昭和の今日は何があった日? ── 6月2日、月にそっと手を伸ばした日

6月2日。梅雨入りを前にした空は、晴れたり曇ったりと、どっちつかずの顔をしている。蒸し暑い昼のあと、夜になって雲が切れると、まだ低いところに月が出ていたりする。今日は、その月の話から始めたい。 私が生まれる三年前、月にそっと降りた機械があった 正直に書くと、私はこの日付をつい最近まで知らなかった。 私にとって「人類と月」といえば、まずアポロ11号だ。ニール・アームストロングが月面に足跡を残し、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った、あの夏。昭和44年(1969年)の7月のことだ。 ところが、その昭和44年というのは、私が生まれた年でもある。私が生まれたのは4月だから、人類が初めて月に立ったとき、私はまだ生まれて三か月ほどの赤ん坊だった。当然、何ひとつ覚えていない。母に抱かれて、月のことなどつゆ知らず、すやすや眠っていたのだろう。 つまり、私の世代にとって月とは、物心ついたときには「もう人間が行ったことのある場所」だった。教科書にもテレビにも、月は当たり前のように「行ける星」として出てきた。月へ行くというのが、どれほど途方もない挑戦だったのか、私たちはほとんど実感しないまま大きくなった。 そんな私たちの「当たり前」を、こっそり用意してくれていたのが、今日6月2日の出来事だ。 昭和41年(1966年)6月2日。アメリカの無人月探査機「サーベイヤー1号」が、月面にそっと軟着陸した。アメリカにとって、初めての月軟着陸だった。 それまでの探査機は、月にぶつかる寸前まで写真を撮りながら、最後は文字どおり月面に激突して終わっていた。「届く」ことと「降りる」ことは、まったく別の難しさだったのだ。空気のない月では、パラシュートは使えない。だから逆噴射のロケットだけを頼りに、落ちていく速度を、ぎりぎりまで自力で殺さなければならない。 サーベイヤー1号は、それをやってのけた。エンジンを噴かしてゆっくりと速度を落とし、四本の脚で、静かに月面に立った。そして、何ごともなかったかのように、1万枚を超える月面の写真を地球に送り続けた。砂利のような地面。小さなクレーター。地球からは決して見えなかった、足もとの月の素顔。 月面に静かに立つサーベイヤー1号。NASAの月周回探査機「ルナー・リコネサンス・オービター」が撮影。昭和41年6月2日、この機械が月に降りたことで、アポロへの道が開かれた。(Photo: NASA / パブリックドメイン) これは、来たるべきアポロ計画──人間を月に着陸させる計画──のための、いわば下見であり、リハーサルだった。人を乗せて降ろす前に、まず機械だけで「本当にちゃんと降りられるのか」「月の地面はやわらかすぎて沈んでしまわないか」を確かめておく。その地味で慎重な一歩が、今日という日だったわけだ。 派手なアポロ11号の陰に隠れて、私はこの「先に降りた機械」のことをずっと知らずにいた。けれど、考えてみればこのサーベイヤーがいなければ、私が赤ん坊だったあの夏の偉業もなかった。私たちの「月は行ける場所」という当たり前は、この日、誰にも気づかれないくらい静かに始まっていたのだ。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 私が宇宙を意識するようになったきっかけは、はっきりしている。父だ。 物心ついてから何度も、父は私にこう言った。 「アポロ11号は月に行ったんだぞ。すごいよなぁ」 何度も、何度も聞いた。テレビで月が映るたび、夜空に月が出ているのを見つけるたび、父はまるで自分のことのように、誇らしげにそう言うのだった。その「すごいよなぁ」には、嘘やお世辞のない、心からの感嘆がこもっていた。 子どもだった私は、父がそこまで言うのだから、よほどすごいことなのだろう、と素直に思った。今思えば、父は私が生まれたまさにその年に人類が月へ行くのを、大人として、リアルタイムで目撃した世代なのだ。あの興奮を、息子にも分けてやりたかったのだろう。父にとって月は「行ける場所」になったばかりの、まだ熱を持った夢だったのだ。 そうして父から受け取った「宇宙ってすごい」という気持ちは、私の中でどんどん育っていった。 スペースシャトルが、筆箱の上を飛んでいた 小学生になると、私たちの宇宙の主役は、アポロからスペースシャトルへと変わっていた。 ロケットは打ち上げると使い捨て。それが当たり前だった時代に、スペースシャトルは「翼を持ち、宇宙から滑空して帰ってきて、また飛ぶ」という、まるでSFそのものの乗り物だった。打ち上げのときはロケットなのに、帰りは飛行機のように滑走路に降りてくる。あの白い機体が大気圏に突入してくる映像を、私は固唾をのんで見ていた。 そして気がつけば、スペースシャトルは、私たちの身のまわりのありとあらゆる文房具の上を飛んでいた。筆箱にスペースシャトル。下敷きにスペースシャトル。ノートの表紙にも、消しゴムのケースにも、スペースシャトル。あの精悍な白い翼が、青い地球を背景にプリントされていた。 スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ(1983年4月)。あの白い翼と噴煙が、昭和の子どもたちの筆箱や下敷きの上を飛んでいた。(Photo: U.S. Department of Defense / パブリックドメイン) もちろん、テレビの中の宇宙も負けてはいなかった。「宇宙戦艦ヤマト」で地球を救うために十四万八千光年の旅に出て、「銀河鉄道999」で汽車に乗って星々を渡り、「キャプテンハーロック」の黒い髑髏の旗に胸を熱くした。私はもう、すっかり夢中だった。 夜、近所の空き地から見上げる月は、ただの白い丸ではなかった。「あそこに人が行ったんだ」「あそこに、足跡があるんだ」と思いながら見上げる月だった。父の「すごいよなぁ」と、筆箱のスペースシャトルと、テレビのヤマトとが、すべて一本につながって、私の頭の上の夜空に広がっていた。 そして令和、宇宙はとうとう「商売」になった 時は流れて、令和8年(2026年)。 宇宙の主役は、いまやイーロン・マスク氏が率いる民間企業「スペースX(SpaceX)」だ。国家がしのぎを削っていた宇宙開発を、一企業が引っ張る時代が来た。これだけでも、昭和の子どもだった私には、十分に未来の話である。 マスク氏が掲げる究極の目標は途方もない。「人類を多惑星種族にする」──つまり、地球に大災害が起きても人類が絶滅しないように、火星に自立した都市を作る、という構想だ。百人以上を一度に運べる超大型宇宙船「スターシップ」を完成させ、やがて数十万人から百万人規模の火星都市を目指す。 野球にたとえるなら、こうなるだろうか。使い捨てないロケット「ファルコン9」は地区大会の優勝。衛星網「スターリンク」で甲子園出場決定。火星に着陸できたら、いよいよ全国制覇。そして火星に都市を建設するというのは──プロリーグをまるごと一つ新設するようなものだ。それくらい、一段ごとの難しさが桁違いなのである。 すべては、あの慎重な一歩の延長線上に こんな時代が来るなんて、昭和の子どもだった私には、想像もつかなかった。 筆箱の上を飛んでいたスペースシャトルが、まさか民間企業のロケットに主役を譲る時代が来るとは。ヤマトやハーロックが旅した宇宙の、その手前の火星に、人が町を作ろうとしているとは。 けれど、忘れてはいけない。それもこれも、すべては今日6月2日の、あの「サーベイヤー1号 月面軟着陸」からの、まっすぐな延長線上にあるのだ。 逆噴射でそろりそろりと速度を落とし、四本の脚で静かに月へ降りた、あの小さな機械。誰にも気づかれないほど慎重だったあの一歩がなければ、アポロの足跡も、父の「すごいよなぁ」も、私の筆箱のスペースシャトルも、そしてマスク氏の火星都市の夢も、何ひとつ始まらなかった。 夢というのは、いきなり大きく見えるものではない。たいていは、誰かがそっと脚を伸ばした、地味で慎重な一歩から始まっている。六十年かけて、その一歩は火星にまで届こうとしている。 今夜、もし雲が切れて月が見えたら、ぜひ一度、見上げてみてほしい。あの白い丸の上には、六十年前の小さな機械が、今もまだ静かに立っている。父が「すごいよなぁ」と言った、あの月だ。 あなたの宇宙への入り口は、いったい誰の、どんな一言でしたか。 「昭和の今日は何があった日?」は、昭和40〜64年(1965〜1989年)の出来事を、子ども目線で振り返るシリーズです。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? 6月1日 ― 父の肩車と、上野のパンダがいた時代 | 次の記事:「世界の盗塁王」福本豊と、すりこぎ棒のバット──昭和の今日は何があった日?(6月3日) ▶

