【昭和の今日は何があった日?】8月23日──腹いっぱい食べたい、と思っていた
今日は8月23日。夏休みも、もう終わりが見えてくる時期だ。昭和の子どもにとっては、宿題の山を前にして胃が重くなりはじめる、あの頃である。 そして今日は「湖池屋ポテトチップスの日」でもある。 昭和37年(1962年)のこの日、**「湖池屋ポテトチップス のり塩」**が発売された。日本で初めて本格的に世に出たポテトチップス。その最初の味が「うすしお」ではなく「のり塩」だったという事実を、私はずいぶん長いあいだ知らずにいた。 飲み屋で出てきた「高級珍味」 湖池屋の創業は昭和28年(1953年)。創業者は小池和夫という人だ。 社名の由来がなかなか面白い。小池氏の郷里は長野県の諏訪市。地元の諏訪湖を見ながら「会社も諏訪湖のように大きくしたい」と願い、「小池」の「小」を「湖」に置き換えて「湖池屋」とした。 創業当初に作っていたのは、豆やさくらえびを油で揚げて混ぜた「お好み揚げ」のようなおつまみ菓子である。 転機は、小池氏が仕事仲間と飲みに行った店で訪れる。そこで出されたのがポテトチップスだった。当時の日本では手作りが主流の珍しい食べ物で、飲み屋では高級珍味の扱いだったという。 一口食べた小池氏は「こんなにおいしいものが世の中にあったのか」と感動する。そして、これを多くの人に届けたいと考えた。ここが、日本のポテトチップスの出発点だ。 「せっかく日本で作るのだから」 とはいえ、作るのは簡単ではなかった。 お好み揚げも油で揚げる菓子だから、その釜を流用して開発に乗り出した。ところが、じゃがいもの品種、スライスの厚み、揚げる温度──どれをとってもノウハウがなく、品質がまるで安定しなかったという。 そのうえ、味付けをどうするかという問題があった。 本場アメリカでは塩をふりかけただけの「塩味」が主流。だが小池氏はこう考えた。 「せっかく日本でポテトチップスを作るのだから、日本人になじみのある味にしよう」 そこで目をつけたのが「のり」だった。青のりとあおさをまぶす。じゃがいもと海苔という、いま考えれば当たり前すぎる組み合わせも、当時は誰も試していない発想だった。 そうして昭和37年8月23日、「湖池屋ポテトチップス のり塩」が世に出た。世界で初めての「のり塩ポテトチップス」の誕生である。 日本のポテチは、うすしおではなく、のり塩から始まったのだ。 手で揚げていた五年間 ただし、この時点ではまだ「大量生産」ではなかった。 当時のポテトチップスは、どのメーカーも手作業で揚げていた。安定した量を作れない。だから店に並ぶ数も限られる。 「もっとたくさんの人に食べてもらいたい」──その一心で機械化を模索し、湖池屋が国産のオートフライヤーを導入して量産化に成功したのは、発売から五年後の昭和42年(1967年)のことだった。日本で初めてのポテトチップス量産化とされている。さらに原料を安定させるため、北海道で馬鈴薯の契約栽培にも踏み切った。 こうして、飲み屋の高級珍味だったポテトチップスは、少しずつ、町へ降りてきた。 私が生まれたのは昭和44年(1969年)。量産化から二年後のことになる。 山車を引いて、もらった袋 正直なところ、私は「人生で初めてポテトチップスを食べた日」を覚えていない。 気がついたら食べていた、という感覚に近い。強いて言えば、保育園の年長の頃──昭和50年(1975年)あたりだったのではないかと思う。六歳になるかならないかの頃だ。 ただ、はっきり言えることが一つある。 母が買い物のときにポテトチップスを買っていた記憶が、まったくないのだ。つまり我が家では、ポテトチップスは日常的に食卓や茶の間に出てくるものではなかった。 では、どこで食べていたのか。 盆踊りや、祭りの山車を引いたときにもらうお菓子。あれがポテトチップスだったことが、よくあった。 葛飾の夏である。綱を握って、大人に混じって山車を引く。声を出しながら町内をぐるりと回って、帰ってくると菓子の袋を渡される。その中にポテトチップスが入っている。 子どもながらに「うまいな」と思った。 いま振り返ると、この記憶の位置づけが面白い。あの頃のポテトチップスは、私にとって「買うもの」ではなく「もらうもの」だった。祭りとか、行事とか、そういう非日常のときに、大人の側から降ってくるもの。 飲み屋の高級珍味からは遠く離れた。けれど、まだ完全な日常品にもなっていない。ちょうどその途中の、微妙な位置にあった。 味が増えていく時代 私が物心ついた昭和50年代は、ちょうどポテトチップスが「珍しいもの」から「あって当たり前のもの」へ変わっていく時期にあたる。 大手のカルビーがポテトチップス市場に参入したのが昭和50年(1975年)。「うすしお味」を出したのがこの年で、翌昭和51年(1976年)に「のりしお」、昭和53年(1978年)に「コンソメパンチ」が続く。 私は昭和44年4月生まれ。小学校に上がったのが昭和51年の春だから、コンソメパンチが世に出た昭和53年は小学3年生ということになる。 つまり私の小学生時代は、まるごと「ポテトチップスの味が増えていく時代」だった。棚に行くたびに知らない味が並んでいる。あの感覚は、いまの子どもにはたぶん想像しにくい。 そして子どもたちのあいだで激しかったのが「のり塩派」と「うすしお派」の対立である。あれは子どもながらに、けっこう真剣な議論だった。 私の中では、はっきりしていた。湖池屋といったら、のり塩である。 買う場所は、近所の駄菓子屋か、高砂のイトーヨーカドー。ただし、日々のお小遣いからポテトチップスを買った記憶はない。大袋がたしか100円くらい。何グラム入っていたかまでは覚えていないが、10円20円の駄菓子を握りしめて選んでいた子どもにとって、100円という数字は明らかに別の階層にあった。 駄菓子屋の棚に置いてあるのに、駄菓子ではない。ポテトチップスとは、そういう位置の菓子だった。 ちなみに、市場の話をすると、昭和59年(1984年)の時点でカルビーが約80%、湖池屋は約9%。先に始めたほうが、後から来たほうに大きく引き離されていた。子どもの私はそんなことを知る由もなく、ただ袋の色で選んでいた。 いまでも歌えるあの歌 湖池屋といえば、あのCMソングである。 ...