【昭和の今日は何があった日?】8月24日──ヒット曲のないまま武道館に立った三人と、新キャプテンの夏

今日は8月24日。夏休みも残りわずか、カレンダーの数字が急に重たく見えてくる頃です。 1983年(昭和58年)のこの日、東京・九段下の日本武道館に、1万人が集まりました。ステージに立ったのは、THE ALFEE。桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の三人組です。 いまでこそ「武道館といえばアルフィー」ですが、この日はその一回目でした。しかもこの時点で、彼らには誰もが口ずさめるヒット曲が、一曲もなかったのです。 デビューから10年、まだ何者でもなかった THE ALFEEの結成は1973年。東京のある大学のキャンパスで出会った三人を中心に始まり、翌1974年8月25日、「夏しぐれ」でデビューしました。当時は四人組のフォークグループです。 しかし、デビュー曲は売れませんでした。翌年の2作目も不発。メンバーの一人が脱退して三人になり、3作目に予定していた曲は発売そのものが中止になります。これをきっかけにレコード会社との契約が切れ、所属レーベルのない状態でライブハウスを回る日々が続きました。 この時期、彼らは事務所の先輩である、かまやつひろしさん、由紀さおりさん、研ナオコさんのバックバンドを務めています。つまり、ステージの後ろで演奏する側にいたわけです。 余談ですが、『ザ・ベストテン』への出演も、自分たちの曲より研ナオコさんのバックとしての出演が先だったといいます。あの番組を毎週欠かさず見ていた身としては、なんとも言えない気持ちになる話です。私はきっと、画面の奥のほうにいた三人を、なんとも思わずに見過ごしていたはずですから。 1979年にキャニオンレコードから「ラブレター」で再デビュー。音楽性はフォークからロックへと少しずつ舵を切り、コンサートの動員力だけは日本のバンドでも屈指と言われるまでになっていきます。 それでも、代表曲がない。そういう10年でした。 チケットを売り出したときは、まだ売れていなかった そんな彼らが武道館を押さえたのが、1983年8月24日、水曜日です。公演名は「OVER DRIVE 1983 ALFEE 8-24 BUDOKAN」。 ここがこの話のいちばん面白いところなのですが──チケットの予約が始まった時点で、「メリーアン」はまだヒットしていませんでした。 「メリーアン」がシングルとして世に出たのは、この年の6月。本来はアルバム収録曲になる予定だった一曲です。それが発売後、じわじわと、そして夏に入ってから一気にチャートを駆け上がっていきました。 つまり武道館当日、この曲はちょうど坂を駆け上がっている最中だったのです。チケットを買った人たちは「まだ売れていないバンド」を見に行くつもりでいたら、いざ会場に着いてみると、そのバンドがまさに世に出ようとしている瞬間に立ち会うことになった。そういう夜でした。 演奏は、メドレーを含めて14曲。「トラベリング・バンド」で始まり、「誓いの明日」「SAVED BY THE LOVE SONG」「Musician」と続いて、5曲目に「メリーアン」。後半には「ジェネレーション・ダイナマイト」「See You Again」「ラジカル・ティーンエイジャー」「夢よ急げ」と、いまもライブの定番になっている曲が並んでいます。 そしてこの日、彼らは会場に来た1万人全員に、記念バッヂとプロモーションビデオを収録したビデオテープを配りました。売れていないバンドが、初めての武道館で、1万人分の土産を用意したのです。採算のことを考えたら、正気の沙汰ではありません。 この年の暮れ、THE ALFEEは『第34回NHK紅白歌合戦』に初出場します。8月にはまだ「ヒット曲のないバンド」だった三人が、大晦日にはお茶の間にいた。わずか四か月の出来事でした。 その夏、私は新キャプテンになったばかりだった その頃、私は何をしていたか。 中学2年、14歳。夏の大会が終わって3年生が引退し、新チームの最上級生になったばかりでした。そして私が、新しいキャプテンになりました。 これが、思っていたよりずっと難しいのです。昨日まで先輩の背中を見ていればよかったのが、急に自分の背中を見られる側になる。声のかけ方ひとつ、練習メニューの組み方ひとつ、何が正解なのかわからない。試行錯誤しながら、新人戦に向けて毎日グラウンドに立っていました。 だから8月24日の夜、九段下で1万人が沸いていたことなど、当然知りません。私はたぶん、日が暮れるまでノックを受けていたか、翌日の練習のことを考えて寝床に入っていたかのどちらかです。 音楽との付き合いは、テレビでした。『ザ・ベストテン』だけは、毎週きちんとチェックしていたと思います。ラジオでもレコードでもなく、あの番組が私にとっての音楽の窓でした。 「メリーアン」を初めて知ったのも、その窓の中です。記憶をたどると、ランキングの中ではなく「今週のスポットライト」で登場して歌っていたように思います。ランクインする前の曲を紹介するコーナーですから、まさにあの夏の、坂を駆け上がっている途中の姿だったのでしょう。 「メリーアン、メリーアン」と、曲名がそのまま呼びかけられるサビ。あれが耳から離れませんでした。中学生ながら、これはヒットするだろうな、と感じたのを覚えています。実際、その通りになりました。 そして武道館。当時の私にとって、あそこは行ったことのない場所でした。テレビの中でだけ見る場所。葛飾から九段下まで、電車に乗れば大した距離ではないはずなのに、子どもの感覚では、ずいぶん遠いところにあると思っていました。 あの夏の「メリーアン」も、その後の曲も、まとめて聴けるベスト盤が出ています。デビューから30年ぶんのシングルを37曲おさめたものです。 THE ALFEE 30th ANNIVERSARY HIT SINGLE COLLECTION 37デビュー30周年の記念盤。1974年のデビュー曲から順にシングル37曲を収録。「メリーアン」も入っています。星4.4 Amazonで見る › 42年、105回 あの1983年8月24日から、THE ALFEEの武道館公演は毎年続きました。翌1984年からは12月開催になり、2018年まで36年連続。12月23日にいたっては1984年から35年連続で、武道館の「史上最多同一日連続公演」の記録になっています。 通算公演数は、2025年12月の時点で105回。バンドとしては歴代1位です。コンサートの総本数は3000本を超えました。「メリーアン」以降、シングルは59作連続でオリコンのトップ10に入っています。1983年から途切れていない、ということです。 数字を並べていると、少し目がくらみます。けれど私が本当にすごいと思うのは、105回のほうではありません。1回目のほうです。 売れていない。ヒット曲がない。それでも武道館を押さえて、1万人を集めて、その1万人全員に土産を持たせて帰した。あの晩の三人は、まさか42年後にこんな数字になっているとは思っていなかったはずです。ただ、その日の一回を、めいっぱいやっただけでしょう。 続いたものというのは、たいてい、続けるつもりで始まったものではないような気がします。 続いたもの、続けてきたもの 正直に言うと、彼らと自分を重ねるつもりはありません。10年売れずに耐えたバンドと、葛飾で野球をやっていた中学生とでは、並べようがないからです。 ...

August 24, 2026

帽子に黒い線を三本──8月14日、国民皆泳の日と昭和の学校プール|昭和の今日は何があった日?

