【昭和の今日は何があった日?】6月30日──布団の中の、小さな実況中継

今日は6月30日。一年のちょうど真ん中、折り返しの日です。梅雨の重たい雲の下、それでも夏がもうそこまで来ているのを、肌のどこかで感じはじめる頃です。 この日は「トランジスタの日」でもあります。1948年(昭和23年)6月30日、アメリカのベル研究所で、三人の物理学者が生み出した小さな小さな部品が、はじめて世の中に公開されました。トランジスタです。 理科の授業に出てきそうな、なんだか難しい話に聞こえるかもしれません。けれども、この豆粒のような部品こそが、やがて昭和の子どもの手のひらに、ひとつの宝物を届けてくれることになります。トランジスタラジオです。 トランジスタという、小さな魔法 トランジスタが発明されるまで、ラジオの心臓部には「真空管」という、ガラスでできた電球のような部品が使われていました。だからラジオは大きくて、重くて、電源を入れてもすぐには鳴らず、温まるのをしばらく待たなければなりませんでした。茶の間にどっしりと置かれ、家族みんなで囲むもの。ラジオは「家具」だったのです。 ところがトランジスタは、爪の先ほどの大きさで、電気も食わず、衝撃にも強い。この小さな部品が真空管に取って代わったとき、ラジオは劇的に小さくなりました。 世界で最初のトランジスタラジオは、1954年にアメリカのリージェンシー社が発売しました。世界初の栄冠こそ譲りましたが、その翌年、日本でも快挙が起こります。1955年(昭和30年)、東京通信工業——のちのソニーが、「SONY」の名を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出したのです。 当時の東京通信工業は、社員数が三百人にも満たない、まだ無名の小さな会社でした。井深大(いぶか・まさる)と盛田昭夫(もりた・あきお)という二人の創業者が、「自分たちの手でトランジスタを作り、それでラジオをこしらえる」という、無謀とも言われた目標に、まさに社運を賭けて挑んだのです。トランジスタでラジオを作るなど不可能だ——そんな声を一つひとつはねのけ、彼らは小さな箱の中に、新しい時代を詰め込みました。 さらに1957年(昭和32年)、ソニーは当時世界最小の「TR-63」を完成させます。「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで売り出されたこの一台は、サラリーマンの月給ほどもする高級品でしたが、アメリカで飛ぶように売れ、「SONY」の名を世界中に知らしめました。やがてこの会社が、ウォークマンを生み、世界を代表する電機メーカーへと駆け上がっていくのですが、その出発点に、手のひらにのる一台のラジオがあったというのは、なんだか胸が熱くなる話ではありませんか。 このとき、ラジオの意味そのものが変わりました。家族でひとつを囲む「家具」から、一人ひとりが、聴きたいときに、聴きたい場所で耳を傾ける「自分だけの道具」へ。「トランジスタグラマー」なんて流行語まで生まれたほど、トランジスタは時代の合言葉になっていきました。 私が生まれる二十年以上も前の話です。けれども、この小さな魔法が、のちに私の少年時代の夜を、こっそりと彩ってくれることになるのです。 布団の中の、小さな実況中継 トランジスタラジオと聞いて、私の胸に最初に浮かんでくるのは、やっぱり野球のことです。 私の手にトランジスタラジオがやってきたのは、小学校三年生、九歳の誕生日プレゼントとしてでした。昭和53年(1978年)のことです。子どもの頃から無類の巨人ファンだった私にとって、これほどうれしい贈り物はありませんでした。 というのも、当時のテレビのナイター中継は、試合の終盤になると放送時間が来て、ぷつりと終わってしまうことがしょっちゅうあったのです。いちばんいいところで、画面がほかの番組に変わってしまう。あの悔しさといったらありませんでした。そんなとき、毎回活躍してくれたのが、誕生日にもらったこの小さなラジオでした。 布団に入って、そっとラジオのスイッチを入れる。イヤホンを耳に押し込む。テレビとちがって、映像はありません。それでも、ラジオから聞こえてくるアナウンサーの実況だけで、私の頭の中には、その試合の光景がはっきりと、まるで映像のように映し出されていたのです。打球の伸びも、走者の足も、ぜんぶ見えている気がしました。 その証拠に、と言ってはなんですが、いまでも私は当時の巨人の打順をそらで言えます。1番センター柴田、2番サード高田、3番レフト張本、4番ファースト王、5番セカンドのシピン、6番ライト淡口、7番ショート河埜、8番キャッチャー吉田、9番ピッチャー堀内……(笑)。ほら、こうしてすらすら出てくる。布団の中で毎晩のように聞いていた名前は、半世紀近くたった今も、しっかりと私の体に染みついているのです。 そうしてラジオで知った試合の続きは、翌朝の学校での、またとない自慢の種でもありました。「ゆうべの試合、王さん打ったぞ」「堀内、最後まで投げきった」。テレビの中継が終わったあとの展開を知っているのは、布団の中でこっそりラジオを握りしめていた者だけ。教室でそれを得意げに話すのは、子どもなりの、ちょっとした誇りだったのです。あの頃の巨人は、私たち少年にとって、まぎれもないヒーローでした。 「聴く」から「する」へ そんなふうに、布団の中でラジオの野球にのめり込んでいた少年も、中学、高校と進むうちに、ラジオを手にする時間は少しずつ減っていきました。 理由は、いたって単純です。野球部の活動に、すっかり夢中になっていたからです。 考えてみれば、これはちょっと面白い変化でした。小学生の私は、ラジオの実況を聴きながら、見えないグラウンドを頭の中に思い描く「聴く側」の子どもでした。それが気づけば、自分自身がそのグラウンドに立ち、白球を追いかける「する側」になっていたのです。耳をすませて憧れていた世界に、いつのまにか、自分の足で踏み込んでいた。 イヤホンから流れてくる誰かの実況ではなく、自分のスパイクが土を蹴る音、バットが芯でボールをとらえる音。私にとっての夏の音は、そうやって少しずつ、入れ替わっていったのでした。 茅の輪をくぐって、もう半分 さて、6月30日に話を戻しましょう。 この日は、昔から各地の神社で「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」が行われる日でもあります。一年の前半でたまった穢れを祓い落とし、残り半年を無事に過ごせるよう願う、古くからの神事です。神社によっては、茅(ちがや)で編んだ大きな輪が境内に設えられ、人々はそれをくぐって身を清めます。「茅の輪くぐり」です。 正直に告白すると、子どもの頃の私は、こんな神事があることなど、まるで知りませんでした。6月30日が一年の折り返しだということも、半年の穢れを祓う日だということも、すっかり大人になってから知ったことばかりです。 当時の私にとっての6月30日は、ただただ「夏休みが、もうすぐそこまで来ている日」。それ以上でも、それ以下でもありませんでした。一学期の終わりが近づくこの時期の、あのそわそわとした高揚感だけは、今でもはっきりと思い出せます。 それでも、こうして大人になって暦を眺めてみると、6月30日というのは不思議な日だと思います。一年のちょうど真ん中。半分が終わって、半分が残っている。あの頃の私の心は、茅の輪のことなど露知らず、もうすっかり、ラジオから聞こえてくる夏の音のほうへ飛んでいっていたのでしょう。 おわりに あの「ポケッタブルラジオ」から数えて七十年近く。今、私たちは一人一台、手のひらにのる小さな箱を持ち歩いています。スマートフォンです。あれもまた、トランジスタという小さな部品の、はるか遠い子孫なのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。 今では、どんな球場の試合も、手のひらの画面で映像つきで観られるようになりました。便利になったものです。けれども、あのモノラルのスピーカーから流れる実況に耳をすませ、見えないグラウンドを頭の中で必死に描いていた、あの時間。映像がないからこそ、想像することそのものが、楽しみの大きな一部だったように思うのです。アナウンサーの声色ひとつで、ホームランの大きさも、内野ゴロの惜しさも、ぜんぶ自分の頭の中でふくらませていた。あれはあれで、ぜいたくな野球の楽しみ方でした。 バスのハンドルを握る今も、私の運転席にはいつも何かの音が流れています。形は変わっても、声と一緒に時間を過ごすという習慣だけは、あの布団の中の夜から、ずっと変わっていないのかもしれません。 一年の折り返しの日。あなたにとって、あの小さなラジオから流れていたのは、どんな音でしたか。 あの頃の「手のひらの相棒」は、令和のいまも姿を変えて生き続けています。なかでも、手回しとソーラーで充電でき、いざというときスマホの充電もできる防災ラジオは、ひとつ備えておくと心強いものです。枕元のナイター中継に、そして梅雨明けから本番を迎える台風・地震への備えに。 ソニー 防災ラジオ ICF-B99(FM/AM/ワイドFM・手回し充電・ソーラー充電・スマホ充電対応)手回しと太陽光で充電でき、スマホ給電・LEDライトも。枕元にも、防災の備えにも一台 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月29日】生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって | 次の記事:(近日公開)

June 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月29日──生まれる前に来た四人、私が夢中になった音楽の“源流”をたどって

