【昭和の今日は何があった日?】7月5日──センターコートに立った日本人、沢松和子のウィンブルドン制覇

七月に入ると、テレビの向こうから芝生の緑がまぶしく見える季節がやってきます。ウィンブルドン。白いウェアの選手たちが、手入れの行き届いた芝のコートで球を追う——今ではすっかり夏の風物詩ですが、この大会で日本中が沸きに沸いた一日が、昭和にありました。 昭和五十年七月五日。この日、沢松和子さんとアン清村さんのペアが、ウィンブルドン選手権の女子ダブルスで優勝しました。日本人女子テニス選手として、史上初めての四大大会タイトル。ウィンブルドンのセンターコートに、日本人女性が初めて立った日でもありました。 私はこのとき六歳。まだ保育園に通っていた年で、正直に言えば、この歴史的な快挙をリアルタイムで見た記憶はありません。それでも「テニス」という言葉には、少年時代のいろいろな風景がくっついています。今日はその糸をたぐりながら、あの日のことを書いてみようと思います。 センターコートの大接戦 決勝の相手は、フランソワーズ・デュール(フランス)とベティ・ストーブ(オランダ)という強豪ペアでした。試合は 7-5、1-6、7-5 という大接戦。第一セットを取り、第二セットを落とし、最終セットも競り合いの末にもぎ取る——スコアだけ見ても、手に汗握る展開だったことが伝わってきます。 大会最終日、男子シングルスの決勝が終わったあと、沢松さんは日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンターコートに足を踏み入れました。テニスの聖地の、いちばん格式の高い舞台。そこに立った日本人がいる、というだけで、当時の熱狂は想像がつきます。 沢松和子さんは兵庫県西宮市の生まれ。祖父の代からのテニスの名門一家に育ち、国内では一九六七年から一九七五年までの足かけ八年間で百九十二連勝という、とてつもない記録を打ち立てた人でした。この連勝記録は、今なお破られていないといいます。若いころには全仏オープンとウィンブルドンのジュニア部門で優勝し、日本人テニス選手として史上初のプロ選手にもなった、まさに草分けの存在でした。 パートナーのアン清村さんは、アメリカ・カリフォルニア生まれの日系三世。父はテニスコーチ、母は日本で二番目に強かったという選手で、この優勝は「アジア系アメリカ人」の女性として初めてのウィンブルドン制覇でもありました。日本とアメリカ、二つの国にルーツを持つ二人が、テニスの本場イギリスの芝生の上で頂点に立った——今の言葉で言えば、なんとも国境を越えた快挙だったわけです。そして沢松さんは、この偉業を最後に、その年限りで現役を退いています。まさに有終の美でした。 「録画」で全国が沸いた 今の私たちからすると不思議に思えるのですが、この試合が日本で大反響を呼んだ背景には、「衛星中継が始まって間もない時期だった」という事情がありました。試合の模様は録画でテレビ放映されたそうです。生中継ではなく、録画。それでも日本人女性初の快挙は全国に伝わり、空前のテニスブームを巻き起こしました。 先日この欄で、NHKの二十四時間衛星放送が世界で初めて始まった日のことを書きました。地球の裏側の映像が、時間差なくお茶の間に届く——その当たり前が、まだ当たり前ではなかった時代です。昭和五十年のこの日は、そのもっと前。海の向こうの芝生のコートで起きたことが、フィルムに焼き付けられ、時間をかけて日本に届き、それでも人々を熱狂させた。情報の伝わり方そのものが、今とはまるで違っていたわけです。 生中継ではなく録画なのに、日本中がテニスに沸いた。むしろ、すぐには見られないからこそ、届いた映像に人々は食い入ったのかもしれません。海の向こうの快挙を、時間差でみんなが分かち合った——そんな時代の空気が、この記録の背景にはありました。 もともと昭和五十年前後は、日本のテニスが元気だった時期でもありました。この沢松さんたちの優勝が決定打となって、いわゆる「第二次テニスブーム」が巻き起こったといわれています。そしてこのブームは、一時のものでは終わりませんでした。十年あまりにわたって続き、全国のあちこちにコートが整備され、会社の福利厚生施設や自治体の運動場、別荘地のペンションにまで、こぞってテニスコートが作られていったのです。白いウェアでラケットを振る——それが、あの時代の「おしゃれなスポーツ」の代名詞になっていきました。 野球少年の目に映ったテニス さて、六歳の私に話を戻します。この優勝の記憶はなくても、そのあと日本に広がっていったテニスブームは、子ども時代の風景の一部として、たしかに体に残っています。 昭和五十年代、テニスは本当に身近なスポーツでした。もとをたどれば、この沢松さんたちの活躍が第二次テニスブームの大きなきっかけのひとつだったといいます。土地の有効利用としてあちこちにテニスコートが作られ、街にはテニススクールが増えていきました。 