6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す

梅雨の走りの、少し湿った朝の空気を吸い込むと、私はなぜか古いカセットテープの匂いを思い出します。きょう六月九日は、六と九で「ロック」と読む語呂合わせから、「ロックの日」とされているのだそうです。音楽のロックを称える日。そう聞いただけで、私の頭の中では、もう何十年も前のテレビの歌番組のテーマ曲が鳴りはじめてしまうのです。 しかも六月九日は、昭和三十九年(一九六四年)生まれの薬師丸ひろ子さんの誕生日でもあります。私より五つ年上の、銀幕のスター。もっとも、その話はあとで正直に白状するとして――きょうはまず、昭和の子どもだった私が、どんなふうに音楽と出会っていったのかを書かせてください。 木曜の夜九時が、待ち遠しかった 歌番組といえば何かと問われたら、私は迷わず『ザ・ベストテン』と答えます。 昭和五十三年(一九七八年)に始まった、TBSの音楽番組。毎週木曜日の夜九時から、黒柳徹子さんと久米宏さんの司会で、その週のランキングを一位までカウントダウンしていく生放送です。私がまだ小学生の頃のことですが、とにかく木曜の夜九時が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。 そして翌日の金曜日。学校に行けば、まず友だちと「答え合わせ」です。何位だったか、誰がランクインしたか、自分の予想は当たったか。ひとしきり盛り上がったあとは、もう来週の予想を語り合っている。たかが歌のランキングに、よくもまあ、あれだけ夢中になれたものだと思います。 それに、私たちにとってベストテンは、観るだけでなく「録(と)る」ものでもありました。毎週、ラジカセをわざわざテレビの前まで運んできて、お気に入りの歌をカセットテープに録音するのです。録音するには、赤い録音ボタンと、それとは少し離れたところにある白い再生ボタンを、二つ同時にガチャッと押し込まなければなりませんでした。あの重たい手応えを、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 ところが、これがときどき失敗するのです。押し込みが甘かったのか、肝心のところが録れていなかった――そんな"やらかし"をした仲間がいると、金曜日の教室はもう大盛り上がり。順位の答え合わせと同じくらい、いや、ときにはそれ以上に、誰それの録音失敗談こそが、その週いちばんのごちそうだったのです。 なかでもダントツに覚えているのが、西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」です。何週にもわたって一位を独走したあげく、ついに得点が満点に達してしまった。レコードの売上も、有線のリクエストも、ラジオも、はがきも、ぜんぶが一位。その満点というのが、九千九百九十九点。番組の得点ボードは四桁までしか表示できませんでしたから、子ども心にも「これ、表示する数字が足りないじゃないか!」と大騒ぎしたものです。9がずらりと並んだあの数字の壮観は、いまでも目に焼きついています。両手で「Y・M・C・A」とやる振り付けを、教室のみんなで真似していたのも、ちょうどあの頃でした。 もうひとつ忘れられないのが、めったにテレビに出ない歌手が出演するとなったときの騒ぎようです。たとえば松山千春さん。「テレビは出るもんじゃなく、見るものだ」という考えで、長らく出演を断っていた人でした。その千春さんがベストテンに出るらしい――そんな話が伝わってくると、私たちはもう大興奮、大騒ぎでした。ところが不思議なことに、これだけ騒いだのですから本番を見逃すはずがないのに、いざ放送を見た瞬間の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのです。残っているのは、その前のソワソワした昂(たかぶ)りばかり。当日の私は、興奮しすぎて、かえってぼうっとしていたのかもしれません。 そして、ランキングの数字とはまた別に、私の胸に深く刻まれているコーナーがあります。「今週のスポットライト」です。久米さんが独特の"ため"をきかせて「今週の……スポッ……トライト!」と読み上げる、その週の注目曲をお披露目する枠でした。 あれは小学生の頃です。そのスポットライトに、ゴダイゴというグループが登場して、「ガンダーラ」という曲を歌いました。ゴダイゴって何だ? ガンダーラって何だ? 名前からして、何もかもが分からない。頭の中は「???」でいっぱいでした。けれど――そのよく分からなさを吹き飛ばすように、「ガンダーラ、ガンダーラ」と繰り返されるあの旋律が、たった一度聴いただけで、私をすっかり虜(とりこ)にしてしまったのです。早く、もう一度あれが聴きたい。子どもにそう思わせるほど、その一曲は強烈でした。のちに、あれが日本テレビのドラマ『西遊記』の歌だと知るのですが、私にとっての「ガンダーラ」は、ドラマよりも先に、あのスポットライトの一瞬から始まったのでした。 ランキングの頂点で満点に輝く曲があり、めったに姿を見せない人がいて、そして、まだ誰も知らない才能がそっと照らし出される。一つの番組の中に、音楽との出会いのぜんぶが詰まっていたように思います。 フォークから、ロックへ 私が物心つく前、世の中ではフォークソングが鳴っていました。ギター一本で、自分のことばを歌う。少し上の世代のお兄さん、お姉さんたちが夢中になっていた音楽です。 それが、私が小学校から中学、高校へと上がっていくにつれて、少しずつ景色が変わっていきました。フォークがニューミュージックと呼ばれるようになり、やがてバンドの音が前に出てくる。私が高校生だった昭和六十年代の半ばには、エレキギターをかき鳴らすバンドが、すっかり時代の主役になっていました。のちに「バンドブーム」と呼ばれる、あの熱気の入り口です。自分の聴く音楽が、上の世代から受け継いだものではなく、「自分たちの世代のもの」に変わっていく。その手触りを、ちょうど多感な時期に味わえたのは、いま思えば幸せなことだったのかもしれません。 レコード、貸しレコード屋、そしてエアチェック とはいえ、子どもにとって音楽は、そう簡単に手に入るものではありませんでした。 レコードは高い。アルバム一枚が、子どものお小遣いではなかなか手の届かない値段です。そんな私たちの強い味方が、貸しレコード屋でした。昭和五十五年(一九八〇年)ごろから街に増えていったあの店で、聴きたいアルバムを借りてきて、家でカセットテープに録(と)る。一枚分の値段で、何枚分もの音楽を自分のものにできた気がしたものです。 そして、もうひとつの方法が「エアチェック」。ラジオの、とくにFM放送で流れる曲を、ラジカセで録音するのです。FMの番組表が載った雑誌をめくって、お目当ての曲がかかる時間に印をつけ、その時刻になったら録音ボタンに指をかけて待ち構える。曲の頭が切れないように、DJのおしゃべりが終わる呼吸を読んで、そっとボタンを押す。そうやって自分だけの一本を編んでいくのが、たまらなく楽しかった。 テープが擦り切れるまで聴いた、あの一本。きっと皆さんにも、それぞれの「あの一本」があるのではないでしょうか。 そういえば、カセットテープは令和のいまも、ちゃんと売られています。あの頃と同じmaxellの録音用テープ。手元のラジカセがまだ動くなら、もう一度「自分だけの一本」を編んでみるのも、いいかもしれません。 maxell 録音用カセットテープ 46分 11本パックあの頃と同じノーマルポジション。音楽の録音に Amazonで見る › 私のアイドルは、河合奈保子から中森明菜へ さて、冒頭の薬師丸ひろ子さんの話です。 正直に言うと、私はそれほどの映画少年ではありませんでした。だから薬師丸さんも、私にとっては「そうそう、いたいた」という感じの存在で……熱心なファンの方には、本当に申し訳ないのですが。映画館のスクリーンよりも、私の目はもっぱらテレビの歌番組のほうを向いていたのです。 その歌番組の中で、私の心を占めるアイドルは、ちょうど移り変わっていく時期にありました。明るくて健康的な河合奈保子さんから、どこか翳(かげ)りのある大人びた中森明菜さんへ。ちょうど私が中学に上がるころのことだったでしょうか。いま思えば、自分が子どもから少年へと背伸びをはじめた時期と、好みの移りゆきが重なっていたのかもしれません。アイドルの趣味というのは、その人がどんな子どもだったかを、案外正直に映してしまうものなのですね。 令和の今、思うこと いまは、聴きたい曲があれば、スマートフォンで指を一本動かすだけで、世界中の音楽がすぐに鳴り出します。ランキングを来週まで待つこともなければ、貸しレコード屋に走ることも、録音ボタンの前で息を殺すこともない。歌いたくなれば、カラオケに行けばいい。……そういえば、ベストテンに夢中だったあの頃、カラオケボックスなんてまだありませんでした。覚えたての歌を、私たちはいったいどこで歌っていたのでしょうね。お風呂場でしょうか。(笑) 便利になりました。本当に、便利になったと思います。ただ、いま思うのは、あの頃は国じゅうのみんなが、たった一つの番組を囲んで、いっせいに盛り上がっていたのだということです。木曜の夜、同じ時間に、同じランキングに、一喜一憂する。翌日の教室で、その話で誰とでも通じ合える。九千九百九十九点に日本じゅうが沸く、なんていう一体感は、音楽の聴き方が一人ひとりのものになった今では、なかなか味わえないものかもしれません。 皆さんにとっての「歌番組」といえば、何でしたか。木曜の夜、テレビの前で順位を待ったあの時間に、どんな曲が流れていたでしょうか。よかったら、聞かせてください。 この記事は「昭和の今日は何があった日?」シリーズの一編です。昭和四十年〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の「きょう」にあった出来事を、当時子どもだった私の目線で、ゆっくりと振り返っています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた | 次の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う ▶

