昭和の今日は何があった日? ―― 5月21日、スカイライナーが走り出した朝
昭和53年(1978年)の5月、私は小学5年生だった。 その日のテレビには、見たことのない風景が広がっていた。巨大な旅客機が滑走路に降りてくる映像。空港の制服を着た人たちが忙しそうに動き回っている映像。「新東京国際空港、初便到着」とアナウンサーが興奮を抑えながら伝えていた。 しかし正直なところ、成田空港の開港というニュースは、10歳の私にはまだ遠い存在だった。千葉の成田というのは、なんとなく「遠くの場所」で、自分の日常と結びつくような感覚がまるでなかった。 ところが同じ5月21日に、もうひとつの出来事があった。こちらは、私の目の前で起きていたことだった。 踏切の向こうに現れたもの 私は葛飾区に住んでいる。最寄り駅は京成高砂駅だ。 昭和53年5月21日、京成電鉄の空港線が開業し、京成上野駅から成田空港駅(現・東成田駅)まで、特急「スカイライナー」の運行が始まった。 マルーンとクリームの2色塗り。この塗装で昭和53年から走り始めた。 その日、父と一緒に高砂駅の近くの踏切へ見に行った記憶が、今も残っている。あの踏切は「開かずの踏切」と呼ばれるほど電車の通りが多い場所だ。遮断機が下りたまま、なかなか上がらない。その踏切の向こうを、スカイライナーが通り過ぎていった。 マルーンとクリームに塗り分けられた車体。すっと伸びた流線型のボディ。普通の京成電車とは明らかに違う、特別な風格があった。 子どもながらに、「かっこいい」と思った。そして、誇らしかった。 私にとっての「新幹線」 東海道新幹線が開通したのは昭和39年(1964年)のことで、私が生まれる前の話だ。だから「新幹線の開通」という興奮を、私はリアルタイムでは体験していない。 スカイライナーの開通は、私にとってそれに近い感覚だったと思う。 自分の暮らす町の、見慣れた踏切を、特別な列車が通り過ぎていく。それが今日から毎日走るようになった。その事実が、子ども心にずっしりと響いた。遠くの出来事だった「成田空港の開港」とは違って、スカイライナーは目の前にいた。 「スカイライナー」という名前も好きだった。あとで知ったことだが、この名前は日本全国の小学生からの公募で決まったという。子どもたちが名付け親というわけで、余計に親しみを感じた。 騒ぎの中でようやく開いた扉 とはいえ、当時の私には成田空港の開港をめぐる複雑な事情など、何も見えていなかった。 成田空港は本来、昭和48年(1973年)3月に開港する予定だったが、大幅に遅れた。農地を守ろうとする地元農民の反対運動に新左翼の活動家が加わり、機動隊との激しい衝突が続いた。開港直前の昭和53年3月には、反対派が管制塔に突入して機器を破壊し、開港がさらに2か月延期されるという事態まで起きた。 機動隊が重装備で警戒する中での開港式典。出席者はわずか56名だったという。 5月21日、開港後の初便である日本航空のロサンゼルス発の貨物機が到着第1便として着陸し、正午過ぎに旅客機初便のフランクフルト発の日本航空機も続いた。同じ日にスカイライナーも走り始めた。 その日のニュース映像の裏に、そんな長い長い歴史があったとは、踏切の前で目を輝かせていた10歳の私には知る由もなかった。 今も変わらない光景 2010年登場。在来線最速の時速160kmで走り、日暮里―成田空港間を最速36分で結ぶ。 現在、スカイライナーはボディカラーを濃い青と白に変え、シャープな車体でさらに速く成田空港と都心を結んでいる。 高砂駅の近くで、スカイライナーを親子で見に来ている光景を目にすることがある。子どもが目を輝かせ、親が「あれがスカイライナーだよ」と教えている。 そのたびに、あの日の父と私のことを思い出す。 遮断機が下りて、しばらく待って、轟音とともに通り過ぎていったあの列車。成田空港はまだ遠い存在だったけれど、スカイライナーだけは、確かに私の目の前で走っていた。 それが昭和53年5月21日のことだった。 昭和40〜64年の「今日」を、子どもだったあの頃の目線で振り返るシリーズです。あなたにも、昭和の5月21日にまつわる記憶がありますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:成田が開いた日、ジェシーが泣いた日――5月20日の昭和 | 次の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 ▶