8月27日 ── わたくし、生まれも育ちも葛飾高砂です|昭和の今日は何があった日?

1969年、昭和44年8月27日。 映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。山田洋次監督・脚本、渥美清主演。舞台は、東京都葛飾区柴又です。 このときの私は、生後4か月です。 そして柴又は、私が生まれ育った高砂の、隣町でした。京成金町線で一駅。高砂──柴又──金町、たった三駅しかない短い路線の、真ん中の駅です。 この日付を見つけたとき、正直なところ、少し身構えました。生まれた年、生まれた月のすぐあと、そして地元。ここまで重なると、かえって何を書けばいいのか分からなくなる。 でも、調べていくうちに気づいたことがあります。この映画が公開された時点では、まだ誰も「柴又」を知らなかった、ということです。 テレビの中で、寅さんは一度死んでいる ご存じの方も多いと思いますが、『男はつらいよ』はもともとテレビドラマでした。 1968年10月から翌1969年3月まで、フジテレビで全26回。渥美清が少年時代に見てきたテキヤの記憶を語ったところから、山田洋次が膨らませた企画だったといいます。 問題は、その最終回でした。寅次郎はハブ酒でひと儲けしようと奄美大島に渡り、ハブに咬まれて死んでしまう。 ところが放送後、テレビ局に抗議が殺到しました。手紙、電話。山田監督自身が後年書いているところによれば、その中には「てめえの局の競馬は二度と見ねえ」といった調子のものも少なくなかったそうです。 ここが、私はいちばん面白いところだと思っています。 抗議した人たちは、番組の出来に文句を言ったわけではありません。知り合いが死んだことに怒ったんです。視聴者のなかでは、すでに寅さんが生きた人間として息づいていた。それを作者が自分の料簡で勝手に殺してしまったのは間違いではなかったか──山田監督は、そう反省させられたと書き残しています。 そして、映画のスクリーンの中でもう一度、寅を生き返らせようと決めた。 松竹の上層部は難色を示したそうです。一度テレビでやったものを、いまさら映画にして客が入るのか、と。もっともな話です。山田監督は当時の社長・城戸四郎に喧嘩腰で掛け合って、企画を通したと伝えられています。 つまりこの映画は、視聴者の怒りと、監督の後悔と、反対を押し切った押しの強さから始まっています。国民的シリーズという言葉から想像する、穏やかな始まりではありません。 そのテレビ版は、長く「幻」でした。いまはマスターテープの残っていた第1話と最終回が、そのままDVDになっています。つまり、寅さんが死ぬ回を、いまは家で観ることができる。 テレビドラマ版「男はつらいよ」 [DVD]昭和43年からフジテレビで全26回。奇跡的に残っていた初回と最終回を完全収録。柴又が舞台に決まるまでの経緯もスタッフ証言で収められています。星4.0 Amazonで見る › 二本立ての、54万3000人 昭和44年8月27日、公開。上映時間91分。同時上映は伴淳三郎主演の『喜劇 深夜族』でした。当時の日本映画は二本立てが当たり前で、『男はつらいよ』もその一本として封切られています。 観客動員は54万3000人。 正直に言うと、この数字を見たとき、私は「思ったより少ないな」と感じました。後にシリーズが1作あたり100万人、200万人を動員するドル箱になっていくことを知っているからです。第1作は、まだ大当たりではなかった。 評価のほうは高く、この年のキネマ旬報ベストテンで第6位、毎日映画コンクールでは山田洋次が監督賞、渥美清が男優賞を受けています。ただ、それは映画好きの世界の話です。 しかもこの第1作は、「これで完結」とも取れる終わり方をしています。1969年8月27日の時点では、まだ誰も、この先50年続くとは思っていません。 四人で歩いた、帝釈天への道 私が生まれた1969年の夏、柴又での撮影はもう終わっていました。 物心がついたころ、柴又はすでに「寅さんの町」になり始めていたはずです。けれど私にとっての柴又は、映画の舞台である前に、まず帝釈天でした。 物心ついた頃から今日まで、初詣は毎年、帝釈天です。一年も欠かしていません。 子どもの頃は、父、母、妹、私の四人そろってお詣りに行っていました。 ──ここは、書きながら少し立ち止まったところです。 父は仕事が極端に忙しい人で、連休らしい連休は正月しかありませんでした。