8月14日は「国民皆泳の日」だそうです。 正直に言うと、私はこの記念日を知りませんでした。この連載のために日付を調べていて、初めて出会った名前です。「皆泳」——みんなで泳ぐ。ずいぶん堂々とした、そして少し古めかしい響きの言葉だと思いました。 国民全員が泳げるように。そんなことを国民的な目標として掲げていた時代があった。 ところが、その言葉を眺めているうちに気づいたのです。私自身、スイミングスクールになど一度も通わずに、小学1年生の夏には25メートルを泳いでいた。あの頃の私は、まさしく「皆泳」の中にいたのだと。 「国民皆泳の日」という記念日 この記念日を制定したのは日本水泳連盟です。1953年(昭和28年)、8月14日を「国民皆泳の日」と定めました。 「皆泳」という言葉づかいに、時代がよく出ています。健康増進という面もありますが、より切実だったのは水難事故を減らすという目的でした。四方を海に囲まれた国で、泳げない人が多すぎる。それは命に直結する問題だ——そういう認識です。 この記念日はその後いったん中断し、2014年(平成26年)に日本水泳連盟があらためて「水泳の日」として引き継ぎました。今は「泳いでつながる笑顔の輪」というスローガンが掲げられています。 昭和28年の「皆泳」と、平成26年の「笑顔の輪」。同じ日付に、まったく手触りの違う言葉が乗っている。この60年ほどの間に、日本人と水の関係が根本から変わったということなのだと思います。 泳げないと、死ぬ その変化を引き起こした出来事のひとつが、1955年(昭和30年)に起きています。 瀬戸内海で、宇高連絡船の紫雲丸が沈没しました。死者168人。そのうち100人以上が、修学旅行の途中だった小中学生でした。 修学旅行です。船に乗って、これから何日か楽しいことがあるはずだった子どもたちが、朝の海で亡くなった。この事故が全国に与えた衝撃は、私の想像できる範囲を超えているのだと思います。 そこから出てきた答えが「泳ぎを教えよう」でした。学校にプールをつくり、体育の授業として水泳を教える。子どもを水難から守るには、まず泳げるようにするしかない——その気運が全国に広がっていきます。 背中を押したのが行政でした。1961年(昭和36年)にスポーツ振興法が成立し、国からの補助金が出るようになると、各地の学校に次々とプールが造られます。東京オリンピック以前の学校プール設置率はおよそ12パーセント。それが1975年(昭和50年)には50パーセントを超えました。10年あまりで、日本の学校の風景が変わったわけです。 私が小学校に入学したのは1976年(昭和51年)の春でした。設置率がちょうど半分を越えた、その翌年ということになります。 校庭の端の、あと付けのプール 私の通った小学校にも、もちろんプールがありました。 校舎からは離れた、屋外です。今になって思い返すと、校庭の端に「あと付け」したのではないか、という感じの立地でした。もともとそこにあった建物ではなく、あとから場所を捻出して据えたような。全国で設置率が12パーセントから50パーセントへ駆け上がっていったあの時期のことを知ると、その「あと付け」感にも納得がいきます。校庭を削ってでもプールを造れ、という号令が、確かに全国に響いていたのでしょう。 6月の中旬になると、体育の授業はすべてプールに切り替わりました。実施の可否は、気温と水温を足した数字で決まります。定められた数値以上なら、雨でもプールでした。 そして当時の私たち子どもは、常にプールの授業を望んでいました。だから雨が本降りの中でプールに入った記憶があります。今から思えば、先生はやりたくなかったんじゃないかな(笑)。 手順もよく覚えています。まず教室で海水パンツに着替える。そのまま校庭に集合する。男性の先生が朝礼台の上に上がって、みんなで準備運動の「ラジオ体操」をする。もちろん朝礼台の上の先生も、海水パンツ一丁です。 そして校庭からプールサイドに向かう途中に、全員が一列に並んで順番にシャワーを通る。あの、冷たさに声が出る一瞬。 書きながら、笑ってしまいました。夏の校庭に、海水パンツ姿の小学生がずらりと並んで、朝礼台の上の先生に合わせて腕を回している。あの光景は、昭和の学校でしか成立しないものだったのかもしれません。 帽子に黒い線を三本 泳力には、明確な等級がありました。 技術が上がっていくにつれて進級していく仕組みで、級に応じてスイミングキャップに赤い線や黒い線を縫い付けていくのです。最上級は1級で、黒い線が三本。 私はあの黒三本が欲しくて、一生懸命に練習しました。目標が帽子の上に見える形で示されているというのは、子どもにとって強烈な動機でした。誰が何本かは、プールに並べば一目でわかってしまう。 つまり「泳げる子」と「泳げない子」を分ける仕組みが、そこには明確にあったということです。 今の感覚からすれば、残酷な仕組みだと言われるかもしれません。でも当時の私にとっては、あれはただ純粋に「登っていける階段」でした。線が増えるたびに、自分が確かに前へ進んでいるとわかる。 私自身は、1年生の夏休みには25メートルを泳げるようになっていました。 夏休みも、毎日プールだった なぜそんなに早く泳げるようになったのか。理由は単純で、とにかく毎日プールに入っていたからです。 夏休みに入っても、午前中にプール開放がありました。ふた学年ごとに時間が割り振られていて、参加の温度感としては「全員参加の授業」に近いものでした(笑)。判子カードもありました。当番の先生というより、該当クラスの先生が全員来ていたように記憶しています。先生は大変だったでしょうね。 友達と連れ立って歩いて行きました。そして学校のプールが開いていない日には、自分たちで区民プールに行っていたのです。 当時、葛飾のあちらこちらに区民プールがありました。小学生は1時間10円です。10円で泳げるのですから、行かない理由がありません。 学校のプール開放と区民プール。この二つを合わせれば、私はほとんど毎日のようにプールに入っていたことになります。スイミングスクールに通う必要などまったくなく、いつのまにか泳げるようになっていた。そのことに、今になって深く納得します。 「国民皆泳」という大きな言葉は、標語として達成されたのではありませんでした。校庭の端にあと付けされたプールと、1時間10円の区民プールと、夏休みの午前中の判子カード。その積み重ねが、地味に、確実に、子どもたちを泳げるようにしていったのです。 「足を引っ張られるから」 ところで、8月14日はお盆の真ん中です。 「お盆に泳ぐと足を引っ張られる」という言い伝えは全国的に知られていますし、この記事を書き始めたとき、私はその話から入るつもりでいました。ところが自分の記憶を掘り返してみると、お盆だから泳ぐな、と言われた覚えがないのです。 代わりに思い出したのは、母の言葉でした。 中川へオタマジャクシを取りに行くようなとき、母はこう言いました。 「足を引っ張られるから、水に入るんじゃないよ」 お盆に限らず、でした。つまりあれはお盆の禁忌ではなく、川そのものへの禁止だったのです。 もっとも、言われなくても川で泳ごうとは思いませんでした。当時の川は、汚かったですから(笑)。私にとって泳ぐ場所とは、あくまでプールでした。学校のプールと、区民プール。それだけです。 面白いものだと思います。プールでは級を上げるために毎日必死に泳ぎ、その一方で、家のすぐ近くを流れる川には決して入らなかった。管理された水では泳ぎを学び、自然の水は敬遠する。私の泳ぎは、最初から「プールの泳ぎ」でした。 そして、それは正しかったのかもしれません。水難による中学生以下の死者・行方不明者は、昭和54年(1979年)に年間1,044人を数えています。翌昭和55年に初めて1,000人を割り、そこから長い時間をかけて減り続けました。令和5年には27人です。 1,044人。私が小学4年生だった年の数字です。「泳げるようにしよう」という国の号令が大げさでもなんでもなかったことが、この数字を見るとよくわかります。 ...

August 14, 2026

昭和58年8月13日──銀行が閉まった土曜日と、「半ドン」という言葉|昭和の今日は何があった日?(8月13日)

