【昭和の今日は何があった日?】8月4日──同い年の黄門さまとは、夕方に出会った

今日は8月4日。夏休みも折り返しにさしかかる、暑さのいちばん厚い時期です。 今から57年前、1969年(昭和44年)のこの日、TBS系の月曜夜8時、『ナショナル劇場』という枠でひとつの時代劇が始まりました。 『水戸黄門』です。 私が生まれたのは、その年の4月。つまりこの番組がスタートしたとき、私は生後4か月の赤ん坊でした。まったくの同い年です。 ──と書くと思い入れたっぷりに聞こえますが、正直に申し上げます。私は月曜夜8時の『水戸黄門』を、ほとんど見ていません。 私の『水戸黄門』は、夕方の再放送で始まりました。 定着しない枠に、京都から時代劇を まずは、その始まりのほうから。 『水戸黄門』は、松下電器(現・パナソニック)の一社提供による『ナショナル劇場』という枠で放送が始まりました。この枠、それまではハナ肇とクレージーキャッツのコメディや布施明主演の青春ドラマなど、現代劇が多かったといいます。ところがどれもシリーズとして定着しない。ならば京都発の時代劇でいこう、と方針が決まって生まれたのが『水戸黄門』でした。企画の中心にいたのは、松下電器宣伝部の逸見稔さんと、制作会社C.A.Lの西村俊一さんです。 初代の黄門さまを演じたのは、俳優座の東野英治郎さん。それまで映画やドラマでは悪役を演じることが多かった人で、62歳にして水戸黄門役が初主演だったそうです。助さんは杉良太郎さん、格さんは横内正さん、元義賊で伊賀忍者という設定の風車の弥七は中谷一郎さん。うっかり八兵衛の高橋元太郎さんは第2部からの登場なので、この時点ではまだ一行にいません。 第1部は1969年8月4日から翌1970年3月9日まで、全32話。記念すべき第1話のタイトルは「俺は助さんおまえは格さん」でした。 こうして日本中の茶の間に、黄門さまが歩き出しました。その同じ年、私は生まれたばかりで、まだ何も見ていません。 私の『水戸黄門』は、外が明るいうちに始まった 小学生になったころ、私は夕方の再放送で『水戸黄門』を見るようになりました。 毎日欠かさず、というほどではありません。平日の、ときどき。学校から帰ってきて、そのままテレビの前に座る日がある、という程度です。そしてたいていの場合、私は一人で見ていました。 いま思うと、これは少し不思議な体験でした。 月曜の夜8時には、最新シリーズの黄門さまが日本中の茶の間を歩いている。その同じ番組を、私は何年も前に作られた回で、平日の夕方に見ていた。同い年のはずなのに、リアルタイムではずっとすれ違い続けていたわけです。 しかも第何部の第何話かなど、子どもの私には知りようがありません。話は毎回きれいに完結するので、順番を気にする必要もない。私にとって『水戸黄門』は、時系列というものが最初から存在しない番組でした。どこから見ても始まりで、どこで終わっても終わりだった。 それでいて、何も困らなかった。むしろそれが、あの番組のいちばんの発明だったのかもしれません。 そして、相撲へ 夕方の再放送には、決まった続きがありました。 黄門さまの旅が終わると、私はそのまま大相撲の中継に移ります。ちょうど上位の取り組みが始まるころ合いでした。江戸時代の旅から、いきなり土俵の上へ。いま並べると妙な取り合わせですが、当時の私にはひと続きの夕方でした。 相撲を見ていた理由については、以前この連載でも書きました。夕方5時の門限です。外で遊べる時間には終わりがあって、それを過ぎたら家にいるしかない。家にいるということは、テレビの前にいるということでした。 つまり私の『水戸黄門』は、「見たくて見た番組」というより、「家にいる時間にそこで流れていたもの」に近い。夜8時に家族そろって見る番組ではなく、一人で、外の明るさを背中に感じながら見る番組だった。同じ番組でも、見る時間帯が違えば、まるっきり別の記憶になるのだと思います。 「お決まり」は、最初からあったわけではない いまや誰でも知っている、あの終盤の場面。格さんが印籠を掲げ、悪代官たちが一斉に平伏す。 