9月1日 ── 防災頭巾をかぶって、机の下にもぐった日|昭和の今日は何があった日?

夏休みが終わった翌朝のことを、私はいまだに体が覚えている。 久しぶりのランドセル。少し重くなった気がする体。校庭に集まった同級生の、日焼けした顔。そして、二学期の始業式が終わったあとに必ずやってきた、あの時間。 「訓練、訓練。ただいま大きな地震が発生しました」 9月1日は、二学期の始まりの日であると同時に、防災の日だった。 防災の日は、なぜ9月1日なのか 防災の日が定められたのは、昭和35年(1960年)の閣議了解による。私が生まれる9年前のことだ。 日付の由来は二つある。一つは、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したこと。もう一つは、この時期が暦の上で二百十日にあたり、台風の襲来しやすい厄日とされてきたこと。地震と風水害、日本を襲う二つの災いが、この一日に重ねられている。 つまり防災の日は、何かが「始まった」記念日ではない。忘れないための日として作られた日だ。 子どもの頃の私は、そんな由来など何も知らなかった。ただ、9月1日には訓練があるものだと思っていた。理由を考えたことすらなかった。 防災頭巾と、「お・か・し」 私の記憶にある避難訓練は、いつも同じ手順だった。 防災頭巾をかぶって机の下にもぐる。その後は校庭に整列して、集団下校という流れだった。 合言葉は「お・か・し」。おさない、かけない、しゃべらない。三つだけ。今の学校では「おかしも」「おかしもち」と、後ろに「もどらない」「ちかづかない」が足されているらしいが、私たちの頃は三つで足りていた。 椅子の背にくくりつけてあった防災頭巾は、ふだんは座布団を兼ねていた。あれをかぶって机の下にもぐると、視界が急に狭くなる。木の床の匂いと、あちこちで押し殺した笑い声。訓練というより、少しだけ非日常の遊びに近かった。 そもそも防災頭巾という道具は、戦時中の防空頭巾の流れをくむものだといわれる。関東大震災と空襲、その両方を経験した街の学校に、布一枚の備えが座布団の顔をして残り続けた。私たちはその由来を知らないまま、毎日それに座っていたことになる。 校庭に整列したあとは、そのまま集団下校だった。地区ごとに並び、上級生が先頭に立って歩く。訓練の日だけは、いつもの帰り道が少しだけ儀式めいて見えた。もっとも、角を曲がって班が解散してしまえば、あとはいつもと同じ寄り道である。 いま売られているものも、形はほとんど変わっていない。アルミ加工で、耳穴が開いていて、たたむと座布団になる。あの銀色を店で見かけると、木の床の匂いまで戻ってきます。 大明企画 セーフティクッションES アルミタイプ(日本防炎協会認定品)小学校低学年から大人まで。耐熱耐火のアルミ加工、防災無線が聞き取れる耳穴付き、暗闇で光る反射テープ付き。たためば座布団に。星4.4(675件) Amazonで見る › 昭和53年、世の中が「地震」を意識しはじめた ただ、私の子ども時代の避難訓練は、単なる年中行事ではなかったのかもしれない。 昭和51年(1976年)の秋、いわゆる東海地震説が唱えられた。駿河湾を震源とする巨大地震が、いつ起きてもおかしくない――そういう指摘だった。政府は観測体制の強化に動きはじめる。 そして昭和53年(1978年)。1月14日に伊豆大島近海地震が起き、6月12日には宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、仙台を中心に死者28人。このうち18人が、ブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている。東京でも震度4を記録した。その三日後の6月15日、大規模地震対策特別措置法――いわゆる大震法が制定される。地震の直前予知を前提にした法律は、国内でこれ一つしかない。 昭和53年、私は小学3年生だった。 学校でも家でも、地震の話はたぶんされていたと思う。ただ正直に言うと、小学生当時の私は、自分ごととしては受け止めていなかった。どこか遠い話だった。 けれど、ブロック塀については注意された。これははっきり覚えている。 なにしろ本当にあちこちにブロック塀が立ち並んでいて、私を含む子どもたちは日常的にそのブロック塀の上に上がって、そこを歩いていたのだから。塀の上は近道であり、平均台であり、ちょっとした冒険だった。大人が真顔で「あれは危ない」と言いはじめたとき、私は危険よりも、遊び場を一つ取り上げられたような気分のほうを強く覚えている。 仙台で18人が亡くなった、その事実と私の通学路が地続きだったことに気づくのは、ずいぶん後になってからだ。 葛飾の子どもにとっての災害は、水だった もっとも、葛飾で育った私にとって、災害という言葉が最初に結びついたのは地震ではなかったかもしれない。 葛飾区は東京の東部低地にあり、区の大部分がいわゆるゼロメートル地帯だ。荒川と江戸川に挟まれ、中川が区の真ん中を流れている。台風が近づくたび、大人たちの顔つきが変わる土地だった。 台風に備えて、まず雨戸を閉める。現在のように軽く閉められるものじゃなかった。戸袋にしまってあって、そこから木製の戸に青色のとたん板が張られた雨戸2枚を引っ張りだすのだが、小学校低学年の頃の私では力が足りなかったんじゃないかと思う。父か母が閉める音を、家の中で聞いていた気がする。 我が家は私が保育園の年中か年長の時に、高砂駅の近くから、同じ高砂の中川の土手近くへと引っ越していた。だから台風などの大雨のあとには、友達と中川の土手へ行き、増水した川を見に行った。 やっちゃダメなやつである。 いつもは穏やかな中川が、茶色く濁って速く流れている。あの光景を見に行くことが、子どもにとってどれほど危ない行為かなど、当時の私は考えもしなかった。ブロック塀の上を歩いていたのと、まったく同じ神経である。 家の押し入れには、銀色のナップサックがあった。非常持ち出し袋だ。中を覗いたことはなかったし、実際に使われることもなかった。良かったと思う。 二百十日という言葉が防災の日の由来になっているのも、思えばこの土地の感覚に近い。地面が揺れることより、水が上がってくることのほうが、ここでは身近だった。 あの銀色のナップサックにあたるものを、いまは自分で用意する番になりました。中身を一から揃えるのは骨が折れるので、まずひとつ、封を切らずに置いておく。それだけでもずいぶん違うと思います。 防災グッズ 32点セット(防災士監修・1人用リュック)保存食、保存水、簡易トイレ、高輝度の懐中電灯、マスク、スリッパなど32点。全品が長期保管に対応。星4.8 Amazonで見る › 平成23年3月11日、私はバスの運転席にいた 遠い話だったものが、自分ごとになる日がいつか来る。子どもの私はそれを知らなかった。 ...

September 1, 2026

8月31日 ── 「や・さ・い」の日に、夏休みは終わった|昭和の今日は何があった日?