June 9, 2026

6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた

梅雨入りの近い六月の朝。地上は今にも降り出しそうな鈍色(にびいろ)の空でも、地下鉄のホームへ降りてしまえば、雨も風も関係のない別世界がひろがっています。少しだけ埃(ほこり)っぽくて、生暖かい風がトンネルの奥からふわりと吹いてくる、あの感じ。きょう六月八日は、その地下鉄にまつわる、私のちょっと不思議な思い出の話をさせてください。 私にとっての「地下鉄」は、都営浅草線だった 私は京成高砂のあたりで育ちました。だから私にとって「地下鉄」というと、まっさきに思い浮かぶのは、都営地下鉄浅草線です。 高砂の駅から電車に乗って出かけるとき、行き先にはおおきく二つの方向がありました。ひとつは、京成上野のほう。もうひとつは、押上を抜けて都営浅草線へと入っていく、浅草のほうです。同じ高砂発の電車でも、上野へ向かうときと、浅草方面へ向かうときとでは、子どもながらに、何か明らかに違うものを感じていました。 上野方面が、どこか馴染みのある、地つづきの世界だとすれば、浅草方面は——その先で、ほかのいくつもの地下鉄の線と複雑に絡み合っている、「難しい」世界でした。日本橋だ、新橋だと、聞いたこともない乗り換えの駅がいくつも連なっていて、子どもの私には、その入り組んだ様子が、どうにも手に負えないものに見えたのです。 それでも、退屈はしませんでした。車両のなかに貼られた、いくつもの地下鉄の線が色とりどりに描かれた路線図。あれを眺めているだけで、目的の駅に着くまでの時間は、あっという間に過ぎていったのです。見たこともない駅の名前をひとつひとつ目で追いながら、「ここには、いったいどんな町があるのだろう」と、私は飽きもせず想像をふくらませていました。 いま思えば、そんな路線図の中に、あの黄色い線も、きっとあったはずです。行ったこともなければ、乗ったこともない。ただ眺めて、その先の町を空想するだけの、一本の線として。 昭和六十三年六月八日、黄色い線が全部つながった その黄色い線が、ついに端から端までひとつながりになったのが、昭和六十三年(一九八八年)の六月八日でした。 この日、営団地下鉄有楽町線の新富町〜新木場間が開業し、和光市から新木場までの全線、二十八・三キロが開通したのです。昭和四十九年(一九七四年)に池袋〜銀座一丁目の区間が開業してから、実に十四年越しの全線開通でした。ラインカラーは、あの黄色。湾岸の埋め立て地・新木場までが、一本の線でようやく都心と結ばれた瞬間でした。 そういえば、この「有楽町線」という名前そのものが、公募で決まったものだと知ったのは、ずっとあとのことでした。開業の前の年、営団地下鉄が路線名を広く一般から募ったところ、二千五百を超える案、三万通あまりもの応募が寄せられたのだそうです。そのなかでいちばん多かったのが「有楽町線」だった。子どものころ、あの黄色い線をただ眺めていた私には、線の名前ひとつにも、どこかの誰かの「こう呼びたい」という思いがこもっていたなんて、思いもよらないことでした。 終点の「新木場」という地名も、考えてみれば面白いものです。もともと江東区には材木商が集まる「木場」という街がありました。その木材の街が、手狭になった都心から湾岸の埋め立て地へと移ってできたのが「新しい木場」、すなわち新木場なのです。当時はまだ、貯木場の水面と倉庫が広がる、発展のこれからという土地でした。そこへ地下鉄が一本通った。海の近くの埋め立て地にまで、都心の地下鉄が手を伸ばしてきたのです。 このとき、私は十九歳。昭和という時代も、いよいよ最後の年に差しかかっていました。正直に言えば、私はこのニュースを、たいして気に留めていませんでした。都営浅草線には親しんでいた私にとっても、有楽町線は、子どものころ車内の路線図でただ眺めていた、あの「行ったこともない一本」のままだったのです。 そしてこの黄色い線には、もうひとつ、私がのちのち驚かされることになる仕掛けがありました。西の端の和光市では、東武東上線と線路がつながっていて、電車はそのまま相手の線へと乗り入れていく。新木場を出た電車が、乗り換えなしで、はるか埼玉の森林公園のほうまで走っていくのです。この「乗り換えなし」という何でもない事実が、それから十数年後、思いがけず私の胸を打つことになります。 新木場で気づいた、母へ続く一本の線 時は流れ、私は三十代になっていました。縁あって佐川急便に勤め、配属されたのが、よりによって、あの新木場の営業所だったのです。 そう、昭和六十三年にようやく全線がつながった、あの有楽町線の終着駅です。十九歳の私が聞き流していた街に、まさか自分が毎日通うことになるとは、思ってもみませんでした。荷物に追われる日々のなかで、新木場という地名が、かつてニュースで聞いた「全線開通」の終点だったことなど、すっかり忘れていました。 朝早くから、トラックが何台も出入りし、伝票の束と荷物の山に追われる毎日でした。湾岸の埋め立て地は海の風が強く、冬はことさら冷えました。それでも昼休みにふと外へ出ると、すぐそこまで水辺が迫っていて、ここはやっぱり海を埋め立ててできた街なのだな、と妙に納得したものです。子どものころ路線図の上で眺めていた「新木場」という三文字の終点に、まさか自分が毎朝、汗をかきながら立っているとは——人生というのは、つくづく分からないものです。 ある日のこと。新木場駅に掲示されていた路線図を、何の気なしに眺めていて、私はふと手が止まりました。 「この線……一本で、川越まで行けるのか」 当時、母は川越に住んでいました。新木場から有楽町線に乗れば、和光市で東武東上線へとそのまま乗り入れ、川越まで、乗り換えなしでたどり着いてしまう。あの、子どものころ車内の路線図で眺めては「どんな町だろう」と空想していた黄色い線の、ずっと先に、母の暮らす街がつながっていた。気づいた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなったのを覚えています。 実際に私は、数えるほどではありますが、仕事を終えたその足で、職場から川越の母のもとへ向かったことがあります。東京湾の埋め立て地にある終着駅と、小江戸と呼ばれる川越の母の家。一見すると何の関わりもない二つの場所が、一本の黄色い線でまっすぐに結ばれている。揺られていく車内で、私は妙な感慨にとらわれていました。 窓の外を流れていく景色が、地下のトンネルから、やがて地上の住宅街へと変わっていく。海辺の終着駅を出た電車が、いつのまにか埼玉の街並みを走っている。その車窓の移り変わりそのものが、新木場と川越という遠く離れた二つの場所が、確かにひと続きの土地なのだと、目で教えてくれているようでした。 十九歳のとき、私が気にも留めなかったあの全線開通。それが巡り巡って、三十代になった私と、母とを結ぶ一本の道になっていた。子どものころ車内の路線図を眺めて「どんな町だろう」と空想していた黄色い線は、ずっと先のずっと先で、ちゃんと私自身の暮らしへとつながっていたのです。眺めるだけだったあの線に、いつのまにか私は、毎日乗っていた。 令和の電車は、もっと遠くまでつながっている あれから、東京の鉄道は、ますます複雑に、そして遠くまでつながりました。 いくつもの路線が互いに乗り入れ、横浜のずっと向こうから都心を抜け、さらに別の県へと、一本の電車が県境をいくつも越えて走っていく。今では、それが当たり前の風景です。手元のスマートフォンに行き先を打ち込めば、最短の経路が一瞬で表示される。乗り換えの回数も、何分後に着くかも、すべて画面が教えてくれます。私の子どもたちは、私のように路線図とにらめっこして、見知らぬ駅名に空想をふくらませることも、もうないのかもしれません。 便利になったぶん、あの新木場での小さな驚き——「この線、母までつながっていたのか」というあの感覚は、いまではかえって味わいにくくなった気もします。経路を教えてくれる矢印は、たしかに便利です。けれど、地図の上の一本の線が、いつのまにか自分の大切な人へとまっすぐ続いていたと気づく、あの胸の奥がふっと温かくなる驚きまでは、運んできてはくれないのですから。 地図の上のただの一本の線が、めぐりめぐって、自分の大切な人へとつながっている。そんなことに気づく瞬間が、人生にはときどき、ふいに訪れるのですね。 あなたの暮らしの地図にも、知らないうちに、誰かと自分とを結んでいた「一本の線」は、ありませんか? 「昭和の今日は何があった日?」は昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で掘り起こすエッセイシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと | 次の記事:6月9日 ── ロックの日に、木曜九時のザ・ベストテンを思い出す ▶