ところが、あの様式は最初から完成していたわけではないようです。ひと暴れした後に印籠を見せて正体を明かす──あのお馴染みのパターンに近い形が使われるようになったのは第2部からで、第1部で使われていた印籠とはデザインも違っていたといいます。 主題歌の「あゝ人生に涙あり」も、番組とともに歩いた一曲でした。作詞は山上路夫さん、作曲は木下忠司さん。初代の歌い手は、助さんと格さん──つまり杉良太郎さんと横内正さんです。その後、第4部からは里見浩太朗さんと横内正さん、第9部からは里見浩太朗さんと大和田伸也さん、と、歌い手も助さん格さんの交代とともに移り変わっていきました。 再放送でバラバラに見ていた私は、当然そんな変遷を知りません。黄門さまが印籠を出すのは、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことでした。生まれたときからそこにあったものを、人は「最初からそうだった」と思い込む。あの番組は、私にとってその典型だったのだと思います。 いま振り返ると、私があの番組を見ていた理由も、そこにあった気がします。物語の流れが、おおむね決まっている。誰が悪いのか、最後にどうなるのか、見る前からわかっている。ふつうならそれは退屈の理由になるはずですが、子どもの私にとっては逆でした。あの安心感、あの安定感が、心地よかったのだと思います。 先が読めないものを追いかけるのは、それなりに体力が要ります。夕方の一時間に私が求めていたのは、そういうものではありませんでした。今日も黄門さまは旅をしていて、今日も悪いやつは負ける。それがそのとおりに起きるのを確かめるために、私は座っていたのかもしれません。 私は、助さん派だった 子どもが時代劇を見るとき、たいてい黄門さま本人には感情移入しません。おじいさんですから。目がいくのは、暴れるほうです。 私は、助さん派でした。それも、里見浩太朗さんの助さんが一番のお気に入りでした。 里見さんが佐々木助三郎を演じたのは、第3部から第17部まで。年数にして16年半にわたります。つまり私が小学生で夕方の再放送を見ていたころ、画面の中の助さんは、まず間違いなく里見浩太朗さんでした。「助さんといえばこの人」と刷り込まれたのは、当然といえば当然だったわけです。 格さんには、印籠を掲げて「この紋所が目に入らぬか」と言う、あの一番おいしい役目があります。それでも私は助さんのほうがよかった。子どもが誰を好きになるかは、だいたい理屈ではないものです。 42年の旅の、終わり 『水戸黄門』は、その後ずっと続きました。 黄門さまは東野英治郎さんから西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さんへと引き継がれていきます。そして2002年、第31部。ついに里見浩太朗さんが、黄門役に座りました。 あの助さんが、黄門さまになったのです。 夕方の再放送で、私が一番かっこいいと思っていた男。その人が三十年かけて、旅の主役の側へ回った。子どものころに刷り込まれた序列というのは、四十を過ぎても案外そのまま残っているものです。 そして2011年。第43部をもって、TBS系のレギュラー放送としての『水戸黄門』は終わりました。最終回スペシャルの放送は、同年12月19日。42年の歴史に幕、と報じられました。終了が明らかになった際、里見浩太朗さんはTBS本社での会見で、後ろから斬られたようだ、残念というより痛い、という趣旨のことを語っています。この年はほかにも『3年B組金八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』が区切りを迎え、TBSの長寿ドラマがまとめて姿を消しました。 私はそのとき42歳。生後4か月だった赤ん坊は、番組が終わるときに42歳になっていた。つまり私は、『水戸黄門』とほとんど同じ年月を生きてきたことになります。 これほど正確に自分と並走した番組を、ほかに思いつきません。しかも私は、その42年のうちの何割かを、夕方の再放送という裏口から覗いていただけでした。 