昭和49年(1974年)9月25日。アメリカ・ロサンゼルスで、ひとりのピッチャーが手術台に上がりました。
ドジャースの左腕、トミー・ジョン。切れてしまった肘の靭帯を、体の別の場所の腱で作り直すという、それまで誰も受けたことのない手術でした。成功の見込みは1%。医師自身がそう伝えたといいます。
その年の私は5歳。保育園に通っていました。ちょうどこの頃、父が出勤前の早朝に、近所の広い公園でキャッチボールをしてくれるようになり、それが私と野球の出会いになりました。
キャッチボールをしたのは、高砂北公園でした。私の最初のグローブは、父がどこかでもらってきた「SSK」でした。ボールは最初こそやわらかいボールでしたが、わりとすぐに軟球に変わりました。
父は、特に何かを教えるでもなく、何も言いませんでした。ただただ投げて、取って、投げて、取って。それをもくもくと繰り返すだけです。それでも、あの朝の光景は、今でもはっきりと覚えています。
海の向こうで、ひとりの投手が選手生命を懸けて肘にメスを入れていた頃、葛飾の公園では、5歳の子どもが初めてボールを投げていた。もちろん当時の私は、そんなことを知るよしもありません。この手術の名前を知るのは、それから10年ほど先のことです。
成功率1%の賭け
トミー・ジョンは、もともと速球で押すタイプではなく、沈む球で内野ゴロを打たせる頭脳派の投手でした。昭和49年のシーズンも13勝3敗と好調で、チームは地区優勝を目指していました。
ところが7月17日の試合中、得意のシンカーを投げた瞬間に、左腕がしびれるような違和感に襲われます。診断は肘の靭帯の断裂でした。当時の常識では、ピッチャーとしてはもう終わりです。

そこでチームドクターのフランク・ジョーブ博士が提案したのが、傷んだ靭帯の代わりに、体のほかの部位から正常な腱を移して肘を作り直すという方法でした。前例はひとつもありません。それでもジョンは、この手術に懸けました。
結果は、奇跡と呼ばれるものになりました。1年9か月のリハビリを経て、昭和51年(1976年)4月にマウンドへ戻ると、翌年には自身初の20勝。ヤンキースに移ってからも勝ち続け、46歳まで投げ抜きます。手術のあとだけで164勝、通算288勝。この復活劇から、肘の靭帯再建手術は、彼の名前で呼ばれるようになりました。

マサカリが帰ってきた春
日本でこの手術の名前が一気に広まったのは、昭和60年(1985年)のことです。主役はロッテ・オリオンズの村田兆治でした。
左足を高く上げ、全体重を右足にためてから、斧を振り下ろすように投げ込む「マサカリ投法」。そこから繰り出す剛速球と、伝家の宝刀フォークボール。昭和50年代の村田は、最多セーブ、最優秀防御率、最多勝と、数々のタイトルを手にした豪腕でした。

その村田の肘が悲鳴を上げたのが、昭和57年(1982年)4月です。先発した試合で、わずか1回で降板。当時の日本球界では、投手の肘にメスを入れるのはタブーのように考えられていました。村田は迷った末に海を渡り、昭和58年、あのジョーブ博士の手術を受けます。
博士の教えを守って地道なリハビリを続け、昭和59年の終盤に一軍へ復帰。そして迎えた昭和60年、村田は開幕から11連勝という劇的な復活を見せます。肘をいたわるために中6日の間隔を空け、日曜日に先発を重ねたことから、ついた呼び名が「サンデー兆治」。この年17勝5敗でカムバック賞に輝き、「トミー・ジョン手術」という言葉は、日本の野球ファンにも知れ渡っていきました。
高校1年生になったばかりの私は、この「サンデー兆治」の活躍に毎週注目していました。テレビのスポーツニュース、新聞、友だちとの会話。村田兆治の情報は、ちくいちチェックしていたものです。
とはいえ、ロッテ戦をテレビ中継で観ることはありませんでした。村田兆治が投げる姿を目にできたのは、『プロ野球ニュース』の映像だけです。それでも、巨人ファンの私にとって、村田兆治は特別な投手のひとりでした。あのマサカリ投法は、私もまねをしました。