じつは、これを書きながら一つ、腑に落ちたことがあります。私が通っていた保育園の隣の土地に、あるとき突然、テニスコートとテニススクールができたのです。当時は「なんだか新しいものができたな」くらいにしか思っていませんでしたが、いま振り返ってみると、まさにこの時期でした。全国にコートが次々と生まれていったあの流れの、ほんの一区画。京成高砂の、線路と保育園と、私の暮らしのすぐそばにも、テニスブームの波はちゃんと届いていたわけです。半世紀近くたって、その突然のコートが、遠いウィンブルドンのセンターコートと一本の糸でつながった——そう気づいたときは、少し不思議な気持ちになりました。 そのテニス人気を象徴していたのが、アニメ『エースをねらえ!』でした。もとは昭和四十八年に放送された作品で、私が夕方のテレビで楽しみに見ていたのは、その再放送だったはずです。名門・西高テニス部に入った岡ひろみが、鬼コーチ宗方仁にしごかれながら成長していく——いわゆるスポ根の名作ですが、私はこれを毎夕方、かなり楽しみにして見ていました。 面白かったのは、途中で作品の色が変わっていったことです。最初のころは、ひろみが男子部の藤堂先輩に憧れていて、「お蝶夫人と藤堂の関係はどうなの?」なんて、ちょっとした恋愛物語かな?と思いながら見ていました。それがだんだん、ガチの「スポ根」テニス版になっていったんですね。一球一球に泣いて、汗をかいて、それでもラケットを握る。少女マンガの入り口から入って、気づけばスポーツに夢中になる少年の胸まで熱くしてしまう——今思えば、あれもテニスブームの熱の一部だったのでしょう。 私自身はといえば、心はすっかり野球に向かっていました。ポータブルラジオで巨人戦を聴き、空き地でボールを追いかける毎日。ラケットよりバットのほうがずっと手に馴染む子どもでした。それでも、同じ「スポーツに夢中になる」という気持ちの入り口は、きっとテニス少女たちも野球少年も同じだったのだろうと、今になって思います。 令和のウィンブルドンと、あの夏 正直に打ち明けますと、私はテニスそのものを熱心に追いかける子どもではありませんでした。それでも、小学生のころにテレビで名前を覚えた選手が何人かいます。男子ならマッケンロー、ボルグ。女子ならナブラチロワ。週末のニュース番組のスポーツコーナーで、ウィンブルドンあたりの映像がちょいちょい流れていて、なんとなく耳と目に残ったのです。みんな海外の選手でした。テニスの一番てっぺんの舞台は、日本人がどうこうできる場所ではない——子ども心に、そう思い込んでいた気がします。 だからこそ、時が流れて、錦織圭さんや大坂なおみさんが、あのウィンブルドンや世界の大舞台で活躍しているのを見たときは、本当に驚きました。あそこは日本選手が活躍できる場所ではない、と思っていた自分の思い込みが、気持ちよく裏切られたのです。いや、テニスだけではありません。野球の大谷翔平さんをはじめ、今はさまざまな競技で、たくさんの日本人選手がとんでもないことをやってのけている。同じ日本人として、とても誇らしい気持ちになります。 そして、その誇らしさの、いちばん最初の一歩を記した人たちがいたことを、忘れてはいけないと思うのです。まだ「日本人がテニスの世界で勝つ」ことが夢のまた夢だった時代に、録画された試合に時間差で日本中が沸いた昭和五十年の夏。センターコートに初めて立った日本人がいた、あの七月五日。半世紀近く前のその一球が、今の日本選手たちが立つ芝生に、たしかに根を張っているのだと思うと、少し胸が熱くなります。 みなさんには、テニスにまつわるどんな思い出がありますか? 夢中になったアニメ、通ったスクール、あるいはテレビにかじりついて応援した試合——よかったら、コメントで聞かせてください。 あの夕方、私の胸まで熱くした『エースをねらえ!』。岡ひろみが涙とともに一球ずつ強くなっていくあの物語は、半世紀たった今読んでも、まったく色あせません。テニスに青春を重ねた世代にも、スポ根の原点にふれてみたい方にも。この夏、あの熱をもう一度いかがでしょう。 エースをねらえ! 文庫版 全10巻セット(ホーム社漫画文庫)山本鈴美香。第二次テニスブームを象徴した不朽のスポ根名作。あの夕方の熱が、そのまま一冊に Amazonで見る › このブログ「昭和の今日は何があった日?」では、昭和四十年から六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、当時子どもだった私の目線で、日々つづっています。あなたの「昭和のあの日」の記憶も、よろしければコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【7月4日】テレビが眠らなくなった日、NHK衛星放送・世界初の24時間放送 | 次の記事:(近日公開)

July 5, 2026