令和の茶の間から いま私の家には、地上波のテレビがありません。大きな液晶モニターで、YouTubeやNetflixを見ています。見たいものを、見たいときに、見たいだけ。便利です。文句のつけようがありません。 ただ、いまの配信の見方は、あのころの夕方の再放送によく似ています。順番など気にせず、途中から入って、話が終わればそれでいい。私は昭和の夕方に、すでに配信のような見方をしていたのかもしれません。 違うのは、選んでいなかったということです。テレビをつけたら黄門さまが歩いていて、終わったら相撲が始まった。選んでいないからこそ、体に残っている。いま自分で選んで見ているものが、40年後に同じように残っている自信は、正直あまりありません。 おわりに 1969年8月4日。私が生後4か月だったその夜、テレビの中でひとりの老人が旅に出ました。 その旅は42年続き、私が42歳になった年に終わりました。同い年でありながら、私はその始まりも終わりも、きちんとは見ていません。見ていたのは、小学生のころの、外がまだ明るい夕方の一時間だけです。 それでも「黄門さまがずっとそこにいた」という感覚だけは、いまも体に残っています。たぶん、選ばずに浴びたものというのは、そういうふうに残るのでしょう。 そして、あの旅の最後にいたのは、私が一番好きだった助さんでした。夕方の茶の間で刀を振っていた男が、四十年かけて黄門さまになり、そのまま番組を送り出した。私が見届けなかった終わりを、あの人が引き受けてくれていた。そう思うと、見ていなかったことが、少しだけ許される気がします。 あなたにとっての『水戸黄門』は、夜の番組でしたか。それとも私と同じ、夕方の番組でしたか。何代目の黄門さまがいちばんしっくりきますか。よろしければ、あなたの茶の間の話も聞かせてください。 ...

August 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月22日──「憎らしいほど強い」が最上級の褒め言葉だった頃。北の湖、21歳2か月の横綱

1974年7月22日、横綱審議委員会が出した答え 昭和49年7月22日。名古屋場所が終わった直後のこの日、横綱審議委員会が大関・北の湖を横綱に推挙することを決めました。正式決定は二日後の理事会ですが、実質的にはこの日、第55代横綱の誕生が決まったことになります。 年齢は21歳2か月。あの大鵬より1か月早い、史上最年少記録でした。そしてこの記録は、五十年以上たった今も破られていません。 面白いのは、その名古屋場所の中身です。北の湖は13勝2敗という好成績を挙げながら、千秋楽の本割と優勝決定戦で、横綱・輪島に連敗しているのです。最後の最後に二度続けて負けて、それでも綱が決まった。裏を返せば、この若い大関の力量が誰の目にも疑いようがなかった、ということなのでしょう。 このとき私は5歳。幼稚園に通っていた年ですから、当然この日のことは何も知りません。 13歳の初土俵から、大関わずか3場所で 北の湖の経歴を改めて追いかけると、出世の速さに目が回ります。 北海道壮瞥町の生まれ。昭和41年12月、中学1年で三保ヶ関部屋に入門しました。当時はまだ中学生力士が許されていた時代で、翌年1月、13歳で初土俵を踏んでいます。学校は墨田区立両国中学に転校。ただし師匠の方針は学業最優先で、稽古ができたのは日曜と長期休みだけだったといいます。 それでも15歳で幕下、17歳で新十両。18歳7か月で新入幕を果たしたとき、彼ははっきりと「史上最年少横綱を目指す」と口にしていました。子供の大言壮語では終わらなかったところが、この人の恐ろしさです。 19歳7か月で小結、そして昭和49年1月場所、関脇で初優勝して大関へ。大関でいた期間は、わずか3場所でした。 私が相撲を知ったときには、もう絶対王者だった ここから先が、私の話です。 私が相撲を知ったときには、すでに北の湖は無茶苦茶強い横綱でした。イメージとしては、絶対王者の北の湖、同じ横綱だけど挑戦者的な輪島、ずっと大関の貴ノ花。