私が生まれる、三年前の水曜日 今日は六月二十九日。振り返ってみると、この日は私にとって少し不思議な意味を持つ日でした。というのも、1966年(昭和41年)の今日、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ日だからです。 正直に申し上げます。私はこの出来事を、自分の記憶として語ることができません。私が生まれたのは1969年の四月。ビートルズ来日は、それより三年近くも前のできごとです。つまり、その朝、日本中が沸き返っていたとき、私はまだこの世にいませんでした。 ですから今日は、いつもとは少し趣向を変えてみようと思います。「子どもの頃の記憶」ではなく、「この記事を書きながら、私自身がビートルズという存在を一から知っていく」という形で進めてみたいのです。そしてその先で、私が子ども時代に夢中になった歌い手たちと、この四人組とが、どこかでつながっているのではないか──そんな予感を、確かめてみたいと思います。 あの五日間に、日本で起きたこと 調べはじめて、まず驚いたのは、その騒ぎの途方もない大きさでした。 ドイツでの公演を終えたビートルズを乗せた飛行機が、台風の影響で予定より遅れて羽田空港に降り立ったのは、1966年6月29日の午前三時三十九分。深夜にもかかわらず、四人は日本航空のハッピをはおってタラップを降りたといいます。その日の午後には、宿泊先の東京ヒルトンホテルで記者会見。そして6月30日から7月2日までの三日間、日本武道館で計五回、一回あたり十一曲・約三十五分のコンサートが開かれ、のべ五万人を動員しました。 あとで知って意外だったのは、この1966年が、ビートルズ自身にとっても大きな曲がり角の年だったということです。彼らはこの来日の直前に名盤『リボルバー』を録り終えており、しかもこの世界ツアーが、結果的に彼らの最後のツアーになりました。観客の悲鳴で自分たちの演奏も聞こえない巡業に疲れ、「アイドル」から「アーティスト」へと脱皮していく、ちょうどその境目だったのです。日本でも分刻みのスケジュールに縛られ、日中はホテルに缶詰めだったといいます。武道館で歌われたのは、「イエスタデイ」「ペイパーバック・ライター」「デイ・トリッパー」といった曲々。その曲名を並べて眺めているだけで、あの夜の熱気が少しだけ立ちのぼってくる気がします。 ただ、すんなり実現したわけではなかったようです。武道館はもともと武道のための「神聖な殿堂」とされ、「そんな場所で不良の音楽をやらせるとは何事か」という右翼団体の反対や、「観に行ってはならない」と通達を出した学校まであったといいます。三日間のコンサートには、機動隊員を含めのべ五千五百人もの警官が配されたそうです。今の私たちの感覚では、ちょっと想像がつきません。 そしてもう一つ、私の胸に残ったのが、テレビのことでした。7月1日昼の公演を日本テレビが録画し、その日の夜に放送したところ、視聴率はなんと56.5パーセント。これは特別番組として、今なお破られていない歴代最高記録だといいます。さらに調べると、私が小学生だった1978年にも、この武道館公演はテレビで特別に再放送されていました。つまり私の子ども時代には、ビートルズはもう「歴史」であり「伝説」だったのです。 武道館という、「最初の扉」 ここで「武道館」という名前が出てきて、私は思わずハッとしました。 実はつい三日前、私はこの連載で、1976年の猪木とアリの一戦を取り上げたばかりでした。あの異種格闘技戦の舞台もまた、日本武道館だったのです。 つまり武道館は、ビートルズがロックの「聖地」に変え、その十年後には格闘技の「聖地」にもなった場所でした。後の時代に数えきれないミュージシャンが「いつかはあのステージに」と夢見る、あの大きな箱の、いちばん最初の扉を開けたのが、この四人だった──そう知ると、三日前に書いた猪木の汗と、今日のビートルズの歓声とが、同じ床の上でつながっているような気がしてきます。 そもそも武道館は、1964年の東京オリンピックの柔道会場として建てられた、当時はまだ真新しい建物でした。武道のために生まれたその場所が、わずか二年後に世界一のロックバンドを迎え入れ、やがて音楽の殿堂へと姿を変えていく。一つの建物がたどる運命というのも、ずいぶん数奇なものだなと思います。 おもしろいことに、肝心のコンサートそのものは、必ずしも絶賛ばかりではなかったようです。当時のビートルズはツアー暮らしに疲れ切っていた頃で、十一曲の歌い回しは散漫で、肩透かしを食らった熱心なファンも少なくなかった、という記録が残っています。完璧ではなかったのに、伝説になった。これもまた、猪木とアリのあの一戦とそっくりだなと、私は少しおかしくなりました。 あの客席に、若き日の“ジュリー”がいた さて、ここからが、私が本当に知りたかったことです。 ビートルズの来日は、日本の若者たちに途方もない衝撃を与えました。髪を伸ばし、仲間と楽器を持ち寄ってバンドを組む若者が次々に現れ、やがて「グループ・サウンズ(GS)」という空前のブームが、日本中を覆っていきます。長髪に、おそろいの衣装。今の私たちが思い浮かべる「昭和のバンド像」の原型は、この頃にできあがったのですね。 そのGSの頂点に立ったのが、ザ・タイガースでした。ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともに「GS御三家」と呼ばれ、人気を競い合い、テレビにも映画にも引っ張りだこになります。そして、そのザ・タイガースのボーカルこそ、のちに私が子どもの頃にテレビで見ていた沢田研二さん──ジュリーだったのです。 調べていて、思わず声が出たのはここでした。1966年のビートルズ武道館公演の客席に、まだデビュー前の沢田さんがいた、というのです。前身バンドのファンから「絶対に観た方がいい」とチケットを渡されて足を運び、そして彼は、こう漏らしたと伝えられています。「こんなものにはなれないと思った」と。 私がブラウン管の中の堂々たる「スター」として眺めていたジュリーが、その出発点では、生身のビートルズを見上げて打ちのめされていた。私が生まれる前の武道館の客席と、私の子ども時代のお茶の間とが、一本の線でつながった瞬間でした。 「騒がしいバンド」から、「路地裏の少年」へ そしてもう一人、どうしても確かめたい人がいました。桑田佳祐さんです。 少し前にこの連載で、私はサザンオールスターズのことを書きました。1978年、「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」で初めて彼らを見たとき、私は「何だ、この騒がしいバンドは!?」と面食らった──そんな思い出です。 その桑田さんが、筋金入りのビートルズ好きだということを、私は今回あらためて知りました。ご本人が「外国の文化にもろに影響を受けている」と語りつつ、「日本語の“ワビ”“サビ”の感覚を出していきたい」とも言う。憧れと、そこから日本語の歌へと向き直っていく姿勢。サザンのあの不思議な日本語の響きの奥には、確かにビートルズがいたのです。しかも桑田さんは2015年の武道館公演で、「武道館は、私が小五のとき、ビートルズが来日してライブをやった場所です」と語り、敬意を込めてビートルズの「HELP!」を歌い上げたといいます。私が生まれる前に来た四人を、桑田さんは十歳の少年として見上げていたのですね。 そして──ここからが、私自身のいちばん個人的な話になります。 数えきれない歌い手の中で、私が心の底から惚れ込んだのは、浜田省吾さんでした。出会いは、大学に入って間もない頃です。知り合ったばかりの友達の車に乗せてもらったとき、カーステレオから流れてきた一曲に、私は思わず「なんだこれ、めちゃくちゃいい!!」と身を乗り出していました。「これ、誰?」と尋ねて教えてもらったその曲は──たしか「路地裏の少年」だったと思います(笑)。浜田さんの、ソロデビュー曲でした。 あとになって、この出会い方そのものに、私はちょっと震えました。というのも、浜田さんもまた、少年の頃に友人の部屋でラジオから流れてきたビートルズに「一瞬で恋に落ちた」人だったからです。スピーカーから不意に飛び込んできた音に、頭を殴られたように夢中になる──その同じ瞬間を、私は二十年近くもあとに、友達の車の助手席で味わっていたわけです。「なんだこれ!?」という、あの胸の高鳴り。ジュリーから、桑田さんを経て、それは確かに私のところまで受け継がれていたのかもしれません。 その浜田さんもまた、武道館を「聖なる場所」と呼びます。理由を問われて、「心に残っている武道館のイメージは、ビートルズの初来日。1966年、俺は中学二年生で、十四歳だった」と語っているのです。そして彼がいちばん好きなアルバムに挙げるのは、よりによって、あの四人が来日直前に録り終えたばかりの『Revolver』だといいます。 結局のところ、私はビートルズをリアルタイムでは知りません。けれど今日、書きながら、はっきりと気づきました。私はずっと、彼らの“こだま”を聴いて育っていたのだと。テレビの中のジュリーを通して、子どもの私を驚かせたサザンを通して、そして何より、大人になった私が自分で見つけて惚れ込んだ浜田省吾さんを通して。生まれる前に鳴ったはずのあの音は、長い回り道をしながら、確かに私のところまで届いていたのです。 みなさんにとって、「自分が生まれる前のはずなのに、なぜか懐かしい曲」はありますか。 私がこの記事で何度も書いた、あの武道館の五回のステージ。その三十日と七月一日の演奏は、実は録音が残り、いまも『ライブ・アット・ブドウカン 1966』として聴くことができます。悲鳴に半ばかき消されながら、それでも確かに鳴っていた“最初の音”。記事を読んで「あの夜の音を、実際に聴いてみたい」と思った方に。 ライブ・アット・ブドウカン 1966(ザ・ビートルズ)1966年6月30日・7月1日、まさにこの記事の武道館公演を収めた実況録音盤 Amazonで見る › 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(1965〜1989年)のできごとを、当時子どもだった私の目線で振り返る連載です。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【6月28日】世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった | 次の記事:【6月30日】布団の中の、小さな実況中継 ▶

