【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃

今日は5月7日。五月の日差しが少しずつ強くなってくる。 昭和の子どもにとって、初夏の楽しみといえば学校帰りの駄菓子屋や商店で買うアイスだった。10円、20円、30円。小さなお小遣いを握りしめて、冷凍ショーケースの白い霧の向こうを覗き込んで選ぶ、あの時間。 昭和44年(1969年)の5月7日、佐賀県の小さなお菓子屋から、一本のアイスが世に出た。 「ブラックモンブラン」。 今も九州の人々に愛され続けるそのアイスは、遠いフランスの雪山の麓で生まれた夢から始まった。そしてそのアイスが作り上げた「チョコバリ系」というジャンルが、昭和50年代の東京の子どもに、忘れられない衝撃を与えることになる。 モンブランを見た男の、とんでもない発想 昭和40年代の初め、竹下製菓の3代目社長・竹下小太郎はヨーロッパへの経済視察旅行に参加した。 訪れたのはフランス・アルプスの山岳リゾート地、シャモニー。標高が高く、夏でも冷え込むその街の向こうに、ヨーロッパ最高峰の白銀の頂・モンブラン山がそびえていた。 それを眺めながら、竹下小太郎の頭に一つの考えが浮かんだ。 「この真っ白い雪山に、チョコレートをかけて食べたらさぞ美味しいだろう」 帰国後、竹下は試作を繰り返した。バニラアイスをチョコレートで包み、その外側にザクザクとしたクッキークランチをまぶす。シンプルだが、当時のアイスとしては革命的な組み合わせだった。 当時の子ども向けアイスといえば、甘味料を加えた色水を棒に刺して固めただけのシンプルなアイスキャンデーが主流だった。バニラアイスにチョコレートとクッキーという「洋菓子風の高級感」は、それまでの駄菓子アイスとはまったく別の存在だった。 アイスクリームの最高峰を目指すという意味を込め、その名前にあの山を冠した。昭和44年5月7日、ブラックモンブランが誕生した。 フライみたいなアイスの、あの衝撃 ブラックモンブランは九州を中心に広まった。しかし昭和50年代に入ると、同じ「チョココーティングのクランチアイス」という系統の商品が、少しずつ全国にも姿を現し始めた。 私が東京でそれを初めて目にしたのは、昭和50年代のことだった。 近所の商店の冷凍ケースの中に、見たことのない形のアイスがあった。「チョコバリ」。 最初は、アイスだとわからなかった。表面がチョコレートでびっしりと覆われていて、まるでフライのようにゴツゴツとしている。「これ、アイスなの?」という衝撃だった。それまでのアイスといえば、細長い棒に色のついた氷が刺さったもの、あるいは丸いカップに入ったもの。チョコレートの鎧をまとった、あんな見た目のアイスを見たことがなかった。 どんな味がするんだろう。かじったらどうなるんだろう。中は何が入っているんだろう。 ところが、当時の私のお小遣いでは、チョコバリは少し高価に感じた。いつも買っていた棒アイスや氷菓子に比べると、値段がワンランク上だった。友達と一緒にいるのに「買えない」とは言いたくない。でも財布の中身が心もとない。そういう複雑な気持ちで、ケースの前でしばらくじっと見つめていた記憶がある。 結局その日は買えなかった。 初めてチョコバリを口にしたとき、チョコレートとクランチがバリッと割れて、中からひんやりとしたバニラが出てくるあの瞬間の感触は、今でも鮮明に覚えている。「こんな食べ物があったのか」という発見の味だった。 アイスが呼び起こす、リアルな記憶 今でも、スーパーやコンビニでチョコバリ系のアイスを見かけることがある。 棒に刺さったチョココーティングのアイスが、冷凍ケースの中に並んでいる。何気なく目に入るだけで、あの頃の記憶が一気によみがえってくる。 不思議なことに、映像として出てくるのだ。 昭和50年代のあの商店の前。一緒にいた友達の顔。その日に何をしていたか。どんな季節だったか。アイスを眺めながら「買おうかどうしようか」と迷っていた自分の、あの気持ち。 アイスひとつで、そこまで鮮明に出てくることが、我ながら不思議だと思う。 これは「プルーストの記憶」と呼ばれる現象に近いのかもしれない。フランスの作家マルセル・プルーストが、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に幼少期の記憶が洪水のようによみがえるという体験を書いた有名な場面だ。味や匂い、視覚の記憶は、言葉や論理で整理された記憶よりも深いところに刻まれていて、ふとしたきっかけで突然、リアルな映像として浮かび上がってくることがある。 チョコバリを見るたびに、私の中の昭和50年代の夏が戻ってくる。あの頃の友達と、あの頃の町の空気と、お小遣いが足りなくて買えなかったあの悔しさまで、セットで。 「当たり」が出たときの、あの興奮 ブラックモンブランには、子どもたちを夢中にさせるもう一つの仕掛けがあった。 アイスの棒に書かれた**「当たり」くじ**だ。 食べ終わった棒をそっとめくると、「はずれ」か「当たり」の文字が現れる。「当たり」が出れば、お店でもう一本と交換できる。昭和52年から数年間は、特賞として500円の当たりが設けられていた時期もあったという。子どものお小遣いが数百円の時代に、アイス一本で500円が当たる。それはもう、宝くじに近い興奮だった。 棒をじっと見つめて、息をのんで文字を確認するあの瞬間。「当たり」の文字が見えたときの「やった!」という叫びは、九州でも東京でも、昭和の子どもたちに共通の体験だったはずだ。 おわりに 昭和44年5月7日、一人の菓子屋の社長がフランスの雪山に見た夢が、佐賀の工場でアイスになった。 そのアイスが生み出した「チョコバリ系」というジャンルは、やがて九州を飛び出して日本中の冷凍ケースに並ぶようになった。東京の子どもが「フライみたいなアイス」に目を丸くした昭和50年代の夏も、その流れの中の一コマだ。 今もスーパーの冷凍ケースの前で、チョコバリをじっと眺めることがある。買うかどうか迷いながら。あの頃と違うのは、今は買える財布の中身があるということだけだ。 それでも、手に取る前の一瞬、昭和50年代の夏がリアルな映像となってよみがえってくる。あの頃の友達と、あの頃の商店と、あの「フライみたいなアイス」への、ときめきとともに。

