『坂の上の雲』と正岡子規の野球 ― 上野公園に残る明治のベースボール

白状すると、私は『坂の上の雲』のファンである。 最初はテレビだった。NHKのスペシャルドラマを観て、すっかり引き込まれ、その勢いで司馬遼太郎の原作を手に取った。読み終えて、しばらくしてまた読んだ。そしてもう一度。つまり三度、あの長い物語を読み返したことになる。秋山好古、真之の兄弟、そして正岡子規。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていった青年たちの物語は、何度読んでも飽きることがない。不思議なもので、読み返すたびに心に引っかかる場面が変わる。若い頃に通り過ぎた一行が、歳を重ねてから読むと、急に立ち上がってくることがあるのだ。長い小説を読み返す愉しみは、たぶんそこにある。 なかでも私が好きなのは、物語の序盤、まだ何者でもない真之と子規が、東京で青春を過ごす場面だ。そこに、野球が出てくる。上野の草原で、書生たちがボールを追いかける場面である。 俳人・正岡子規と野球。一見、結びつかないようでいて、実はこのふたつ、切っても切れない関係にある。今日はその話を書いてみたい。じつはこの日、私は所用で上野に来ていて、その合間の休憩時間に少し走った。せっかく現地にいるのだから、自分の足で確かめないわけにはいかない。その話は、最後に。 俳人になる前の、野球青年だった子規 正岡子規は慶応三年(一八六七年)の生まれ。日本にベースボールを伝えたのは、明治五年(一八七二年)頃、第一大学区第一番中学(のちの開成学校)で教えていたアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンだとされている。ちなみにこのウィルソン、子規より一年あとの二〇〇三年に、やはり野球殿堂入りを果たしている。伝えた人と広めた人が、百年あまりの時を経て同じ殿堂に並んでいるのだから、出来すぎなくらい美しい話だ。 子規が大学予備門(のちの一高)の学生だった明治十九年から二十三年頃には、まだ「野球」という日本語すら一般には定着していなかった。横文字のまま「ベースボール」と呼ばれる、書生たちの新しい遊びだった。 子規はこれに夢中になった。仲間たちと連れ立って、上野公園の空き地でボールを追いかけた。守備位置は捕手。のちに病床に伏す人、という印象の強い子規が、二十歳そこそこの頃には汗まみれでマスクをかぶり、ミットを構えていたのである。 有名な逸話がある。子規の幼名は「升(のぼる)」。これにちなんで、雅号のひとつを「野球」と書いて「のぼーる」と読ませた。ただし、誤解のないように書いておくと、「野球(やきゅう)」という訳語そのものは、のちに教育者の中馬庚が考案したものとされる。子規の「野球(のぼーる)」は、あくまで自分の名前にボールを忍ばせた言葉遊びだ。それでも、雅号にまで持ち込むほど好きだった、ということがよく分かる。 言葉の人が、野球に残した言葉 子規の野球への貢献は、プレーだけにとどまらない。彼は言葉の人だった。「打者」「走者」「直球」「四球」――今では当たり前に使われている野球用語の多くを日本語に訳し、その普及に貢献したとされる。新聞「日本」の記者となってからは、ルールや面白さを伝える随筆を書き、野球を詠んだ俳句や短歌も数多く残した。 久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも これは子規の短歌である。万葉集ばりの枕詞「久方の」のあとに、いきなり「アメリカ人」と「ベースボール」が続く。この取り合わせの大胆さに、私は笑ってしまうと同時に、しびれてしまう。古典の教養と、舶来の新しい遊びへの少年のような好奇心。子規という人の魅力が、この一首に凝縮されている気がするのだ。 その功績が認められ、没後百年にあたる二〇〇二年、子規は野球殿堂入りを果たしている。俳人が野球殿堂に名を連ねるというのは、考えてみれば不思議な光景だが、明治の野球黎明期を知る者にとっては、むしろ当然の顕彰だったのだろう。 小説の上野の場面は、ほぼ史実だった さて、『坂の上の雲』に描かれた上野での野球は、司馬遼太郎の創作ではない。 