6月11日 ── 入梅。ビニール傘と、列島改造の槌音と
朝、玄関の戸を開けて、湿った土の匂いがふっと鼻に届くと、ああ、梅雨が来たな、と思います。きょう六月十一日は、暦の上の「入梅」。立春や八十八夜と同じ雑節のひとつで、梅の実が熟す頃に降る雨だから「梅雨」、その入り口だから「入梅」です。いまは気象庁が「梅雨入りしたとみられます」と発表してくれますが、昔の人は暦のこの日を境に、およそ三十日間を梅雨と心得ていたのだそうです。令和八年は、ちょうどきょうが暦の上の入梅にあたります。そこから六月十一日は「傘の日」という記念日にもなっています。 そしてもうひとつ。昭和四十七年(一九七二年)のこの日は、当時通産大臣だった田中角栄が、あの『日本列島改造論』を発表した日でもあります。 傘と、列島改造。一見なんのつながりもない二つですが、どちらも昭和の雨の日の風景の、すぐそばにあったものです。きょうは梅雨入りの朝にふさわしく、雨の話から始めさせてください。 雨の日の通学路 子どもの頃の梅雨は、いまよりずっと長く感じられました。 私が育った高砂のあたりは、当時はまだ木々の生い茂った空き地があちこちに残っている町でした。梅雨どきの雨の日に歩いていると、ブロック塀や草むらのそこかしこに、カタツムリやアマガエルの姿を頻繁に見つけることができたものです。アスファルトとコンクリートばかりになったいまの高砂からは、ちょっと想像がつかないかもしれません。 登校の途中でカタツムリを捕まえて、そのまま教室に持ってくるクラスメイトもいましたね。雨の日の教室の窓際で、誰かの筆箱の上をのんびり這っていくカタツムリ。あのカタツムリたちがその後どうなったのか、いまとなっては知るよしもありませんが、雨の日にしかない、あの小さなにぎわいだけは妙に記憶に残っています。 学校に着くころには、靴下のつま先がじっとり湿っている。教室の後ろにずらりと並んだ傘から、ぽたぽたと水が垂れて、廊下に細い川をつくる。雨の日の小学校には、あの独特の、濡れた布と土埃の混ざったような匂いがありました。 ビニール傘は、東京の下町生まれ ところで、いまや日本の雨の日の象徴のようになっているビニール傘。あれが東京の下町で生まれた発明品だということを、ご存じでしょうか。 つくったのは、江戸の享保年間から続く老舗の傘問屋「武田長五郎商店」、いまのホワイトローズという会社です。もとは煙草の商いから始まり、煙草を湿気から守る油紙で雨合羽をこしらえて雨具屋に転じ、大名行列の雨具まで納めたという、筋金入りの「雨」の家系。戦後すぐの傘は綿の布張りが主流で、雨に濡れると染料が溶けて色落ちし、服にシミをつけてしまうのが悩みの種でした。そこに目をつけた九代目が、進駐軍の持ち込んだ「ビニール」という新素材で、傘にかぶせる防水カバーをつくった。これが昭和二十八年(一九五三年)に大当たりします。 やがてナイロン傘の登場でカバーが売れなくなると、今度はビニールそのもので傘をつくってしまえと、昭和三十三年(一九五八年)、世界初のビニール傘を完成させました。昭和三十九年(一九六四年)の東京オリンピックで来日したアメリカのバイヤーの目にとまり、海を渡っていったといいますから、たいしたものです。 いまやコンビニのレジ脇に当たり前のように並ぶビニール傘。その元祖は、東京・下町の老舗傘問屋が昭和三十三年(一九五八年)に世に送り出した、世界初の発明品だった。(Photo: KKPCW / CC BY-SA 4.0) 余談をひとつ。昭和五十五年(一九八〇年)ごろ、この会社はある都議会議員から「顔が見える透明で丈夫な傘がほしい」と頼まれます。雨の日の街頭演説で、黒い傘は聴衆に圧迫感を与えるが、透明な傘なら表情が伝わるし、庶民的に見える、というのです。こうして生まれた選挙用の頑丈なビニール傘は、口コミで議員たちの間に広まったのだとか。選挙カーの上の透明な傘に、そんな来歴があったとは。 私が子どもだった昭和五十年代、ビニール傘はまだいまほど「使い捨て」のものではなかったように思います。透明な傘越しに見上げる雨空が、布傘の下より少しだけ明るかったこと。あの感じは、昭和の発明がくれた小さな贈り物だったのかもしれません。 三歳の私の頭の上で、日本が変わり始めた さて、もうひとつの六月十一日。昭和四十七年(一九七二年)のきょう、田中角栄が『日本列島改造論』を発表しました。 