1974年7月22日、横綱審議委員会が出した答え

昭和49年7月22日。名古屋場所が終わった直後のこの日、横綱審議委員会が大関・北の湖を横綱に推挙することを決めました。正式決定は二日後の理事会ですが、実質的にはこの日、第55代横綱の誕生が決まったことになります。

年齢は21歳2か月。あの大鵬より1か月早い、史上最年少記録でした。そしてこの記録は、五十年以上たった今も破られていません

横綱土俵入り。綱を締めた者だけが踏むことを許される、あの四股。(Photo: CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

面白いのは、その名古屋場所の中身です。北の湖は13勝2敗という好成績を挙げながら、千秋楽の本割と優勝決定戦で、横綱・輪島に連敗しているのです。最後の最後に二度続けて負けて、それでも綱が決まった。裏を返せば、この若い大関の力量が誰の目にも疑いようがなかった、ということなのでしょう。

このとき私は5歳。幼稚園に通っていた年ですから、当然この日のことは何も知りません。


13歳の初土俵から、大関わずか3場所で

北の湖の経歴を改めて追いかけると、出世の速さに目が回ります。

北海道壮瞥町の生まれ。昭和41年12月、中学1年で三保ヶ関部屋に入門しました。当時はまだ中学生力士が許されていた時代で、翌年1月、13歳で初土俵を踏んでいます。学校は墨田区立両国中学に転校。ただし師匠の方針は学業最優先で、稽古ができたのは日曜と長期休みだけだったといいます。

それでも15歳で幕下、17歳で新十両。18歳7か月で新入幕を果たしたとき、彼ははっきりと「史上最年少横綱を目指す」と口にしていました。子供の大言壮語では終わらなかったところが、この人の恐ろしさです。

19歳7か月で小結、そして昭和49年1月場所、関脇で初優勝して大関へ。大関でいた期間は、わずか3場所でした。


私が相撲を知ったときには、もう絶対王者だった

ここから先が、私の話です。

私が相撲を知ったときには、すでに北の湖は無茶苦茶強い横綱でした。イメージとしては、絶対王者の北の湖、同じ横綱だけど挑戦者的な輪島、ずっと大関の貴ノ花。そんなふうに感じていました。

三人の役割が、子供の頭の中できれいに固定されていたのです。北の湖は倒されるべき壁で、輪島と貴ノ花はそこに挑んでいく側。誰かに教わったわけでもないのに、なぜかそういう構図として相撲を見ていました。

そもそも私が相撲を見ていたのは、門限のおかげでした。

当時、私も友達も夕方5時頃には家に帰らなければならない決まりでした。外で散々遊んで帰宅すると、テレビでは相撲中継がちょうど終盤の取組にさしかかっている。それを自然と観ていたわけです。

不思議なもので、家族の誰かが特別に相撲好きだったという記憶はありません。誰が観たいと言ったわけでもないのに、どういうわけかその時間はテレビで相撲が流れていました。友達に聞いても、やはり同じように観ている。夕方5時台の茶の間とは、あの頃そういうものだったのだと思います。

そして翌日には、その相撲を自分たちで再現しました。友達同士で相撲を取るのですが、ただ取っ組み合うのではありません。「右上手を取った」「左前みつを取った」「両差しだ」と、自分で自分の相撲を解説しながら取っているのです。今思い出すと笑ってしまいますが、耳から入った中継の言葉を、そのまま口に出して確かめていたのでしょう。決まり手も四つの組み手も、教科書ではなく体で覚えました。

応援していたのは、やはり千代の富士です。私が小学4年生の頃から一気に駆け上がっていく勢いがありましたし、なんといっても格好良かった。

一方の北の湖には、いつも「負けろ」と思っていました。本当に、毎日そう思っていたのです。それなのに、ちゃんと勝ってしまう。子供の願いなど歯牙にもかけずに勝ち続けるわけで、今にして思えば、すごいことです。


子供の目は、案外正確だった

大人になってから調べてみると、あの頃の子供の直感は、記録の上でもおおむね正しかったことがわかります。

まず輪島。私は「挑戦者的」と感じていましたが、実は北の湖より5歳年上で、横綱昇進も1年早い先輩横綱です。日本大学から角界入りした史上初の学生相撲出身横綱で、「蔵前の星」と呼ばれ、「黄金の左」と称された左の下手投げを武器に優勝14回を数えました。決して脇役ではありません。

それでも私に「挑戦者」と映ったのは、時代の流れのせいでしょう。昭和52年7月場所以降は北の湖の優勝ばかりが続き、輪島は次第に力を落としていきました。私が相撲を見はじめた頃には、すでに「北の湖の壁に挑む輪島」の構図が出来上がっていたわけです。ちなみに二人の幕内対戦成績は輪島の23勝21敗で、これは今回調べて初めて知りました。強さの印象と数字は、必ずしも一致しないものです。

そして貴ノ花。「ずっと大関」というイメージは、そのまま事実でした。大関在位50場所、優勝は2回にとどまり、ついに横綱には届かなかった。身長183センチに対して体重114キロという軽量の体で、「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の弟という血筋と甘い顔立ちから「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を誇った人です。

強くて憎まれる横綱と、勝てないけれど愛される大関。子供が覚えやすい図式が、あの頃の土俵にはきちんとあったのだと思います。


「憎らしいほど強い」という言葉の中身

北の湖につけられた「憎らしいほど強い」という評は、単なる比喩ではありませんでした。

北の湖の手形。この大きな手で、子供たちの願いをことごとく跳ね返した。(Photo: CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