今日は8月31日。8月の最終日です。 そして昭和の子どもにとっては、一年でいちばん落ち着かない一日でした。 いまは夏休みの終わりが8月の下旬だったり、地域によってはもっと早かったりしますが、私が子どものころ、東京の公立小中学校の夏休みは8月31日までと決まっていました。つまり今日という日は、四十日ほど続いた自由の、最後の一日だったわけです。 朝から気持ちが妙にざわつく。遊びに行っても、どこか身が入らない。夕方になると、その落ち着かなさがはっきりした形をとってやってくる。 ——宿題である。 正直に告白しますと、小学生時代の私は、最終日まで宿題をたっぷりと残しちゃっているタイプでした。しかも困ったことに、途中から開き直る。「やーらない」。追い込みすらしないのですから、手のつけようがありません。 当然その後、新学期が始まると肩身の狭い思いをすることになります。提出できない。先生に呼ばれる。まわりはちゃんと出している。あの居心地の悪さは、いまでもうっすら覚えています。 そして翌年の8月31日、私はまた同じことをやっているのです。毎年その繰り返しでした。 「や・さ・い」の日が生まれた日 さて、この8月31日という日付には、昭和の終盤にひとつの記念日が誕生しています。 1983年(昭和58年)、「野菜の日」が制定されました。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合わせです。制定したのは全国青果物商業協同組合連合会をはじめとする、野菜にかかわる9団体。もっと野菜のことを知ってほしい、もっと野菜を食べてほしい——そういう願いが込められた記念日でした。 1983年8月31日は水曜日。私は14歳、中学2年生でした。 正直に申し上げて、当時の私がこの記念日の誕生を知っていたとは思えません。中学2年の男子が「今日から野菜の日だってさ」と話題にする姿は、どう想像しても浮かんできません。 ただ、この記念日が昭和58年に生まれたという事実そのものが、時代を映していると思うのです。 わざわざ「野菜を食べよう」と旗を立てなければならなくなった。裏を返せば、そう言わなければならないほど、日本人の食卓が変わりつつあった、ということでしょう。 カゴとざるの、八百屋さん 昭和58年がどんな年だったか、少し並べてみます。 4月に東京ディズニーランドが開園しました。同じ4月、NHKの朝の連続テレビ小説『おしん』が始まっています。そして7月には、任天堂がファミリーコンピュータを発売しました。 外食産業が広がり、家庭にビデオデッキが入りはじめ、子どもの遊びが屋外から屋内へ移りはじめた時代です。「野菜の日」は、ちょうどそんな時代の入り口で生まれました。 そして、八百屋さんという商売が、まだ街の主役だった最後のころでもあります。 当時は駅前に限らず、商店街が街のあちこちに点在していました。もちろん私も、母に頼まれて近所の八百屋へ買い物に行きました。 いま思い出しても笑ってしまうのが、あの会計です。店の天井から、カゴだったか、ざるだったか、とにかくそういうものが吊り下げられていて、お店の人はそこにお金を入れ、お釣りもそこから出す。実にざっくりしたものでした。 レジ? ないない(笑)。 野菜が、値札とバーコードではなく、店の人の手と声で売られていた時代です。「今日はこれが安いよ」と言われれば、母の頼んだものと違っていても買って帰ることがありました。あれもまた、野菜との付き合い方のひとつだったのだと思います。 給食と、母の躾 野菜と昭和の子ども、といえば、やはり給食の話になります。 昭和の給食には、いまでは考えられない光景がありました。食べ終わるまで席を立たせてもらえない。掃除の時間になっても、ひとりぽつんと食器を前にしている子がいる。そして残されるものは、たいてい野菜でした。 ただ、私自身にはその記憶があまりありません。苦手な野菜が、特になかったのです。 理由ははっきりしています。母から、食べ物の好き嫌いについては結構厳しく躾けられていました。出されたものは食べる。それだけのことですが、家でそう育てられていれば、学校の給食でつまずくこともありません。 昭和13年に新潟で生まれた母にとって、食べ物を残すという発想そのものがなかったのだろうと思います。 そして時代のほうも、少しずつ変わっていきました。「食べ終わるまで残される」という指導は、私が小学生でいるあいだに、だんだんなくなっていったように記憶しています。 強引に食べさせる時代が終わっていく。その少し先に、「野菜の日」のような記念日が生まれる。無理やり食べさせるのではなく、知ってもらって、食べたいと思ってもらう。そういう時代の変わり目が、この記念日の背景にはあったのかもしれません。 あの「食べ終わるまで席を立てない」時間が何だったのかを、正面から書いた本があります。楽しかった人にも、苦痛だった人にも、それぞれの給食があったのだと分かります。 給食の歴史(岩波新書)藤原辰史/岩波書店。子どもの味覚への権力行使という側面と、命をつなぎ新しい教育を模索する側面。貧困・災害・運動・教育・世界の五つの視角から給食をたどった一冊。星4.3(115件) Amazonで見る › 中学2年の、静かな8月31日 ところで、中学2年の私の8月31日は、小学生のころとはまるで違っていたはずです。 中学生になると、高校進学のことを真剣に考えるようになりました。それで、学習への取り組み姿勢がすっかり変わったのです。普段から予習と復習をし、宿題も余裕を持って終わらせている。 あの「やーらない」と開き直っていた小学生が、です。変わればかわるものです。 ですから昭和58年8月31日の私は、たぶん、宿題に追われていません。夏休み最終日を、静かな気持ちで迎えていたはずです。四十日の自由が終わることへの寂しさはあっても、机の上に未提出の山があるという、あの胃の重さはない。 そして翌9月1日は木曜日。始業式です。 もちろん、夏休みが終わってしまう寂しさはありました。けれど、クラスの友達と会えるワクワク感もありましたから、どっちと問われれば「楽しみ」のほうが勝っていた。日焼けした顔で校門をくぐって、真っ黒になった友達と久しぶりに顔を合わせる。あの朝は、そんなに悪いものではなかったのです。 8月31日が、見守る日になった 社会人になると、8月31日はただの日付になります——と、書きかけて、やめました。そんなことはなかったからです。 子どもたちが小さいころ、8月31日になると、宿題の追い込みをしている姿がありました。「もっと早くやっておけばいいのに」と思いながら見ていましたが、考えてみれば自分も子どものころは似たようなものだったのです。というより、追い込みすらしていなかったのですから、私のほうがよほど質が悪い(笑)。 親になってから、8月31日が「宿題をやる日」から「子どもを見守る日」に変わった。これは、ちょっと面白いところだと思います。 いまは路線バスの運転士をしていますので、仕事をしていても、この日には独特の季節感があります。夏休みのあいだは、お子さんの姿や家族連れのお客様が増えて、「夏休みだな」と感じることがある。それが9月に入ると、学校へ向かう子どもたちが一気に増えて、街の空気がガラッと変わります。バスを運転していると、そういう季節の変化をかなり身近に感じます。 自分は8月31日を卒業したのに、8月31日はずっと、誰かの上に降り続けている。 57歳の「野菜の日」 そして自分自身のことです。 57歳になったいま、8月31日だから何か特別なことをするというより、「これからも元気に動ける身体を維持したい」ということを強く意識するようになりました。 野菜も、若いころは「食べたほうがいいんだろうな」くらいの感覚でしたが、いまはかなり意識して食べています。筋トレやランニングも続けていますし、これから先も仕事をしながら、野球を楽しんだり、子どもたちと一緒に動いたりしたい。そのためにも、食事は単なる楽しみだけではなく、身体を維持するための大事なものだと思うようになりました。 母に叱られて食べていた野菜を、いまは自分の意志で選んで食べている。昭和58年に「野菜の日」を作った人たちが願ったのは、たぶんこういうことだったのでしょう。四十三年かかって、私はようやくその願いに追いついたことになります。 とはいえ、毎日きっちり350グラムは、正直しんどい。足りない分をどう埋めるかという話で、うちの冷蔵庫にはこれが常備してあります。砂糖も食塩も入っていない、野菜100パーセントのやつです。 ...

August 31, 2026

8月30日 ── 世界の王が「800」に届いた日|昭和の今日は何があった日?

昭和53年(1978年)8月30日。水曜日でした。 夏休みは、あと2日。9歳、小学3年生の夏の終わりです。 その日の昼間、私が何をしていたかといえば、たぶんプールに行ったか、路地で野球をしていたか、セミを追いかけていたか。宿題のことも気にはなっていたはずですが、それ以上に「今日、何して遊ぶ?」で頭がいっぱいの毎日でした。 そして、その日の夜。私はテレビの前にいました。 後楽園球場で、ひとつの数字が動いた夜です。 800。 1回、大川浩から 相手は横浜大洋ホエールズでした。この年、大洋は川崎から横浜に本拠地を移し、チーム名も「横浜大洋ホエールズ」に変わったばかりでした。 1回。マウンドにいたのは大川浩投手。王貞治がその球を捉え、打球は後楽園のスタンドへ飛び込みました。通算800号ホームラン。 試合が始まってすぐの、あっけないような一発でした。もっとも、王貞治のホームランというのは、たいていそういうものだったのかもしれません。物語のクライマックスのように打つのではなく、ごく普通の顔をして、当たり前のように打つ。そういう打者でした。 このとき王は38歳。プロ20年目のシーズンです。 テレビの前にいた9歳 私は、その瞬間をリアルタイムで見ていました。 9歳の私が「800号」という数字の持つ本当のすごさを理解していたかというと、正直、そんなことはありません。それでも「王さんが800本打った」ということが、とてつもない記録なのだということは、子どもなりに分かっていたと思います。 当時の私にとって、王さんはテレビの中にいる特別な存在でした。巨人の4番で、ホームランを打つのが当たり前のような人。「王さんなら打つでしょ」という感覚も、どこかにはあったのかもしれません。 ただ、この800号だけは、それまでの「ホームランをたくさん打つ王さん」とは少し違って見えました。800本。子どもにも分かりやすい、大きくて、きれいな数字です。「すごいことをやったんだな」という印象が、いまも強く残っています。 新聞やニュースで後から知ったのではなく、テレビでその瞬間を見ていた。振り返ってみると、これはずいぶん貴重な記憶です。 「800」という数字が持っていた重さ いま「800本」と聞いても、実感がわきにくいかもしれません。何しろその後、王自身が868本まで積み上げてしまったからです。800はあくまで通過点で、記録としては868のほうが有名になりました。 けれど、あの当時の800には、独特の手ざわりがありました。 前の年、昭和52年(1977年)9月3日に、王はハンク・アーロンの記録を抜く通算756号を放っています。世界新記録でした。その2日後の9月5日には、第1回の国民栄誉賞を受けています。この賞は、王を表彰するために新しく作られたようなものでした。 つまり、王貞治はすでに「世界一」だったのです。ゴールテープはもう切っていた。それなのに、そこから1年足らずで、さらに44本を積み増して800に届いた。 昭和の子どもにとって、王貞治は「記録を作る人」ではありませんでした。「記録が、あの人の後ろからついてくる人」でした。誰も走っていない道を、ひとりで先へ先へと進んでいく。800という切りのいい数字は、そのことをあらためて教えてくれる数字だったのだと思います。 その道を、本人の言葉でたどれる一冊があります。早実の投手だったころから、打者への転向、一本足打法、そして世界記録まで。当時テレビの前にいた側からすると、答え合わせのような本です。 もっと遠くへ(私の履歴書)王貞治/日本経済新聞出版。早稲田実業のエースだった少年時代から、巨人V9、一本足打法、ハンク・アーロン超えまでを本人が語った自伝。星4.4 Amazonで見る › 中継が終わってからが、私の時間だった 当時のナイター中継は、9時前に終わってしまうこともありました。試合はまだ続いているのに、画面が切り替わってしまう。あれが子どもには耐えられませんでした。 だから、中継が終わると布団に入り、イヤホンを耳に突っ込んで、ラジオで続きを聴くのです。家族に聞こえないように、小さな音で。親に叱られた記憶は、不思議とありません。 布団の中で目を閉じて、アナウンサーの声だけを頼りに試合を追う。テレビで見た場面を思い出しながら、「今、どうなっているんだろう」「巨人は勝っているかな」と想像していました。私にとって後楽園球場は、映像であると同時に、あの「音」でもあったのです。 そして、あの年の巨人の打順は、いまでも口をついて出てきます。 1番・センター柴田勲。2番・セカンド土井正三。3番・レフト張本勲。4番・ファースト王貞治。5番・ライト柳田真宏。6番・サード高田繁。7番・ショート河埜。8番・キャッチャー吉田孝司。9番・ピッチャー堀内恒夫。 こうして並べてみると、本当にすごい面々です。柴田選手から始まって、張本選手、王選手と続く打線には、子ども心にも迫力がありました。私がいちばん好きだったのは、やはり王さん。それから、柴田選手の俊足と、堀内投手のピッチングにも憧れていました。 そして長嶋茂雄さんは、このときすでに監督でした。私は長嶋さんの現役時代を詳しく知りません。「昔の巨人の大スターで、今は監督をしている人」という印象でした。その一方で、王さんはまだグラウンドに立ち、4番を打っていた。 長嶋さんが巨人の歴史を象徴する人だとすれば、王さんは、その歴史をいまもグラウンドで続けている人。9歳の私の中で、ONはそういう二人でした。 翌日の路地は、全員が一本足になる 王貞治の一本足打法は、昭和の子どもにとって「真似するもの」でした。 家の前の、幅4メートルほどの路地。プラスチックのバットとビニールボール。細かいローカルルールで成り立っていた、あの野球です。あそこで右足を高く上げてみた子どもは、日本中に何百万人といたはずです。もちろん、上げたところで当たりません。ぐらぐらして、空振りして、笑われて終わりです。 それでも、やりました。特に、王さんが前の晩にホームランを打った翌日は、絶対にやりました。誰に言われるでもなく、その日の路地はみんな一本足になるのです。 だとすれば、800号の翌日、8月31日の路地の光景も、想像がつきます。夏休み最後の日、宿題を積み残した小学生たちが、全員そろって右足を上げていた。当たらなくても、いいのです。あの形をとった瞬間だけ、自分が王貞治になれたのですから。 そして、優勝はヤクルトのものになった ここから先は、巨人ファンにはあまり楽しくない話です。 昭和53年の巨人は、長嶋監督の4年目。8月が終わった時点で首位に立っていました。2位ヤクルトとは1.5ゲーム差。8月下旬には一時4.5ゲーム差をつけ、優勝マジックの点灯目前まで迫っていたのです。 王が800号を打ったのは、まさにその、いちばん高いところにいた時期でした。 ところがそこから、チームは坂を転げ落ちるように失速します。3試合連続サヨナラ勝ちで勢いづくヤクルトとは対照的に、巨人は下位相手に取りこぼしを重ねた。10月4日、優勝を逃すことが決まりました。日本一になったのは、広岡達朗監督のヤクルト。球団創立以来、初めての優勝でした。 あの驚きは、いまも覚えています。万年弱小と言われていたヤクルトが、広岡監督のもとで優勝してしまった。子どもの世界の常識が、ひっくり返ったような出来事でした。 そして王さんは、この2年後、昭和55年(1980年)11月4日に現役を引退します。通算868本。 「まだ早い。もっと見ていたい」 それが、当時の正直な気持ちでした。800号を打ったあの夜からたった2年で、テレビの中の4番打者がいなくなってしまう。子どもだった私には、うまく飲み込めませんでした。 800号は、坂の頂上で打たれた一本だったのです。 800という数字を、いま数え直す 大人になって、この数字を別の角度から見るようになりました。 いま、私の子どもが野球をやっています。その姿を見ているからこそ、800号という数字が、当時以上にとんでもないものに感じられるのです。 子どもが一本ホームランを打つだけで、親は大騒ぎです。練習をして、試合に出て、何十打席、何百打席と積み重ねて、その中でようやく一本が出る。それを800本。 ...