母と妹と三人で出かけることのほうが、我が家では普通だった。その中で、帝釈天の初詣だけは四人そろっている。父が一年でほとんど唯一、家族と並んで歩いていた行事が、この参道だったことになります。 行き方は決まっていませんでした。ひと駅だけでも電車に乗ったこともあれば、歩いて行ったこともあります。いまは家族みんなで歩いて行くのが恒例です。 金町線というのは、柴又から金町までの区間を柴又街道の真ん中を通っていきます。改めて言われてみれば、たしかに路面電車のような走り方です。地元の人間には当たり前すぎて、そういう目で見たことがありませんでした。 参道の店も、ひととおり体に入っています。髙木屋老舗では、いまでも草団子を買います。ゑびす家さんは、信用金庫に勤めていた時代、職場の初詣の帰りに必ず寄って食事をした店です。 そして川千家。ここで、私たち夫婦の結納を行いました。 映画のロケ地として全国に知られている参道が、私にとっては初詣の道であり、職場の恒例行事の場所であり、結婚に向かう日の座敷でもある。そういう順番で、この町は私の中に積み上がっています。 観光地であり、近所であること 柴又が観光地であるという認識は、子どもの頃からありました。それは分かっていた。 ただ、無意識のところでは、やっぱり近所の延長なんです。 この二つは、どちらかが本当でどちらかが嘘、というものではありません。同時に成立しています。観光地だと知っていながら、身体のほうは「そこらへん」として扱っている。地元というのは、たぶんそういうものです。 寅さんの映画の撮影に出くわした記憶は、私にはありません。第1作の撮影は生まれる前ですし、それ以降も、たまたま通りかかることはなかった。 そのかわり、柴又をレポートする撮影には何度も遭遇しています。テレビカメラとレポーターが参道に立って、草団子の店の前で何かしゃべっている。あの光景なら、数えきれないほど見ました。 映画そのものではなく、映画になった町を取材しに来る人たち。私が育った柴又は、もうその段階に入っていたということです。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い──」 あの啖呵を、自分の土地の話として聞いていたか、と言われると、正直、映画のセリフだという認識のほうが強かった。それでも、誇らしい気持ちになったのは確かです。 地元が全国に知られていること自体は、メチャクチャ誇らしかった。子どもの正直な感覚として、そこはごまかしようがありません。 それでも、映画館では一度も観ていない ここまで書いてきて、白状しなければならないことがあります。 私は『男はつらいよ』を、映画館で一度も観たことがありません。 一作もです。隣町が舞台で、あれだけ誇らしかったのに、封切りに足を運んだことがない。 お盆と正月に必ず新作がかかる、という感覚も、子ども時代にはありませんでした。家族の中に特別な寅さんファンがいたわけでもない。 では、どこで観たのか。 ひとつは、テレビです。「〇〇ロードショー」の類で流れているのを、なんとなく観ていました。 そしてもうひとつが、観光バスの中です。 信用金庫に勤めていた時代、お客様をお連れして旅行に行く機会がありました。その道中、バスの中で寅さんのビデオがよく流されていたんです。 柴又の隣で生まれ育った人間が、東京を離れる高速道路の上で、備え付けの小さなモニターに映る柴又を観ている。 いま思うと、なかなか妙な話です。地元だから観に行かなかった映画を、地元から遠ざかる乗り物の中で観ていた。しかも私は、その後バスを運転する側になりました。 近すぎるものを、人は正面から見ません。毎年通っている参道が映画の中に出てきても、「ああ、ここね」で終わってしまう。誇らしさと、わざわざ観に行くこととは、別なんです。 その第1作を、いまさらながら家で観ることはできます。マドンナは光本幸子、91分。1969年8月27日に二本立ての一本として封切られた、あの91分です。 男はつらいよ [DVD](第1作・HDリマスター版)山田洋次監督/松竹。渥美清、倍賞千恵子、森川信ほか。1969年製作、1時間31分。特典に撮影時のオフショットを収録。星4.5(144件) Amazonで見る › 隣町が、観光地になっていく 昭和が終わり、平成に入ると、柴又の変化は目に見えるものになりました。 ...