昭和58年8月13日。この日は土曜日でした。そしてこの日から、毎月第2土曜日は銀行や証券会社の窓口が閉まることになりました。東京証券取引所の株取引も休みです。日本の金融機関が「土曜日に休む」ということを、初めてやった日でした。 当時、私は中学2年生。14歳の夏です。 銀行が閉まった、最初の土曜日 いまの感覚だと、何が事件なのかわかりにくいと思います。銀行は土日休みで当たり前ではないか、と。 でも昭和58年までは違いました。銀行は土曜日も開いていました。月曜から金曜まではフルに働き、土曜日は午前中だけ営業して閉める。それが普通でした。だから第2土曜日だけでも終日休みにするというのは、当時としては相当に大きな決断だったのです。 いまなら、窓口が閉まっていてもATMがあり、振込も入出金もスマートフォンで済みます。しかし当時は、お金にまつわることの多くが「窓口へ行って人と話す」ことで動いていました。窓口が閉まるというのは、そのままお金が動かせなくなるということです。第2土曜日だけとはいえ、その日に用のあった人は前日までに済ませておかなければならない。休みが増えるというのは、当時それなりに面倒を伴う変化でもあったのだと思います。 しかもこの昭和58年8月13日は、月遅れのお盆の入りでもありました。迎え火をたいて先祖の霊を迎える日です。世の中がいちばん「休みらしい空気」になる日に、銀行のシャッターが初めて土曜日に下りた。並べてみると、偶然にしてはよくできているような気がします。 「半ドン」という言葉 土曜日の午前中だけ働くことを、当時は「半ドン」と呼びました。 この「ドン」は、休日を意味する「どんたく」が縮まったものだそうです。そしてその「どんたく」は、オランダ語で日曜日を意味する「ゾンターク」が江戸時代に日本語のなかへ取り込まれたもの、とされています。博多どんたくの「どんたく」も同じ語源だといいます。江戸時代のオランダ語が、昭和の勤め人と中学生の口から毎週出ていたわけです。言葉というのは、ずいぶん遠くから旅をしてくるものです。 中学2年の、土曜日の午後 学校も半ドンでした。土曜日は午前で授業が終わり、給食もなく、昼前に帰る。 ただし私の場合、それで一日が終わるわけではありませんでした。中学の野球部にいましたから、土曜日は一度家に帰って昼食をとり、それからまた学校へ出直して練習、という流れです。 いま思うと、この「一度帰る」というひと手間が、土曜日という日をよけいに特別なものにしていた気がします。平日ならそのまま部活に入る。日曜なら朝から丸ごと練習の日になる。土曜日だけが、家の食卓を一回はさむのです。昼にいったん家の匂いのする時間があって、そこからまた着替えて出ていく。あの往復が、土曜日の記憶にはくっついています。 世の中では、この年から銀行が第2土曜日に閉まりはじめていました。もちろん14歳の私が、そんなことを気にしていたはずはありません。 なぜ土曜日が休みになったのか きっかけは、外からの声でした。 高度成長を続けた日本に対し、欧米から「日本人は働き過ぎだ」「労働者をあれだけ働かせるのは不公正だ」という批判が強まっていました。国内からも、もっと生活にゆとりを、という声が出はじめます。そこで官公庁が主導する形で土曜日の休日化が動き出し、金融機関などの民間もそれに追随した。その第一歩が、昭和58年8月13日の第2土曜日休業でした。 つまりこの日の休みは、「働く人が勝ち取った休み」というより、「外から言われて日本が重い腰を上げた休み」だったわけです。そのあたりが、いかにも昭和という感じもします。 制度の側もあとから追いついてきます。昭和22年に制定された労働基準法は、1日8時間・1週48時間という体制を40年続けてきました。それが改められ、1週40時間労働が規定されたのは昭和63年4月施行の改正労働基準法から。ただしこれも段階的な移行と猶予期間つきでした。土曜日というのは、法律を一本変えれば消えるようなものではなく、20年近くかけてじりじりと後退していったわけです。 休みが金曜日だった父 うちの父は、飲食店に勤めていました。 飲食店ですから、土曜も日曜も、世の中が休む日ほど忙しい。父の休みは毎週金曜日でした。そして世間が半ドンから週休二日へと移っていくあいだも、父の「毎週金曜日休み」は最後まで変わりませんでした。 だからわが家の食卓に、「週休二日」という言葉が出てきた記憶がありません。土曜日が半日になろうが休みになろうが、うちの父には関係のない話だったのです。家族そろって連続して休めるのは正月の1日と2日だけ。車もなく、子どものころに泊まりの家族旅行をした覚えもありません。 世の中が休み方を変えていくニュースというのは、たいてい「勤め人の休み方」の話です。その外側に、休みが動かない仕事の人たちがずっといた。父はその一人でした。 土曜日は、少しずつ消えていった 第2土曜日から始まった土曜休業は、そこから段階を追って広がっていきます。 昭和61年8月9日、第3土曜日も休業日に加わり、いわゆる「4週6休」になりました。そして平成元年2月4日以降、金融機関はすべての土曜日が休みになります。官公庁の土曜閉庁が始まったのは平成元年1月14日で、こちらもまず第2・第4土曜日から。国家公務員の完全週休二日制は、平成4年5月1日からでした。 学校はもっと後です。全国の国公立の学校で毎月第2土曜日が休業日になったのは平成4年9月から。平成7年4月に月2回、完全な学校週5日制になったのは平成14年4月のことでした。 ここで自分の年表と重ねてみて、あらためて気づいたことがあります。 私は昭和51年4月に小学校へ入り、昭和63年3月に高校を卒業しました。その12年間、土曜日はずっと学校がありました。一度も「土曜が休みの学校生活」を経験していません。土曜休みの学校というものを、私はまったく知らない世代なのです。 平成5年、私は信用金庫に入った そして話には続きがあります。 一年の浪人を経て平成元年に大学へ入り、平成5年に卒業した私が新卒で就職した先は、信用金庫でした。金融機関です。昭和58年8月13日に、日本で最初に土曜日を休みにした業界です。 入ってみれば、土曜日は当然のように休みでした。私が中学2年で野球の練習に出直していたころに始まった第2土曜日の休業は、10年かけて全部の土曜日に広がり、私が社会に出たときにはもう「そういうものだ」という顔をしていたわけです。 ただ、職場の先輩方は違いました。ときどき「半ドン」という言葉を使いながら、昔の土曜日の話をしてくれるのです。午前中だけ窓口を開けて、昼で締めて、そのあとどうしていたか。その口ぶりには、面倒だったという顔と、少し懐かしがる顔が両方ありました。 私はその話を、休みが当たり前になった側の人間として聞いていました。変わり目を挟んで、同じ職場に両方の世代がいたということです。いま振り返ると、あれはなかなか贅沢な昔話を聞かせてもらっていたのだと思います。 曜日のない仕事につくということ いま私は路線バスの運転士をしています。 この仕事に、土日休みという概念はありません。むしろ土曜日は、平日とは別のダイヤで走る日です。平日ダイヤ、土曜ダイヤ、休日ダイヤ。バスの世界では曜日は「休むための区分」ではなく、「走り方を変えるための区分」なのです。 そして実際に走っていると、いまの土曜日の車内は、日曜や祝日とほとんど変わりません。平日とは明らかに別物です。通勤通学の流れがなく、乗ってくる人も、時間帯も、車内の空気も違う。昭和58年に第2土曜日から始まったあの動きは、40年かけて、バスの車内の景色まで完全に作り替えてしまったのだと思います。 半ドンだったころの土曜日の車内は、きっと平日寄りだったはずです。私はその土曜日を運転士としては知りません。中学生として、昼前の道を家に向かって歩いていただけです。 半ドンを知っている、最後のあたり 「半ドン」は、いまではほぼ死語です。 言葉が消えたのは、その言葉が指していたものが消えたからです。土曜日の午前中だけ働くという習慣がなくなれば、それを呼ぶ言葉もいらなくなる。昭和58年8月13日の第2土曜日休業は、その長い消滅の始まりの一日でした。 あの日から40年以上たって、土曜日は完全に休みの日になりました。それは間違いなく良いことだと思います。金曜日にしか休めなかった父の世代を思えば、なおさらです。 ただ、昼前に授業が終わって、一度家に帰って昼飯を食い、また学校へ出直していったあの土曜日を覚えている人間は、だんだん少なくなっていきます。信用金庫の先輩たちが私に「半ドン」の話をしてくれたように、こうして書き残しておくのも役目なのだろうと思っています。 「なぜ日本の会社はこうなっているのか」を、雇用・教育・福祉の歴史からたどった一冊があります。土曜日が20年かけてしか消えなかった理由も、この本を読むと腑に落ちます。新書ですが読みごたえは相当なものです。 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学(講談社現代新書)小熊英二/講談社。日本型雇用はいつ、なぜできたのか。年功序列も新卒一括採用も長時間労働も、歴史をたどると理由がある。レビュー447件・星4.3の定番書 Amazonで見る › 半ドンの土曜日そのものを写した本はなかなかありませんが、あの頃の家と道具を写真で残した図鑑ならあります。ページをめくっていると、土曜の昼に帰った家の台所が出てきます。 ...

August 13, 2026

そろばんの日──週6回の教室と、3級でやめる約束|昭和の今日は何があった日?(8月8日)

