8月27日 ── わたくし、生まれも育ちも葛飾高砂です|昭和の今日は何があった日?
1969年、昭和44年8月27日。 映画『男はつらいよ』の第1作が公開されました。山田洋次監督・脚本、渥美清主演。舞台は、東京都葛飾区柴又です。 このときの私は、生後4か月です。 そして柴又は、私が生まれ育った高砂の、隣町でした。京成金町線で一駅。高砂──柴又──金町、たった三駅しかない短い路線の、真ん中の駅です。 この日付を見つけたとき、正直なところ、少し身構えました。生まれた年、生まれた月のすぐあと、そして地元。ここまで重なると、かえって何を書けばいいのか分からなくなる。 でも、調べていくうちに気づいたことがあります。この映画が公開された時点では、まだ誰も「柴又」を知らなかった、ということです。 テレビの中で、寅さんは一度死んでいる ご存じの方も多いと思いますが、『男はつらいよ』はもともとテレビドラマでした。 1968年10月から翌1969年3月まで、フジテレビで全26回。渥美清が少年時代に見てきたテキヤの記憶を語ったところから、山田洋次が膨らませた企画だったといいます。 問題は、その最終回でした。寅次郎はハブ酒でひと儲けしようと奄美大島に渡り、ハブに咬まれて死んでしまう。 ところが放送後、テレビ局に抗議が殺到しました。手紙、電話。山田監督自身が後年書いているところによれば、その中には「てめえの局の競馬は二度と見ねえ」といった調子のものも少なくなかったそうです。 ここが、私はいちばん面白いところだと思っています。 抗議した人たちは、番組の出来に文句を言ったわけではありません。知り合いが死んだことに怒ったんです。視聴者のなかでは、すでに寅さんが生きた人間として息づいていた。それを作者が自分の料簡で勝手に殺してしまったのは間違いではなかったか──山田監督は、そう反省させられたと書き残しています。 そして、映画のスクリーンの中でもう一度、寅を生き返らせようと決めた。 松竹の上層部は難色を示したそうです。一度テレビでやったものを、いまさら映画にして客が入るのか、と。もっともな話です。山田監督は当時の社長・城戸四郎に喧嘩腰で掛け合って、企画を通したと伝えられています。 つまりこの映画は、視聴者の怒りと、監督の後悔と、反対を押し切った押しの強さから始まっています。国民的シリーズという言葉から想像する、穏やかな始まりではありません。 そのテレビ版は、長く「幻」でした。いまはマスターテープの残っていた第1話と最終回が、そのままDVDになっています。つまり、寅さんが死ぬ回を、いまは家で観ることができる。 テレビドラマ版「男はつらいよ」 [DVD]昭和43年からフジテレビで全26回。奇跡的に残っていた初回と最終回を完全収録。柴又が舞台に決まるまでの経緯もスタッフ証言で収められています。星4.0 Amazonで見る › 二本立ての、54万3000人 昭和44年8月27日、公開。上映時間91分。同時上映は伴淳三郎主演の『喜劇 深夜族』でした。当時の日本映画は二本立てが当たり前で、『男はつらいよ』もその一本として封切られています。 観客動員は54万3000人。 正直に言うと、この数字を見たとき、私は「思ったより少ないな」と感じました。後にシリーズが1作あたり100万人、200万人を動員するドル箱になっていくことを知っているからです。第1作は、まだ大当たりではなかった。 評価のほうは高く、この年のキネマ旬報ベストテンで第6位、毎日映画コンクールでは山田洋次が監督賞、渥美清が男優賞を受けています。ただ、それは映画好きの世界の話です。 しかもこの第1作は、「これで完結」とも取れる終わり方をしています。1969年8月27日の時点では、まだ誰も、この先50年続くとは思っていません。 四人で歩いた、帝釈天への道 私が生まれた1969年の夏、柴又での撮影はもう終わっていました。 物心がついたころ、柴又はすでに「寅さんの町」になり始めていたはずです。けれど私にとっての柴又は、映画の舞台である前に、まず帝釈天でした。 物心ついた頃から今日まで、初詣は毎年、帝釈天です。一年も欠かしていません。 子どもの頃は、父、母、妹、私の四人そろってお詣りに行っていました。 ──ここは、書きながら少し立ち止まったところです。 父は仕事が極端に忙しい人で、連休らしい連休は正月しかありませんでした。