August 27, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日

今日、5月25日は、私がずっと「夏の映画」だと思い込んでいた出来事の、本当の誕生日だ。 昭和52年(1977年)5月25日。アメリカで一本の映画が公開された。タイトルは『スター・ウォーズ』。わずか32の劇場からスタートしたその映画は、瞬く間に全米を席巻し、ジョーズが打ち立てた興行収入の記録を塗り替え、やがてアカデミー賞7部門を獲得した。しかし私は、この日付を長い間知らなかった。 そりゃそうだ。私にとってスター・ウォーズは「昭和53年の夏」の記憶だからだ。 一年間、日本の子どもたちは待たされた 全米公開から約一年が経った昭和53年(1978年)6月、ようやく『スター・ウォーズ』は日本の劇場にやってきた。今でこそ日米ほぼ同時公開が当たり前だが、当時は半年や一年のタイムラグは珍しくなかった。 それでも、その一年間が長かったことは確かだ。「スター・ウォーズ」という映画の噂は、日本にいる子どもたちの耳にもじわじわと届いていた。アメリカで信じられない映像が作られた、光の剣で戦うシーンがある、ロボットが出てくる……。「宇宙戦艦ヤマト」でSFアニメの洗礼を受け、「仮面ライダー」で変身ヒーローに慣れ親しんだ当時の日本の子どもたちにとって、その情報は十分すぎるほど想像を掻き立てるものだった。 待ちきれないファンの中には、大枚をはたいてアメリカまで観に行った人もいたという。今の感覚では信じられないような話だが、海外旅行がまだ贅沢だった時代に、映画一本のためにそこまでした人がいたというのだから、いかに熱狂的だったかがわかる。 映画の舞台「タトゥイーン惑星」のロケ地となったチュニジア・ネフタ周辺の砂丘。あの幻の惑星は、北アフリカの実在する大地に宿っていた。(Photo: DamienSlattery / CC BY-SA 3.0) 王冠の裏に、銀河がいた 私の記憶の中でスター・ウォーズは、映画館よりも先に「コカ・コーラの王冠」で登場した。 日本公開に合わせて、コカ・コーラとファンタのびん入り飲料に、スター・ウォーズのタイアップ王冠が登場した。1本50円の190ミリリットル入り。王冠の内側のビニールをペりとめくると、そこにダース・ベイダーやR2-D2、C-3POといったキャラクターが印刷されていた。コンプリートしたくても、毎日毎日コーラを買い続ける小遣いなどあるはずがない。 だから子どもたちはどうしたか。自販機に備え付けられた栓抜きを使って、大人たちが飲み干してそのまま置いていった王冠を拾ったのだ。栓抜きの溝に引っかかったまま残っている王冠に指を突っ込んで取り出す。地面に落ちているものも当然見逃さない。 私はさらに大胆な手に出た。小学校の正門前にある駄菓子屋——学校指定の用品も売っているような、あの馴染みの店だ——に置いてあった栓抜きの下の王冠受け容器ごと外して、ひっくり返して中身をぶちまけたのだ。今思えば相当なことをしていたが、当時はそれを「工夫」だと信じて疑わなかった。 しかし王冠を手に入れても、それで終わりではない。本当の目的はここからだった。 集めた王冠をアスファルトの地面に置き、靴底で踏みながら足を引きずる。ゴリゴリと摩擦をかけ続けると、王冠のギザギザの縁と、内側のビニール面が少しずつ分離してくる。それをTシャツの布地を外側と内側からはさみ込んで、ギザギザの縁を布に食い込ませる——完成。手製のスター・ウォーズバッジである。 ダース・ベイダーのバッジを胸に貼り付けた瞬間の、あの満足感。100円も使わずに、靴底と地面だけで作り上げた銀河系グッズ。今思えばなんとも必死な話だが、当時はそれが当たり前の「創意工夫」だった。 チュニジア・アジムの「モス・アイズリー・カンティーナ」のロケ地。映画の中でルークとハン・ソロが出会った宇宙酒場は、ここで撮影された。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) お菓子屋さんでも同じような熱気があった。