June 8, 2026

雨の御茶ノ水、人の手が掘った谷を走る

東京ドームでの応援を終えて外に出ると、空は薄墨色で、小雨がぽつぽつと落ちていた。傘をさすほどでもない。こういう日は、いっそ走り出してしまったほうが気持ちがいい。 水道橋から神田川沿いに出る。川は深い谷の底を流れていて、両岸の石垣は一面、蔦と夏草に覆われている。梅雨どきの緑は、晴れた日よりもずっと濃い。雨に濡れて、葉の一枚一枚が光っているように見えた。 谷の底を、電車がすれ違う 御茶ノ水のあたりまで来ると、谷はいよいよ深くなる。眼下を中央線のオレンジと総武線の黄色がすれ違い、特急が静かに滑り込んでいく。崖の上には順天堂の新しいタワーや、ガラス張りのビルが並ぶ。電車と、川と、高層ビルが、ひとつの画面の中に層になって重なっている。東京でもなかなか出会えない景色だ。 ここに来るといつも、ひとつ不思議に思うことがある。 ——この谷は、自然にできたものではない。 四百年前、誰かが山を割った 実はこの渓谷は、四百年前に人の手で掘られたものだ。もともとここには神田山と呼ばれる台地(今の本郷台地)があった。江戸の洪水対策と外堀づくりのために、その台地を真っ二つに掘り割って川を通した。元和六年(1620)、徳川秀忠の命を受けて工事を担ったのが、仙台藩の伊達政宗。だからこの区間は今も「仙台堀」と呼ばれている。のちに四代藩主・綱村が川幅を広げ、おおよそ今の姿になった。 スコップも重機もない時代に、山を割って谷をつくる。雨に濡れた石垣をのぼる蔦を見上げながらそのことを思うと、足が少し止まってしまう。 聖橋にも、昭和が残っている 谷に架かる聖橋も、由来をたどると面白い。あの優美なコンクリートのアーチ橋は、昭和二年(1927)、関東大震災からの復興事業として架けられたものだ。設計は当時まだ若かった建築家・山田守。「聖橋」という名前は公募で決まったもので、両岸に建つ湯島聖堂とニコライ堂、二つの「聖堂」を結ぶことに由来している。 江戸の土木、昭和の復興、そして令和のガラスのビル。この谷の上では、ぜんぶの時間が一度に見えてしまう。 走る速さは、気づくための速さ 走るというのは、こういう景色とすれ違うためにちょうどいい速さなのかもしれない。車では速すぎて、歩きでは少し遠い。雨の日にゆっくり走っていると、いつもなら通り過ぎてしまう「誰かの手仕事」に、ふと目が留まる。 このあと湯島の坂を上がって、上野へ。京成上野の駅前で足を止めたころには、雨はほとんど上がっていた。四キロちょっとの、寄り道だらけの観光ラン。記録はたいしたことないけれど、四百年と昭和とをまたいで走った気がして、なんだか少し得をした気分になった。