June 1, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月24日

黒澤明、世界を黙らせた日の翌朝 昭和55年(1980年)5月24日の朝刊を、私は覚えていない。 当時の私はまだ小学校に上がったばかりで、新聞を読む習慣などなかったし、カンヌという南フランスの街の名前も知らなかった。でも大人たちは知っていた。おそらくテレビのニュースでも伝えられていた。黒澤明監督の映画『影武者』が、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した、という知らせを。 前日の5月23日(日本時間)、フランスで開かれた第33回カンヌ国際映画祭の授賞式で、『影武者』がグランプリに輝いた。日本映画がこの賞をとったのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督『地獄門』以来、実に26年ぶりのことだった。 この映画には、公開前から話題が絶えなかった。 武田信玄の影武者として生きる小泥棒の物語を、黒澤はおよそ23億円という当時の日本映画では破格の製作費をかけて作り上げた。しかもその資金集めに協力したのが、ほかならぬハリウッドの二大巨匠、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスだった。あの「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスが、それぞれ外国版プロデューサーとして名を連ね、世界配給のために動いた。 子どもの私が「スター・ウォーズ」の名前を聞いて目を輝かせていた頃、そのルーカスが、海の向こうで黒澤明のために奔走していたわけだ。あとになってその事実を知ったとき、なにか不思議な縁のようなものを感じた。黒澤の「隠し砦の三悪人」が、ルーカスの「スター・ウォーズ」に影響を与えていたとも言われているから、返礼のようなものだったのかもしれない。 主演の仲代達矢が二役を演じ、山崎努、萩原健一、根津甚八といった芸達者が揃う。北海道から姫路城、熊本城へとロケ地を縦断し、富士山麓には巨大な武田屋形のオープンセットまで建てられた。その配給収入は27億円を超え、その年の邦画のトップに輝いた。 カンヌ映画祭の赤いカーペット。昭和55年5月23日、ここで『影武者』がパルム・ドールを受賞した。(Photo: Rita Molnár / CC BY-SA 3.0) パルム・ドールの報が届いた翌朝の5月24日、大人たちの間でこの映画の話が弾んでいたことは想像に難くない。職場でも、居酒屋でも、「黒澤はやっぱりすごい」「コッポラやルーカスも認めたんだから」という声が聞こえてきただろう。 私はそのとき何をしていたのだろうか。たぶん、ホームランバーを舐めながら公園で遊んでいたか、友達の家でゲームに興じていたか。世界が黒澤明に喝采を送っていたその5月の昼下がりに、昭和の子どもたちはいつも通りの日常を生きていた。 赤線が消えていく、その少し前の話 ずっと以前のこと、昭和31年(1956年)5月24日に、ひとつの法律が公布された。 売春防止法、という。 売春を助長する行為を処罰し、その防止を図ることを目的としたこの法律は、翌昭和32年4月に施行され、罰則の完全施行は昭和33年4月とされた。そして昭和33年に、「赤線」と呼ばれた地域が廃止されていった。 「赤線」とは何か。それは地図に赤い線で囲われた、公娼制度のもとで黙認されていた地区のことだ。戦後の混乱期に各地で形成されたそうした場所は、昭和20年代から30年代にかけて、街の地理の一部として存在していた。 私が育った葛飾でも、立石という町にその痕跡が残っていた。 京成立石駅の北口あたり、商店街の喧騒からほんの少し路地に入ったところに、子どもの目にも「ここはなんか違う」と感じさせる一角があった。建物の造り、看板の雰囲気、ひっそりとした佇まい。大人が子どもに説明するような場所ではなかったから、私はただ漠然と「近づいてはいけない」という空気だけを感じていた。昭和の時分、立石には旧赤線の名残りを留めた一角や特殊浴場と呼ばれる施設が残っており、それは人々の日常のすぐそばに、当然のように溶け込んでいた。 今になって調べてみると、戦後の東京には赤線と呼ばれる地域が十数か所も存在していたという。立石もそのひとつだった。「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたという記録すら残っている。昭和33年の赤線廃止以降も、そうした場所の「残り香」は街のあちこちにしみついていて、私が小学生だった昭和50年代にも、その気配はまだ消えてはいなかった。 葛飾区立石の航空写真(2006年撮影)。昭和の面影を残す路地が、今も密集している。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報」CC BY 4.0 売春防止法の公布から、私が生まれるまでに10年以上ある。だから「赤線」そのものを見た記憶はない。しかし、その名残のような場所が日常のすぐ隣に当たり前に存在していたあの頃と、今の時代とでは、街の風景も、人々の感覚も、まるで別の世界のように変わってしまった。 法律ひとつで街の風景が変わる。昭和という時代は、そういう変化が幾重にも積み重なってできた時代だったのだと、今になって思う。 5月24日という日は、大人の世界では二つの大きな出来事に挟まれた日だ。世界に誇る映画監督の受賞という晴れやかな知らせと、街の闇を法律で塗り替えようとした戦後の苦しみと。 どちらも昭和という同じ時代の、同じ5月24日に刻まれている。 あなたは、この日の昭和をどう覚えていますか? ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 ▶