8月8日は「そろばんの日」です。 由来は単純で、そろばんを弾くときの「パチパチ」という音を「8(パチ)」「8(パチ)」と読ませた語呂合わせ。制定したのは全国珠算教育連盟で、昭和43年(1968年)のことでした。私が生まれる前の年です。 語呂合わせの記念日は世の中に山ほどあって、たいていは商品を売るために後からつくられたものです。でもこの「そろばんの日」は、少し事情が違う気がします。昭和43年に、そろばんを教える人たちが自分たちの手で記念日を決めた。それはまだ、そろばんが日本中でパチパチと鳴っていた時代の話だからです。 そして私も、その音の中にいた一人でした。 みんなが通っていたから、私も通った 私がそろばん教室に通いはじめたのは、小学校3年生のときです。昭和53年(1978年)。 きっかけは、たいそうな話ではありません。友達の多くが通っていたから。ただそれだけです。 場所は、通っていた小学校の裏にありました。学校が終わって、いったん家に帰ってランドセルを置いて、また学校の方へ戻っていく。あの距離感が、そろばん教室という習い事の性格をよく表していたと思います。ピアノやバレエは「ちょっといいところの子」が通うもの、という空気がありましたが、そろばんは違いました。町の子がふつうに通う場所でした。 だから「習い事を始める」という決断めいたものは、正直あまりなかったように思います。放課後に友達が向かう場所がひとつ増えて、そこに自分もいた。それだけのことでした。誘われたというより、行かないほうが不自然だったのかもしれません。 親が通わせた理由もはっきりしていたはずです。当時のそろばんは、まだ「役に立つ技術」でした。商店の帳場でも会社の経理でも、そろばんを弾ける人は重宝された。習わせておいて損はない、という実感が親の世代にはあったのだと思います。 週に6回、休みは日曜と祭日だけ そして、ここからが今思い返すとすごいところです。 私が通っていたそろばん教室は、週に6回ありました。日曜日と祭日だけがお休み。つまり月曜から土曜まで、毎日です。 15時から50分の授業。終わると10分で次のクラスと入れ替え。16時からまた50分授業をやって、また10分で次のクラスと入れ替え。工場のラインみたいに、夕方の教室が回転していくわけです。そして級が上がっていくにつれて、遅い時間のクラスへと昇格していきました。低学年で下の級のうちは早い時間。上に行くほど遅い時間。時間割そのものが実力の順番になっていて、遅いクラスに移ることが子どもにとっての勲章でした。 授業が始まると、まず準備体操のように「読み上げ算」が始まります。「ご破算で願いましては」という決まり文句。あの合図で全員が一斉に指で珠を払い、盤面をゼロに戻す。それから先生が数字を読み上げて、生徒たちがパチパチはじいていく。読み上げのテンポは容赦なく、一度どこかで詰まったらもう追いつけません。 厳しい先生でしたから、教室内には緊張感がありました。おしゃべりなど、とてもできる雰囲気ではありません。読み上げの声と、珠が弾かれる音だけが部屋を満たしている。あの音の密度は、いま思い出しても独特です。 そろばんという習い事が全国的にどれだけ当たり前だったかは、こんなところにも表れています。昭和35年(1960年)から1990年代半ばまで、NHKラジオ第2放送では『そろばん教室』という番組がずっと放送されていました。昭和30年(1955年)には全国の高校生がそろばんの技を競う「全国高校珠算競技大会」も始まっている。通称、そろばん甲子園です。学校の裏の教室でパチパチやっていたあの時間は、日本中の子どもが同じようにやっていた時間でもありました。 毎日毎日、あの50分がありました。夏休みも、当然のようにありました。 「3級を取ったらやめていい」 私には、親との約束がありました。3級を取ったら、そろばんはやめていい。 そして6年生になってすぐ、私は3級に合格しました。約束通り、そろばんをやめることができた。そこからは野球に全力投球です。3年間ほぼ毎日通った教室から、私は野球のグラウンドへ移っていきました。 なぜ3級だったのか。当時から、珠算検定は3級以上が「履歴書に書けるライン」とされていました。親としては、そのくらいまでは持たせてやりたかったのだと思います。子どもの側からすれば、3級はゴールというより出口でした。ここまで行けば解放される、という一点を目指して珠を弾いていた。 いま考えると、少し不思議な話でもあります。やめるために頑張る。それでも小学校3年生から6年生までの3年間、ほぼ毎日そろばんを弾き続けたわけですから、目的がどうであれ、手は動き続けていたことになります。 正直に書いておくと、暗算は苦手でした。そろばんを目の前に置いて指を動かすぶんには何とかなるのに、頭の中に盤面を思い浮かべて計算する、あれがどうにも身につかなかった。同じ教室に、暗算がとんでもなく速い子がいたのを覚えています。あの差は、努力の量では埋まらないのだと子どもながらに感じていました。 そろばんの日の4年後、「答え一発」がやってきた ところで、そろばんの日が制定された4年後。カレンダーのほとんど同じ場所で、そろばんの立場を根本から揺さぶる製品が世に出ています。 昭和47年(1972年)8月3日、カシオ計算機が「カシオミニ」を発売しました。価格は1万2800円。それまでの電卓が7万円も8万円もしたことを考えると、破格でした。大きさも従来の4分の1。「答え一発、カシオミニ」というCMのフレーズをご記憶の方も多いでしょう。発売から10か月で100万台を超える大ヒットになりました。 8月8日にそろばんの日が決まり、その4年後の8月3日に、電卓が一家に一台の時代の扉を開けた。たった5日違いの、しかし決定的にすれ違った二つの出来事です。 カシオミニは発売から3年ほどで累計1000万台を売ったといわれます。当時の日本の人口を考えれば、10人に1人が手にした計算になる。私が生まれてまだ3歳のころに、日本の家庭は静かに、しかし決定的に「答えを一発で出す」側へ移りはじめていたわけです。 それでも、私がそろばん教室に通いはじめた昭和53年(1978年)、あの教室は週6日開いていて、夕方になれば子どもが集まってきました。電卓はもう珍しくもなかったのに、誰も「そろばんはもういらない」とは言わなかった。いま振り返れば、あれは坂を下りはじめた時代の、まだ日がよく当たっている斜面だったのだと思います。日が当たっているうちは、下り坂であることに誰も気づかないものです。 体にしみ込んだもの 正直、そろばんの技術は残っていません。 しかし当時そろばんを毎日毎日訓練したことの成果は、具体的に「これだ!」と示すことは出来ないのですが、私のカラダにしみ込んだ「そろばん」は確実にその後の人生に役立ってくれたと思います。 計算が速くなったとか、そういう分かりやすい話ではないのです。毎日決まった時間に教室へ行くこと。50分間、黙って手を動かし続けること。級というはっきりした目標に向かって、うまくいかない日も積み重ねること。そういうものが、たぶん形を変えて残っている。 そしてなんと、三男と四男が令和のこの時代に「そろばん教室」に通いました。四男は現在進行形です。2人は通い始めて明らかに良い効果が表れました。計算に対する苦手意識がなくなり、少しだけ賢くなったような気がします(笑)。 これは、うちだけの話ではないようです。そろばんは2000年代の半ばあたりから見直されはじめていて、教室に通う子どもは再び増える傾向にあると言われています。計算そのものは機械がやってくれる時代だからこそ、集中して数字と向き合う訓練の価値が、かえって浮かび上がってきたのかもしれません。 ただ、うちの子たちの教室が週6回でないことだけは確かです。あの回転寿司みたいな時間割は、たぶん昭和の教室にしかなかった。 わが家では、四男がいまも教室に通っています。そろばんは学校で買うものと思っていましたが、いまは家にもう一台あると練習がぐっと楽になります。23桁・四つ珠、ケース付き。私が昭和53年に抱えて歩いていたものと、形はほとんど変わっていません。 雲州堂 そろばんパック 23桁 ケース付き(サクラクレパス)学童用の定番。23桁・四つ珠でケース付き、本体178gと軽い。そろばん教室の指定品としてもよく使われる形です Amazonで見る › 電卓どころか、スマホが計算も翻訳もやってくれる時代です。それでもそろばん教室は残っていて、うちの子が通っている。昭和43年に「そろばんの日」を決めた人たちは、まさか半世紀以上あとの世界でこうなっているとは思わなかったでしょう。 けれど、あの人たちが守ろうとしたのは、たぶん計算の道具そのものではなかったのだと思います。あの、毎日決まった時間に子どもが集まってきて黙って手を動かす、教室というかたちのほうだった。 パチパチという乾いた木の音は、まだ鳴りやんでいません。 みなさんは、そろばんを習っていましたか。何級まで進みましたか。そして、やめたときのことを覚えているでしょうか。 「技術は残っていない」と書きましたが、正直なところ、もう一度あの音を鳴らしてみたい気持ちはあります。大人がゼロから、あるいは40年ぶりに握り直すための一冊も出ていました。1日10分。子どもと並んで弾くには、ちょうどいい分量かもしれません。 いしど式で簡単 大人のそろばんドリル 1日10分で計算力・集中力を活性化石戸珠算学園/メイツ出版。珠の置き方から検定レベルの練習まで、大人が独習できるように組まれたドリル。子どもの教室の宿題につきあう親にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

August 8, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月2日──道路が笑顔で埋まった日。銀座の80万人と、高砂の路地球場

