【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳

今日は5月5日、こどもの日だ。 ゴールデンウィーク最後の祝日。子どもにとっては「もうすぐ学校が始まる」という一抹の切なさと、それでも「今日はまだ特別な日だ」という気持ちが混在する、不思議な一日だった。 昭和の5月5日には、今では見かけなくなったある光景があった。 空を泳ぐ、大きな鯉のぼりだ。 空が、鯉で埋まっていた 昭和40年代から50年代にかけて、こどもの日が近づくと、日本中の住宅街の空に鯉のぼりが上がった。 大きな真鯉(黒)、その下に緋鯉(赤)、そして小さな子鯉(青)。一家に男の子がいれば、屋根の上に竿を立て、高々と鯉のぼりを掲げるのが当たり前だった。風が吹くたびに鯉のぼりがはためいて、丸く開いた口から風を飲み込んでいく。あの姿は、昭和の5月の空の定番だった。 「♪屋根より高い鯉のぼり」という歌の通り、本当に屋根より高いところに掲げた家が多かった。父親が梯子をかけて竿を立てる姿を、子どもは下から見上げていた。 鯉のぼりの由来は江戸時代に遡る。中国の伝説に「滝を登り切った鯉は竜になれる」というものがあり、それにちなんで「この子も鯉のように、どんな困難も乗り越えて育ってほしい」という親の願いが込められた。でも子どもだった私には、そんな由来はどうでもよかった。あの大きな黒い鯉が空に泳いでいるのを見るだけで、なんとなく特別な気分になれた。それだけで十分だった。 兜と、柏餅と、そして銭湯へ 昭和のこどもの日には、家の中にも決まった景色があった。 床の間や棚の上には兜飾りや五月人形が鎮座していた。黒塗りの台の上に飾られた金色の兜は、子どもの目には圧倒的な存在感があった。触ってはいけないと言われながら、こっそり手を伸ばした記憶がある。 食べ物といえば柏餅。柏の葉で包まれた白いお餅の中に、あんこが入っている。柏の葉は「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という特徴があり、「子孫繁栄」の縁起を担ぐとされていた。昭和の子どもには縁起よりも、あの独特の葉の香りとモチモチした食感の方が大切だったけれど。 そして夜になると、父か母に手を引かれて、銭湯へ向かった。 あの頃、まだ家にお風呂がない家庭は珍しくなかった。昭和40年代の日本では、内風呂の普及率はまだ6割にも満たなかったという。近所の銭湯が、毎日の生活に当たり前のように溶け込んでいた時代だ。 こどもの日の銭湯には、菖蒲湯が用意されていた。大きな湯船に、細長い菖蒲の葉が何本も浮かんでいる。独特の青くさい香りが、湯気と混じって浴室に漂っていた。菖蒲の強い香りが邪気を払うと言われていたし、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武」「勝負」と同じ読みであることから、男の子の健やかな成長を願う意味もあった。 銭湯のおじさんかおばさんが、湯船に菖蒲をどっさりと入れてくれていた。あの光景は、こどもの日だけの、特別な銭湯の顔だった。 湯上りの、コーヒー牛乳 銭湯から上がった後の記憶が、今も鮮やかに残っている。 体を拭いて着替えて、番台の横の冷蔵ケースの前に立つ。そこに並んでいた瓶入りの飲み物の中から、母が「今日はこどもの日だから」と言って、コーヒー牛乳を買ってくれた。 瓶のふたを開けると、甘い香りがふわっと立ちのぼる。冷たくて、甘くて、ほんのりビターで。あの味は、コーヒー牛乳というよりも「ご褒美」そのものだった。普段はなかなか買ってもらえなかったから、特別感がひとしおだった。 当時の銭湯の定番飲み物といえば、白い牛乳、フルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳の三種類が並んでいた。腰に手を当ててグビグビと飲む、あのスタイルも含めて、銭湯帰りの儀式のようなものだった。 コーヒー牛乳1本、ちょっぴり嬉しかった。そのくらいの小さな幸せが、昭和のこどもの日には確かにあった。 鯉のぼりが空から消えていった それから時代が変わった。 昭和50年代後半になると、住宅街の空を泳ぐ大きな鯉のぼりが、少しずつ減っていった。都市部でマンションや集合住宅が増え、大きな竿を立てられる家が少なくなった。内風呂が普及し、銭湯が一軒また一軒と姿を消していった。瓶入りのコーヒー牛乳も、紙パックやペットボトルに取って代わられた。 鯉のぼりが似合っていたのは、あの時代の暮らしの形そのものだったのかもしれない。庭付きの一軒家、縁側、床の間。毎日歩いて通う近所の銭湯。そういう暮らしが当たり前だったからこそ、鯉のぼりもコーヒー牛乳も、あれほど輝いて見えた。 町の空が変わり、家の形が変わり、暮らしが変わる中で、昭和のこどもの日の風景は、少しずつ遠ざかっていった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には大きな鯉のぼり。夜には銭湯の菖蒲湯。そして湯上りに、冷たい瓶のコーヒー牛乳。 あれだけのことが、あんなにも嬉しかった。 昭和を生きた私たちにとって、こどもの日はそういう日だったのだと思う。あなたの記憶の中の5月5日には、どんな味や香りが残っているだろうか。