May 23, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日

今日は5月18日。 昭和45年(1970年)のこの日、ひとつの法律が静かに公布された。 全国新幹線鉄道整備法。 長い名前だが、内容はシンプルだ。「新幹線を、日本中に走らせよう」という国の約束だ。 この法律のことを調べていたら、自分の記憶がどんどんよみがえってきた。新幹線にまつわる記憶。テレビ越しに見ていた「あの乗り物」への憧れ。そして中学3年の春、東京駅のホームで初めて0系の鼻先を目の前にしたときの、あの感覚。 今日はその話を書いてみたい。 新幹線は、テレビの中にいた 私が育ったのは東京23区の東のはずれだ。下町の気配が残る、庶民的な町だった。 子どもの頃、新幹線はいつも「テレビの中」にあった。 ゴールデンウィーク前になると、ニュースが決まってこの映像を流した。東海道新幹線の車内。通路まであふれかえる乗客。車窓の外を流れる富士山。アナウンサーが「今年のUターンラッシュは——」と話す。 画面を見ながら、子どもの私はぼんやりと思っていた。 あれに乗っている人たちは、どこへ行くんだろう。 京都か。大阪か。あるいはもっと遠い、知らない場所か。 でも、それは完全に「他人事」だった。我が家とは無関係な世界の映像として、ただ眺めていた。 理由は単純で、我が家には旅行の習慣がなかったからだ。 父は、連休が年に一度だけだった 父の仕事は週に1回、平日に休みがあった。日曜日は働いていた。 ゴールデンウィークも、お盆も、関係なかった。世の中がいくら盛り上がっていても、父は仕事に出かけた。まとまった連休といえば、1年にたった一度、お正月の1日と2日——その2日間だけだった。 今の感覚で言えば「それは大変だったね」となるかもしれない。でも当時、私のまわりではそれはめずらしいことではなかった。近所の友達の父親も、似たようなものだった。昭和40年代、50年代の「お父さん」はそういうものだった。家族よりも仕事を優先するのが当たり前で、誰もそれを疑わなかった。 だから、家族でお泊まり旅行に出かけた記憶が、私にはない。 修学旅行や林間学校はあった。でも「家族みんなで旅行」という体験は、子ども時代についぞなかった。 今の常識からすると「えっ、そうなの?」と驚かれるかもしれない。でも私のまわりでは、それはごくふつうのことだった。それくらい、昭和40年代・50年代・60年代のお父さんたちは、よく働いていたのだ。 だから新幹線の映像をテレビで見ながら「来年の夏、乗れるかな」などとは考えなかった。そんな発想自体が、最初からなかった。 昭和45年5月18日、「約束」が生まれた 少し話を遡る。 昭和39年(1964年)、東海道新幹線が開業した。東京オリンピックの9日前のことだ。東京と新大阪を、それまでの特急列車なら6時間以上かかっていたところを、「ひかり」は3時間10分で結んだ。 当初は「あんな高いものを作っても赤字になるだけだ」という声もあった。ところが蓋を開けると、新幹線は大人気だった。通勤でも出張でも観光でも、人々は喜んで乗った。「夢の超特急」と呼ばれた0系の白い車体は、あっという間に時代のシンボルになった。 その成功を見て、政治家や官僚は考えた。「これを全国に広げれば、日本中が豊かになる」と。 そして昭和45年5月18日、全国新幹線鉄道整備法が公布された。 内容はこうだ。時速200キロメートル以上で走れる幹線鉄道を「新幹線」と定義し、全国的な鉄道網として整備していく——という法律だ。要するに「東京と大阪だけじゃなく、日本中に新幹線を走らせる計画を国が主導する」という宣言だった。 この日から3年後の昭和48年、東北新幹線や北陸新幹線などの整備計画が決定される。そしてさらに時間をかけて、新幹線は少しずつ北へ、西へと延びていった。 とはいえ、昭和45年に法律ができたからといって、すぐに全国を新幹線が走り回るわけではない。東北新幹線が東京まで延びてくるのは、昭和60年(1985年)のことだ。 私が子どもだった昭和40年代、50年代——仙台や盛岡に新幹線で行けるようになる未来は、まだ「夢の話」だった。 中学3年、修学旅行の朝 昭和57年(1982年)の春のことだ。 中学3年生の修学旅行。行き先は京都・奈良。 その朝、私はいつもより早起きして、母に用意してもらった弁当を持って中学校へ向かった。校庭に集合して、先生から注意事項を聞いて、クラスごとに並んで出発した。電車を乗り継いで東京駅へ。先生に引率されてホームへ向かった。 そして——目の前に、0系があった。 あの丸っこい白い鼻先。白とブルーの塗り分け。ずらりと並んだ窓。テレビの中でしか見たことがなかったものが、手を伸ばせば届きそうな距離に、本物として存在していた。 正直に言うと、少し呆然とした。 「あ、本当にあるんだ」と思った。変な感想だが、そういう気持ちだった。ずっとテレビ越しに見ていたものが、突然、目の前の現実になった感覚。 車内に乗り込んで、席に着いた。 隣に座った友達と、顔を見合わせた。 お互いにニヤニヤしていた。声に出さなくても、わかった。「こいつも、初めてなんだな」と。 うちだけじゃなかった。同じ町の同じ中学に通っている友達も、同じように「初めて」だったのだ。それが少し、嬉しかった。 動き出したときの、あの感覚 列車が動き出した。 最初はゆっくりだった。東京駅のホームが、少しずつ後ろに流れていく。窓の外の景色が、じわじわと速くなっていく。 そしてある瞬間から、流れる景色が全然違うものになった。 ビルが、電線が、人が、全部流れていって何がなんだかわからなくなる。ただ白と緑のぼんやりした帯になって、後ろへ後ろへ飛んでいく。 スピードというものをあれほど体で感じたのは、後にも先にもあの瞬間だけだと思う。「速い」という言葉が意味を失って、ただ体ごと時間が圧縮されていくような、変な感覚だった。 富士山が見えた。 「富士山だ」と誰かが言い、みんなが窓に顔を寄せた。日本一高い山が、ただただそこにあった。東京から生まれて初めて離れた中学生にとって、富士山の存在感は圧倒的だった。 新幹線は「高嶺の花」だった 修学旅行から帰って、しばらくは新幹線の話ばかりしていた気がする。 でも、それで終わりだった。 その後、自分の意思で新幹線に乗る機会は、なかなかやってこなかった。就職して、出張で乗るようになるまで、新幹線は「特別なとき」だけの乗り物だった。 新幹線は「高嶺の花」だった。 手が届かないわけじゃない。でも、気軽に乗るものじゃない。ゴールデンウィークにテレビで見ていた満員の映像は、「あそこに乗っている人たちとは、自分は違う世界にいる」という感覚と一緒にあった。 今になって思えば、それは思い込みだったかもしれない。でも当時の感覚は確かにそうだった。 「夢の超特急」という言葉は、言い得て妙だと思う。夢——すなわち、「いつかは」という距離感。私にとって長い間、新幹線はそういう存在だった。 長男に乗せてやりたかった 大人になって、子どもが生まれた。 長男が5歳のとき、仕事の関係で九州へ行く用事ができた。会社は往復の飛行機チケットを用意してくれた。でも私は、帰りのチケットをキャンセルした。 博多から東京まで、新幹線で帰ることにしたのだ。 妻と長男を連れて、博多駅のホームに立った。 長男は生まれて初めて新幹線を目の前にして、目を丸くしていた。 「乗るの?これに乗るの?」と聞いた。 「乗る」と答えた。 席に着いて、列車が動き出した瞬間、長男は窓に顔をくっつけて景色を見ていた。その横顔を見ながら、私は何も言わなかった。ただ、昭和57年の春に感じたあの感覚が、じわっと戻ってきた気がした。 ...