車道の真ん中を、堂々と歩く 道路の真ん中を歩く。あれは何度やっても、少しだけ悪いことをしているような、妙にわくわくする感覚があります。いつもは白い線の内側にいなければいけない場所に、堂々と立っている。あの高揚は、大人になっても変わりません。 その感覚が東京で初めて公式に許されたのが、1970年(昭和45年)8月2日でした。銀座、新宿、池袋、浅草。この4か所で、東京都内初の歩行者天国が実施されたのです。このとき私は1歳4か月。当然ながら記憶はありませんが、今回調べていて、なぜ道路を人間に返さなければならなかったのかを知り、少し息を呑みました。 「道路が笑顔で埋まった」 その日の人出は、4か所あわせておよそ80万人。 翌8月3日の東京新聞は、朝刊の1面トップでこの日を伝えました。見出しは「道路が笑顔で埋まった」。当時の写真を見ると、銀座通りは本当に人・人・人で埋め尽くされています。日傘、半袖のワイシャツ、子どもの手を引く母親。そのすべてが、いつもは車が占領しているはずのアスファルトの上に立っている。 言い出したのは、当時の東京都知事・美濃部亮吉さんでした。「車から人間へ」。この一言に、あの時代の東京が抱えていたものが全部詰まっています。 なぜ、道路を人間に返す必要があったのか 1970年は、日本の交通事故死者数が過去最悪を記録した年でした。その数、1万6,765人。1年で、です。あまりの多さに、当時これは「交通戦争」と呼ばれました。日清戦争の戦死者数を上回る勢いで人が死んでいく、という意味です。しかもそのうち15歳以下の子どもが12.5パーセント。8人に1人が子どもでした。 そしてもうひとつ、歩行者天国のわずか2週間前の出来事があります。 1970年7月18日、東京都杉並区の東京立正高校で、体育の授業を受けていた生徒43人が次々と目やのどの痛みを訴え、病院に運ばれました。日本で初めて確認された、光化学スモッグの被害です。この日、同じ症状を訴えた人は都内だけで5,208人。原因は、自動車や工場から出る排気ガスが強い紫外線を浴びて化学反応を起こしたことでした。 体育の授業中に、高校生が空気で倒れる。そんな夏の直後に、東京は道路から車を追い出したのです。歩行者天国というのんびりした響きの裏に、これだけ切実な事情がありました。 道路は、もともと遊び場だった もっとも、道路を人に開放する試みはこれが最初ではありません。1958年(昭和33年)には神田の東紺屋町で、日曜と祝日に道路を柵で仕切って子どもたちの遊び場として提供する「遊戯道路」が設けられ、後に都内へ広がっていきました。 「遊戯道路」という言葉が、私はとても好きです。道路は遊ぶところだ、と大人が認めていた。子どもが道路で遊ぶのは当たり前で、だから車のほうに遠慮してもらう。そういう順番だったのです。 そして、その順番が生きていた場所を、私はよく知っています。 高砂の「路地球場」 高砂で過ごした子ども時代を思い返すと、いちばん印象に残っているのは、やはり「路地野球」です。私たちにとって道路は、単なる通り道ではなく、毎日のように集まる遊び場であり、野球場そのものでした。 もちろん幹線道路ではありません。遊んでいたのは幅4メートルほどの細い路地で、車が頻繁に通るような場所ではなく、近所の人が行き来する程度の静かな道でした。そこに数人、多い日には十数人もの子どもたちが集まり、二つのチームに分かれて試合をしていました。使うのは柔らかいビニール製のボールとプラスチックのバット。みんな思い思いに好きなプロ野球チームの帽子をかぶり、本物のプロ野球選手になったような気分でプレーしていたものです。 グラウンドづくりも子どもたちの仕事でした。どこから拾ってきたのか、ブロック塀の破片で道路にホームベースや塁の位置を書き、毎日試合をしていたので、その路地にはいつもベースの跡が残っていました。誰に教わるでもなく、みんなで自然に「球場」を作り上げていたのです。 路地で野球をする以上、本物の球場のようにはいきません。道の両側には民家が並び、打球は塀や壁に当たって思わぬ方向へ跳ね返ります。だからこそ独自のルールが次々と生まれました。塀に当たって跳ね返ったボールをノーバウンドで捕ればアウト。前方の家の庭まで打ち込めばホームラン。路地の形そのものが、球場のフェンスやスタンドの役割を果たしていたような感覚でした。 さらに面白かったのは、路地ごとにルールが違っていたことです。近所のあちこちに「路地球場」があり、別の町内の友達に誘われて遊びに行くと、その場所ならではのルールがある。まるで違う球場へ遠征するような気分になったものです。 中でも忘れられないのが、「かみなりおやじ」と呼ばれていた家です。その家にボールを打ち込むと、もしご主人に気づかれたら大目玉。だからその家に打ち込んだ瞬間、「即チェンジ!」という特別ルールがありました。ホームランでもアウトでもなく、とにかく攻守交代です。子どもたちは笑いながらも、その家だけは本気で避けようとしていました。今思えば、近所の大人たちとの距離が近かった時代ならではの、微笑ましいルールだったように思います。 もちろん道路ですから、人や車が通れば試合は一時中断です。「車!」「人来た!」と誰かが声を上げると、みんな一斉にプレーを止め、通り過ぎるのを待ってから何事もなかったように再開しました。当時は今ほど交通量も多くなく、子どもたちも自然と周囲に気を配りながら遊んでいました。 今では道路で野球をする光景を見ることはほとんどありません。しかし昭和のあの頃、私たちにとって路地は最高の野球場であり、毎日が公式戦のような真剣勝負の舞台でした。道幅わずか数メートルの小さな「球場」に、子どもたちの工夫と笑い声、そして野球への夢がぎっしり詰まっていたのです。 銀座は憧れの都会、上野は普段着の都会 歩行者天国そのものの記憶も、ひとつあります。 子どもの頃、歩行者天国といえば、何度か銀座へ連れて行ってもらった記憶があります。父は仕事で休日も家を空けることが多かったので、一緒に出かけるのは母と妹、そして私の三人でした。 当時の銀座は、私にとってまさに「特別な都会」でした。テレビや雑誌で見るような華やかな街で、大人がおしゃれをして歩く場所。実際に歩行者天国を歩いてみても、どこか自分が場違いなところへ来てしまったような感覚がありました。人の多さや洗練された街並みに圧倒され、わくわくする反面、なぜか落ち着かず、少し疲れてしまったことを覚えています。 そして帰り道、上野に立ち寄ると、不思議なくらい気持ちがほっとしました。「やっぱり上野くらいがちょうどいいな」「ここが自分にとって落ち着く都会なんだ」と感じた、その時の感覚は今でも印象に残っています。 私にとって本当に身近だった歩行者天国は、銀座ではなく上野中央通りでした。高砂から京成線一本、乗り換えもなく行けて、家族で買い物や食事に出かけるにはちょうどいい距離です。百貨店やアメ横があり、公園や動物園、美術館もある。見るものがたくさんあって、それでいて下町らしい親しみやすさも残っている。背伸びをしなくても楽しめる街だったのです。 銀座が「憧れの都会」だとすれば、上野は「普段着の都会」。そんな違いを、子どもながらに感じていたように思います。だからこそ上野では、歩行者天国を歩いていても緊張することはなく、人混みの中にいてもどこか安心感がありました。 高砂で育った私にとって、銀座は「東京を代表する特別な街」、上野は「自分たち下町の延長線上にある、一番身近な都会」でした。 実は、一本の道だった ところが今回、調べていて驚いたことがあります。 1973年(昭和48年)6月10日、上野から銀座まで5.5キロにわたる、当時「世界一長い」と言われた歩行者天国が実現していたのです。上野広小路にこれだけの人出があったのは、関東大震災のとき、昭和5年の海と空の博覧会に次いで三度目のことだったといいます。 つまり、私が場違いだと感じた銀座と、ほっとした上野は、同じ中央通りの南の端と北の端だったわけです。車を締め出されたアスファルトは、ずっと一本につながっていた。あの居心地の悪さと安心感の差は、道が違ったからではなく、同じ道のどちら側に立っているかの違いだったと思うと、少し可笑しくなります。 80万人と、十数人 こうして並べてみると、面白いことに気づきます。 銀座には80万人が車道にあふれ、高砂の路地には十数人が集まってブロック塀の破片でベースを描いていた。片方は都知事が号令をかけた一大イベントで、もう片方は誰の許可も得ていない勝手な占領です。けれど、やっていることは同じでした。アスファルトの上に、車ではなく人が立つ。銀座の80万人は日曜の数時間だけそれをやり、私たちは毎日やっていたわけです。 「車!」の一声でみんなが道の端に寄る。あれは、道路を借りている側の作法でした。歩行者天国が標識と警察官の力で実現していたものを、路地の子どもたちは声と目配りだけで成立させていたのかもしれません。 令和のいま 銀座の歩行者天国は、いまも続いています。土曜・日曜と祝日、中央通りから車が消えて、人が真ん中を歩く。あの日から56年、あの光景はまだ生きています。一方、5.5キロの「世界一長い歩行者天国」のほうは、神田のあたりで途切れ、上野までつながることはなくなりました。 交通事故の死者数は、2021年には2,636人まで減りました。1970年の1万6,765人の、およそ6分の1です。ガードレール、歩道橋、横断歩道。あの年に必死で整備が始まったものが、半世紀かけてこれだけの差を生みました。 その代わりに、路地から子どもの声が消えました。安全と引き換えに何かを手放した、と言うつもりはありません。1万6,765人という数字を知ってしまうと、あの時代がよかったとは、とても言えないからです。ただ、ブロック塀の破片で描いたベースの跡が、雨で消えるまで路地に残っていたこと。あれだけは覚えておきたいと思っています。 みなさんは、子どものころ道路で何をして遊んでいましたか。あるいは、歩行者天国の思い出はありますか。よかったら教えてください。 いまの子どもは、さすがに路地では野球ができません。でも公園や庭先でなら、あの頃と同じことができます。柔らかいカラーバットとボール、それにグローブがひとそろいになったセットです。当たっても痛くない素材なので、小さなお子さんやお孫さんの「はじめての野球」にちょうどいい。ブロック塀のかわりに、おじいちゃんがピッチャーをやってあげてください。 野球3種セット(カラーバット/やわらかボール/子供用グローブ)当たっても痛くないやわらか素材の入門セット。バット・ボール・グローブが揃うので、公園や庭先ですぐに遊べる。孫との初めてのキャッチボールにも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ...