June 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月28日──世界が石油に揺れた日、十歳の私はドラえもんに夢中だった

今日は6月28日。梅雨の晴れ間に、夏の重たい空気が少しずつ混じりはじめる頃です。 カレンダーの上では何でもない一日に見えますが、この6月28日という日付は、戦後の日本が「世界の中の自分」をどう見つめてきたかを、不思議なほど映し出しています。 1979年(昭和54年)のこの日、東京で初めての先進国首脳会議――「東京サミット」が開かれました。そしてそのちょうど十年前、1969年(昭和44年)の同じ6月28日。私が生まれた年の新宿で、夜ごと若者たちが歌い、ついに機動隊と衝突した日でもありました。 赤坂に世界の宰相が集った日。新宿に名もなき若者が集った日。同じ日付の十年違いに、昭和という時代の二つの顔が見えてきます。 赤坂に集った、七人の宰相 1979年6月28日から二日間、東京・赤坂の迎賓館に、世界の主要国の首脳が集まりました。第五回先進国首脳会議、通称「東京サミット」。サミットが日本で開かれるのは、これが初めてでした。 そもそもサミットとは、先進国の首脳が一堂に会し、世界経済や国際政治の難題を膝詰めで話し合う場です。第一回は1975年、フランスのランブイエに集まったのが始まりでした。敗戦からわずか三十数年、その「先進国クラブ」の主催国に日本がなったということは、この国が名実ともに世界経済の一角を担う大国へと駆け上がった証でもありました。焼け野原から立ち上がった国が、世界の宰相をもてなす側に回る――東京サミットは、戦後日本の一つの到達点だったのです。 議長を務めたのは、日本の大平正芳首相。「アーウー宰相」とも呼ばれた、あの独特の語り口の人です。そのテーブルには、アメリカのカーター大統領、フランスのジスカール・デスタン大統領、西ドイツのシュミット首相、イタリアのアンドレオッティ首相、カナダのクラーク首相、そしてイギリスのサッチャー首相が顔をそろえました。 議題の中心は、石油でした。前年に起きたイラン革命の余波で原油の供給が激減し、世界は「第二次石油危機」のただ中にあったのです。各国は日本に石油輸入の数値目標を示すよう迫り、大平首相は「数値を出せば内閣がつぶれる」との危機感から抵抗を重ねたと、後の外交文書には残っています。最後には押し切られる形で、日本は目標値を受け入れました。 二度目の石油危機は、六年前の第一次石油危機ほどの大混乱こそ招きませんでしたが、それでも「省エネルギー」という言葉が日常に浸透し、節電や節約が盛んに呼びかけられた時代でした。 会議の前には、物騒な事件もありました。開催前の6月8日未明、迎賓館の正門めがけて無人の小型トラックが突っ込み、街路樹に衝突して炎上したのです。過激派による犯行声明が出され、東京は厳戒態勢に包まれました。 そんな大ニュースの渦中、小学四年生の私は何を見ていたのか――。 正直に申し上げます。このサミットのことを、私は今もってまるで覚えていないのです。少し前に流行った国会答弁の言葉を借りるなら、「記憶にございません」。世界の宰相が赤坂に集まろうと、大平首相が石油に頭を悩ませていようと、十歳の私の関心は、まったく別のところにありました。 「記憶にございません」──十歳の私の1979年 では、小学四年生だった私の1979年は、いったい何でできていたのか。サミットの記憶は空っぽなのに、こちらは驚くほど鮮明によみがえってきます。 まず、この年に『ドラえもん』のテレビアニメが始まりました。「どこでもドア」さえあれば、行きたい場所へひとっ跳び。「もしもボックス」があれば、どんな世界だって作り出せる。あの未来の道具たちに、私はどれほど憧れたことでしょう。 木曜の夜は、家族そろって『ザ・ベストテン』の前に陣取るのが我が家の決まりでした。1979年は本当に名曲ぞろいで、「魅せられて」「関白宣言」「ガンダーラ」「銀河鉄道999」「YOUNG MAN」「夢追い酒」……毎週のランキング発表に、家族で一喜一憂したものです。土曜の夜には『8時だョ!全員集合』、ほかにも『クイズダービー』や『欽ちゃんのどこまでやるの!』。茶の間は、いつも笑い声で満ちていました。 マンガといえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ドカベン』『がきデカ』、そしてこの年に連載が始まった『キン肉マン』。少し前から続くインベーダーゲームの熱もまだ冷めず、ポケットにはスーパーカー消しゴム、店先にはガチャガチャ、友達はラジコンやBB弾の鉄砲に夢中でした。 サミットも石油危機も、まるで別世界の話。十歳の私の世界は、テレビとマンガと駄菓子屋とで、ぴかぴかに輝いていたのです。 サッチャーから高市へ──四十七年越しの縦糸 ふたたび、赤坂のテーブルに目を戻します。あの東京サミットのテーブルにいたサッチャー首相は、実はこのとき、首相になってまだ二か月足らずでした。1979年5月に就任したばかりの、イギリス史上初の女性首相。その初めての大きな国際舞台が、この東京だったのです。女性が一国の宰相を務めること自体がまだ世界的にも珍しかった時代、男性ばかりが居並ぶ首脳の中で、サッチャーの姿はひときわ目を引いたことでしょう。 それから四十七年。2026年6月、フランス東部の保養地エビアンで開かれたG7サミットに、日本の高市早苗首相が出席しました。2025年10月に就任した、日本で初めての女性総理大臣。彼女にとっても、これが初めてのG7でした。 不思議な縁を感じたのは、高市首相がサミットに先立って訪れた英国で、サッチャー元首相がかつて使っていた執務室を訪ねていたことです。報道によれば、高市首相はその仕事ぶりに思いを馳せ、自らも強い意志をもって必要な変革を成し遂げる、と語ったといいます。 1979年の東京で世界デビューを飾った女性宰相サッチャー。2026年のエビアンで、その背中に思いを重ねた日本初の女性宰相。同じ六月のサミットという舞台で、四十七年の時を越えて二人の女性指導者が結ばれている――そう思うと、少し胸が熱くなります。 そして、もう一つ繰り返されていたものがあります。石油です。1979年がイラン革命による石油危機なら、2026年はホルムズ海峡をめぐる中東情勢の緊迫。エネルギーの安定供給が、またもサミットの主要議題になりました。資源を持たないこの国は、半世紀近くたっても、同じ不安の前に立たされ続けているのです。 十年前の同じ日──昭和44年、私が生まれた年の新宿 ここで時計を、東京サミットのちょうど十年前に戻します。 1969年(昭和44年)。私が四月に、この世に生まれた年です。 当時の日本は、高度経済成長のただ中にありながら、足元では学生運動が燃え盛っていました。この年の1月には、東大の安田講堂に立てこもった学生たちが機動隊によって排除され(東大安田講堂事件)、全国の大学が紛争に揺れ、翌1970年の日米安保条約改定を見すえて、街には不穏な熱気が満ちていました。 その熱気が歌になって噴き出した場所が、新宿駅の西口でした。 1969年の春ごろから、毎週土曜の夕方になると、西口の地下広場に若者たちが集まり、ギターを手に反戦歌を歌うようになります。「ベトナムに平和を!」を掲げるベ平連の青年たちが中心でした。岡林信康の「友よ」、高田渡の「自衛隊に入ろう」をもじった「機動隊に入ろう」――歌は人を呼び、議論を呼び、最大で約七千人が地下広場を埋めたといいます。人々はそこを「反戦広場」と呼びました。 彼らが訴えたのは、ベトナム戦争への反対でした。アメリカの戦争に、日本も加担しているのではないか――そんな問いが、若者たちの口から歌になって響いたのです。決まった指導者がいるわけでも、整然とした組織があるわけでもありません。仕事帰りの勤め人や通りすがりの学生までが足を止め、見知らぬ者同士が肩を並べて声を合わせる。地下広場は、誰もが主役になれる不思議な熱気に包まれていました。 しかし、膨れあがった集会を当局は見過ごしませんでした。そして6月28日の夜、ついに機動隊と若者が衝突します。地下に催涙弾が撃ち込まれ、六十名以上が逮捕され、通りがかりの女性まで巻き添えで負傷する騒ぎとなりました。 翌日、警察は地下広場に道路交通法を適用し、案内表示はひと晩のうちに「西口広場」から「西口通路」へと書き換えられました。「広場」であれば人は立ち止まり、歌い、語り合える。けれど「通路」では、立ち止まることすら許されない。名前を変えるだけで、空間の意味が一変したのです。歌声は、七月を最後に姿を消しました。 このとき、私は生後二か月あまりの赤ん坊でした。当然、何ひとつ覚えてなどいません。けれど、私が産声をあげたその年、私の生まれた東京の街で、これほどの熱と衝突があったのだと思うと、妙に感慨深いものがあります。 思えば昭和44年という年は、高度経済成長の繁栄と、それに異を唱える若者たちの叫びとが、激しくぶつかり合った年でした。豊かさへ向かって突き進む大人たちと、その足元で「本当にこのままでいいのか」と問いを突きつける若者たち。私は、そんな時代の只中に生まれ落ちたことになります。 おわりに 世界を変えようと新宿の路上で歌った若者たちの熱は、わずか十年のうちに鎮められ、「広場」は「通路」へと姿を変えました。その同じ十年で、日本は世界の首脳を迎える経済大国へと駆け上がります。私はちょうどその十年を、赤ん坊から十歳の少年へと育ちながら生きていたわけですが、当の本人ときたら、『ドラえもん』と『ザ・ベストテン』に夢中の毎日でした。 東京サミットの議長を務めた大平正芳首相は、その約一年後、1980年(昭和55年)6月12日、首相在任のまま急逝します。日本で初めてのサミットをやり遂げた人が、一年も経たぬうちにこの世を去ったのです。 1969年、私が生まれた年の新宿では、若者が「世界を変えたい」と歌い、1979年、十歳の私の頭の中は「どこでもドア」でいっぱいで、その傍らで世界の宰相たちが石油に頭を悩ませていました。そして2026年、日本初の女性首相が、フランスでまた同じ石油の心配をしている。 6月28日という一日を手がかりにたどってみると、世界の中の日本の姿が、半世紀分つながって見えてきます。あなたが生まれた年、あなたの街では、どんなことが起きていたでしょうか。少し調べてみると、思いがけない時代の顔に出会えるかもしれません。 あの夏、新宿の地下広場で本当は何が起きていたのか。当時その場に立っていた一人の女性が、半世紀の時を経て、写真と言葉で「広場」の記憶をたどった一冊があります。歴史の教科書には数行で終わってしまう出来事の、その熱と息づかいにふれてみたい方に。 1969 新宿西口地下広場大木晴子・鈴木一誌/新宿書房。あの「反戦広場」に立っていた当事者が綴る、写真と記憶の記録 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