May 17, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代

今日は5月17日。 昭和60年(1985年)のこの日、男女雇用機会均等法が成立した。職場における男女の差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進など多くの面で男女を平等に扱うことを定めた法律だ。 法律の名前だけ聞くと、難しい話のように感じるかもしれない。でも私にとってこの法律は、あの頃の母親の背中と深くつながっている。 「男は仕事、女は家庭」という時代 昭和の日本には、当たり前とされていた空気があった。 「男は仕事、女は家庭」。 女性は学校を卒業して就職しても、結婚したら退職するのが当然という慣例が多くの職場に存在した。当時、女性は就職しても数年で辞めていくのが慣例で、男女は平等には扱われていなかった。多くの企業は男女を分けて賃金管理や労務管理をしており、女性は補助労働者として扱われていたのだ。 「寿退社」という言葉があった。結婚を機に会社を辞めることを、まるでおめでたい卒業のように呼んでいた。女性が働き続けることへの社会の目は、今とはまったく違っていた。 それでも昭和の母親たちは働いていた。家庭を守りながら、子どもを育てながら、パートとして、内職として、様々な形で家計を支えていた。 テーブルの上の100円玉と、母の仕事 少し前の記事に書いた話を、もう一度思い出している。 学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はなかった。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。 あの頃の母は、何をしていたのだろう。どんな仕事場で、どんな気持ちで働いていたのだろう。子どもだった私には、考えも及ばなかった。 でも今になって思う。昭和の母親がパートとして働くということは、今よりずっと「肩身の狭い」ことだったかもしれない。「母親なのに家を空けて」という目が、社会のどこかにあった時代だ。それでも働いたのは、家族のためだけではなく、自分自身の何かのためでもあったはずだと思う。 スチュワーデス、保母、看護婦──あの呼び名が変わった日 男女雇用機会均等法の成立は、目に見える形でも昭和の風景を変えた。 施行されると、「保母」が「保育士」に、「看護婦」が「看護師」に、「スチュワーデス」が「客室乗務員」などと呼称も変更された。 子どもの頃、テレビのCMに「スチュワーデス」という言葉が出てくると、華やかな憧れの職業として映っていた。「保母さん」という言葉も、幼稚園や保育園の優しい先生の代名詞だった。 その言葉が変わるということは、仕事に対する社会の見方そのものが変わっていくということだった。女性だけの仕事、男性だけの仕事、という区分けが少しずつ溶けていく。昭和という時代の終わりごろに、その変化は静かに始まっていた。 「均等」への道は、遠かった ただ正直に言えば、法律が成立しても、最初は採用や昇進について「禁止」ではなく「努力義務」にとどまっていた。多くの経営者が法制化に強く反対したという背景もあった。 昭和60年の法成立から、実質的な禁止規定へと強化されるまで、さらに月日が必要だった。法律が変わることと、社会が変わることには、タイムラグがある。 それでもあの法律は、確かに何かを変えた。昭和の働く母親たちが、今日という日の積み重ねの上に社会を押し広げていったことを、私はあの100円玉2枚とともに覚えている。 娘たちが生きる時代へ 今、私には子どもが5人いる。そのうちの娘たちが大人になって働く時代は、昭和の母親が生きた時代とはずいぶん違う。 今年の1月、大学受験を控えた娘の合格祈願で湯島天満宮に参拝した話を以前書いた。娘が夢を持って大学に進み、自分のキャリアを考えられる時代。それは昭和60年5月17日に成立した法律が、その後の何十年もかけて少しずつ作ってきた時代でもある。 男女雇用機会均等法という言葉を、娘に説明したことがある。「昔はそんな法律がなかったの?」と娘は少し驚いた顔をした。 その顔を見て、時代が変わったのだと実感した。 おわりに 昭和60年5月17日、一本の法律が成立した。 完璧ではなかった。すぐに世の中が変わったわけでもなかった。でもテーブルの上に100円玉を置いて子どもたちのために働いていた昭和の母親たちの背中が、この法律を少しずつ前に押し進めていったと思う。 あなたのお母さんも、あの時代に何かを背負いながら働いていたのではないだろうか。 今日、そのことを少し思い出してもらえたら嬉しい。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月18日──新幹線が、日本中を走る「約束」をした日 ▶