June 8, 2026

6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと

六月の朝、まだ薄曇りの空を見上げると、私はなぜか甲子園の照明を思い出します。きょう六月七日は、昭和の野球少年だった私にとって、忘れられない大記録が生まれた日なのです。 昭和六十一年(一九八六年)六月七日。甲子園球場での阪神戦で、広島東洋カープの衣笠祥雄が、日本プロ野球史上初の「二〇〇〇試合連続出場」を達成しました。当時の衣笠は三十九歳。少年のころから「鉄人」という言葉とともに私の記憶に住みついている、あの背番号3の人です。 ただ、正直に白状すると——私はこの「二〇〇〇試合」という数字を、その当時、たいして凄いとは思っていませんでした。そのことも含めて、きょうは衣笠という人の話を書かせてください。 赤ヘルの黄金期を支えた男 衣笠が広島カープに入ったのは昭和四十年(一九六五年)。京都の平安高校では捕手として甲子園に二度出た選手でしたが、プロでは内野手に転向します。地道な練習でレギュラーをつかみ、やがて四番の山本浩二と組んで「YK砲」と呼ばれる二枚看板になりました。 昭和五十年(一九七五年)、それまで万年Bクラスと言われ続けてきた広島カープが、球団創設から二十六年目にして、ついに初めてのリーグ優勝を果たします。あの「赤ヘル旋風」の主力打者が、衣笠でした。しかも脚も速く、昭和五十一年には盗塁王のタイトルまで獲っている。ホームランも打てば、走れもする。そういう派手さも、ちゃんと持った選手だったのです。 だからこそ、その衣笠が「鉄人」という、どこか地味で武骨な異名で呼ばれ続けたことには、れっきとした理由があります。 「鉄人」を決定づけた、たった一打席 衣笠がなぜ「鉄人」と呼ばれたのか。それを語るとき、どうしても外せない一日があります。二〇〇〇試合よりも、ずっと前。昭和五十四年(一九七九年)八月一日のことです。 実はこの年、衣笠は野球人生でも指折りのスランプに苦しんでいました。打率は一時、二割を切るところまで落ち込んだ。連続フルイニング出場というもうひとつの記録が懸かっていたのに、五月にはとうとう先発を外され、その記録は途切れてしまいます。それでも代打で出場して、連続試合出場のほうは何とかつなぎ続けていた。大記録が、細い糸でかろうじて保たれていた。そんなときの出来事でした。 広島市民球場での巨人戦。マウンドにいた巨人の西本聖の投球が、衣笠の背中を直撃しました。倒れ込む衣笠。直後に両軍入り乱れての大乱闘になったというのですから、球場は相当な騒ぎだったのでしょう。病院に運ばれた衣笠は、左の肩甲骨を骨折していました。全治二週間。普通なら、長期欠場です。当然、医師は出場を止めました。このとき連続試合出場は千百二十二試合。十年近く積み上げてきた記録が、ここで途切れてもおかしくなかった。 ところが、です。 翌二日の試合、衣笠は代打で打席に立ちました。骨折した体で、バットを持って。相手は、あの怪物ルーキー・江川卓。結果は三球三振でした。けれど衣笠は、その三球すべてをフルスイングした。ヘルメットが飛ぶほどの、本気の空振りだったといいます。 衣笠が代打で姿を見せた瞬間、広島ファンだけでなく、巨人ファンも、そして巨人のベンチからまで、大きな拍手が起きたそうです。敵も味方もない。野球を見ている人間なら、誰だってあの場面には胸を打たれたはずです。 試合後、衣笠が残した言葉が、また、たまらない。 「一球目はファンのために、二球目は自分のために、三球目は西本君のためにスイングしました」 そして、こう付け足したそうです。「それにしても江川君の球は速かった」。 ぶつけた西本を責めるどころか、「西本君のために振った」と言う。痛みに耐えて立った打席の話なのに、最後はちゃんと笑える。かっこよすぎませんか。この一打席がなければ、連続試合出場記録はあの夏で終わっていたのです。 一万八千日を、休まなかった 衣笠の連続試合出場は、昭和四十五年(一九七〇年)十月十九日に始まり、昭和六十二年(一九八七年)十月二十二日まで続きました。最終的な記録は、二二一五試合。 十七年間、ただの一試合も休まなかった。 数字にすればたった四文字ですが、これがどれほど常軌を逸したことか。十七年といえば、生まれた赤ん坊が高校を卒業してしまう年月です。その間ずっと、デッドボールを受けても、熱があっても、打てない日が続いても、衣笠はグラウンドに立ち続けた。冒頭で触れた骨折の翌日でさえ休まなかった人ですから、ほかは推して知るべしでしょう。 ゲーリッグを超えた日 二〇〇〇試合到達の翌年、昭和六十二年(一九八七年)の六月。ちょうど私が高校最後の年を過ごしていたころ、衣笠はさらに信じがたい場所までたどり着きます。 大リーグの伝説の名選手ルー・ゲーリッグが持っていた、連続出場二一三〇試合という世界記録。それを、衣笠は抜いてしまったのです。万年Bクラスと言われた広島の、ひとりの内野手が、海の向こうの「不滅」と言われた記録を更新した。その年、衣笠は国民栄誉賞を受けました。背番号3は、いまもカープの永久欠番です。 高校球児だった私には、地味に見えていた さて、ここで最初の白状に戻ります。 昭和六十一年に衣笠が二〇〇〇試合に到達したとき、私は高校で野球をやっていました。来る日も来る日も白球を追いかけていた、いっぱしの球児のつもりでした。 その私の目に、「連続試合出場記録」というのは、どうにも地味に映っていたのです。 ホームランの数なら、わかる。打率なら、わかる。奪三振や勝ち星なら、誰が見たって凄い。でも「休まず出続けた試合の数」と言われても、当時の私は「ふうん、よく休まなかったね」くらいの感覚でしか受け止められなかった。派手なヒーローに憧れる十代の球児には、その地味さの奥にある凄みが、まるで見えていなかったのです。 自分が毎日グラウンドに立っていたからこそ、かえって「出続けること」を当たり前のように思っていたのかもしれません。若いというのは、そういうことなのでしょう。 いま思えば、あのころの私が憧れていたのは、一本のホームランで試合をひっくり返すような、わかりやすい英雄でした。一球、一打席で景色がガラリと変わる。その鮮やかさに、しびれていた。地道に毎日出続けるという、目立たない凄みのほうに目が向くには、私はまだ若すぎたのです。 その凄さに気づいたのは、ずっと後だった 私が衣笠の記録の本当の重さを知ったのは、それから二十年以上もたってからでした。 きっかけは、金本知憲です。広島から阪神へ移り、衣笠と同じように「鉄人」「アニキ」と呼ばれ、毎日フルイニングで出続けた、あの金本。けがをしてもグラウンドに立ち続けるその姿は、まさに衣笠の再来のようでした。誰もが「この男なら、いつか衣笠を抜くかもしれない」と思った。 ところが、その金本ですら、連続試合出場は千七百六十六試合で止まりました。 衣笠の二二一五試合には、四百試合以上も届かなかった。フル出場をひとつの誇りとして生きた、現代の鉄人。その金本が、これほど積み上げてなお、あの数字に手が届かない。そのことを知ったとき、私はようやく、背筋が寒くなるような思いで理解したのです。 ああ、衣笠のあの記録は、そういう次元の話だったのか、と。 高校球児だった私が「地味だ」と切り捨てていたものは、実は、人ひとりの選手生命をまるごと賭けても並べるかどうか、という途方もない金字塔だった。地味どころか、いちばん真似のできない記録だったのです。 派手なホームランは、調子が良ければ誰にでも飛ぶ瞬間があります。けれど「休まない」は、調子が悪い日にこそ問われる。打てない日も、痛い日も、それでも立つ。その地味の積み重ねだけが、二二一五という数字になる。 衣笠が現役を退いてから、もうすぐ四十年。あの二二一五試合は、令和のいまも破られていません。誰も、まだそこへたどり着けずにいるのです。 休まないことの、静かな凄み 考えてみれば、これはグラウンドの上だけの話ではない気がします。 派手な成果ではなく、ただ毎日、当たり前の顔をして同じ場所に立ち続ける。昭和という時代には、そういう「休まない大人」が、あちこちにいました。子どもの私は、その背中を見ても、当時は何とも思わなかった。衣笠を地味だと感じていたのと、たぶん同じことです。 凄さに気づくのは、いつだって、ずっとあとになってから。きょう六月七日、甲子園で二〇〇〇という数字が灯った日に、私はそんなことを思い返しています。 思えば、こうして昭和の一日一日を掘り起こす文章を書いていると、当時は素通りしてしまった出来事の値打ちに、いまさらながら気づかされてばかりです。衣笠の二〇〇〇試合も、まさにその一つでした。地味だと感じていたものほど、何十年もたってから、じわりと効いてくる。あのころの自分に「お前が地味だと思っているそれが、いちばん凄いんだぞ」と教えてやりたいような、そんな気分にもなります。 みなさんには、若いころは「地味だ」と思っていたのに、年を重ねてから「あれは凄いことだったんだ」と気づいた人や出来事は、ありませんか。よかったら、聞かせてください。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報 | 次の記事:6月8日 ── 新木場から川越へ、一本の線がつないでいた ▶

June 7, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報

六月六日になりました。 この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。 この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。 なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。 それが――「光化学スモッグ注意報」。 今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。 テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句 小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。 「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」 子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。 「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」 スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。 晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。 「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私 ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。 私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。 ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。 それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。 抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。 むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。 あの白い空の、ほんとうの正体 では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。 ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。 おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。 日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年(一九七〇年)七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。 そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年(一九七二年)の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。 注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年(一九七三年)にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。 当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。 高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。 令和の子どもたちには、別の言葉が ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。 車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。 その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。 もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。 あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。 みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。 また明日、別の「今日」でお会いしましょう。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に | 次の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと ▶