May 6, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今

今日は5月6日。連休が明けて、また日常が始まる。 昭和の大人たちにとって、この時期はデスクに積み上がった仕事が待ち構えていた。書類、報告書、手紙。昭和の職場では、そのすべてが手書きか、和文タイプライターで打たれていた。 そんな昭和の「書く仕事」を、根本から変えてしまった機械がある。 ワープロ──ワードプロセッサーの略だ。 昭和57年(1982年)の5月6日、富士通がある機械を発表した。日本初の100万円以下のワープロ、その名も「マイオアシス」。この日が、「ワープロ」という言葉が日本に定着するきっかけになった日でもある。 75万円の「文明の利器」 「マイオアシス」の価格は75万円だった。 今の感覚では「それでも高い」と思うかもしれない。でも当時のワープロは1台500万円以上が当たり前の時代だった。それが75万円になった。半額以下どころか、7分の1以下だ。オフィスの大型機械だったワープロが、初めて「買えるかもしれない」という存在になった瞬間だった。 この発売に合わせて、富士通は大相撲の人気力士・高見山を起用したテレビCMを大量に放映した。外国人力士として初めて幕内最高優勝を果たし、愛嬌あふれるキャラクターで日本中に人気だったあの高見山が、ワープロのキーボードを叩く映像が全国に流れた。 このCMの中で繰り返し使われた「ワープロ」という略称が、そのまま日本語として定着した。それまでは「日本語ワードプロセッサー」と呼ばれていたこの機械を、日本人は「ワープロ」と呼ぶようになった。 高見山とワープロ。なんとも昭和らしい組み合わせだと思う。 和文タイプライターからワープロへ ワープロが登場する前、日本の職場で文書を作るのがいかに大変だったか、今の若い世代には想像もつかないかもしれない。 和文タイプライターというものがあった。2000個以上の活字が並んだ大きな盤の上を、専用の棒で一文字一文字探して、ガチャンと打ち込んでいく。熟練のタイピストが必死に習得した職人技だった。それでも漢字の種類は限られていて、特殊な文字は使えなかった。 ワープロが変えたのは、そこだった。キーボードでひらがなを打てば、漢字に変換してくれる。間違えても、印刷前なら何度でも直せる。文章を丸ごと動かしたり、コピーしたりもできる。 昭和の大人たちが初めてワープロを触ったときの驚きは、相当なものだったはずだ。「こんなことができるのか」という感動と、「自分にも使えるだろうか」という不安が入り交じった、あの顔が目に浮かぶ。 「ワープロしちゃう」が流行語になった昭和60年代 マイオアシスが発表された昭和57年から数年後、ワープロは急速に普及していった。 昭和60年(1985年)には、東芝が9万9800円という価格のワープロを発売して「10万円以下」の壁を破った。さらにカシオが5万9800円という衝撃の低価格機を投入し、「電卓戦争の再現」とマスコミに騒がれた。 価格が下がるにつれ、ワープロは家庭にも入り込んできた。「ワープロしちゃう」という言葉が若者の間で流行語になったのも昭和60年代のことだ。 少し裕福な家の友達の家にワープロがあって、みんなで触らせてもらった。カタカタと打てば漢字が出てくる、あの感覚の新鮮さ。学校の作文や卒論をワープロで打ち込んだあの誇らしさ。昭和の終わりごろ、私たちの世代はそうやってワープロと出会った。 ワープロが消え、パソコンが来て、そしてAIが来た 昭和が終わり平成に入ると、ワープロは静かに姿を消していった。 パソコンが普及し、ワープロソフトが使えるようになると、専用機を買う理由がなくなった。「Rupo」「書院」「文豪」「オアシス」──かつてワープロのブランド名として輝いていたそれらの名前は、今の若い世代はほとんど知らない。 そしてパソコン時代が来て、インターネットが来て、スマートフォンが来た。気がつけば、私たちは次々と「新しい文明の利器」を手にしながら、ここまで来た。 そして今、また大きな波が来ている。 AIだ。 今、私たちが手にしているもの 昭和57年に75万円だったワープロが「文明の利器」と呼ばれた。 今、15万円程度のMacBook Airを手にすれば、かつてのスーパーコンピューター顔負けの処理能力と、高度なAIが使える。文章を書かせれば、あっという間に仕上げてくる。調べものをすれば、必要な情報を整理してまとめてくれる。翻訳も、要約も、提案も、瞬時だ。 さらに今はエージェント型のAIまで登場している。人間が「こういうことをやっておいて」と指示を出せば、AIが自律的に考え、判断し、作業を完了させてしまう。ワープロが「手書きからの解放」だったとすれば、AIエージェントは「作業そのものからの解放」に向かっている。 昭和57年に75万円のワープロに驚いた人たちが、今この時代を見たら何と言うだろうか。 これはもはや道具の進化ではなく、現代の産業革命だと思う。蒸気機関が肉体労働を変えたように、AIは知的労働そのものを変えようとしている。 おわりに──振り返ることで、感謝がわいてくる 昭和57年5月6日、「ワープロ」という言葉が日本に生まれた。 あの日、75万円の黒い箱の前でおそるおそるキーボードを叩いた大人たちがいた。「こんなことができるのか」と目を丸くしながら、書く仕事の未来が変わっていく予感を感じていたはずだ。 あれから40年以上が経った。 和文タイプライターからワープロへ。ワープロからパソコンへ。パソコンからスマートフォンへ。そして今、AIへ。 振り返ってみると、私たちはとんでもない時代の変化の中を生きてきたのだと気づく。そして今、その変化のスピードはさらに加速している。 昭和の道具たちへの懐かしさとともに、今この時代に生きていることへの感謝がじわじわと湧いてくる。75万円のワープロに驚いた世代が、AIと一緒に仕事をする時代を生きている。それ自体が、ものすごいことだと思うのだ。

May 5, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──屋根より高い鯉のぼりと、銭湯帰りのコーヒー牛乳