明治の「マーブルチョコレート」には、スター・ウォーズのキャラクター入りマスコットが同梱された小さな筒入り商品が登場し、1個70円で売られた。みんなが欲しがったのはダース・ベイダーだったが、なぜかチューバッカばかり出てきた──そんな「恨み節」が後になっても語り継がれているのだから、あのブームはリアルだった。森永は「スター・ウォーズ・キャラメル」を発売し、マクドナルドではドリンクを頼むとルーク・スカイウォーカー、C-3PO&R2-D2、ダース・ベイダーの絵柄が入ったカップが出てきた。 映画を観る前から、銀河はすでに子どもたちの手のひらに降りてきていたのだ。 光の剣でチャンバラをした夏 昭和53年の夏休み。映画館の前に子どもたちが列を作った。 宇宙船が音を轟かせてスクリーンを横切る冒頭のシーン。ルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを手にする場面。ダース・ベイダーが黒いマントとともに登場した瞬間の、あの重低音。CGなど存在しない時代に、あれほどの映像をどうやって作ったのか今でも不思議だ。 映画館を出た子どもたちは、棒切れや傘を手にしてライトセーバーのチャンバラを始めた。「シュウゥゥ」という効果音を口で言いながら。「フォース」という言葉の意味はよくわからなくても、なんとなく重要なものだということはわかった。ダース・ベイダーに憧れた子も、少なくなかったと思う。あの声、あの存在感、あのマスク——悪役なのに、主人公よりもかっこよかった。 ジョージ・ルーカス監督は、日本の時代劇、特に黒澤明監督の作品から大きなインスピレーションを得ていたとされている。ライトセーバーは刀を、ダース・ベイダーのヘルメットは鎧兜を模したものだと言われていた。遠い銀河の物語が、実は私たちの文化の血を受け継いでいたという事実は、後になって知ると不思議な誇らしさがあった。 チュニジア・アジムに残る「オビ=ワン・ケノービの家」のロケ地。荒野に立つ白い石造りの家——ルークが初めてオビ=ワンと出会う、あの場所だ。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) 昭和52年5月25日——知らなかった、私の時代の誕生日 話を戻そう。 昭和52年の今日、5月25日。私は12歳だった。その日もおそらく、公園で野球をしていたか、駄菓子屋でホームランバーを買っていたか、テレビのアニメに夢中になっていたか——そんな普通の一日を過ごしていたはずだ。 遠い国の映画館で、歴史が変わっていることを知る由もなく。 それが一年後、コカ・コーラの王冠になり、マーブルチョコのマスコットになり、映画館の行列になって、私の目の前にやってきた。昭和の子ども時代の記憶は、案外そういう形で届くものだったのかもしれない——誰かが5月25日に作ったものが、一年かけて、夏の思い出になって。 あなたも、あの夏の行列を覚えているだろうか。王冠を拾って歩いた、あの日のことを。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― ▶

May 25, 2026

昭和の今日は何があった日? ── 5月24日

黒澤明、世界を黙らせた日の翌朝 昭和55年(1980年)5月24日の朝刊を、私は覚えていない。 当時の私はまだ小学校に上がったばかりで、新聞を読む習慣などなかったし、カンヌという南フランスの街の名前も知らなかった。でも大人たちは知っていた。おそらくテレビのニュースでも伝えられていた。黒澤明監督の映画『影武者』が、カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールを受賞した、という知らせを。 前日の5月23日(日本時間)、フランスで開かれた第33回カンヌ国際映画祭の授賞式で、『影武者』がグランプリに輝いた。日本映画がこの賞をとったのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督『地獄門』以来、実に26年ぶりのことだった。 