August 30, 2026

8月29日 ── 夕方の再放送で、私はオスカルに出会った|昭和の今日は何があった日?

8月29日は「ベルばらの日」と呼ばれています。 1974年(昭和49年)のこの日、兵庫県の宝塚大劇場で、宝塚歌劇団月組による『ベルサイユのばら』の幕が上がりました。 私は当時5歳。宝塚も、少女漫画も、フランス革命も、まだ何ひとつ知らない子どもでした。それでも数年後、この作品は思いがけない形で私の日常に入り込んでくることになります。 「人間に演じられるわけがない」 原作は池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』。連載が始まったのは1972年、『週刊マーガレット』でのことでした。舞台化は、その連載が終わった翌年の話になります。 少女雑誌の連載でフランス革命をやる、というのは、当時としてはかなり無茶な企画だったはずです。主人公のオスカルは、将軍家の末娘として生まれながら、家を継ぐために男として育てられた女性。実在の人物ではありません。その架空の一人を、マリー・アントワネットとフェルゼンという実在の歴史の中に立たせてしまった。この一手が、のちのすべてを決めたのだと思います。 昭和40年代の後半、宝塚歌劇団は苦しい時期にありました。テレビが各家庭に行き渡り、スターの姿が茶の間で手軽に見られるようになった時代です。劇場には空席が目立つようになっていました。 そこで、当時まだ演出部門の若手だった植田紳爾さんが、この漫画の舞台化を発案します。ところが制作を発表すると、熱狂的な原作ファンから抗議が殺到しました。あの物語を、あのオスカルを、生身の人間が演じられるわけがない、と。 猛烈な反発に、現場の決心は揺らぎます。その時に演技指導として現れたのが、往年の映画スター・長谷川一夫さんでした。 長谷川一夫といえば、戦前から戦後にかけての日本映画を代表する二枚目です。その人が、少女漫画を原作にした宝塚の舞台に関わる。今の感覚で言えば、相当に思い切った起用でした。 長谷川さんが持ち込んだのは、歌舞伎で培われた「見せ方」の技術だったと言われています。どう立つか、どこで止まるか、どの角度で客席に顔を向けるか。漫画のコマの中でしか成立しないはずだった美しさを、生身の人間の身体で再現するための、具体的で身も蓋もない技術です。抗議していた原作ファンを黙らせたのは、理屈ではなく、その一点だったのだと思います。 そして1974年8月29日、初演の幕が上がりました。オスカルを演じたのは、当時の月組トップスター・榛名由梨さん。マリー・アントワネットは初風諄さんでした。 二年で140万人 結果はご存じの通りです。 人気に応える形で、翌年以降、花組・雪組・星組と組を替えての上演が続きました。地方公演も含め、シリーズで動員した観客はおよそ140万人。1974年は、奇しくも宝塚歌劇団が創立60周年を迎えた年でもありました。 オスカルを演じた榛名由梨さん、汀夏子さん、鳳蘭さん、安奈淳さんの4人は「ベルばら四強」と呼ばれ、第一次ベルばらブームの立役者になりました。同じ年、作品は文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。 空席の目立っていた劇場が、チケットの取れない劇場に変わった。昭和の芸能史の中でも、これほど鮮やかな逆転はそう多くありません。 面白いのは、このブームが「もともと宝塚を知っていた人」の中で起きたものではなかったことです。漫画から入ってきた人、それまで劇場に足を運んだことのなかった若い人たち。舞台化に反対していた人たちが、いちばん熱心な客になった。反対の声が大きかったということは、それだけ深く愛されていたということでもあったのでしょう。 五歳の私は、仮面ライダーだった さて、その1974年8月、5歳の私です。 私は宝塚とも少女漫画とも、まったく無縁でした。興味があったのは、仮面ライダーとウルトラマン。それだけです。 同じ夏、同じ日本で、大人の女性たちが劇場に押し寄せてフランス革命に泣いていた。その一方で、葛飾の五歳児はテレビの前で変身ポーズをとっていたわけです。同じ時代を生きていても、見ている世界はまるで違う。「昭和の今日は何があった日?」を書いていると、こういう場面によく出くわします。 1979年、水曜の夜 『ベルサイユのばら』は、その後アニメになりました。 1979年(昭和54年)10月10日から翌1980年9月3日まで、日本テレビ系で全40話が放送されています。制作は東京ムービー新社。オスカルの声は田島令子さん、アンドレは志垣太郎さん。総監督に長浜忠夫さん、途中から出崎統さんが引き継ぎました。 放送開始の1979年10月、私は小学4年生の秋です。 ただ、正直に書きます。この水曜夜の本放送を、私は見ていません。一つ違いの妹も見ていませんでした。 無理もない話で、この年の4月には『機動戦士ガンダム』が始まり、同じ4月にテレビ朝日で『ドラえもん』の放送が始まっています。男子小学生の世界は完全にそちら側にありました。ロボットと、ネコ型ロボットと、野球です。 夕方の再放送 ところが、です。 いつのことだったかは、はっきり思い出せません。ただ、夕方に『ベルばら』の再放送が流れていた時期があって、私はそれを見てしまった。 そして、やみつきになりました。 夢中になって見ました。特に良かったのが、オープニングの歌です。「薔薇は美しく散る」。歌っていたのは鈴木宏子さん。あの重々しいイントロと、ばらの花が散っていく映像。子ども向けアニメの主題歌とは思えない、はっきりと悲劇の匂いがする曲でした。 昭和の夕方には、再放送という文化がありました。学校から帰ってきて、ランドセルを放り出して、何気なくテレビをつける。そこで流れているのは、たいてい何年か前のアニメです。本放送のときには興味がなかった作品、あるいは幼すぎて見られなかった作品が、その時間に不意打ちのように現れる。 いま考えると、あれは不思議な仕組みでした。自分で選んで見に行ったわけではないのに、たまたまチャンネルを合わせた一本が、その後ずっと記憶に残ってしまう。私にとっての『ベルばら』は、まさにそれでした。 いま思えば、アニメ版『ベルばら』は途中から演出が濃く、暗く、詩的になっていく作品です。オスカルもアンドレも、最後はきちんと死にます。夕方の再放送というのは、そういうものと出会うのにちょうどいい時間帯だったのかもしれません。誰にも見つからずに、一人で見ていられるからです。 男子は少年漫画、女子は少女漫画 1969年生まれの私にとって、少女漫画は自分の本棚にはないものでした。 でも、一つ違いの妹がいましたから、『りぼん』『なかよし』『別冊マーガレット』『少女コミック』は身近にありました。女子が読んでいる漫画を、横から覗いたこともあります。 本当はちょっと読んでみたかった。けれど、男子が少女漫画を読むのは恥ずかしかった。それが正直な気持ちだったでしょう。 なにせ昭和の男子には、 「男子は少年漫画、女子は少女漫画」 という見えない境界線が、結構ありましたから。 誰が引いたわけでもない線です。先生が決めたわけでも、親に言われたわけでもない。それでも確かにそこにあって、越えると笑われる。昭和の子どもの世界には、そういう線がいくつもありました。男の子は泣かない。女の子は前に出ない。線の内側にいるかぎりは楽なのですが、その分、外側にあるものは最初からなかったことになる。 そう考えると、ベルばらの舞台化に抗議が殺到した話も、少し違って見えてきます。「男装の麗人」オスカルという人物そのものが、引かれた線を越えて生きる話なのです。少女たちがあれほど夢中になったのは、たぶん偶然ではありません。 夕方の再放送で私が『ベルばら』にやみつきになれたのは、たぶん、そこに誰もいなかったからです。教室の目も、妹の目も届かない時間に、線をまたいで向こう側を覗いた。そういうことだったのだと思います。 いまなら、誰の目も気にせず堂々と買えます。あのころ横から覗いていただけの五巻が、化粧箱に入って売られている。 ベルサイユのばら 全5巻セット 化粧箱入り(集英社文庫コミック版)池田理代子/集英社。1972年から『週刊マーガレット』で連載された原作。文庫版全5巻が化粧箱入りで揃います。星4.5(248件) Amazonで見る › そして、まだ観ていない 『ベルサイユのばら』は、その後も宝塚で繰り返し上演され続けています。1989年、1991年、2001年、そして令和に入ってからも。原作漫画は累計2000万部を超え、2025年には完全新作の劇場アニメも公開されました。 ...