August 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月31日──欠けていく太陽と、黒い下敷き

今日は7月31日。7月の最終日です。 夏休みが始まって十日ほど。宿題帳の白いページと、朝顔の観察日記と、朝から降りそそぐ蝉の声。八月の本番はまだこれからで、子どもにとっては一年でいちばん長くて濃い季節の、入り口のあたりでしょうか。 そんな夏の一日ですが、昭和56年(1981年)の7月31日、日本の空ではちょっと不思議なことが起きていました。 お昼どき、太陽が欠けたのです。 昭和56年、夏の真昼に太陽が欠けた 昭和56年7月31日、日本各地で部分日食が観測されました。 日食というのは、太陽と地球のあいだに月が割り込んで、太陽を隠してしまう現象です。月が太陽をすっぽり覆えば皆既日食、真ん中だけを隠してリングのように見えれば金環日食、そして一部分だけをかじり取るように隠すのが部分日食です。 この日、月の影が地球にいちばん濃く落ちた場所——つまり皆既日食が見られたのは、当時のソ連の南部でした。黒海のあたりからシベリアへと、影の帯が大陸を横切っていったのです。日本はその帯からは外れていましたが、太陽の一部が欠ける部分日食のほうは、昼前から午後にかけての空で、しっかりと見ることができました。 では、どのくらい欠けたのか。記録によれば、名古屋で食分がおよそ0.55。食分というのは太陽の直径がどれだけ隠されたかを表す数字で、0.55なら太陽の半分以上が月に隠されたことになります。関東でもだいたい半分前後、そして北へ行くほど深く欠けました。北日本では、月が太陽をもっとぐいと食べ込んでいったのです。 太陽の半分が消える。しかも夏休みの真っ昼間に。これは子どもにとって、ちょっとした事件だったはずです。 半分も欠けると、あたりの様子も少しだけ変わります。真っ暗になるわけではありませんが、真昼の光がなんとなく薄くなり、影の輪郭がいつもより硬くなる。じりじりと照りつけていた日差しが、ほんの少しだけやわらぐ。空を見上げなくても、「あれ、なんだか変だぞ」と肌で感じる——そういう不思議な明るさになるのです。 太陽が欠けるという出来事を、昔の人はとても恐れていました。平安時代の975年、京の都で皆既日食が起きたときには、太陽が墨のように光を失い、鳥が飛び乱れ、昼なのに空に星が見えたと記録されています。人々は不吉なことの前触れだとおびえ、朝廷は「大赦」——罪人を赦す特別なはからい——まで出したほどでした。 それが、昭和の子どもにとっては、恐怖でもなんでもありませんでした。ただただ「面白いもの」だったのです。学校の理科で、なぜ日食が起きるのかを習っている。だから怖くない。怖くないから、思いきりわくわくできる。太陽と月と地球の位置関係が、自分の頭の真上で実演されている——それは、教科書が本物になる瞬間でした。 ちなみに昭和56年という年は、赤城乳業の「ガリガリ君」や、ロッテの「雪見だいふく」が世に出た年でもありました。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が大ブームになったのもこの年です。冷凍庫の中身も、テレビの中も、少しずつ新しくなっていく——そんな時代の夏でした。 下敷きと、煤ガラスと さて、昭和の子どもは、この欠けた太陽を、いったいどうやって見ていたのでしょう。 太陽をそのまま肉眼で見てはいけない。それは今も昔も同じです。でも、昭和の観察方法はなかなか大胆でした。 いちばん多かったのは、黒い下敷きです。筆箱の横にいつも差してある、あの黒いプラスチックの下敷き。あれを目に当てて、みんなで空を見上げたものです。ほかにも、ロウソクの炎でガラス板を炙って煤をつけた「煤ガラス」、真っ黒なサングラス、使い終わって真っ黒に感光したフィルム。とにかく「黒くて、向こうが透けて見えにくいもの」を、片っ端から太陽にかざしていました。 ただ、ここは正直に書いておかなければなりません。これらの方法は、今では「やってはいけない」とされています。黒い下敷きや煤ガラスは、目に見える光は減らしてくれても、目に見えない赤外線や紫外線までは防げません。気づかないうちに目の奥、網膜を傷めてしまう危険があるのです。当時はそこまで知られていませんでした。「みんながやっていたから」で済んでいた時代でした。 そんな中に、道具がいらなくて、しかも安全な方法もひとつありました。木漏れ日です。木の葉と葉のあいだの小さな隙間が、ちょうどピンホールカメラのように働いて、地面に映る木漏れ日のひとつひとつが、欠けた太陽と同じ三日月の形になる。空を見上げなくても、足元に日食が映っていたのです。あれに気づいた子は、ちょっと得意げだったものです。 夏休みという時期も、日食にはうってつけでした。学校は休みでも、こういう日は「自由研究にちょうどいい」と、太陽の欠け具合を時間ごとにスケッチした子もいたはずです。何時何分にどれだけ欠けて、いつ元に戻ったか。画用紙に並んだいくつもの丸い太陽は、それだけで立派な夏の研究になりました。宿題に追われる夏に、空のほうから宿題の題材が降ってきたようなものです。 私の記憶 昭和56年の夏、私は小学6年生、12歳でした。 正直に言うと、太陽が欠けたことそのものは、はっきりとは覚えていません。ただ、7月31日という日づけには、日食とはまったく別の、とても濃い記憶が残っています。 夏休みの朝といえば、まずラジオ体操でした。首から下げた出席カードに、毎朝ひとつずつ判子を押してもらう。そして、その最終日がちょうど7月31日だったのです。最終日には、ためた判子のカードと引き換えに、花火やお菓子、ノートといった景品と交換してもらえました。ひと夏かけて集めた判子が、最後にごほうびに変わる日。子どもにとっては、これがちょっとした晴れ舞台でした。 ラジオ体操が終わると、午前中は学校のプールです。ふた学年ごとに分かれて泳ぎに行く日があって、それがない日には、自転車で5分ほどの区民プールへ友達数人と繰り出して、2時間くらいずっと泳いでいました。プールがなければ虫取り。とにかく、朝から日が暮れるまで、外にいた夏でした。 そう考えると、あの日——太陽が昼前から午後にかけて半分近くも欠けていったころ、私はたぶん、もらったばかりの景品を握りしめていたか、区民プールの水の中で友達とふざけ合っていたかの、どちらかだったのだと思います。頭の真上の空で月が太陽を食べていることよりも、手にした花火のほうが、そのときの私にとっては、よほどの大事件だったのでしょう。 当時はインターネットもスマートフォンもありません。珍しい自然現象があっても、情報源はテレビと新聞、そして近所の口コミくらいでした。だからこそ、ひとつの出来事を、家族や友達と同じ時間に分け合うことに、特別な意味がありました。日食そのものを覚えていない私でも、「太陽を直接見ちゃだめだよ」と大人に言われたような——そんな声の記憶だけは、どこか夏の底に沈んでいる気がします。 そしてうれしいことに、あのラジオ体操は今も同じように続いていて、今度は私の子どもが、あの出席カードに判子を押してもらっています(笑)。 じつは、これは今朝の風景です。夏祭りの提灯がまだ揺れている朝の広場に、子どもたちが集まってくる。そして最終日の今日は、あの頃とまったく同じように、景品の引き換えがありました。 私の子どもがもらってきたのは、手持ち花火のセットと、のり塩のポテトチップスでした。 ——45年前に私がもらった、花火と、お菓子。並べてみれば、ほとんど同じです。カードと景品と、夏の朝のあの眠たさだけは、何ひとつ変わっていません。太陽が半分も欠けたあの夏から45年が過ぎても、子どもの夏の入り口は、ちゃんと同じ場所にありました。 令和の空を見上げる 時代は流れて、令和になりました。 平成に入ってからも、日本では大きな日食が何度かありました。平成21年(2009年)7月22日には、鹿児島のトカラ列島で皆既日食が見られ、日本中が朝から空を見上げました。平成24年(2012年)5月21日には、東京でも金環日食が見られました。朝の通勤・通学の時間帯、駅のホームでも、歩道でも、多くの人が立ち止まって同じ空を見ていた——あの朝を覚えている方も多いでしょう。 このときの主役は、もう黒い下敷きではありませんでした。「日食グラス」です。専用の遮光板が入った観察メガネが、コンビニでも本屋でも売られ、直前には売り切れが続出しました。そしてもうひとつ、昭和にはなかったもの——スマートフォン。欠けていく太陽を写真に撮って、その場でSNSに上げる。日本中が同じ瞬間に、同じ空を、画面越しにも分かち合ったのです。 道具は下敷きから日食グラスへ。ひとりで見上げた空から、みんなで見上げる空へ。ずいぶん変わりました。でも、太陽がだんだん欠けていくのを見上げるときの、あの「うわぁ」という声にならない気持ちだけは、昭和の子どもも令和の子どもも、たぶん同じなのだと思います。 おわりに 次に東京のすぐ近くで大きな日食が起きるのは、そう遠い先ではありません。2035年9月2日、北陸から北関東にかけて、皆既日食の帯が通る予定です。東京でも、太陽がほとんど欠ける大きな部分日食になります。そのとき私は66歳。孫がいれば、一緒に空を見上げているかもしれません。もちろん今度は、ちゃんとした日食グラスで。 昭和56年の、あの夏の真昼。太陽が欠けていったあの日を、あなたは覚えていますか。 そして、何で空を見上げましたか。黒い下敷きでしたか、それとも——。 昭和の子どもは黒い下敷きで見上げましたが、今はもう、それをやってはいけません。太陽観察には、専用の遮光板を使ってください。これは日本製の「たいようめがね」。JIS規格の遮光板で、日食はもちろん、太陽黒点の観察にも使えます。夏休みの自由研究にもぴったりですし、何より安全です。2035年の皆既日食まで、大切に取っておくのもいいかもしれません。 太陽観察の必需品 たいようめがね(遮光板)日食・太陽観察用の遮光板。黒い下敷きや煤ガラスと違い、赤外線・紫外線もしっかりカットして目を守る。自由研究にも Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 31, 2026

