昭和の今日は何があった日? 6月6日 ― 「外で遊んではいけません」白いモヤと光化学スモッグ注意報

六月六日になりました。 この日には、昔から少し変わった言い伝えがあります。「芸事は、六歳の六月六日に始めると上達する」というもの。日本舞踊やお琴、三味線といった習い事の世界で、よく語られてきた験かつぎです。指を一本ずつ折って数えていくと、ちょうど六本目で小指が立って「六」の形になる――だから六歳の六月六日がいい、なんて説もあるそうですね。 この縁起にちなんで、六月六日は「楽器の日」「邦楽の日」とも定められています。歌舞伎の名作『寺子屋』に出てくる手習いの場面も、ちょうどこの季節。昔の子どもたちは、梅雨入り前のしっとりとした六月のはじめに、筆を持ち、三味線を抱え、新しい何かを始めたのですね。 なんとも風流な話です。けれど、正直に言えば、私自身の「六月」の記憶をたぐり寄せると、芸事よりも先に、もっと無粋な言葉が浮かんできてしまうのです。それも、習い事のような上品なものとは正反対の、当時の東京の空にべったりと貼りついていた、あの言葉が。 それが――「光化学スモッグ注意報」。 今日は少し、あの白くかすんだ夏空の話を、のんびり振り返ってみたいと思います。 テレビと校内放送から流れてきた、あの決まり文句 小学生のころ、夏が近づくと、テレビのニュースからこんな声が流れてきました。 「本日、東京都内に光化学スモッグ注意報が発令されました。屋外での激しい運動は避けてください」 子ども心にも、なんだか物々しい響きでした。そして決まって、その日は学校でも校内放送が入るのです。 「ただいま、光化学スモッグ注意報が発令されました。外で遊ばないでください」 スピーカーから流れるあの放送が入ると、先生からもひと言。「今日は昼休みの外遊びは禁止です」。せっかくの晴れた昼休みに、教室や廊下でおとなしくしていなさい、というわけです。ドッジボールもおにごっこもお預け。窓の外には、なんだかいつもより白っぽい空が広がっている。あれはちょっと、納得のいかない時間でした。 晴れているのに外に出られない、というのは、子どもにとってなかなか不条理なものです。雨で中止になるなら、まだあきらめもつく。けれどもピカピカに晴れた空を窓越しに眺めながら、教室で席に着いているのは、どうにも落ち着かない。教室に取り残された男の子たちは、黒板の前で相撲を取ったり、消しゴムを指ではじいて机の上で「消しゴム相撲」をやったり。先生の目を盗んでは、廊下の隅で小さな騒ぎを起こしていたものです。今思えば、外が危ないからと閉じ込められていたはずの教室の中のほうが、よほど騒がしかったかもしれません。 「これが光化学スモッグかぁ」――わかった気になっていた私 ただ、ここで正直に白状しておかなければなりません。 私自身は、光化学スモッグが原因で目がチカチカしたとか、喉が痛くなったとか、そういう体の不調を自覚したことが、ただの一度もなかったのです。まわりの友達にも、「やられた」という子はいませんでした。 ですから、注意報が出ているといっても、私たちにとってはどこか他人事。学校では神妙な顔で放送を聞いていても、いざ下校してしまえば、へっちゃらなものです。ランドセルを玄関に放り込んで、いつも通り、夕方まで外遊びに明け暮れていました。注意報も何も、あったものではありません。 それでも、空を見上げると――たしかに、白いモヤがかかっているように見えるのですね。 抜けるような青空ではなく、どこか牛乳を一滴落としたような、ぼんやりと濁った白。「ああ、これが光化学スモッグかぁ」。そうつぶやきながら、本当のところは何ひとつわかっていないくせに、なんだか自分は世の中の仕組みを一つ知ったような、わかった気になっていた。子どもというのは、そういうところがありますね。今思い出すと、少し可笑しくなります。 むしろ、注意報の出た日は、どこか胸が躍るような気持ちさえあったかもしれません。いつもと違う校内放送が入り、先生が少しあわてた様子を見せる。それだけで、退屈な学校の一日に、ちょっとした事件の気配が混じる。危ないものの正体を知らない子どもにとっては、災害も警報も、半分は冒険のようなものだったのです。下校のチャイムが鳴れば、そんな白い空の下へ、われ先にと飛び出していくのですから、世話はありません。 あの白い空の、ほんとうの正体 では、あの「光化学スモッグ」とは、いったい何だったのか。 ごく簡単に言えば、自動車の排気ガスなどに含まれる物質が、夏の強い日差しを浴びて化学反応を起こし、目やのどを刺激する有害な成分に変わってしまう――それが空にたまった状態のことです。