August 29, 2026

8月28日 ── 「1ドル360円」が終わった日|昭和の今日は何があった日?

この連載は、たいてい子どもの目線で書いています。駄菓子屋の棚とか、木曜九時のテレビとか、高砂の線路脇とか。ですが今日の8月28日については、その目線を借りることすらできません。 1971年(昭和46年)8月28日。私は2歳4か月です。何も見ていないし、何ひとつ覚えていない。正真正銘、記憶にございません。 それでもこの日を書いておきたいと思ったのは、この日を境に始まった「あるもの」が、その後の私の人生に、形を変えて何度も顔を出し続けたからです。トイレットペーパーの行列として。ハワイのTシャツとして。信用金庫の窓口として。そして、150万円の授業料として。 22年間、1円も動かなかった数字 若い人に「昔は1ドルが360円だったんだよ」と言うと、たいてい「へえ、すごい円安ですね」という反応が返ってきます。それはその通りなのですが、あの360円が今の円安とまったく違うのは、その数字が動かなかったという一点です。 1949年、戦後の経済政策の一環として、1ドル=360円という単一の為替レートが定められました。以来22年間、この数字は1銭たりとも動いていません。円高も円安もない。為替は天気ではなく、暦のようなものでした。 そもそも当時、普通の日本人がドルに触れる機会などほとんどありませんでした。観光目的の海外渡航が自由化されたのは1964年4月1日。しかもこのとき、1人が持ち出せる外貨は年1回・500ドルまでという制限つきです。1966年に回数制限が外れ、1969年に700ドル、1970年に1000ドルへと、少しずつ引き上げられていきました。 つまり昭和の日本にとって、ドルとは「買うもの」ではなく「配られるもの」に近かった。値段の変わらない、限られた配給品のようなものだったのです。 十二日間の攻防 その暦のような数字が、たった十二日で崩れます。 1971年8月15日、アメリカのニクソン大統領が、ドルと金の交換停止を柱とする新経済政策を突然発表しました。戦後の世界経済を支えてきた仕組みの土台を、当のアメリカが自分で抜いてしまったわけです。日本ではこれをドル・ショック、あるいはニクソン・ショックと呼びました。 株式市場の反応は激烈でした。翌16日の日経平均は215円安。下落率にして7.68パーセント。当時としては下落幅の過去最大記録です。動揺は収まらず、19日までの4日間で日経平均は550円も下げました。 ここからが、私がいちばん惹かれる部分です。 ヨーロッパの主要国は、混乱を避けるためにさっさと為替市場を閉じてしまいました。ところが日本は、市場を開けたまま360円を守ろうとしたのです。売られる円を、日本銀行がひたすらドルを買うことで支え続けました。その規模は1週間で約40億ドルに達したとも言われます。 いま振り返れば無謀にも見えます。ただ、22年間動かなかった数字を自分の代で手放すという判断が、当時の当局にとってどれほど重かったか。そう思うと、あの十二日間の粘りは、そう簡単に笑えるものではありません。 それでも限界は来ます。8月27日、日本の外貨準備高は125億ドルに膨れ上がっていました。買い支えた分だけドルが積み上がったわけです。この日の閣議で、翌28日から変動幅の制限を撤廃することが決まりました。 そして8月28日。変動相場制に移った初日、円は342円をつけます。その後は340円前後で推移し、年末には320円前後まで進みました。 同じ年の12月18日、ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた会議で、1ドル=308円という新しい固定レートが決まります。いったんは固定相場に戻ったのですが、それも長くは持ちませんでした。1973年2月14日、円は再び変動相場制へ。以来、日本が固定相場に帰ったことは一度もありません。 「1ドル360円」の時代は、あの夏に終わったのです。 「円安が悪いのか良いのか、正直よく分からない」──そう思ったまま何十年も過ごしてきた私のような人間には、ちょうどいい一冊がありました。仕組みのところから、データで説明してくれます。 教養としての為替大矢俊雄/かんき出版。「円高・円安とは何か」から「円は安全通貨なのか」まで、元IMF・世界銀行勤務のエコノミストがデータをもとに解説した入門書。星4.4 Amazonで見る › 覚えているのは、トイレットペーパーの行列 1971年のことを、私はもちろん覚えていません。ただ、その数年後のオイルショックのことは、いまでも少し記憶に残っています。 円が再び変動相場制に移った1973年の秋、第四次中東戦争をきっかけに原油価格が跳ね上がりました。第一次石油危機です。日本中で物がなくなるという噂が走り、翌1974年には物価が2割を超えて上がって「狂乱物価」と呼ばれました。 そのさなか、トイレットペーパーを買うために、たくさんの人でごった返した雑貨店へ、母に連れられて行ったことがあります。私は4歳です。 覚えているのは、人がぎゅうぎゅうに詰まった店の中の景色だけです。母がどんな顔をしていたのか、結局買えたのかどうか、そこまでは思い出せません。それでも、あの人いきれのようなものは、五十年たったいまも残っています。 固定相場という頑丈な壁が外れたあとの世界で、4歳の私が最初に手渡された感触が、それでした。 「意外と安いな」── 1992年、ホノルル 私が初めてドル紙幣を自分の手で握ったのは、大学4年のときです。生まれて初めて飛行機に乗り、ホノルルマラソンを走りに行きました。 1992年、第20回大会。エントリーは3万人を超え、そのうち日本人だけで1万8千人以上。当時のハワイは、日本人ランナーで埋まっていました。 初めての飛行機、初めてのハワイ、初めてのフルマラソン、そして初めてのドル紙幣。現地で買い物や食事をすると、「思ったより安いな」と感じる場面が多かったのを覚えています。当時のレートは1ドル120円台くらいだったはずです。何ドル払ったのかという具体的な金額はもう出てきませんが、「日本で買うより安い」という感触だけははっきり残っています。 そして調子に乗った私は、カラフルなトカゲがプリントされたTシャツを何枚も買い込みました。いま思えば、あれはハワイでよく見かけるゲッコー、つまりヤモリだったのでしょう。 初めて飛行機に乗り、初めてハワイへ行き、走って、初めてのドルで「意外と安い」と喜び、ゲッコーのTシャツを大量に抱えて帰ってくる。我ながら、1992年の大学生そのものです。 ただ、ひとつだけ言っておきたいことがあります。もしあの日、1971年8月28日がなかったら。1ドルが360円のままだったら、あのホノルルは私にとって三倍高い街だったはずです。学生の分際で海を渡って走れたのは、その21年前の夏に、日本銀行が守りきれなかったからでした。 「予約ライン」が、ちんぷんかんぷんだった頃 大学を出て、私は信用金庫に入りました。 入庫してまもなく、勉強のためにということで融資の窓口に配属になりました。そこで「予約ライン」という言葉に出くわします。外国為替の予約に関する限度額のようなもの、という説明を受けた記憶はあるのですが、当時の私にはまったくちんぷんかんぷんでした。 いま考えると、あれもまた1971年8月28日の子孫のようなものです。円が動くようになったから、動く前に値段を決めておく「予約」という仕組みが要る。予約を認めるなら、どこまで認めるかという線も引かなければならない。窓口に座っていた若造には、そこまで見えるはずもありませんでしたが。 150万円という授業料 もうひとつ、書くかどうか迷いましたが、書きます。私はFXで150万円ほど溶かしたことがあります。 始めたのは2013年の9月頃でした。ドル円は100円を切るくらいだったと思います。アベノミクスで円安が進んでいて、「FXなら儲かるのではないか」と、ほとんど仕組みも分からないまま始めました。今思えば、これが大きな間違いでした。レバレッジというものの怖さもよく分からないまま取引をして、結果的に150万円ほど失いました。 この経験は、私にとってかなり大きな勉強になりました。 「自分が相場の動きを予想して勝ち続けることなんて、できるわけがない」 身をもって、そう思い知らされたからです。 当てにいくのではなく、居続ける それから、投資に対する考え方が少しずつ変わりました。 短期的な値動きを当てに行くのではなく、世界の企業が成長していく力そのものに乗る。そして、細かな値動きに一喜一憂せず、長い時間をかけて資産を育てていく。いま私が積み立てているS&P500やNASDAQ100の投資信託は、その考えの先にあります。 インデックス投資を続けているのは、単に「良いと聞いたから」ではありません。FXで150万円を失った経験があったからこそ、「相場を当てる」のではなく「市場に居続ける」ことのほうが自分には合っている、と考えるようになったのです。 150万円は決して安い授業料ではありませんでした。でも、その失敗があったからこそ、いまの自分の投資スタイルがあります。そう考えると、あの150万円は、私にとって失ったお金であると同時に、考え方を変えるための授業料だったのかもしれません。 もっとも、投資信託を持つということは、意識するとしないとにかかわらず、毎日ドルを持たされているということでもあります。バスのハンドルを握っているあいだも、口座の中では為替が動き続けている。1971年の夏に外れた壁は、いまも外れたままです。 「市場に居続ける」という考え方そのものを最初に世に出したのが、バンガードの創業者ジョン・ボーグルでした。私が読んだのはずっとあとですが、自分がFXで払った150万円の答え合わせのような本でした。 インデックス投資は勝者のゲーム 株式市場から確実な利益を得る常識的方法ジョン・C・ボーグル/パンローリング。S&P500のような広範なインデックスに連動する投資信託を、低コストで買い、持ち続ける。それだけを説いた一冊。星4.3(857件) Amazonで見る › 2歳の私は、何も知りませんでした。けれどあの日決まったことの上に、トイレットペーパーの行列も、ゲッコーのTシャツも、ちんぷんかんぷんだった窓口も、消えた150万円も、全部乗っかっていた。 ...