だからこそ、「肘を手術して復活した」と聞いたとき、私は正直「本当に?」と疑いました。肘にメスを入れた投手が、またあの豪快なフォームで投げられる。そんなことが、にわかには信じられなかったのです。
その疑いは、見事に裏切られました。村田はその後も投げ続け、平成元年(1989年)には通算200勝を達成し、最優秀防御率のタイトルも手にします。翌平成2年、10勝を挙げたシーズンを最後にユニフォームを脱ぎました。ロッテ一筋で、通算215勝です。
ロッテ番の記者として村田兆治を間近で見てきた著者が、マサカリ投法の現役時代から引退後までを書いた一冊です。あの復活の裏で何が起きていたのかが読めます。
全打者、三振のつもりで
私自身も、中学の野球部ではピッチャーでした。公立中学ながら練習はハードで、伝統的に強い学校です。マウンドに立つときは、本気で全打者を三振に取るつもりで投げていました。お手本にしていた投手が特にいたわけではありません。とにかく、ヒットを打たれるのが嫌だったのです。
ときどき、肘に痛みが出ることがありました。それでも当時は、「みんなどこか痛いところを持ちながらやっている」なんて思い込んでいましたから、休まずに練習を続けていました。1試合で150球くらいは投げていたのではないかと思います。
連投は当たり前でした。「昨日2試合、今日1試合」なんてこともあったくらいです。
そして、まさに「肩を冷やすな」「水を飲むな」の時代でした。とはいえ、飲まないわけにはいきません。私はトイレでこっそり水を飲んでいました。練習で何がきつかったかといえば、やっぱり水が飲めなかったことです。
昭和の野球では、痛みをこらえて投げることが、どこか美談として語られていました。エースは連投してあたりまえ。肘や肩の痛みは、根性で乗り越えるもの。私も、そんな空気のなかでマウンドに立っていたひとりです。その頃の野球少年にとって、「肘にメスを入れて復活する」という村田兆治の姿は、ひとつの時代の常識を静かに揺さぶる出来事だったのかもしれません。
令和のマウンドで
あれから40年。いまやトミー・ジョン手術は、特別な出来事ではなくなりました。ダルビッシュ有や大谷翔平といったトップ選手も受け、プロ野球では毎年のように、若い投手がこの手術から復帰を目指しています。
元ピッチャーとして、これは本当に良かったと思います。肘を壊せばそれで終わりだった時代から、手術を受けてもう一度マウンドを目指せる時代へ。再起への希望が持てるようになったのですから。
高校野球にも、投手の体を守るための球数制限が導入されました。連投が当たり前で、1試合150球を投げ、水さえ隠れて飲んでいた私の頃とは、まるで別の世界です。
変わったのは、ルールだけではありません。今はYouTubeの動画などで、投げ方や体の使い方について、良い情報に触れられる時代です。子どもたちのレベルは、私の頃とは比べものにならないくらい上がったと感じます。

そして今年の8月15日、トミー・ジョン本人が83歳で亡くなったというニュースが届きました。成功率1%の手術を受けたあの日から、半世紀あまり。彼の名前は、これからも世界中のマウンドで、肘を痛めた投手たちの希望として呼ばれ続けるのでしょう。
肩と肘を痛めない投げ方を、写真と図でていねいに説明した本です。子どもや孫が野球をしているご家庭に、一冊あっていいと思います。
おわりに
今でも私は、細々とではありますが、自分で野球を続けています。子どもたちの練習を見たり、キャッチボールをしたりすると、結局、自分も野球が好きなんだなと思います。
路線バスの運転席から、公園で親子がキャッチボールをしている姿を見かけることがあります。そんなときは、つい目で追ってしまいます。お父さんが少し強く投げ過ぎれば「もうちょっと優しく投げてやれよ」と思ったり、子どもが懸命にボールを追いかけている姿を見れば、「頑張れ」と心の中で声をかけたりします。
トミー・ジョン手術を乗り越えた投手たちや、村田兆治さんの「サンデー兆治」を振り返ると、野球は若いときだけのものではないのだと思います。速い球を投げられなくなっても、遠くまで走れなくなっても、ボールを握ったときの気持ちまで失う必要はない。
私もこれから年齢を重ねていく中で、走ることも、体を動かすことも、そして子どもたちと野球をすることも、できる限り続けていきたいと思っています。
高砂北公園で、父と黙々とボールを投げ合ったあの朝から、半世紀あまり。バスの運転席に座る今の自分にとって、野球は「過去の思い出」ではなく、今もちゃんと続いているものなのかもしれません。
昭和60年の春、日曜日のマウンドに帰ってきたマサカリ投法を、あなたは覚えていますか。
そして、あなたが初めてキャッチボールをした相手は、誰でしたか。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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