June 6, 2026

「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に

六月五日は「環境の日」です。世界では「世界環境デー」と呼ばれています。一九七二年のこの日、スウェーデンのストックホルムで「国連人間環境会議」というものが開かれた。それにちなんで定められた日なのだそうです。……と書くと、ずいぶんとお堅い話に聞こえますね。 正直に言えば、子どもの頃の私にとって「環境」などという言葉は、どこか遠い、大人の世界の言葉でした。学校で「公害」と一緒に教わったような、なんだか難しくて、自分の暮らしとはつながらない言葉。 でも今日は、その「環境」という言葉が、私の中でずっと一羽の鳥と結びついている、という話をさせてください。トキの話です。 四十年前の、小さな夕刊記事 ちょうど四十年前、昭和六十一年の今日――一九八六年六月五日の新聞の夕刊に、小さな、けれどどこか胸の奥がしんとするような記事が載りました。見出しはこうです。「雌のアオ死ぬ 残るのは二羽」。 アオというのは、佐渡で大切に守られていたトキの名前でした。鳥に一羽ずつ名前がついている。それだけでも、どれほど大事に、まるで家族のように見守られていたかが伝わってきます。 繁殖の望みが、また一つ消えた。残されたトキは、もう二羽だけ。一羽、また一羽と減っていく、その静かなカウントダウンの一コマだったのです。 この時、私はもう十七歳になっていました。けれど、この夕刊の記事をリアルタイムで読んだ記憶は、実は私にはありません。私の「トキ」の記憶は、もっと前の、もっとぼんやりとしたところにあるのです。 テレビから流れてきた「トキ」 子どもの頃、夕方のテレビから、ときどき「トキ」という言葉が流れてきました。たいていはニュースの時間です。そして決まって、その後ろには「絶滅の危機」という言葉がくっついていました。 正直なところ、意味はよく分かっていませんでした。佐渡という島がどこにあるのかも知らない。ピンクがかった白い羽の鳥なんて、もちろん見たこともない。葛飾の、東京の二十三区でも東のいちばん端っこに住んでいた子どもにとって、トキはどこまでも縁のない存在でした。 だから私の中のトキは、鳥というより「言葉」だったのです。「トキは佐渡に数羽だけいて、どうやら、もうすぐいなくなるらしい」。理解していたのは、それくらい。あとはただ、ぼんやりとした寂しさの気配だけが残りました。 夕飯前のあの時間、テレビでは六時五十分からドラえもんが始まる。明るくて、にぎやかで、楽しい。けれど、その前のニュースの時間にときおり顔を出す「トキ」という言葉だけは、なぜか少しうつむいた、ひんやりとした響きをしていました。同じ茶の間のテレビから流れてくるのに、まるで別の色をしている。子ども心にも、「これはあまり楽しい話ではないらしいぞ」という空気は、ちゃんと伝わってきたのです。 あの頃、テレビからは「絶滅」という言葉が、いろいろな生きものの名前とくっついて、ときどき流れてきました。けれど不思議なもので、その多くは右から左へ抜けていったのに、「トキ」だけは、なぜか妙に耳に残りました。短くて、やわらかくて、口にしやすい名前だったからかもしれません。あるいは、ニュースを読む大人たちの声が、その言葉のときだけ、ほんの少し沈んで聞こえたからかもしれません。理屈ではなく、「大事なものが、手の届かないところで静かに終わろうとしている」という感じ。子どもは、案外そういう気配だけは、敏感に受け取ってしまうものです。 「日本の日本」という名の鳥 大人になってから知ったことですが、トキの学名は「ニッポニア・ニッポン(Nipponia nippon)」というのだそうです。日本の、日本。これほど日本という国を背負わされた名前の鳥も、なかなかいないでしょう。 その「日本の日本」が、なぜ消えていったのか。 明治のころから、美しい羽や肉を目当てに、トキはさかんに捕られました。さらに戦後、田んぼに強い農薬がまかれるようになると、トキが食べていたドジョウやカエル、小さな生きものたちが姿を消していきます。餌そのものが、田んぼから失われていったのです。 そして、私が今回いちばん胸を打たれた一羽がいます。「能里(のり)」という名のトキです。 一九七〇年(昭和四十五年)の一月、本州で最後の一羽となっていたトキが、石川県の穴水町で捕獲されました。それが能里でした。これ以上、本州の野生で生き延びることはできない。せめて繁殖のためにと、佐渡へ移されることになったのです。 移送に携わった地元の方が、のちにこう振り返っています。何としても無事に送り届け、長生きさせたい。そう祈るような気持ちで、車に同乗して県境まで運んだ、と。けれど能里は、翌年の春に死んでしまいました。そして解剖をしてみると、その小さな体には、農薬と水銀が残っていたといいます。 田んぼを追われた鳥の体に、田んぼの毒が残っていた。これほど切ない話が、あるでしょうか。 その方は穴水町の生まれで、子どもの頃は、家のすぐそばの神社の境内から、毎日のようにトキが空を舞う姿を見上げていたそうです。ピンク色の羽がきれいで、身近で、大切な存在だった、と。 つまり、ほんの一世代前には、トキは「あたりまえに空にいる鳥」だったのです。それが、私が子どもの頃には、もう「テレビの中の、消えかけた言葉」になっていた。たった数十年の間に、あたりまえに見上げていたものが、一羽ずつ、名前と寂しさだけを残して空から消えていった。そういうことだったのだと、今になって分かります。 カウントダウンの、その先 一九八六年にアオが死んで、残るは二羽。あの夕刊が伝えた静かなカウントダウンは、その後も止まりませんでした。 一九九五年(平成七年)には、ミドリという一羽が死にます。残されたのは、キンというトキ、ただ一羽だけ。日本で生まれた、最後のトキです。 そして二〇〇三年(平成十五年)の秋、そのキンも、佐渡のケージの中で静かに息を引き取りました。推定で三十六歳。鳥としては、たいへんな長寿だったといいます。新聞各紙は、大きな見出しで「日本産のトキは絶滅した」と報じました。 このときには、私もすっかり大人になり、自分の子どもを抱える父親になっていました。子どもの頃、夕方のテレビからぼんやりと受け取っていた「もうすぐいなくなる鳥」という言葉は、こうして、ついにいちばん寂しい場所まで行き着いてしまったのです。「危機」ではなく、「絶滅」。日本の空から、ニッポニア・ニッポンが、本当にいなくなった瞬間でした。 これで終わっていたら、今日の話は、ただただ寂しいだけの話になっていたはずです。 そして、今年のこと ここからは、つい先日、私自身が初めて知って、思わず声が出てしまった話です。 二〇二六年五月三十一日、石川県の羽咋市で、トキが本州で初めて放鳥されました。空に放たれたのは八羽。秋篠宮ご夫妻も見守るなか、箱からいっせいに飛び立ったトキを、会場の七百人ほどの人たちが、拍手と歓声で見送ったといいます。 本州の空をトキが堂々と舞うのは、あの能里が捕らえられた一九七〇年以来、実に五十六年ぶりのことでした。 考えてみてください。私がテレビの前で「もうすぐいなくなるらしい」と、ぼんやり寂しさだけを受け取っていた、あの鳥です。それが、半世紀を越えて、また本州の空に帰ってきた。 日本産のトキが絶滅したあと、希望をつないだのは、中国から贈られた一組のつがいでした。一九九九年(平成十一年)、「友友(ヨウヨウ)」と「洋洋(ヤンヤン)」という二羽が海を渡ってきて、佐渡で人工繁殖に成功します。最初に生まれたヒナには「優優(ユウユウ)」という名がつきました。そこから一羽、また一羽と数が増え、二〇〇八年にはついに佐渡で放鳥が始まります。今、日本の空を舞うトキは、みなこの中国生まれのつがいの子孫なのです。 そうして佐渡でこつこつと数が積み上がり、二〇二四年の暮れには、野生のトキは推定五百七十六羽にまでなりました。今年の三月には、絶滅危惧のランクも一段、引き下げられたそうです。そして能登では、このトキの放鳥が、地震からの「復興のシンボル」として位置づけられている。傷ついた土地に、希望の鳥が帰ってくる。そういう物語になっているのです。地元には「のとっきー」という応援キャラクターまで生まれて、子どもたちと一緒に放鳥を見守ったと聞きます。さらに来年度には、島根県の出雲でも放鳥が予定されているそうです。トキの空は、これから少しずつ広がっていく。 先日、私はこのブログでパンダの話を書きました。あちらは「今、日本に一頭もいなくなってしまった」という、少し寂しい話でした。けれど今日のトキは、ちょうどその逆です。「五十六年ぶりに、帰ってきた」という話なのですから。同じ週に、こんなに対照的な二羽(一頭と一羽、ですね)の話を書くことになるとは、思ってもみませんでした。 「トキ」という言葉の、その後 子どもの頃、私のテレビから流れてきた「トキ」は、いつも少しうつむいた、寂しい言葉でした。「絶滅の危機」「もうすぐいなくなる鳥」。 それが、半世紀を越えた今、能登の青空を堂々と舞っています。私の子どもたちや、さらにその先の世代にとって、「トキ」はもう、寂しい言葉ではないのかもしれません。むしろ「帰ってきた鳥」「守りきった鳥」として、明るい響きで耳に入ってくるのでしょう。 言葉の響きは、時代とともに変わっていくものなのですね。 六月五日の「環境の日」と聞いても、子どもの頃の私なら、やっぱりピンとこなかったと思います。けれど今は、少しだけ分かる気がします。環境を守るというのは、難しい理屈の話である前に、「あたりまえに空にいた鳥を、もう一度あたりまえに空へ戻す」という、それくらい具体的で、それくらい気の長い営みなのだと。能里を県境まで運んだ人も、田んぼの農薬を減らした佐渡や能登の農家の人たちも、半世紀をかけて、その地道な仕事を続けてきたのでしょう。 あなたのテレビからも、あの頃、「トキ」という言葉は、どこか寂しい響きで流れてきませんでしたか。そして今、その同じ言葉が、青空を飛んでいくのです。 もう一つの「トキ」 最後に、もう少しだけ、私自身の話をさせてください。 実をいうと、私にとって「トキ」という言葉は、ニュースの中だけのものではありませんでした。 私の母は、昭和十三年の生まれで、今年で八十八歳になります。新潟県の生まれ。そして、名を「トキ子」というのです。 佐渡島の出身というわけではありませんし、名前の由来を、私は母の口から聞いたことがありません。トキ子という名は、あの時代の女の子に、わりとよくつけられた名前でもありました。だから、あの鳥にちなんだものなのかどうか、本当のところは分かりません。聞いておけばよかったと思うのですが、こういうことは、たいてい聞きそびれたまま、時間だけが過ぎてしまうものですね。 それでも――新潟に生まれた、トキ子。もしかしたら、生まれ故郷の空に、まだトキがあたりまえに舞っていた最後の時代に、その美しい鳥にあやかって名づけられたのかもしれない。そう想像すると、私の中で、ニュースの「トキ」と、母の「トキ子」が、そっと一本の線でつながるのです。 その母は今、病と闘いながら、入院しています。 新潟の隣、能登の空に、五十六年ぶりにトキが帰ってきた。私はこのニュースを、何より母に伝えたいと思いました。お母さん、あなたと同じ名前の鳥が、半世紀をこえて、またこの国の空を飛んでいるよ、と。 絶滅したとまで言われた鳥が、それでもあきらめずに守られて、こうして帰ってきました。その同じ名を持つ母にも、どうかもう少しだけ、こちらの空の下にいてほしい。「トキ子」という名前に、私はもう一度、力を貸してもらいたいのです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで | 次の記事:昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報 ▶ ...