母と妹と三人で出かけることのほうが、我が家では普通だった。その中で、帝釈天の初詣だけは四人そろっている。父が一年でほとんど唯一、家族と並んで歩いていた行事が、この参道だったことになります。 行き方は決まっていませんでした。ひと駅だけでも電車に乗ったこともあれば、歩いて行ったこともあります。いまは家族みんなで歩いて行くのが恒例です。 金町線というのは、柴又から金町までの区間を柴又街道の真ん中を通っていきます。改めて言われてみれば、たしかに路面電車のような走り方です。地元の人間には当たり前すぎて、そういう目で見たことがありませんでした。 参道の店も、ひととおり体に入っています。髙木屋老舗では、いまでも草団子を買います。ゑびす家さんは、信用金庫に勤めていた時代、職場の初詣の帰りに必ず寄って食事をした店です。 そして川千家。ここで、私たち夫婦の結納を行いました。 映画のロケ地として全国に知られている参道が、私にとっては初詣の道であり、職場の恒例行事の場所であり、結婚に向かう日の座敷でもある。そういう順番で、この町は私の中に積み上がっています。 観光地であり、近所であること 柴又が観光地であるという認識は、子どもの頃からありました。それは分かっていた。 ただ、無意識のところでは、やっぱり近所の延長なんです。 この二つは、どちらかが本当でどちらかが嘘、というものではありません。同時に成立しています。観光地だと知っていながら、身体のほうは「そこらへん」として扱っている。地元というのは、たぶんそういうものです。 寅さんの映画の撮影に出くわした記憶は、私にはありません。第1作の撮影は生まれる前ですし、それ以降も、たまたま通りかかることはなかった。 そのかわり、柴又をレポートする撮影には何度も遭遇しています。テレビカメラとレポーターが参道に立って、草団子の店の前で何かしゃべっている。あの光景なら、数えきれないほど見ました。 映画そのものではなく、映画になった町を取材しに来る人たち。私が育った柴又は、もうその段階に入っていたということです。 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い──」 あの啖呵を、自分の土地の話として聞いていたか、と言われると、正直、映画のセリフだという認識のほうが強かった。それでも、誇らしい気持ちになったのは確かです。 地元が全国に知られていること自体は、メチャクチャ誇らしかった。子どもの正直な感覚として、そこはごまかしようがありません。 それでも、映画館では一度も観ていない ここまで書いてきて、白状しなければならないことがあります。 私は『男はつらいよ』を、映画館で一度も観たことがありません。 一作もです。隣町が舞台で、あれだけ誇らしかったのに、封切りに足を運んだことがない。 お盆と正月に必ず新作がかかる、という感覚も、子ども時代にはありませんでした。家族の中に特別な寅さんファンがいたわけでもない。 では、どこで観たのか。 ひとつは、テレビです。「〇〇ロードショー」の類で流れているのを、なんとなく観ていました。 そしてもうひとつが、観光バスの中です。 信用金庫に勤めていた時代、お客様をお連れして旅行に行く機会がありました。その道中、バスの中で寅さんのビデオがよく流されていたんです。 柴又の隣で生まれ育った人間が、東京を離れる高速道路の上で、備え付けの小さなモニターに映る柴又を観ている。 いま思うと、なかなか妙な話です。地元だから観に行かなかった映画を、地元から遠ざかる乗り物の中で観ていた。しかも私は、その後バスを運転する側になりました。 近すぎるものを、人は正面から見ません。毎年通っている参道が映画の中に出てきても、「ああ、ここね」で終わってしまう。誇らしさと、わざわざ観に行くこととは、別なんです。 その第1作を、いまさらながら家で観ることはできます。マドンナは光本幸子、91分。1969年8月27日に二本立ての一本として封切られた、あの91分です。 男はつらいよ [DVD](第1作・HDリマスター版)山田洋次監督/松竹。渥美清、倍賞千恵子、森川信ほか。1969年製作、1時間31分。特典に撮影時のオフショットを収録。星4.5(144件) Amazonで見る › 隣町が、観光地になっていく 昭和が終わり、平成に入ると、柴又の変化は目に見えるものになりました。 ...