この映画には、公開前から話題が絶えなかった。 武田信玄の影武者として生きる小泥棒の物語を、黒澤はおよそ23億円という当時の日本映画では破格の製作費をかけて作り上げた。しかもその資金集めに協力したのが、ほかならぬハリウッドの二大巨匠、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスだった。あの「ゴッドファーザー」のコッポラと、「スター・ウォーズ」のルーカスが、それぞれ外国版プロデューサーとして名を連ね、世界配給のために動いた。 子どもの私が「スター・ウォーズ」の名前を聞いて目を輝かせていた頃、そのルーカスが、海の向こうで黒澤明のために奔走していたわけだ。あとになってその事実を知ったとき、なにか不思議な縁のようなものを感じた。黒澤の「隠し砦の三悪人」が、ルーカスの「スター・ウォーズ」に影響を与えていたとも言われているから、返礼のようなものだったのかもしれない。 主演の仲代達矢が二役を演じ、山崎努、萩原健一、根津甚八といった芸達者が揃う。北海道から姫路城、熊本城へとロケ地を縦断し、富士山麓には巨大な武田屋形のオープンセットまで建てられた。その配給収入は27億円を超え、その年の邦画のトップに輝いた。 カンヌ映画祭の赤いカーペット。昭和55年5月23日、ここで『影武者』がパルム・ドールを受賞した。(Photo: Rita Molnár / CC BY-SA 3.0) パルム・ドールの報が届いた翌朝の5月24日、大人たちの間でこの映画の話が弾んでいたことは想像に難くない。職場でも、居酒屋でも、「黒澤はやっぱりすごい」「コッポラやルーカスも認めたんだから」という声が聞こえてきただろう。 私はそのとき何をしていたのだろうか。たぶん、ホームランバーを舐めながら公園で遊んでいたか、友達の家でゲームに興じていたか。世界が黒澤明に喝采を送っていたその5月の昼下がりに、昭和の子どもたちはいつも通りの日常を生きていた。 赤線が消えていく、その少し前の話 ずっと以前のこと、昭和31年(1956年)5月24日に、ひとつの法律が公布された。 売春防止法、という。 売春を助長する行為を処罰し、その防止を図ることを目的としたこの法律は、翌昭和32年4月に施行され、罰則の完全施行は昭和33年4月とされた。そして昭和33年に、「赤線」と呼ばれた地域が廃止されていった。 「赤線」とは何か。それは地図に赤い線で囲われた、公娼制度のもとで黙認されていた地区のことだ。戦後の混乱期に各地で形成されたそうした場所は、昭和20年代から30年代にかけて、街の地理の一部として存在していた。 私が育った葛飾でも、立石という町にその痕跡が残っていた。 京成立石駅の北口あたり、商店街の喧騒からほんの少し路地に入ったところに、子どもの目にも「ここはなんか違う」と感じさせる一角があった。建物の造り、看板の雰囲気、ひっそりとした佇まい。大人が子どもに説明するような場所ではなかったから、私はただ漠然と「近づいてはいけない」という空気だけを感じていた。昭和の時分、立石には旧赤線の名残りを留めた一角や特殊浴場と呼ばれる施設が残っており、それは人々の日常のすぐそばに、当然のように溶け込んでいた。 今になって調べてみると、戦後の東京には赤線と呼ばれる地域が十数か所も存在していたという。立石もそのひとつだった。「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたという記録すら残っている。昭和33年の赤線廃止以降も、そうした場所の「残り香」は街のあちこちにしみついていて、私が小学生だった昭和50年代にも、その気配はまだ消えてはいなかった。 葛飾区立石の航空写真(2006年撮影)。昭和の面影を残す路地が、今も密集している。/国土交通省 国土地理院「国土画像情報」CC BY 4.0 売春防止法の公布から、私が生まれるまでに10年以上ある。だから「赤線」そのものを見た記憶はない。しかし、その名残のような場所が日常のすぐ隣に当たり前に存在していたあの頃と、今の時代とでは、街の風景も、人々の感覚も、まるで別の世界のように変わってしまった。 