今日は5月5日、こどもの日だ。 ゴールデンウィーク最後の祝日。子どもにとっては「もうすぐ学校が始まる」という一抹の切なさと、それでも「今日はまだ特別な日だ」という気持ちが混在する、不思議な一日だった。 昭和の5月5日には、今では見かけなくなったある光景があった。 空を泳ぐ、大きな鯉のぼりだ。 空が、鯉で埋まっていた 昭和40年代から50年代にかけて、こどもの日が近づくと、日本中の住宅街の空に鯉のぼりが上がった。 大きな真鯉(黒)、その下に緋鯉(赤)、そして小さな子鯉(青)。一家に男の子がいれば、屋根の上に竿を立て、高々と鯉のぼりを掲げるのが当たり前だった。風が吹くたびに鯉のぼりがはためいて、丸く開いた口から風を飲み込んでいく。あの姿は、昭和の5月の空の定番だった。 「♪屋根より高い鯉のぼり」という歌の通り、本当に屋根より高いところに掲げた家が多かった。父親が梯子をかけて竿を立てる姿を、子どもは下から見上げていた。 鯉のぼりの由来は江戸時代に遡る。中国の伝説に「滝を登り切った鯉は竜になれる」というものがあり、それにちなんで「この子も鯉のように、どんな困難も乗り越えて育ってほしい」という親の願いが込められた。でも子どもだった私には、そんな由来はどうでもよかった。あの大きな黒い鯉が空に泳いでいるのを見るだけで、なんとなく特別な気分になれた。それだけで十分だった。 兜と、柏餅と、そして銭湯へ 昭和のこどもの日には、家の中にも決まった景色があった。 床の間や棚の上には兜飾りや五月人形が鎮座していた。黒塗りの台の上に飾られた金色の兜は、子どもの目には圧倒的な存在感があった。触ってはいけないと言われながら、こっそり手を伸ばした記憶がある。 食べ物といえば柏餅。柏の葉で包まれた白いお餅の中に、あんこが入っている。柏の葉は「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という特徴があり、「子孫繁栄」の縁起を担ぐとされていた。昭和の子どもには縁起よりも、あの独特の葉の香りとモチモチした食感の方が大切だったけれど。 そして夜になると、父か母に手を引かれて、銭湯へ向かった。 あの頃、まだ家にお風呂がない家庭は珍しくなかった。昭和40年代の日本では、内風呂の普及率はまだ6割にも満たなかったという。近所の銭湯が、毎日の生活に当たり前のように溶け込んでいた時代だ。 こどもの日の銭湯には、菖蒲湯が用意されていた。大きな湯船に、細長い菖蒲の葉が何本も浮かんでいる。独特の青くさい香りが、湯気と混じって浴室に漂っていた。菖蒲の強い香りが邪気を払うと言われていたし、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武」「勝負」と同じ読みであることから、男の子の健やかな成長を願う意味もあった。 銭湯のおじさんかおばさんが、湯船に菖蒲をどっさりと入れてくれていた。あの光景は、こどもの日だけの、特別な銭湯の顔だった。 湯上りの、コーヒー牛乳 銭湯から上がった後の記憶が、今も鮮やかに残っている。 体を拭いて着替えて、番台の横の冷蔵ケースの前に立つ。そこに並んでいた瓶入りの飲み物の中から、母が「今日はこどもの日だから」と言って、コーヒー牛乳を買ってくれた。 瓶のふたを開けると、甘い香りがふわっと立ちのぼる。冷たくて、甘くて、ほんのりビターで。あの味は、コーヒー牛乳というよりも「ご褒美」そのものだった。普段はなかなか買ってもらえなかったから、特別感がひとしおだった。 当時の銭湯の定番飲み物といえば、白い牛乳、フルーツ牛乳、そしてコーヒー牛乳の三種類が並んでいた。腰に手を当ててグビグビと飲む、あのスタイルも含めて、銭湯帰りの儀式のようなものだった。 コーヒー牛乳1本、ちょっぴり嬉しかった。そのくらいの小さな幸せが、昭和のこどもの日には確かにあった。 鯉のぼりが空から消えていった それから時代が変わった。 昭和50年代後半になると、住宅街の空を泳ぐ大きな鯉のぼりが、少しずつ減っていった。都市部でマンションや集合住宅が増え、大きな竿を立てられる家が少なくなった。内風呂が普及し、銭湯が一軒また一軒と姿を消していった。瓶入りのコーヒー牛乳も、紙パックやペットボトルに取って代わられた。 鯉のぼりが似合っていたのは、あの時代の暮らしの形そのものだったのかもしれない。庭付きの一軒家、縁側、床の間。毎日歩いて通う近所の銭湯。そういう暮らしが当たり前だったからこそ、鯉のぼりもコーヒー牛乳も、あれほど輝いて見えた。 町の空が変わり、家の形が変わり、暮らしが変わる中で、昭和のこどもの日の風景は、少しずつ遠ざかっていった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には大きな鯉のぼり。夜には銭湯の菖蒲湯。そして湯上りに、冷たい瓶のコーヒー牛乳。 あれだけのことが、あんなにも嬉しかった。 昭和を生きた私たちにとって、こどもの日はそういう日だったのだと思う。あなたの記憶の中の5月5日には、どんな味や香りが残っているだろうか。

