【昭和の今日は何があった日?】7月23日──午後1時19分、東京の電気が消えた。私はそれを知らずに、高校野球を終えた
1987年、昭和62年7月23日。 この日、私の高校野球が終わりました。 そして同じ日の午後、首都圏の電気が消えました。280万戸。地震でも台風でもなく、ただ暑かったという理由だけで、東京の都市機能が止まった日です。 その時刻が、午後1時19分。 私たちの試合開始は、午後1時ちょうどでした。 つまり私は、プレイボールから19分後に街の電気が落ちた、そのど真ん中にいたことになります。神宮第二球場のグラウンドに、ユニフォーム姿で立っていました。 そして——何も、覚えていないのです。 五日で三試合、そして幕が下りた あの夏のことは、日付まで正確に言えます。 7月19日、二回戦。神宮球場。相手は強豪のシード校でした。雨の中の試合です。こちらは2本のホームランが飛び出し、壮絶な点の取り合いになりました。9対8、劇的なサヨナラ勝ちです。 7月22日、三回戦。同じく神宮球場。相手は私立校。この日は猛暑でした。終盤にかけて、またもホームランをきっかけに追いつき、8対7。これも劇的なサヨナラ勝ち。ベスト16に駒を進めました。 そして7月23日、四回戦。神宮第二球場。力のある私立校が相手でした。 勢いよく臨んだ試合です。この日もホームランが出ました。しかし接戦のまま、2対3。何度も追いつけそうなチャンスがあり、私にも打席が回ってきていました。それでも、この日は逆転できませんでした。 最後のアウトの瞬間、涙が自然と溢れてきて、止めることができませんでした。整列を終え、控室に戻っても止められなかった。高校野球生活の終わりを認め、ここまで仲間とともに過ごしてきたなかでの数々の思い出が次々と押し寄せてきて、どうにもならなかった。 そうです。青春です。 三試合とも、ホームランが出ていました。それでも最後は、一点足りませんでした。 足の裏が、熱かった 五日で三試合、しかも最後は連戦です。今にして思えば、よく体がもったものだと思います。 汗だくになったユニフォームで、ヘッドスライディングから立ち上がると、胸から太ももまで土がべっとりとついて、真っ黒になりました。 そして足の裏です。当時のスパイクは、靴底に天然皮革が使われていました。その革を通してグラウンドの熱が伝わってきて、足裏が熱かった。これは鮮明に記憶しています。 ただ、いちばんきつかったのは暑さそのものではありませんでした。当時の大会は日程がかなり詰まっていましたから、疲労が抜けないのです。体が回復する間がない。体力、気力の勝負で、私たちは負けていたのだと思います。 午後1時19分、首都圏が止まった さて、その同じ時間、グラウンドの外で何が起きていたか。 原因は、暑さでした。 気象庁の統計を見ると、あの三日間の変わりようがはっきり出ています。二回戦のあった19日、全国で最高気温30度以上を記録した地点は、わずか29でした。雨の中で戦っていたのですから、当然です。それが21日には210地点、三回戦の22日には356地点、そして敗れた23日には460地点にまで跳ね上がっています。35度以上の地点数にいたっては、22日がたった1、23日が79です。 私たちの三試合は、そのまま昭和62年の夏が本気を出していく過程を、なぞっていたことになります。 梅雨明け直後の、逃げ場のない暑さ。首都圏じゅうのクーラーが、一斉に回りはじめました。 ここで問題になったのが、無効電力というものでした。電気には、実際に機械を動かして働く分と、働きはしないけれど電気を送り届けるために必要な分があります。冷房のようなモーターを使う機器が増えると、この「働かない分」が急激に膨らんでいく。電力会社は変電所に置いてある電力用コンデンサを次々と投入して、これを抑え込もうとしました。 午後1時07分、コンデンサを全量投入。それでも追いつきません。基幹の変電所では、50万ボルトの母線電圧が37万から39万ボルトまで落ち込んでいたといいます。 そして午後1時19分。