そんなふうに感じていました。 三人の役割が、子供の頭の中できれいに固定されていたのです。北の湖は倒されるべき壁で、輪島と貴ノ花はそこに挑んでいく側。誰かに教わったわけでもないのに、なぜかそういう構図として相撲を見ていました。 そもそも私が相撲を見ていたのは、門限のおかげでした。 当時、私も友達も夕方5時頃には家に帰らなければならない決まりでした。外で散々遊んで帰宅すると、テレビでは相撲中継がちょうど終盤の取組にさしかかっている。それを自然と観ていたわけです。 不思議なもので、家族の誰かが特別に相撲好きだったという記憶はありません。誰が観たいと言ったわけでもないのに、どういうわけかその時間はテレビで相撲が流れていました。友達に聞いても、やはり同じように観ている。夕方5時台の茶の間とは、あの頃そういうものだったのだと思います。 そして翌日には、その相撲を自分たちで再現しました。友達同士で相撲を取るのですが、ただ取っ組み合うのではありません。「右上手を取った」「左前みつを取った」「両差しだ」と、自分で自分の相撲を解説しながら取っているのです。今思い出すと笑ってしまいますが、耳から入った中継の言葉を、そのまま口に出して確かめていたのでしょう。決まり手も四つの組み手も、教科書ではなく体で覚えました。 応援していたのは、やはり千代の富士です。私が小学4年生の頃から一気に駆け上がっていく勢いがありましたし、なんといっても格好良かった。 一方の北の湖には、いつも「負けろ」と思っていました。本当に、毎日そう思っていたのです。それなのに、ちゃんと勝ってしまう。子供の願いなど歯牙にもかけずに勝ち続けるわけで、今にして思えば、すごいことです。 子供の目は、案外正確だった 大人になってから調べてみると、あの頃の子供の直感は、記録の上でもおおむね正しかったことがわかります。 まず輪島。私は「挑戦者的」と感じていましたが、実は北の湖より5歳年上で、横綱昇進も1年早い先輩横綱です。日本大学から角界入りした史上初の学生相撲出身横綱で、「蔵前の星」と呼ばれ、「黄金の左」と称された左の下手投げを武器に優勝14回を数えました。決して脇役ではありません。 それでも私に「挑戦者」と映ったのは、時代の流れのせいでしょう。昭和52年7月場所以降は北の湖の優勝ばかりが続き、輪島は次第に力を落としていきました。私が相撲を見はじめた頃には、すでに「北の湖の壁に挑む輪島」の構図が出来上がっていたわけです。ちなみに二人の幕内対戦成績は輪島の23勝21敗で、これは今回調べて初めて知りました。強さの印象と数字は、必ずしも一致しないものです。 そして貴ノ花。「ずっと大関」というイメージは、そのまま事実でした。大関在位50場所、優勝は2回にとどまり、ついに横綱には届かなかった。身長183センチに対して体重114キロという軽量の体で、「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の弟という血筋と甘い顔立ちから「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を誇った人です。 強くて憎まれる横綱と、勝てないけれど愛される大関。子供が覚えやすい図式が、あの頃の土俵にはきちんとあったのだと思います。 「憎らしいほど強い」という言葉の中身 北の湖につけられた「憎らしいほど強い」という評は、単なる比喩ではありませんでした。 新横綱で迎えた昭和49年9月場所、14日目に優勝を決めた瞬間、館内には座布団が舞ったといいます。普通、座布団が舞うのは横綱が下位の力士に敗れたときで、横綱が勝って座布団が飛ぶのは極めて異例のことです。それでも北の湖は動じず、千秋楽も勝って初の全勝優勝を飾りました。 懸賞の本数にも人気のなさが表れています。昭和51年7月場所の千秋楽、優勝がかかった横綱同士の輪島戦についた懸賞はわずか8本。場所中、1本もつかない日さえあったそうです。師匠の三保ヶ関親方は「かけてもどうせ勝つから面白くない。