法律ひとつで街の風景が変わる。昭和という時代は、そういう変化が幾重にも積み重なってできた時代だったのだと、今になって思う。 5月24日という日は、大人の世界では二つの大きな出来事に挟まれた日だ。世界に誇る映画監督の受賞という晴れやかな知らせと、街の闇を法律で塗り替えようとした戦後の苦しみと。 どちらも昭和という同じ時代の、同じ5月24日に刻まれている。 あなたは、この日の昭和をどう覚えていますか? ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ~5月23日~ | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日 ▶

May 24, 2026

昭和の今日は何があった日? ~5月23日~

五月の風が少し強くなる頃、世界のどこかで、昭和の日本を揺さぶるニュースが届くことがある。 この日付には、四年という時間を隔てて、まったく別の舞台で生まれたふたつの「快挙」が眠っている。どちらも、当時の新聞のスポーツ欄や社会面を飾り、茶の間の話題をさらった出来事だ。 世界のクロサワ、カンヌで勝つ——昭和55年(1980年)5月23日 フランスのカンヌから、日本中が沸くようなニュースが飛び込んできた。 黒澤明監督の映画「影武者」が、第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞したのだ。日本映画がカンヌの頂点に立つのは、昭和29年(1954年)の衣笠貞之助監督「地獄門」以来、実に26年ぶりの快挙だった。 「影武者」は、戦国武将・武田信玄の影武者に仕立てられた小泥棒の物語だ。信玄の死後、その秘密を守るために「信玄」を演じ続けることを強いられた男が、やがて武田家の滅亡とともに無名のまま消えていく。主演は仲代達矢さん。もともと主演に決まっていた勝新太郎さんが撮影途中で降板するという大騒動もあり、公開前から世間の注目を集めていた。 私は当時小学生で、「カンヌ映画祭」が何なのかわかるはずもなかった。ただ「日本の映画がフランスで一番になった」というニュースが夕方のテレビで繰り返し流れ、父か母が「えらいことになったな」とつぶやいていた記憶だけがある。 それが何の意味を持つのか、大人になってから少しずつわかってきた。 当時の黒澤明は、日本の映画会社から資金を出してもらえない状況が続いていた。そこに手を差し伸べたのが、「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスだった。世界の頂点にいたハリウッドの鬼才ふたりは、「マスター・クロサワが資金難で映画を撮れないなどあってはならない」と20世紀FOXへの出資交渉に動いた。黒澤が描いた数百枚にも及ぶ絵コンテを目にした彼らは、驚愕して言葉を失ったという。 私たちが公園で野球をしたり、駄菓子屋でアイスを舐めていたあの頃、世界はそれほどの目で、日本の一人の老監督を見つめていた。 上野公園に残る黒澤明の手形。世界が認めた「マスター・クロサワ」の足跡。(Photo: Daderot / CC0) 後年「影武者」を改めて観たとき、私はその映像美に言葉を失った。信玄の影武者として「本物」になろうと足掻きながら、最後まで「偽者」のままで死んでいく男の孤独。土煙の戦場に身一つで踏み込み、矢に射られて倒れていくラストシーン。あれだけの絵を、あの時代に一人の人間がつくり上げたという事実に、今も静かに圧倒される。 三兄弟、同時に関取へ——昭和59年(1984年)5月23日 舞台はがらりと変わって、大相撲の世界へ。 この日、一つの番付発表が相撲ファンを沸かせた。井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決まり、すでに関取だった長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾と合わせて、史上初の三兄弟同時関取が実現したのだ。 