May 16, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった

今日は5月16日。 昭和56年(1981年)のこの日、土曜の夜8時に一本のテレビ番組が産声を上げた。 「オレたちひょうきん族」。 ビートたけし、明石家さんま、島田紳助……漫才ブームで頭角を現した若手芸人たちが集結したこの番組は、昭和のテレビ史上最大のライバル対決「土8戦争」の幕を開けた。 相手は、全員集合だった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室 昭和56年、私は小学6年生だった。 学校の教室には、当時すでにテレビが置かれていた。昼休みの12時少し前になると、誰かがそのテレビのチャンネルをフジテレビ系に合わせる。流れてくるのは「笑ってる場合ですよ!」だ。 月曜から金曜、正午から放送されたこの帯番組は、漫才ブームを背景に昭和55年(1980年)10月から始まった。B&B、ツービート、オール阪神・巨人……時代の顔ともいえる漫才師たちが次々と登場する。 番組のオープニングで掛け声がかかる瞬間、教室が一つになった。 「笑ってる場合ですよ!」 クラス全員で叫ぶ。そのまま笑いが起きる。先生がいてもお構いなし、という雰囲気だったかもしれない。昭和56年の教室には、そういう「勢い」があった。 全員集合を、卒業した 正直に言う。昭和56年の私は「8時だよ!全員集合」を卒業していた。 小学校低学年の頃、全員集合は神様のような番組だった。いかりや長介の「バカヤロー!」、加藤茶の「ちょっとだけよ」、志村けんのバカ殿。台本通りに徹底的に稽古し、公開生放送で一糸乱れずやり切る。あのコントの完成度は今見ても圧倒的だ。 でも小学6年生になると、変わっていた。 漫才ブームの波が教室の中にまで押し寄せていた。休み時間に漫才の真似をする友達が出てきた。B&Bの「もみじまんじゅう!」、ツービートの毒舌漫才。笑いの空気が変わっていた。そこにひょうきん族が来た。 ビートたけしによると「全員集合」をどうやって視聴率で倒すかということを目標にスタッフたちと色々考えたという。その戦略は、全員集合との徹底的な差別化だった。 全員集合が「台本通りの王道コント」なら、ひょうきん族はアドリブと内輪ウケ。全員集合が「グループで笑いを取る」なら、ひょうきん族は一人一人の個性。全員集合が「子ども・小中学生向けの公開生放送」なら、ひょうきん族は高校生・大学生向けのスタジオ収録。 その差別化が、ちょうど小学校高学年から中学生になろうとしていた私たちの世代に刺さった。全員集合からひょうきん族へ。あの乗り換えはごく自然な流れだったと、今になって思う。 各家庭にテレビが増えた時代 ところでチャンネル争いはどうだったか。 昭和40年代は、一家に一台のテレビを囲んで家族全員で見るのが当たり前だった。チャンネル権は父親が持ち、見たい番組を見られない子どもが拗ねる、という光景が日本中にあった。 ところが昭和50年代に入ると、カラーテレビの価格が下がり、二台目・三台目のテレビが各家庭に入り始めた。子ども部屋に小さなテレビが置かれるようになり、「全員集合を見るかひょうきん族を見るか」という争いは、家庭によってはそもそも起きなくなっていた。 私の家もそうだった。チャンネル争いの記憶がないのは、テレビが複数あったからだと思う。 一台のテレビを囲んで家族が笑う、という昭和の風景は、テレビが増えるとともに少しずつ変わっていった。便利になった分、何かが失われたような気もするが、それもまた時代というものだろう。 「何でもあり」の時代の勢い 今振り返ってみると、昭和56年前後という時代は特別な空気をまとっていた。 漫才ブームが来て、ひょうきん族が始まって、ファミコンがまもなく登場して、バブルに向かって経済が上昇していく。社会全体に「何でもあり」みたいな包容力があって、とにかく「勢い」がみなぎっていた。 教室でテレビに向かってクラス全員で叫ぶ。そのくらいのことは誰も咎めない、という空気が確かにあった。はみ出すことへの許容度が今とは違った。 初回の視聴率は9.5%、その後も8〜10%前後と当初は全く相手にならなかったひょうきん族が、昭和57年(1982年)10月9日についに全員集合の視聴率を初めて上回った。そして昭和60年(1985年)9月28日、全員集合は16年の歴史に幕を下ろした。 あの時代の勢いが、笑いの世代交代を加速させたのだと思う。 「2番組合わせて視聴率50%」 面白い話がある。 全員集合とひょうきん族のスタッフは、打ち上げの席で度々同じ居酒屋で遭遇していたという。周りは「戦争」と言っていたが、当事者同士はライバルであると同時に「同士」でもあった。 「2番組合わせて視聴率50%。笑いを見る人が世の中の半分もいるなんて、俺たちは幸せだなあ」 そう語っていたという逸話が残っている。 あの時代の勢いと包容力の中で、2つの番組は正面からぶつかり、日本中の笑いを二人で背負っていた。それがどれほど豊かな時代だったか、今になってじわじわと感じる。 おわりに 昭和56年5月16日、ひょうきん族が始まった。 「笑ってる場合ですよ!」と叫んだ教室の空気。全員集合を卒業して新しい笑いに乗り換えた小学6年生の感覚。一家に複数台のテレビが入り始めた、あの頃の変化。 昭和56年という年は、笑いだけでなく、日本のいろんなものが一気に動き始めた年だったのかもしれない。 全員集合を見るか、ひょうきん族を見るか。あなたの家の土曜の夜8時は、どちらだっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月17日──お母さんが、外に出て働き始めた時代 ▶

May 15, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった

今日は5月15日。 この日付には、昭和の子どもにとって特別な意味があった。 コロコロコミックの発売日だ。 昭和52年(1977年)5月15日に創刊されたこの漫画雑誌は、昭和54年(1979年)4月号から月刊化され、以来ずっと毎月15日に書店に並んだ。今日という日付は、あの分厚い雑誌を両手に抱えて書店を飛び出した、昭和の子どもたちの記念日でもある。 ドラえもんがテレビに来た、あの春 私がコロコロコミックを買い始めたのは、小学4年生の頃だった。 昭和54年(1979年)4月2日、テレビ朝日でドラえもんのアニメが始まった。月曜から金曜、夕方18時50分から19時の10分間。学校から帰ってランドセルを投げて、テレビの前に飛びつく。あの10分間は、昭和の子どもの放課後の中心だった。 アニメが始まると同時に、コロコロコミックの存在を知った。書店に行くとあの分厚い雑誌が並んでいる。中を開けるとドラえもんがたっぷり詰まっている。しかも他にもたくさんの漫画がある。 「これだ」と思った。 以来、毎月15日は書店に直行する日になった。 二人の編集者が作り上げた、あの雑誌 コロコロコミック誕生の裏には、小さくて熱い物語がある。 仕掛けたのは小学館の学年誌「小学一年生」の副編集長だった千葉和治だ。「小学生が読む、本当の意味での漫画雑誌を作りたい」という夢を持ち、その言葉に藤子・F・不二雄が感化された。「自分の全ての作品の掲載権を預ける」とまで言って協力を申し出た。 編集部はたった二人だった。二人で企画し、二人で500ページを超える創刊号を作り上げた。 昭和52年5月15日、コロコロコミック創刊号が書店に並んだ。表紙には「コロコロコミック」という誌名よりも大きな文字で「ドラえもん」と書かれていた。 創刊当初は季刊、やがて隔月刊、そして昭和54年4月号から月刊へ。毎月15日に翌月号を届ける、あのリズムが生まれた。 「炎のコマ!」と叫びながら コロコロで夢中になった漫画がもう一つある。 **「ゲームセンターあらし」**だ。 主人公の石野あらしが、ギャラクシーウォーズやインベーダーゲームなどのアーケードゲームで「超熱血必殺技」を繰り出しながらライバルと戦う漫画だ。中でも最大の必殺技が**「炎のコマ」**。1秒間に200万回以上の超スピードでレバーを動かすことで、ゲームの処理速度を上回り自機を消してしまうという技だ。技を放つとき、あらしは大きくジャンプして逆立ち状態でコントローラーに向かってぶちかます。 当時の小学生はみんな真似した。ゲームの前で「炎のコマ!」と叫んで、超高速でレバーをガチャガチャ動かす。もちろん何も起きない。でもやらずにいられなかった。 あの頃、私がよく通っていた場所がある。 倉庫か工場の跡地を利用した、広い建物の中に大量のテーブルゲーム機が並んでいる場所だ。少しブームの去ったゲームを格安で遊ばせるビジネスで、1回30円から50円でプレーできた。正規のゲームセンターよりずっと安い。お小遣いが少なくても、長く遊べた。 薄暗い建物の中に、ずらりと並んだテーブルゲーム機。画面の光だけが照らすあの空間に、小学生が群がっていた。 私もギャラクシーウォーズの前に陣取り、「炎のコマ!」と小声で叫びながらレバーを動かしていた。当然うまくはならないが、それでも毎回通った。あの独特の薄暗さと、電子音と、30円玉を握りしめていた感触が、今でも手の中に残っている気がする。 毎月16日の教室 コロコロの発売日は毎月15日。 15日に購入して、翌16日に学校へ持っていく。すると友達も同じコロコロを持ってきている。「読んだ?」「読んだ読んだ」「ゲームセンターあらし、今月すごくない?」「ドラえもんの道具、使いたいな」。 そういう会話が、毎月16日の教室では必ず起きていた。 みんなが同じ雑誌を読んでいるから、話が通じる。「あのシーン」と言うだけで伝わる。「炎のコマ」と言うだけで盛り上がれる。コロコロコミックは漫画雑誌であると同時に、昭和の小学生の「共通言語」だった。 今日、5月15日。 あの頃の15日は、こういう日だった。 おわりに 昭和52年5月15日に二人の編集者が作り上げたあの雑誌は、昭和の小学生の「バイブル」になった。 そして今日、2026年の5月15日発売のコロコロコミック2026年6月号では、長年再掲載されてきた「藤子・F・不二雄名作劇場 ドラえもん」の連載が終了した。新作ではなく過去の名作の再掲載コーナーの終了ではあるが、一つの時代が静かに幕を下ろした気がする。 毎月15日を指折り数えて待っていた、あの頃の自分に教えてあげたい。 あの雑誌は半世紀近く、ずっと続いたよ、と。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月16日──土曜の夜8時、チャンネル争いが始まった ▶