でも、いつの世でも、そういう一種の憎まれ役がいなきゃいけないんだ」と語っています。 もう一つよく言われたのが、投げ倒した相手に一切手を貸さず、さっと背を向けて勝ち名乗りを受ける姿でした。ふてぶてしい、傲慢だ、と散々に言われたものです。しかし本人の言い分はまったく逆で、「真剣勝負をした相手に手を貸すのは失礼だ」「自分だったら手を貸されるのは絶対に嫌だ」という考えからの振る舞いでした。 当時は「江川・ピーマン・北の湖」という言い回しまであったそうです。子供が嫌いなものの代名詞として、大横綱がピーマンと並べられていたわけで、今考えると気の毒な話です。 そして昭和53年、北の湖は5場所連続優勝を果たし、年間82勝という記録を打ち立てました。私は小学3年から4年になる年です。50場所連続勝ち越し、37場所連続二桁勝利、横綱在位63場所、優勝24回。数字を眺めていると、「絶対王者」という子供の実感が、大げさでも何でもなかったことがよくわかります。 「負けろ」が、ついにかなった夜 私が毎日念じていた「負けろ」がかなったのは、昭和56年1月場所の千秋楽でした。 関脇・千代の富士が初日から14連勝。千秋楽の結びで、1敗の北の湖と直接対決になります。本割では吊り出されて敗れ、全勝優勝は消えました。しかし千代の富士は、吊り出されたそのときに北の湖の足の状態が万全でないことに気づいていたといいます。続く優勝決定戦、右からの上手出し投げで北の湖を土俵に転がし、幕内初優勝を決めました。 この日の大相撲中継の視聴率は52.2パーセント。優勝が決まった瞬間は65.3パーセントに達し、今なお大相撲中継の最高記録として残っています。要するに、日本中が見ていたわけです。 もちろん私も、テレビの前で千代の富士の優勝を願って観ていました。 あの場所は後半に入ると、「昨日も千代の富士勝ったね」が友達との朝の挨拶になっていました。連日そうやって白星を確かめ合いながら千秋楽までたどり着いて、いよいよ「絶対に優勝してくれ!」と念じながらテレビの前に座ったわけです。 以前、江夏豊、9者連続奪三振──私が生まれた2年後の「見ていない伝説」の回で、江川卓がオールスターで8連続奪三振を決めたとき、近所から歓喜の声とため息が聞こえてきた話を書きました。この日はそれ以上でした。本割で千代の富士が吊り出された瞬間、近所中から「あぁ⤵」というため息が漏れ聞こえてきて、そのデカさといったらなかった。1月ですから、どの家も窓は閉め切っていたはずなのです。 そして優勝決定戦。千代の富士が北の湖を転がした瞬間に上がった歓喜の叫び声は、さっきのため息をはるかに上回っていました。やばかったです(笑)。 テレビは家の中にあるのに、町内で同じものを見ていた時代でした。 同じこの場所を最後に、貴ノ花が土俵を去りました。皮肉なもので、引退を決意させたのは前年11月場所で千代の富士に一方的に敗れた一番だったといわれています。その2か月後には輪島も引退。私が小学校を卒業する頃には、あの三人のうち二人がもういなかったことになります。 門限が私を相撲の前に座らせ、部活が遠ざけた 北の湖自身が引退したのは、昭和60年1月場所の途中でした。私は中学3年生です。 ただ正直に言えば、そのニュースの記憶がありません。中学に入ると野球に夢中になっていて、もう相撲を見ていなかったからです。部活が終わって帰る頃には夕方6時30分を回っていて、相撲中継はとっくに終わっている。門限5時が私を相撲の前に座らせていたのだとすれば、部活が私を相撲から引き離したことになります。 絶対王者が土俵を降りた日を、私は知らないまま通り過ぎました。 強い者が嫌われるという、今思えばずいぶん贅沢な時代でした。誰もが倒れることを願っていて、それでも倒れなかった人が土俵の真ん中に立ち続けていた。あの手応えのようなものは、勝ってほしい人が勝つのとは、また別の面白さだったのだと思います。 みなさんが子供の頃、「この人は絶対に負けない」と思っていた人は誰でしたか。スポーツでも、テレビの中でも構いません。よかったら教えてください。 ...