May 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々

今日は5月5日、こどもの日だ。 空には鯉のぼりが泳ぎ、家には柏餅があって、夜は銭湯の菖蒲湯に入る。昭和のこどもの日にはそういう、穏やかで決まった景色があった。 でも、テレビをつければ、そこには違う景色が映っていた。 難しい顔をしたアナウンサーが、子どもには意味のわからない言葉を繰り返していた。「あさまさんそう」「ロッキード」「りんちょう」。何かが起きているとは感じた。でも何が起きているのかは、わからなかった。 あれから五十年近くが経った。今ならば、あの言葉の意味がわかる。 鉄球が、山荘に打ち込まれた──浅間山荘事件(昭和47年) 1972年の冬、日本中がテレビの前に釘づけになった。 2月19日、長野県軽井沢の山荘に武装した若者たちが立て籠もった。「連合赤軍」という名の学生運動グループが、管理人の妻を人質に取り、山荘に閉じこもったのだ。警察との対峙は10日間に及んだ。 子どもだった私には、「立て籠もり」という言葉の意味もよくわからなかった。でも、テレビに映し出された光景は目に焼き付いている。雪の中に機動隊員が並んでいて、クレーン車の先に大きな鉄球がぶら下がっていた。 2月28日の強行突入、あの鉄球が山荘の壁に打ち込まれる瞬間、視聴率は89.7%を記録した。ほぼ日本中の家のテレビが、同じ画面を映していたことになる。 事件が終わった後、もっと恐ろしい事実が明らかになっていった。 連合赤軍のメンバーたちは、山荘に立て籠もる前に、山の中で仲間どうしを「総括」という名目で殺し合っていた。14人が粛清された。革命を叫んでいた若者たちの末路は、自分たちの手で仲間を殺すことだったのだ。 大人たちが深刻な顔でそのことを話していた。子どもには意味がわからなかった。でも、何か取り返しのつかないことが起きたのだということは、なんとなく伝わってきた。 あの事件が、日本の学生運動の「終わりの始まり」だったと、今はわかる。 総理大臣が、捕まった──ロッキード事件(昭和51年) 「ロッキード」という言葉を、初めて聞いたのはいつだっただろうか。 1976年、私はまだ小学生だった。ニュースでは毎日のように「ロッキード」という聞き慣れないカタカナが飛び交っていた。父が「大変なことになった」と言いながらテレビを見ていた。 アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、日本の政治家や官僚に巨額の賄賂を渡していた。そのことが、2月のアメリカ上院の公聴会で暴露された。日本中が震えた。 そして7月、信じられないことが起きた。 元総理大臣の田中角栄が、逮捕されたのだ。 子どもながら、これは普通のことではないと感じた。総理大臣というのは日本で一番偉い人のはずだ。その人が手錠をかけられて連行される——そんなことがありえるのか、と。 「5億円」という金額がニュースで繰り返された。子どもには5億円がどれくらいの金額なのか想像もできなかったけれど、大変な数字だということはわかった。父が「やっぱりそういうことか」とつぶやいていた。 田中角栄という人は不思議な人だった。 逮捕されて裁判にかけられても、なお選挙では大量得票で当選し続けた。地元の新潟では英雄扱いだった。「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた政治手腕を惜しむ声は根強かった。有罪判決が確定した後も、「闇将軍」として政界に影響力を持ち続けた。 この事件は「政治とカネ」という言葉を日本語に定着させた。それから五十年、同じ言葉が何度も何度も繰り返されている。 あの夏に見たニュースの衝撃は、大人になった今も消えない。 国鉄が、なくなった──臨調と行政改革(昭和56年) 「国鉄がなくなる」と聞いたとき、子どもの私には意味がわからなかった。 国鉄とは「国有鉄道」のことで、日本全国の鉄道を国が直接運営していた組織だ。昭和の子どもにとって、国鉄は空気のような存在だった。旅行に行けば国鉄、通学に使えば国鉄。あって当たり前で、なくなるはずのないものだと思っていた。 1981年3月、鈴木善幸内閣は「第二次臨時行政調査会」、通称「臨調」を発足させた。会長は土光敏夫という財界の大物で、「増税なき財政再建」というスローガンを掲げた。国鉄・電電公社・専売公社という三つの巨大な国営事業を民間に移すという、大改革の議論が始まった。 5月5日の頃、その審議は本格的に動き出していた。 でも子どもには、臨調が何なのかわからなかった。なぜ国鉄をなくす必要があるのかもわからなかった。ニュースの映像に出てくる難しい顔のおじさんたちが、難しい言葉で何かを言い合っている。それだけだった。 あれから時が流れ、1987年、国鉄は本当になくなった。 JR東日本、JR西日本、JR東海——今私たちが毎日使っている鉄道会社は、あの議論の果てに生まれたものだ。電電公社はNTTになり、専売公社はJTになった。「官から民へ」という言葉が日本政治のキーワードになり、その流れは二十年後の小泉構造改革まで続いた。 国鉄の赤字は、廃止の時点で37兆円にのぼっていたという。その借金は国民全体で分担することになった。平成になっても、令和になっても、まだ返し続けているものがある。財政の問題というのは、一度積み重なると、そう簡単には消えない。 「国鉄がなくなる」という言葉の本当の意味を、子どもの私はわかっていなかった。 おわりに 5月5日、こどもの日。 空には鯉のぼりが泳いでいた。でも、テレビの中では何かが揺れていた。 浅間山荘の鉄球。田中角栄の逮捕。国鉄をなくすという議論。 子どもだった私には意味がわからなかった。でも、あの出来事のひとつひとつが、今の日本を作ってきた。警察の特殊部隊が生まれ、「政治とカネ」という言葉が定着し、JRとNTTが誕生した。 大人たちがあの頃に格闘していた問題が、形を変えて今も続いている。 こどもの日に、昭和の大人たちが背負っていたものを振り返る。それが、あの時代を生きた私たちにできることのひとつかもしれない。 あなたの記憶の中の5月5日には、テレビの向こうにどんな景色が映っていただろうか。