子規自身の随筆『筆まかせ』に、明治二十三年三月二十一日の午後、上野公園の博物館横の空き地で試合をしたことが記されている。このとき子規が守ったのは、やはり捕手だった。つまり、小説の中で書生たちがボールを追っていたあの草原は、子規が実際にプレーしていた場所そのものなのである。 しかも、この試合には少し切ない背景がある。子規はその前年、明治二十二年に最初の喀血をしている。「子規」という号自体、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスにちなんだものだ。つまり明治二十三年春のこの試合は、すでに病を抱えた体で立ったグラウンドだった。子規が思い切りボールを追えた時間は、実はもう、残り少なかったのである。 三度読んだ小説の一場面が、百三十年以上前の上野に実在した光景だった。この事実を知ったとき、私は物語と現実の距離が、すっと縮まったような気がした。 正岡子規記念球場のこと 現在、上野公園の中に野球場がある。正式名称は「上野恩賜公園野球場」。東京文化会館の裏手にあたる、両翼六十五メートルほどの小ぶりなグラウンドで、休日には草野球や少年野球でにぎわう。 この球場に、二〇〇六年(平成十八年)七月二十一日、「正岡子規記念球場」という愛称が付けられた。上野恩賜公園の開園百三十周年を記念する事業の一環で、同じ日に句碑の除幕式も行われている。碑に刻まれているのは、子規のこの句だ。 春風や まりを投げたき 草の原 春の風に吹かれて、ボールを投げたくてたまらない。若き日の子規の、体の奥から湧き上がるような野球への思いが、十七文字にそのまま閉じ込められている。 ひとつ付け加えておくと、この球場そのものが子規の時代からあったわけではない。子規たちがプレーしたのは、あくまで公園内の空き地や草原である。後年、そのゆかりを記念して、いま公園にある球場に子規の名が冠された、というのが正確なところだ。それでも、子規がボールを追った同じ上野の杜に、彼の名を持つグラウンドがあり、今も子どもたちが白球を追いかけている。これはなかなか、いい話ではないかと思う。 白球を追った者として 実は私自身、中学から高校まで野球部で白球を追いかけてきた人間である。昭和五十年代の終わりから六十年代、来る日も来る日も泥だらけでボールを追った日々を思い出すと、明治の書生たちが上野の草原ではしゃいでいた光景が、他人事とは思えなくなる。 道具も整わない、ルールの翻訳すらこれからという時代に、それでもボールを投げ、打ち、走ることが、たまらなく楽しかったのだろう。その楽しさは、百年経っても変わらない。子規は三十四年の短い生涯のうち、晩年の多くを病床で過ごした。だからこそ、思い切り体を動かせた上野での日々は、彼にとってかけがえのない時間だったはずだ。「まりを投げたき」という句に込められた切実さは、病を得てからの子規が振り返る、あの草の原の眩しさでもあったのだと思う。 令和の野球は、ずいぶん遠くまで来た。メジャーリーグで日本人選手が当たり前に活躍し、きらびやかなボールパークの映像が毎日のように流れてくる。それ自体は素晴らしいことだと思う。けれど野球の原点は、子規たちが駆け回った、あの何もない草の原にある。ボールひとつとバットが一本あれば、それだけで日が暮れるまで楽しかった――その感覚を、私は自分の少年時代の空き地や校庭の記憶として、確かに知っている。 走って、確かめてきた その日は、上野での用事の合間に少し時間が空いた。せっかく現地にいるのだから、走らない手はない。私は身軽になって、公園の中を走り出した。 まず向かったのは、国立科学博物館の前である。大きな楠が枝を広げ、その向こうにシロナガスクジラの実物大模型が横たわっている。広場には観光客や家族連れが思い思いに腰を下ろしている。舗装された明るい広場だ。けれど、ここがあの「博物館横の空き地」の一帯なのだと思うと、足元の景色が少し違って見えてくる。百三十年あまり前、この近くで子規たちがボールを追っていた。観光客のざわめきの底に、書生たちの掛け声が聞こえてくるような気がした。 球場は、東京文化会館の裏手にあった。入口の門には、堂々と「正岡子規記念球場」の看板が掲げられている。