新横綱で迎えた昭和49年9月場所、14日目に優勝を決めた瞬間、館内には座布団が舞ったといいます。普通、座布団が舞うのは横綱が下位の力士に敗れたときで、横綱が勝って座布団が飛ぶのは極めて異例のことです。それでも北の湖は動じず、千秋楽も勝って初の全勝優勝を飾りました。

懸賞の本数にも人気のなさが表れています。昭和51年7月場所の千秋楽、優勝がかかった横綱同士の輪島戦についた懸賞はわずか8本。場所中、1本もつかない日さえあったそうです。師匠の三保ヶ関親方は「かけてもどうせ勝つから面白くない。でも、いつの世でも、そういう一種の憎まれ役がいなきゃいけないんだ」と語っています。

もう一つよく言われたのが、投げ倒した相手に一切手を貸さず、さっと背を向けて勝ち名乗りを受ける姿でした。ふてぶてしい、傲慢だ、と散々に言われたものです。しかし本人の言い分はまったく逆で、「真剣勝負をした相手に手を貸すのは失礼だ」「自分だったら手を貸されるのは絶対に嫌だ」という考えからの振る舞いでした。

当時は「江川・ピーマン・北の湖」という言い回しまであったそうです。子供が嫌いなものの代名詞として、大横綱がピーマンと並べられていたわけで、今考えると気の毒な話です。

そして昭和53年、北の湖は5場所連続優勝を果たし、年間82勝という記録を打ち立てました。私は小学3年から4年になる年です。50場所連続勝ち越し、37場所連続二桁勝利、横綱在位63場所、優勝24回。数字を眺めていると、「絶対王者」という子供の実感が、大げさでも何でもなかったことがよくわかります。


「負けろ」が、ついにかなった夜

私が毎日念じていた「負けろ」がかなったのは、昭和56年1月場所の千秋楽でした。

千代の富士の手形。私が毎日「勝ってくれ」と願った、あの手。(Photo: CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

関脇・千代の富士が初日から14連勝。千秋楽の結びで、1敗の北の湖と直接対決になります。本割では吊り出されて敗れ、全勝優勝は消えました。しかし千代の富士は、吊り出されたそのときに北の湖の足の状態が万全でないことに気づいていたといいます。続く優勝決定戦、右からの上手出し投げで北の湖を土俵に転がし、幕内初優勝を決めました。

この日の大相撲中継の視聴率は52.2パーセント。優勝が決まった瞬間は65.3パーセントに達し、今なお大相撲中継の最高記録として残っています。要するに、日本中が見ていたわけです。

もちろん私も、テレビの前で千代の富士の優勝を願って観ていました。

あの場所は後半に入ると、「昨日も千代の富士勝ったね」が友達との朝の挨拶になっていました。連日そうやって白星を確かめ合いながら千秋楽までたどり着いて、いよいよ「絶対に優勝してくれ!」と念じながらテレビの前に座ったわけです。

以前、江夏豊、9者連続奪三振──私が生まれた2年後の「見ていない伝説」の回で、江川卓がオールスターで8連続奪三振を決めたとき、近所から歓喜の声とため息が聞こえてきた話を書きました。この日はそれ以上でした。本割で千代の富士が吊り出された瞬間、近所中から「あぁ⤵」というため息が漏れ聞こえてきて、そのデカさといったらなかった。1月ですから、どの家も窓は閉め切っていたはずなのです。

そして優勝決定戦。千代の富士が北の湖を転がした瞬間に上がった歓喜の叫び声は、さっきのため息をはるかに上回っていました。やばかったです(笑)。

テレビは家の中にあるのに、町内で同じものを見ていた時代でした。

同じこの場所を最後に、貴ノ花が土俵を去りました。皮肉なもので、引退を決意させたのは前年11月場所で千代の富士に一方的に敗れた一番だったといわれています。その2か月後には輪島も引退。私が小学校を卒業する頃には、あの三人のうち二人がもういなかったことになります。


門限が私を相撲の前に座らせ、部活が遠ざけた

北の湖自身が引退したのは、昭和60年1月場所の途中でした。私は中学3年生です。

ただ正直に言えば、そのニュースの記憶がありません。中学に入ると野球に夢中になっていて、もう相撲を見ていなかったからです。部活が終わって帰る頃には夕方6時30分を回っていて、相撲中継はとっくに終わっている。門限5時が私を相撲の前に座らせていたのだとすれば、部活が私を相撲から引き離したことになります。

絶対王者が土俵を降りた日を、私は知らないまま通り過ぎました。

強い者が嫌われるという、今思えばずいぶん贅沢な時代でした。誰もが倒れることを願っていて、それでも倒れなかった人が土俵の真ん中に立ち続けていた。あの手応えのようなものは、勝ってほしい人が勝つのとは、また別の面白さだったのだと思います。

みなさんが子供の頃、「この人は絶対に負けない」と思っていた人は誰でしたか。スポーツでも、テレビの中でも構いません。よかったら教えてください。


北の湖、輪島、貴ノ花、千代の富士——この記事に出てきた四人が、同じ土俵の上にいた時代。その熱を、写真と記録でまるごと振り返れるのがこの一冊です。夕方5時の茶の間で観ていたあの取組が、大人になった目でどう見えるのか。同世代の方には、たまらない厚みだと思います。

昭和の大相撲
昭和の大相撲刊行委員会/ベースボール・マガジン社。北の湖・輪島・貴ノ花・千代の富士——昭和の土俵を写真と記録でたどる保存版
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【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。


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