August 28, 2026

8月27日 ── わたくし、生まれも育ちも葛飾高砂です|昭和の今日は何があった日?

1969年、昭和44年8月27日。 映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。山田洋次監督・脚本、渥美清主演。舞台は、東京都葛飾区柴又です。 このときの私は、生後4か月です。 そして柴又は、私が生まれ育った高砂の、隣町でした。京成金町線で一駅。高砂──柴又──金町、たった三駅しかない短い路線の、真ん中の駅です。 この日付を見つけたとき、正直なところ、少し身構えました。生まれた年、生まれた月のすぐあと、そして地元。ここまで重なると、かえって何を書けばいいのか分からなくなる。 でも、調べていくうちに気づいたことがあります。この映画が公開された時点では、まだ誰も「柴又」を知らなかった、ということです。 テレビの中で、寅さんは一度死んでいる ご存じの方も多いと思いますが、『男はつらいよ』はもともとテレビドラマでした。 1968年10月から翌1969年3月まで、フジテレビで全26回。渥美清が少年時代に見てきたテキヤの記憶を語ったところから、山田洋次が膨らませた企画だったといいます。 問題は、その最終回でした。寅次郎はハブ酒でひと儲けしようと奄美大島に渡り、ハブに咬まれて死んでしまう。 ところが放送後、テレビ局に抗議が殺到しました。手紙、電話。山田監督自身が後年書いているところによれば、その中には「てめえの局の競馬は二度と見ねえ」といった調子のものも少なくなかったそうです。 ここが、私はいちばん面白いところだと思っています。 抗議した人たちは、番組の出来に文句を言ったわけではありません。知り合いが死んだことに怒ったんです。視聴者のなかでは、すでに寅さんが生きた人間として息づいていた。それを作者が自分の料簡で勝手に殺してしまったのは間違いではなかったか──山田監督は、そう反省させられたと書き残しています。 そして、映画のスクリーンの中でもう一度、寅を生き返らせようと決めた。 松竹の上層部は難色を示したそうです。一度テレビでやったものを、いまさら映画にして客が入るのか、と。もっともな話です。山田監督は当時の社長・城戸四郎に喧嘩腰で掛け合って、企画を通したと伝えられています。 つまりこの映画は、視聴者の怒りと、監督の後悔と、反対を押し切った押しの強さから始まっています。国民的シリーズという言葉から想像する、穏やかな始まりではありません。 そのテレビ版は、長く「幻」でした。いまはマスターテープの残っていた第1話と最終回が、そのままDVDになっています。つまり、寅さんが死ぬ回を、いまは家で観ることができる。 テレビドラマ版「男はつらいよ」 [DVD]昭和43年からフジテレビで全26回。奇跡的に残っていた初回と最終回を完全収録。柴又が舞台に決まるまでの経緯もスタッフ証言で収められています。星4.0 Amazonで見る › 二本立ての、54万3000人 昭和44年8月27日、公開。上映時間91分。同時上映は伴淳三郎主演の『喜劇 深夜族』でした。当時の日本映画は二本立てが当たり前で、『男はつらいよ』もその一本として封切られています。 観客動員は54万3000人。 正直に言うと、この数字を見たとき、私は「思ったより少ないな」と感じました。後にシリーズが1作あたり100万人、200万人を動員するドル箱になっていくことを知っているからです。第1作は、まだ大当たりではなかった。 評価のほうは高く、この年のキネマ旬報ベストテンで第6位、毎日映画コンクールでは山田洋次が監督賞、渥美清が男優賞を受けています。ただ、それは映画好きの世界の話です。 しかもこの第1作は、「これで完結」とも取れる終わり方をしています。1969年8月27日の時点では、まだ誰も、この先50年続くとは思っていません。 四人で歩いた、帝釈天への道 私が生まれた1969年の夏、柴又での撮影はもう終わっていました。 物心がついたころ、柴又はすでに「寅さんの町」になり始めていたはずです。けれど私にとっての柴又は、映画の舞台である前に、まず帝釈天でした。 物心ついた頃から今日まで、初詣は毎年、帝釈天です。一年も欠かしていません。 子どもの頃は、父、母、妹、私の四人そろってお詣りに行っていました。 ──ここは、書きながら少し立ち止まったところです。 父は仕事が極端に忙しい人で、連休らしい連休は正月しかありませんでした。母と妹と三人で出かけることのほうが、我が家では普通だった。その中で、帝釈天の初詣だけは四人そろっている。父が一年でほとんど唯一、家族と並んで歩いていた行事が、この参道だったことになります。 行き方は決まっていませんでした。ひと駅だけでも電車に乗ったこともあれば、歩いて行ったこともあります。いまは家族みんなで歩いて行くのが恒例です。 金町線というのは、柴又から金町までの区間を柴又街道の真ん中を通っていきます。改めて言われてみれば、たしかに路面電車のような走り方です。地元の人間には当たり前すぎて、そういう目で見たことがありませんでした。 参道の店も、ひととおり体に入っています。髙木屋老舗では、いまでも草団子を買います。ゑびす家さんは、信用金庫に勤めていた時代、職場の初詣の帰りに必ず寄って食事をした店です。 そして川千家。ここで、私たち夫婦の結納を行いました。 映画のロケ地として全国に知られている参道が、私にとっては初詣の道であり、職場の恒例行事の場所であり、結婚に向かう日の座敷でもある。そういう順番で、この町は私の中に積み上がっています。 観光地であり、近所であること 柴又が観光地であるという認識は、子どもの頃からありました。それは分かっていた。 ただ、無意識のところでは、やっぱり近所の延長なんです。 この二つは、どちらかが本当でどちらかが嘘、というものではありません。同時に成立しています。観光地だと知っていながら、身体のほうは「そこらへん」として扱っている。地元というのは、たぶんそういうものです。 寅さんの映画の撮影に出くわした記憶は、私にはありません。第1作の撮影は生まれる前ですし、それ以降も、たまたま通りかかることはなかった。 そのかわり、柴又をレポートする撮影には何度も遭遇しています。テレビカメラとレポーターが参道に立って、草団子の店の前で何かしゃべっている。あの光景なら、数えきれないほど見ました。 映画そのものではなく、映画になった町を取材しに来る人たち。私が育った柴又は、もうその段階に入っていたということです。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い──」 あの啖呵を、自分の土地の話として聞いていたか、と言われると、正直、映画のセリフだという認識のほうが強かった。それでも、誇らしい気持ちになったのは確かです。 地元が全国に知られていること自体は、メチャクチャ誇らしかった。子どもの正直な感覚として、そこはごまかしようがありません。 それでも、映画館では一度も観ていない ここまで書いてきて、白状しなければならないことがあります。 私は『男はつらいよ』を、映画館で一度も観たことがありません。 一作もです。隣町が舞台で、あれだけ誇らしかったのに、封切りに足を運んだことがない。 お盆と正月に必ず新作がかかる、という感覚も、子ども時代にはありませんでした。家族の中に特別な寅さんファンがいたわけでもない。 では、どこで観たのか。 ひとつは、テレビです。「〇〇ロードショー」の類で流れているのを、なんとなく観ていました。 そしてもうひとつが、観光バスの中です。 信用金庫に勤めていた時代、お客様をお連れして旅行に行く機会がありました。その道中、バスの中で寅さんのビデオがよく流されていたんです。 柴又の隣で生まれ育った人間が、東京を離れる高速道路の上で、備え付けの小さなモニターに映る柴又を観ている。 いま思うと、なかなか妙な話です。地元だから観に行かなかった映画を、地元から遠ざかる乗り物の中で観ていた。しかも私は、その後バスを運転する側になりました。 近すぎるものを、人は正面から見ません。毎年通っている参道が映画の中に出てきても、「ああ、ここね」で終わってしまう。誇らしさと、わざわざ観に行くこととは、別なんです。 その第1作を、いまさらながら家で観ることはできます。マドンナは光本幸子、91分。1969年8月27日に二本立ての一本として封切られた、あの91分です。 男はつらいよ [DVD](第1作・HDリマスター版)山田洋次監督/松竹。渥美清、倍賞千恵子、森川信ほか。1969年製作、1時間31分。特典に撮影時のオフショットを収録。星4.5(144件) Amazonで見る › 隣町が、観光地になっていく 昭和が終わり、平成に入ると、柴又の変化は目に見えるものになりました。 ...

August 27, 2026

8月26日 ── 一回きりで終わるはずだった、あの土曜日の夜8時|昭和の今日は何があった日?

