【昭和の今日は何があった日?】7月26日──僕はいつも別の場所にいた
「昭和の今日は何があった日?」——このシリーズを書くために、私はまず7月26日という日を調べてみました。すると、有名な出来事が三つ、目に飛び込んできます。 「ゲームは1日1時間」という、あの名言が生まれた日。「幽霊の日」という、いかにも夏らしい記念日。そして、月へ向かうロケットが打ち上がった日。 ところが、三つを並べて、私は正直に告白しなければなりません。——どれ一つとして、私の「思い出」ではないのです。ファミコンは買ったこともなかった。幽霊に震えた記憶もない。月ロケットに至っては、私はまだ2歳でした。 いつもなら、この欄には子ども時代の私の記憶が並びます。でも今日は違います。今日は、この三つの出来事を、読者のみなさんと一緒に、初めて調べていくことにします。そしてたぶん、最後に分かるはずです。世界がこの日を記憶しているあいだ、私はいったい、どこにいたのか。 ゲームは1日1時間、僕は一日中グラウンドに まず、あの名言です。「ゲームは1日1時間」。 調べてみて驚きました。生まれたのは、1985年7月26日。福岡市のダイエー香椎店で開かれた、ファミコンの全国キャラバン大会でのことでした。ハドソンの社員だった高橋名人が、集まった子どもたちに向けて、即興でこう言ったのだそうです。「ゲームが上手くなりたいなら、1時間くらい集中してやったほうがいいよ」と。それがいつしか「ゲームは1日1時間」という合言葉になり、日本中の親のお墨付きになっていきました。 任天堂がファミコンを発売して、ちょうど2年。あの『スーパーマリオブラザーズ』が世に出るのは、この年の9月です。つまり1985年の夏は、ファミコンブームがまさに夜明けを迎えようとしていた季節でした。コントローラーのボタンを1秒間に16回押す「16連射」で、高橋名人は子どもたちの憧れの的でした。『月刊コロコロコミック』の誌面をにぎわせ、全国のデパートやスーパーを回るキャラバン大会には、黒山の人だかりができたといいます。 そして「ゲームは1日1時間」。この一言は、ゲームに夢中になる子どもと、それを心配する親の、ちょうど真ん中に立つ言葉でした。ゲームをつくって売る側の人間が「やりすぎるな」と言う。そのふしぎな説得力もあって、この合言葉は日本中の家庭に広まっていったのでしょう。 ……と、ここまで書いて、私は気づきました。この夏、私は16歳。高校1年生でした。そして、ファミコンを持っていませんでした。興味も、正直なところ、まるでありませんでした。 理由ははっきりしています。野球です。 しかも、あのブームの真ん中にいたのは、小学生から中学生——つまり『コロコロ』を読む年頃の子たちでした。16歳の私は、ちょうどその世代の、一つ上のふちに立っていたことになります。 みんなが16連射を練習していたその夏、私は素振りのバットを振っていました。日本中の子どもたちがマリオを走らせていたその時間、私はグラウンドで白球を追いかけ、土にまみれていました。朝は誰よりも早くグラウンドに立ち、日が暮れるまでボールを追う。夏休みも、お盆も、その繰り返しです。ゲームに費やす1時間など、私にはありませんでした。仮にあったとしても、私はきっと、バットを振っていたと思います。 野球に夢中で、ゲームには本当に、これっぽっちも興味がありませんでした。だから、友達とゲームの話をしたという記憶さえ、私には一つもないのです。誰かの家に集まってコントローラーを奪い合う——そんな、いかにも昭和の子どもらしい光景の中に、私はとうとう一度も入っていきませんでした。ゲームというものは、私にとって、最後まで「よその世界の出来事」だったのです。 だから「ゲームは1日1時間」という名言も、当時の私の耳には一度も届いていませんでした。今の子どもたちが聞けば「そんなの当たり前」と笑うこの言葉が、実は40年も前に、しかも福岡のスーパーの店先で生まれていた——そのことを、私はこの歳になって、ようやく知ったのです。 幽霊も、僕を訪ねてはこなかった 二つめは「幽霊の日」です。 これも調べて知りました。1825年のこの日、鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』が、江戸の中村座で初めて上演された。それにちなんで、7月26日は「幽霊の日」とされているのだそうです。お岩さんの、あの怪談です。 そして昭和の夏といえば、怪談はごく身近なものでした。テレビをつければ夏の怪奇特番や心霊写真、遊びに行けばお化け屋敷や夜の肝試し。口裂け女のうわさに、学校の理科室や階段にまつわる怖い話。思えば昭和の子どもは、そこかしこで「怖いもの」と隣り合わせに夏を過ごしていました。背筋をひやりとさせて涼をとる——それが昭和の夏の定番だったはずです。 