May 4, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月4日──ラムネと予言と、休日になった日

今日は5月4日。 ゴールデンウィークも終盤だ。昭和の子どもにとって、この日は少し不思議な日だった。 5月3日(憲法記念日)と5月5日(こどもの日)という2つの祝日に挟まれながら、昭和60年(1985年)より前の5月4日は、正式な祝日ではなかった。学校は休みのこともあれば、そうでないこともある。なんとも宙ぶらりんな日付だ。 そんな5月4日に、昭和の時代に起きた3つの出来事を掘り起こしてみたい。 その一 ラムネの誕生──明治5年(1872年)5月4日 まず一つ目は、昭和より遥か昔の話だが、昭和の子どもの夏に欠かせないものの誕生秘話だ。 ラムネ。 瓶の口にビー玉が詰まった、あの独特の飲み物。昭和の縁日や駄菓子屋に必ずあって、暑い日に飲む一杯はなんとも言えない爽快感があった。 明治5年(1872年)の5月4日、東京の実業家・千葉勝五郎が、ラムネの製造販売の許可を取得した。中国人のレモン水製造技師を雇って製法を学んだというから、当時としては相当な苦労があったはずだ。 「ラムネ」という名前の由来は「レモネード」だ。外来語が日本人の口の中でなまって「レモネード→ラムネード→ラムネ」と変化していった。そのラムネが日本で正式に製造・販売できるようになったのが、この5月4日だった。 昭和の子どもには、ラムネの飲み方に一つの作法があった。瓶の口にあるビー玉を、付属の押し込み棒でグッと押し下げる。シュワッと炭酸が抜ける瞬間の音と感触。そして飲みながらビー玉がコロコロと転がる感覚。飲み終わった後、瓶を割ってビー玉を取り出そうとした子どもも少なくないはずだ。 明治の夏に生まれたあの飲み物は、昭和の子どもの夏にも確かに生きていた。 その二 「1999年に人類は滅亡する」──昭和48年(1973年)のあの予言 次は少し違う話。昭和の子どもが「怖かった」ものの話だ。 昭和48年(1973年)、一冊の本が日本中を震撼させた。 五島勉著『ノストラダムスの大予言』。 16世紀のフランスの占星術師・ノストラダムスが書いた詩集の中に、「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくるだろう」という一節がある。五島勉はこれを「人類滅亡の予言」と解釈し、発売するやいなや250万部を超えるベストセラーになった。 昭和48年といえば、オイルショックが起きた年だ。トイレットペーパーが店頭から消え、将来への漠然とした不安が社会全体を覆っていた。そういう時代の空気の中に、「1999年に世界が終わる」という予言が飛び込んできたのだから、信じてしまった人が多かったのも無理はない。 そして怖かったのは、大人だけではなかった。 5月4日はノストラダムスの命日(1566年)でもある。「ノストラダムスの日」と呼ばれるのもそのためだ。 昭和50年代の子どもたちは、この予言を本気で信じていた。教室で回し読みされ、「27歳で死ぬんだ」と本気で思っていた子もいたという。携帯電話もインターネットもない時代、「本に書いてあることは全て事実」という感覚があった。怖いけれど、手放せない。昭和の子どもたちにとって、ノストラダムスの大予言はそういう存在だった。 1999年、予言は外れた。世界は続いた。 あの恐怖は、いったい何だったのだろう。今となっては少し可笑しいような、でもあの頃の本気の怖さは確かに本物だったような──そんな不思議な記憶として残っている。 その三 GWがひとつながりになった日──昭和60年(1985年) 最後は、ゴールデンウィークの話だ。 昭和60年(1985年)12月27日、祝日法が改正された。これにより、「国民の祝日に挟まれた日は、たとえ祝日でなくても休日とする」というルールが生まれた。 この法改正が実質的に意味していたのは、5月4日を休日にすることだった。 それまでの5月4日は、曜日によって休みになったりならなかったりする、なんとも不安定な日だった。3日が憲法記念日、5日がこどもの日という2つの祝日に挟まれながら、4日だけが取り残されていた。その「谷間」を埋めようというのが、この法改正の目的だった。 制度自体は昭和60年末から始まったが、翌年・翌々年の5月4日はそれぞれ日曜と月曜だったため、実際に「国民の休日」として最初に機能したのは**昭和63年(1988年)**のことだ。 こうして昭和の終わりごろ、ゴールデンウィークはようやく4月29日から5月5日まで途切れなくつながるようになった。 昭和の子どもが大人になる頃に、ようやく手に入った長い連休。あの法改正がなければ、今のゴールデンウィークの感覚はなかったかもしれない。 おわりに 5月4日という日に、こんな3つの昭和の断片がある。 明治に生まれて昭和の子どもの夏を彩ったラムネ。昭和の子どもが本気で怖れた世界の終わり。そして、GWをひとつながりにした法改正。 ゴールデンウィークの残り一日、どこかでこの日のことを思い出してもらえたら嬉しい。

May 3, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月3日──今日はリカちゃんの誕生日

今日は5月3日、憲法記念日だ。 昭和の子どもにとって、この日はゴールデンウィークのど真ん中にある「なんとなく地味な祝日」という印象だったかもしれない。5月4日は当時まだ祝日ではなく平日だったから、翌日のことが少し気になる、そんな中途半端な位置にある休日だった。 でも、昭和42年(1967年)に誕生したある人形にとって、5月3日は特別な日だ。 リカちゃんの、誕生日。 公式プロフィールによれば、香山リカ、11歳、牡牛座。誕生日は5月3日。ゴールデンウィークのこの日に生まれた、という設定になっている。 醤油工場から生まれた、日本の女の子の夢 リカちゃんが最初に店頭に並んだのは、昭和42年(1967年)の夏のことだ。当時の価格は1体600円から、中心価格は750円。今の感覚では安く聞こえるが、昭和40年代の750円は子どもがそう簡単に手が出せる金額ではなかった。 それでも女の子たちは夢中になった。 リカちゃんが生まれた背景には、少し意外な話がある。もともとタカラは、アメリカのバービー人形を入れるための「キャリングケース」を作ろうとしていた。ところが、バービーのサイズに合わせてドールハウスを作ると、日本の住宅事情では大きすぎて置けない。それならいっそ、日本の子どもの手の平に収まるサイズの、日本独自の着せ替え人形を作ってしまおう──そういう発想の転換から、リカちゃんは生まれた。 身長21センチ。少女漫画のヒロインのような大きな目。そして「小学5年生」という、遊ぶ子どもたちと近い年齢設定。当時のバービーやタミーちゃんとは明らかに違う、日本の女の子のための人形だった。 初代リカちゃんが作られた工場の話が、また面白い。発売当初はまだ専用の製造工場が整っておらず、千葉県のある醤油工場が生産を引き受けたのだという。醤油を作っていた工場の近所の主婦たちが急遽集められ、約1ヶ月間、顔の描き方や植毛の技術を猛特訓した。そのため初代リカちゃんの顔は手描きで、右利きの人が描きやすいように、目線が少し左を向いているのだ。 醤油の香りが漂う工場で、昭和の主婦たちが一体一体手で描いた。あの流し目は、そんな場所から生まれていた。 「リカちゃんはいますか?」 発売の年、タカラの電話に一本の電話がかかってきた。 「リカちゃんはいますか?」 小さな女の子からの電話だった。受けた女性社員は、子どもの夢を壊してはいけないと思い、とっさにこう答えた。「こんにちは、私がリカよ」。 女の子は大喜びした。その話が口コミで広がり、「リカちゃんと直接話せる」という噂が日本中の女の子の間に伝わっていった。問い合わせの電話が殺到し、やがてタカラは専用回線を設けた。翌年、昭和43年(1968年)には「リカちゃんでんわ」が正式にスタートした。 リカちゃんの声を担当したのは声優の杉山佳寿子さん。アルプスの少女ハイジなどでも知られるこの人が、1997年まで実に30年間、リカちゃんの声を演じ続けた。 昭和の女の子たちは、本当にリカちゃんと話せると信じていた。そしてその電話の向こうに、30年間、同じ声が響き続けていた。 昭和の女の子が「なりたかった自分」 リカちゃんが他の人形と決定的に違ったのは、プロフィールがあったことだ。 名前は香山リカ。苗字は女優の香山美子と加山雄三から取られた。パパはフランス人の音楽家で、ママは日本人のファッションデザイナー。国際的でおしゃれな家族設定は、昭和40年代の女の子たちにとって憧れそのものだった。 人形に名前があり、家族がいて、誕生日がある。まるで本物の友達のように扱えるこの設計が、日本の子どもたちの心をつかんだ。発売からわずか2年後の昭和44年(1969年)には、それまでトップだったアメリカのバービー人形を売上で追い抜いた。 昭和を通じて、リカちゃんは何度もモデルチェンジを繰り返した。昭和47年に2代目、昭和57年に3代目、昭和62年に4代目。それぞれの時代の女の子の「こうありたい」という姿を、リカちゃんは少しずつ形を変えながら反映し続けた。 累計販売数は6000万体を超えている。日本の女の子の数より、はるかに多い。 おわりに 5月3日は憲法記念日だ。「基本的人権の尊重」を謳うこの日に、日本中の女の子たちの夢を体現した人形が誕生日を持っている。それが偶然なのか、誰かの計らいなのかは知らない。 リカちゃんを持っていた女の子たちは今、私と同世代か、少し上の世代だろう。あの小さな21センチの人形に、どんな夢を重ねていたのだろうか。 醤油工場で手描きされた流し目のリカちゃんは、今日も5月3日という誕生日を、昭和の記憶の中で迎えている。

