9月23日は秋分の日。昼と夜の長さがほぼ同じになる日だ。

昭和の暦をめくってみると、この日にはいくつもの「東京の大舞台」の出来事が重なっている。昭和56年、プロレスのリングで起きた、たったひと言の事件。昭和59年、隅田川のほとりにあった蔵前国技館の最後の日。

そしてもうひとつ。私がまだこの世にいなかった昭和39年のこの日、王貞治が年間55本目のホームランを打っている。

今回は、私が「知らなかった数字」から話を始めてみたい。

九月二十三日、東京の大舞台で。


生まれる前の55本

昭和39年(1964年)9月23日、巨人の王貞治がシーズン55本目のホームランを放った。それまでの日本記録は、昭和25年に小鶴誠が記録した51本。14年ぶりの記録更新だった。東京オリンピックの開幕を、半月あまり後に控えた秋のことである。

王貞治(1962年)。一本足打法を始めた年の写真。(『青春ホームラン王 実録小説王貞治』ベースボール・マガジン社、1963年より/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

この「55」という数字は、その後、驚くほど長く生き続けた。平成13年にローズ、平成14年にカブレラが並びはしたものの、破られることはなかった。ようやく塗り替えられたのは平成25年、バレンティンの60本。実に49年間、日本の頂点に立ち続けた数字だった。

もちろん、昭和44年生まれの私に、この日の記憶などあるはずもない。

私が野球に興味を持ったのは、保育園の年長の頃だ。父とキャッチボールを始めたのがきっかけだった。父が出勤する前の早朝、近所の広い公園へ行き、よく相手をしてもらった。

ただ、父の口からプロ野球の話を聞いた覚えはない。王さんの55本の話も、家で聞いたことはなかった。あの頃の私にとって野球とは、プロ野球ではなく、朝の公園で父と投げ合うボールのことだった。

プロ野球を意識し始めたのは、小学校に入ってからだ。クラスの友だちと野球の話をするうちに、王さんの55本という記録も、いつの間にか知っていたのだと思う。そして昭和52年、8歳の秋。王さんがハンク・アーロンを抜く756号を打ち、日本中が沸いた。私が王さんに夢中になったのは、この頃である。

つまり、私が王さんを知ったとき、55本はもう「伝説の数字」だった。自分の目で見た756号とは違い、55本は最初から歴史の中にあった数字なのだ。


小学6年生の秋、「こんばんは」

時計を昭和56年(1981年)まで進める。私は小学6年生、12歳だった。

この年の9月23日、東京・大田区の田園コロシアムで、新日本プロレスの大会が開かれた。会場には1万3000人を超す観客が詰めかけ、テレビの全国中継も入っていた。藤波辰巳やタイガーマスクが試合に出て、アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセンという大一番まで組まれた、豪華な興行だった。

その日、リングに上がったのが、ラッシャー木村である。所属していた国際プロレスが解散し、新日本のリングに乗り込んできたのだ。アントニオ猪木を前に、どんな啖呵を切るのか。会場の誰もが待ち構えていた。

マイクを握った木村の第一声は、「こんばんは」だった。

会場は失笑に包まれた。これが今も語り継がれる「こんばんは事件」である。のちにビートたけしがものまねで広めた「こんばんは、ラッシャー木村です」は、たけしの創作で、実際は「こんばんは」のひと言だけだったそうだ。

当時の私は、プロレス中継をよく見ていた。タイガーマスク、アントニオ猪木、藤波辰巳。夢中になって試合を見ては技を覚え、翌週の月曜日には、教室の後ろで友だちと技の掛け合いをした。今思えば、よくケガをしなかったものだ(笑)。

ところが残念なことに、肝心の「こんばんは」の場面は覚えていない。覚えているのは、その後の猪木と木村軍団の数々の口論と試合だ。こちらは毎週、しっかりと見ていた。伝説の始まりの一言は見逃して、その続きに夢中になっていたことになる。

実はこの田園コロシアムでの乗り込みには、続きがあった。半月後の10月8日、新日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦が予定されていたのだ。その舞台が、蔵前国技館だった。


昭和47年の旗揚げから、昭和63年までの新日本プロレスを一冊にまとめた本です。「こんばんは事件」の頃の熱気が、当時のファンの目線で書かれています。

新日本プロレス50年物語 第1巻 昭和黄金期
週刊プロレス編・流智美/ベースボール・マガジン社。新日本誕生の1972年から飛龍革命の1988年まで、昭和の新日本プロレスをたどる287ページ。星4.2(34件)
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中学3年生の秋、蔵前の「蛍の光」

さらに3年進めて、昭和59年(1984年)9月23日。私は中学3年生、15歳になっていた。

この日、大相撲秋場所の千秋楽をもって、蔵前国技館が閉館した。

蔵前国技館(昭和29年9月、落成のころ)。隅田川のほとり、いまの台東区蔵前にあった。(パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

蔵前国技館の始まりは、戦後すぐにさかのぼる。戦前の両国国技館が占領軍に接収されたため、相撲協会は蔵前に仮設の国技館を建て、昭和25年の初場所から本場所を開いた。正式な開館は昭和29年。昭和25年から数えて35年近く、東京の本場所はずっと蔵前で行われてきた。

蔵前国技館の正門前に並ぶ力士幟(昭和29年ごろ)。(パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

その最後の場所で優勝したのは、横綱でも大関でもなかった。西前頭12枚目の多賀竜。番付上位には北の湖、千代の富士、隆の里と3人の横綱が並ぶ場所で、平幕力士が賜杯を抱くという、まさかの幕切れだった。取組がすべて終わると、「蛍の光」が流れる中、力士と満員の観客がペンライトを振って別れを惜しんだという。