July 22, 2026

「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日)

6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。 カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。 まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日 1980年(昭和55年)の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。 ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。 大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。(Photo: Gusjer / CC BY 2.0) 国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。 さて──ここからが、今日の本題だ。 「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年(1983年) 高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。 その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。 プロ野球の試合のひとコマ(2005年シアトル、イチロー出場試合)。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。(Photo: Galaksiafervojo / CC BY-SA 3.0) 阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。 でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。 その一・足に一億円の保険 私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。 調べてみると、これは1972年(昭和47年)のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。 考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。 その二・サラブレッドと競走した男 もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。 1983年(昭和58年)、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。 実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。 その三・すりこぎ棒のようなバット そして、これがいちばん意外な話かもしれない。 いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。 バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。(Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン) 持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。 そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。 足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。 立ちションもできんようになる 最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。 世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。 思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。 記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。 あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 | 次の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで ▶

June 2, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月23日~

五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。 この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。 世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年(1980年)5月23日 フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。 黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。 「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。 私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。 それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。 当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。 私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。 上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。(Photo: Daderot / CC0) 後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。 三兄弟、同時に関取へ——昭和59年(1984年)5月23日 舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。 この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の三兄弟同時関取が実現したのだ。 「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。 私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。 三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。 相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。 寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。(Photo: FourTildes / CC BY-SA 3.0) 昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。 二つの「父と子」の話として 並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。 カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。 そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。 私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した(末っ子は現在も所属中だ)。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。 同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。 いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。 鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。 あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか? 【昭和55年(1980年)5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。 【昭和59年(1984年)5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 ▶

May 22, 2026

成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和

5月の空は高い。梅雨前の、束の間の晴れ間が続くこの季節に、昭和はふたつの大きな出来事を刻んでいる。ひとつは「夢」が開いた日。もうひとつは「夢」が終わった日の話だ。 朝ごはんを食べながら聞いた言葉 1978年(昭和53年)5月20日。 「成田空港反対運動」「過激派」「機動隊と衝突」。 小学生だった私は、朝ごはんを食べながら流れてくるテレビのニュースで、こういう言葉を毎日のように耳にしていた。ヘルメットをかぶった学生、泥まみれの農民、機動隊の盾。子どもには意味がよくわからない、でもなんとなく怖くて騒々しい映像の連続だった。 実は、この日の開港はギリギリの滑り込みだった。本来の開港予定は3月30日。ところが2日前に過激派グループが管制塔に乱入して機器を破壊し、やむなく約2か月延期となった末の、この5月20日だったのだ。開港当日も反対同盟と機動隊の衝突は続き、反対派が燃やした古タイヤの黒煙が空に立ちこめる中、新東京国際空港は産声を上げた。 でも、飛行機そのものは夢だった。 29か国の航空会社34社が乗り入れる、日本初の本格的な国際空港。テレビニュースの騒然とした映像の向こうに、なんとなく「外国」という輝きが透けて見えた気がした。 ところで、このころの為替レートは1ドル300円前後だった。今は1ドル160円くらいでも「大変な円安だ!」と騒がれているが、300円というのはそれより倍もドル高な時代だ。そして振り返ってみれば、昭和から平成、令和と、時代はいつも「円高だ!」「円安だ!」と騒ぎ続けてきた。どうやら、為替というものはいつの時代も誰かを悲鳴させるようにできているらしい。 笑点とサザエさんの間に流れたあの声 もうひとつは1984年(昭和59年)5月20日の話だ。大相撲の力士、高見山大五郎が引退を表明した。 日曜日の夕方といえば、私にとって「笑点」と「サザエさん」の時間だった。その間に流れてくる丸八真綿の布団CM。でんぐり返しからの「まるはーち!」、そしてあのしゃがれた声で「2枚、2枚!2倍、2倍!」。 子どもたちは次の日、学校でこれを真似した。「2倍!2倍!」というキャッチフレーズは一躍ブームになり、子どもから芸人までが口真似をするほどだった。武家屋敷風の部屋に入ってきた高見山が布団に入り、最後に電気を消し忘れるというオチのバージョンもあった。ヒツジの着ぐるみをまとって「ジェシーの羊」(メリーさんの羊の替え歌)が流れるバージョンもあった。どれも、あの図体に似合わない愛嬌があふれていた。 ハワイ・マウイ島出身、本名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア。身長192センチ、体重205キロ。愛称「ジェシー」。彼は1968年に外国出身力士として初めて幕内に入り、1972年7月場所では外国人力士として史上初の幕内最高優勝を果たした。表彰式ではニクソン米大統領の祝電が読み上げられたというのだから、その注目度がわかる。 ただ、正直に言う。 当時の私が「知っているお相撲さん」といえば、北の湖、輪島、貴ノ花、そして高見山だった。でも相撲中継で見る高見山の印象といえば……ほとんど負けていた記憶しかないのだ。突き落とされ、投げられ、土俵の外に転がり出ていく大きな背中。子ども心に「なんか強くないな、この人」と思っていた。高見山関、本当に申し訳ない(笑)。 もちろん実際には、20年間土俵に立ち続けた鉄人だった。「40歳まで相撲を取りたい」「建設中の両国国技館で相撲を取りたい」という夢を胸に、怪我をおしながら出場を続けた。引退宣言は場所の途中、突然のことだった。千秋楽の最後の一番は黒星だったが、満員の観衆から大声援が降り注ぎ、花道に花束が舞った。 「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と彼は言った。 