May 2, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月2日──たいやきくんは、なぜ海に逃げたのか

今日は5月2日。ゴールデンウィークも終盤に差し掛かる、少し惜しいような一日だ。 昭和の子どもにとって、このあたりから「もうすぐ学校だ」という現実がじわじわと迫ってくる時期でもあった。楽しかった連休の終わりに、どこか気持ちが沈む感覚。子どもだったから言葉にはできなかったけれど、あの感覚は今でも5月の空気の中にある気がする。 今日は、そんな「逃げ出したい気持ち」を歌にした、昭和50年の一曲の話をしたい。 昭和50年(1975年)──たいやきくんが、逃げた日 「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」 この歌いだしを聞けば、昭和を生きた人なら誰でも、あのメロディーが頭の中に流れてくるはずだ。 「およげ!たいやきくん」。昭和50年12月25日、クリスマスの日に発売されたこの一曲は、日本中を文字通り席巻した。シングル盤の売上は最終的に450万枚以上に達し、2024年現在もなお日本歴代シングル売上の第1位に輝いている。 もともとはフジテレビの子ども番組『ひらけ!ポンキッキ』の中で流れていた曲だ。番組内でオンエアが始まったのは昭和50年の秋ごろで、子どもたちの間でじわじわと人気に火がついていた。最初に歌っていたのは無名のフォークシンガーだったが、レコード化の話が持ち上がったとき、契約の都合でその歌手は使えなくなった。急遽代わりに白羽の矢が立ったのが、子門真人という歌手だった。 子門真人は当時、特撮やアニメの主題歌を吹き込む仕事を続けていた。仮面ライダーの「レッツゴー!!ライダーキック」もこの人が歌っている。ただ、主役ではなく裏方に近い立場で、吹き込み料は一曲あたり数万円という世界だった。 「たいやきくんも歌ってみないか」と声をかけられたとき、子門は特に深く考えずに引き受けた。いつものアルバイトの感覚だ。練習なしで、スタジオに入って約1時間で録音を終えた。ギャラは5万円。それだけだった。 その5万円の歌が、日本中で450万枚売れた。 子どもが喜び、大人が泣いた歌 不思議な歌だった。 表向きには子ども向けの童謡だ。たいやき屋から逃げ出した小さなたいやきが、海を泳ぎ回り、自由を謳歌する。でも最後には釣り人に釣られて食べられてしまう。なんとも後味が複雑な結末だ。 昭和50年代、この歌はサラリーマンの心情を代弁する歌だと言われた。毎日毎日、同じ場所で同じことをして、嫌になっても逃げられない。でもいつか逃げ出してやる。海まで泳いでやる──そんな感情が、たいやきという小さな存在に重なって見えたのだ。 大人たちがこの歌を聴いて涙を流した、という話が当時の雑誌にも載っていた。子ども向けの番組から生まれた歌が、なぜか働く大人の胸を打った。昭和50年という時代は、高度経済成長が一段落し、豊かにはなったけれどどこかくたびれた感じが社会全体に漂い始めた時期だった。オイルショックの後遺症もまだ残っていた。そんな時代の空気が、あのたいやきくんに乗り移っていたのかもしれない。 子どもだった私には、そんなことは何もわからなかった。ただ、あの独特のメロディーと「鉄板の上で焼かれる」という言葉が不思議に頭に残って、何度も口ずさんでいたのを覚えている。 5万円のギャラと、450万枚の皮肉 子門真人のギャラが5万円だったという話は、後に大きな話題になった。 印税契約ではなく買い取りで録音したため、450万枚売れても子門に入るお金は最初の5万円だけだった。後にレコード会社から特別に100万円と白いギターが贈られたが、23億円以上の売り上げに対してその扱いは切ない。 「歩合か買い取りか選べると言われて、何となく買い取りにした」と子門は語っている。まさかこれほど売れるとは思っていなかった。そりゃそうだ。子ども番組の一曲に、そんな夢を見る人はいない。 皮肉なことに、あの「逃げ出したい」という歌を歌った本人が、利益という意味では一番損をした形になった。たいやきくんと同じで、最後に食べられてしまったのは歌手のほうだったのかもしれない。 それでも子門真人は、その後も「ホネホネロック」「はたらくくるま」など子ども向けの歌を歌い続けた。昭和の子どもたちの記憶のどこかに、この人の声は確かにある。 おわりに 「およげ!たいやきくん」の発売は昭和50年12月25日だ。5月2日とは直接の関係はない。 でも、ゴールデンウィークの終わりが近づいて「また日常が始まる」という感覚を覚えるこの時期に、この歌のことをどうしても思い出してしまう。毎日毎日焼かれて嫌になっちゃう、という気持ちは、昭和の子どもにも、大人にも、そして今を生きる私たちにも、どこかに宿っているものだから。 たいやきくんは海に逃げた。最後は食べられてしまったけれど、あの自由に泳いだ時間は本物だったはずだ。 あなたが最後に「逃げ出したい」と思ったのは、いつのことだろうか。

