九月十六日。昭和五十二年、一九七七年のこの日、日本の物差しに「尺」が戻ってきた。

こう書いても、若い人にはぴんと来ないかもしれない。尺の目盛りが入った物差しを作ったり売ったりすることが、それまで法律で禁じられていた、という話である。私自身、このことを知ったのはずっと大人になってからだ。

昭和五十二年の私は八歳、小学二年生。物差しといえば、ランドセルに刺さっていたあの一本だった。


ランドセルに刺さった竹の物差し

私の物差しは竹製だった。筆箱には入らないから、ランドセルの横に刺して通っていた。

上から金属、竹、プラスチックの物差し。私のランドセルに刺さっていたのは、真ん中の竹だった。(Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

友だちの中には、見事に反った物差しを持っているやつもいた。まっすぐな線を引くための道具が弓なりになっているのだから、あれで何を測っていたのだろうと今でも可笑しくなる。

不思議なのは、その竹の物差しが、私が二十歳を過ぎても家に残っていたことだ。どういうわけか、捨てなかったのである。特別に大事にしていた覚えもない。ただ、なんとなく捨てられないまま、引き出しのどこかに居続けた。

あとから知って面白いと思ったのは、学校で使っていた三十センチという長さが、昔の一尺とほとんど同じだということだ。曲尺の一尺はおよそ三十・三センチ。私たちは知らないうちに、ほぼ一尺の物差しを毎日持ち歩いていたことになる。

学校の物差し、曲尺、鯨尺、三尺。同じ縮尺で並べると、30センチと一尺はほとんど見分けがつかない。


犬小屋を五回作った父

学校の物差しはセンチだったが、家の中には尺の世界があった。持ち込んでいたのは父である。

中川の土手のそばの家に住んでいた頃、父は日曜大工に精を出していた。まあ、人に頼むとお金がかかる、というのがいちばんの理由だったのだろう。

私の記憶にある限り、一匹の犬のために犬小屋を五回は作った。作りかえるたびに出来がどんどん良くなっていくので、犬のほうも戸惑っていたかもしれない。

学校から帰ってくると、朝にはあったはずの部屋の壁がぶち抜かれて、なくなっていたこともある。極めつけは風呂だ。父は風呂まで自分で作ってしまった。たしか三か月くらいかかったのではないかと思う。

そんな父の口からは、「尺」や「寸」という言葉がしょっちゅう出てきた。子どもの私は意味もよくわからないまま、それを家の中の言葉として聞いていた。


法律に「待った」をかけた職人たち

日本では戦後、メートル法への統一が進められ、昭和三十四年からは尺目盛りの物差しの製造も、商取引での使用も禁じられた。

困ったのは、尺で仕事をしてきた人たちである。木造の家は尺を基準に建てられているし、着物の仕立ては「鯨尺」という別の物差しで測る。鯨尺の一尺は曲尺の一尺二寸五分、およそ三十八センチ。センチに置き換えればいいという話では済まない。現場では、闇で作られた粗悪な物差しが出回って混乱したり、職人が書類送検されたりすることまで起きた。

明治11年(1878年)に描かれた曲尺(かねじゃく)、墨壺、墨さし。大工の道具箱には、ずっとこれが入っていた。(米国議会図書館蔵/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

大工さんの組合である全建総連は「日本の建物は尺が基本だ」と訴え続けた。そこに呼応したのが、タレントで作家の永六輔さんである。使いたい人、ないと困る人がいるのに法律で禁じるのは無茶だ、とラジオやテレビで繰り返し訴えた。

永六輔さん(1966年)。(婦人生活社『婦人生活』1966年2月号より/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

そして昭和五十二年九月十六日の午後。通産大臣の諮問機関である計量行政審議会が九回目の専門部会を開き、曲尺と鯨尺の物差しの製造を認めるという最終結論をまとめた。正確には「尺に相当する目盛りが付いた、メートル法の物差し」という扱いである。いかにもお役所らしい言い回しだが、要するに職人の道具箱に、十八年ぶりに堂々と尺が戻ってきたわけだ。

尺が物差しから消えて、戻るまで十八年。その十年後の同じ日には、世界がフロン規制の物差しをそろえる。

正直に書くと、この尺貫法の一件を、子どもの私はまったく知らなかった。永六輔さんのことはテレビで見て知っていた。「せき・こえ・のどに浅田飴」のコマーシャルの人である。あの人が「上を向いて歩こう」の作詞家だということも、実は今回調べて初めて知った。浅田飴のおじさんが、職人の物差しのために国に物申していた。八歳の私が見ていたテレビの向こうには、そういう大人の世界があったのだ。


その永六輔さんが、全国の職人たちの言葉を集めた一冊があります。「尺」を守った人たちが、どんな気持ちで道具を握っていたのか。短い言葉の中に、それがそのまま入っています。

