6月23日 ── 北へ向かう夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった

六月二三日。梅雨の晴れ間に、少しだけ夏の匂いが混じりはじめる頃です。 カレンダーをめくると、この日にはいろいろな記念日が並んでいます。けれど私がきょう書きたいのは、四十年以上前のある朝、北へ向かって走り出した一本の列車の話です。 昭和五十七年(一九八二年)六月二三日。東北新幹線が、大宮〜盛岡間で開業しました。 そのとき私は中学一年生。高砂の電車に囲まれて育った私にとって、新幹線というのは、いつもの京成電車とはまったく別の、ちょっと手の届かない「夢の乗り物」でした。 毎日のように京成電車を眺め、すぐ近くの高砂検車区には、ずらりと電車が並んでいる。電車という乗り物なら、誰よりも身近に感じていたはずの私です。それでも、図鑑やテレビのニュースの中を走る新幹線だけは、なぜか同じ「電車」だとは思えませんでした。同じレールの上を走るのに、住んでいる世界が違う。そんなふうに感じていたのです。実をいうとこの頃の私は、まだ一度も新幹線に乗ったことがありませんでした。 夢の超特急は、なぜか「大宮始発」だった 東北新幹線の計画そのものは、ずいぶん前から進んでいました。東京〜盛岡を結ぶこの路線は、昭和四十六年(一九七一年)に着工され、十年以上の歳月をかけて、ようやく完成にこぎつけます。 ところが、いざ開業というとき、ひとつの大きな「ねじれ」がありました。 始発駅が、東京でも上野でもなく、埼玉の大宮だったのです。 東海道新幹線が当たり前のように東京駅から走り出したのに比べると、これはずいぶん変則的な船出でした。理由は、上野〜大宮の沿線にあります。この区間はすでに住宅が密集していて、新幹線の騒音をめぐる反対運動が起きていました。そのため都心への乗り入れはいったん見送られ、「とりあえず大宮から」というかたちで走り始めることになったのです。 東京〜盛岡が、それまでの在来線特急で六時間二三分。それが新幹線の開業で、三時間五八分にまで縮まりました。四割近い時間短縮です。けれど、その恩恵にあずかるには、まず大宮まで行かなければならない。そこに、もうひとりの主役が登場します。 「新幹線リレー号」という名脇役 大宮始発という事情を埋めるために用意されたのが、上野〜大宮を結ぶ専用列車、その名も「新幹線リレー号」でした。 新しく造られたばかりの185系という車両が、上野と大宮のあいだをノンストップ、わずか二十五分ほどで走りました。新幹線の特急券を持っている人だけが乗れる、文字どおりの「連絡列車」です。乗り換えで迷わないように、ホームには「リレーガール」と呼ばれる案内係の女性たちが立っていたといいます。 開業の日、大宮駅のホームでは朝七時一五分に「やまびこ一一号」の出発式が行われ、一日じゅう鉄道ファンでにぎわったそうです。白地に緑のラインをまとった200系が、最高時速210キロで北へ走り出しました。 もっとも、走り出した当初の本数は、ずいぶん控えめなものでした。速達タイプの「やまびこ」が一日に四往復、各駅停車の「あおば」が六往復ほど。これだけ大きな路線にしては、まるでローカル線のようなダイヤです。それでも、夏の帰省シーズンには大宮駅が人であふれかえったといいますから、みんながどれほどこの一本を待ちわびていたかが伝わってきます。 この「リレー号」は、三年後の昭和六十年(一九八五年)に新幹線が上野まで延びると、その役目を終えて姿を消しました。たった三年足らずの命でしたが、開業したばかりの夢の超特急を都心とつないでいたのは、この名脇役だったのです。 そして、この「上野まで延びた」という出来事が、私の家のすぐそばにも、小さな波紋を広げることになります。 