夏休みが、あと五日。 1978年、昭和53年8月26日は土曜日でした。私は9歳、小学3年生。宿題がどうなっていたかは、あえて思い出さないことにします。 その日の夜8時、日本テレビが妙な番組を始めました。翌日の夜8時まで、丸一日、生放送を続けるというのです。 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の、第1回でした。 土曜の夜8時は、空いていなかった いま思えば、日本テレビはとんでもない時間に旗を立てました。 1978年の土曜の夜8時といえば、TBSで『8時だョ!全員集合』が生放送されている時間です。1969年10月に始まり、1985年9月まで16年間、毎週土曜の20時から20時54分まで、日本中の茶の間を占領し続けた番組でした。 子供にとって、土曜の夜8時は交渉の余地のない時間帯です。翌日は日曜で、学校がない。その一週間分の解放感の入口に、ドリフが立っていました。 そこへ日本テレビが、丸一日の生放送をぶつけてきた。しかも中身は福祉と募金です。 深夜番組から生まれた企画 この番組の出発点は、意外なところにありました。当時、日本テレビが放送していた深夜番組『11PM』の、世界の福祉を扱った特集です。テレビというメディアで何ができるのか。そこから、開局25年の記念事業のひとつとして企画が立ち上がりました。 ところが、社内の反応は冷たいものでした。 当時の民放は、ひとつの番組をひとつのスポンサーが提供する「一社提供」が主流です。複数のスポンサーが並ぶこの仕組みに、スポンサー側が難色を示しました。さらに、週末のゴールデンタイムは編成が固まっている時間帯です。そこを丸ごと差し出すことに、局内からも反対の声が多く上がりました。 結果、この番組は「一回きり」の約束で放送されることになります。 テーマも掲げられました。「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」──今の目で見ると、驚くほど具体的です。地球を救うという壮大な副題の下に、お風呂と、車椅子と、リフト付きバスが並んでいる。集めたお金を何に使うかが、最初から名指しされていました。 この具体性は、そのまま当時の福祉の水準を映しています。寝たきりの高齢者が風呂に入れない。車椅子が足りない。車椅子のまま乗れるバスが、そもそも存在しない。それらはずっとそこにあって、テレビが取り上げてこなかっただけでした。 「愛は地球を救う」という副題は、いま聞くと少し照れくさい響きがあります。けれども、あの時代にゴールデンタイムで福祉を24時間喋り続けるには、それくらい大げさな旗を立てないと成立しなかったのだろうとも思います。 総合司会は萩本欽一と大竹しのぶ。パーソナリティーには大橋巨泉と竹下景子。そして番組のシンボルとして、ピンク・レディーが立っています。 前の日の記事で、私は昭和51年8月25日のピンク・レディーのデビューについて書きました。あの二人が、その二年後の8月26日、今度は違う立場でテレビの真ん中にいる。日付というのは、たまにこういう並び方をします。 会場を転々とした24時間 第1回には、後の「武道館」がありませんでした。 オープニングは芝公園の郵便貯金ホール。途中のコーナーは麹町の日本テレビのスタジオ。エンディングは代々木公園。場所を転々としながらの24時間でした。日本武道館がメイン会場に定着するのは、第3回、昭和55年からです。 代々木公園のフィナーレには人が殺到し、押し寄せた観客に子供や体の不自由な人が押されそうになり、迷子も出たと記録されています。段取りが完成していない、初回だけの混乱です。 そして、募金です。 日本テレビ麹町本社に設けられた受付電話には、189万本の電話がかかりました。そのうち実際につながったのは、3.7パーセントにも満たない7万本程度だったといいます。100本かけて、つながるのは4本足らず。それでも人は、かけ続けました。 29局の累計募金額は、11億9,011万8,399円。 この金額は、その後33年間、破られませんでした。更新されたのは2011年──東日本大震災の年です。 「俺、絶対に起きて全部観る」 当然、私は起きていませんでした。 ただ、この番組が子供の間で話題になっていたことは覚えています。学校で、「俺、絶対に起きて全部観る」なんて言っていた奴がいました。丸一日テレビが続くというだけで、9歳にとっては十分に事件だったのです。誰かが最後まで到達できるのかどうか、それ自体が競技のように受け止められていました。 ちなみに私も、チャレンジしてみようとチャンネルを合わせています。 そして、すぐに断念しました。 番組の中身が、さすがに小学3年生の観続けられるものではなかったからです。寝たきりの高齢者の暮らし、車椅子の話、途上国の福祉。どれも大切な内容だと今なら分かりますが、当時の私には、笑いも歌もないまま画面が延々と進んでいくようにしか見えなかったのだと思います。 考えてみれば、それは番組の側から見れば成功のしるしでもありました。子供が飽きるくらい真面目に作られていた、ということですから。 「絶対に全部観る」と言った奴が、翌週の学校でどう報告したのか。そこは、どうしても思い出せません。 羽根と、「億」という単位 募金そのものは、学校で経験していました。赤い羽根や緑の羽根の募金です。教室で袋を配られ、家から小銭を持ってきて、胸に羽根をつけて帰る。あれが、私にとっての「募金」の入口でした。 ただ、家からテレビに電話をかけた記憶はありません。あの夜、日本テレビに189万本かかったという電話の中に、高砂の我が家からの一本はなかったということです。 画面で読み上げられる金額についても、正直なところ実感はありませんでした。「億」という単位に対して私が受け取っていたのは、ただ「凄くたくさん」という感じだけです。 11億9,011万8,399円。 いま並べてみると、末尾まで一円単位で記録されているところに、この番組の性格が出ている気がします。凄くたくさん、ではなく、一円ずつの積み上げとして数えられている。9歳の私には、そこまで読めませんでした。 裏でドリフをやっていた、その『8時だョ!全員集合』のほうも、いまは映像で残っています。歌のゲストの顔ぶれを眺めているだけで、あの時代の土曜の夜がそのまま出てきます。 8時だョ!全員集合 ゴールデン・コレクション 通常版 [DVD]ザ・ドリフターズ。沢田研二、郷ひろみ、キャンディーズ、桜田淳子ほか歌のゲストも収録。星4.6(254件) Amazonで見る › 続けてしまった、一言 番組が終わろうとしていた代々木公園で、日本テレビの徳光和夫アナウンサーが、会場にいた一人の高校生にマイクを向けました。 その高校生は、こんな意味のことを言ったと伝えられています。欽ちゃん、あの聖火みたいに今日一日で消さないでずっと続けてほしい、消えてしまったらつまらないじゃないか、と。 ...

August 26, 2026

8月25日 ── 私は、ゴミ箱で「UFO」の振り付けを覚えた|昭和の今日は何があった日?

