色は先に来て、水はあとから来た──9月10日、カラーテレビと下水道の日|昭和の今日は何があった日?
9月10日には、まったく毛色の違う二つの記念日が重なっています。 ひとつは「カラーテレビ放送記念日」。もうひとつは「下水道の日」。 片方は華やかで、もう片方は地味です。片方は茶の間の真ん中にあり、もう片方は地面の下にあります。子どもの頃の私が覚えているのは、当然のように前者だけでした。 ところがこの二つを並べてみると、昭和の家がどう変わっていったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。 昭和35年9月10日、茶の間に色がついた 1960年(昭和35年)9月10日、NHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)、読売テレビ、朝日放送の5局が、東京と大阪でカラーテレビの本放送を始めました。アメリカ、キューバに次いで世界で3番目のことです。 ただ、この日を境にみんなの家が一斉に色づいたわけではありません。 当時のカラー受像機は21型で50万円ほど。白黒テレビの10倍近い値段でした。しかもカラー番組は、一日に一時間あるかないかという時期が続きます。 数字を見ると、その遅さがよくわかります。カラーテレビの世帯普及率は、統計に現れる最初の年である1966年(昭和41年)でわずか0.3%。そこから急な坂を登り始め、1971年に42.3%、1972年に61.1%、そして1975年(昭和50年)に90.3%。放送開始から15年かかって、ようやく十軒に九軒までたどり着いたことになります。 私が生まれたのは昭和44年。この坂のちょうど途中に生まれ落ちたことになります。 そして実際、私には白黒テレビを見た記憶があります。 『仮面ライダー』の2号。『ウルトラマンA』。『ウルトラマンタロウ』。このあたりは、白黒で観ていた記憶があるのです。 ここで少しややこしいのは、これらの番組はどれもカラーで放送されていたということです。色がなかったのは番組のほうではなく、我が家の受像機のほうでした。テレビ局はとっくに色を送っていたのに、それを受け取る箱がまだ白黒だったのです。 我が家に色がやって来たのは、高砂駅のそばから中川の土手のそばへ引っ越した後のことだったと思います。観音扉のついたテレビ台に載った、18型のカラーテレビ。チャンネルはもちろん、ガチャガチャと回す式でした。 タロウとゴレンジャーのあいだ 面白いのは、テレビが色を手に入れたことで、番組のつくり方まで変わっていったことです。 1966年(昭和41年)の『ウルトラマン』では、胸のカラータイマーが点滅して残り時間を知らせます。白黒テレビで見ている人にもわかるよう、明滅という「動き」で伝える工夫でした。まだ多くの家が白黒だった時代の設計です。 ところが1975年(昭和50年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まります。赤、青、黄、桃、緑。もう色そのものが登場人物の名前になっている。白黒テレビでは成立しない番組です。 そして私は、ゴレンジャーははっきりとカラーで観ていました。 自分の記憶を並べ直すと、我が家のテレビが色を手に入れた時期が、かなり狭く絞り込めます。 『ウルトラマンタロウ』が終わったのが昭和49年(1974年)の春。『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まったのが昭和50年(1975年)の春。前者は白黒で、後者はカラーで観ている。つまり我が家に18型が来たのは、そのあいだの一年ということになります。 全国の普及率が90%を超えたのが、まさに昭和50年です。我が家は、坂を登りきる集団の、少し後ろのほうを歩いていたことになります。 その『秘密戦隊ゴレンジャー』だけを一冊にまとめたムックがあります。五人の設定も、放送リストも、当時の写真も。あの春に何が始まったのかが、まるごと入っています。 スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー(Kindle版)講談社シリーズMOOK。昭和50年春に始まった第1作を一冊で総覧。キャラクター設定から全話リストまで。星4.5(54件) Amazonで見る › もうひとつの9月10日 さて、同じ9月10日は「下水道の日」でもあります。 始まりは1961年(昭和36年)。当時の建設省と厚生省、そして今の日本下水道協会の前身が協議して、「全国下水道促進デー」として定めました。2001年(平成13年)に、より親しみやすい名前へと改称されて今に至ります。 制定の理由は切実でした。当時の日本の下水道普及率は、わずか6%。諸外国に比べて著しく遅れており、全国に訴えかける必要があったのです。 なぜ9月10日なのか。この日がちょうど、立春から数えて220日目の「二百二十日」にあたるからです。昔から大きな台風が来る日とされてきました。下水道の大事な仕事のひとつは、汚水を流すことではなく雨水を流すこと。街を水浸しにしないことです。台風の日に下水道を思い出してほしい、というわけです。 葛飾は、ずっとあとだった ここからが、私にとっての本題です。 葛飾区の下水道整備がどう進んだのか、区史に記録が残っています。 葛飾区の下水道事業が動き出したのは、昭和48年(1973年)6月のことです。小菅処理場の一部が動き始め、小菅・堀切地区で下水道管の設置工事に着手しました。この年度の区の普及率は、1%です。 同じ年度、東京都区部全体の普及率は58%でした。 つまり葛飾は、都心が半分以上終わっている時点で、ようやくスタートラインに立ったのです。昭和59年(1984年)度にやっと50%を超え、100%にほぼ達したのは平成7年(1995年)度。事業開始から23年目のことでした。 昭和48年に私は4歳。昭和59年には15歳、中学三年生です。私が高砂で子ども時代を過ごしたあいだ、葛飾のほとんどの土地には、まだ下水道が通っていなかったことになります。 ...