私が初めて乗った新幹線は、修学旅行だった 私が通っていた中学校では、三年生の修学旅行で東海道新幹線に乗り、京都・奈良へ行くのが決まりでした。 私にとって、生まれて初めての新幹線は、このときの東海道新幹線です。当時は「生まれて初めて乗る新幹線は修学旅行のとき」という子も少なくありませんでした。家族旅行で気軽に乗るようなものではなく、新幹線は子どもにとって、人生の特別な日にだけ顔を出す乗り物だったのです。 みんなでホームに並んで、あの長い銀色の車体がすうっと滑り込んできたときの高揚。窓の外をものすごい速さで景色が流れていく、あの初めての感覚。修学旅行そのものの思い出と、初めての新幹線の興奮とが、私の中ではひとつに溶け合っています。 だからでしょうか。「初めての新幹線が修学旅行だった」という人は、新幹線そのものの記憶と、あの旅の記憶とを、生涯ひとそろいで持っているように思うのです。どの新幹線で、どこへ向かったか。それは、その人がどんな時代に子どもだったかを、そっと映す鏡でもあります。 妹の代から、行き先が「東北」になった ところが、です。 昭和六十年に東北新幹線が上野まで延びたことで、思いがけないことが起きました。一つ年下の妹の修学旅行先が、なんと東北になったのです。 どこを回ったのか、詳しいことは私も聞きそびれてしまいました。ただ、妹がお土産に「赤べこ」──赤い牛の形をした張り子の人形──を買って帰ってきたのを、はっきり覚えています。赤べこといえば、福島・会津の郷土玩具。きっと会津地方を訪れたのでしょうね。 もともと上野駅は、東北や北国へ向かう人々の「玄関口」でした。集団就職の若者たちも、帰省の家族連れも、北を目指す列車はみな上野から出ていった。その上野に新幹線が乗り入れたことで、下町の中学生にとっても、東北がぐっと手の届く行き先になったのです。その証拠のように、私の中学校では、その後しばらく「京都・奈良」と「東北」の修学旅行を、一年交代で実施するようになりました。 いつまで続いたのかは分かりません。けれど、私の世代までは「初めての新幹線=東海道新幹線」だったのが、妹の代からは「初めての新幹線=東北新幹線」という子どもたちが、どんどん増えていったわけです。 一本の新幹線が都心に少し近づいた。ただそれだけのことで、子どもたちが人生で最初に降り立つ「遠い町」が、京都から会津へと変わっていく。あらためて考えると、これはなかなか、すごいことだと思うのです。 修学旅行の行き先というのは、その時代に「子どもに見せておきたい日本」がどこだったか、という選択でもあります。長いあいだ、それは京都や奈良の古い都でした。そこに東北という新しい選択肢が加わったのは、新幹線が北を一気に近づけてくれたから。線路が一本延びるたびに、子どもたちが見る日本の地図も、少しずつ書き換えられていったのだと思います。 バスのハンドルを握る私が思うこと 私は今、路線バスの運転士をしています。 毎日、決まった道を走りながら、人を乗せて、目的地と目的地をつないでいます。華やかさはありません。けれど、誰かの「行きたい場所」と「今いる場所」のあいだを、確実につなぐ仕事です。 だからでしょうか。あの「新幹線リレー号」の話を知ると、妙に胸が熱くなるのです。 主役の超特急ではなく、その手前で、都心と大宮をつないでいた185系。脚光を浴びるのは新幹線のほうでも、リレー号がなければ、あの三年間、人は北へ向かえませんでした。つなぐ、という仕事に、上も下もありません。そんなことを、ハンドルを握りながら、時々思います。 それでも、北はぐっと近くなった 妹たちを東北へ運んだ上野延伸から六年後、平成三年(一九九一年)には、東北新幹線はついに東京駅まで乗り入れます。 ...

