【昭和の今日は何があった日?】7月2日──手作りの翼が、琵琶湖に落ちていった夏

今日は7月2日。梅雨明けが近づき、空がだんだんと夏の色になってくるころです。 夏が来ると、決まって思い出すテレビ番組があります。手作りの飛行機に乗った人が、高い台の上から琵琶湖へ向かって飛び出していく、あの番組です。たいていの機体は、翼をバタバタさせながら、あっという間に水面へ落ちていきました。それでも私は、画面にかじりついて見ていたものです。 鳥人間コンテスト。 その記念すべき第1回が開かれたのが、昭和52年(1977年)の今日、7月2日のことでした。当時の私は八歳、小学二年生。とはいえ、正直に申し上げると、この「第1回」をリアルタイムで見た記憶は、私にはありません。なぜそう言い切れるのか。それには、ちゃんとした理由があるのです。 それは『びっくり日本新記録』の一企画から始まった 鳥人間コンテストは、最初から独立した大きな番組だったわけではありません。 第1回が開かれたのは、滋賀県近江八幡市の宮ヶ浜水泳場。読売テレビが主催したこの大会は、もともと『びっくり日本新記録』という人気番組の中の、いち企画として始まりました。一般から募った参加者が、風変わりな競技で日本一を競う。そんな視聴者参加型のバラエティ番組の一コーナーだったのです。 そう、あの『びっくり日本新記録』です。チャレンジボーイの轟二郎さんが、本名の三浦康一で毎回さまざまな競技に体当たりしていた、あの番組です。「逆立ち相撲」で日本一になったこともありましたね。私は毎回、轟二郎さんのチャレンジを楽しみに見ていたものです(笑)。もっとも、その轟二郎さんが鳥人間コンテストに出場していたかどうかは、残念ながら私の記憶には残っていません。 番組のお手本になったのは、イギリスで昭和46年(1971年)に始まった「バードマン・ラリー」という催しでした。人力だけで飛ぶ飛行機を自作して飛距離を競うという、当時の日本人にはなんとも突拍子もないアイデアです。ところが、いざ始めてみるとこれがすごかった。第1回優勝機の記録は82.44メートル。当時の世界記録が48メートルだったのですから、いきなり大きく塗り替えてしまったわけです。しかもこの優勝機を設計したのは、本職の航空機技術者でした。素朴な遊び心の裏に、本気の技術が隠れていたのです。 第1回が放送されたのは、この『びっくり日本新記録』の中だけ。単独の番組として独立するのは、翌昭和53年(1978年)の第2回からでした。つまり第1回はまだ小さな企画にすぎず、八歳の私の記憶に残っていないのも、無理はなかったのです。 扇風機とスイカと、わが家の夏の風物詩 私が鳥人間コンテストを夢中で見るようになったのは、それが「夏の風物詩」として定着してからのことです。 夏休みの昼下がりか夕方になると、居間のブラウン管テレビの前には、自然と家族が集まっていました。エアコンはまだ家になく、扇風機が首を振りながら「ブーン」と音を立てて回っている。窓は網戸にして開け放ち、外からはセミの大合唱。冷えた麦茶やスイカを食べながら見る鳥人間コンテストは、わが家の夏の風物詩でした。 番組が始まると、琵琶湖に組まれた高いスタート台が映ります。その高さを見るだけで、「あんなところから飛ぶなんて怖くないのかな」と胸がドキドキしたものです。 母は「危ないねえ」と言いながらも、いつの間にか手を止めて見入っている。私は「飛べ! 飛べ!」と大騒ぎ。家族みんなが同じ場面で声を上げる、そんな時間でした。 機体が飛び立つと、「おーっ!」と歓声が上がる。遠くまで飛べば拍手、すぐ湖へ落ちても「惜しかったなあ」と残念がる。誰かを笑うというより、「よく挑戦したね」という気持ちで見ていたように思います。 翼の形ひとつで、飛び方が変わる 大学生や会社のチームが、何か月もかけて飛行機を作ったと紹介されると、「すごいなあ。こんなのを自分たちで作れるんだ」と感心しました。 理科の勉強は好きでも嫌いでもありませんでしたが、翼の形やプロペラの工夫で飛距離が変わることには、不思議な魅力を感じていました。同じように台から飛び出しても、ある機体はふわりと伸びていき、ある機体はストンと落ちてしまう。