May 14, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた

今日は5月14日、けん玉の日だ。 大正8年(1919年)のこの日、現代のけん玉の原型となる「日月ボール」が実用新案として登録された。三日月のような浅い皿で、太陽のような球を受ける。日と月をかけた名前が、そのまま道具の形を表していた。 正直に言うと、私自身はあの昭和のけん玉ブームにそれほど深くハマった記憶がない。あの頃、私が夢中だったのはコカ・コーラのヨーヨーだった。赤いコーラのロゴが入ったあのヨーヨーのひもを右手中指にはめ、「犬にかまれた」や「世界一周」の技を練習していた。けん玉より断然ヨーヨー派だった。 でも、けん玉との縁はずっと後になってやってきた。我が家の子どもたちを通じて。 酒の席の遊びが、子どもの手に渡るまで けん玉の歴史は古い。 16世紀のフランスに「ビル・ボケ」という似た遊び道具があり、それが日本には江戸時代中期に伝わったとされている。ただし当時のけん玉は、今のような十字型ではなく、棒の上下に皿がついた形だった。しかも子どもの遊びではなく、大人が酒の席でやる罰ゲームの道具だったというのが面白い。失敗したら酒を飲まされる、というルールだったらしい。 それが明治時代に文部省の教育解説書に「子どもの遊び」として紹介されたことで、少しずつ子どもたちのものになっていった。 そして大正7年(1918年)、広島県呉市の職人・江草濱次が、現代のけん玉の基本構造となる「日月ボール」を考案した。大皿、小皿、そしてけん先という三つの的を持つあの形が、このとき初めて生まれた。翌大正8年のこの日に実用新案として登録され、これが「けん玉の日」の由来になっている。 昭和52年「けん玉ルネッサンス」 日月ボールが生まれてから約60年後の昭和52年(1977年)、日本に突然けん玉の大ブームが訪れた。 後に「けん玉ルネッサンス」と呼ばれるこの爆発的な流行のきっかけは、昭和50年(1975年)に設立された「日本けん玉協会」だった。雑多なけん玉ではなく、統一された規格の競技用けん玉を作り上げ、級・段位の認定制度を整えた。 この競技用けん玉が小学校や学童に普及し、昭和52年ごろから全国の子どもたちの間に一気に広まっていった。1級になったら糸の色が変わる。段位が上がるたびに認定証がもらえる。そういう「上達の見える仕組み」が、子どもたちの心をつかんだのだと思う。 「何回続いた?」「俺、100回いったぞ」「嘘つくな」「ほんとだよ、見てろよ」 休み時間の校庭で、そういうやり取りが毎日繰り返された。私にはヨーヨーで同じやり取りをしていた記憶があるが(笑)、けん玉派の友達はもしかめの回数を誇らしげに語っていた。 学童から帰ってきた、あのけん玉 私自身はヨーヨー派だったが、我が家にもけん玉ブームは確かにやってきた。 子どもたちが小学校に入学して学童保育に通い始めると、そこでけん玉と出会うのだ。学童にはたいていけん玉が置いてあって、放課後に先生や友達と一緒にやるうちに夢中になっていく。そして家に帰ってくると「けん玉買って!」が始まる。 我が家の子どもは男女合わせて5人いる。その5人が、上から順番に学童でけん玉と出会い、順番にその波が家に押し寄せてきた。 けん玉を買ってきた翌日から、家の中に「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムが響き始める。最初はぎこちない。玉が皿からこぼれ落ちる。「あー!」という声が上がる。また挑戦する。少しずつ続くようになってくる。 そのうちに、上の子たちが反応し始める。 「やらせて、やらせて」 『どや顔』で技を披露する、あの光景 けん玉の奪い合いが始まる。 下の子が一生懸命もしかめをやっていると、上の子が「貸して」と手を伸ばしてくる。渡すと、今度は上の子がすでに習得した技を披露し始めるのだ。 大皿から小皿、小皿から大皿へ。スムーズに乗せながら、ちらりと下の子の方を見る。**『どや顔』**だ。 「お兄ちゃん(お姉ちゃん)すごい!」という言葉を待っている顔。それを引き出したくて、わざわざ技を見せているのだ。下の子はそれを見て、「私も!」「僕も!」となる。またけん玉が奪い合いになる。 その光景が、5人分繰り返された。上の子が下の子に見せつけ、下の子がさらに下の子に見せつける。我が家のけん玉の技は、そうやって上から下へと受け継がれていった。 考えてみれば、けん玉の普及というのも同じ構造だったのかもしれない。できる人が見せる。見た人がやりたくなる。やってみて、できるようになる。また誰かに見せる。昭和52年の「けん玉ルネッサンス」も、そういう連鎖で日本中に広まっていったのだと思う。 「あせらず、あわてず、あきらめず」 日本けん玉協会の初代会長・藤原一生が唱えた「けん玉道」の基本精神は、**「あせらず、あわてず、あきらめず」**という言葉だった。 焦って力を入れても、玉は皿に乗らない。慌てて動かしても、タイミングが合わない。諦めてやめても、上達はしない。ただ落ち着いて、丁寧に、繰り返す。そうすると、ある日突然できなかった技ができるようになる。 子育てにも、そのまま当てはまる言葉だと思う。 おわりに 我が家のどこかに、まだ何本かのけん玉が眠っているはずだ。 5人の子どもたちが次々と夢中になって、次々と飽きて、どこかに置き去りにしていったあのけん玉たち。押し入れの奥か、おもちゃ箱の底か、どこかにひっそりとしまわれているだろう。 探し出して、もう一度やってみようかと思っている。「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムに合わせて、大皿、小皿、大皿、小皿。 我が家に、もう一度けん玉ブームを起こしてみようか。 探し出したら、子どもたちに声をかけてみようと思っている。 「けん玉、やってみるか?」 あの頃のどや顔を、それぞれもう一度見せてもらえたら嬉しい(笑)。 もし押し入れのけん玉が見つからなかったら、これを機に新しい一本を。日本けん玉協会認定の競技用「大空」は、級・段位の認定にも使える本格派。大人がもう一度始めるにも、ちょうどいい一本です。 日本けん玉協会認定 競技用けん玉「大空」山形工房/競技用けん玉の定番。級・段位認定にも使える本格派 Amazonで見る › ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった ▶

