今日は9月14日。
バレンタインといえば2月14日である。ところがこの国には、もうひとつのバレンタインがあるのだという。
セプテンバーバレンタイン。
9月14日。2月14日のちょうど半年後にあたるこの日は、女性のほうから別れを切り出してもよい日、ということになっているらしい。
告白の日の半年後に、別れの日を置く。ずいぶん皮肉の効いた発想である。
正直に書いておくと、私はこの言葉を、今回はじめて知った。昭和44年に生まれて、昭和を丸ごと子どもとして過ごしてきたつもりでいたが、こういう抜け落ちがある。当時、学校で話されていたのだろうか。私のまわりでは一度も聞かなかった。
発祥は、深夜ラジオだった
セプテンバーバレンタインの由来として広く語られているのが、TBSラジオで1967年(昭和42年)から1982年(昭和57年)まで放送されていた深夜番組『パック・イン・ミュージック』である。

愛川欽也さんや林美雄アナウンサーらがパーソナリティを務め、1970年代の若者から絶大な支持を集めた番組だった。12月25日のクリスマスに対して8月25日を「サマークリスマス」と呼ぶ習慣も、この番組から生まれたとされる。半年ずらして遊ぶのが、この番組の癖だったのかもしれない。
ただし、面白いのはここからだ。番組内でセプテンバーバレンタインについていつ、どんな文脈で言及されたのかは、はっきりしていないのである。発祥と言われているのに、その瞬間の記録がない。誰かが放送で言ったことが、聴いていた人たちの口を通って広まり、気がついたら「そういう日」として定着していた。
出所不明のまま残ってしまった習慣、というのが、いかにも深夜放送らしい。テレビと違って、ラジオは記録に残らないものだった。録音しなければ消えてしまう。それでも聴いていた人の中には、確かに残った。
関連して、シンガーソングライターの佐々木幸男さんが**1978年(昭和53年)**に『セプテンバー・バレンタイン』というシングルを発表している。別れをうたった曲である。記念日が先か歌が先か、それすらもよく分からないというのが、この日の正体だ。
「サマークリスマス」を生んだ林美雄さんと、『パック・イン・ミュージック』の時代を丸ごと描いたノンフィクションがあります。深夜のラジオが、なぜあれほど若者の居場所になっていたのか。聴いていなかった私にも、その空気が伝わってきました。
紫、白、緑
セプテンバーバレンタインには、細かい作法があるとされている。
別れたい女性は、紫色のものを身につけ、白いマニキュアを塗り、緑色のインクで書いた別れの手紙を、相手に直接手渡す。

いま読むと、ずいぶん芝居がかっている。けれど、ここに昭和が詰まっているとも思う。
まず、手紙であること。そして、直接手渡すこと。
昭和の別れは、逃げられなかった。電話をするか、手紙を書くか、会って言うか。そのどれもが、相手の顔なり声なりを引き受けることを意味していた。既読をつけずに放置する、という選択肢がない時代である。
手紙といえば、小学校から高校まで、何回かは女子から手紙をもらったことがある。下駄箱に入っていた、という経験もある。中身がどうだったかはさておき、思い返すと、手紙というのはなんかいいものだ。誰かが自分のために字を書いて、それを人に見つからないように運んだ、という事実だけが残る。
緑のインクで別れの手紙を書いた人が、実際にどれだけいたのかは分からない。たぶん、ほとんどいなかっただろう。それでも「そういう作法がある」という話だけがラジオを通じて全国の若者に共有されていた。そこが、この記念日のいちばん面白いところだと思う。
深夜ラジオとの、微妙な距離
では私自身が深夜ラジオの人間だったかというと、これがそうでもない。
クラスの友達が聴いていて、じゃあ自分も、と試しに聴いてみた。その程度である。番組名は、たぶん『オールナイトニッポン』だったと思う。そこからのめり込んだ記憶はない。かといって、まったく聴かなかったわけでもない。そういう微妙な距離感のまま、深夜放送の時代を通り過ぎた。

ちなみに恋愛の話のほうは、日常的にしていた。野球部だからそういう話をしない、ということはまったくなかった。誰が誰を気にしているという話は、いつでも教室にあった。もっとも、私個人の恋が実ったことは一度もなかったのだが。
深夜の放送と本当に長く付き合ったのは、むしろ大人になりかけの頃だ。浪人中、予備校には通わず、セブン-イレブンの夜勤を週4日やりながら自分で受験勉強をしていた。あの店内には有線放送が流れていた。お客さんが途切れたとき、本来店に流すべき曲とはまったく違うジャンルにチャンネルを変えて、ひとりで楽しんでいた。
いま思えば、あれが私なりの深夜放送だったのかもしれない。誰も聴いていない時間に、自分の好きな音だけが流れている。深夜ラジオを布団の中で聴いていた同級生たちと、やっていたことはそう変わらない。
布団の中で、こっそりイヤホンを耳に入れる。あの聴き方は、いまのポケットラジオでもそのままできます。単3電池で動いて、イヤホンも付いています。停電のときの備えにもなります。
同じ日、広島市民球場では
さて、9月14日にはもうひとつ、私の心に引っかかる出来事がある。
1968年(昭和43年)9月14日。広島市民球場、対大洋ホエールズ戦。
広島の外木場義郎投手が、完全試合を達成した。プロ野球史上10人目。一人の走者も出さず、27人を27人のまま帰した試合である。