足元のマンホールの蓋にまで、同じ文字が刻まれていた。そして、ちょうどこの日は少年たちが試合の最中だった。金網の向こう、土のグラウンドと天然芝の上を、白いユニフォームが駆けていく。打球の音と、監督の声と、子どもたちの歓声。「今も子どもたちが白球を追いかけている」と先に書いたが、それはまさに、目の前の実景だった。 句碑は、球場脇の木陰にひっそりと立っていた。これがなかなか凝った造りで、黒い御影石の上に、白い円盤がはめ込まれている。近づいてよく見ると、その円盤は野球のボールなのだ。白い革に縫い目が走り、その縫い目の間を縫うように、句が刻まれている。 春風や まりを投げたき 草の原 文字だけで知っていたこの句が、ボールの意匠の中に立ち上がっているのを見て、思わず唸ってしまった。手前には台東区教育委員会による解説板があり、平成十八年七月の建立であること、子規の経歴と野球への貢献が丁寧に記されている。 目を閉じて 句碑の前を離れ、グラウンドの脇にしばらく立った。 少年たちの声を聞きながら、私は目を閉じてみた。ここで、若き日の子規と真之が野球をしている。汗まみれの書生たちが、声を上げ、ボールを追い、笑っている。まだ何者でもない青年たちが、これから登っていく坂の上の雲を、まだ知らないままに。 目を開けると、目の前では令和の少年たちが白球を追っていた。明治の書生も、昭和の野球少年だった私も、いま目の前で駆けるあの子たちも――根っこのところは、何ひとつ変わっていない。春風の中でボールを投げたい、ただそれだけの気持ちで、人は草の原に立つのだ。 三度読んだ小説の一場面が、自分の足で立つ現実の風景とひとつになった。用事の合間のほんの短い時間だったけれど、忘れがたいひとときになった。 まだ読んだことのない方は、ぜひ一度。明治という時代を、坂の上の一朶の雲を見つめて登っていく青年たちの物語です。長い旅ですが、何度でも読み返したくなります。 新装版 坂の上の雲(一)司馬遼太郎/文春文庫(新装版・全8巻)。まずは第一巻から Amazonで見る › 皆さんには、好きな小説の舞台を訪ねてみたい場所がありますか。よろしければ、コメントで教えてください。

June 13, 2026

ドライブシュートだぁぁぁ ― ワールドカップ前夜に、四つ木と『キャプテン翼』を思う

明日、ワールドカップが開幕する 明日、二〇二六年六月十一日。北中米の三か国――アメリカ、カナダ、メキシコを舞台に、ワールドカップが開幕する。三つの国にまたがって行われるのは大会史上はじめてのことで、出場国はこれまでで最多の四十八か国にまでふくらんだ。開幕戦の地は、メキシコシティ。あの伝説的なスタジアム、エスタディオ・アステカに、世界中の目が集まる。 そして、私たちの日本代表も、当然のようにそこにいる。八大会連続、八度目の出場である。グループステージの初戦も、開幕からほんの数日後に控えている。眠い目をこすりながら、夜中や明け方にテレビの前に陣取る――そんな夏が、また始まろうとしている。 ――「当然のように」と書いて、ふと手が止まった。本当に、当然なのだろうか。少なくとも私が少年だったころの日本にとって、ワールドカップという舞台は、月の裏側のように遠い、手のとどかない場所だった。テレビの中の、よその国のお祭りだった。それが今では、出ていることに誰も驚かない。この四十年あまりで、私たちはずいぶん遠くまで来たものだと思う。 野球少年が、ボールを持ち出した日 時間を、その四十年あまり巻き戻したい。 一九八三年(昭和五十八年)十月十三日。木曜日の夜、テレビ東京系で一本のアニメがはじまった。『キャプテン翼』である。原作はその二年前から週刊少年ジャンプで連載がはじまっていたが、動いて、しゃべって、必殺シュートを放つ翼くんたちを茶の間で見たときの衝撃は、今もはっきりと覚えている。汗くさい根性ものとはまるで違う、明るくて、爽やかで、空までボールが飛んでいきそうな世界だった。 そのとき私は十四歳、中学二年生。野球一筋の、バリバリの野球少年だった。バットを振り、白球を追うことしか頭になかった少年が、たった一本のアニメに足もとをすくわれた。サッカーである。