風の弱い、よく晴れた蒸し暑い日に起こりやすい。だから夏に多かったわけですね。 おもしろいもので、朝のうちは何ともなかった空が、日が高くのぼる昼すぎになると、じわじわと白く濁ってくる。注意報が出るのも、たいてい午後でした。今思えば、太陽が真上から照りつけて、空の上で見えない化学の実験がいちばん盛んに進む時間帯だったわけです。あの「昼休み禁止」は、理屈の上では、ちゃんと筋が通っていたのですね。当時の私には、知るよしもありませんでしたが。 日本でこの被害が初めて大きく知られたのは、昭和四十五年(一九七〇年)七月十八日のこと。東京・杉並の東京立正中学・高校で、体育の授業中だった生徒四十三名が、いっせいに目やのどの痛みを訴えて倒れ、大騒ぎになりました。当時は原因がすぐにはわからず、人びとを不安にさせたといいます。 そして、ちょうど今日――六月六日も、忘れられない日でした。昭和四十七年(一九七二年)の六月六日、関東一帯を大規模な光化学スモッグが襲い、埼玉県では学校の生徒を中心に約千八百人、東京都内でも九百人を超える人たちが、目やのどの痛みを訴えたのです。 注意報が出される延べ日数は、昭和四十八年(一九七三年)にピークを迎え、その年だけで全国で三百日を超えました。昭和五十年ごろまでの数年間は、毎年のように二百五十日以上。――そう、私がランドセルを背負って葛飾の町を駆け回っていた、まさにあの時期が、日本の空がいちばん白く濁っていた季節だったのです。 当時の東京には、注意報が出ているかどうかを知らせる電光の表示灯が、町なかや学校に設けられていたといいます。今の若い人に話しても、なかなか信じてもらえないでしょう。空の状態を、信号機のように灯りで知らせなければならなかった時代があった――そう書いてみると、あらためて、ずいぶん遠くまで来たのだなという気がします。 高度経済成長のまっただ中。車が増え、工場が煙を上げ、町はどんどん便利で豊かになっていきました。その豊かさの裏側で、空はあんなふうに白くかすんでいた。子どもだった私は、便利さの代償なんて言葉も知らないまま、その白い空の下で、ただ無邪気に遊んでいたのですね。 令和の子どもたちには、別の言葉が ところで――最近、「光化学スモッグ注意報」という言葉を、めっきり聞かなくなったと思いませんか。 車の排ガスがきれいになる仕組みが進んだおかげで、あの白い空は、いつの間にか青さを取り戻していきました。今の子どもたちは、校内放送で「外で遊ぶな」と言われた経験など、ほとんどないのではないでしょうか。 その代わりに、今の夏に響いているのは「熱中症アラート」です。「危険な暑さです。屋外での運動は控えてください」――言われてみれば、私たちの「光化学スモッグ注意報」と、ずいぶんよく似ています。空から降ってくる危険の中身は変わっても、晴れた日に子どもを外から呼び戻す、大人たちの心配そうな声だけは、半世紀を越えて変わらないのですね。 もっとも、中身をよく見ると、ずいぶん違うようにも思います。光化学スモッグは、私たちが車や工場で自ら作り出してしまった汚れでした。だからこそ、技術の力で、いったんはきれいに片づけることができた。けれど今の暑さは、もっと大きく、もっと根の深いところから来ているように見えます。教室に閉じ込められてふくれっ面をしていればよかった私たちの時代より、令和の子どもたちが向き合っている空のほうが、ひょっとすると手ごわいのかもしれません。 あのころ、白いモヤの正体もよくわからないまま、注意報なんてどこ吹く風で遊び回っていた私。令和の今、外で遊ぶ子に「暑いから無理しちゃだめだよ」と声をかける側になってみると、なんとも不思議な気持ちになります。あれほど大人の心配を素通りしていた子どもが、いつの間にか、同じ言葉を口にする番になっている。時というのは、そうやって静かに、役回りを入れ替えていくものなのですね。 みなさんの夏空は、青かったでしょうか。それとも、あの白いモヤを覚えているでしょうか。よろしければ、あなたの「注意報」の思い出も、聞かせてください。 また明日、別の「今日」でお会いしましょう。 この連載「昭和の今日は何があった日?」は、昭和四十〜六十四年(一九六五〜一九八九年)の出来事を、ひとりの子どもだった私の目線で、その日その日に振り返っていく記録です。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:「トキ」という、少し寂しい言葉 ― 6月5日・環境の日に | 次の記事:6月7日 ── 鉄人・衣笠祥雄、一度も休まなかった男のこと ▶

June 6, 2026