私は結局、蔵前国技館に一度も行く機会がなかった。相撲もプロレスも、いつもテレビの中の蔵前だった。当時いちばんのオシは、やはり千代の富士である。

千代の富士(写真は引退後、九重親方時代の2010年)。(Photo: Route246, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

中学野球を引退したあとのこの秋、私は高校受験に向けて勉強に励んでいた。それでも蔵前の閉館は、なんとなく覚えている。そして、多賀竜の優勝も記憶にある。横綱が3人もいる場所で、平幕が優勝をさらっていった。

翌年1月の初場所からは、隅田川の向こう岸、両国に完成した新しい国技館へと舞台が移った。

両国国技館(2018年撮影)。蔵前橋の斜め向かい、隅田川を渡った側に建っている。(Photo: 江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

その両国国技館にも、私はまだ行ったことがない。ところが、そのまわりの道は、路線バスの乗務で幾度となく走っている。蔵前もテレビの中、両国も窓の外。考えてみれば、私はいつも国技館を「外から」見てきたことになる。


土地に残るもの

蔵前国技館の跡地は、いま東京都の下水道施設になっていて、「蔵前水の館」では国技館にまつわる展示も見られるそうだ。大きな建物がなくなっても、土地には、そこであったことの記憶が残っている。

そういえば同じ昭和59年、全国宅地建物取引業協会連合会が、「ふ(2)どう(10)さん(3)」の語呂合わせで、9月23日を「不動産の日」に定めている。

「土地」と聞いて、私が思い出すのは両親のことだ。子どもの頃から、両親が自分たちの土地と家を持つことに強いこだわりを持っていたのを感じていた。「子どもに家を残したい」とも言っていた。

実際に父が残してくれた家を、私たち夫婦は建て替えて7年住んだ。そして今、その家は貸家として、毎月わが家に家賃をもたらしてくれている。本当にありがたいことだと思う。

早朝の公園でキャッチボールの相手をしてくれた父は、形のあるものも、ちゃんと残してくれていたのだ。


おわりに──同じ日に、ユニフォームを脱いだ人

話を最初に戻したい。

王さんが55本を打った昭和39年9月23日から、ちょうど44年後。平成20年(2008年)の9月23日、福岡ソフトバンクホークスの監督だった王貞治が、その年限りでの勇退を表明した。記録を打ち立てた日と、ユニフォームを脱ぐと決めた日。王さんの野球人生の大きな節目が、偶然にも同じ9月23日に重なっている。

王貞治さん(2026年)。(Photo: 總統府, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

その頃の私は39歳、佐川急便で働いていた。正直に言えば、王さんがダイエーの監督になったときは、「なんで?」「巨人の王さんじゃないの?」という思いが強かった。けれど、チームがソフトバンクへと移り変わり、強いホークスになっていくうちに、そんなことはどうでもよくなっていた。王さんは、どのユニフォームを着ても王さんだったのだと思う。

昭和39年に王さんが55本目のホームランを打ったとき、私はまだ生まれていなかった。

ラッシャー木村の「こんばんは」も、リアルタイムで見た記憶はない。それでも、その後その言葉に笑い、蔵前国技館で繰り広げられた熱戦に胸を躍らせたのは、確かに私の少年時代の記憶である。

あの頃の町には、今とは違う空気があった。テレビから流れてくるスポーツやプロレスを家族で見て、翌日学校へ行けば、その話で盛り上がる。今思えば、ずいぶん単純だったのかもしれない。でも、そんな「みんなが同じものを見て、同じ話をする時間」が、昭和という時代には確かにあったように思う。

そして今、私はバスの運転席に座り、毎日さまざまな町を走っている。

窓の外には、新しく建った家もあれば、昔から変わらない商店や路地もある。子どもたちが学校へ向かい、お年寄りが買い物袋を持ってバスに乗ってくる。町の風景は少しずつ変わっていくが、人が暮らしているということだけは、昔も今も変わらない。

運転席から町を眺めていると、ふと「この景色を自分の子どもたちは、将来どんなふうに思い出すんだろう」と考えることがある。

私にとって王さんの55本、ラッシャー木村の「こんばんは」、そして蔵前国技館という言葉が記憶に残っているように、子どもたちにも、きっとそれぞれの時代の風景や出来事が心のどこかに残っていくのだろう。

親としてできることは、そんな子どもたちの記憶の片隅に、少しでも温かいものを残してやることなのかもしれない。

いつか子どもたちが大人になったとき、「そういえば、父親は毎日この町をバスで走っていたな」と思い出してくれたら、それだけで十分だ。

昭和の出来事を振り返ることは、昔を懐かしむだけではなく、「自分がどんな時代を生き、次の世代に何を残していくのか」を考えることなのかもしれない。

今日も私は、運転席から見える町の景色を眺めながら、次の停留所へ向かう。

時代が変わっても、人を乗せて、人を送り届ける。そんな当たり前の日々を、これからも大切にしていきたいと思う。

9月23日。みなさんにとっては、何の日でしょうか。王さんの55本をリアルタイムで知っている方、「こんばんは」を真似して笑っていた方、蔵前の蛍の光をテレビの前で聞いていた方。それぞれの秋分の日が、きっとあるはずです。


王さん自身が、日経新聞の「私の履歴書」で書いた自伝です。55本を打った昭和39年のことも、本人の言葉で読めます。

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