野球少年でありながら、私はすっかりサッカーに夢中になってしまった。 思えば、あの作品にはずるいくらいの魅力があった。重力を無視したようなドライブシュート、二人で放つツインシュート、そして地を這うようなタイガーショット。スポーツの「正しさ」よりも、少年の「こうだったらいいのに」を真ん中に置いた世界。野球で鍛えた負けん気が、そっくりそのままサッカーへ流れ込んでいくのに、時間はかからなかった。 困ったのは、サッカーボールなど持っていなかったことだ。そこで私は、部活が終わったあと、こっそりと学校のサッカーボールを持ち出した。そして帰り道の途中にある空き地で、野球のユニフォーム姿のまま、ボールを蹴った。胸には野球部の誇り、足もとには翼くんへの憧れ。今思えば、なんともちぐはぐな格好だったろう。 それでも、私は本気だった。あるときは大空翼になり、あるときは岬太郎になり、あるときはライバルの日向小次郎になりきった。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と叫びながらボールを蹴り上げ、「タイガーショット!!」と、一人で実況までつけた。極めつけは帽子だ。野球少年のくせに、私はゴールキーパー・若林源三と同じアディダスの帽子をかぶっていた。野球帽ではなく、である。あのころの私の頭の中では、グラウンドとサッカー場の境目が、もう溶けてなくなっていたのだと思う。 そしてこれは、私だけのことではなかったはずだ。あの放送がはじまってから、全国の公園や空き地は、ボールを追う少年たちであふれかえった。それまで野球少年ばかりだった日本の原っぱの景色を、一本のアニメが塗り替えてしまったのだ。今の日本サッカーの土台には、あのとき足もとを変えられた、数えきれない少年たちがいる。私も、その末席に、確かにいた。 翼くんは、葛飾の子だった 大人になってから知って、思わず膝を打ったことがある。『キャプテン翼』の作者・高橋陽一先生が、私の暮らす葛飾区の、それも四つ木の出身だということだ。 作中で翼くんが所属するチーム「南葛」。この名前は、高橋先生の母校である東京都立南葛飾高校の略称からきているという。物語の舞台そのものはサッカー王国・静岡をイメージしているそうだが、その名前のルーツは、まぎれもなく、私たちの葛飾にあったのだ。テレビの向こうのまぶしい世界が、実はすぐ隣町とつながっていた。そう知ったときの、くすぐったいような誇らしさは、今でもうまく言葉にできない。 その縁もあって、今の四つ木界隈は、すっかり「キャプテン翼の街」になっている。京成電鉄の四ツ木駅は翼くんたちの名場面で彩られ、駅を出れば、高橋先生監修のキャラクター銅像が、四つ木・立石の各所に九体も点在している。最初の大空翼像が四つ木つばさ公園にお披露目されたのが二〇一三年。地元には作中と同じ名を冠したサッカークラブ「南葛SC」も生まれ、毎年一月には「キャプテン翼CUPかつしか」という大会まで開かれている。漫画の中の南葛が、現実の葛飾の街へと、ゆっくり染み出してきたようなものである。 九体の銅像を、走って巡った そして今日、二〇二六年六月十日。ワールドカップ開幕の前日に、私は仕事の休憩時間を使って、九体すべてをランニングで巡ってきた。名づけて「キャプテン翼銅像コンプリートラン」。総距離は、およそ七キロである。 出発は、翼くんたちの装飾でいろどられた京成・四ツ木駅。駅前のポケットパークに立つ石崎了から走り出し―― 四つ木公園の日向小次郎、 四つ木つばさ公園の大空翼、 めだかの小道のロベルト本郷と翼――このあたりは住宅街で信号も少なく、足が気持ちよく前へ出た。 葛飾郵便局前の中沢早苗、 渋江公園の岬太郎を過ぎると、道はいよいよ立石エリアへ。 下町の商店街の匂いの中を進み、立石みちひろばで若林源三と再会したときには、思わず足が止まった。中学のころ、野球少年のくせに、わざわざ同じアディダスの帽子をかぶっていた、あの守護神である。 そして奥戸街道を東へ。最後にたどり着いたゴールは、南葛飾高校の前に立つ、ツインシュートの翼像だった。 走り終えて、はっとした。出発点は翼くんの装飾に包まれた駅、そして終着点は、「南葛」という名前そのものが生まれた高校の前。