【昭和の今日は何があった日?】7月25日──「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった

7月25日は「かき氷の日」なのだそうです。「な(7)つ(2)ご(5)おり」の語呂合わせに加えて、1933年のこの日、山形市で40.8度という当時の日本最高気温が記録されたことにちなむのだといいます。いかにも夏休みの真ん中らしい記念日です。 その7月25日に、昭和の子どもにとって忘れがたいものが世に出ています。1980年(昭和55年)7月25日、金曜日。ツクダオリジナルという玩具会社から、六面の色を揃える立体パズルが発売されました。ルービックキューブです。 このとき私は小学5年生。夏休みが始まってまだ数日という頃でした。 ただ、正直に書いておきます。その夏、私はルービックキューブを持っていませんでした。 昭和55年の夏休み、私が毎日していたのは、友達と連れ立って区民プールに行くことでした。さんざん泳いで、体を冷やしきって、外に出る。すると、プールのそばにおでんの屋台が来ているのです。串に刺さったウインナーや、ちくわぶを買い食いする。プールの塩素の匂いと、おでんのだしの匂い。私の昭和55年の夏は、立方体ではなく、その二つの匂いでできていました。 一億円で買ってきた立方体 ルービックキューブが日本にやってきた経緯は、調べてみるとなかなか面白いのです。 ツクダオリジナルの代表取締役だった和久井威さんが、ニューヨークのトイショーでこの立方体を見つけ、15万個分の販売権を1億円で獲得したのだそうです。日本ではまだ誰も知らない代物に、玩具会社が1億円を投じる。相当な博打だったはずです。 背景には、伊勢丹新宿店の「アダルトホビー部門」の担当者から、パズルゲームの商品がほしいと言われていたことがあったといいます。ここが大事なところです。ルービックキューブは、子ども向けのおもちゃとして日本に持ち込まれたわけではなかったのです。 値段の付け方にも、それが表れています。和久井さんは当初1,480円を想定していたそうですが、伊勢丹の担当者から「2000円ぐらいでも売れる」と言われ、1,980円にしたのだといいます。 発売に先立って、同じ年の6月1日には朝日新聞の日曜版が「究極の立体パズル」としてこのパズルを紹介しています。すると読者から「どこで売っているのか」という問い合わせが殺到し、それがまた記事になった。火は、発売前についていたのです。 私のキューブは、偽物だった 私がルービックキューブを手にしたのは、発売の夏より少し後のことでした。そして買ってもらったのは、正規品ではありませんでした。いわゆる偽物です。 弁解するようですが、当時の私の周りで「本物」を持っていた友達は、一人もいませんでした。みんな偽物です。それを学校に持って行って、休み時間に友達とカチャカチャ回していました。 1,980円という値段は、子ども心にも高いと感じていました。だから偽物になったのだろう、と長らく思っていたのです。ただ、記憶をたどると、それだけではない気もするのです。そもそもツクダオリジナルの本物が、売り場になかなか置いていなかった気がするのです。品薄だったのではないか、と。 本物は、町のおもちゃ屋に来なかった この記憶が引っかかったので、少し調べてみました。 たしかに、正規品だけで発売から8か月で400万個以上が売れています。1981年2月には海賊版が出回る事態にもなりました。ただ、どうやら「店頭から消えて買えない」というほどの極端な品不足ではなかったようなのです。 では、なぜ私の記憶では売り場になかったのか。 答えは、たぶん最初の話に戻ります。ルービックキューブは伊勢丹新宿店のアダルトホビー部門の要望から入ってきた、1,980円の商品です。つまりあれは、百貨店の売り場に置かれる大人の趣味の品だったのです。葛飾の町のおもちゃ屋や駄菓子屋の棚に、二千円近い舶来のパズルが並んでいたとは考えにくい。 品薄だったのではなく、そもそも私たちの町には流通していなかった。私の記憶は、たぶん間違っていなかったのです。 だから下町の子どもにとってのルービックキューブとは、最初から偽物のことでした。安っぽい作りでも、回して遊ぶぶんには本物と変わらない。あれは本物の代用品ではなく、私たちにとっては、それが唯一の実物だったのです。 「これが本物か」 そんな私が、いつだったか、本物のツクダオリジナル製を手に取る機会がありました。 回した瞬間のことは、今でも覚えています。軽いのです。偽物と比べて明らかに軽く、滑らかに、カチャカチャと回る。引っかからない。ねじれない。指先の力が、そのまま回転になって伝わっていく。 「これが本物か」 心の底から感心しました。値段の差とは、こういうことだったのか。あのとき私が感じたのは、たぶん、初めて触れた「工業製品の品質」というものでした。 もっとも、本物を回したところで、六面が揃うわけではありません。教室には必ず一人か二人、「オレ、六面そろえた」と言うやつがいましたが、たいていは嘘でした。よく見ればシールの角が浮いている。あるいは、いったんバラして組み直したのだと、後になって白状する。 もっとも、これは子どもが不真面目だったからではありません。配置の総数は4325京2003兆2744億8985万6000通りあるのです。京という単位を、私はこのパズルで初めて知ったような気がします。実際、翌1981年には揃え方を解説する本が出版され、数学の専門誌『数学セミナー』までが「ルービック・キューブで群論を学ぼう」という特集を組んでいます。大学で扱う数学の話が、おもちゃ売り場から立ち上がってきたわけです。 発明した本人でさえ、一か月かかった ここで、いちばん救われる話を書かせてください。 このパズルを考案したのは、ハンガリーの建築学者、ルビク・エルネー(エルノー・ルービック)さんです。ブダペスト工科大学の教授でした。1974年、立体幾何を学生に説明するための「動く模型」を求めていて、ドナウ川の流れを見てひらめいたのだといいます。最初の試作品は木でできていました。 そして彼は、完成した立方体の各面を違う色に塗り分け、動かしてみた。ところが、元に戻らなくなった。 「結果的に、出発点に戻るのに丸1か月かかった」 発明した本人が、です。 これを読んだとき、私は45年越しに肩の荷が下りたような気がしました。揃えられなくて当たり前だったのです。あれは揃えるためのおもちゃというより、揃わないことを手のひらで確かめるための装置だったのかもしれません。 帝国ホテルの四百人と、ガンダムの襲来 ブームは瞬く間に燃え上がりました。 1981年1月31日、東京の帝国ホテルで「第1回全日本キュービスト大会」が開かれています。6歳から68歳まで、約400人が集まりました。優勝したのは北島秀樹さんという当時16歳の高校生で、記録は単発46秒台、3回の合計が2分37秒。ルービックさん本人も来日し、優勝者には賞品として自動車が贈られたといいます。おもちゃの大会の賞品が、車です。 ところが、この熱はあっけなく冷めます。 ツクダオリジナルは1981年のゴールデンウィークに向けて30万個の追加発注をかけました。そこへ、まったく別の方角から津波が来ます。『機動戦士ガンダム』のプラモデル──ガンプラのブームです。 子どもたちの小遣いと関心は、立方体からモビルスーツへ移りました。売れ行きは急減し、残った大量の在庫は翌年の福袋に詰められ、それでも捌けず、結局10年かけて少しずつ処理したのだそうです。 ブームというのは、こういうふうに終わるのですね。誰かが飽きたからではなく、隣にもっと面白いものが現れるから終わる。 令和のキューブは、三秒で揃う 昭和の子どもだった私たちにとって、ルービックキューブは「揃わないもの」でした。ところが令和のいま、状況はまったく違います。 2010年、コンピュータによる解析で、どんな状態からでも最大20手あれば揃えられることが証明されました。「神の数字」と呼ばれるそうです。競技としてのスピードキュービングも確立し、3×3の単発世界記録は3.08秒(2025年2月、中国のYiheng Wang選手)まで縮んでいます。子どもたちがYouTubeで手順を覚え、小学生が十数秒で揃えてみせる時代です。 もうひとつ、調べていて驚いたことがあります。当時、日本で売られていたキューブは、世界標準とは配色が違っていたのだそうです。黄色と青の位置が入れ替わった「日本配色」。2013年のリニューアルで、ようやく世界標準に合わせられました。 本物と偽物の違いも分からなかった私たちですが、その本物のほうも、世界から見れば少しだけ違う立方体だったわけです。なんだか、それが妙に昭和らしい気がしてなりません。 昭和55年の夏、私はまだキューブを知りませんでした。区民プールで泳ぎ、屋台のウインナーとちくわぶを頬張っていました。都心の百貨店では大人たちが1,980円のパズルに列を作っていたのでしょうが、そんなことは知る由もありません。 ブームというのは、中心から周縁へ、時間差で届くものなのですね。私の手元に届いたのは一年ほど遅れて、しかも偽物でした。それでも、休み時間にカチャカチャ回していたあの音は、たしかに私の昭和の一部です。 みなさんのルービックキューブは、本物でしたか、偽物でしたか。六面は、揃いましたか。よろしければ、その顛末を教えてください。 あの日「これが本物か」と唸った、あの滑らかな回転。今はメガハウスの公式ライセンス品として、ちゃんと手に入ります。偽物しか知らなかった下町の元少年も、令和の孫も、同じ本物で遊べる時代です。夏休みの自由研究や、お孫さんへの一つに。揃わなくて当たり前——考案者すら一か月かかったのですから、どうか気楽に。 メガハウス ルービックキューブ 3×3 ver.3.0(公式ライセンス)日本正規品。回転が軽く滑らかな現行モデル。「これが本物か」の手ざわりを、令和の子どもや孫と Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ...