June 28, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月27日──「○○さんちの工事、止まったんだってよ」──昭和の町と「日照権」

今日は6月27日。梅雨の晴れ間に、久しぶりのお日さまが差すと、なんだかほっとする季節です。 「日当たりのいい家」「南向きの部屋」。私たちは、あたりまえのようにそう口にします。ところが、その「日当たり」が、法律で守られるべき大切なものなのだと裁判所がはじめてはっきり認めたのは、じつは、それほど昔のことではありません。 昭和47年(1972年)6月27日。最高裁判所が、「日照(にっしょう)」と「通風(つうふう)」は法律で守られるに値する生活の利益だ、という判断をくだしました。これが、6月27日が「日照権の日」と呼ばれるようになったきっかけです。 法律の話、と聞くと身がまえてしまいますが、その底にあるのは、子どもの頃に空き地で遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、ごく素朴な気持ちでした。きょうは、その「陽だまり」をめぐる昭和の話を、私の育った町の風景とともに、少し書いてみたいと思います。 「日なた」が、裁判になった ことのおこりは、東京・世田谷の、ある住宅街でした。 南隣の家が、二階部分を増築しました。ところが、その増築のせいで、北側にあったお宅には、日中の陽がほとんど差さなくなってしまったのです。風の通りも悪くなりました。しかも、その増築は建築基準法に違反したもので、東京都知事から「工事をやめなさい」「違反した部分を取りこわしなさい」という命令まで出ていたのに、それを無視して建ててしまったものでした。 陽の当たらなくなった家の人は、とうとう引っ越しを余儀なくされます。そうして、争いは裁判になりました。 最高裁判所は、こう述べました。日照や通風は、快適で健康な生活に欠かせない「生活上の利益」である、と。お日さまの光や、家を抜けていく風は、ただの気分の問題ではなく、人が健やかに暮らすために守られるべきものなのだ、とはっきり言いきったのです。 もちろん、「少しでも陰ったら、すぐにいけない」という話ではありません。世の中、おたがいさまで、ある程度は我慢しあって暮らしている。けれど、その「我慢の限度」を超えてしまったときには、相手に責任を問える――。そういう考え方が、このときに定まりました。 判決がくだったのは、昭和47年。私はまだ三歳で、もちろん、この裁判のことなど知るよしもありません。 それにしても、と思うのです。お日さまが当たるかどうかなど、それまでは、わざわざ裁判で争うようなことではなかったはずです。陽は、空から、ただで、みんなに降りそそぐもの。誰のものでもないからこそ、誰のものでもあった。その当たり前が、当たり前でいられなくなってきた。だからこそ、こんな裁判が必要になったのでしょう。なぜこの時代に、こんな争いがわざわざ起きたのか。それを考えると、あの頃の町の景色が、すうっとよみがえってくるのです。 空き地が、どんどん消えていった 私が生まれ育ったのは、葛飾区の高砂です。京成電車の線路際で、来る日も来る日も電車を眺めて育ちました。 昭和40年代から50年代にかけての日本は、とにかく「建てる」時代でした。高度経済成長のまっただなか。人が都市にどっと集まり、住む家が足りず、土地が足りず、建物は空に向かってぐんぐん伸びていきます。木造の平屋がならんでいた町に、鉄筋の団地やマンションが、にょきにょきと姿をあらわしていきました。 子どもにとって、それは「権利」だの「法律」だのという、難しい話ではありませんでした。もっと単純で、もっと切実な変化でした。 きのうまで草野球をしていた空き地に、ある日、ぐるりと囲いができる。気がつけば基礎が打たれ、足場が組まれ、シートがかけられ、見上げるほどの建物が建っていく。遊び場がひとつ、またひとつと消えていく。そして、当たり前のように広がっていた空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく――。 昭和50年代、私が小学生だった頃は、近所にもまだ、空き地が点々と残っていました。なかには、硬いボールを使って野球ができるほど広い場所も、何ヶ所かはあったのです。私たちにとっては、またとないグラウンドでした。 それが、一つ、また一つと消えていきました。ある場所は建売住宅に、ある場所はマンションに。気がつけば、きのうまでボールを追いかけていたその土地に、知らない誰かの新しい暮らしが建っている。そんなふうにして、私たちの野球場は、静かに数を減らしていったのです。 そして、そんな時代でしたから、大人たちの会話のなかにも、ときどき、こんな話がまじるようになりました。 「○○さんのところ、二階の増築工事が止まっちゃったんだってよ」 「なんか、誰かにさされたみたいだよ」 「○○さんの建て替え、ストップさせられたらしい」 子どもだった私には、その意味の半分もわかっていませんでした。けれど、いまになって思うのです。これはまさに、あの世田谷の裁判で争われたのと、そっくり同じ出来事だったのだ、と。二階の増築。工事の差し止め。判決の舞台になったのと同じことが、私のすぐ近所でも、現実に起きていたのです。 当時の町の工務店だって、「日照権」のことも、守らなければいけない決まりも、本当はちゃんとわかっていたはずです。それでも、お客さんからの頼みだし、これくらいならバレやしないだろう――。そんな空気も、どこかにあったのかもしれません(笑)。 ただ、それを頭から責める気には、なれないのです。あの判決をきっかけに、ようやく法律の整備が進みはじめた、ちょうどその過渡期。新しいルールが、まだ世の中のすみずみまでは行きわたっていなかった。あの時代だからこそ生まれた、すきま風のようなトラブルだったのだろうと思います。 そういえば、ああいう「工事が止まった」「さされた」という話、いまではめっきり、耳にしなくなりました。 みんなの夢は、「土地付きの一戸建て」だった 正直に言うと、子どもだった私には、団地やマンションへの特別なあこがれは、ありませんでした。 むしろ、あの頃の大人たちが胸に抱いていた夢は、もっとはっきりとした、別のかたちをしていたように思います。自分の土地を持ち、そこに一戸建ての我が家を構える――いわゆる「マイホーム」です。私の親も、まさにそうでした。家を「持つ」というのは、土地ごと自分のものにすることであり、それが一国一城のあるじになる、ということだったのです。分譲マンションを買う、という選択肢は、まだあまり一般的ではありませんでした。 そう考えると、少しだけ、切ない気持ちにもなります。私が硬球を追いかけていた、あの空き地に建っていった建売住宅は、見方を変えれば、どこかの家族の「マイホームの夢」が、ひとつかなった姿でもあったのですから。私の遊び場が消えていくことと、よその誰かの夢がかなうことは、じつは同じひとつのできごとの、表と裏だったのです。 そうやって、限られた土地に、それぞれの「我が家」が、肩を寄せ合うようにして建っていきました。みんなが自分の城を求めれば、当然、隣の家との間で「日当たり」はぶつかります。日照権をめぐる争いというのは、思えば、誰もがマイホームを夢見た、その熱気の裏側で生まれてきたものだったのかもしれません。 「お日さま」を分けあう、ものさし 世田谷の判決のあと、日本のあちこちで、同じような「日照権」をめぐる争いが起きるようになりました。あとから建った高い建物のせいで、もとからあった家に陽が差さなくなる。そういうトラブルが、都市のいたるところで噴き出していたのです。 そこで、国も動きます。昭和51年(1976年)には建築基準法が改正され、「日影規制(にちえいきせい)」というものが設けられました。建物が、周りの家にどれだけの時間、影を落としてよいか。それを地域ごとに線引きする決まりです。いわば、限りあるお日さまを、ご近所みんなで分けあうための「ものさし」でした。 思えば、「日照権」という言葉が新聞やテレビをにぎわせたあの頃は、ひたすら前へ前へと進んできた日本が、ふと立ち止まって「このままでいいんだろうか」と考えはじめた時代でもありました。工場の煙、川の汚れ――「公害」という言葉が世の中に広まったのも、ちょうど同じ頃のことです。豊かになるのは、うれしい。背の高いビルも、新しい団地も、まぶしい。けれど、その豊かさが、誰かの陽だまりや、子どもの遊び場や、きれいな空気を、知らないうちに奪ってはいないか。そんな問い直しが、日本のあちこちで芽を出しはじめていた時代だったのだと思います。 いまの住宅街を歩いてみると、家と家のあいだに、それなりの空が残されています。冬の昼間でも、路地のどこかには、ちゃんと陽だまりができている。それは、あの時代に「陽の当たる暮らし」を守ろうとした人たちの、争いと、工夫と、知恵の積み重ねの上にあるのだ――。そう思うと、足もとに落ちている何でもない日なたが、少しだけ、ありがたく見えてくるのです。 令和の空を見上げて 時は流れ、令和になりました。 街を見渡せば、昭和の頃には考えられなかったような高さの、タワーマンションが立ちならんでいます。日照をめぐる話は、いまも消えてはいません。新しいビルが一棟建つたびに、その足もとの町では、同じような相談やもめごとが、いまも静かに続いているようです。 私はいま、路線バスの運転席から、毎日この町の空を眺めています。長年、同じ道を走っていても、年々、沿道のビルの背が高くなり、フロントガラスの先に見える空が、また少し狭くなったな、と感じることがあります。 それでも、信号待ちでふと窓の外に目をやると、住宅街の小さな庭先で、洗濯物が陽を浴びてゆれている。その何気ない光景を見るたびに、ああ、この陽だまりは、ちゃんと守られてきたものなんだな、と思うのです。 昭和47年6月27日。あの日、最高裁が「お日さまの光は、守るに値する」と認めたこと。難しい法律の判決に見えて、その底にあったのは、空き地で日が暮れるまで遊んでいた私たちがいちばんよく知っている、あの感覚――「陽の当たる場所は、気持ちがいい」という、ただそれだけの、あたりまえの願いだったのかもしれません。 あなたの育った町にも、いつのまにか消えてしまった空き地や、知らないうちに狭くなっていった空は、ありませんでしたか。 同じ場所に立って、昭和の町と令和の町を重ねてみる――そんな一冊があります。写真家・善本喜一郎さんが、1984年に撮ったまさにその場所に、何十年もたって同じアングルで立ち、いまの東京を撮り直した写真集です。消えた空き地、高くなったビル、狭くなった空。ページをめくるたびに、この記事に書いたような「町の移り変わり」が、目の前にくっきりと立ちあらわれます。 東京タイムスリップ1984⇔2021善本喜一郎/河出書房新社。同じ場所・同じアングルで撮り比べた、昭和と令和の東京。シリーズ累計のヒット作 Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ...