June 5, 2026

6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで

六月に入って、空気がだんだん重たくなってきました。もうすぐ梅雨ですね。じめじめした季節の入り口に、私がいつも思い出す「数字あそび」があります。 六月四日。「6(む)4(し)」。 そう、きょうは「むし歯予防デー」です。子どものころ、これを学校で教わったときに「うまいこと言うなあ」と妙に感心したのを、いまでもよく覚えています。数字を語呂に変えてしまう、あの感覚。考えてみれば、昭和の子どもは、こういう語呂合わせをやたらと覚えるのが得意でしたよね。 「むし歯予防デー」は、戦争よりも前から 調べてみると、この語呂合わせはずいぶん古い。日本歯科医師会が「6(む)4(し)」にちなんで六月四日を「むし歯予防デー」と定めたのは、なんと昭和三年(一九二八年)のことだそうです。私の生まれるよりも、ずっとずっと前。父や母が生まれるよりも前の話です。 おもしろいのは、戦争のさなかにも、この日が大事にされていたということ。戦時下の東京・後楽園スタジアムで「歯みがき大会」が開かれ、球場がぎっしり埋まるほどの人が集まったという記録が残っています。食べるものも満足にない時代に、それでも「歯を大切に」と人が集まった。そう聞くと、歯というのは、贅沢とは関係のない、生きることそのものに直結した話なのだなと、あらためて思います。 戦後にも、この日はちゃんと受け継がれました。昭和三十年(一九五五年)からは六月四日から十日までを「歯の衛生週間」として、全国の学校で歯の検診が行われるようになります。いまは名前を変えて「歯と口の健康週間」と呼ばれていますが、起点が六月四日であることは、ずっと変わっていません。 体育館に並んだ、あの一日 小学校のころ、六月になると必ず「歯科検診」がありました。みなさんも覚えていませんか。 体育館だったか、保健室の前の廊下だったか。クラスごとにずらりと並んで、順番を待つ。前に進むにつれて、消毒薬のにおいがだんだん濃くなってくる。白衣の歯医者さんが、小さな鏡と細い金具を持って待ちかまえている。口を「あーん」と開けると、先生は私の口の中をのぞきこみながら、横にいる先生に向かって、暗号のような言葉を読み上げていきます。 「上の六番、シー。下の……」 あの「シー」が、つまり「C」、むし歯のことだと知ったのは、もう少し大きくなってからでした。子どもの私は、その記号が何を意味するのか分からないまま、ただ「あ、いま何か悪いことを言われた気がする」と、漠然とした不安だけを抱えて列を出ていったものです。 古代の枝(咬み棒)から現代の歯ブラシへ。人類は何千年もかけて「歯を磨く道具」を進化させてきた。昭和の子どもたちが使っていたのも、この流れの中のひとつだ。(Photo: Stewart Shearer / CC BY-SA 2.0) 歯みがき指導の日もありました。赤い「染め出し液」を歯に塗られて、鏡を見ると、磨き残したところが真っ赤に染まっている。「ほら、こんなに磨けていませんよ」と言われて、自分の歯がこんなに汚れていたのかと、子どもながらにちょっとショックを受ける。あの毒々しい赤色だけは、四十年以上たったいまでも、はっきり目に浮かびます。 それでも、甘いものはやめられなかった なぜ私たちの世代は、あんなにむし歯が多かったのか。理由は、はっきりしています。甘いものが、大好きだったからです。 学校から帰れば、駄菓子屋へ一目散。手のなかの小銭を握りしめて、ガラスケースの前で何を買おうか延々と悩む。ラムネ、あめ玉、よく伸びるガム、紙の上に乗った小さな練りもの、糸を引くようなあの飴……。一つひとつが安いものだから、少ないお小遣いでも、口の中をずっと甘いもので満たしていられた。むし歯にならないほうが、むしろ不思議なくらいです。 色とりどりの駄菓子が並ぶ駄菓子屋。花火や玩具まで売っている。少ない小銭を握りしめて、何を買おうか真剣に悩んだ記憶は、昭和の子ども全員が共有している。(Photo: urawa / CC BY 2.0) 母が仕事に出るとき、テーブルに百円玉を置いていってくれることがありました。短いメモを添えて。あの百円玉の、ずっしりとした手ざわり。あれをどう使うか、子どもなりに真剣に考えたものです。たいていは、甘いものに化けていましたけれどね。 夜になって、母に「歯、磨いたの?」と聞かれる。「うん」と答えながら、本当は磨いていない日もありました。あのころの私に、いまの私が言ってやりたい。「ちゃんと磨いておけよ」と。大人になってから歯医者さんに通うはめになって、はじめて分かることって、ありますよね。 令和の子どもは、むし歯が激減している ここで、ちょっと驚く数字を一つ。 文部科学省が調べている「十二歳の子ども一人あたりの平均むし歯本数」というものがあります。昭和六十二年(一九八七年)には、なんと一人あたり四・九本もありました。十二歳で、すでに約五本。これがまさに、駄菓子に夢中だった私たちの世代の現実です。 ところが、いまはどうでしょう。この数字は年々ぐんぐん減り続けて、令和に入ってからは〇・七本前後にまで下がっています。五本から一本以下へ。これは本当にすごい変化です。 フッ素入りの歯みがき粉が当たり前になったこと、学校や家庭での歯みがき指導が行き届いたこと、おやつとの付き合い方が変わったこと。あの「むし歯予防デー」が、昭和三年から地道に訴え続けてきたことが、令和になってようやく、はっきりと数字になって表れている。そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。 親になってみて、思うこと 私の住む東京・葛飾区では、子どもが高校を卒業する三月末まで、保険診療の窓口負担がありません。ゼロ円です。しかも、親の所得による制限もない。こうした行政の支えのおかげで、家庭の経済事情に左右されることなく、子どもたちは安心して歯科医療を受けられます。 むし歯がこれだけ減った背景には、フッ素や歯みがき指導だけでなく、「どの子も等しく治療を受けられる仕組み」が広がったことも、きっと大きな要因の一つなのでしょう。 「八〇二〇(ハチマルニイマル)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。八十歳になっても自分の歯を二十本残そう、という運動です。子どものころは歯のありがたみなんて、これっぽっちも考えなかった私も、この歳になると、しみじみそう思うようになりました。きょうあたり、久しぶりに歯医者さんの予約でも入れようかな、なんて思いながら、これを書いています。 きょう六月四日。みなさんは、子どものころの「歯」にまつわる記憶、何か残っていますか。 あの赤い染め出し液。歯医者さんのキイーンという音と、独特のにおい。むし歯の紙を親に渡したときの気まずさ。あるいは、駄菓子屋で握りしめた小銭の感触。 よかったら、あなたの昭和の「歯の記憶」を、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) | 次の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に ▶

June 3, 2026

「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日)