新幹線と高速道路で日本中を結び、太平洋側に集まりすぎた工場を地方に移して、東京の過密と地方の過疎を一気に解決する──そんな大風呂敷の構想です。当時の東京は、人口の三割が国土の一パーセントに住むといわれた超過密状態。発表の翌月には田中は総裁選を制して総理大臣になり、本は九十一万部を超えるベストセラーになりました。政策の本がその年の売り上げ四位に入ったというのですから、当時の熱気がうかがえます。 『日本列島改造論』を引っさげ、昭和四十七年(一九七二年)七月、総理大臣の座に駆け上がった田中角栄。新潟の寒村から身を起こした「今太閤」の描いた構想は、日本中を熱狂させた。(Photo: 首相官邸ホームページ / CC BY 4.0) このとき私は三歳。本の中身など知るよしもありません。けれど、いま振り返ると、私が子ども時代を過ごした昭和四十年代の終わりから五十年代の町には、たしかに、いつもどこかで工事の音がしていました。 なかでも印象に残っているのが、環状七号線──環七の工事です。 いまでこそ環七は当たり前のように中川を渡っていますが、私の小学生時代、あの橋はまだ存在しませんでした。環七は中川で分断されていて、青戸側と高砂側を行き来するには、けっこうな迂回を強いられたものです。その「最後の切れ目」をつなぐ橋の工事が、ちょうど私の小学生時代に進められていたのでした。 橋の名は、青砥橋。青戸二丁目と高砂一丁目を結ぶ、長さ六百四十メートル余りの長大橋です。昭和五十四年(一九七九年)の秋に工事が始まり、完成は昭和六十年(一九八五年)一月。私が中学三年の冬のことです。そして実は、この青戸から奥戸にかけての区間こそ環七で最後まで残っていた未開通区間で、青砥橋の完成によって、環七は計画からおよそ五十八年をかけて、ようやく全線がつながったのでした。子どもの頃に毎日眺めていた工事現場が、東京の大動脈の「最後のひと筆」だったとは。 中川をまたいで青戸と高砂を結ぶ青砥橋。スカイツリーを背に、ゆるい弧を描いて伸びている。当たり前のように渡っているこの橋が完成して、環七はようやく一本につながった。 いま車で渡ると、意外と登るな、と感じるゆるい坂。歩いてみると、想像よりずっと長い。そして橋の上から見おろす中川は、下町の空が広く感じられて、なかなかの抜け感があります。高砂側から青砥駅の方へ向かうときの目印にもなっていて、すっかり生活の一部です。当たり前のように渡っているこの橋が「なかった」頃の町を知っている、というのは、考えてみれば不思議な感覚ですね。 列島改造論が環七をつくったわけではありません。環七の計画自体は戦前にまでさかのぼります。それでも、日本中を道路と橋でつなごうという、あの時代の大きなうねりの末端が、私の町の、あの工事現場だったのだと思います。子どもの頃の耳に残る槌音は、日本がまだ「建設中」だった時代の音でした。 もっとも、列島改造の構想は土地の投機を呼んで地価が跳ね上がり、オイルショックと重なって「狂乱物価」と呼ばれるインフレを招くことにもなりました。茶の間で大人たちが顔を曇らせていた「物価が上がる」という言葉の出どころが、まさかこの日の発表にあったとは。子どもの私は、知るはずもありませんでした。 令和の雨の日に いまの東京で雨が降ると、駅前はビニール傘の花畑になります。コンビニで数百円。壊れたら、買い替える。あの下町の傘問屋が手塩にかけて生んだ発明は、皮肉なことに「いちばん粗末に扱われる傘」の代名詞にもなってしまいました。 それでも私は、透明な傘を差して見上げる梅雨空が、嫌いではありません。雨粒がビニールを叩く音は、昭和の雨の日と、たいして変わらないのですから。 みなさんは、子どもの頃の雨の日に、どんな思い出がありますか。お気に入りの傘の色、長靴の中に入ってしまった雨水の冷たさ、通学路で見つけたカタツムリ、そして、いつのまにか町から消えていった空き地のこと──よかったら、聞かせてください。 このシリーズでは、昭和四十年から六十四年までの「きょう」に起きた出来事を、当時子どもだった私の目線で振り返っています。あなたの昭和の思い出も、ぜひコメントで教えてください。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:6月10日 ── 時を計る日に、手作りの時計と夜の高速バスを思う | 次の記事:6月12日 ── 宮城県沖地震、夕方五時十四分に大地が揺れた日 ▶