その違いがどこから来るのか、子どもながらに面白かったのです。 番組を観た翌日には、家の前や近所の空き地で紙飛行機を飛ばして遊びました。「昨日の飛行機みたいに飛ばないかな」と、折り方を変えたり、羽の角度を少し曲げたりして夢中になったものです。たった一枚の紙なのに、友達と「今のはすごく飛んだ!」と競い合う時間が、本当に楽しかった。あれはきっと、テレビで見た鳥人間たちの、ささやかな真似ごとだったのでしょう。 落ちても、また挑む 今になって思うのですが、あの番組の魅力は、実は「飛ぶこと」だけではなかった気がします。 初期の鳥人間コンテストは、ルールがほとんど決まっていませんでした。だから、本気で記録を狙う真剣な機体もあれば、明らかに飛ぶ気のない、鳥の着ぐるみを着て琵琶湖にダイブするだけの参加者もいたのです。真面目に挑む人と、笑わせにきている人。その両方が同じ台の上から飛び出していく、あの自由なごちゃ混ぜ感がありました。 それでも、飛び込んでいく人たちを見ていると、どこか胸が熱くなったものです。ギリシャ神話のイカロスも、蝋でかためた翼で空を目指しました。日本にも、ライト兄弟より前に飛行原理を考えたとされる二宮忠八という人がいたと伝わります。形は違えど、鳥人間たちも同じ夢を追っていたのでしょう。 そして、誰かが空を飛ぼうと本気で挑戦する姿を見ていると、自分まで何かに挑戦したくなる。記録の数字よりも、「よし、やってみよう」という気持ちのほうが、私の心には残りました。 半世紀かけて、翼は琵琶湖を渡った おふざけ半分に見えた大会も、年を追うごとに本格的になっていきました。 大きな転機は昭和60年(1985年)。人の脚力でプロペラを回して飛ぶ「人力プロペラ機」が登場し、記録が一気に290メートル台まで伸びたのです。翌年には滑空機部門と人力プロペラ機部門が分けられ、競技としての性格が一段とはっきりしてきました。 そしてついに平成に入ると、琵琶湖そのものを横断してしまう機体まで現れます。第1回の世界記録が48メートルだったことを思えば、まさに桁違いの進化です。令和の今では、最高記録は往復コースで70キロ近くにまで達しているといいます。あのころ数十メートルで水面に落ちていた手作りの翼が、半世紀かけて、本当に湖を渡る翼になったのです。 それでも、番組の根っこにあるものは変わっていないように思います。手作りの飛行機で、自分の力で、空を飛ぶ。その一点だけは、昭和52年のあの日からずっと同じなのです。 おわりに 昭和のテレビには、家族みんなが同じ番組を見て、笑ったり驚いたりする力がありました。鳥人間コンテストも、その一つだったと思います。 今でも夏になって鳥人間コンテストの映像を見ると、いろいろなものが一緒によみがえってきます。扇風機の風、麦茶の入ったガラスのコップ、スイカの甘い香り、家族の笑い声。そして、あの少し丸みを帯びたブラウン管テレビの画面まで。 あの頃の夏は、テレビが家族を一つの部屋に集めてくれる、特別な存在でした。そして鳥人間コンテストは、子どもだった私に「人は本気になれば空だって目指せるんだ」と、夢を見せてくれた番組だったのです。 今年の夏も、誰かが琵琶湖の上で、空へ飛び出していくのでしょう。落ちるかもしれない。でも、飛ぶかもしれない。その一瞬のために台に立つ人たちに、あのころと同じ気持ちで、声援を送りたいと思います。 みなさんは、鳥人間コンテストにどんな思い出がありますか。 ところで、あの夏の翌日に夢中で飛ばした紙飛行機。あれは今の子どもたち――孫の世代にも、ちゃんと通じる遊びです。折り方ひとつで驚くほど飛ぶ名作が集まった一冊があれば、この夏、親子で、あるいはおじいちゃんと孫で、ちょっとした「鳥人間コンテスト」が開けます。 親子であそぶ折り紙ヒコーキ かんたんに折れて よく飛ぶ名作・13機日本折り紙ヒコーキ協会・戸田拓夫/かんたんに折れて、本当によく飛ぶ。夏休みの親子・孫との時間に Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月1日】変わり続けた箱と、変わらない一本 | 次の記事:(近日公開) ...

July 2, 2026