May 1, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月1日──ゴールデンウィークのど真ん中、あの昭和50年の春

今日は5月1日。ゴールデンウィークのど真ん中だ。 昭和の子どもにとって、この時期は一年でいちばん気持ちが浮き立つ季節だったと思う。学校は休み、外は暖かく、どこかに連れて行ってもらえるかもしれないという期待感。あの頃の5月の空気は、今でも体のどこかに染み付いている気がする。 今回は、5月1日という日付にまつわる昭和の出来事というよりも、「あの昭和50年の春」に生まれたものを3つ振り返ってみたい。昭和50年(1975年)──私が9歳になった年だ。 昭和50年(1975年)──「きのこの山」が生まれた年 今も売り続けているあの定番チョコ菓子、きのこの山が誕生したのは昭和50年のことだ。 チョコレートとサクサクのクラッカーを組み合わせた、きのこの形のお菓子。今では「きのこ派」か「たけのこ派」かの論争が毎年のように話題になるが、そのきのこ派の総本山がこの年に誕生した。 開発のきっかけは意外な話で、明治の小粒チョコ「アポロ」の生産ラインが余っていたことだったという。アポロの円錐形の型にチョコを流し込み、クラッカーの棒を刺してきのこの形を作った。今見ると可愛らしくて当たり前のデザインだが、当時はチョコレートといえば「板チョコ」が主流の時代だった。きのこの形のお菓子なんて奇妙だ、売れるわけがない──社内でそんな声もあったという。 しかし発売するや爆発的なヒットとなり、生産ラインをフル稼働しても追いつかないほどの人気になった。4年後には姉妹品「たけのこの里」も登場し、日本にチョコスナックという新しいジャンルが生まれた。 昭和50年の春、駄菓子屋の棚にあのきのこが初めて並んだ。 昭和50年(1975年)4月15日──「一休さん」が始まった日 **『一休さん』**の放送が始まったのも、昭和50年のこの春だ。 室町時代の実在の僧侶・一休宗純をモデルにしたアニメで、頓智(とんち)で難問を解いていく機転の利いた少年僧の物語だ。「そうだ!とんちだ!」と膝を打つあの感覚を、子どもながらに楽しんでいた記憶がある。 「このはし渡るべからず」と書いてある橋の前で、一休さんは「はし(端)ではなく真ん中を渡ればいい」と言って渡る。「屏風の虎を捕まえよ」と言われれば、「まず虎を屏風から出してください」と切り返す。とんちといえばこの番組、というくらい昭和の子どもたちの記憶に刻まれた作品だ。 一休さんは1982年まで7年間・全296話が放送される長寿アニメとなった。「ぽくぽくぽく……チーン」というおなじみのシーンは、今でも頭の中で鳴り響く。 昭和50年(1975年)4月15日──「ローソン」が生まれた日 もう一つ、昭和50年の春に生まれたものがある。 今も街のあちこちにある**コンビニエンスストア「ローソン」**だ。昭和50年4月15日、ダイエーローソンとして設立された。 今でこそコンビニは生活の一部だが、当時の日本にはまだほとんど存在していなかった。「いつでも買い物できる店」という概念自体が新しかった時代に、ローソンはその先駆けの一つとしてスタートした。 ちなみにセブンイレブンの1号店が日本に開いたのは昭和49年(1974年)のことで、ローソンはその翌年だ。昭和50年前後は、日本のコンビニ元年とも言える時期だった。 あの頃の子どもには「コンビニ」という言葉すらなかった。でも気がつけば、私たちの生活の中にそれは深く入り込んでいる。昭和50年の春に産声を上げた店が、今も全国に1万4000店以上ある。 おわりに 昭和50年(1975年)の春に生まれたものを3つ振り返った。 きのこの山、一休さん、そしてローソン。どれも今でも続いているというのが、なんとも感慨深い。あの年の春に生まれたものが、半世紀を超えて今も私たちの生活の中にある。 昭和50年、私は9歳だった。きのこの山を食べ、一休さんを見ながら、コンビニのない町で育っていた。あの春の空気と一緒に、この3つの誕生を覚えておきたいと思う。

April 30, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月30日──カードを集めたくて、スナックを買い続けた

今日は4月30日。ゴールデンウィークのど真ん中だ。 昭和の子どもにとって、この時期は「連休の中日」という感覚よりも、「外で遊びまくる日々の一つ」という感じだった。近所の空き地、駄菓子屋、公園──あの頃の春休みやGWの記憶が、なんとなく頭の中によみがえってくる。 そんな4月30日に、昭和40年代から64年のあいだ、何があったのか。今回は3つの出来事を振り返ってみた。 昭和46年(1971年)──「仮面ライダースナック」という、社会問題 4月30日ぴったりの話ではないが、昭和46年(1971年)の4月に起きた出来事として欠かせないものがある。 仮面ライダースナックだ。 4月3日に仮面ライダーの放送が始まると、カルビーは「仮面ライダースナック」を発売した。1袋20円のスナック菓子に、仮面ライダーカードが1枚封入されていた。カードの裏には怪人の能力や弱点、ストーリーの解説が書いてあって、集めれば集めるほど仮面ライダーの世界が広がっていく。 子どもたちは夢中になった。 問題は、カードを手に入れた後のスナックだ。 当時の子どもたちは、カードだけ抜いてスナックを捨てていた。ゴミ箱に、道ばたに、スナックだけが山積みになっていく光景が全国で続出した。「食べ物を粗末にしている」と大人たちは怒った。これが社会問題として報じられ、カルビーはスナックの量を増やしたり、「残さず食べましょう」と呼びかけたりと、いろいろな対応を迫られた。 でも子どもにとっては、スナックよりカードのほうが大切だったのだ。当たり前だ。 この「カード付き菓子」の仕組みは、後のビックリマンチョコや現代の食玩・トレーディングカードゲームへと受け継がれていく。仮面ライダースナックは、日本のおまけ文化の原点の一つと言えるかもしれない。 昭和50年(1975年)4月30日──テレビの前で、大人が固まっていた日 これは子ども目線ではなく、大人の話だ。 昭和50年のこの日、ベトナム戦争が終結した。 北ベトナム軍の戦車が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)の大統領官邸に突入し、南ベトナム政府が崩壊した。アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで逃げ出す人たちの映像は、世界中に衝撃を与えた。 日本では、NHKがこの日の正午前に速報を流し、夜には特別番組を編成した。 ベトナム戦争は1965年ごろから日本でも反戦運動と結びついて語られ続けてきた戦争だ。昭和40年代の子どもたちにとっても、学校でも家でも「ベトナム」という言葉は時々耳に入っていたはずだ。何かが起きているらしい、遠い国で戦争をしているらしい──そんな漠然とした感覚。 この日、テレビの前で大人たちが真剣な顔をしていたのを、当時の子どもたちは覚えているだろうか。私にとっても、大人がニュースを見て黙り込んでいるのを横目で眺めていた記憶がある。 戦争が終わったのに、なぜ大人たちはあんな顔をしていたのだろう。長い時間が経った今なら、少しわかる気がする。 昭和46年(1971年)──変身ブームと、あの春の空気 仮面ライダーが放送を始めたこの春、昭和46年の4月は子どもたちにとって特別な季節だった。 仮面ライダーが始まる少し前、同じく昭和46年の4月には『帰ってきたウルトラマン』も放送開始していた。怪獣ブームが再びやってきて、「変身」というキーワードが街中に溢れていた時代だ。 「変身!」と叫んで両腕を広げるポーズは、翌年以降に登場する仮面ライダー2号・一文字隼人から生まれた。だが昭和46年の春、まだそのポーズも生まれる前から、子どもたちは自転車にまたがって風を切り、どこかのバッタの怪人を倒しに行くつもりでいた。 カードを集め、スナックを捨て、変身ポーズの真似をして、ちょっと怖いけど目が離せなかったあのヒーロー。 昭和46年の4月30日は、そんなブームの真っ只中にあった。 おわりに 4月30日という日に、私が知らなかった昭和の断片がここにある。 カードのためにスナックを買い続けた子どもたち。テレビの前で黙り込んでいた大人たち。変身ブームの熱気の中にいたあの春。 どれも、昭和という時代のリアルな一コマだ。 あなたの記憶の4月30日と、どこかで交差してくれたら嬉しい。