「井筒三兄弟」——。父は、「もろ差しの名人」と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺昭男。自らが師匠を務める井筒部屋に、三人の息子を全員入門させた。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、そして末っ子の寺尾。鹿児島の血を引く父子四人が、同じ土俵で汗を流していた。 私がちょうど千代の富士の昇進を追いかけながら相撲中継に熱中していた頃の話だ。千代の富士が横綱へと駆け上がっていったあの時代、テレビには引き締まった筋肉の「ウルフ」と並んで、細身の体で激しい突っ張りを繰り出す寺尾の姿があった。あの甘いマスクと、信じられないほど速い突っ張りのコントラストが妙に記憶に残っている。 三兄弟の母・節子さんは、当時「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人だったという。三兄弟から深く慕われていた節子さんが亡くなったとき、すでに力士だった長男と次男に、父・鶴ヶ嶺はこう言ったそうだ。「おまえらお客さんいるんだから帰れ」と。そうして三男・寺尾の四股名は、亡き母の旧姓から一字をとって付けられた。 相撲の家族とは、こういうものなのだ、と思った。土俵の上の激しさとは裏腹に、その根っこに流れているものは、ひどく人間的なあたたかさだ。 寺尾こと現・錣山親方。細身の体から繰り出す突っ張りで長く土俵を沸かせた。(Photo: FourTildes / CC BY-SA 3.0) 昭和59年のあの番付発表の日、父親の鶴ヶ嶺はどんな顔をしていたのだろう。三人の息子が同時に「関取」として土俵に立つ——親として、師匠として、どんな言葉もきっとうまく出てこなかったのではないか、と想像する。 二つの「父と子」の話として 並べてみると、昭和55年と59年のこの日の出来事には、どこか共鳴するものがある。 カンヌでパルム・ドールを受けた黒澤明も、自分の映画を撮るために敬愛する弟子たちの力を借りた。三兄弟も、父親が切り拓いた土俵の上を、それぞれの足で歩いた。受け継ぐもの、超えようとするもの、守り続けるもの。「影武者」の問いかけと、三人の力士の姿が、同じ五月二十三日という日付の中でひそかに重なって見える。 そしてこの話を書きながら、ふと自分のことを思った。 私には妻との間に4男1女、5人の子どもがいる。歳の差はあるが、みな丈夫で元気に育ってくれた。そして5人全員が、小学生時代に同じ学童野球チームに所属した(末っ子は現在も所属中だ)。そのチームは、今から45、6年前——私自身が小学生だった頃に所属していたチームでもある。 同じグラウンド、同じユニフォーム、世代をまたいで続く縁というものが、確かにある。 いつの日か、私も含めた6人全員で同じグラウンドに立って、野球の試合をしたい。それが今の私の、ひそかな楽しみであり目標だ。そのためにも毎日のランニングと懸垂を続けている。笑われるかもしれないが、本気でそう思っている。 鶴ヶ嶺親方が三人の息子と同じ土俵に立った気持ちが、少しだけわかる気がする。 あなたには、子どもや孫と「同じ場所に立つ」夢があるだろうか? 【昭和55年(1980年)5月23日】第33回カンヌ国際映画祭にて、黒澤明監督「影武者」がパルム・ドール受賞。日本映画26年ぶりの栄冠。 【昭和59年(1984年)5月23日】大相撲・井筒部屋の三男・寺尾の十両昇進が決定。長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾とともに史上初の三兄弟同時関取が実現。 ▶ 日付から探す:「昭和の今日は何があった日?」記事一覧 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:パクパクと、東京のゴミと――昭和の5月22日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 ▶

May 23, 2026