8月25日について、もう一本書かせてください。 即席ラーメン記念日のことを書いた同じ日に、実はもうひとつ、どうしても外せない出来事がありました。 1976年、昭和51年8月25日。ピンク・レディーが「ペッパー警部」でレコードデビューしています。 私は7歳、小学1年生でした。 そして——これは後で気づいたことですが——彼女たちは翌年から日清焼そばU.F.O.のコマーシャルに出ています。即席麺と、ピンク・レディー。同じ8月25日から始まった二本の線が、数年後に一本につながる。昭和というのは、たまにこういう妙なつながり方をします。 なぜ、8月の終わりだったのか デビュー日が8月25日に決まったこと自体が、実は「期待されていなかった」ことの証拠でした。 当時の芸能界では、新人賞を狙うなら4月前後にデビューするのが常識です。年末の賞レースまでに、じっくり時間をかけて育てる。それが筋でした。夏の終わりに出すというのは、要するにそこまで手をかける気がなかった、ということです。 作詞を担当した阿久悠さんも、後年こう振り返っています。8月25日にデビューするようなあまり期待されていない新人だったからこそ、作曲の都倉俊一さんと二人、自由に作れて幸運だった、と。 二人が世に出たきっかけは、日本テレビの『スター誕生!』でした。静岡の同じ学校に通っていたミーとケイは、はじめフォークデュオとして歌っていた二人です。決勝大会での合格から、半年足らずでのスピードデビューでした。 デビュー曲の候補は二曲ありました。「ペッパー警部」と、B面になった「乾杯お嬢さん」。レコード会社の中では後者を推す声が強かったといいます。ところが阿久さんは「キャンディーズの七掛けではつまらない」と主張し、予定どおり「ペッパー警部」がA面に決まりました。 もしここで大人たちの多数決が通っていたら、私たちが小学校の校庭で踊っていたのは、まったく別の曲だったことになります。 土居甫さんの振り付けも、当時としてはかなり際どいものでした。両脚を大きく開くポーズが賛否を呼び、それがまた話題になる。奇抜な名前、奇抜な曲、奇抜な振り付け、そして季節はずれのデビュー。その全部が、結果としてプラスに転がりました。 「ペッパー警部」はオリコン週間4位、売上60万枚。出荷ベースではミリオンセラーとなり、その年の日本レコード大賞で新人賞を獲っています。期待されていなかった新人が、年末には賞をもらっていた。 小学1年生の夏、テレビは一台だった その8月25日、私は小学校に入学して最初の夏休みのまっただ中にいました。 あのころ、どこの家も親は忙しくしていました。昼間は近所の子どもたちだけで、プールに行ったり、路地で野球をしたり、めんこをしたり。放っておかれていたわけですが、退屈した記憶はまるでありません。 そして夕方からは、テレビが中心になります。 いまのように家に何台もテレビがある時代ではありませんでした。一台しかないのだから、家族全員で同じ番組を見るしかない。『8時だョ!全員集合』や『サザエさん』。何を見るかを選ぶ余地は、そもそもなかったのです。 正直に書いておくと、1976年当時の歌番組の記憶は、私にはありません。プロ野球中継すら、まだ見ていない年齢でした。 それでも「ピンク・レディー」という名前は、たぶんデビューのころから知っていたと思うのです。どこで知ったのか。おそらく『8時だョ!全員集合』ではなかったか——そう見当をつけて調べてみたら、当たっていました。 彼女たちは1976年9月4日、デビューからわずか10日後の土曜日に、『8時だョ!全員集合』で「ペッパー警部」を歌っています。そこから10月16日、11月6日と、その年のうちに三度も同じ曲で出ている。 つまり私は、歌番組ではなくドリフのコント番組の合間に、あの二人を見ていたことになります。歌謡曲に興味のない7歳の男の子の視界に、それでもピンク・レディーが入り込んできた理由は、たぶんこれです。家族全員で一台のテレビを囲む土曜の夜八時。あの時間帯の破壊力です。 9曲連続1位、そして300億円 1977年から1978年にかけての熱狂は、いま数字で振り返ってもよくわからないところがあります。 「S・O・S」から「カメレオン・アーミー」まで9曲連続でオリコン1位。「ペッパー警部」から数えれば10曲連続のミリオンセラー。1978年には「UFO」で日本レコード大賞、「サウスポー」で日本歌謡大賞。 そして1978年1月19日、TBSで『ザ・ベストテン』の放送が始まります。記念すべき第1回の第1位が「UFO」でした。しかも第1回から第3回まで、三週続けての1位です。 キャラクター商品は、年間300億円以上を売り上げたといわれます。衣料品、文房具、食器、自転車、食品。二人の姿がプリントされていないものを探すほうが難しいくらいでした。 当時のことを、阿久悠さんはこう書き残しています。家庭用のビデオがまだない時代、子どもたちはテレビの前にラジカセを置いて音を録り、振り付けをメモに書き取った。そして次の日、学校でみんなで練習する——。 私が『ザ・ベストテン』を録音するためにアイワのラジカセをテレビの前に構えるのは、これよりもう少し後のことです。けれど、やっていることはまったく同じでした。あの姿勢は、ピンク・レディーの時代に日本中の子どもが発明したものだったのかもしれません。 私は、ゴミ箱で「UFO」を覚えた さて、その振り付けの話です。 女の子たちが踊っていた光景は、はっきり覚えています。そして白状すると、私も「UFO」の振り付けを覚えました。男子のくせに、と言われそうですが、覚えてしまったのです。 ただ、私の場合は経路が少し違いました。テレビの前でメモを取ったわけでも、校庭で教わったわけでもありません。 当時、うちには金属製の筒型のゴミ入れがありました。その表面に、ご本人たちが踊る「UFO」の振り付けが、順番にぐるりとプリントされていたのです。 毎日、目に入る。何かを捨てるたびに目に入る。ゴミ箱のまわりを一周すれば、振り付けが最初から最後まで並んでいる。 覚えないほうが難しいと思いませんか。 いま思えば、あれこそが「キャラクター商品が年間300億円」の正体です。下敷き、ペンケース、文房具——ありとあらゆるものに、あの二人はついていました。子どもが手を触れるものの表面という表面が、ピンク・レディーで埋まっていたのです。 私はレコードを買ったわけでも、コンサートに行ったわけでもありません。ファンだったという自覚すらありません。 それなのに、振り付けを覚えている。 熱狂というのは、こういう形でも人に入り込むのだと思います。ファンでない子どもの家のゴミ箱にまで、あの二人はいたのですから。 「ペッパー警部」から解散までのシングルが、順番に入ったベスト盤があります。あの振り付けを思い出しながら聴くと、なかなか妙な気分になります。 ゴールデン☆ベスト ピンク・レディー コンプリート・シングル・コレクション「ペッパー警部」から「UFO」「サウスポー」「モンスター」まで、シングルを網羅した一枚。星4.4 Amazonで見る › 後楽園球場の、二つの日 私にとって後楽園球場は、巨人の球場です。それ以外の何物でもありませんでした。 その後楽園球場に、ピンク・レディーの絶頂と終わりが、両方とも刻まれています。 1978年の夏、後楽園球場でコンサートが開かれました。チケットを取れなかったファンが球場に殺到し、収拾がつかなくなりかけたため、急遽もう一日追加して二日間開催になったといわれています。真夏の夜のカーニバル、というやつです。 それからわずか3年後。 1980年9月1日に解散が発表され、1981年3月31日、同じ後楽園球場で解散コンサートが行われました。 その日は、みぞれ混じりの冷たい雨が降り続いていました。スタンドには空席が目立ち、観客動員は主催者発表で3万人。消防署関係者の証言では1万5000人程度だったともいわれます。1978年4月のキャンディーズの解散コンサートが超満員だったことと、しきりに比べられました。 かじかんだ手でマイクを握り、雨に打たれて歌う二人。しかも最後、涙を流して抱き合う場面まで、テレビの尺に収めるようディレクターに急かされたと伝わっています。 活動期間、4年7か月。 絶頂の球場と、みぞれの球場。同じ場所です。 ...

August 25, 2026

8月25日 ──「うどん一玉六円」の時代に三十五円。魔法のラーメンが、高砂の戸棚に届くまで|昭和の今日は何があった日?

8月25日は、即席ラーメン記念日です。 1958年、昭和33年のこの日、日清食品が「チキンラーメン」を発売しました。世界で最初に、商売として成り立ったインスタントラーメンです。 昭和33年といえば、私が生まれる十一年前。長嶋茂雄が巨人でデビューした年で、東京タワーがまだ完成していない年です。当然、この日の記憶はありません。 けれど、私が物心ついたころ——昭和四十年代の葛飾区高砂の、我が家の台所の戸棚には、もうそれが当たり前のように積んでありました。 生まれる前に始まっていて、生まれたときにはもう「昔からあるもの」の顔をしていた。インスタントラーメンというのは、私の世代にとってそういう存在です。 うどん一玉六円の時代に、三十五円 チキンラーメンを作ったのは、日清食品の創業者・安藤百福さんです。 発売のとき、四十八歳。四十七歳のときに、理事長を務めていた信用組合の倒産で築いてきた財産をほとんど失っています。無一文からの再出発でした。 きっかけは、戦後の大阪の闇市だったといわれます。屋台のラーメンに、寒空の下で人が行列を作っている。あれをもっと手軽に食べさせられないか——そう考えて、自宅の裏庭に小屋を建て、そこにこもりました。 つまずいたのは、麺の乾かし方でした。ある日、奥さんが台所で天ぷらを揚げているのを見て、ひらめきます。油の熱で水分を飛ばせばいい。こうして「瞬間油熱乾燥法」が生まれました。麺に味をつけ、蒸して、油で揚げる。今のチキンラーメンと、中身はほとんど変わりません。 そして昭和33年8月25日。 ところが、この商品はまったく歓迎されませんでした。 理由は値段です。85グラム入りで35円。当時、うどん玉ひとつが6円、普通の乾麺で25円という時代でした。国鉄の初乗りが10円、銭湯が16円。ラーメン屋で一杯食べるのと変わらない値段の袋麺を、誰が買うのか。しかも安藤さんは、二、三か月の手形が常識だった時代に、現金決済を要求しています。 問屋の主人たちは、そろって顔をしかめたそうです。 その日、大阪の問屋がひとつだけ、納入を引き受けてくれました。日清食品はのちにこの日を「ラーメン記念日」と定め、日本即席食品工業協会も8月25日を「即席ラーメン記念日」としています。つまりこの記念日は、大ヒットした日ではなく、やっと一軒だけが置いてくれた日なのです。 けれど、実際に食べた人たちの評判が、じわじわと広がっていきました。お湯をかけて二分(当時は三分ではありませんでした)で食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、やがて注文が殺到します。あれほど渋っていた問屋が、今度は「現金前払いでもいいから」と言ってくるようになった。工場の前に、仕入れのトラックが列を作ったといいます。安藤さんは後年、工場用地の代金を一か月分の売上でまかなえた、と語っています。 「中華そば」が「ラーメン」になった このチキンラーメンが、日本語をひとつ変えました。 それまで、あの食べ物は「支那そば」あるいは「中華そば」と呼ばれるのが普通でした。「ラーメン」という言い方が全国に広まったのは、商品名にその三文字が入っていたからだといわれています。 私たちが何気なく使っている「ラーメン」という言葉は、昭和33年8月25日に大阪の問屋に納められた、あの袋から来ている。そう考えると、少し不思議な気持ちになります。 ヒットには真似が続きます。似た即席麺が次々に出て、意匠権や特許の争いが激しくなり、食糧庁の指導で昭和39年に業界団体が作られました。昭和35年には森永製菓のインスタントコーヒーが出て、「インスタント」は流行語の筆頭になります。そして昭和46年、カップヌードル。アメリカへ売り込みに行った安藤さんが、丼のない向こうで現地の人が麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べているのを見た。そこから生まれた発想でした。 ——このあたりが、ようやく私の記憶に届く時代です。 うちの戸棚にあったのは、サッポロ一番しょうゆ味だった 正直に書きます。 即席ラーメン記念日の記事を書いておいてなんですが、我が家の戸棚にチキンラーメンが積んであった記憶は、ほとんどありません。 うちは、サッポロ一番しょうゆ味でした。 買っていたのは、高砂のイトーヨーカドーです。この連載でもう何度も出てきている、あの五階にボウリング場のあったヨーカドーです。母がまとめて買ってきて、台所の戸棚に積んでおく。それが我が家のラーメンでした。 サッポロ一番しょうゆ味の発売は、昭和41年1月。私が生まれる三年前です。作ったのは群馬・前橋のサンヨー食品で、もともとは乾麺の会社でした。 面白いのは、その会社が即席麺に乗り出したきっかけです。当時専務だった井田毅さんが、「関西でお湯をかけるだけで食べられる麺が流行っているらしい」と聞きつけた。それがチキンラーメンでした。井田さんは会社の方向を即席麺へ切り替え、全国で通用する醤油ラーメンを作ろうと各地を食べ歩いて、札幌のラーメン横丁で食べた一杯に感銘を受けます。そこから生まれたのが、サッポロ一番でした。 つまり我が家の戸棚にサッポロ一番が積んであったのも、もとをたどれば昭和33年8月25日に行き着くわけです。あの日、大阪の問屋が一軒だけ「置いてみる」と言わなければ、私が食べていた味も、たぶん存在しなかった。 ちなみにこのしょうゆ味は、長いあいだ関西より東を中心に売られていた商品だそうです。あの袋と、別添えの「特製スパイス」の小袋は、東日本の子どもの当たり前でした。 作ってくれていたのは、母でした。 そして父は、即席ラーメンを食べませんでした。 この連載で何度か書いてきたとおり、父は本当に休みのない人で、連休といえば正月の一日と二日だけ、という働き方をしていました。深夜に帰ってきて袋麺をすする父——そういう画は、私の記憶のなかにはありません。 いまも、あの袋はスーパーの棚にあります。別添えの「特製スパイス」も、あのままです。 サンヨー食品 サッポロ一番 しょうゆ味 5食パック 3個セット昭和41年1月発売。群馬・前橋のサンヨー食品が、札幌のラーメン横丁で食べた一杯から作り上げた醤油味。別添えの特製スパイス付き Amazonで見る › 小学六年生の鍋 インスタントラーメンは、多くの昭和の子どもにとって「生まれて初めて自分で作った料理」だったのではないでしょうか。 私の場合は、小学六年生でした。 鍋に水を入れて、火をつけて、沸くのを待って、袋を破って麺を落とす。そして、卵を落としました。最初から卵を入れているあたり、我ながら強気だったと思います。 思い返すと、親から「火を使うな」と言われた記憶がありません。危ないからやめなさい、とも言われなかった。台所に立って、ガスをひねって、鍋の前で三分待つ。それが小学六年生に許されていた家でした。 いまの感覚だと、少し驚かれるかもしれません。けれど当時は、たぶんどこの家もそうでした。学校から帰れば親は仕事か家事で手が離せず、子どもは自分の腹を自分で満たすのが普通だった。そのための道具として、袋麺が戸棚に積んであった。安藤さんが掲げた「手間がかからないこと」という条件は、昭和の子どもに台所を開放したのだと思います。 中学の夜と、高校の帰り道 中学に上がると、自分で作る回数が増えました。 試験勉強で夜更かしをする日です。夜中に腹が減る。母を起こすわけにもいかない。そういうとき、台所へ降りていって、自分で鍋に火をつける。 深夜のガスコンロの青い火と、鍋のなかで麺がほぐれていく音。家族が寝静まったあとの、自分ひとりの時間でした。あの夜を重ねるうちに、ラーメンは「作ってもらうもの」から「自分で確保するもの」に変わっていったのだと思います。 高校に入って野球部に入ると、今度は少し様子が変わります。 遠征試合の帰り。仲間数名で、決まって遠征先の最寄駅の近くのラーメン屋に入りました。試合に勝った日も、負けた日もです。学校での練習の帰りにも、馴染みの中華屋に寄って食べて帰ることがよくありました。 ...