May 13, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃

今日は5月13日。 この日付を調べていて、一つの火災事故のことを知った。 昭和47年(1972年)のこの日、深夜10時27分。大阪・ミナミの繁華街、千日前にあるデパートビルの3階から火の手が上がった。 千日デパート火災。 死者118人・負傷者81人にのぼる人的被害を出し、戦後日本のビル火災として最大の惨事となった。 正直に言う。私はこの事故のことを、ほとんど知らなかった。 昭和44年(1969年)生まれの私は、この火災が起きた当時わずか3歳だった。事故そのものの記憶はまったくない。でも今年の冬、ある場所でこの火災のことが話題に上がり、初めてその全貌を知ることになった。 湯島天満宮から、上野松坂屋へ 今年の1月のことだ。 大学受験を控えた娘の合格祈願のため、家族で湯島天満宮へ参拝に行った。学問の神様・菅原道真を祀るこの神社には、受験シーズンになると合格を祈願する絵馬が鈴なりに並ぶ。娘のために手を合わせ、家族それぞれが心の中で願いを込めた。 その帰りに、上野の松坂屋へ立ち寄った。 エレベーターで上層階のレストランフロアへ。昭和の大型デパートらしい、広々とした食堂だ。白いテーブルクロス、ウェイトレスさんの丁寧な接客。平成も令和も、この場所だけはあの頃の空気が残っているような気がした。 小学生の4男が、メニューをひらいて迷わず言った。 「お子様ランチ!」 旗が刺さった小山のライス、エビフライ、ハンバーグ、スパゲティ。あの見慣れたお子様ランチが運ばれてきた。時代が変わっても、子どもが注文するものは変わらない。思わず笑ってしまった。 食事をしながら、ふと窓の外を眺めた。屋上のほうに目をやりながら、こんな話が出た。 「松坂屋の屋上遊園地、お父さんが子どもの頃に何度も行ったんだよ」 小さな観覧車、豆汽車、飛行機型の乗り物。あの屋上の風の感触が、急に記憶の中からよみがえってきた。 「今はもうないの?」と誰かが聞いた。 「いつからなくなったんだろうね」と私は答えた。 その帰り道、スマートフォンで調べてみて、初めて知ったのだ。屋上遊園地が姿を消していった背景に、千日デパート火災という大きな出来事があったことを。 深夜の惨事 昭和47年5月13日は土曜日だった。 閉店後の夜、3階では売り場の改装工事が行われていた。出火後、火と煙はエスカレーター開口部や空調ダクトを伝って上層階へと急速に広がっていった。火災発生当時、7階で営業していたキャバレーには何の通報もなく、181人の客やホステス、従業員らが逃げ遅れた。煙に巻かれ、窓から飛び降り、救助袋の使い方を誤って転落した人もいた。 近くで菓子店を営んでいた女性は後年こう語っている。「向こうの千日前商店街のアーケードの上に人が『ボトン』と落ちたのを見ました。落ちる時は『キャー』って言って両手バタバタしてたけど、下に落ちたら『どすん』じゃなくて、『ばちゃっ』っていう音が……」。 死者118人。戦後最悪のビル火災だった。 火災が変えた、昭和の風景 この千日デパート火災の翌年、熊本の大洋デパートでも100人を超える死者を出す火災が起きた。 相次ぐ惨事を受けて、消防法が改正された。建物の屋上の半分を、火災時の避難場所として確保することが義務付けられたのだ。 その結果として消えていったのが、デパートの屋上遊園地だった。 昭和30年代から40年代にかけてが全盛期だった。小さな観覧車、メリーゴーラウンド、豆汽車、飛行機型の乗り物、ゲームコーナー。休日に家族でデパートへ行き、大食堂でお子様ランチを食べて、屋上遊園地で遊ぶ。それが昭和の「デパートの定番コース」だった。 消防法の改正で屋上の半分が避難場所になると、大型遊具の設置スペースが取れなくなった。さらにテーマパークやゲームセンターの台頭が追い打ちをかけ、昭和の終わりごろから屋上遊園地は次々と姿を消していった。 松坂屋の上野店の屋上遊園地もいつしかなくなった。私が子どもの頃に何度も遊んだあの場所は、今はもうない。 お子様ランチは、変わらなかった それでも、松坂屋のレストランは残っていた。 4男が頬張るお子様ランチを見ながら、思っていた。あの旗の刺さったライスの形も、エビフライの大きさも、あの頃と大して変わらない。子どもが「お子様ランチ!」と迷わず注文するのも、変わらない。 変わったものと、変わらないものがある。 屋上遊園地は消えた。でもデパートのレストランで、子どもがお子様ランチに目を輝かせる光景は続いている。昭和の子どもだった私が経験したあの「特別な日の記憶」を、令和の4男もきっと同じように感じているはずだ。 おわりに 昭和47年5月13日の夜、大阪のデパートで118人が亡くなった。 3歳だった私にその記憶はない。でも今年の冬、上野松坂屋のレストランで息子のお子様ランチを眺めながら屋上遊園地の話をして、帰り道にスマートフォンで調べて、初めてこの火災のことを知った。 あの惨事が消防法を変え、消防法の改正が屋上遊園地の風景を変えた。昭和の出来事が、こんなにも身近なところに繋がっていたとは思わなかった。 「昭和の今日は何があった日?」を調べていると、時々こういう発見がある。知らなかった事実が、自分の記憶のどこかにひっそりとつながっている瞬間。その感覚が、このシリーズを続ける理由の一つになっている。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた ▶