June 27, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月26日──「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の夜

今日は六月二十六日。梅雨の晴れ間に、夏の気配がじわりと混じりはじめるころです。 昭和の家庭の夜といえば、茶の間のブラウン管テレビでした。チャンネル権は家族の誰かが握り、子どもはその後ろで寝転がって画面を見上げる。そんな数えきれない夜のなかに、日本中が、いや世界中が、固唾をのんで見つめた一戦がありました。 昭和五十一年(一九七六年)六月二十六日。東京・日本武道館で、「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた一戦が行われました。プロレスラー・アントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン・モハメド・アリ。畑のまったく違う格闘技の頂点に立つ二人が、同じリングの上で向かい合ったのです。 アリの「挑発」から始まった、世紀の一戦 ことの発端は、その前年にさかのぼります。 昭和五十年(一九七五年)、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と謳われた世界の英雄モハメド・アリが、こう言い放ちました。「東洋人で、俺と闘う勇気のある者はいないか」。世界中のメディアに向けられた、いかにもアリらしいビッグマウスでした。 多くの人がリップサービスと聞き流すなかで、その言葉を本気で受け止めた男がいました。アントニオ猪木です。猪木は自らアメリカへ飛び、粘り強く交渉を重ね、ついにこの「夢の対決」を現実のものにしてしまいます。当時、猪木は三十三歳、アリは三十四歳。アリは紛れもない世界のスーパースターで、いっぽうの猪木は、まだアメリカではほとんど無名のレスラーでした。 試合に先立つ六月十八日、東京で行われた記者会見も語り草になっています。アリは猪木に「松葉杖」をプレゼントするという挑発的なパフォーマンスを見せ、会場をどよめかせました。猪木も通訳を介して冷静に切り返し、二人は上半身裸になってファイティングポーズで威嚇し合いました。世界の注目は、否が応にも高まっていきます。 この一戦は、新日本プロレスが企画した「格闘技世界一決定戦」シリーズの第二戦にあたります。同じ年の二月、猪木は柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウィレム・ルスカと闘い、プロレスの強さを世に示したばかりでした。その勢いのまま、相手は現役のボクシング世界王者。世界三十四カ国に同時中継され、視聴者数は推定十五億人とも言われる、文字どおり前代未聞のスポーツイベントとなったのです。 茶の間も、世界も──中継がつないだお祭り騒ぎ この一戦がすごかったのは、リングの中だけではありません。世界中の人々が、まったく同じ瞬間を見ようとしていたことです。 当時、衛星生中継は今ほど身近ではありませんでした。そこでこの試合は、各地の映画館に有料で中継を流す「クローズドサーキット」という方式で、世界へ届けられました。その数、全米だけで百七十か所。カナダやイギリスなど、海を越えた劇場のスクリーンにも、猪木とアリの姿が映し出されたのです。一人二十ドルの入場料を払ってでも、人々はこの一戦をその目で見届けようとしました。 もちろん、日本中も大騒ぎでした。試合の三日前、六月二十三日の夜には、テレビで前夜祭の生中継まで組まれ、当時の人気タレントたちが顔をそろえて、期待をあおりにあおりました。リングを直接見られない茶の間の子どもにも、「なにか、とんでもないことが起きるらしい」という空気だけは、ひしひしと伝わっていたはずです。大人も子どもも、世界中が、たった一つのリングに視線を集めていた――それが、あの六月二十六日でした。 蹴りも寝技も封じられて──十五ラウンドの真実 子どもだった私が「なんで立って戦わないんだろう」と首をかしげた、あの寝転がる闘魂。じつはあの戦法には、切実な理由がありました。 アリ陣営は、当初この試合をショー的なエキシビションだと考えていたふしがありました。しかし、猪木の本気の公開練習を目の当たりにして警戒を強め、試合直前になってルールが大きく書き換えられます。パンチもキックも、そして寝技も――プロレスの得意技の多くが、封じられてしまったのです。 がんじがらめのルールのなかで、猪木が選んだのは、リングに寝転がったまま、アリの脚を執拗に蹴り続けるという戦法でした。のちに「アリキック」「スライディングキック」と呼ばれるあの蹴りです。立つアリと、寝た猪木。片方が立ち、片方が寝たままにらみ合うこの異様な攻防は、後年、総合格闘技の世界で「猪木アリ状態」と呼ばれる定番の形になりました。 立てば強烈なパンチが待っている。かといって寝たままでは攻めきれない。アリは「立て」「臆病者」と挑発しますが、猪木は乗りません。観客もセコンドもいらだち、会場には重い空気が流れます。それでも回が進むにつれ、猪木のローキックは確実にアリの左脚へ突き刺さっていきました。 勝負は十五ラウンドをフルに闘い抜き、三者三様の判定の末、引き分け。派手なKOシーンを期待していたマスコミは、この地味な展開に困惑し、翌日には「世紀の凡戦」「世紀の茶番」という酷評の言葉が紙面に躍りました。 しかし――蹴られ続けたアリの左脚は、赤く腫れ上がっていました。試合後、アリは左脚の血栓症で入院することになります。あの「蝶のように舞う」軽快なフットワークを、彼はこの一戦を境に失っていったとも言われています。茶番どころか、それは紛れもない真剣勝負でした。 「猪木なら勝ってくれる」と信じていた、七歳の私 ここからは、当時小学一年生だった、私自身の記憶です。 あの頃、世の中には「人類最強は誰だ?」という空気が、たしかにありました。試合の一週間前くらいになると、テレビのワイドショーやニュースは、毎日のようにこの話題で持ちきりです。「世界チャンピオンのアリ来日!」「猪木は本当に勝てるのか?」――あくまで私の主観ですが、そんな見出しばかりが、頭に残っています。 学校でも同じでした。休み時間になると、「猪木が勝つ!」「いや、アリは世界チャンピオンだから無理だ」と、子どもたちの予想がぶつかり合います。今でいうなら、ワールドカップの日本代表戦と、大谷翔平のワールドシリーズと、オリンピックの決勝。あれが全部いっぺんに来たくらいの注目度だったと言っても、大げさではありません。 今のように録画も配信もない時代です。見逃したら、それで終わり。だから誰もが、リアルタイムでテレビにかじりつきました。私も、そのうちの一人です。 テレビで見るアリは、外国からやってきた本物のヒーローでした。「アリって、世界一強い人なんだ」。子ども心にそう思いながら、それでも私は信じていました。日本には、猪木がいる。「猪木なら、勝ってくれる!」と。友達とも、「猪木がバックドロップするんだ!」「コブラツイストでギブアップさせるんだ!」なんて、得意技の話で盛り上がっていた気がします。 試合の日は、夕方からもうソワソワしていました。「早く始まらないかな」。家族みんなで、テレビの前に集まります。 ところが、試合が始まると――「あれ?」。 猪木が、寝転がっているのです。立たない。ひたすら、蹴るばかり。子どもにルールなど分かりません。「なんで立って戦わないんだろう?」。正直、途中から少し退屈にもなりました。それでも、「最後にはきっと、猪木が必殺技を出すはずだ」と、最後まで信じて画面を見つめていたのです。 けれど、十五ラウンド終了。引き分け。 テレビが終わっても、胸に残ったのは「結局、どっちが強かったんだろう」という、もやもやした気持ちだけでした。 それでも――翌日の学校は、朝から晩までこの話題で持ちきりです。「昨日、見た?」「猪木のキック、すごかったな!」「でも、アリも本当に強かったよな!」。あのモヤモヤすら、友達と分かち合えば、立派なお祭りの続きでした。 「凡戦」と笑われた一戦が、「伝説」になるまで おもしろいのは、この試合の評価が、時とともにまったく逆転していったことです。 当時は嘲笑された一戦が、年月を経るにつれて「実はあれは本物の真剣勝負だったのだ」と再評価されていきました。派手な技の応酬を勝手に想像していたマスコミが、想像と違う展開に取り上げ方を見失った――そんな見方もされるようになります。一ラウンド開始直後に猪木がスライディングキックを放った瞬間、「ああ、こういう闘い方があったか!」と武道館の観客がどよめいた、という証言も残っています。 この一戦で、猪木の名は一気に世界へ知れ渡りました。直後にはパキスタンやドイツへ遠征し、新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになります。「アリと闘った男」という肩書きが、猪木を別のステージへと押し上げたのです。 その代償も小さくはありませんでした。猪木はこの興行で十億円近いとも言われる多額の借金を背負い、その返済のために、人気のあった異種格闘技路線を走り続けることになります。皮肉にも、その苦肉の選択が、のちの数々の名勝負を生んでいきました。 そして、闘い合った二人のあいだには、不思議な友情が芽生えていきます。アリは、自身の伝記映画で使われた曲「アリ・ボンバイエ」を猪木に贈りました。この曲こそ、のちに猪木の入場テーマ「イノキ・ボンバイエ(炎のファイター)」となる、あの旋律です。リングの上で本気でぶつかり合った者同士にしかわからない何かが、国境を越えて通い合ったのでしょう。 あの「凡戦」と笑われた十五ラウンドは、いまでは映像できちんと見ることができます。先入観なしに見返すと、子どものころには分からなかった、猪木の執念とアリの戦慄が、はっきりと伝わってきます。 格闘技世界一 モハメッド・アリ vs アントニオ猪木 [DVD]昭和51年6月26日、日本武道館。あの15ラウンドを、いま自分の目で確かめてみる Amazonで見る › おわりに──「世界格闘技の日」になった、あの夜 異なる競技の頂点同士が真剣に闘う。今でこそ、総合格闘技(MMA)という言葉とともに、私たちはそれを当たり前のように受け止めています。「猪木アリ状態」という専門用語が今も使われていることが、あの一戦がどれほど時代を先取りしていたかを物語っています。 平成二十八年(二〇一六年)、あの試合からちょうど四十年を機に、六月二十六日は「世界格闘技の日」と制定されました。そしてその制定が報じられた矢先、まるで運命のように、モハメド・アリはこの世を去りました。同年六月三日、享年七十四。さらに令和四年(二〇二二年)には、アントニオ猪木も七十九歳でその生涯を閉じています。リングの上で向かい合った二人は、もう二人ともいません。 ...