不足電圧リレーが働き、基幹系の変電所が停電しました。豊島、京北、北東京、多摩、上尾、池上。笹目、北相模、新秦野、新富士。名前の挙がった変電所の下にぶら下がっていた地域が、連鎖的に落ちていきます。 停電した戸数は280万。停止した電力は816.8万キロワット。範囲は東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、千葉の6都県に及びました。 東北・上越・東海道の各新幹線が止まり、在来線も都営地下鉄も私鉄も、運休と遅れが相次ぎました。信号機が消え、エレベーターには人が閉じ込められました。国会議事堂のある永田町も停電し、予算委員会が開けなくなっています。 東京23区内は午後1時36分に復旧しました。しかし関東全域が完全に復旧したのは、午後4時40分。三時間を超えて電気の来ない地域が、いくつも残っていたのです。 皮肉なのは、当時普及しはじめていたインバーター式エアコンが、事態を悪化させたと言われていることです。この方式は電圧が下がっても冷房能力を落とさないように働きます。すると電圧が下がった分だけ電流が増え、それがさらに電圧を下げる。省エネのための新技術が、悪循環の輪をまわしてしまったわけです。 短絡も地絡もありません。設備が壊れたわけでもない。ただ、暑かった。それだけで首都が止まりました。 なぜ、私は気づかなかったのか こうして調べてみると、自分が何も覚えていない理由が、だんだん分かってきました。 まず、私は屋外にいました。真昼です。照明はいりません。 そして神宮第二球場のスコアボードは、手書きでした。電光掲示ではなく、係の人が数字の板を掛け替える方式です。つまりあの球場は、電気が来ていようがいまいが、試合を続けられる場所だったのです。 停電した区域の記録も、資料によって書き方に幅があります。「東京都区内北部・南部」とだけ記したものもあれば、荒川区・足立区・文京区・北区といった具体名を挙げたものもある。私が生まれ育った葛飾も、球場のあった神宮外苑一帯も、実際に消えたかどうかは、私の手元の資料では断定できませんでした。 けれど、たとえあのとき球場の周りが真っ暗になっていたとしても、私は気づかなかったと思います。 18歳の私にとって、あの日の世界は、白いラインと黒い土と、相手投手の球筋だけでできていました。三年間の全部がかかった一試合です。その外側で何が起きていようと、目に入るはずがなかった。 大人たちが「首都機能が麻痺した」と大騒ぎしていた三時間と、球児が最後の夏を終えていった三時間が、同じ空の下で、まったく交わらずに流れていた。 そういう日だったのだと思います。 私が帰り着いたとき、東京はもう明るかった 神宮からは、JRと京成線を使って、普通に帰ってきたと思います。帰宅したのは18時頃でしょうか。 そして正直に言えば、テレビのニュースも含めて、大規模な停電があったという記憶が、まったくないのです。 これも、調べてみて腑に落ちました。 関東全域の完全復旧は、午後4時40分。私が高砂の家の玄関を開けたのは、その一時間以上あとです。電車も、とっくに動いていました。 つまり私が帰り着いたとき、東京はもう何事もなかったかのように電気が点いていたわけです。復旧を待つ人の列も、止まったエスカレーターも、消えた信号機も、私は一つも見ていない。都市が止まって、また動き出すまでの一部始終を、私は丸ごと通り過ぎていたのです。 あの日、私が家まで持って帰ったのは、都市の話ではありませんでした。ユニフォームにこびりついた土と、まだ収まりきらない涙の残りだけです。 消えたのは、球場のほうだった この停電のあと、東京電力は徹底的に手を打ちました。無効電力を補う装置の設置、コンデンサの増設、系統の電圧を高めに運用すること、需要をオンラインで測って先回りすること。そのおかげで、同じ原因による広域停電は、その後今日まで起きていません。 つまり、あの日消えた電気は、三時間で戻ってきて、それきり二度と消えなかったのです。 戻ってこなかったのは、球場のほうでした。 ...