July 25, 2026

6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う

梅雨の入り口、六月十日は「時の記念日」です。 由来は、ずいぶんと古い。『日本書紀』によれば、六七一年のこの日(新暦に換算して六月十日)、天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を新しい台に据え、鐘や鼓で人々に初めて時を知らせた——とあります。それにちなんで、大正九年(一九二〇年)、東京天文台と生活改善同盟会が「時間を大切にしよう」と呼びかけて定めたのが、この記念日のはじまりだそうです。 千三百年以上も昔の人が、水の落ちる音で時を計っていた。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになります。 そして「時の記念日」と聞くと、私がまっさきに思い出すのは、保育園で作った、あの手作りの時計のことなのです。 空き箱で作った、私だけの時計 私が保育園に通っていたのは、昭和四十七年から五十年ごろ。歳でいえば、三歳から六歳のあいだです。その保育園では毎年、この六月十日の「時の記念日」にちなんで、子どもたちがそれぞれに「時計」を作る工作をしました。 材料は、空き箱や色画用紙。お菓子の箱だったか、何かの包み紙だったか、家から持ち寄ったような気もします。丸く切った画用紙に数字を書き込んで、短い針と長い針をつけて、思い思いの時計をこしらえる。みんなが作るから、出来あがる時計は一つとして同じものがない。針の角度も、数字の並びも、それぞれにいいかげんで、それぞれに誇らしかった。 いま思えば、まだ時計の読み方さえおぼつかない年ごろです。長い針と短い針が何を指しているのか、本当のところはわかっていなかったでしょう。それでも保育園は、この日に「時間って大切なものなんだよ」と、工作という形でそっと教えてくれていたのですね。あの先生たちの心づかいに、五十年も経ってからようやく気づくのですから、私もずいぶんとのんびりしたものです。 そういえば、当時の我が家には、本物の時計がありました。柱にかけられた、縦長で、振り子が左右にゆっくりと揺れるタイプの時計です。文字盤の下で振り子がチクタクと時を刻み、毎正時になると、ボーン♪ ボーン♪……と、低い音で時を打ちました。三時には三回、十時には十回。鳴る数をかぞえれば、まだ文字盤のうまく読めない子どもにも、今が何時なのかが、ちゃんと伝わってきたのです。 思えば、天智天皇が鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたのと、あの柱時計がボーンと鳴って時刻を告げていたのは、案外、同じことだったのかもしれません。水時計から、保育園児の空き箱の時計、そして柱の振り子時計まで。時を計り、時を告げようとする気持ちだけは、千三百年、ちっとも変わっていないのですね。 黄色い箱の中の、ゆっくりした時間 六月十日は、もうひとつの記念日でもあります。「ミルクキャラメルの日」。 森永製菓がこの日を選んだのには理由があります。一九一三年(大正二年)六月十日、それまでただ「キャラメル」と記して売っていたお菓子に、“ミルク"の二文字を冠して「ミルクキャラメル」として売り出した。創業者の森永太一郎が、西洋菓子になじみのなかった時代に「日本の人々に栄養価の高いおいしいお菓子を」と願って世に出した、森永の原点ともいえる一粒です。発売当初はバラ売りで一粒五厘。翌年には、二十粒入り十銭の、あの携帯用の箱が登場しました。 私が覚えているのは、もちろん大正の話ではありません。あの黄色い箱です。「滋養豊富・風味絶佳」という、子どもにはむずかしい字が並んでいて、けれど中身は文句なしに甘かった。 ただ、正直に打ち明けると、私はいつもミルクキャラメル一筋だったわけではありません。お店の前では、たいてい迷っていました。森永のミルクキャラメルにするか、それとも、グリコのおまけ付きキャラメルにするか。おまけのおもちゃが欲しい日もあれば、ただ甘いものを口にしたい日もある。子どもなりに、毎回それなりの葛藤があったのです。 ところが、不思議なことがひとつ。小学校の遠足の前は、おやつが「三百円以内」と決められていて、その限られた予算で何を買うかは、子どもにとって一大事でした。あれこれ手に取っては戻し、さんざん迷う。——のに、遠足のときだけは、どういうわけか毎回ミルクキャラメルを選んでいたのです。普段はあれだけおまけに心を揺らしていたはずの私が、遠足の朝には、なぜか黄色い箱に手が伸びる。理由は、自分でもよくわかりません(笑)。 今になって思えば、こういうことだったのかもしれません。ミルクキャラメルは、噛まずに舌の上でゆっくり溶かしていけば、一粒で長くもつ。バスに揺られ、野山を歩き、お弁当を広げ……長い長い遠足の一日に、少しずつ取り出して味わうには、ちょうどよかったのでしょう。おまけは手に入れた瞬間に終わってしまうけれど、キャラメルの甘さは、一日かけてゆっくり続いてくれる。あれもまた、時間を味わうお菓子だったのです。 あの黄色い箱は、今もそのままの姿で売られています。久しぶりに一粒、舌の上で溶かしてみると、遠足の朝の気持ちが、ふっとよみがえるかもしれません。 森永 ミルクキャラメル 大箱 149g×5箱あの懐かしい黄色い箱/森永製菓 Amazonで見る › 夜のうちに、時間を飛び越える ── ドリーム号 そして、きょうのもう一本。昭和四十四年(一九六九年)六月十日、東名ハイウェイバスの開業と同時に、夜行高速バス「ドリーム号」が走り出しました。高速道路を走り抜ける、日本で初めての夜行バスです。東京と大阪を、夜のあいだに結んでしまう。当時としては、ずいぶんと夢のある乗り物だったはずです。 この夜行バスが走り出す少し前、昭和四十四年五月に、東名高速道路が全線開通したばかりでした。それまで東京と名古屋・関西を結ぶ大動脈といえば、その五年前に開業した東海道新幹線。ドリーム号は、いわばその新幹線を夜のあいだに補う足として登場したのです。運行開始当初は、東京〜大阪が二往復、東京から名古屋を経て京都へ向かう便が一往復。眠っているうちに目的地へ届けてくれるこのバスは、開業からしばらくのあいだ、日本でいちばん長い距離を走る路線バスでもありました。 少しあとの、昭和五十年ごろの時刻表が残っています。それを見ると、東京から名古屋までのおよそ三百五十キロを、速い便でも五時間半あまりかけて走っていました。運賃はその区間で千九百円ほど、夜行に乗るにはさらに三百円の指定料金が必要だったといいます。今の感覚からすれば、ずいぶんのんびりとした道のりです。それでも、ひと晩を乗り物の中で過ごして遠い街へ向かうという体験そのものが、あのころはまだ、真新しいものだったのでしょう。 昭和四十四年という年は、私にとって少しだけ特別です。私が生まれたのが、この年の四月。つまり私がこの世に出てきて、わずか二ヶ月後に、ドリーム号は東京の夜を初めて出発していたことになります。自分が生まれた年に走り始めたものと聞くと、勝手に親近感がわいてくるのです。 その「同い年」のバスに、私が実際に乗ったのは、ずっとあとのことでした。平成二十二年(二〇一〇年)。長男が小学六年生だった年です。その春と夏、私は息子を連れて、甲子園へ高校野球を観に行きました。その足に選んだのが、夜行のドリーム号だったのです。 東京駅の八重洲南口を、夜の十時ごろ出発する。大阪に着くのは、翌朝の七時ごろ。夜行バスの乗り場には、行き先の違うバスが何台も連なって停まっていて、それぞれの行灯のような行き先表示が、夜の中にぽつぽつと浮かんでいました。これからどこかへ運ばれていく人たちの気配。そのなかに、息子と私もいる。「さあ、息子との旅が始まるぞ」という高揚感で、胸がいっぱいになったのを、今でもよく覚えています。いい思い出です。 考えてみれば、不思議なものです。私が生まれた二ヶ月後に走り出したバスに、四十年あまりが過ぎて、今度は私が自分の息子と並んで揺られている。夜のうちに距離を飛び越える乗り物が、いつのまにか、親子の時間まで運んでくれていた。 令和の今、時間は手のひらの中に いま、時刻を知るのに苦労する人は、もういません。スマートフォンの画面には、いつでも秒まで表示されている。時間は、手のひらの中に常にあります。空き箱で時計を作らなくても、針の読み方を覚えなくても、数字はいつでもそこにある。 それでも、ミルクキャラメルは今も、あの黄色い箱のまま店に並んでいます。夜行バスは全国を縦横に走り、行き先も種類も、私が子どものころには想像もつかなかったほど増えました。時を計る道具は変わっても、一粒を急がず溶かす時間や、夜のうちに遠くへ運ばれていく時間は、きっと今も変わらずそこにある。 わが子が小学生だったあの夜、八重洲のバス乗り場で胸を高鳴らせたのも、もう十数年前のこと。時間というのは、計るそばから、こうして思い出に変わっていくものなのですね。 みなさんにとって、「時間をかけて味わったもの」は、何でしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年代から六十年代の「今日」を、葛飾で育った私自身の目線で綴っています。 あわせて読みたい:アルプススタンドの千羽鶴に込められた思いを、親の目線で書きました▼ 千羽鶴に込められた思い――甲子園を目指す高校野球を「親の目線」で見て気づいたこと ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す | 次の記事:6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と ▶

June 10, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 18, 2026