昭和天皇がのちに「高見山がなぜ辞めたのかね」「残念だったろうな」と語られたと伝わっている。それを知らされた高見山は、「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。40歳まであと1か月。両国国技館の開場は翌1985年。どちらの夢も、わずかに届かなかった。 でも、ジェシーは日本に残った。東関部屋を興し、やがて弟子の曙を横綱に育て上げる。彼の昭和は、引退の日に終わったわけではなかった。 5月20日。煙の中を飛行機が降りてきた日と、土俵を去った大男が泣いた日。 あなたは「まるはーち!」をまだ口から出せますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:5月19日は「ボクシングの日」――ラジオ、テレビ、そしてネット配信。日本人はいつも世界チャンピオンに熱狂してきた | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝 ▶

May 19, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった

今日は5月12日。 この日付を調べていて、一枚の土俵の映像が頭に浮かんだ。 平成3年(1991年)5月12日、大相撲夏場所の初日。18歳の貴花田が横綱・千代の富士を寄り切りで破り、史上最年少金星を挙げた。そしてその2日後、千代の富士は引退を表明した。 あの一番の話を書く前に、まず私が千代の富士のファンになった話をしたい。 青いまわしの、上昇する力士 昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)ごろのことだ。 私はまだ小学校の低学年から中学年だった。テレビで大相撲中継を見ていると、一人の力士が目に飛び込んできた。 千代の富士。当時はまだ小結から関脇、そして大関へと番付を駆け上がっていく上昇期にあった。横綱になる前の、ぐんぐんと力をつけていくあの時代の千代の富士だ。 最初に目を引いたのは、まわしの色だった。薄い青。他の力士が黒や濃い色のまわしをしめている中で、千代の富士だけが澄んだ青のまわしをしていた。それだけで、なんとなく他とは違う存在感があった。 そして取組が始まった瞬間、さらに驚いた。 速い。 それまで相撲というものに、それほど強い関心を持っていなかった。体の大きな男たちがぶつかり合う競技、というくらいの印象しかなかった。でも千代の富士の相撲は、その印象をひっくり返した。 立ち合いから低く、鋭く当たる。頭を相手の胸からアゴの下に差し込むようにして、左手が一瞬で相手のまわしを掴みにいく。左前みつ。そこを取った瞬間から、もう勝負は見えていた。頭を胸につけたまま一気に前に出る。相手がどれだけ大きくても、あの体勢から止めることはできなかった。 素直に思った。 かっこいい。 小結から関脇へ、関脇から大関へ。番付を上げるたびに千代の富士の相撲は研ぎ澄まされていった。私はその上昇をリアルタイムで追いかけながら、夢中でテレビ中継を見続けた。 「時間いっぱい!」の瞬間 千代の富士のファンになってから、相撲中継の見方が変わった。 特に集中したのが、**「時間いっぱい!」**の直後だ。 行司が「時間いっぱい、手をついて」と告げ、両者が仕切りに入る。その瞬間から、私は一点だけを見ていた。 千代の富士の左手が、相手の前みつを取れるか。 テレビの前で体が前のめりになる。「取れ、取れ、取れ!」と心の中で叫んでいた。 前みつを取った瞬間の千代の富士の動きは、まるで弾けるようだった。低い体勢から爆発的な力で相手を押し込む。ガッと音がしそうなほどの前進。相手が土俵を割るまでの時間は、ほんの数秒だ。 あの数秒のために、私は毎場所の相撲中継を見ていた。 鋼の肉体と、孤独な努力 千代の富士の肉体が、また特別だった。 北海道の漁師町出身のこの力士は、入門当初は体が細くて「横綱になれる体じゃない」と言われていた。肩の脱臼を繰り返す弱点もあった。それを克服するために、誰よりも筋力トレーニングに取り組んだ。 その結果生まれたのが、あの彫刻のような上半身だ。三角形に盛り上がった肩、浮き出た筋肉の線、引き締まった腹。昭和の力士の中で、あれほど「鍛えられた体」を持っていた力士は他にいなかった。 昭和56年(1981年)初場所、千代の富士はついに初優勝を遂げた。そして同年9月場所で横綱に昇進した。 小結から見続けてきた青いまわしの力士が、ついに土俵の頂点に立った。テレビの前で「やった」と思った記憶がある。 その後の千代の富士は知っての通りだ。幕内優勝31回、通算1045勝、53連勝、国民栄誉賞。昭和の相撲をひとりで背負うような存在になっていった。 18歳の少年が、ウルフを倒した日 あれから10年後。平成3年(1991年)5月12日、夏場所初日。 貴花田光司、18歳9カ月。のちの横綱・貴乃花だ。前の場所で幕内下位から優勝争いに加わる快進撃を見せ、日本中の注目を集めていた。その貴花田が初日から千代の富士と当たることが決まった。 場内がどよめいた。 取組が始まると、貴花田は低く当たり、ひたすら前に出た。引かなかった。変化しなかった。千代の富士が突き落としを狙っても、ただ正面から前に出続けた。そのまま貴花田が寄り切った。 18歳9カ月、史上最年少金星。 土俵下に降りた千代の富士は言った。 「三重丸って言っておいてよ。いや、五重丸だ」 負けた横綱が18歳の少年に最大級の賛辞を贈ったあの言葉。強さを認める者にしか言えない清々しさがあった。 そして2日後の5月14日、千代の富士は引退を表明した。 「体力の限界……気力も無くなり、引退することになりました」 ハンカチで目をぬぐいながら振り絞るように言ったあの言葉を、テレビの前で聞いたとき、言葉が出なかった。 小結のころから追いかけてきた青いまわしの力士が、土俵を去った。 おわりに 平成3年5月12日、千代の富士は18歳の貴花田に道を譲った。 昭和54年ごろ、テレビの画面に薄い青のまわしをした力士を見つけて「かっこいい」と思った小学生の私は、その力士が小結から関脇、大関、横綱へと駆け上がっていくのをずっと見続けた。そして横綱を10年以上務めた末に涙をぬぐいながら引退する姿まで見届けた。 千代の富士は2016年に61歳で亡くなった。訃報を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは記録でも数字でもなく、あの薄い青のまわしと、左前みつを取った瞬間の爆発的な前進だった。 あなたが子どもの頃に「かっこいい」と思ったスポーツ選手は、誰だっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 ▶

May 11, 2026