私はこの七キロで、知らず知らずのうちに、物語の名前の故郷まで走り着いていたことになる。よくできた円環だと、一人で妙に感心してしまった。 走りながら、おかしくなって、つい笑ってしまった。四十年あまり前、放課後の空き地まで、こっそり持ち出したサッカーボールを抱えて走っていったあの少年が、今は仕事の合間に、同じ葛飾の路地を、銅像を追いかけて走っている。格好こそ違え、やっていることはちっとも変わっていない。翼くんに会いに行くためなら、私はいつだって走り出してしまうらしい。 あの空き地で、私が一人何役もこなして「なりきって」いた翼も、岬も、小次郎も若林も、今は確かなかたちを与えられて、私の暮らす町に立っている。憧れて真似していたヒーローたちの足もとに、五十代も半ばを過ぎた私が、息を切らせて立つ。なんだか、長い夢の続きの中を走っているような心地だった。 その『キャプテン翼』も、二〇二五年の春、四十三年にわたる長い連載に幕を下ろした。私が中学二年で出会った翼くんは、私が還暦を前にするまで、ずっとどこかで走り続けていたことになる。今日、銅像となって動かない翼くんの前に立っても、不思議と「終わった」という感じはしなかった。むしろ、ここから先はきみたちを見てきた私たちが走る番だ、とでも言われているような気がした。 「ワールドカップ」という、かつての夢のゴール 最初の翼像の除幕式で、高橋先生はこんなことを語っていたという。この作品のゴールは、大空翼がワールドカップの舞台に立ち、そこで活躍することだ、と。 このひとことに、私はしばらく胸を掴まれた。 考えてみてほしい。翼くんがテレビの中を駆け回っていたあのころ、現実の日本代表は、ワールドカップに一度も出たことがなかった。ワールドカップで活躍することなど、漫画の中だけの、それこそ翼くんの夢物語だったのだ。空き地でドライブシュートを蹴っていた野球少年の私も、まさか自分が生きているうちに、日の丸を背負った選手たちが本当にあの舞台に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。 それが、どうだろう。今や日本代表は八大会連続の出場を果たし、選手たちは「ワールドカップ優勝が目標」と、ためらいなく口にする。そして私たち国民も、「もしかしたら」と、本気で期待してしまう時代になった。翼くんがひたむきに追いかけた夢のゴールに、現実のほうがいつのまにか追いつき、いまや肩を並べ、追い越そうとさえしている。漫画が現実の先を走り、現実が必死にそれを追いかけ、そしてとうとう手が届いた。これは、本当に、すごいことだ。 明日、開幕の笛が鳴る。テレビの前に座るとき、私はきっと、今日めぐった九体の銅像を――そしてその向こうに、あの空き地で、野球のユニフォームのままボールを蹴っていた十四歳の自分を思い出すだろう。「ドライブシュートだぁぁぁ……!」と、誰もいない原っぱで叫んでいた、あの少年を。あの少年に、教えてやりたい。きみが夢中で真似していたあの夢物語は、いつか本物になるんだよ、と。そして四十年あまり経っても、きみはやっぱり、翼くんを追いかけて走っているよ、と。 あなたには、サッカーにまつわる「あのころの夢」が、ありますか。 【コースガイド】キャプテン翼銅像コンプリートラン(約7km) 最後に、今日走ったコースを記しておきます。葛飾の下町を巡りながら、翼くんたちに会える約7キロ。走ってみたい方は、ぜひ。 スタート:京成四ツ木駅(駅前のラッピング・翼の装飾を見てから出発) ① 石崎了像 ― 四ツ木駅前ポケットパーク(駅から徒歩1分) ② 日向小次郎像 ― 四つ木公園(平和橋通りを北へ/約300m) ③ 大空翼像 ― 四つ木つばさ公園(北東方向へ/約450m) ④ ロベルト本郷&翼像 ― めだかの小道(木根川中央公園方向へ/約500m) ⑤ 中沢早苗像 ― 葛飾郵便局前(約350m) ⑥ 岬太郎像 ― 渋江公園(平和橋通り方向へ/約900m) ⑦ 翼〈ヒールリフト〉像 ― 立石一丁目児童遊園(約800m) ⑧ 若林源三像 ― 立石みちひろば(京成立石駅方面へ/約900m) ⑨ 翼〈ツインシュート〉像 ― 南葛飾高校前(奥戸街道を東へ/約1.3km) ゴール! ...