6月3日。梅雨入りを目前にした、少し蒸し暑い季節だ。 カレンダーのこの一日には、子どものころの私がテレビ越しに見ていたはずの、二人のヒーローが並んでいる。ひとりは海を渡って日本人になった力士。もうひとりは、日本から「世界」へ駆け抜けた、小さな大選手だ。今日はとくに、後者の話をたっぷりさせてほしい。 まず、さらっと──ハワイの「ジェシー」が日本人になった日 1980年(昭和55年)の6月3日、大相撲の高見山が日本国籍を取得して帰化した。新しい名は「渡辺大五郎」。奥さんの姓と四股名を組み合わせた名前だった。 ハワイからやってきた、戦後初の外国出身力士。大きな体に低くしわがれた声、みんなが「ジェシー」と呼んでいた人だ。1972年の名古屋場所では、外国出身者として初めて幕内優勝も果たしている。新弟子のころ、あまりに厳しい股割りの稽古に「目から汗が出た」と漏らした逸話も忘れがたい。涙、とは言わず、汗だと言い張る。その不器用な強がりが、私は好きだった。 大相撲の立ち合い。両国国技館で行われた2010年9月場所より。高見山が活躍した昭和の土俵にも、同じような熱気があった。(Photo: Gusjer / CC BY 2.0) 国籍まで変えたのは、引退後に親方として相撲界に残るため。土俵を降りたあとも相撲とともに生きるために、生まれた国の国籍を手放したのだ。のちに東関親方として、同じハワイ出身の曙を横綱まで育て上げた。海を渡ってきた青年が、今度は次の世代を呼び寄せる。その長い橋のちょうど真ん中に、あの帰化の日はあったのだと思う。 さて──ここからが、今日の本題だ。 「世界の盗塁王」が生まれた日──昭和58年(1983年) 高見山の帰化から3年後、同じ6月3日。阪急ブレーブスの福本豊が、通算939個目の盗塁を決めて世界新記録を打ち立てた。それまでの記録は、メジャーリーグのルー・ブロックが持つ938盗塁。福本はそれをひとつ上回り、文字どおり「世界の盗塁王」になった。 その日の記録達成には、いかにも福本らしい逸話が残っている。舞台は西武球場での西武戦。一回表、ブロックに並ぶ通算938個目をあっさり決めてタイ記録に追いつくと、新記録はもう目前だった。ところが試合は終盤、点差が大きく開いてしまう。福本は「記録のためだけに走った」と思われるのを嫌い、もう走らないと心に決めていたという。それなのに、相手の内野手がしつこく牽制を入れてくる。それで負けん気に火がついて、九回、つい三塁へ飛び出してしまった──。世界記録が、半ば本人の意に反して生まれてしまったというのが、なんとも可笑しい。 プロ野球の試合のひとコマ(2005年シアトル、イチロー出場試合)。盗塁とは走者と捕手・内野手の緊張した駆け引きの果てに生まれるものだ。(Photo: Galaksiafervojo / CC BY-SA 3.0) 阪急は関西のパ・リーグの球団だから、東京の子どもだった私のテレビには、ふだんあまり映らない。それでも「世界新記録」という言葉だけは、ニュースでも学校でも、何度も耳に飛び込んできた。あの「世界」という二文字が、昭和の子どもにはとんでもなくまぶしかったのだ。あのころ、王貞治のホームランも「世界一」、福本の盗塁も「世界一」。アメリカという、はるか遠くの本場の記録を日本人が抜いていく──それは私たち少年にとって、ヒーローが怪獣を倒すのと同じくらい胸のすく出来事だった。 でも、私にとっての福本豊は、成績の数字よりも、もっと不思議で、もっと忘れがたい三つの「伝説」とともにある。 その一・足に一億円の保険 私たち昭和の野球少年のあいだでは、「福本の足には一億円の保険がかかっている」という話が、かなり有名だった。 調べてみると、これは1972年(昭和47年)のこと。シーズン盗塁記録の更新へ快走していた福本の「足」に、阪急が一億円の保険をかけたという。当時の球界では破格の金額で、大きな話題になった。もっとも、本人が一億円を受け取るという単純な話ではなく、球団側のリスク対策と話題づくりの意味合いも強かったらしい。 考えてみれば、1972年といえば私はまだ3歳。リアルタイムで知っていたはずもない。それでも、少し大きくなった私の耳に、この「一億円の足」の伝説はしっかり届いていた。人間の足に一億円──子どもにとって、それは盗塁の数字よりもずっと具体的で、ずっと夢のある話だった。校庭で足の速い子に「お前の足、一億円な」とからかうのが、しばらく流行ったりもした。 その二・サラブレッドと競走した男 もっとすごい話がある。福本は、馬と走ったのだ。 1983年(昭和58年)、西宮球場で行われたイベントで、阪急の選手たちがサラブレッドと短距離走で競走した。面白いのは、福本さん自身が後年、「最初は断った」と語っていること。ところがバンプ・ウィルスが出場を承諾したものだから、球団社長に頼まれ、結局は出場することになったそうだ。当時すでに35歳、盗塁王の大ベテランと、サラブレッドを競走させてしまうという発想自体が、いかにも昭和のプロ野球イベントらしい。 実はこのイベント、中学生だった私はかなりワクワクしながら見ていた記憶がある。……ところが情けないことに、競走の距離も、福本が勝ったのか負けたのかも、まったく覚えていないのだ。あんなに胸を躍らせたのに。覚えているのは「世界の盗塁王が、本物の馬と走るらしい」という、あの開始前の高揚感だけ。今となっては、それで十分な気もしている。 その三・すりこぎ棒のようなバット そして、これがいちばん意外な話かもしれない。 いまのファンは「盗塁王といえば、軽いバットでコンパクトに当てる選手」と思い込みがちだ。ところが福本は、まるで逆だった。本人の証言によれば、初期は940グラム台、その後はなんと1060〜1080グラムという超重量級のバットを使っていた。太くて、まるで「すりこぎ棒」のような形。周囲はその姿から「つちのこバット」とも呼んだ。 バットを力いっぱい振り切るバッター。福本豊の「すりこぎ棒」バットも、この振り切る姿勢が原点だった。(Photo: Danny Meyer, U.S. Air Force / パブリックドメイン) 持ち方も独特で、グリップエンドを数センチ余らせて、短く持って振った。だから、あの重いバットでも自在に操れたのだ。体が小さく非力だった福本は、その重さを逆に味方につけ、速い球にも力負けしなくなったのだという。決して大きくない体で通算208本塁打を放った秘密は、このあたりにありそうだ。 そもそも福本は、入団当初まったく期待されていなかった。小柄で非力な体つきを見て、周囲は「こんな選手を獲って可哀想や」とまで陰口を叩いたという。その彼に、名将・西本幸雄監督は「振り切れ」と教えた。非力な男が長打力を身につけるための逆転の発想だ。重いバットを短く持つあの独特の打ち方は、監督の教えと本人の工夫が出会ったところに生まれた答えだったのだろう。 足だけの人ではなかった。頭と工夫の人だった。 立ちションもできんようになる 最後にもうひとつ。世界記録のあと、福本は国民栄誉賞の打診を受けながら、「そんな偉い賞をもらったら、立ちションもできんようになる」と言って断ってしまった。 世界一になった人が、まじめな顔でそんなことを言う。足に一億円、馬と競走、すりこぎ棒のバット──どのエピソードにも、肩の力が抜けた可笑しみと、人を食ったような愛嬌がある。私が福本豊をいつまでも好きなのは、たぶんその飄々とした感じのせいだ。 思えば6月3日は、不思議な日だ。ハワイ生まれの大男が線を越えて日本人になり、大阪生まれの小男が線の向こうの世界記録を越えていった。向きはまるで逆なのに、どちらも「日本」と「世界」のあいだにある一本の線を、自分の体ひとつでまたいでみせた。 記録は、いつか抜かれる。実際、939という世界記録も、のちにメジャーのリッキー・ヘンダーソンが1406まで大きく塗り替えた。それでも、ブラウン管の前で「世界一だ」とワクワクした昭和の少年の胸の高鳴りは、誰にも抜かれない。 あなたの記憶の中の福本豊は、足の速さですか。それとも、すりこぎ棒のバットですか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 | 次の記事:6月4日は「むし歯予防デー」── 歯医者さんと駄菓子のあいだで ▶