June 26, 2026

【昭和の今日は何があった日?】6月24日──父と観た「空飛ぶ円盤」、家で描き続けた円盤の絵

六月二十四日は「UFOの日」。昭和二十二年(1947年)にアメリカで「空飛ぶ円盤」が目撃された日にちなみます。父に連れられて通った東映まんがまつり、映画館を出たあとしばらく描き続けたUFOの絵、そして昭和六十年にゲームセンターへやってきた「UFOキャッチャー」。空のかなたにあこがれた、昭和の子どもの記憶の話です。 今日は六月二十四日。梅雨の真っただ中で、どんよりとした雲が空をおおう日が続きます。窓の外を見上げても、見えるのは灰色の雲ばかり。けれど昭和の子どもにとって、その雲の向こうにはいつも、もう一つの世界が広がっていました。 六月二十四日は「UFOの日」、別名「空飛ぶ円盤記念日」です。なんとも昭和の子ども心をくすぐる、わくわくする記念日ではありませんか。今日はこの日にちなんで、私たちの世代が夢中になった「空飛ぶ円盤」と、それにまつわる思い出を振り返ってみたいと思います。 「空飛ぶ円盤」が生まれた日 そもそも、なぜ六月二十四日が「UFOの日」なのでしょうか。 話は昭和二十二年(1947年)にさかのぼります。この日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドさんが自家用機を操縦して飛んでいたところ、ワシントン州のレーニア山付近の上空で、ものすごい速さで飛ぶ九つの奇妙な物体を目撃しました。物体は鎖のように一直線につながり、平たい形をしていて、ジェットエンジンのような音もしなかったといいます。 アーノルドさんが、その飛び方を「水面を切って跳ねる円盤のようだった」と語ったことから、「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)」という言葉が生まれました。これが近代UFO史の幕開けとなった、有名な「アーノルド事件」です。以来、世界中で「円盤を見た」という証言が相次ぎ、日本でも「空飛ぶ円盤」という言葉が、新聞や雑誌をにぎわせるようになっていきました。世界はこの記念すべき日を「UFOの日」と名付けたのです。 つまり六月二十四日は、人類が「空の向こうに、私たち以外の何かがいるのかもしれない」と、本気で空想しはじめた日なのです。 父と通った、東映まんがまつり UFOと聞いて、私の胸にまっさきによみがえってくるのは、暗い映画館の中の記憶です。 保育園の年長から小学校の低学年にかけての頃、夏休みや冬休みになると、「東映まんが祭り」という、アニメや特撮の映画を何本かまとめて上映するプログラムが映画館にかかりました。一本の入場料で、人気のキャラクターが何本も観られる。子どもにとっては、まさに夢のような時間でした。 そのたびに、父が私を映画館へ連れて行ってくれたのです。 東映まんが祭りには、入場のときに必ずもらえる紙の帽子がありました。あれをかぶるのが、子ども心にうれしくてうれしくて。映画が終わって外に出ても脱がず、帰り道、家に着くまでずっとかぶっていたものです。 ただ、紙の帽子よりも、さらに強烈に記憶に残っているものがあります。それは——映画館の入口の、左右の壁に貼られたポスターでした。 片側は、たいていお目あての『東映まんが祭り』のポスター。ところが決まって、もう片方の壁には、普段その映画館で上映しているものなのでしょうか、なんとも悩ましいポーズでこちらを見つめる、裸のお姉さんが映ったポスターの数々が貼られていたのです。 「見たいけど、見ちゃいけないよね。でも、ちょっと見たい」 入場の列に並びながら、毎回そのポスターを横目に、胸をドキドキさせていたものでした(笑)。まんが祭りへのわくわくと、見てはいけないものへのこっそりした好奇心。あの入口の数分間は、幼い私にとって、ある意味で本編の映画に負けないくらい、忘れがたいひとときだったのかもしれません。 さて、その東映まんが祭りには「UFO」ものが、けっこうあったのです。 巨大なロボットが空飛ぶ円盤と一体になって、宇宙からの敵と戦う。スクリーンいっぱいに広がる宇宙と、銀色に光る円盤。子どもだった私は、もう夢中になって見入っていました。 そして、ここが自分でも不思議なのですが——映画を観たあと、家に帰ってからしばらくの間、私はずっとUFOの絵を描いていたのです。何枚も何枚も、飽きずに描いていた記憶があります。それだけ、あの映画館で観た「空飛ぶ円盤」が、幼い私の心に強く焼きついていたのでしょう。 「UFOロボ」が飛んでいた時代 ところで、なぜあの頃の映画やテレビには、あれほどUFOものが多かったのでしょうか。 実はこれには、はっきりとした理由があります。昭和五十年代の初め、日本中に空前の「空飛ぶ円盤(UFO)ブーム」が巻き起こっていたのです。 その象徴ともいえるのが、昭和五十年(1975年)に登場したテレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』でした。実はこの作品、もともとは別の企画が立ち消えになったところへ、「当時のUFOブームに乗ろう」という思惑から生まれたものだったといいます。だからこそ「UFOロボ」という名前がつき、敵もはじめて本格的に「宇宙人」が据えられました。その前身となった映画『宇宙円盤大戦争』が東映まんが祭りで公開されたのも、まさに昭和五十年の夏のことです。 私が父と映画館でUFOものに夢中になっていたのは、ちょうどこの時期と、ぴったり重なっています。あの頃、銀色の円盤は、日本中の子どものノートの上を飛び回っていたのです。 ブームを支えたのは、映画やアニメだけではありませんでした。テレビでは、日本テレビの「木曜スペシャル」で、矢追純一さんが手がけたUFO特番が大人気を博していました。あの独特の効果音とともに映し出される、ぼんやりとした円盤の写真と、世界中の不思議な事件の数々。半分は嘘かもしれないと薄々感じながらも、画面に釘づけになってしまう。あの引き込まれる感覚を、同世代の方ならきっと覚えているはずです。昭和五十二年(1977年)の暮れには、ピンク・レディーが「UFO」を歌い、両手を空へ広げるあの振り付けを、誰もが真似していました。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー(「UFO」収録・全シングル集)あの「UFO」も「サウスポー」も。両手を空へ広げた、昭和の歌がここに Amazonで見る › 学校へ行けば、誰それがUFOを見たという噂が、まことしやかに飛び交いました。夏の夜、夕涼みをしながら空をよぎる光を見つけては、「あれ、UFOじゃないか」と本気で胸を高鳴らせたものです。今思えば他愛のないことばかりですが、空の向こうに何かがいると信じられた、あの感覚こそ、昭和の子どもにとっての何よりのごちそうだったのかもしれません。 空の向こうへのあこがれが、テレビからも映画からも歌からも、洪水のようにあふれ出していた時代。それが、私たちの子ども時代だったのです。 ゲームセンターに着陸した「UFO」 時は流れ、昭和六十年(1985年)。「UFO」の名を持つ、もう一つの忘れがたいものが登場します。 セガが発売した、クレーンゲームの「UFOキャッチャー」です。 それまでのクレーンゲームといえば、上からのぞき込んでお菓子をすくうような、小さな機械が主流でした。ところがこの新しい機械は、二本の爪のアームを操作して、ガラスケースの中に並んだ景品をつかみ取る。そのアームの動きが空飛ぶ円盤のように見えたことから、「UFOキャッチャー」と名づけられたといいます。やがてこの名前は、クレーンゲームそのものの代名詞になっていきました。 この昭和六十年、私はもう高校生になっていました。映画館でUFOの絵を描いていたあの小さな子どもが、いつのまにかゲームセンターに出入りする年頃になっていたわけです。 