April 29, 2026

【昭和の今日は何があった日?】4月29日──天皇誕生日のこの日、あの黒と白のゲームが生まれた

今日は4月29日。 今は「昭和の日」と呼ばれているこの祝日、昭和の時代には「天皇誕生日」という名前だった。学校は休みで、街全体がどこかお祝いムードに包まれていた、あの春の日。 ゴールデンウィークの始まりでもあって、子どもにとっては嬉しくてたまらない一日だった。 そんな4月29日という日に、昭和40年代から64年のあいだ、いったい何が起きていたのか。今回は、私自身が「知らなかった」と驚いた出来事を3つ、掘り起こしてみた。 昭和48年(1973年)4月29日──黒と白のゲームが、この日に生まれた オセロの盤と石(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン) 「オセロ」が発売されたのは、昭和48年のこの日だ。 黒と白のコマを置いて、相手のコマを挟んでひっくり返す。ルールはシンプルなのに、一手ごとに形勢がガラリとひっくり返る。あの独特の緊張感は、子どもの頃に家族や友達と何度も経験したはずだ。 発売したのは株式会社ツクダ。発明したのは茨城県水戸市出身の長谷川五郎さんという人物で、なんと牛乳びんのフタを改造してコマの試作品を作り、玩具メーカーに売り込んだのが始まりだという。 企画段階でメーカー側が検討していた名前は、前年に中国から贈られて日本中の人気者になっていたジャイアントパンダにちなんで「ランランとカンカン」が有力候補だったそうだ。 なるほど、昭和48年はパンダ旋風が巻き起こっていた年でもあった。もしその名前になっていたら、今ごろどうなっていただろうか。 「覚えるのは1分、極めるのは一生」。そのキャッチコピーのとおり、オセロは今も世界中で愛されているボードゲームだ。あの黒と白は、昭和48年の4月29日に産声を上げた。 昭和60年(1985年)4月29日──「皇帝」が、五冠に輝いた日 競馬の話を一つ。 昭和60年のこの日、シンボリルドルフが天皇賞(春)を制して、史上2頭目となる「五冠馬」に輝いた。 シンボリルドルフは、前年の昭和59年に史上初の無敗での三冠を達成した名馬だ。皐月賞、ダービー、菊花賞をすべて勝って、そのまま有馬記念も制した。翌年も日経賞を圧勝し、そして迎えたこの天皇賞(春)でも、もう一頭の三冠馬・ミスターシービーの奇襲を冷静にかわして優勝。表彰式で騎手の岡部幸雄が高々と5本指を掲げた映像は、競馬ファンなら知っている名シーンだ。 「競馬に絶対はない」というのがこの世界の常識だが、この馬には絶対があると言われた。のちに「皇帝」「七冠馬」と呼ばれるシンボリルドルフの、その五冠目の勝利がこの日だった。 4月29日は天皇誕生日。そして「天皇賞」という名のレースが行われる日。まるで誂えたような一致だと思った。 昭和52年(1977年)4月29日──19歳の大学生が、日本一になった スポーツをもう一つ。 全日本柔道選手権大会は毎年4月29日、東京の日本武道館で開かれていた。体重の区別なし、体格も年齢も関係なく、すべての選手が同じ畳の上で戦う。日本最高峰の一本勝負だ。 昭和52年のこの日、一人の大学2年生が日本中を驚かせた。 山下泰裕、19歳。 決勝でオリンピック銅メダリストを判定で制し、史上最年少での優勝を果たした。まだ大学の授業を受けているような年齢で、日本一の称号を手にしたのだ。それまで「怪童」と呼ばれていたこの青年は、この日から「怪物」と呼ばれるようになった。 その後の山下泰裕はご存知のとおり。全日本選手権9連覇、ロサンゼルスオリンピック金メダル、公式戦203連勝。2019年にはギネス世界記録にも認定されている。 おわりに 昭和40〜64年の4月29日には、こんな出来事があった。 牛乳びんのフタから生まれたオセロ。5本指を高く掲げた騎手。19歳で日本一になった怪物。 どれもあの「天皇誕生日」という祝日の空気の中で起きた出来事だ。昭和を生きた私たちにとって、4月29日はそういう日だった。 あなたの記憶の中の4月29日と、ここで書いた出来事が、どこかで交差してくれたら嬉しい。

April 29, 2026