August 25, 2026

【昭和の今日は何があった日?】8月24日──ヒット曲のないまま武道館に立った三人と、新キャプテンの夏

今日は8月24日。夏休みも残りわずか、カレンダーの数字が急に重たく見えてくる頃です。 1983年(昭和58年)のこの日、東京・九段下の日本武道館に、1万人が集まりました。ステージに立ったのは、THE ALFEE。桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の三人組です。 いまでこそ「武道館といえばアルフィー」ですが、この日はその一回目でした。しかもこの時点で、彼らには誰もが口ずさめるヒット曲が、一曲もなかったのです。 デビューから10年、まだ何者でもなかった THE ALFEEの結成は1973年。東京のある大学のキャンパスで出会った三人を中心に始まり、翌1974年8月25日、「夏しぐれ」でデビューしました。当時は四人組のフォークグループです。 しかし、デビュー曲は売れませんでした。翌年の2作目も不発。メンバーの一人が脱退して三人になり、3作目に予定していた曲は発売そのものが中止になります。これをきっかけにレコード会社との契約が切れ、所属レーベルのない状態でライブハウスを回る日々が続きました。 この時期、彼らは事務所の先輩である、かまやつひろしさん、由紀さおりさん、研ナオコさんのバックバンドを務めています。つまり、ステージの後ろで演奏する側にいたわけです。 余談ですが、『ザ・ベストテン』への出演も、自分たちの曲より研ナオコさんのバックとしての出演が先だったといいます。あの番組を毎週欠かさず見ていた身としては、なんとも言えない気持ちになる話です。私はきっと、画面の奥のほうにいた三人を、なんとも思わずに見過ごしていたはずですから。 1979年にキャニオンレコードから「ラブレター」で再デビュー。音楽性はフォークからロックへと少しずつ舵を切り、コンサートの動員力だけは日本のバンドでも屈指と言われるまでになっていきます。 それでも、代表曲がない。そういう10年でした。 チケットを売り出したときは、まだ売れていなかった そんな彼らが武道館を押さえたのが、1983年8月24日、水曜日です。公演名は「OVER DRIVE 1983 ALFEE 8-24 BUDOKAN」。 ここがこの話のいちばん面白いところなのですが──チケットの予約が始まった時点で、「メリーアン」はまだヒットしていませんでした。 「メリーアン」がシングルとして世に出たのは、この年の6月。本来はアルバム収録曲になる予定だった一曲です。それが発売後、じわじわと、そして夏に入ってから一気にチャートを駆け上がっていきました。 つまり武道館当日、この曲はちょうど坂を駆け上がっている最中だったのです。チケットを買った人たちは「まだ売れていないバンド」を見に行くつもりでいたら、いざ会場に着いてみると、そのバンドがまさに世に出ようとしている瞬間に立ち会うことになった。そういう夜でした。 演奏は、メドレーを含めて14曲。「トラベリング・バンド」で始まり、「誓いの明日」「SAVED BY THE LOVE SONG」「Musician」と続いて、5曲目に「メリーアン」。後半には「ジェネレーション・ダイナマイト」「See You Again」「ラジカル・ティーンエイジャー」「夢よ急げ」と、いまもライブの定番になっている曲が並んでいます。 そしてこの日、彼らは会場に来た1万人全員に、記念バッヂとプロモーションビデオを収録したビデオテープを配りました。売れていないバンドが、初めての武道館で、1万人分の土産を用意したのです。採算のことを考えたら、正気の沙汰ではありません。 この年の暮れ、THE ALFEEは『第34回NHK紅白歌合戦』に初出場します。8月にはまだ「ヒット曲のないバンド」だった三人が、大晦日にはお茶の間にいた。わずか四か月の出来事でした。 その夏、私は新キャプテンになったばかりだった その頃、私は何をしていたか。 中学2年、14歳。夏の大会が終わって3年生が引退し、新チームの最上級生になったばかりでした。そして私が、新しいキャプテンになりました。 これが、思っていたよりずっと難しいのです。昨日まで先輩の背中を見ていればよかったのが、急に自分の背中を見られる側になる。声のかけ方ひとつ、練習メニューの組み方ひとつ、何が正解なのかわからない。試行錯誤しながら、新人戦に向けて毎日グラウンドに立っていました。 だから8月24日の夜、九段下で1万人が沸いていたことなど、当然知りません。私はたぶん、日が暮れるまでノックを受けていたか、翌日の練習のことを考えて寝床に入っていたかのどちらかです。 音楽との付き合いは、テレビでした。『ザ・ベストテン』だけは、毎週きちんとチェックしていたと思います。ラジオでもレコードでもなく、あの番組が私にとっての音楽の窓でした。 「メリーアン」を初めて知ったのも、その窓の中です。記憶をたどると、ランキングの中ではなく「今週のスポットライト」で登場して歌っていたように思います。ランクインする前の曲を紹介するコーナーですから、まさにあの夏の、坂を駆け上がっている途中の姿だったのでしょう。 「メリーアン、メリーアン」と、曲名がそのまま呼びかけられるサビ。あれが耳から離れませんでした。中学生ながら、これはヒットするだろうな、と感じたのを覚えています。実際、その通りになりました。 そして武道館。当時の私にとって、あそこは行ったことのない場所でした。テレビの中でだけ見る場所。葛飾から九段下まで、電車に乗れば大した距離ではないはずなのに、子どもの感覚では、ずいぶん遠いところにあると思っていました。 あの夏の「メリーアン」も、その後の曲も、まとめて聴けるベスト盤が出ています。デビューから30年ぶんのシングルを37曲おさめたものです。 THE ALFEE 30th ANNIVERSARY HIT SINGLE COLLECTION 37デビュー30周年の記念盤。1974年のデビュー曲から順にシングル37曲を収録。「メリーアン」も入っています。星4.4 Amazonで見る › 42年、105回 あの1983年8月24日から、THE ALFEEの武道館公演は毎年続きました。翌1984年からは12月開催になり、2018年まで36年連続。12月23日にいたっては1984年から35年連続で、武道館の「史上最多同一日連続公演」の記録になっています。 通算公演数は、2025年12月の時点で105回。バンドとしては歴代1位です。コンサートの総本数は3000本を超えました。「メリーアン」以降、シングルは59作連続でオリコンのトップ10に入っています。1983年から途切れていない、ということです。 数字を並べていると、少し目がくらみます。けれど私が本当にすごいと思うのは、105回のほうではありません。1回目のほうです。 売れていない。ヒット曲がない。それでも武道館を押さえて、1万人を集めて、その1万人全員に土産を持たせて帰した。あの晩の三人は、まさか42年後にこんな数字になっているとは思っていなかったはずです。ただ、その日の一回を、めいっぱいやっただけでしょう。 続いたものというのは、たいてい、続けるつもりで始まったものではないような気がします。 続いたもの、続けてきたもの 正直に言うと、彼らと自分を重ねるつもりはありません。10年売れずに耐えたバンドと、葛飾で野球をやっていた中学生とでは、並べようがないからです。 ...

August 24, 2026