正直に打ち明けると、あれほど「UFO」に夢中だった私も、この「UFOキャッチャー」そのものには、これといって強い思い出があるわけではありません。同じ「UFO」の名を持ちながら、幼い頃に映画館で円盤に胸をときめかせていたあの熱とは、もう少し冷めた距離で眺めていたように思います。それでも、子ども時代から青春時代まで、形を変えて「UFO」という三文字が私のそばにあり続けたのだと思うと、なんだか不思議な縁を感じます。 ちなみに、この「UFOキャッチャー」が誕生から三十五年を迎えたのを記念して、後の世になって、六月二十四日の「UFOの日」が「UFOキャッチャーの日」にも定められました。空飛ぶ円盤の記念日が、ゲームセンターの記念日にもなった。これもまた、なんとも昭和生まれにはくすぐったい話です。 おわりに 令和のいま、「空の向こう」は、ずいぶん身近なものになりました。 スマートフォンを開けば、宇宙ステーションから見た地球の映像も、遠い惑星の写真も、いつでも手のひらの中で眺めることができます。民間のロケットが次々と打ち上げられ、UFOは「UAP(未確認航空現象)」などと呼ばれて、各国の政府が大真面目に調査する時代にもなりました。あの頃あれほど謎めいていた「空飛ぶ円盤」も、すっかり日常の話題の一つです。 それでも——です。 ...

June 24, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

昭和の今日は何があった日? ―5月26日―

5月26日 ― 高速の夢と、海辺の悲劇 昭和の5月26日という日付には、まるで表と裏のように、ふたつのまったく違う出来事が刻まれている。 ひとつは、日本中が前向きな興奮に沸いた日。もうひとつは、晴れた海辺で突然に悲劇が訪れた日。どちらも昭和という時代の、正直な顔だと思う。 「東名」が全部つながった ― 昭和44年5月26日 1969年(昭和44年)のこの日、東名高速道路が全線開通した。 東京インターチェンジから愛知県の小牧インターチェンジまで、約346キロ。それまで国道1号線を使えば東京から名古屋まで9時間半かかっていたのが、一気に5時間を切るようになったという。足柄サービスエリアで記念式典が行われ、建設を支えた外国人技術顧問たちも出席して全線を走り抜けたと記録されている。 私が生まれたのは、この年の4月だ。つまり東名が全線つながったのは、私の誕生からわずか1ヶ月後のことになる。生まれた直後の日本で、こんな一大事が起きていたとは、調べてみるまで知らなかった。 もちろん、生後1ヶ月の私にその意味がわかるはずもない。 そして正直に言えば、「東名高速でドライブ」というのは、私の子ども時代には縁遠い話だった。父の休みといえば、まとまって休めるのは正月の1日と2日だけ。あとは週に一度、平日に休みがあるだけだった。家族がそろう日曜日に父がいる、ということ自体がなかった。だから家族みんなで出かけるという機会は、ほとんどなかった。自家用車を持てるほどの余裕もまだなかった。 宿泊旅行など、したことがなかった。 でもそれは、私の家だけの話ではなかったと思う。周りの友達の家も、似たようなものだった。父が必死で働いてくれているのは、子どもながらにわかっていた。だから「どうして旅行に行かないの」とか「なんで車がないの」なんて、口に出したことは一度もない。それは「高嶺の花」であって、羨むものでもなかった。そういう時代だった。 東名高速道路・厚木インターチェンジ付近。背景に大山を望む。昭和44年のこの日、この道がつながった。(Photo: Σ64 / CC BY-SA 3.0) ただ、テレビのニュースに映る東名高速の映像は、なんとなく覚えている。ずらりと並ぶクルマ、広いサービスエリア、富士山を背景にした高速の風景。画面の向こうの話ではあったけれど、「いつかはああなりたい」という気持ちを、国民みんなが抱いていたのかもしれない。豊かになっていくことへの期待と意欲を、あの時代のテレビはうまく掻き立てていたように思う。 昨年の夏、大阪まで それから半世紀以上が経った。 昨年の夏、私は子どもたちを車に乗せて、3泊4日の大阪旅行に出かけた。自宅近くの首都高の入口から乗って、一度も高速を降りることなく大阪まで着いてしまった。一昨年の夏は5泊6日で福井まで行ったが、やはりすべて高速道路でつながっていた。 ハンドルを握りながら、何度か不思議な気持ちになった。 これだけの距離を、これだけ快適につないだ道を、誰かが作ったのだ。山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、何年もかけて。あの昭和44年の式典に出席した技術者たちが、その最初の大仕事をやり遂げた。そう思うと、先人たちの仕事への畏怖と感謝が、運転しながら自然と湧いてきた。 そしてもうひとつ、胸の奥にあたたかいものが来た。 私が子ども時代にできなかった「家族旅行」を、今、自分の子どもたちとしている。それは私だけが特別になったわけではない。あの時代から少しずつ、多くの家族が同じことをできるようになった。問題がないわけではないけれど、それでも私たちは「豊かになっている」と実感できる。その豊かさは、必死で産み育ててくれた父と母の上に積み重なっているものだ、と思ったら、感謝の気持ちが溢れてきた。 そしてふと思った。数十年後、私の子どもたちはどんな時代に、どんなことを思い返すのだろう。その想像が、なんだかとても楽しかった。 遠足の海辺で ― 昭和58年5月26日 ところでこの5月26日には、もうひとつ忘れてはならない出来事がある。 1983年(昭和58年)の午前11時59分。秋田県の沖合を震源とするマグニチュード7.7の大地震が起きた。「日本海中部地震」だ。 揺れ自体は震度5。しかし地震の数分後、日本海沿岸に最大6メートルを超える津波が押し寄せた。死者104人のうち、100人が津波で命を落とした。 その中に、遠足中の小学生たちがいた。 秋田県の合川南小学校の4年生と5年生が、2台のバスで男鹿半島の加茂青砂海岸を訪れていた。バスの中で揺れが収まるのを待ったあと、海岸に降りてお弁当を広げようとした瞬間、津波がきた。13人の子どもたちが波にのまれた。 昭和58年、私は14歳だった。同じ5月の晴れた日、遠足でお弁当を広げようとしていた子どもたち。その光景を想像するだけで、言葉が出ない。 1983年(昭和58年)5月26日・日本海中部地震の震度分布図。津波で104人が犠牲になった。(出典:気象庁 / CC BY 4.0) 日本海側では津波の経験が少なく、地震のあとに海へ近づいてはいけないという意識が広まっていなかった。それが被害を大きくした。この地震を機に、日本では津波防災教育が大きく変わっていった。 それでも、2011年の東日本大震災では、日本海中部地震とは比較にならないほどの津波が三陸沿岸を飲み込み、二万人近い命が失われた。教訓を積み重ねてきたはずの私たちが、また大自然の前に立ち尽くした。 人間の生み出す力は偉大だと思う。東名高速道路のように、山を削り、川に橋をかけ、何年もかけて道をつなぐ。そういう力を、私たちは確かに持っている。しかし大自然の前では、その力が幾度となく無力になる瞬間がある。絶望を知り、それでも立ち上がり、また前へ進む。日本という国は、そうやってここまで来た。 これからも、きっとそうやって進んでいくのだと思う。 同じ日付に、ふたつの昭和 高速道路の開通に沸いた昭和44年と、遠足の子どもたちが津波に飲み込まれた昭和58年。 同じ5月26日に、まるで違う昭和がある。前に進む喜びと、自然の前での人間の無力さ。どちらも昭和という時代が正直に刻んだ記録だ。 あなたにとって、昭和の5月はどんな思い出が残っているだろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月27日~ドラゴンクエストの日、伝説はこうして始まった ▶