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いまも現場では「尺」が生きている

五十代になったいま、私は路線バスの運転士をしながら、中古の戸建てを貸す仕事もしている。

入居者が退去したあとには、壁のクロスを張り替える。そのとき職人さんと話をすると、「尺」や「間」といった言葉がごく普通に出てくる。図面にはミリで数字が書いてあっても、現場の会話は昔ながらの単位で進んでいく。木造の家はおおむね三尺、約九十一センチを一つの単位として組み立てられているから、そのほうが話が早いのだ。

日本の二階建ての軸組(明治18年、E・S・モース『日本の家屋とその周囲』より)。柱と梁は、尺の目盛りで組み立てられてきた。(Photo: パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

職人さんの口から「尺」という言葉を聞くと、ふと父の声を思い出す。壁をぶち抜き、風呂を作っていた父も、きっと同じ言葉で家を測っていた。

もし昭和五十二年に審議会が結論を出していなければ、職人さんたちはいまも、道具箱の奥にこっそり尺の物差しを隠していたのかもしれない。


昭和五十二年の結論でいう「尺相当目盛」の曲尺は、いまも普通に買えます。表も裏も尺の目盛り。手に持つと、父が日曜日に使っていた道具の重さを思い出します。

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昭和の終わり、今度は世界が物差しをそろえた

ちなみに、それからちょうど十年後の昭和六十二年、一九八七年の九月十六日。カナダのモントリオールで、オゾン層を壊すフロンガスなどを規制する国際的な取り決め、モントリオール議定書が採択された。日本を含む二十四か国が調印し、フロンの消費量を段階的に減らしていくことが決まっている。

南極上空のオゾンホール(1998年10月1日、NASAの観測)。紫色の部分が、オゾンが薄くなった場所。(Photo: NASA/パブリックドメイン, via Wikimedia Commons)

十年前には、日本の職人が「国の物差しを押しつけるな」と声を上げた。十年後には、世界中の国が同じ物差しで決めごとをする時代になった。どちらも九月十六日の出来事というのが、なんとも面白い。

この年の私は高校三年生。七月二十三日、神宮第二球場での最後の試合に負けて、野球が終わった秋である。

議定書が採択されたこと自体は、当時の私は知らなかったと思う。ただ、その後しばらくして、フロンガスを使ったスプレー缶が店から消えていくという話や、「代替フロン」という言葉を、よく耳にするようになった記憶がある。あれが、この日の決めごとの先にあった出来事だったのだろう。


自分の中の物差し

「物差し」という言葉を考えていると、それは長さを測る道具だけではなく、人が物事を判断するときの基準そのものなのだと思う。

法律やルールには、誰が見ても同じように判断できる物差しが必要だ。バスの運転でも、信号や制限速度、運行上の決まりなど、決められた基準を守ることは安全の大前提である。

でも、実際の現場では、それだけでは測れないものがある。

長年バスを運転していると、狭い道ですれ違うときの車幅感覚や、ミラーを見ながら「ここなら通れる」と判断する距離感が、少しずつ体に染みついてくる。メートルやセンチで測っているわけではない。経験によって、自分の中に物差しができていくのだ。

野球でも同じだ。

子どもたちに「こうしなさい」と一つの物差しを当てるだけではなく、その子自身が自分の物差しを持てるようになってほしいと思っている。人と比べて速い、遠くへ飛ばせる、体が大きい。それだけが基準ではない。

昨日の自分より少し上手くなったか。苦手なことから逃げずにできたか。チームのために声を出せたか。

そんなところにも、その子だけの物差しがあると思う。

そして、年齢を重ねた今の自分にも、自分なりの物差しがある。

若い頃は、周りと比べて「自分はどのくらいなのか」を気にしていたように思う。でも今は、他人の物差しで自分を測っても仕方がない。仕事でも、子育てでも、野球でも、人生でも、自分が大切にしたいものを基準にして、自分自身を測ればいいのだと思うようになった。

曲尺や鯨尺が時代の中で見直されたように、人の物差しも一つではない。

決められた物差しを守ることも大切。 経験から身についた物差しも大切。 そして最後は、自分自身でつくっていく物差しも大切。

バスのハンドルを握り、子どもたちの野球を見守り、五人の子どもを育ててきた今、私の中にもずいぶん長い時間をかけてできた物差しがある。

これから先は、その物差しを少しずつ自分で磨きながら、まだまだ自分の人生を測っていきたいと思っている。

あの竹の物差しを、なぜ二十歳を過ぎても捨てなかったのか。いまなら少しわかる気がする。

あなたの家にも、なぜか捨てられずに残っている物差しや道具はありませんか。よかったら教えてください。


【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。

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