しかも、この試合の外木場は尋常ではなかった。16奪三振。当時のセ・リーグタイ記録であり、2022年にロッテの佐々木朗希投手が19奪三振を記録するまで、完全試合における最多奪三振記録として残り続けた数字だ。9回は3人とも三振で締めている。
外木場という投手には、もうひとつ有名な逸話がある。1965年(昭和40年)、プロ初勝利をいきなりノーヒットノーランで飾った。そのとき将来性を危ぶむようなことを言った記者に対して、「なんなら、もう一回やりましょうか」と言い放ったという。そして3年後、その言葉どおりに2度目を——それも完全試合という形で——やってのけた。生涯3度のノーヒットノーラン、うち1度が完全試合。この記録を持つ投手は、いまだに外木場義郎ただ一人である。

正直に書くと、私は名前を知っていただけだった。カープの昔の投手、完全試合をやった人。それ以上のことは、今回調べるまで知らなかった。こんなにすごい投手だったのかというのが、まずの感想である。
ただ、投げる側にいた人間として、この記録の重さだけは分かる。
中学でピッチャーをしていたとき、マウンドに上がればまず「完全試合」を考えた。ランナーを出したら次は「ノーヒットノーラン」。ヒットを打たれたら「完封」。そうやって一段ずつ目標を下げながら、それでも一番上から数えて投げていた。
中学レベルでさえ、完全試合もノーヒットノーランもそうそう出るものではない。ましてプロの打者を相手に、27人を27人のまま帰す。しかもそのうち16人から三振を奪う。あらためて、とんでもないことである。
別れについて、いま思うこと
書きながら、妙なことに気づいた。
完全試合とは、相手の誰ひとりとして塁に出さない試合のことだ。投手にとっては最高の完成形である。けれど裏返せば、その試合で投手は、誰とも出会っていない。27人が来て、27人が帰っていく。
同じ日に、別れを切り出す記念日がある。片方は誰とも交わらないことの完成で、もう片方は交わったものを断ち切る作法だ。9月14日は、ずいぶん「離れる」ことに縁のある日だと思う。
「別れ」という言葉を考えると、昔と今では、その感じ方も少し変わってきたように思う。
子どもの頃は、転校や卒業、引っ越しなど、「別れ」はもっとはっきりしたものだった。会えなくなるなら、本当に会えなくなる。連絡を取ろうと思えば、電話をするか、手紙を書くしかなかった。
だからこそ、手紙には今とは違う重みがあった気がする。便箋を選び、鉛筆やペンを持って、一文字ずつ書く。書き終わったら封筒に入れて、切手を貼って投函する。返事が来るまで何日も待つ。その「待つ時間」まで含めて、相手とのつながりだったのだろう。
今は、五人の子どもたちとの連絡も、基本的にはLINEである。「今帰る」「了解」「ありがとう」。それだけで用事が済んでしまう。便利になったなと思う一方で、昔の手紙にはあった、少し面倒くさい時間も悪くなかったなと思う。
そして、路線バスの運転士になった今、毎日の乗務でも小さな「別れ」を感じる。
バス停でお客様を降ろせば、その方とはそこでいったん別れだ。毎日同じ時間に乗ってくださる方なら「また明日」と思える。けれど、一度だけ乗った旅行者や、遠くから来たようなお客様なら、その先で二度と会わないかもしれない。
そう考えると、バスというのは、人を目的地まで運ぶ仕事であると同時に、人と人が一瞬だけ交差して、そして離れていく仕事でもあるのだと思う。
家族も同じなのかもしれない。
五人の子どもたちは、ずっと子どものままではない。大きくなれば、それぞれの人生を歩き始める。親としては寂しいけれど、それは悲しい「別れ」ではなく、「送り出す」ということなのだと思う。
だから、今は一緒にいられる時間を大切にしたい。
LINEでもいい。短い会話でもいい。たまには手紙を書いてもいい。伝えられるうちに「ありがとう」と言っておく。
昔は、別れた後にしか手紙を書くことができなかったけれど、今は別れが来る前に、いつでも言葉を届けることができる。
便利になった時代だからこそ、私はその便利さに甘えず、ちゃんと人の顔を思い浮かべながら、言葉を届けていきたいと思っている。
おわりに
深夜ラジオが生んだ、出所の分からない記念日。そして、生まれる前の年に投げられた完全試合。9月14日はその両方を抱えた日だった。
片方は記録が残っていないのに広まり、もう片方は数字として細かく残っている。けれど、どちらも「昭和にあったこと」として、いまも誰かの中に残り続けている。
みなさんには、深夜ラジオの記憶はあるだろうか。布団の中で、こっそりイヤホンを耳に入れた夜はあっただろうか。
そして、下駄箱に入っていた手紙のことを、まだ憶えておられるだろうか。
【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。
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