June 2, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日

6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。 私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった 正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。 私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。 ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。 つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。 そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。 昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。 それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。 サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。 月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。(Photo: NASA / パブリックドメイン) これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。 派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。 物心ついてから何度も、父は私にこう言った。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。 子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。 そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。 スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた 小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。 ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。 そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。 スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ(1983年4月)。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。(Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン) もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。 夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。 そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった 時は流れて、令和8年(2026年)。 宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。 マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。 野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。 すべては、あの慎重な一歩の延長線上に こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。 筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。 けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。 逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。 夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。 今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。 あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 | 次の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) ▶

June 1, 2026

昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代

六月になりました。 カレンダーをめくると、一日はちょうど衣替え。学校に通っていたころは、この日を境に冬服が夏服に変わって、教室の景色がいっせいに明るくなったのを覚えています。詰襟の窮屈さから解放されて、白い半袖シャツの軽さが妙に誇らしかった。台所の冷蔵庫に冷えた麦茶が常備されはじめるのも、だいたいこのころでした。 そんな夏のはじまりの六月一日。昭和の時代、この日にはいろいろなことがありました。たとえば昭和六十一年(一九八六年)の六月一日には、上野動物園で日本初の人工授精による赤ちゃんパンダ「トントン」が誕生しています。 でも、私にとっての「上野のパンダ」と言えば、やっぱりこの二頭なのです。 ランランと、カンカン。 今日はこの話を、少し長めに、のんびりと書かせてください。 父の肩車の上で 昭和四十八年(一九七三年)のことだったと思います。私はまだ保育園に通う幼い子どもでした。その日は遠足で、両親も一緒に上野動物園へ行きました。 お目当ては、もちろんパンダです。 昭和四十七年(一九七二年)、日中国交正常化の記念として中国からやってきたランランとカンカン。白と黒の、丸っこくて、笹を抱えてもそもそ食べるあの不思議な生きものを一目見ようと、日本中が熱に浮かされていました。その熱が、私たち親子を上野へと連れて行ったわけです。 ジャイアントパンダ。白と黒の丸い体で笹を食べる姿が、日本中を夢中にさせた。(Photo: J. Patrick Fischer / CC BY-SA 3.0) ところが――です。 正直に告白しますと、私はあの日、ランランとカンカンを本当に見られたのかどうか、思い出せないのです。 覚えているのは、別のことばかり。パンダのいる建物の前には、気が遠くなるような大行列ができていました。長い長い時間を並んで、ようやく中へ入れたこと。そして父が私を肩車してくれたこと。あの高い視界の感触は、今でもはっきりと残っています。 でも、肩車の上から、私はちゃんとパンダを見たのでしょうか。それとも、人垣の向こうの黒い点のような何かを、パンダだと思い込んだだけだったのでしょうか。記憶の肝心なところが、すっぽりと抜け落ちているのです。 そのかわりに鮮明に残っているのは、人、人、人で溢れかえっていた園内の光景。そして、園内放送でやたらと流れていた「迷子のお知らせ」のアナウンスです。 「○○色のズボンに、○○の絵のシャツを着た、○歳くらいの男の子を保護しています……」 あの放送ばかりが、なぜか耳に焼きついている。肝心のパンダではなく、迷子の放送。我ながら「そこっ?」とツッコミたくなりますが、子どもの記憶というのは、案外そういうものなのかもしれません。大人が「これを覚えておきなさい」と思うところより、ぜんぜん別の隅っこを、勝手に大事にしまい込んでしまう。 それでもいいのです。父の肩の温かさと、迷子の放送と、果てしない行列。それが私にとっての「ランランとカンカンに会いに行った日」の、まぎれもない全部なのですから。 V3とタロウの、輝かしい年 ちなみに、その昭和四十八年という年。私にとっては、パンダ以外でも特別に光り輝いている一年でした。 なぜなら、テレビの中のヒーローがいちばん格好よかった時代だからです。 仮面ライダーは、V3。(昭和四十八年二月〜昭和四十九年二月) そしてウルトラマンは、タロウ。(昭和四十八年四月〜昭和四十九年四月) この二人が同じ時期に画面の中で戦っていたのですから、当時の男の子にとって、これ以上の幸福があったでしょうか。風見志郎が変身する三段変身に胸を躍らせ、ウルトラの父と母の息子であるタロウの登場に、ウルトラ兄弟の世界がどこまでも広がっていくのを感じていました。 保育園からの帰り道、私はきっとV3かタロウになりきって、見えない怪人や怪獣と戦っていたはずです。そして週末になれば、上野のパンダのように、テレビの前にもまた「人、人、人」――いや、こちらは家族みんなが集まって、かじりつくようにして見ていたのでした。 パンダもV3もタロウも、ぜんぶ同じ年の出来事。そう並べてみると、昭和四十八年というのは、私の幼い心がいちばん豊かに満たされていた年だったのだなと、しみじみ思います。 そして、令和八年の六月 さて、ここからは少し、今の話をしなければなりません。 令和八年(二〇二六年)の六月一日、現在。日本国内に、ジャイアントパンダは一頭もいません。 これを書いていて、自分でも信じられないような気持ちになります。 まず、令和七年(二〇二五年)の六月。和歌山のアドベンチャーワールドにいた四頭――良浜(らうひん)、結浜(ゆいひん)、彩浜(さいひん)、楓浜(ふうひん)――が、中国へ返還されました。涙ながらに見送ったファンの姿が、ニュースで大きく取り上げられていたのを覚えている方も多いでしょう。 そして、日本に残ったのは、東京・上野動物園の双子、「シャオシャオ」と「レイレイ」だけ。この二頭も、令和八年の一月下旬、ついに中国へと返還されました。 これをもって、日本国内のパンダの飼育頭数は、ゼロ。 昭和四十七年にランランとカンカンがやってきてから、五十四年。半世紀以上にわたって途切れることなく続いてきた「日本の動物園でパンダに会える時代」が、今、いったん幕を閉じたのです。 笹をもそもそと食べるパンダ。この姿を日本の動物園で見られる日が、また来ることを願っている。(Photo: Manyman / CC BY-SA 3.0) いなくなって、はじめてわかること 「上野にパンダがいない。」 この一文を、昭和の子どもだった私が読んだら、いったいどんな顔をするでしょう。たぶん、まったく信じないと思います。上野の動物園にパンダがいないなんて、空に太陽がないと言われるくらい、ありえないことに感じられたはずですから。 あの日、果てしない行列に並び、父に肩車をしてもらってまで会いに行った白黒の生きもの。見られたのかどうかも怪しい、けれども確かにそこに「いた」はずのランランとカンカン。その末裔とも言える時代の流れが、半世紀の時を経て、ひとつの区切りを迎えた。 考えてみれば、私が肩車の上で見たかもしれない(見られなかったかもしれない)あの光景は、「日本にパンダがいる時代」の、ほんとうに初期の一場面だったわけです。そしてその時代の終わりを、私は今、こうして大人になって見届けている。 なんだか、不思議な巡り合わせです。 時代は変わります。当たり前にそこにあったものが、ある日ふっと姿を消す。パンダだけの話ではありません。近所の駄菓子屋も、屋上の遊園地も、いつの間にか消えていきました。そして私たちは、なくなってからようやく、「ああ、あれは特別なものだったんだな」と気づくのです。 でも――きっと、また会える日が来ると、私は思っています。 いつかまた、上野の動物園に黒と白のあの姿が戻ってきて、孫の手を引いたおじいさんやおばあさんが、長い行列に並ぶ日が来る。そのとき子どもたちは、肩車の上から、ちゃんとパンダを見られるでしょうか。それとも、私のように迷子の放送ばかり覚えて帰るのでしょうか。 どちらでもいい。その記憶は、きっと一生ものになるのですから。 みなさんにとっての「上野のパンダ」は、どの子でしょうか。ランランとカンカンでしょうか。トントンや、シャンシャンでしょうか。よろしければ、あなたのパンダの思い出も、聞かせてください。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月31日~「世界禁煙デー」――煙が当たり前だった、あの頃の空気 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日 ▶ ...

May 31, 2026