停車時間に、乗客たちはホームへ降りて釜めしを買い求めたのです。「峠の釜めし」の発売は昭和33年。私が生まれるより前から、この駅の風景の一部でした。

碓氷峠を下る特急「あさま」。先頭に付いているのが補機のEF63形(平成9年4月撮影)。(Photo: Shellparakeet, CC0, via Wikimedia Commons)

その横川〜軽井沢間の線路も、平成9年(1997年)10月、長野新幹線(現在の北陸新幹線)の開業とともに廃止されました。15歳の私が通ったかもしれない峠越えの道は、もう列車では通れません。緑色のきっぷと同じように、あの春の旅路そのものが、昭和の側に置いてきた風景になりました。


その「峠の釜めし」は、いまは荻野屋から直接取り寄せることもできます。横川の駅で買うのがいちばんですが、そこまで行けないときに。

荻野屋 峠の釜めし(冷蔵便)
株式会社荻野屋の直販。秘伝のだしで炊いた飯に9種類の具をのせた、昭和33年発売の駅弁。この商品は軽いパルプモールド容器入りで、冷蔵便のため送料が別にかかります。星4.3
Amazonで見る ›

同じ春、窓口の向こうで

あとから調べてみて、少し驚いたことがあります。

私がひとりで新潟へ向かった昭和60年の3月、みどりの窓口の向こう側では、新しいマルスが動き始めていました。このとき導入された端末には初めてモニタとキーボードがつき、駅のコードを打ち込めば国鉄全線のどの駅までのきっぷでも発券できるようになったのです。同じ月には、上越新幹線が上野駅まで乗り入れ、東京と新潟の距離がまた一段と縮まっています。

国鉄のきっぷの仕組みが大きく変わった、まさにその春。私はその変化のすぐ脇を、何も知らずに通り過ぎていたわけです。もし私のきっぷがみどりの窓口で出されたものだったなら、それは最新のマルスが打ち出した一枚だったのかもしれません。けれど、そのきっぷの色も形も、私の記憶にはまったく残っていません。

その2年後、昭和62年(1987年)4月、国鉄は分割民営化されてJRになります。国鉄という名前は消えましたが、「みどりの窓口」という名前は、そのままJRの駅に引き継がれました。もっとも、この名前はいまではJR東日本の登録商標になっていて、JR東海の駅では「JR全線きっぷうりば」という別の看板が掲げられています。同じ窓口でも、会社が変われば呼び名も変わる。これも民営化が残したひとつの風景でしょう。


令和のみどりの窓口

大人になってからも、みどりの窓口との縁は、相変わらず薄いままでした。子どもが5人もいると、家族で出かけるときはどうしても車になります。7人分のきっぷを窓口で揃えるより、車に乗せてしまったほうが早いのです。

そのみどりの窓口が、いま減りつつあります。

JR東日本は令和3年(2021年)、ネット予約やチケットレス化を進めるとして、管内に約440駅あったみどりの窓口を大幅に減らす方針を打ち出しました。削減は急ピッチで進み、令和6年(2024年)4月の時点で209駅まで減っています。

ところが、その結果起きたのが、残った窓口の長い行列でした。年度末や連休には、高齢の方や訪日客が限られた窓口に集中し、長い時間並ぶ光景があちこちで見られました。JR東日本は同じ年の5月、削減方針をいったん凍結すると発表しています。

機械で済むことは機械で。それは時代の流れとして当然です。それでも、機械ではどうにもならない「ややこしい一枚」を抱えた人は、いつの時代もいるのでしょう。


おわりに

最近、駅を通るたびに、みどりの窓口が減ったなぁと感じます。

ほとんど縁のなかった私でさえそう感じるのですから、この窓口に何度も並んで、ふるさとへの指定券を手にしてきた人たちにとっては、なおさらでしょう。農作業から逃れるように東京へ出てきた母の世代にとって、緑色のきっぷは、ふるさととつながる一枚だったのかもしれません。

昭和40年に生まれた緑色のきっぷは、平成の途中で水色の帯とホログラムのデザインに変わり、いまではきっぷそのものを見ない日も増えました。それでも「みどりの窓口」という名前だけは、60年を過ぎても駅に残っています。

15歳の春、私がどうやってきっぷを手に入れたのかは、もうわかりません。わかっているのは、釜めしの味と、ひとりで遠くへ向かった心細さと、少しの誇らしさだけです。

あなたが初めて自分で買った指定券は、どこ行きでしたか。

その一枚が、もしかすると緑色だった、という方もいらっしゃるかもしれませんね。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧


▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事)

◀ 前の記事:【9月23日】「こんばんは」と蔵前の蛍の光 | 次の記事:(近日公開)