May 12, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった

今日は5月12日。 この日付を調べていて、一枚の土俵の映像が頭に浮かんだ。 平成3年(1991年)5月12日、大相撲夏場所の初日。18歳の貴花田が横綱・千代の富士を寄り切りで破り、史上最年少金星を挙げた。そしてその2日後、千代の富士は引退を表明した。 あの一番の話を書く前に、まず私が千代の富士のファンになった話をしたい。 青いまわしの、上昇する力士 昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)ごろのことだ。 私はまだ小学校の低学年から中学年だった。テレビで大相撲中継を見ていると、一人の力士が目に飛び込んできた。 千代の富士。当時はまだ小結から関脇、そして大関へと番付を駆け上がっていく上昇期にあった。横綱になる前の、ぐんぐんと力をつけていくあの時代の千代の富士だ。 最初に目を引いたのは、まわしの色だった。薄い青。他の力士が黒や濃い色のまわしをしめている中で、千代の富士だけが澄んだ青のまわしをしていた。それだけで、なんとなく他とは違う存在感があった。 そして取組が始まった瞬間、さらに驚いた。 速い。 それまで相撲というものに、それほど強い関心を持っていなかった。体の大きな男たちがぶつかり合う競技、というくらいの印象しかなかった。でも千代の富士の相撲は、その印象をひっくり返した。 立ち合いから低く、鋭く当たる。頭を相手の胸からアゴの下に差し込むようにして、左手が一瞬で相手のまわしを掴みにいく。左前みつ。そこを取った瞬間から、もう勝負は見えていた。頭を胸につけたまま一気に前に出る。相手がどれだけ大きくても、あの体勢から止めることはできなかった。 素直に思った。 かっこいい。 小結から関脇へ、関脇から大関へ。番付を上げるたびに千代の富士の相撲は研ぎ澄まされていった。私はその上昇をリアルタイムで追いかけながら、夢中でテレビ中継を見続けた。 「時間いっぱい!」の瞬間 千代の富士のファンになってから、相撲中継の見方が変わった。 特に集中したのが、**「時間いっぱい!」**の直後だ。 行司が「時間いっぱい、手をついて」と告げ、両者が仕切りに入る。その瞬間から、私は一点だけを見ていた。 千代の富士の左手が、相手の前みつを取れるか。 テレビの前で体が前のめりになる。「取れ、取れ、取れ!」と心の中で叫んでいた。 前みつを取った瞬間の千代の富士の動きは、まるで弾けるようだった。低い体勢から爆発的な力で相手を押し込む。ガッと音がしそうなほどの前進。相手が土俵を割るまでの時間は、ほんの数秒だ。 あの数秒のために、私は毎場所の相撲中継を見ていた。 鋼の肉体と、孤独な努力 千代の富士の肉体が、また特別だった。 北海道の漁師町出身のこの力士は、入門当初は体が細くて「横綱になれる体じゃない」と言われていた。肩の脱臼を繰り返す弱点もあった。それを克服するために、誰よりも筋力トレーニングに取り組んだ。 その結果生まれたのが、あの彫刻のような上半身だ。三角形に盛り上がった肩、浮き出た筋肉の線、引き締まった腹。昭和の力士の中で、あれほど「鍛えられた体」を持っていた力士は他にいなかった。 昭和56年(1981年)初場所、千代の富士はついに初優勝を遂げた。そして同年9月場所で横綱に昇進した。 小結から見続けてきた青いまわしの力士が、ついに土俵の頂点に立った。テレビの前で「やった」と思った記憶がある。 その後の千代の富士は知っての通りだ。幕内優勝31回、通算1045勝、53連勝、国民栄誉賞。昭和の相撲をひとりで背負うような存在になっていった。 18歳の少年が、ウルフを倒した日 あれから10年後。平成3年(1991年)5月12日、夏場所初日。 貴花田光司、18歳9カ月。のちの横綱・貴乃花だ。前の場所で幕内下位から優勝争いに加わる快進撃を見せ、日本中の注目を集めていた。その貴花田が初日から千代の富士と当たることが決まった。 場内がどよめいた。 取組が始まると、貴花田は低く当たり、ひたすら前に出た。引かなかった。変化しなかった。千代の富士が突き落としを狙っても、ただ正面から前に出続けた。そのまま貴花田が寄り切った。 18歳9カ月、史上最年少金星。 土俵下に降りた千代の富士は言った。 「三重丸って言っておいてよ。いや、五重丸だ」 負けた横綱が18歳の少年に最大級の賛辞を贈ったあの言葉。強さを認める者にしか言えない清々しさがあった。 そして2日後の5月14日、千代の富士は引退を表明した。 「体力の限界……気力も無くなり、引退することになりました」 ハンカチで目をぬぐいながら振り絞るように言ったあの言葉を、テレビの前で聞いたとき、言葉が出なかった。 小結のころから追いかけてきた青いまわしの力士が、土俵を去った。 おわりに 平成3年5月12日、千代の富士は18歳の貴花田に道を譲った。 昭和54年ごろ、テレビの画面に薄い青のまわしをした力士を見つけて「かっこいい」と思った小学生の私は、その力士が小結から関脇、大関、横綱へと駆け上がっていくのをずっと見続けた。そして横綱を10年以上務めた末に涙をぬぐいながら引退する姿まで見届けた。 千代の富士は2016年に61歳で亡くなった。訃報を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは記録でも数字でもなく、あの薄い青のまわしと、左前みつを取った瞬間の爆発的な前進だった。 あなたが子どもの頃に「かっこいい」と思ったスポーツ選手は、誰だっただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 ▶

May 11, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月11日──「ぱたぱたママ」が聞こえたら、保育園へ行く時間

今日は5月11日。 昭和の朝には、決まったリズムがあった。 目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。 あの頃の朝のことを、今日は書きたい。 朝ごはんとピンポンパン 朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。 昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。 お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。 朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。 そして番組のフィナーレに、あれがあった。 「おもちゃへいこう!」 新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。 テレビの前で、それをただ見ていた。 本当に羨ましかった。 昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。 「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間 ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。 昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。 ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。 番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」と「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。 「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」 そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。 「行くわよ」 玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。 3人乗り自転車。 今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。 母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。 阿久悠と小林亜星が作った朝の歌 「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠と小林亜星というコンビだ。 当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。 「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。 子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。 おわりに ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。 毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。 でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。 それが私の、昭和の朝だった。 あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月10日──母の日に、カーネーションを渡せなかった話 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月12日──青いまわしの、あの力士が好きだった ▶

May 10, 2026