May 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々

今日は5月5日、こどもの日だ。 空には鯉のぼりが泳ぎ、家には柏餅があって、夜は銭湯の菖蒲湯に入る。昭和のこどもの日にはそういう、穏やかで決まった景色があった。 でも、テレビをつければ、そこには違う景色が映っていた。 難しい顔をしたアナウンサーが、子どもには意味のわからない言葉を繰り返していた。「あさまさんそう」「ロッキード」「りんちょう」。何かが起きているとは感じた。でも何が起きているのかは、わからなかった。 あれから五十年近くが経った。今ならば、あの言葉の意味がわかる。 鉄球が、山荘に打ち込まれた──浅間山荘事件(昭和47年) 1972年の冬、日本中がテレビの前に釘づけになった。 2月19日、長野県軽井沢の山荘に武装した若者たちが立て籠もった。「連合赤軍」という名の学生運動グループが、管理人の妻を人質に取り、山荘に閉じこもったのだ。警察との対峙は10日間に及んだ。 子どもだった私には、「立て籠もり」という言葉の意味もよくわからなかった。でも、テレビに映し出された光景は目に焼き付いている。雪の中に機動隊員が並んでいて、クレーン車の先に大きな鉄球がぶら下がっていた。 2月28日の強行突入、あの鉄球が山荘の壁に打ち込まれる瞬間、視聴率は89.7%を記録した。ほぼ日本中の家のテレビが、同じ画面を映していたことになる。 事件が終わった後、もっと恐ろしい事実が明らかになっていった。 連合赤軍のメンバーたちは、山荘に立て籠もる前に、山の中で仲間どうしを「総括」という名目で殺し合っていた。14人が粛清された。革命を叫んでいた若者たちの末路は、自分たちの手で仲間を殺すことだったのだ。 大人たちが深刻な顔でそのことを話していた。子どもには意味がわからなかった。でも、何か取り返しのつかないことが起きたのだということは、なんとなく伝わってきた。 あの事件が、日本の学生運動の「終わりの始まり」だったと、今はわかる。 総理大臣が、捕まった──ロッキード事件(昭和51年) 「ロッキード」という言葉を、初めて聞いたのはいつだっただろうか。 1976年、私はまだ小学生だった。ニュースでは毎日のように「ロッキード」という聞き慣れないカタカナが飛び交っていた。父が「大変なことになった」と言いながらテレビを見ていた。 アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、日本の政治家や官僚に巨額の賄賂を渡していた。そのことが、2月のアメリカ上院の公聴会で暴露された。日本中が震えた。 そして7月、信じられないことが起きた。 元総理大臣の田中角栄が、逮捕されたのだ。 子どもながら、これは普通のことではないと感じた。総理大臣というのは日本で一番偉い人のはずだ。その人が手錠をかけられて連行される——そんなことがありえるのか、と。 「5億円」という金額がニュースで繰り返された。子どもには5億円がどれくらいの金額なのか想像もできなかったけれど、大変な数字だということはわかった。父が「やっぱりそういうことか」とつぶやいていた。 田中角栄という人は不思議な人だった。 逮捕されて裁判にかけられても、なお選挙では大量得票で当選し続けた。地元の新潟では英雄扱いだった。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた政治手腕を惜しむ声は根強かった。有罪判決が確定した後も、「闇将軍」として政界に影響力を持ち続けた。 この事件は「政治とカネ」という言葉を日本語に定着させた。それから五十年、同じ言葉が何度も何度も繰り返されている。 あの夏に見たニュースの衝撃は、大人になった今も消えない。 国鉄が、なくなった──臨調と行政改革(昭和56年) 「国鉄がなくなる」と聞いたとき、子どもの私には意味がわからなかった。 国鉄とは「国有鉄道」のことで、日本全国の鉄道を国が直接運営していた組織だ。昭和の子どもにとって、国鉄は空気のような存在だった。旅行に行けば国鉄、通学に使えば国鉄。あって当たり前で、なくなるはずのないものだと思っていた。 1981年3月、鈴木善幸内閣は「第二次臨時行政調査会」、通称「臨調」を発足させた。会長は土光敏夫という財界の大物で、「増税なき財政再建」というスローガンを掲げた。国鉄・電電公社・専売公社という三つの巨大な国営事業を民間に移すという、大改革の議論が始まった。 5月5日の頃、その審議は本格的に動き出していた。 でも子どもには、臨調が何なのかわからなかった。なぜ国鉄をなくす必要があるのかもわからなかった。ニュースの映像に出てくる難しい顔のおじさんたちが、難しい言葉で何かを言い合っている。それだけだった。 あれから時が流れ、1987年、国鉄は本当になくなった。 JR東日本、JR西日本、JR東海——今私たちが毎日使っている鉄道会社は、あの議論の果てに生まれたものだ。電電公社はNTTになり、専売公社はJTになった。「官から民へ」という言葉が日本政治のキーワードになり、その流れは二十年後の小泉構造改革まで続いた。 国鉄の赤字は、廃止の時点で37兆円にのぼっていたという。その借金は国民全体で分担することになった。平成になっても、令和になっても、まだ返し続けているものがある。財政の問題というのは、一度積み重なると、そう簡単には消えない。 「国鉄がなくなる」という言葉の本当の意味を、子どもの私はわかっていなかった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には鯉のぼりが泳いでいた。でも、テレビの中では何かが揺れていた。 浅間山荘の鉄球。田中角栄の逮捕。国鉄をなくすという議論。 子どもだった私には意味がわからなかった。でも、あの出来事のひとつひとつが、今の日本を作ってきた。警察の特殊部隊が生まれ、「政治とカネ」という言葉が定着し、JRとNTTが誕生した。 大人たちがあの頃に格闘していた問題が、形を変えて今も続いている。 こどもの日に、昭和の大人たちが背負っていたものを振り返る。それが、あの時代を生きた私たちにできることのひとつかもしれない。 あなたの記憶の中の5月5日には、テレビの向こうにどんな景色が映っていただろうか。

May 4, 2026