ところが、ここでもまた、私にはこれといった思い出がありません。怪談にも、お化け屋敷にも、心霊写真にも——どういうわけか、私は縁がありませんでした。 思い返せば、中学、高校と、私の夏の夜は早く更けていきました。翌日の練習のために、幽霊よりも早く床につく。テレビの前で夜ふかしをして震える、という夏の楽しみを味わう暇は、私にはありませんでした。体は疲れ果てていて、怖い話に付き合っている余裕など、なかったのかもしれません。四谷怪談のお岩さんも、心霊写真のあの手この手も、汗と泥にまみれた野球少年のところには、どうやら訪ねてこなかったようです。 2歳の僕は、月を見上げてもいなかった そして三つめ。1971年7月26日、アメリカの月ロケット「アポロ15号」が打ち上げられました。 これは三つの中でも、私からいちばん遠い出来事です。なにしろ当時、私は2歳。記憶があろうはずもありません。 それでも調べてみると、これがなかなか面白いミッションでした。アポロ15号は、月の上を走る車——「月面車」を初めて使った探検だったのです。船長のデビッド・スコットは、月面でちょっとした実験をしてみせます。左手に羽根、右手にハンマーを持ち、同時に手を離す。空気のない月では、重い鉄のハンマーと軽い羽根が、まったく同じ速さで、すとんと同時に地面に落ちました。「空気がなければ、物の落ちる速さは重さに関係ない」——400年ほど前にガリレオが唱えたこの法則を、人類は月の上で、その目で確かめてみせたのです。月の上を車が走り、その車から中継の映像が届く。冷静に考えれば、とんでもないことをやっていた時代でした。 ただ、月に人が降り立つという偉業も、このアポロ15号で四度目。世界の驚きは、少しずつ「見慣れたもの」へと変わりつつあった頃でもありました。 月といえば、私には一つだけ思い出があります。父が、事あるごとに「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」と口にしていたことです。あの言葉は、それこそ何度も何度も聞かされました。けれど不思議なことに、その2年後に打ち上がったこの15号の話は、父の口から一度も聞いた覚えがありません。人類が二度目、三度目と月へ通ううちに、月はいつしか、わざわざ語るまでもない、当たり前の場所になっていたのかもしれません。 2歳の私は、もちろん月を見上げてなどいませんでした。きっと、眠っていたことでしょう。 僕の7月26日は、いつも同じ場所にあった こうして三つを調べ終えて、私は妙に納得しています。 ゲームの名言も、夏の幽霊も、月のロケットも——世界はちゃんと、この7月26日を記憶している。けれど私には、そのどれもが「自分ごと」ではありませんでした。 理由は、たぶん、いつも同じだったのです。私はその日、別の場所にいた。あるときは2歳で親の腕の中にいて、あるときは翌日の練習に備えて眠っていて、そしてあるときは——炎天下のグラウンドで、ただひたすらに白球を追いかけていた。 世界を沸かせた名言も、夏を彩った怪談も、人類の偉業も、私の横をすうっと通り過ぎていきました。同じ時代の空気を吸いながら、私はまるで違うものを見ていたのです。 みんなが夢中になったものを、私は知らずにいました。それは少しさびしいことのようでいて、でも、そうではないのだと思います。ファミコンを知らなかったのは、私の両手が、別のもので塞がっていたからです。そしてその「別のもの」こそが、あの頃の私にとっては、月よりも、幽霊よりも、どんなゲームよりも大切なものでした。 みんなと同じ思い出を持たないことは、思い出がないことと同じではありません。私の7月26日は、ただ、みんなとは違うかたちをしていた。それだけのことなのだと、今は思えます。 みなさんの7月26日は、どんな一日でしたか。ファミコンに夢中だった方、怪談に震えた方、月を見上げた方——それぞれの「あの日、いた場所」を、よかったら聞かせてください。 「ゲームは1日1時間」の一言が、福岡のスーパーの店先から日本中へ広まっていった顛末。それを当の高橋名人本人が振り返ったのが、この一冊です。ファミコンに背を向けて野球ばかりしていた私のような人間が読んでも、めっぽう面白い。あの夏、コントローラーを握っていた側の"答え合わせ"として、同世代におすすめします。 高橋名人のゲーム35年史(ポプラ新書)高橋名人。16連射と「ゲームは1日1時間」の伝説を、本人がユーモアたっぷりに語る。ファミコン世代の必読書 Amazonで見る › 【昭和の今日は何があった日?】昭和四十年から六十四年までの「今日」を、当時子どもだった私の目線でたどっています。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月25日】「これが本物か」。私が回していたキューブは、偽物だった | 次の記事:(近日公開)