昭和の今日は何があった日? ── 5月25日、銀河系が地球に降ってきた日

今日、5月25日は、私がずっと「夏の映画」だと思い込んでいた出来事の、本当の誕生日だ。 昭和52年(1977年)5月25日。アメリカで一本の映画が公開された。タイトルは『スター・ウォーズ』。わずか32の劇場からスタートしたその映画は、瞬く間に全米を席巻し、ジョーズが打ち立てた興行収入の記録を塗り替え、やがてアカデミー賞7部門を獲得した。しかし私は、この日付を長い間知らなかった。 そりゃそうだ。私にとってスター・ウォーズは「昭和53年の夏」の記憶だからだ。 一年間、日本の子どもたちは待たされた 全米公開から約一年が経った昭和53年(1978年)6月、ようやく『スター・ウォーズ』は日本の劇場にやってきた。今でこそ日米ほぼ同時公開が当たり前だが、当時は半年や一年のタイムラグは珍しくなかった。 それでも、その一年間が長かったことは確かだ。「スター・ウォーズ」という映画の噂は、日本にいる子どもたちの耳にもじわじわと届いていた。アメリカで信じられない映像が作られた、光の剣で戦うシーンがある、ロボットが出てくる……。「宇宙戦艦ヤマト」でSFアニメの洗礼を受け、「仮面ライダー」で変身ヒーローに慣れ親しんだ当時の日本の子どもたちにとって、その情報は十分すぎるほど想像を掻き立てるものだった。 待ちきれないファンの中には、大枚をはたいてアメリカまで観に行った人もいたという。今の感覚では信じられないような話だが、海外旅行がまだ贅沢だった時代に、映画一本のためにそこまでした人がいたというのだから、いかに熱狂的だったかがわかる。 映画の舞台「タトゥイーン惑星」のロケ地となったチュニジア・ネフタ周辺の砂丘。あの幻の惑星は、北アフリカの実在する大地に宿っていた。(Photo: DamienSlattery / CC BY-SA 3.0) 王冠の裏に、銀河がいた 私の記憶の中でスター・ウォーズは、映画館よりも先に「コカ・コーラの王冠」で登場した。 日本公開に合わせて、コカ・コーラとファンタのびん入り飲料に、スター・ウォーズのタイアップ王冠が登場した。1本50円の190ミリリットル入り。王冠の内側のビニールをペりとめくると、そこにダース・ベイダーやR2-D2、C-3POといったキャラクターが印刷されていた。コンプリートしたくても、毎日毎日コーラを買い続ける小遣いなどあるはずがない。 だから子どもたちはどうしたか。自販機に備え付けられた栓抜きを使って、大人たちが飲み干してそのまま置いていった王冠を拾ったのだ。栓抜きの溝に引っかかったまま残っている王冠に指を突っ込んで取り出す。地面に落ちているものも当然見逃さない。 私はさらに大胆な手に出た。小学校の正門前にある駄菓子屋——学校指定の用品も売っているような、あの馴染みの店だ——に置いてあった栓抜きの下の王冠受け容器ごと外して、ひっくり返して中身をぶちまけたのだ。今思えば相当なことをしていたが、当時はそれを「工夫」だと信じて疑わなかった。 しかし王冠を手に入れても、それで終わりではない。本当の目的はここからだった。 集めた王冠をアスファルトの地面に置き、靴底で踏みながら足を引きずる。ゴリゴリと摩擦をかけ続けると、王冠のギザギザの縁と、内側のビニール面が少しずつ分離してくる。それをTシャツの布地を外側と内側からはさみ込んで、ギザギザの縁を布に食い込ませる——完成。手製のスター・ウォーズバッジである。 ダース・ベイダーのバッジを胸に貼り付けた瞬間の、あの満足感。100円も使わずに、靴底と地面だけで作り上げた銀河系グッズ。今思えばなんとも必死な話だが、当時はそれが当たり前の「創意工夫」だった。 チュニジア・アジムの「モス・アイズリー・カンティーナ」のロケ地。映画の中でルークとハン・ソロが出会った宇宙酒場は、ここで撮影された。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) お菓子屋さんでも同じような熱気があった。明治の「マーブルチョコレート」には、スター・ウォーズのキャラクター入りマスコットが同梱された小さな筒入り商品が登場し、1個70円で売られた。みんなが欲しがったのはダース・ベイダーだったが、なぜかチューバッカばかり出てきた──そんな「恨み節」が後になっても語り継がれているのだから、あのブームはリアルだった。森永は「スター・ウォーズ・キャラメル」を発売し、マクドナルドではドリンクを頼むとルーク・スカイウォーカー、C-3PO&R2-D2、ダース・ベイダーの絵柄が入ったカップが出てきた。 映画を観る前から、銀河はすでに子どもたちの手のひらに降りてきていたのだ。 