June 23, 2026

【昭和の今日は何があった日?】5月6日──「ワープロ」という言葉が生まれた日、そして今

今日は5月6日。連休が明けて、また日常が始まる。 昭和の大人たちにとって、この時期はデスクに積み上がった仕事が待ち構えていた。書類、報告書、手紙。昭和の職場では、そのすべてが手書きか、和文タイプライターで打たれていた。 そんな昭和の「書く仕事」を、根本から変えてしまった機械がある。 ワープロ──ワードプロセッサーの略だ。 昭和57年(1982年)の5月6日、富士通がある機械を発表した。日本初の100万円以下のワープロ、その名も「マイオアシス」。この日が、「ワープロ」という言葉が日本に定着するきっかけになった日でもある。 75万円の「文明の利器」 「マイオアシス」の価格は75万円だった。 今の感覚では「それでも高い」と思うかもしれない。でも当時のワープロは1台500万円以上が当たり前の時代だった。それが75万円になった。半額以下どころか、7分の1以下だ。オフィスの大型機械だったワープロが、初めて「買えるかもしれない」という存在になった瞬間だった。 この発売に合わせて、富士通は大相撲の人気力士・高見山を起用したテレビCMを大量に放映した。外国人力士として初めて幕内最高優勝を果たし、愛嬌あふれるキャラクターで日本中に人気だったあの高見山が、ワープロのキーボードを叩く映像が全国に流れた。 このCMの中で繰り返し使われた「ワープロ」という略称が、そのまま日本語として定着した。それまでは「日本語ワードプロセッサー」と呼ばれていたこの機械を、日本人は「ワープロ」と呼ぶようになった。 高見山とワープロ。なんとも昭和らしい組み合わせだと思う。 和文タイプライターからワープロへ ワープロが登場する前、日本の職場で文書を作るのがいかに大変だったか、今の若い世代には想像もつかないかもしれない。 和文タイプライターというものがあった。2000個以上の活字が並んだ大きな盤の上を、専用の棒で一文字一文字探して、ガチャンと打ち込んでいく。熟練のタイピストが必死に習得した職人技だった。それでも漢字の種類は限られていて、特殊な文字は使えなかった。 ワープロが変えたのは、そこだった。キーボードでひらがなを打てば、漢字に変換してくれる。間違えても、印刷前なら何度でも直せる。文章を丸ごと動かしたり、コピーしたりもできる。 昭和の大人たちが初めてワープロを触ったときの驚きは、相当なものだったはずだ。「こんなことができるのか」という感動と、「自分にも使えるだろうか」という不安が入り交じった、あの顔が目に浮かぶ。 「ワープロしちゃう」が流行語になった昭和60年代 マイオアシスが発表された昭和57年から数年後、ワープロは急速に普及していった。 昭和60年(1985年)には、東芝が9万9800円という価格のワープロを発売して「10万円以下」の壁を破った。さらにカシオが5万9800円という衝撃の低価格機を投入し、「電卓戦争の再現」とマスコミに騒がれた。 価格が下がるにつれ、ワープロは家庭にも入り込んできた。「ワープロしちゃう」という言葉が若者の間で流行語になったのも昭和60年代のことだ。 少し裕福な家の友達の家にワープロがあって、みんなで触らせてもらった。カタカタと打てば漢字が出てくる、あの感覚の新鮮さ。学校の作文や卒論をワープロで打ち込んだあの誇らしさ。昭和の終わりごろ、私たちの世代はそうやってワープロと出会った。 ワープロが消え、パソコンが来て、そしてAIが来た 昭和が終わり平成に入ると、ワープロは静かに姿を消していった。 パソコンが普及し、ワープロソフトが使えるようになると、専用機を買う理由がなくなった。「Rupo」「書院」「文豪」「オアシス」──かつてワープロのブランド名として輝いていたそれらの名前は、今の若い世代はほとんど知らない。 そしてパソコン時代が来て、インターネットが来て、スマートフォンが来た。気がつけば、私たちは次々と「新しい文明の利器」を手にしながら、ここまで来た。 そして今、また大きな波が来ている。 AIだ。 今、私たちが手にしているもの 昭和57年に75万円だったワープロが「文明の利器」と呼ばれた。 今、15万円程度のMacBook Airを手にすれば、かつてのスーパーコンピューター顔負けの処理能力と、高度なAIが使える。文章を書かせれば、あっという間に仕上げてくる。調べものをすれば、必要な情報を整理してまとめてくれる。翻訳も、要約も、提案も、瞬時だ。 さらに今はエージェント型のAIまで登場している。人間が「こういうことをやっておいて」と指示を出せば、AIが自律的に考え、判断し、作業を完了させてしまう。ワープロが「手書きからの解放」だったとすれば、AIエージェントは「作業そのものからの解放」に向かっている。 昭和57年に75万円のワープロに驚いた人たちが、今この時代を見たら何と言うだろうか。 これはもはや道具の進化ではなく、現代の産業革命だと思う。蒸気機関が肉体労働を変えたように、AIは知的労働そのものを変えようとしている。 おわりに──振り返ることで、感謝がわいてくる 昭和57年5月6日、「ワープロ」という言葉が日本に生まれた。 あの日、75万円の黒い箱の前でおそるおそるキーボードを叩いた大人たちがいた。「こんなことができるのか」と目を丸くしながら、書く仕事の未来が変わっていく予感を感じていたはずだ。 あれから40年以上が経った。 和文タイプライターからワープロへ。ワープロからパソコンへ。パソコンからスマートフォンへ。そして今、AIへ。 振り返ってみると、私たちはとんでもない時代の変化の中を生きてきたのだと気づく。そして今、その変化のスピードはさらに加速している。 昭和の道具たちへの懐かしさとともに、今この時代に生きていることへの感謝がじわじわと湧いてくる。75万円のワープロに驚いた世代が、AIと一緒に仕事をする時代を生きている。それ自体が、ものすごいことだと思うのだ。 ▼ 昭和の今日は何があった日?(前後の記事) ◀ 前の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月5日──鉄球が飛び、総理が捕まり、国鉄がなくなった日々 | 次の記事:【昭和の今日は何があった日?】5月7日──フライみたいなアイスの、あの衝撃 ▶

May 5, 2026