May 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃

今日は5月7日。五月の日差しが少しずつ強くなってくる。 昭和の子どもにとって、初夏の楽しみといえば学校帰りの駄菓子屋や商店で買うアイスだった。10円、20円、30円。小さなお小遣いを握りしめて、冷凍ショーケースの白い霧の向こうを覗き込んで選ぶ、あの時間。 昭和44年(1969年)の5月7日、佐賀県の小さなお菓子屋から、一本のアイスが世に出た。 「ブラックモンブラン」。 今も九州の人々に愛され続けるそのアイスは、遠いフランスの雪山の麓で生まれた夢から始まった。そしてそのアイスが作り上げた「チョコバリ系」というジャンルが、昭和50年代の東京の子どもに、忘れられない衝撃を与えることになる。 モンブランを見た男の、とんでもない発想 昭和40年代の初め、竹下製菓の3代目社長・竹下小太郎はヨーロッパへの経済視察旅行に参加した。 訪れたのはフランス・アルプスの山岳リゾート地、シャモニー。標高が高く、夏でも冷え込むその街の向こうに、ヨーロッパ最高峰の白銀の頂・モンブラン山がそびえていた。 それを眺めながら、竹下小太郎の頭に一つの考えが浮かんだ。 「この真っ白い雪山に、チョコレートをかけて食べたらさぞ美味しいだろう」 帰国後、竹下は試作を繰り返した。バニラアイスをチョコレートで包み、その外側にザクザクとしたクッキークランチをまぶす。シンプルだが、当時のアイスとしては革命的な組み合わせだった。 当時の子ども向けアイスといえば、甘味料を加えた色水を棒に刺して固めただけのシンプルなアイスキャンデーが主流だった。バニラアイスにチョコレートとクッキーという「洋菓子風の高級感」は、それまでの駄菓子アイスとはまったく別の存在だった。 アイスクリームの最高峰を目指すという意味を込め、その名前にあの山を冠した。昭和44年5月7日、ブラックモンブランが誕生した。 フライみたいなアイスの、あの衝撃 ブラックモンブランは九州を中心に広まった。しかし昭和50年代に入ると、同じ「チョココーティングのクランチアイス」という系統の商品が、少しずつ全国にも姿を現し始めた。 私が東京でそれを初めて目にしたのは、昭和50年代のことだった。 近所の商店の冷凍ケースの中に、見たことのない形のアイスがあった。「チョコバリ」。 最初は、アイスだとわからなかった。表面がチョコレートでびっしりと覆われていて、まるでフライのようにゴツゴツとしている。「これ、アイスなの?」という衝撃だった。それまでのアイスといえば、細長い棒に色のついた氷が刺さったもの、あるいは丸いカップに入ったもの。チョコレートの鎧をまとった、あんな見た目のアイスを見たことがなかった。 どんな味がするんだろう。かじったらどうなるんだろう。中は何が入っているんだろう。 ところが、当時の私のお小遣いでは、チョコバリは少し高価に感じた。いつも買っていた棒アイスや氷菓子に比べると、値段がワンランク上だった。友達と一緒にいるのに「買えない」とは言いたくない。でも財布の中身が心もとない。そういう複雑な気持ちで、ケースの前でしばらくじっと見つめていた記憶がある。 結局その日は買えなかった。 初めてチョコバリを口にしたとき、チョコレートとクランチがバリッと割れて、中からひんやりとしたバニラが出てくるあの瞬間の感触は、今でも鮮明に覚えている。「こんな食べ物があったのか」という発見の味だった。 アイスが呼び起こす、リアルな記憶 今でも、スーパーやコンビニでチョコバリ系のアイスを見かけることがある。 棒に刺さったチョココーティングのアイスが、冷凍ケースの中に並んでいる。何気なく目に入るだけで、あの頃の記憶が一気によみがえってくる。 不思議なことに、映像として出てくるのだ。 昭和50年代のあの商店の前。一緒にいた友達の顔。その日に何をしていたか。どんな季節だったか。アイスを眺めながら「買おうかどうしようか」と迷っていた自分の、あの気持ち。 アイスひとつで、そこまで鮮明に出てくることが、我ながら不思議だと思う。 これは「プルーストの記憶」と呼ばれる現象に近いのかもしれない。フランスの作家マルセル・プルーストが、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に幼少期の記憶が洪水のようによみがえるという体験を書いた有名な場面だ。味や匂い、視覚の記憶は、言葉や論理で整理された記憶よりも深いところに刻まれていて、ふとしたきっかけで突然、リアルな映像として浮かび上がってくることがある。 チョコバリを見るたびに、私の中の昭和50年代の夏が戻ってくる。あの頃の友達と、あの頃の町の空気と、お小遣いが足りなくて買えなかったあの悔しさまで、セットで。 「当たり」が出たときの、あの興奮 ブラックモンブランには、子どもたちを夢中にさせるもう一つの仕掛けがあった。 アイスの棒に書かれた**「当たり」くじ**だ。 食べ終わった棒をそっとめくると、「はずれ」か「当たり」の文字が現れる。「当たり」が出れば、お店でもう一本と交換できる。昭和52年から数年間は、特賞として500円の当たりが設けられていた時期もあったという。子どものお小遣いが数百円の時代に、アイス一本で500円が当たる。それはもう、宝くじに近い興奮だった。 棒をじっと見つめて、息をのんで文字を確認するあの瞬間。「当たり」の文字が見えたときの「やった!」という叫びは、九州でも東京でも、昭和の子どもたちに共通の体験だったはずだ。 おわりに 昭和44年5月7日、一人の菓子屋の社長がフランスの雪山に見た夢が、佐賀の工場でアイスになった。 そのアイスが生み出した「チョコバリ系」というジャンルは、やがて九州を飛び出して日本中の冷凍ケースに並ぶようになった。東京の子どもが「フライみたいなアイス」に目を丸くした昭和50年代の夏も、その流れの中の一コマだ。 今もスーパーの冷凍ケースの前で、チョコバリをじっと眺めることがある。買うかどうか迷いながら。あの頃と違うのは、今は買える財布の中身があるということだけだ。 それでも、手に取る前の一瞬、昭和50年代の夏がリアルな映像となってよみがえってくる。あの頃の友達と、あの頃の商店と、あの「フライみたいなアイス」への、ときめきとともに。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月8日──あの土曜日の夜が、一番好きだった ▶

May 6, 2026