June 10, 2026

雨の御茶ノ水、人の手が掘った谷を走る

東京ドームでの応援を終えて外に出ると、空は薄墨色で、小雨がぽつぽつと落ちていた。傘をさすほどでもない。こういう日は、いっそ走り出してしまったほうが気持ちがいい。 水道橋から神田川沿いに出る。川は深い谷の底を流れていて、両岸の石垣は一面、蔦と夏草に覆われている。梅雨どきの緑は、晴れた日よりもずっと濃い。雨に濡れて、葉の一枚一枚が光っているように見えた。 谷の底を、電車がすれ違う 御茶ノ水のあたりまで来ると、谷はいよいよ深くなる。眼下を中央線のオレンジと総武線の黄色がすれ違い、特急が静かに滑り込んでいく。崖の上には順天堂の新しいタワーや、ガラス張りのビルが並ぶ。電車と、川と、高層ビルが、ひとつの画面の中に層になって重なっている。東京でもなかなか出会えない景色だ。 ここに来るといつも、ひとつ不思議に思うことがある。 ——この谷は、自然にできたものではない。 四百年前、誰かが山を割った 実はこの渓谷は、四百年前に人の手で掘られたものだ。もともとここには神田山と呼ばれる台地(今の本郷台地)があった。江戸の洪水対策と外堀づくりのために、その台地を真っ二つに掘り割って川を通した。元和六年(1620)、徳川秀忠の命を受けて工事を担ったのが、仙台藩の伊達政宗。だからこの区間は今も「仙台堀」と呼ばれている。のちに四代藩主・綱村が川幅を広げ、おおよそ今の姿になった。 スコップも重機もない時代に、山を割って谷をつくる。雨に濡れた石垣をのぼる蔦を見上げながらそのことを思うと、足が少し止まってしまう。 聖橋にも、昭和が残っている 谷に架かる聖橋も、由来をたどると面白い。あの優美なコンクリートのアーチ橋は、昭和二年(1927)、関東大震災からの復興事業として架けられたものだ。設計は当時まだ若かった建築家・山田守。「聖橋」という名前は公募で決まったもので、両岸に建つ湯島聖堂とニコライ堂、二つの「聖堂」を結ぶことに由来している。 江戸の土木、昭和の復興、そして令和のガラスのビル。この谷の上では、ぜんぶの時間が一度に見えてしまう。 走る速さは、気づくための速さ 走るというのは、こういう景色とすれ違うためにちょうどいい速さなのかもしれない。車では速すぎて、歩きでは少し遠い。雨の日にゆっくり走っていると、いつもなら通り過ぎてしまう「誰かの手仕事」に、ふと目が留まる。 このあと湯島の坂を上がって、上野へ。京成上野の駅前で足を止めたころには、雨はほとんど上がっていた。四キロちょっとの、寄り道だらけの観光ラン。記録はたいしたことないけれど、四百年と昭和とをまたいで走った気がして、なんだか少し得をした気分になった。

June 8, 2026