光の剣でチャンバラをした夏 昭和53年の夏休み。映画館の前に子どもたちが列を作った。 宇宙船が音を轟かせてスクリーンを横切る冒頭のシーン。ルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを手にする場面。ダース・ベイダーが黒いマントとともに登場した瞬間の、あの重低音。CGなど存在しない時代に、あれほどの映像をどうやって作ったのか今でも不思議だ。 映画館を出た子どもたちは、棒切れや傘を手にしてライトセーバーのチャンバラを始めた。「シュウゥゥ」という効果音を口で言いながら。「フォース」という言葉の意味はよくわからなくても、なんとなく重要なものだということはわかった。ダース・ベイダーに憧れた子も、少なくなかったと思う。あの声、あの存在感、あのマスク——悪役なのに、主人公よりもかっこよかった。 ジョージ・ルーカス監督は、日本の時代劇、特に黒澤明監督の作品から大きなインスピレーションを得ていたとされている。ライトセーバーは刀を、ダース・ベイダーのヘルメットは鎧兜を模したものだと言われていた。遠い銀河の物語が、実は私たちの文化の血を受け継いでいたという事実は、後になって知ると不思議な誇らしさがあった。 チュニジア・アジムに残る「オビ=ワン・ケノービの家」のロケ地。荒野に立つ白い石造りの家——ルークが初めてオビ=ワンと出会う、あの場所だ。(Photo: Stefan Krasowski / CC BY 2.0) 昭和52年5月25日——知らなかった、私の時代の誕生日 話を戻そう。 昭和52年の今日、5月25日。私は12歳だった。その日もおそらく、公園で野球をしていたか、駄菓子屋でホームランバーを買っていたか、テレビのアニメに夢中になっていたか——そんな普通の一日を過ごしていたはずだ。 遠い国の映画館で、歴史が変わっていることを知る由もなく。 それが一年後、コカ・コーラの王冠になり、マーブルチョコのマスコットになり、映画館の行列になって、私の目の前にやってきた。昭和の子ども時代の記憶は、案外そういう形で届くものだったのかもしれない——誰かが5月25日に作ったものが、一年かけて、夏の思い出になって。 あなたも、あの夏の行列を覚えているだろうか。王冠を拾って歩いた、あの日のことを。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:昭和の今日は何があった日? ── 5月24日 | 次の記事:昭和の今日は何があった日? ―5月26日― ▶

May 24, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月14日──「もしかめ」が、家に帰ってきた

今日は5月14日、けん玉の日だ。 大正8年(1919年)のこの日、現代のけん玉の原型となる「日月ボール」が実用新案として登録された。三日月のような浅い皿で、太陽のような球を受ける。日と月をかけた名前が、そのまま道具の形を表していた。 正直に言うと、私自身はあの昭和のけん玉ブームにそれほど深くハマった記憶がない。あの頃、私が夢中だったのはコカ・コーラのヨーヨーだった。赤いコーラのロゴが入ったあのヨーヨーのひもを右手中指にはめ、「犬にかまれた」や「世界一周」の技を練習していた。けん玉より断然ヨーヨー派だった。 でも、けん玉との縁はずっと後になってやってきた。我が家の子どもたちを通じて。 酒の席の遊びが、子どもの手に渡るまで けん玉の歴史は古い。 16世紀のフランスに「ビル・ボケ」という似た遊び道具があり、それが日本には江戸時代中期に伝わったとされている。ただし当時のけん玉は、今のような十字型ではなく、棒の上下に皿がついた形だった。しかも子どもの遊びではなく、大人が酒の席でやる罰ゲームの道具だったというのが面白い。失敗したら酒を飲まされる、というルールだったらしい。 それが明治時代に文部省の教育解説書に「子どもの遊び」として紹介されたことで、少しずつ子どもたちのものになっていった。 そして大正7年(1918年)、広島県呉市の職人・江草濱次が、現代のけん玉の基本構造となる「日月ボール」を考案した。大皿、小皿、そしてけん先という三つの的を持つあの形が、このとき初めて生まれた。翌大正8年のこの日に実用新案として登録され、これが「けん玉の日」の由来になっている。 昭和52年「けん玉ルネッサンス」 日月ボールが生まれてから約60年後の昭和52年(1977年)、日本に突然けん玉の大ブームが訪れた。 後に「けん玉ルネッサンス」と呼ばれるこの爆発的な流行のきっかけは、昭和50年(1975年)に設立された「日本けん玉協会」だった。雑多なけん玉ではなく、統一された規格の競技用けん玉を作り上げ、級・段位の認定制度を整えた。 この競技用けん玉が小学校や学童に普及し、昭和52年ごろから全国の子どもたちの間に一気に広まっていった。1級になったら糸の色が変わる。段位が上がるたびに認定証がもらえる。そういう「上達の見える仕組み」が、子どもたちの心をつかんだのだと思う。 「何回続いた?」「俺、100回いったぞ」「嘘つくな」「ほんとだよ、見てろよ」 休み時間の校庭で、そういうやり取りが毎日繰り返された。私にはヨーヨーで同じやり取りをしていた記憶があるが(笑)、けん玉派の友達はもしかめの回数を誇らしげに語っていた。 学童から帰ってきた、あのけん玉 私自身はヨーヨー派だったが、我が家にもけん玉ブームは確かにやってきた。 子どもたちが小学校に入学して学童保育に通い始めると、そこでけん玉と出会うのだ。学童にはたいていけん玉が置いてあって、放課後に先生や友達と一緒にやるうちに夢中になっていく。そして家に帰ってくると「けん玉買って!」が始まる。 我が家の子どもは男女合わせて5人いる。その5人が、上から順番に学童でけん玉と出会い、順番にその波が家に押し寄せてきた。 けん玉を買ってきた翌日から、家の中に「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムが響き始める。最初はぎこちない。玉が皿からこぼれ落ちる。「あー!」という声が上がる。また挑戦する。少しずつ続くようになってくる。 そのうちに、上の子たちが反応し始める。 「やらせて、やらせて」 『どや顔』で技を披露する、あの光景 けん玉の奪い合いが始まる。 下の子が一生懸命もしかめをやっていると、上の子が「貸して」と手を伸ばしてくる。渡すと、今度は上の子がすでに習得した技を披露し始めるのだ。 大皿から小皿、小皿から大皿へ。スムーズに乗せながら、ちらりと下の子の方を見る。**『どや顔』**だ。 「お兄ちゃん(お姉ちゃん)すごい!」という言葉を待っている顔。それを引き出したくて、わざわざ技を見せているのだ。下の子はそれを見て、「私も!」「僕も!」となる。またけん玉が奪い合いになる。 その光景が、5人分繰り返された。上の子が下の子に見せつけ、下の子がさらに下の子に見せつける。我が家のけん玉の技は、そうやって上から下へと受け継がれていった。 考えてみれば、けん玉の普及というのも同じ構造だったのかもしれない。できる人が見せる。見た人がやりたくなる。やってみて、できるようになる。また誰かに見せる。昭和52年の「けん玉ルネッサンス」も、そういう連鎖で日本中に広まっていったのだと思う。 「あせらず、あわてず、あきらめず」 日本けん玉協会の初代会長・藤原一生が唱えた「けん玉道」の基本精神は、**「あせらず、あわてず、あきらめず」**という言葉だった。 焦って力を入れても、玉は皿に乗らない。慌てて動かしても、タイミングが合わない。諦めてやめても、上達はしない。ただ落ち着いて、丁寧に、繰り返す。そうすると、ある日突然できなかった技ができるようになる。 子育てにも、そのまま当てはまる言葉だと思う。 おわりに 我が家のどこかに、まだ何本かのけん玉が眠っているはずだ。 5人の子どもたちが次々と夢中になって、次々と飽きて、どこかに置き去りにしていったあのけん玉たち。押し入れの奥か、おもちゃ箱の底か、どこかにひっそりとしまわれているだろう。 探し出して、もう一度やってみようかと思っている。「もしもしかめよ、かめさんよ……」のリズムに合わせて、大皿、小皿、大皿、小皿。 我が家に、もう一度けん玉ブームを起こしてみようか。 探し出したら、子どもたちに声をかけてみようと思っている。 「けん玉、やってみるか?」 あの頃のどや顔を、それぞれもう一度見せてもらえたら嬉しい(笑)。 もし押し入れのけん玉が見つからなかったら、これを機に新しい一本を。日本けん玉協会認定の競技用「大空」は、級・段位の認定にも使える本格派。大人がもう一度始めるにも、ちょうどいい一本です。 日本けん玉協会認定 競技用けん玉「大空」山形工房/競技用けん玉の定番。級・段位認定にも使える本格派 Amazonで見る › ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月13日──デパートの屋上が、子どもの天国だった頃 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月15日──今日はコロコロの発売日だった ▶

May 13, 2026